メインルート1

 がらんとした家の中に人の気配はない。
 まあ、当り前だ。
 この家に住んでるのは今は親父だけだし、その親父ときたら、滅多に家に帰ってこない。
 昔から仕事人間だったが、母さんが死んで以降、その傾向がもっと酷くなったような気がする。
 あの人は、俺とどう付き合っていけばいいのかわかんないんだろうな。
 まあ、それも仕方ない事なのだろう。血の繋がりがあるわけでもないし、今こうして、生活を援助してもらえるだけでも感謝するべきかもしれない。
 自分の部屋に戻り、荷物を放り出した所で、溜息が漏れた。
 気がつくと、俺を駆り立てていた切羽詰ったような気持ちが消えうせていた。
 それよりも、どこか、呆然とした、何で自分がここにいるんだろうという、疑問のようなものすら感じてしまう。
 自分で選んで帰ってきたはずなのに。
 原因は、考えるまでもない。
 あの遙ちゃんの態度の変わりようだ。
 実際、なにが悪かったのか分からないが、俺は彼女にとって最悪の選択肢を選んだらしい。
 自分の部屋のフローリングの床にばったりと寝転がると、冷たさが染み込んでくるような気がした。
 風邪を引いてしまうなと呆然と考えて、ヒーターのスイッチを押した。
 ふぃーんという起動音とともに、少しずつ部屋の中が温まっていく。
 それでも、床の冷たさは変わらない。
 俺の心の中に落ちた冷たさも暖められることはない。
 しばらくそうしてから、ようやく俺は体を起した。
「連絡、するか」
 携帯を取り出す。
 すると、電話をかけようとした相手からメールが入っていることに気付いた。


 来るんなら、6時以降

 奈緒


 奈緒らしい簡潔な文章だ。
 きっと、6時までは仕事にこき使われているんだろう。
 とすると、今は仕事の真っ最中に違いない。
 電話をかけたら、『この忙しいときに電話なんてかけてくんな』と怒られることは目に見えている。
 それでも、その奈緒の言葉が無性に聞きたかった。
 ふと、指が奈緒の短縮を押そうと動き、溜息をついて携帯をしまいこむ。
 いかんな、随分自虐的になってる。
 中でじっとしてないで、出かけてくるか。
 せっかく温まってきたのがもったいないが、ヒーターのスイッチを切って、戸締りをして家を出る。
 外は、俺の気持ちとは裏腹の暖かい日差しがさしていた。
 良い天気だなー。風さえ吹かなけりゃ、少しは暖かく感じるんだけどな。
 ぼんやりと考える。
 あてもなくうろうろと歩き出す。
 自然と、俺の足は、湖へと向いていた。
 故郷で唯一自慢できそうな名所だ。
 割と透明度の高い湖で、夏は、ここで泳ぐ事も出来る。
 と言っても、子供が泳ぐのは危険だからっていう理由で、あまり大勢ってわけじゃない。もちろん、そんな事言ったって、子供は泳ぐ。
 俺も子供の頃親の目を盗んでここで泳いだことが有る。
 まあ、気持ちいいからというよりは、肝試しみたいなもんだったんだけど。やめろと言われればやってみたくなるのは人の性。
 そもそも、たんに泳ぐだけなら、きちんとした市営プールが存在するんだから。
 逆に今の時期は、スケートしてる奴がいっぱいいる。といっても、ここ5年ぐらいは、温暖化の影響か氷が薄くて、とてもそんな事出来なかったんだが。
「うう、寒っ」
 冷たい風が裾から入り込んできて、着ていたコートの襟を押さえつける。
 この寒さなら、今年はきっちり氷が張っていそうだ。
「じゃあ、今年はあれが……見れるかな?」
 思わず、震える唇でそう呟いていた。
 その時、道の反対側で、喧嘩するカップルの姿が目に入った。
「痛っ。なにすんだよ」
 男が怒って、少女に詰め寄っている。
 ポニーテールの女が怒りを隠そうとしない声で答える。
「何故私があなたとの恋愛占いなどしてもらわなければならないのです」
 なるほど、すぐ傍に占い師らしき老人の姿が見える。
「なんだよ、『恋人同士』だろ、僕らは」
 ニヤニヤと笑う男。
 なんだ? いかにも、本心ではないかのような口調だけど。
 気付くと、回りの人たちも何人かその痴話喧嘩を立ち止まって見つめている。
 少女の方はこの辺りでは見かけない制服姿だが、まあ高校生だろう。男の方は、俺と同じ大学生ぐらいか。
「真面目にしてください。大事な任務なのですよ。貴方はわかってるのですか?」
 ……任務?
 男のほうがあっちゃーと顔を押えて溜息をついた。だが、女の方は頭に血が上っているのかその様子にも自分を馬鹿にされたとしか感じないようだった。
「大体ですね、しら……むぐうっ」
 何かを口走ろうとした少女の口を男がぱっと手で押さえ込んでしまう。
「どーも、お騒がせしてすいません」
 へらへらと笑っている顔が僕のほうに向けられて少し引きつる。
「いったーっ! お前また……」
 そう言って少女の口から手を離すと、泣きそうな顔で自分の掌を見つめている。
 ……噛まれたのか。
 少女が男に向き直ろうとした時、その耳元に男が何かを囁き少女の頬が紅潮した。
「じゃ占い師さん、恋愛占いは取り消しって事で」
 男がぴゅーっとその場を走り去っていき、取り残された少女は初めて自分たちが注目されている事に気が付いたのかますます顔を赤くして、男の跡を追って走 り出した。
「ちょっと、待って下さい!」
 そのまま、二人は路地裏へと消えていった。
「……なんだったんだ?」
「さあ」
 通りがかりの男の人がなぜか俺の呟きに答えてくれた。


 ようやく視界に、真っ白な湖面が入ってくる。
「おー、今年は、スケート、出来そうだな」
 ていうか、滑ってる奴いるし。
 湖畔から、覗き込んでみると、これはまた見事に凍っている。
 ここら辺は昔から、冬に雪の降ることが少ない地域だから、冬になってもそう不便ではないけれど、冷え込みだけはその辺りの雪国と変らない。
 だから、樹氷も見られる。
 俺にとってみれば見慣れた故郷の風景だけど、それでも、この風景は絵になると思う。
「あれ、兄ちゃん?」
 そのとき、湖畔の傍の道から、声が聞こえた。
 聞き覚えのある声だなと思って振り返ってみると、奈緒の弟の悟郎だった。
「なんだ、悟郎。サッカーか?」
 悟郎は、道を外れて俺のいる所まで降りてくる。その後ろから悟郎の遊び友達らしき数人が、同じ様に降りてきた。
「うん、兄ちゃんもやろう。ちょうど人数足りなかったんだよ」
 悟郎の友達の中には何度か見た覚えのあるやつらもいた。初めて会う子達にそいつらが俺を紹介している。
「俺か? まあ良いけど」
 そう答えると、悟郎は顔を輝かして、さあ行こうやれ行こうと俺を引っ張った。
 俺は、たまには良いかなと思い、この弟みたいな少年に付き合ってやることにする。
 とりあえず、そうすれば時間が潰れるだろう。いろんなことに頭を使いすぎないですむ、体を動かしていれば、嫌な事も忘れてしまえる。


 30分後。
 俺は気軽に引き受けたことを後悔していた。
 頭の中で自分をあざ笑う声が聞こえる。
 ああ、俺ってバカ。
「斉兄ちゃん。何遊んでんだよ。俺らJリーグ入るために練習してんだかんな、もうちょっと真剣にやってくれよ」
 疲れて、ベンチに座っていたら、悟郎から叱責がとんだ。
 うわ、俺、小学生に怒られてるよ。
 しかしガキども、なんでこんな体力あるんだ。俺が子供の頃こんなだったっけ?
 しかし、情けなくても、息が上がってるからなあ。
「わりい。兄ちゃんもうだめ」
 ぐでっと倒れた俺の視界にくすくすと笑う女の子の姿が映った。
 道路をはさんだ近くの家の中からこちらを見て笑っている。
 高校生ぐらいの子だろうか、かなり可愛い。
 笑われてしまった……。
「ちくしょー。よし、俺はまだまだやるぞ」
「おっ、兄ちゃん。根性あるな。よーしこれからシュートうつからさ。兄ちゃんキーパーやってよ」
「おい」
 …………むむむむむ。
 やっぱり止めときゃよかった……。
 でも、変な娘だな。ずっと窓から俺らを眺めてる。
 ちょっと線が細くて、儚げな感じのする娘だけど、なんだかやけに熱心にこちらを見つめている。
 サッカーに興味でもあるんだろうか。自分も混ざりたいとか。
 ……まさかな。
 とはいえ良い天気だし、あそこから見てるだけじゃもったいないぞ。
「やあ」
 俺が手を振って、声をかけると、彼女は最初自分にかけられた声だと分からずにきょろきょろしていたが、
「え、わたし……?」
「そう、ずっとそんな所で眺めてるから気になってさ」
「ご、ごめんなさい、わたし……」
「見てるだけじゃつまらないでしょ。良い天気だし、外に出て来ない?」
 彼女は俺の言葉に空を見上げ、眩しそうに目を細めた。
「本当、良いお天気……でも……わたし」
「駄目だよ、あのお姉ちゃん病気なんだから」
 え?
 いつのまにか側に来ていた悟郎の仲間がそう言った。
「斉兄ちゃん、駄目だよ、自分の気持ちを押し付けるだけじゃ。良い男は女心ってのをわかってなくちゃね」
 病気と女心の関係を答えろ……マセガキ。
「すいません、そういう事だから、わたし……」
 うーん、暗いなあ。最後につける、わたしってのがやけに暗いぞ。
「そうか、そりゃ残念だな」
 儚げに見えたのも、そういう理由だったのかもしれないな。
 なんとかしてやりたいけど、これってこっちの勝手な思い込みだしなあ。などと考えていると
「ああー。兄ちゃんがふられて落ち込んだぞ」
「やあい、ふられたふられた」
 ……このガキどもは。俺がもの考えると落ち込んでるのか!
「おいおい」
 くすくす。
 ん、おや。彼女が笑ってら。よし、笑わせたので許してやろう、ガキども。
「しかし、ごめんな。病気だとは知らなかったもんだからさ」
「ううん、嬉しかったから」
 彼女は少し、笑う。
「そういえば、さっき俺がばててるの見て、笑ってたもんね」
「あ、あれは。……ごめんなさい」
 すまなそうに言うので、俺はぶんぶんと手を振って否定する。
「いや、俺が情けないのが悪いって。バスケットだったら多少は見せられるんだけどな」
 そうやって彼女の前でシュートの真似事をして見せる。ボールを何度かつき、まっすぐに差し伸べる両手、最後に押しやるリストの返し。高校時台に何度とな く繰り返したシュート練習のそのまま、俺の体は今も動いてくれる。
 3ポイントを入れるのは、チームで俺が一番うまかったんだ。
「本当だ、様になってますね」
「いや、たいした物でもないんだけどね」
 彼女の瞳に浮かんだ尊敬の色に、俺は照れて頭をかいた。
 そんな俺を後ろから舞い戻ってきたやつらがはやしたてる。
「おうおう、懲りずに口説いてるぜ。しつこい男は嫌われるぞ兄ちゃん」
「こーの」
 追いかけようとして立ち止まり彼女に声をかける。
「いや、本当に誘っちまってごめんな」
 彼女は首を左右に振ってそんなことはないと言ってくれる。
「うん、それじゃ」
 少し後ろ髪惹かれるものを感じながらも、俺は背を向けて走り出そうとする。
「あっ、待って。名前……」
 背中に届いた声に、俺はちょっと驚いて、振り向くと笑顔を向けた。
「芳澤、斉。じゃ、またね」
「私、静香。倉本静香です」
 俺は頷き、一目散に悟郎たちと追い掛けっこに突入していった。
 でも、彼女、一体何の病気なんだろうな……。
 抜けるように白い肌が、いかにも体の弱そうなそんな感じだったな。
 ふと、そんなことが頭をよぎった。



「はっ……だらしな……」
 馬鹿にするような溜息。奈緒の家で顔を合わせた時の第一声がそれだった。
「仕方ないだろ」
 確かに、奈緒の部屋に通された俺は、大の字にどてっと寝転がって、だらしなく見えたに違いない。
 だが、だがである。
 どだい、体の訛ってる大学生と遊び盛りの小学生の集団を比べる事自体間違ってないだろうか。
「はいはい。なんかさ、斉って口先だけ達者になったよね」
 ……しくしく。もう少し優しい友人が欲しいぞ。
「あんたにゃ、遙ちゃんがいるでしょうが」
 !
「いや、その……」
 俺の口ごもった様子で何かあったと察したのだろう。
 奈緒の表情が少し真剣味を帯びる。
「大体、何で急に帰ってきたのよ。遙ちゃんはあっちいるんでしょ。置いてきぼりにしてきたの?」
「だから、その」
「……まだ、忘れらんないわけ? 瑞帆の事」
「そうじゃねえよ」
「なら良いけどさ。遙ちゃんがいくら優しいからってさ、あの子も女なんだからね。恋人が昔好きだった人の事で、故郷に帰るなんて気分いいわけないんだ よ?」
 そう言い終わってから、「ま、こうなるかもって知っててあんたに伝えたあたしの言えた事じゃないかもしれないけどさ」と奈緒は少し苦笑いをした。
 苦笑いに誤魔化しているが、奈緒の瞳には心配そうな色がある。なんだかんだ言って、いいやつなのだ奈緒は。
「やっぱりそういう事なのかな」
 いまいちよくわからないが、遙ちゃんのあの言動はそうなんだろうか。
 違うような気がする。
 だけど、だったらなんなんだと言われると俺には想像もつかない。
「女ってわかんねー」
「愚痴るのもいいけど、ここにも女の端くれがいるってこと考えてから言ってほしいわね」
「あ、俺、奈緒の事女だなんて思って無いから」
言った途端、ばてている俺のみぞおちに肘が垂直につきたてられた。
「お、ま……。どこで格闘技の訓練してんだ」
「あんた相手に実践長いからね。でも、そろそろケリつけて女らしくしようかしら。あんたの命を生贄にね」
「ちょ、奈緒……いや、待った、待った……あの、潮巻さん? どうか穏便に」
 奈緒の表情がとてつもなく危険だった。
目がぎらぎらと光って、呼気が白く漂いそうな、そんな実在する絶体絶命の瞬間だった。
 めぎょ
 ああ、擬音って、中には本当にそんな感じに聞こえる事があるんだなあ……。


 ……

 …………

 ………………

「でさ、帰ってきてどうすんのよ」
 ぽりぽりと、奈緒が福神漬けを食べながら俺に話を振った。
 テーブルの上には、カレーライスが乗っている。
 奈緒曰く、福神漬けのないカレーはカレーではないらしく、大きな福神漬けのたくさん入った皿が置かれている。
 俺は福神漬けもしば漬けも入れないので、奈緒に言わせると邪道になるらしい。が、俺から言わせてもらえれば、奈緒の『それ』は、カレーライスではなく、 福神漬けライスと呼ぶべきものだ。
 どこの世界のカレーライスにルーより多い福神漬けを入れる奴がいるのだ。
「だって辛いんだもん」
 そんな事言うやつはカレー食うな。
「それより、瑞帆の事でしょ? もっとも本当はあんた、遙ちゃんのことに気を使うべきだと思うけど、ね」
「あ、ああ……。とりあえず、遙ちゃんのことは良いよ。で、瑞帆の手紙持ってるんだろ?」
 奈緒がじと目で俺を睨んだ。
「やっぱり、今でも瑞帆のこと好きなんじゃ無いの?」
「…………そんなわけ、ねえよ」
 その割には返事が遅いよねとか少し奈緒はぼやいていたが、すくっと立ち上がると、「ちょっと待ってな」と言ってふすまを開けて出て行った。
 そして、しばらくしてから戻ってきた奈緒の手にはそっけない白の封筒が握られていた。
「ほい。あ……誓って言っとくけど、中は読んでないよ」
 なんでそんなことをわざわざ言うのだろうと思って受け取った封筒を見た俺はすぐその意味に気がついた。
「開けられてる……」
 乱暴にちぎり開けた跡が残っていた。
「見つけたときには開いてたんだよ」
 奈緒は俺の視線の意味を汲み取って答える。
「正直あたしはさ。この状況がひどく気に食わないんだ。首の後ろのあたりがちりちりするって言うか。なんか良くない事が起こってるんだよ」
「良くない事ってなんだよ」
「それが何かわかってたら、もっと話は簡単なんだろうけど」
「だからね、あたしは斉には関わって欲しくないんだ」
「それでお前も手を引くのか?」
「……斉が手を引くんならね」
 息を抜くように奈緒がちょっと笑った。
 すぐに嘘だとわかってしまう。
 きっとこいつは何かがわかるまで瑞帆の事を調べようとするだろう。
 俺と瑞帆が別れた後でも、瑞帆とこいつは親友だったんだから。
 それに、こいつは『そういうやつ』なのだ。
 親友がそんな危険な何かに関わっているとわかったら、自分が傷ついたって、救い出そうとする。
 口にするのも恥ずかしいような、そんな気持ちを持ったやつなのだ。
 だから、正直俺が腐ってしまった後も、ずっと俺の傍に居てくれたのは見捨てられなかったんだろう。
 このやたら口だけは悪いけれど優しい女は。
『経済学? そんなの学んでどうすんだよお前』
『良いじゃない、あたし、将来はどうせ酒屋をつぐんだもの。経済学の一つや二つ学んでおくのも悪かないと思うわ』
『あのな、酒屋で必要なのは経済学じゃなくて、経営学なんじゃないのか?』
『細かい事をうるさいわねえ。知らないところでなんか人に乗せられるのとか流れに任せるのとか好きじゃ無いのよ、あたしは』
『なんだよ、それ』
『わかんなきゃ良いのよ』
 ふと、奈緒が高校三年の冬も押し迫ってから、大学に行く事にしたときの話を思い出した。 それも、失恋したばかりの自分と同じ東京の大学へ。
 考えすぎだとは思うが、なんとなく、心の中に湧いた思いは否定しがたかった。
 あの時は、そんな短期間で大学受験なんて無謀だとしか思えなかったし、それで合格してしまう奈緒の力量にあっけに取られてそんなことは頭の隅にもかすめ なかったのだけれど。
「わりぃけど、引けねえよ」
 そう言うと、奈緒は少し心配そうで、でも、何故か少し嬉しそうにこちらを見た。
「ま、そういうと思ったけどね。でも、本当に危険そうだってことだけは覚えておいてね」
「奈緒の勘だろ?」
「ただの勘で言うほどあたし感情的じゃないわよ」
 困った顔をして、カチャカチャとカレーライスを口に運ぶ奈緒。
「瑞帆の家にね、なんだか怪しい黒服の男たちがやってきてるのを見かけた近所の人が居るのよ」
 スプーンを少し揺らしてそんなことを言う。
「もしかして、借金取りとかか?」
「電話でも言ったでしょ、瑞帆の家はそんなに経済的に困ってるって話は無いのよ」
「でも、突然何かで金が入用になることだって有るだろ」
「そりゃ、有るかもしれないけど、近所の人たちの聞いたところだと、瑞帆のおじいさんの事を『先生』だとか言ってたらしいのよね。債務者に『先生』なんて 言わないでしょ?」
 確かにそんな事を言う借金取りがいるなら見てみたいというか、ありえない話だな。
「でもよ。じゃあそいつら瑞帆の爺さんに用があったって言う事か?」
「うん、そうみたいね。何度か来ては追い返されてたみたい。もっとも、そいつらが今回の二人の失踪に関わってるとは限らないんだけどね」
「でも、あからさまに怪しいな」
 追い返されていたってことは瑞帆の爺さんは何かを断ってた、交渉決裂してたってことだ。その黒服たちがそのイメージのとおりの人間たちなら二人の失踪は その実力行使だとも考えられる。
「そうだけど、だとしたらわかるでしょ。下手すりゃあたしたちまで『実力行使』されちゃうかもしれないのよ」
「ぞっとしないな」
「でしょ。それでもやる気ある?」
「とりあえず、どうしようもならなくなるまでは探してみようぜ」
「そうね、その辺が妥当よね」
 頷いて再び食事に取り掛かった奈緒を見ながら、俺は瑞帆の事を考えていた。
 瑞帆、今どこでなにしてるんだ?
 本当にその黒服とやらにとっ捕まっちまったのか?
 苦しい目には合ってないんだろうか……。
「やっぱり心配なのね」
 はっと気付くとカレーライスを平らげた奈緒が覗き込むようにこちらを見ていた。
 口の周りをティッシュで拭い、手を合わせてごちそうさまをする奈緒。
「いや、あのさ……」
「いいから。あたしお皿片付けてきちゃうからさ。その間に手紙、読んじゃいなさいよ」
 そう言って、奈緒が部屋からお盆を持って出て行く。
 奈緒の部屋の中には女の子らしいものが少ない。かなり殺風景だといっても良いだろう。
 そんな奈緒の唯一の趣味は写真だ。
 だが、その写真がまた華やかさの正反対に有る。
 壁に幾つか下げられたボードに貼られている写真は、正直言って趣味の良く無い物だ。
 交通事故の現場、火葬場の煙突から上がる煙、病院の霊安室の扉……。
 そんな中で一枚だけ、一見まともそうに見える、兄妹の抱き合っている姿は、この辺で数年前に起こった毒ガス騒ぎで死にかけた妹を抱いて必死で医者を探し ている青年のものだ。
 とかく不吉なものばかり写されている。
 まあ、そんな部屋にも慣れるほどに厄介になっているのだが。
 そっと、封筒から手紙を取り出す。
 広げようとして、瑞帆の文字を目に捉えるだけで、胸の奥が少し締め付けられた。
 そして、中を読んで、俺の頭は真っ白になった。
「なんだ……これ?」
 何度も何度も読み返す。
 だけど、俺が読み取ろうとする言葉はどこにもなくて。
 また、ばたりと仰向けに寝転がる。胸のうちにグルグルと渦巻く何かが出口を求めて猛っている。だけど、それの表し方を俺は知らない。
「一体なんだって言うんだ」
 口に出して呟いてみても、それは少しも収まりはしなかった。
 そうしているうちに、奈緒が帰ってきた。
「また寝てるの?」
 俺は少しだけ不機嫌な顔をして、手紙を奈緒の方に差し出す。
「なに。あたしに読めってこと?」
 頷いてみせると、奈緒は俺の手から手紙を受け取ったが、まだ少し迷っている様子で俺を見た。
「でも、これ瑞帆があんた宛に書いたものだろ。あたしが見ちゃって良いのか?」
「いいから、読んでみろよ」
 俺に強く言われて奈緒が渋りながら手紙へと目を通していく。
 読みながら、奈緒が少し眉を寄せる。
 少しして、手紙を読み終わったときには、その顔は明らかに困惑の表情を浮かべていた。
「なにこれ?」


 親愛なる斉くんへ

 斉くん。私、斉くんの事が大好きだから。
 だから、もう行くね。
 これ以上迷惑かけられないもの。
 こんな事に巻き込んでごめんね。
 そんな私にこんな事言える資格ないと思うけど、
 ……もう一つだけ迷惑かけてもいいかな?
 あれを、鐘守神社まで届けて欲しいの。
 鐘守遙さんに渡して欲しい。
 そうすればもう、斉くんはこのことからはもう無関係だから。
 だから大丈夫だから。
 本当は私が渡しに行くべきなんだけど。
 ごめんね……。
 迷惑ばっかりかけてごめん。
 お願い、するね。
 もし、嫌だったらこの手紙とかみんな燃やしちゃってね。
 あれは湖にでも捨ててね。

 さよなら、斉くん。
 私、とっても嬉しかったよ。

 桜井瑞帆  

「意味不明だ」
 俺の呟きに奈緒が頷いてさらに言葉を足す。
「それにどうして、遙ちゃんの名前が……?」
 それが一番俺の心に引っかかっている事だった。
「でも、やっぱりそうだったんだ」
「なにがだよ」
「遙ちゃんのこと」
「遙ちゃんのなにが」
「鐘守神社の、『あの巫女さん』だったんだな……」
 何かとても言い辛そうに奈緒が口にする。
「お前、知ってたのか?」
「え、ああ。有名な話だし」
「有名な話?」
 なんだか会話が噛みあっていない気がする。
「えっと、なんだ斉は知らないの?」
「何のことだかわかんねえよ」
「うん……」
 酷く歯切れの悪い様子で奈緒は口ごもる。
「早く言えよ」
「えっとさ、これはあくまで噂だって言う事を忘れずに聞いて欲しいんだけど」
「噂?」
「そう、噂。だから、初めに言っとくけど、あたしには遙ちゃんを貶めようとかそういう意図は全くないんだって事をきちんとわかって欲しいんだ」
「やけにもったいぶるな」
「噂の内容が内容だから、さすがにね」
 なんだかいやな気分だが、俺は渋々頷く。
「10年前ぐらいにこの辺で殺人事件が有ったのは覚えてるかな?」
「いや、悪いけど覚えてない」
「そうか、あの紫乃森のお屋敷の中で起こったことだから、当時かなり騒がれたんだけどな」
 紫乃森ってのは、この辺の大地主にして紫乃森グループの総帥の家だ。元々は鉄鋼会社だったらしいが、俺はそれ以上詳しい事はあまり知らない。
「あ、そいつは覚えてる。たしか、紫乃森のお嬢さんを使用人が殺して逃げたとか言う話だよな」
「そ。それで、山狩りまでしてもその容疑者を発見出来なかったのが、ある日突然ひょんな所で見つかったんだ」
「確か、死んでたんだよな」
「そう。一応公式には神社の境内でのたれ死んでいたってことになってる」
「なんだか含みのある言い方だな……と、その神社がもしかして」
「正解。なんだ割と頭回るじゃない、斉も」
「む、馬鹿にすんな」
「はいはい。そうその神社が鐘守神社。そして、発見者が鐘守遙。当時まだ小学生だった遙ちゃん」
 ここからが核心なのか。しかし、殺人事件だって?
 どうにも、あの柔らかな雰囲気をまとっていた遙ちゃんと、血なまぐさい殺人事件なんてイメージが重ならない。
 でも、あの巫女さんなら――。
 確かに遙ちゃんなのに、あんなにも冷たくて鋭い別人のような彼女。
 彼女なら何かあっても不思議がない気がしてしまう。
 いや、まてまて、ただの第一発見者ってだけだ。
「彼女はその手に死体を引きずって山狩りをしていた大人たちの前に現れたらしいの」
「なんか言い方が悪くないか?」
「ううん言葉どおりなの。少なくとも、実際にその時見てた人は、あまりに顔立ちの整った巫女の少女が青年の死体を引きずって現れた様子はとても異様だっ たって言ってる」
「子供に死体持たせたら引きずるしかないだろ」
「そうじゃないでしょ。普通だったら、子供が死体なんか持ち運んだりしないわよ」
 確かにそうだ。
「その時の証言とか態度が冷静にすぎて、関係者は皆彼女の事を恐ろしく思ったらしいわ」
 そして、誰かが、遙ちゃんがその犯人を殺したんじゃないかと言い出したらしい。神社の立ち入ってはならぬ場所に入り込んだから殺されたんだとか、根も葉 もない噂が。
 そして、遙ちゃんの例の姿を見た人は、誰一人その可能性を明確に否定しなかったと言う。
 それだけの印象を与える出来事だったんだろう。
 そして、あの遙ちゃんを見た俺にも、その見たことのないはずの光景が鮮明に見えるような気がしたのだ。
 俺は少し、息を呑んで、唇を湿らせるとゆっくり話し出した。
「でも、それって、周りの人の見た感じってことなんだろ。誤解とか」
「うん。それはそうなんだけどね。彼女に付いては他にもたくさん噂があるのよ」
「みんなろくでもない噂なのか?」
「そう、そう言って差し支えないかも。冬のある夜に巫女装束を着て凍った湖の真ん中で踊り狂っていたとか。彼女の美貌に狂った男が襲い掛かった時に近くの 電柱が倒れてきてその男を押しつぶしたとか……」
「全然まとまりのない噂だな」
「だから、最初に言ったでしょ。噂だし、どこまで本当かもわかんないわよ」
「でも、最初の話は、本当なんだろ」
「うん、まあね。それにしたって、幼い女の子と、死体の組み合わせのイメージが悪かっただけかもしれないし」
「今度は擁護するのか?」
「だから突っかかんないでよ。どっちが本当だとか、わかんないってこと。ただ、そういう噂があるって話」
「で、じゃあ、奈緒はどう思ってるんだよ」
「どう思ってるって?」
「遙ちゃんが、その……」
「多分、名前も同じだし、なんか有るのは間違いない気がするけど。それでも、遙ちゃんは遙ちゃんだと思うわよ、あたしは」
「そっか」
「まあ、とにかくさ、遙ちゃんとも話さなくちゃいけないでしょ」
「その事だけどな」
 もしも、奈緒が偏見を抱くようだったら話せないと思ったけれど、あんな風に思っているのなら、話してもいいだろうと思って俺は、駅で遙ちゃんに会った事 を話す。
 ……
「……と言うわけなんだ」
「常識的に言えば、昔の女の事でぶち切れてるって所だけど」
「あの遙ちゃんがそれはないだろ」
 奈緒がじとっと俺を見た。
「馬鹿ね、本当に。あの子だって女なんだよ。嫉妬だってするわ……もっとも、彼女の噂が本当ならそっちの方が彼女の本性っぽいけど」
 そうだ。俺もその事を考えてた。
 湖で踊り狂っていたと言うのはともかく、どこか神秘的で、冷たくて美しい。それがあの時の遙ちゃんの印象にはぴったり来るんだ。
「とりあえずさ。この手紙の事も含めて一度は話を聞きに行った方が良いんじゃない?」
「まあ、そうなんだけど、なんだか、会いにいきにくくてさ」
「あんたにも罪悪感ってものがあるんだ?」
「そんなんじゃないけど」
「あら、誉めてるのに。自分が悪いことしたって認めるのは大事なことだよ」
「茶化すなよな」
「ごめん。でもさ、あんたも少しは遙ちゃんに執着するところがあるんだなって思ってさ」
「執着か……俺、執着してるのかな」
「もう一度言うけど、悪い事じゃないわよ。何にも興味持てないより、ずっと良い事だよ」
「ったく。わかったよ遙ちゃんに会いに行けば良いんだろ」
「そうそう。少しは素直に彼女と付き合ってあげなよ。遙ちゃん気に……ととと、なんでもない」
「え?」
 何か言いかけたのが少し気にかかったけど、とりあえず頷いておく。
 彼女に対して悪い事をしたのはこっちの方だしな。
「なんでもないって。それより、明日きちんと話してくんだよ?」
「しつこく言うなよ」
「そんぐらい言わないと、行かないじゃないか」
「わかったよ。ちぇっ奈緒には敵わないよ」
「ふふん、あたしが斉程度でどうにかなると思ってもらっちゃ困る」
 その言葉に苦笑して俺は目を部屋の壁に向けた。
「相変わらず趣味が悪いな」
 例の写真を指して言う。
「そうね、なんでかなあ。オカルトものとかそういうの大好きなのよね、あたし」
「こういうのも占いみたいに男性より、女性の方が好きなもんなのかな」
「さあ、あんまり聞いたことないなあ。占いとオカルトって確かに似てはいるけどさ」
「遙ちゃんは占い嫌いだって言ってたな」
「へえ、珍しい」
「実家が神社だからってさ」
「そういうもんなの?」
「そういうもんなんだろ、本人が言うからには」
「うーん、でも、あたしにはちょっと良くわかんないなあ」
「どうしてだよ」
「だって、あたし、お酒大好きだもん」
 語尾にハートマークでも付きそうな弾んだ声だ。
「奈緒らしいよ、ほんと。花より団子より、酒か」
「いやーねーその言い方。美味しいものを美味しいって言ってなにが悪いのよ」
「いや、悪くねーけど。俺も好きだし、酒」
「にひひひひ。そうだよねー。あたしらももうおおっぴらに飲める年なんだからさ」
 まったく。いやらしい笑いすんな。
 しかし、そうだよな、占いが嫌いってことは、生まれだけの理由じゃないはずだ。何か有るのかね。
「よしっ」
 俺の視界の片隅で思い切ったように奈緒が立ち上がる。
「なんだ、どうしたんだよ?」
「下から美味しいのもって来るから、少し呑んでいきなよ」
「お、嬉しいねえ」
「じゃ、ちょっと待ってな」


「ところで、あれってなに?」
 奈緒がそう言いだしたのは呑み始めて一時間も経ってからだった。
「なんだよ、あれって」
 心地良く杯を傾けていた俺は奈緒に聞き返す。
「あれったらあれよ、馬鹿ねえ」
「あー、あれか。あれな? あははははは」
「そうそう、あれだってば。にっひっひ」
 思えば酔っ払ってなければ、すぐにそれが先ほど読んだ手紙の中のあれであることに気が付いたんだろう。
 だけど、俺も質問した当の奈緒もかなりのハイペースで呑んでいて、すぐにどうでもいい話の中に紛れ込んでいってしまった。
「それより、神崎の奴どーしたと思うよ」
「なになに、裕子ちゃんと上手くいってんじゃなかったの?」
「いや、そっちはいいんだけどな……」

その時、例の抱き合う兄妹の写真に何か違和感を覚えた。
「んー……あれ?」
「どーしたのー。お酒は楽しくっ!」
「いや、なんかさー。見たことあるなーって」
パカーン!
{あいったー。なにしやがんだ」
「見たことあってあったり前でしょーが。あっははははははははははは」
奈緒はハイテンションで酔っ払い継続中だが、思いっきりひっぱたかれた俺は少しだけ素面に戻った。
「そうじゃなくてさ。この女の子の方だけど、どっかで見覚えが」
「なーに。斉ったらやらしんだから。もーう」
 たしか、この時の毒ガス騒ぎってのは、この町から少し離れた村一つ丸まる毒ガスに飲まれるという大事件だったはずだ。
 原因は、鉱毒処理プラントが爆発して、ある種の薬品との混合で出来た毒ガスがふもとの村へと下ったらしい。
 幸い、と言って良いのかどうか。雨が降ったおかげでその村以上に被害は広がらず、こちらの方は何の問題もなかった。
 だが、直撃された村の方は酷い有様だったと言う。村の住民の八割近くが何らかの形で影響を受け、そのうち4割ほどは事件後一週間の間に死亡している。
 そういえば鉱毒処理プラントの管理会社は例の紫乃森鉄鋼の子会社で、この騒動で紫乃森鉄鋼も随分あおりを食らったと言う話を聞いたことがある。
「いや本当なんだ。それもつい最近……」
「随分古いナンパの手口ねー。ねー」
 誰に同意を求めてるか、酔っ払い。
 なんだか急速に酔いが覚めてきた。それに、なんだか夜風に当りたい気分だ。
 時計を見ると9時少し前。
 奈緒の家を辞すのには丁度いい時間かもしれない。
 それに、一人になって考えてみたい事があった。
「奈緒。俺そろそろ帰るわ」
「えー。もうお開きー? 早い、早すぎるよーつまんなーい」
 奈緒が這うようにして近づいてきたと思ったら背中から負ぶさってきた。
「うお……」
 奈緒の柔らかいふくらみが背中に押し付けられている。
「おまえなー」
 文句を言おうとした俺に奈緒が声をかぶせてくる。
「ねえ、斉、今日は泊まっていかない?」
 熱い吐息が、首筋にかかっていた。
 意味がわからんほど俺も子供じゃない。だけど、なんだってこんな時に今更――。
「バーカ。よせよ、俺にそんな手が通用するか」
 だから、俺はそう答える。
 俺にとって、奈緒はそういうやつだから。
 背中から温かい体が離れていった。
「ん、そか。つまんないなあ。一度ぐらいお相手してあげても良いんだよ?」
「馬鹿言うない。後で何言い出すかわかったもんじゃ無いからな。これ以上奈緒に弱み握られるのはごめんだよ」
「ちぇ。そっか。まあ……それで良いんだよ、斉。遙ちゃんの事考えてあげなきゃね」
 何故、そこまで奈緒は俺と遙ちゃんを結び付けておこうとするのか。
 そういえば昔、瑞帆と付き合っていたときも、奈緒は良く瑞帆のこと大事にするんだよ。泣かせたら承知しないって言ってたな……。
「ああ……。俺も泣かせたいわけじゃない。大事にしてやりたいんだ。ただ、そのためにけじめをつけなくちゃいけないんだよ」
 奈緒が口にしなかった部分にも俺は答えを示す。
「あんたも難儀だね。世の中なんて、もっとシンプルに出来てるのにさ」
「違いない」
 俺と奈緒は顔を見合わせて笑った。

「じゃあな」
「うん、お休み」
 奈緒の家の前で挨拶を交わしてわかれる。数歩進んだ俺の耳に奈緒の小さな呟きが聞こえた。
「斉はさ、あたしの事……買いかぶりすぎだよ」
「え?」
 振り向いた時には、そこにもう奈緒の姿は見当たらなかった。
 ふと見上げた夜空は、やけに綺麗な星空だった。


続く