ワタクシ関係者じゃないので解りませんがガイドブックに掲載されているオンエア予定範囲は5月13日放映の第19回『呪いの笛』(由布姫が側室に上がった祝に正室の三条夫人が贈った龍笛の話)までです。ここが天文12年の設定…景虎は13才ですからまだ長尾の家督を継いでもいません。
花倉の乱で今川の跡目争いをやるんですから(こんなに戦国時代を扱っているのに大河ドラマが花倉の乱をやるのは初めてなんですよね)北条のエピソードもたっぷりやるかもしれません。『河越夜戦』なんて上杉連合軍が北条を取り囲んで一戦を仕掛けた合戦シーンの見せ場ですから迫力満点でやって欲しいです。結局、上杉憲政は北条に大敗して逃走。その後(天文16年)起死回生で信濃に出兵しますが晴信に惨敗、天文20年(1551年)北条氏康に最後の牙城であった上野に侵攻にされ、抗しきれず敗走。嫡男(龍若丸)は、このときに捕らえられて処刑され跡継ぎを失います(だから景虎を養子にする訳です)天文21年(1552年)1月に越後の長尾景虎のところに行き着くまで容易じゃありません。
武田の方はガイドブック以降、VS村上義清があって上田原の戦などで板垣信方が討ち死。その後、甘利虎泰も討ち死で武田2TOPが消え、さらに“砥石崩れ”で小山田信有が討ち死。武田軍団が大打撃を被ります。その間に由布姫に四郎(後の勝頼)が生まれたり晴信が於琴姫という新たな側室を召したりとスッタモンダがあって、やっと砥石城は武田配下となった真田幸隆の調略で落ちて、村上義清が越後に逃げていって景虎に保護を求め第一次川中島…なので景虎登場は上杉憲政が越後に入った時(この時、景虎は屋敷を新築して迎えています)としても6月中旬頃ではないでしょうか?(井上靖の原作では、このとき景虎は18才の若武者ですが実際は22才)取り敢えず3月25日発売予定のノベライズ『風林火山・林の巻』が出れば、はっきりするはずです。G氏もインタビューで撮影は3月以降と言ってますから、当分撮影裏話にも出てこないはず。やっぱり大河は一年仕事。全49話ですから先が長いですね。後半は出ずっぱりかもしれませんけど。それにしても越後勢の顔ぶれが気になります。早く発表されないかな〜♪
先日の拙BLOGで『バチカンに眠る織田信長の夢』で毒吐きましたが、それは『本能寺の変』の黒幕が近衛前久(このえさきひさ)と断定する放送内容だったからです。
もともとこの“近衛前久が明智光秀をそそのかして…”という説の根拠は『明智軍が近衛邸から本能寺に鉄砲を射かけた』…という讒言なのです(都で唯一の武家屋敷だったからという理由)
それを証拠にして羽柴秀吉や織田信孝から糾弾されて、仕方なく徳川家康を頼って浜松に落ちのびます。
この屋敷というのは秀吉が建てた(勿論、自分の京都住まいの為にです)のに信長に没収され、信長はそれをポンと前久に与えた…(だから武家屋敷なのは当然です)なんとなく秀吉の恨みを感じませんか?
二回目の京都御馬揃えは単なる騎馬の行進ではなくバクチクを鳴らしたり(馬は音に敏感だから、そんな物鳴らしたら大暴れして馬揃えなんてできないと思いますが…) 駆け回ったりして御所を威嚇した…それにキレた朝廷=前久が打倒信長の意思を固めた――TVでは“朝廷軽視説”を採っていましたが、逆説もあります。
“尊重説”では誠仁親王の生母、万里小路房子(正親町天皇妃の一人)の死去で宮中での三毬杖(さぎちょう…小正月の火祭り)は細々だったが、信長が安土城で行った火祭りは壮大だった。その様子を聞いた誠仁親王から御所で再現して欲しいという依頼があった。その演出の一つが前回好評だった馬揃えの再現だった。前久はじめ乗馬自慢の公家達も馬揃えに参加している。正親町天皇は信長の馬揃えを褒めて手紙と共に御服を下賜しているし信忠にも褒美を与えている。――朝廷がキレたようには思えませんけどね。
近衛前久は長尾景虎の和歌の師、近衛稙家(このえたねいえ)の嫡男です。永禄2年(1559年)越後から再度上洛した景虎に意気投合(景虎が初めて上洛したのが23才、2度目は29才。前久は6才年下です)して『血書の起請文を交わして盟約を結んだ』のは有名な話。
翌年、関白でありながら越後まで出向き、関東管領の景虎の関東制圧(つまり対北条工作)の手助けをして上野、下総に足を伸ばしています。都を離れて旅すること、なんと2年!
彼は将軍、足利義輝・義昭の従兄弟です。その為かフットワークの良さとか、イデオロギーの熱さが公家というより武家に近いです。乗馬も上手いし、趣味が鷹狩りだし(信長と仲良くなったのもお互い鷹自慢だったからだとか…)
信長の甲州攻め(天目山の雲…武田滅亡を描いた井上靖著の名作ですね)にも同行していますし、信長の九州大名への特使として外交手腕を発揮しています。
また信長は、よほど前久との鷹狩りが楽しかったのか狩りの最中に公家としては異例の『千五百石の加増』という命令書を書いています。
なにより信長が評価したのは十年掛けても攻略できなかった石山本願寺(一向一揆)を懐柔し、顕如を本願寺から出した事。調停能力だけでも当時の朝廷内の事なかれ・日和見主義な公家達の中で(世襲で官位に就けるんですから当然かもしれませんが)卓抜の才を持っていたことが伺えます。この論功によって“近衛家は信長から天下統一の後、一国を献上する…と約された”(前久が息子の信尹に当てた手紙に残っています)――信長は前久にとっても美味しい存在だった訳です。
彼の娘(中和門院前子・後陽成天皇の女御)は後水尾天皇の生母、つまり前久は天皇の外祖父ですから孫のバックボーンの為にも信長という権力は必要だったと思います。
信長がいなくなって彼が目を付けたのは家康でしたが小牧長久手の戦いで秀吉の天下支配が確定したので彼は隠居して銀閣寺に籠もりました。
このとき、強引に銀閣寺に入ったので、後々よからぬ噂が流されたのかもしれません。
伝えられている景虎の若き日の恋の相手候補は@敵対する武将の娘A直江一族の姫…そしてB近衛家の息女ですが実は前久だったんじゃないか…と思います(腐女子ですから)彼の景虎への尽力と謙信没(天正6年・1578年3月)以降の行動を見ると謙信の意思を継いで戦国の世で活躍したかったんじゃないかな〜と。
そりゃあ夜のお相手の方は近習とか家臣の子息とか眉目良く心映え長けた者なら誰でもいいでしょうが、対等な恋の相手となると…。景虎ほどのプライド高い武将なら(何と言っても毘沙門天の化身ですから)血筋も地位も学才も嗜みもある眉目麗しき都の公達…ね?前久なら条件にピッタリでしょ?(笑)なので私が景虎を書くとしたら景虎×前久の設定になると思います。
全くこんな素適な(って勝手にイメージ膨らませてますが)前久を信長殺しの真犯人にするなんて。あんまりだ〜!
最後に近衛前久の簡単な一代記を。
天文5年(1536年)京都に生まれる。父は近衛稙家(姉妹は足利義晴の室。義輝・義昭の生母)
母は久我通言養女慶子。妹は朝倉義景の正室。
天文9年(1540年)元服し、室町幕府第一二代将軍足利義晴から一字を貰って晴嗣と称する。
天文10年(1541年)従三位に叙せられ公卿に列する。
天文16年(1547年)内大臣
天文22年(1553年)右大臣
天文23年(1554年)関白左大臣
永禄3年(1560年)越後に下向。その後上野、下総に赴く。
永禄4年(1561年)前久へ改名。翌年帰京。
永禄8年(1565年)『永禄の変』で将軍足利義輝を討った松永弾正は謀反の罪に問われる事を畏れ前久を頼る。前久は義輝の従兄弟なので発言力は大きかったと思われる。
松永弾正が義輝正室であった姉を保護した事を理由に罪を問わず彼らが推す足利義栄の将軍就任を認めた。
永禄11年(1568年)織田信長が足利義昭を奉じ上洛。
義昭は『永禄の変』の黒幕は前久だと言い、関白職を狙う二条晴良と一緒に糾弾した。危機感を抱いた前久は京を落ちて本願寺十一世顕如を頼って大坂石山本願寺に入った(関白失脚)この間、顕如の長男教如を猶子とした。
天正元年(1573年)義昭が信長から京都を追放され晴良も信長から疎んじられるようになると、前久は丹波の赤井直正のもとに移って【信長包囲網】(三好三人衆の依頼を受けて参加して顕如に決起を促したと言われているが実の狙いは将軍・足利義昭と関白・二条晴良の追い落としなのは明白)から離脱。
天正3年(1575年)信長の奏上により、帰洛を許可される。
天正5年(1577年)京都に戻る。
天正6年(1578年)准三宮の待遇を受ける。
9月信長の意向を受け、九州に下向。大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏の和議を図る。
天正8年(1580年)信長と本願寺の調停に成功。顕如は石山本願寺を退去。
天正10年(1582年)2月太政大臣となるが5月には辞任(すぐに信長を推挙している。本能寺の変がなければ正式に就任していたはず。朝廷からの官位の一切を拒否した…というTVの説はこれまた疑問)
3月の甲州征伐には信長に同行。
6月2日『本能寺の変』――前日に歓談していた懇意の信長が亡くなり失意の前久は仏門に入り龍山と号する。秀吉らから明智唆犯説で糾弾され京を逃れ徳川家康を頼って、遠江浜松に下向。翌年家康の斡旋により秀吉の誤解が解け京都に戻る。
天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで両雄が激突。身の危険を感じた前久は奈良に身を寄せる。和議成立後に帰洛。晩年は一方的に銀閣寺を占拠して隠棲した。
天正13年(1585年)羽柴秀吉を猶子とする( これで秀吉は摂関家の一員として関白職に就く訳です)
慶長13年(1608年)信長の命日に追悼句会を開く。(既に徳川政権下)
慶長17年(1612年)薨去。享年七七才。京都東福寺に葬られた。法名は東求院龍山空誉。
跡を継いだ信尹(のぶただ)も武家好み(若い頃から信長の影響を受けた為に武士に憧れていたという説あり)で秀吉の朝鮮出兵宣言に気負い立って九州まで行ってしまい、後陽成天皇自らが秀吉に「信尹を渡航させるな」という勅書を出したほど。その後も問題行動が多かったらしく薩摩に三年間流されますが島津義久に厚遇されて京都に戻ってからは左大臣、関白と順調に出世しています。跡継ぎがいなかったので後陽成天皇の第四皇子(妹の中和門院前子の子)を養子にしました。これが近衛信尋(このえのぶひろ)信尋の娘の泰姫は水戸のご老公でおなじみ徳川光圀の正室となります。息子(つまり近衛家跡継ぎ)近衛尚嗣(このえひさつぐ)の養子(母は後水尾天皇の皇女昭子内親王)が近衛 基熈(このえもとひろ)で彼の娘が“百鬼繚乱”のキャッチコピーで封切られた映画『大奥』に出てくる天英院こと近衛熈子(このえひろこ)六代将軍家宣の正室です。
以上、参考はWiki&戦国大名研究&戦国倶楽部…その他諸々(笑)です。
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