狂愛 −くるいあい−


 私は冷たい地面に転がったまま、下腹部を襲う痛みをずっと堪えていた。
 頭の芯はぼやけて、考えは何一つまとまらなかった。
 でも、これで良いんだと、微かに思った。
 私は痛くて苦しくて、悲しいけど、それで良いんだと、ただそれだけを考えていた――。今私が出来る事、それはただこうして耐えるだけなんだから。
 

 光姉様が死んだ……。
 最初私はその事実を受け止める事が出来なかった。描いていた幸せの未来も楽しかった過去も、何もかもが失われてしまったような感覚に私はただ立ち尽くした。
 お父様は痛ましそうな表情をしていたが、とり乱すような事は無かった。私が正気づいた時には、あらかた葬式の準備は終わっていた。
 自身に活を入れても、入るわけがなかった、光姉様を送り出す最後の式だというのに……私は何度も小さな失敗を繰り返し、そのたびに今自分がしている事に何の意味があるのかと、思ってしまう。それでもただひたすら、私は、自分にしっかりしなくちゃと言い聞かせてその時間を過ごした。
 一番会いたかった愁兄様はその式が終わってもやっては来なかった。

 光姉様の死亡、愁兄様の失踪。立て続けに予想だにしなかった不幸に、私は生きる屍のように生活していた。
 ただ、毎日同じ事を繰り返すだけのそんな日々を。

 そんないつもの朝、目に飛び込んできた文字。
 高校生の失踪事件相次ぐ――。
 新聞の一面に書かれた私立大和川学院の学生失踪事件。
“ああ、そうか”
 私は何かがわかったような気がした。
 次の日から毎日、私は学校にも行かず町中歩き回り、梢が鳴る度に私は首をめぐらせその奥に期待のこもった視線を投げかけた。

 そして、数週間が過ぎた。
 その間私を心配して、クラスメートの秋田さん達が何度か家まで訪ねてきたらしいが、私は会う気も説明する気も起こらなかった。家にはお父様の食事を作り、掃除をするためだけに帰っていた。
 家に着いて新聞に目を通すと、またもや大和川学院の学生が行方知れずになったと報道されていた。居なくなったのは怪事件に恐れおののいて、地方へと逃げ出す矢先の事だったと言う。
 私はその新聞をぱさりとテーブルの上に置くと、身を横たえた。
 眠い……。ここのところ睡眠も犠牲にしてひたすら歩き回っていたから、身体が鉛のように重たい。
 ……少しだけ、眠ろう。

 夢の中で光姉様と、愁兄様に出会った気がした。でも、夢から覚めれば余計に辛いだけだった。
 既に夜になっていた。
 お父様が帰って来られた様子は無い。手の込んだ料理を並べても一人の食事は美味しくなかった。
 外に出掛ける。月が冴え冴えと光っていた。
 少し、予感が有った。
 大和川学院への道の途中、私はわき道にそれ、山へと登っていく。
 しんと静まり返った山道は不気味な冷気をたたえているかのようだった。だけど、虫の音一つ、鳥の鳴き声一つしない事が有るのだろうか。風さえも音を立てる事を恐れているかのような張り詰めた空気。
「〜〜〜〜」
 はっとして私は顔を上げる。聞こえた、微かに人の吐息、悲鳴にも似たそのかすれた吐息が。
 近付くに連れ、そこでは、間違い無く私の恐れていた事が起こっているのだと解ってきた。行かなければならないと想う心と、恐怖に逃げ出したくなる心。本能は全力で私に危険を訴えてきている。理性もこのまま進むのはまずいと解っていた。でも、私は何かに操られるかのように、その場所に近付いていった。
 ぐちゃ……ばきっ……。何かがこねまわされ、砕ける音。
 ひゅーひゅー。狭い隙間から空気が漏れる音。
 鉄さびのような血臭はもう辺り一面を覆い尽くしていた。月の光まであたりを真っ赤に染めているように私には見えた。

 それはまだ生きていた。
 血に塗れてびくびくと身体をうごめかせながら、上にのしかかっているものに肉片をちぎられては、悲鳴にならない吐息を吐き出していた。
「ヒカリ……ヒカリヲカエセ……」
 上にのしかかったものはそう呟きながら肩の肉を掴み、引きちぎって投げ捨てた。露出した鎖骨を無造作に取り外し、ほとんどただの穴と化している口腔へと突きこんだ。
 生きてはいたが、どこをどう見積もっても最早その命は助かる見込みがなかった。そして、それをやっているのは紛れもなく愁兄様だった。
「愁、兄様……」
 その時、私の心の中は悲しみというよりは、ほっと安堵するような気持ち、喜びに近い感情で溢れていた。その異常な雰囲気に心がおかしくなっていたのかもしれない。それとも、私の心はもうずっと前に壊れてしまったのだろうか。光姉様を喪ったその時に……。
 愁兄様は、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
「ヒ、カリ……?」
 その愁兄様の瞳を見、呟きを聞いて全身の血が凍りついた。悲しみとか、苦しみとか、狂気とかそんな簡単な言葉で表せない、もっと深い闇がそこにあった。人はこれを絶望というのかもしれないと頭の片隅でそう思った。
「ヒカリジャナイ……。ヒカリジャナイ!!」
 痛ましくて、兄様の顔を見るのが辛かった。でも、兄様は生きている、生きているならまだ諦められない、きっと、希望はあるはず。
 私は、兄様まで失いたくない。
「愁兄様、私が解らないんですか? 愁兄様!」
 愁兄様は立ち上がり、下でうごめくものの頚椎をぐしゃりと踏み潰した。
「カグラ……」
「解るんですね? 私の事」
「オレハ、コイツラヲユルセナイ……コイツラガヒカリヲウバッタンダ。ミンナドウルイダ」
「え?」
「ヒカリ、ヒカリハオレガマモッテヤラナケレバナラナカッタノニ!」
 叫ぶ兄様の言葉に私の胸の中で鬱屈した塊がこみ上げてくる。言ってはならない、叫んではならない気持ち……でも、私はもう。
「そんな事……どうして光姉様を見送りに来てくれなかったんですか? 最後のお別れだというのに、もう、2度と会えなくなってしまうのに。どうして……」
“私が一番辛かった時に側にいてくれなかったんですか?”
 思わずそう叫びそうになって……でも、やっぱりそう叫ぶことは私には出来なかった。
「ヒカリジャナイ、ヒカリジャナイ……」
 兄様は私の言葉にそう呟いただけだった。
「愁兄様。もう、もう止めて下さい。光姉様は死んだんです。もうどんな事をしても帰っては来ません。どんなにどんなにたくさんの人を殺しても、もう帰って来ないんです」
 私はこう言った時に愁兄様がどうなるのか解っていたのかもしれない。いや、間違い無く解った上で、私はそう言ったのだ。
 兄様は聞くもの全てが耳を覆いたくなるような悲しみの雄叫びを上げて私に襲いかかってきた。愁兄様は私を組み伏せ、荒々しく着衣を剥ぎ取り、なぶった。
「兄様、止めて下さい、止めて……。ねえ、兄様、こんな事止めて……一緒に帰りましょう。愁兄様、私……」
 とうとう目の端から涙が零れ落ちた。光姉様の葬式でも見せなかったのに、今はもう留めようがなかった。
 それでも、兄様の激情が静まる事は無かった。
 抵抗はした。だが、それはどれも抵抗らしい抵抗にはならなかった。兄様の腕は鋼のように固く、力強かった。私は数分と置かず激痛と共に初めての時を経験した。
 兄様は決して優しくはしてくれなかった。私が失神するほどの痛みを訴えても、その動きはいささかも緩まなかった。
 何回も何回も、荒れ狂う力が私の中に注ぎ込まれていった。
 そのうち、私は気を失ってしまっていた。

 気が付いた時には、私は石室の中に裸のまま横たえられていた。どこだか解らない。出口が有るのかも解らない。
「痛っ」
 少し動こうとすると、女性の大切な部分から激しい痛みが走って私はうめいた。
 あの悪夢が夢なんかでは無かったと解った。
 もう動こうとも想わなかった。
 少しすると、兄様が石室に入ってきた。でも私を見ても何も言わない。
 兄様はその瞳に失望の色を宿すと、私の手を掴んだ。
「痛い、痛いです、兄様……」
 身体が無意識に震えだす。止めようと思っても身体は自由になってくれなかった。
「止めて下さい、何故なんですか、何故……」
 兄様はその質問に雄叫びと荒々しい愛撫で答えた。その日の兄様からは血の匂いがしなかった。
 兄様は今日は人を殺していない、と解った。
 私が兄様の嵐を受け入れ続ける限り、人に被害は出ない。誰ももう悲しまないで済む。私だけが、ただ苦しめば良い。それで多くの人が救われる……。

 今日も私は兄様にひたすら犯された。ただ、もう止めてくれと懇願する事はしなかった。痛みと悲しみと訳のわからない虚脱感で私は始終ボーっとしていた。兄様に犯されると、連日の痛みでやはり気を失ってしまった。
 最後の意識は苦しくて悲しくて、とてもやるせなかった。どうしてこんな事になったのだろう、何が悪かったのだろうと私はひたすら考えていた。
 

『神楽、ほら一緒に遊ぼう?』
『そうだな、神楽もこっち来いよ』
 誰だろう、私を手招きしているのは。
 ああ、光姉様と愁兄様だ。良かった……。
『光姉様、愁兄様!』
 目の前がなぜかぼやけた。なんでだろう、悲しい事なんて何も無いのに……。

『……ぅぅ……う』
『大丈夫か?』
 うずくまった光姉様、心配そうに様子を見る愁兄様。私は怖くて動けない、何も出来ない。
『神楽、光を見ててやって!』
『は、はい、兄様……兄様は?』
『俺は、誰か呼んでくる。それまで、頑張れ光……』
 光姉様は小さく頷いた。
 愁兄様は駆けて行ってしまった。
 不安が体中を蝕む。苦しそうなうめきに私は光姉様の側に膝をつく。
『苦しいですか?』
 光姉様の手が私の腕をがしっと掴んだ。普段虚弱な光姉様とも思えない凄まじい力で腕が締め付けられる。死に物狂いのその表情は鬼気迫るものが有った。
『愁は……私の・モノ、よ。あんたには、渡さな……いわ』
『え!? そんな、私……』
 姉様の手の力はますます強く、そしてその形相は正視に耐えがたくなっていった。
『止めて、止めて下さい、光姉様……』
『この、ドロボ・ウ、ネコ……』
 何故? どうして? こんなの、こんなのいやだ……!
 

 私は目を覚ました。少しだけ、ボーっとした頭の中に有った霧が晴れていたような気がした。
 そうだった……違っていた、本当は私自身望んだ事。愁兄様にずっと、抱かれたかった。恋人になりたかった。
 誰よりも愁兄様の特別になりたかった。
 だけど光姉様が愁兄様を想っているのは知っていたから、だからずっと我慢してきた。あんな夢の通りになってしまう事を一番恐れて。
 でも、光姉様はもういない。
 光姉様と愁兄様二人が寄り添って幸せそうに笑う、私の理想の未来を現実に見る機会はもう2度と訪れない。
“私……愁兄様を好きになって良いですか?”
 心の中での問い掛けに、答えは返ってこなかった。光姉様は許してくれない気がした。私のこんな邪な思いが光姉様を死なせてしまったのかもしれない。どこかで私は光姉様が死んだ事を喜んでいるのだろうか。
 あさましい私。
 罪悪感が胸を苛む。
“でも……”
 それでも光姉様はいない。愁兄様の再会したときの絶望の横顔が脳裏に浮かぶ。
 愁兄様は得られる筈の無い未来を求めている。安息、一時の安息でも良い、与えられるのは私だけだという自信のようなものが有った。
 私は愁兄様を救いたい……。
 普通の幸せが得られなくなったのは、報い。私の邪な想いが生んだ報い。
 それでも、それでも私はずっと愁兄様を望んでいた。決してこの形は望んではいなかったけど、この愛は望んだ物……。
 それなら、どんなに苦しくても、どんなに辛くても……。
 

 その日、私は愁兄様の責めで初めて女の悦びを知った。
 何度も何度も昇りつめ、はしたない声を上げ続けた。堪えようともしなかった。満ち足りて愁兄様が眠りについたとき、私も愛しげに兄様を抱きしめて眠りに落ちた。
 決して始まる事のない未来を私たちは互いの中に見出し、埋まる事の無い渇望を抱えて求め合う。それは、激しく、狂おしい、ある種の究極だった。
 これが私たちの愛の形。誰にも理解されなくても良い。
 ただこの世界で、たった二人が分かち合う絆で結ばれた、その事実だけで私は幸せだった。
 

 だけど……次の日祠の外に出て行った兄様は、もう帰ってこなかった。
 

 私は次の日もその次の日も、ただそこで待ちつづけた。
 何かが痺れて焼き切れてしまった頭の中で、ただひたすら兄様が帰ってくるのを待ち続けた。
 それからどれだけ時が過ぎたのか……私は病院のベッドで目を覚ました。

 兄様の行方は結局わからなかった。
 世間を騒がせた通り魔の最後の犠牲者だと、周りの人は口々に噂した。そんなはずは無いが、兄様が死んでしまったのか、それとも生きているのかは私にもわからなかった。
 けれどただ一つ、兄様がもう2度と私のところに帰ってくる事は無いという事だけは、知っていた。
 兄様はあの一時私に、狂おしいまでの愛を与え、そして消えた。思い出すたびに私の胸は張り裂けそうになる。
 それは悲しみじゃない。けれど、私にはその想いをなんと表現すれば良いのか解らなかった。

 私は、病院に入ったまま年を越し、さらに幾月を経て赤ん坊を産んだ。
 名前は、愁と名付けた。
 あの人は今、ここに居る……。
 私は、幸せ。
 
 
 
 
 愁……兄様、愛しています……。

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