暁に消えて……


プロローグ

朝ぼらけの霧が葉も枯れ落ちた冬の林の中を白く染め上げている。
緩やかに漂うその奥から、声がする。
張り詰めすぎて割れた風船のような、高く嫋々とした少女の泣き声。
しゃくりあげる中にわずかに、意味のある言葉が混じる。
「おと……さん……お、ねが……ひぐっ……助けて」
変声期にもまだ程遠い少女の声に目の前の人影が揺れた。
お父さん、そう少女は呼んだのだろう。
曙光を背負って、少女の方からは真っ黒な影に見えるその人物は、だがそれ以上身動きもせずじっと少女を見つめている。
投げかける言葉を見出しあぐねているのか……。
それとも、少女の願いに応える気がないのか。
いずれにしても少女にとって救いとはなりえない沈黙がその場に満ちる。
また少女が何度か鼻をすすり上げ、耐え切れなくなったように大きく泣き声を上げた。
それでも、影からははかばかしい反応は返ってこない。
それどころか……しばらくそうした後に、人影は横に首を振った。
救いの拒絶。
泣く事も忘れて少女は呆然と彼を見やる。
その言葉が少女のうちに緩やかに染みとおり、その表情をじわじわと絶望で覆っていく。
ボロボロと少女の頬を涙が伝い落ちて。
「いや……やだーーーーーーーーっ!」
少女の叫びが林の中を響き渡った。





人間、目が覚めるときは自然に覚める。
そういうもんだろう?
そして、そのタイミングで目を覚ますのが誰にとっても一番良いことだ。
そうすれば、体は快調だし、集中力も上がる。
一年の計は元旦にあり、とも言うじゃあないか。一日の計は起床にあり、だ。
だから、人に起こされる事は、世の中で一番の不幸なんだ。
なにせ、寝不足になろうもんなら体調が悪くて頭も回らない。そんな調子で万が一にも、たとえば彼女をデートで怒らせてしまったり、テストの問題が一問も解 けなかったり、大事なものをうっかり壊してしまったり、命を落としてしまったりしたら悔やみきれない。
そうだろう?
そして、残念な事に人間は予知能力を授かっていない。とすると、いつ、そのいざって日が来るかわからない以上、人はいつでもそのときに備えて万全の状態を 整えるべきだ。
「で?」
そこまで捲し上げた言葉をたった一言(まさに!)で切り返した女が呆れた表情で布団を引っつかんでいた。
「それに、今日みたいな寒い日はだな、急激な温度変化に体が耐えられず……」
「どうなるか実験してみよう」
ガバッ。
「ぎゃああっ」
寒っ、寒すぎる!!
「あのなあっ、何の恨みがあるんだよ。奈緒っ!!」
「いいえー、恨みなんかございませんことよ。おほほほほ」
もったいぶった言い方はちっとも悪びれた所が無い。この女はそういう奴だ。
全く憎たらしい奴。
なんて、思えるのも、長年付き合った気安さがあるからこそだけど。
「ただ、元級友のよしみで、かかる不幸を取り払いに来てあげただけじゃない」
「ったく、何が元級友だ。週に一度は顔合わせてるくせに」
「良いじゃないの。嘘は言ってないわよー。少なくとも、『異性の親友』とか曖昧で微妙な表現を除いたら、それがあたしとあんたの関係を一番的確に表してる と思わない?」
まあ、確かに考えたらそう言えないことも無い。
大学に入ってからこっち、部活もしていなかったし、違う学科に入った奈緒と学校での接点はほとんど無い。
しかも、同じ大学に通っているとは言え、日本で二、三番目ぐらいのマンモス校ではそれすらもあまり適切な表現ではないような気がする。
「……腐れ縁とか言っとけば良いだろ。それより、返せよ布団」
「うわー、妙齢の女性に向かって腐れ縁は無いんじゃない? せめて幼馴染とか言ってくれると嬉しいな」
「腐れ縁に年齢なんか関係あるか。それにな、オマエと出会ったのは中学ん時だったじゃないか。物心ついてるどころか思春期真っ只中だわ」
「それがどうしたのよ」
「ちっとも幼くないだろうが」
あ、呆れた顔しやがった。
「細かいわねー。じゃあ、思春期馴染み?」
「ししゅ……変な言葉を捏造するなよ」
「ほらほら脱力してないで、あれだけご高説かませるんだったらきちんと頭起きてるんでしょ? 観念して起きなさいって」
頭は起きてる。これでも寝起きは悪くないつもりだ、寒くさえなければとっくに起きてた。
でも、確かに今から寝ようとしても、寝つくまでに時間が掛かりそうだ、体も冷えてしまったことだし。
「わかったわかった。わかったから出てけよ。それとも着替えまで見たいのかよ」
「今更あたしが男の着替え見たぐらいで驚くもんですか」
呆れるような声。それを聞いて思い出す。奈緒の実家は酒屋さんで、小さい頃からいかがわしい配達場所に出入りしてきて今更、男の裸など何も感じないと日頃 から口にしているのを。
おかげで、どんな男と付き合っても、長持ちしない。原因はと聞くと、ちっとも感じないから気持ち悪いのよね。とあっけらかんと答える有様だった。
しかし、奈緒の羞恥心が致命的に欠損しているのは良いが、せめて他の人には羞恥心と言うものが存在することぐらいはわかって欲しい。
「……ん? そう言えばオマエさっき変な事言ったな」
「思春期馴染み?」
「いや、それはもういい。かかる不幸がとかなんだかやけに古臭い言い回し」
「ああ、確かに言ったような記憶があるわねえ」
「オマエ、何を隠してる?」
「いやだ、隠してるなんて。ちょっとした言葉の綾よ、言葉の綾」
「嘘つけ、大体今日に限って起こしに来るなんて、何かおかしいとしか思えないだろうが」
「んー、そんなに聞きたいの?」
「聞きたくない気もするが……なぜか聞かないと余計に悪いことになりそうな気がする」
「ふうん。割かし、勘は働いてるのねえ。ま、これ以上焦らして風邪ひかれるのもいやだし」
「そうだ、さっさと出てけ」
「あんたじゃないわよ。遙ちゃん来てるわよ、ドアの外で待ってるわ」
爆弾投下。
「そ、それは早く言えーっ!!」
急いで、急ぎすぎて、つんのめりそうになったが、ドアを開ける。
「きゃっ」
扉を開いた途端に可愛らしい声があがる。驚かせたかな?
「ごめん、遙ちゃん、来てたなら、呼び鈴鳴らしてくれりゃよかったのに」
長い間寒い中に立っていたからか、頬を赤くした遙ちゃんがいた。
「おはようございます。斉さん」
遙ちゃんは一瞬の驚きから立ち直ると、俺を見据えて、ぺこりとお辞儀をした。こう、挨拶のお手本みたいな完璧な仕草で。
「あ、ああ、おはよう」
「いえ、まだ結構早いですし、後30分ぐらい待つつもりだったんです」
後30分って……。そんなに待つんなら、もう少し後で来ればいいのに。とか思ってしまう俺は、乙女心がわからないやつだろうか。
「そんな、気にしないで良いのに」
「あーら、人に起されるのは世の中で一番の不幸じゃなかったんだっけ?」
余計な奴が後ろから茶々を入れる。
「そうですよ、私が自分の都合で来ただけですから、斉さんは気にしないでください」
「あー、本当に健気な娘だわねえ。何で、こんなに完璧な娘があんたの彼女なんてやってんのかしら」
そう、この目の前にいる容姿端麗、才色兼備、絶滅寸前とまで言われる大和撫子の中の大和撫子、遙ちゃんは、何を間違ったか今は俺の彼女だったりする。
しかし、奈緒の言うとおり、俺にも遙ちゃんが何故俺と付き合う気になったのかわからなかったりするのだけれど……。


遙ちゃんと出会ったのは、正月の帰省から帰ってすぐの話だから、まだ、一月ちょいと言うところだ。
出会い方は、あんまり良くないほうだったと思う。
何せ、自転車で俺が遙ちゃんを轢きそうになったんだから。
まあだからこそ、遙ちゃんが同郷だって気付けて知り合えたんだし、あの出会い方に感謝しておくべきかもしれない。
その後は同郷のよしみってことで、遙ちゃんが俺を頼って何度か会いに来てくれた。
元々万能な遙ちゃんだから、俺が教えられることなんてあんまりなかったんだけど、それでも、同郷の友達がいなかった遙ちゃんには随分と心強かったらしい。 俺を通して奈緒と知り合えたのも、彼女にとっては良かったんだろう。
それで、告白は、まあ、彼女から。
雪が積もった公園で、散歩しながら奈緒の所へ向かう最中のことだった。
真剣な表情で、俺の前に回りこんだ遙ちゃんが一息に。
「先輩、もしご迷惑でなければ、私を先輩の恋人にしてもらえませんか?」
この頃の遙ちゃんはまだ俺の事を先輩と呼んでいた。19歳の遙ちゃんは俺の二年後輩に当たるから。
「……本気?」
「はい、こんなこと、冗談でなんか、言えません」
彼女の顔を見て、そりゃそうだろうと思った。遙ちゃんみたいな清楚な女の子からすれば、自分から告白することがいかに恥ずかしいことかは、良くわかる。
……それにしたって、赤くなりすぎだ。人間って本当に赤くなるんだなとか思い知った。彼女の場合は、元が白い分余計になのかも知れないけど。
その様子を見られていると知った彼女は、一瞬顔を横に向けて隠そうとしたけど、結局隠したりしなかった。
「私、本気なんですよ」
そう繰り返しただけだった。
その澄んだ瞳に見つめられて、俺は、そのあと、なんて彼女に答えてあげたのかも実は覚えていない。
ただ、その遙ちゃんの真剣な表情が“ああ、綺麗だな”と思っていたのを覚えてる。
そして、遙ちゃんの俺への呼称が斉さんに変わり、俺たちの間は寄り添いあう距離になった。



「で、朝っぱらから寒いのに見詰め合ってないで、早いところ上げてあげたら?」
「あ、そうだね。遙ちゃん、上がって」
「はい、お邪魔します」
そう言って頭を下げる。
よそよそしく感じてしまうほど、遙ちゃんは丁寧だ。
そのとき、遙ちゃんがピンク色の可愛らしい手袋をしているのに気がついた。
「あ、それ」
「え? ああ、これ、つけてみました。どうですか?」
この間、商店街に冬物を買いに行った時、俺が選んであげた手袋だ。
「もちろん、よく似合ってるよ」
俺の言葉に、はんなりと遙ちゃんが微笑を浮かべた。
めちゃくちゃ、愛らしい。
「あーあー、ここにあたしがいること、すっかり忘れてるわ。いいよいいよ、好きにしなさいよ」
目の前の遙ちゃんの顔が、火がついたように真っ赤になった。
俺の顔も真っ赤になってるんだろうか。
おのれ、奈緒め。
俺は気にすること無いよ、と笑いかけると、彼女も少しだけ笑ってくれた。
それがとても嬉しい。


俺は今、満ち足りていると、そう思っていた。


「そんでさ、あたし、今日でうちの方に帰るから。うっさいんだよねー、父ちゃんがさ」
「ああ、そっか。休みごとに顔見せないといけないなんて、大変だな奈緒も」
「まあ、それが、こっちの大学に通う条件の一つだったからねー。それより、あんたは帰んなくて良いの?」
「俺? この間の正月帰ったばっかりだしなあ。それにあっちのが寒いじゃん」
「呆れた。同じ寒いなら、暖房の効かないこんな所より、実家帰った方が良いんじゃないの?」
「おいおい、大屋さんにでも聞かれてたらどうすんだよ」
「知んないわよ、あたしの大屋さんじゃないし」
「あの、やっぱり、それはちょっと酷いと思いますよ?」
しばらく俺たちの会話を聞いていた遙ちゃんが控えめにそう言う。
遙ちゃんの口調がたしなめるような感じだったので、思わず笑ってしまう。
「あーあー、まあ、奈緒の言ってるのは冗談だし。さすがに、今のことぐらいじゃ大家さんも怒らないと思うよ」
遙ちゃんが言うにはお嬢様ってほど裕福な家柄じゃないって話だけど、遙ちゃんはやっぱり箱入り娘って感じだ。
少なくとも、俺以外に付き合った男性はいないとのこと。
なんとも、可愛らしいこと。
「事実だしねー。にひひひひひ」
断言しよう。こいつは可愛くない女の典型。
「しかし、遙ちゃんったら本当にかわゆいわよねー、この、このっ」
奈緒が遙ちゃんに抱きついていった。
「わ、わわっ、あの、潮巻さん、私、その、あっ!!」
奈緒が、遙ちゃんに後ろから抱きついて頭をかいぐりかいぐりしている。
「もう、潮巻さんったら……」
あ、潮巻ってのは、奈緒の苗字。ちなみに、遙ちゃんは鐘守だ。
「しかし、遙ちゃんの体って、案外しっかりしてるんだね。何か運動してたの?」
抱きしめたまま、遙ちゃんの体を撫でるように奈緒の手が動く。
「あ、はい。ちょっと……合気道を」
「合気道?」
初耳だった。
「あの、その……高校の頃、私、変な男の人につけ回されることが多くて。夜道とか怖くて歩かせられないって、護身術として習わされたんです。お父さんった ら心配性なんです」
「大丈夫だったの?」
「大丈夫じゃなかったら、こんなに気楽に話せませんよ」
そう言いつつも、少し暗い影が遙ちゃんの顔を覆う。あんまり、良い記憶じゃないのは当たり前だよな。
って、おいこら、何故そこでじっと俺を見る。奈緒。
「あ、せん……斉さんは、紳士ですよ、すっごく」
奈緒の視線に気付いたのか、遙ちゃんのフォロー。
でもそれはそれで微妙だな。俺だって、遙ちゃんの体に興味が無いわけないんだし。
しかしまあ、遙ちゃんなら変な気持ちになる男の気持ちもわかるな。高校生のときも遙ちゃんは、とっても魅力的だったに違いない。
ああ、何故俺はそのときに出会っていなかったのだ。
あ……。
当たり前か。
あの時出会っていても、こんな関係になることは絶対なかったよな……。
「で、どのぐらい使えるの?」
「えっと、段持ちです。先生から護身術の粋は越えてるって太鼓判押されています」
「斉、あんたが入院したら、真っ先に遙ちゃんに不埒な事をしようとしたことを疑うことにするわ」
真面目くさった顔を向けて奈緒が言った。
「そんなありえそうで怖い未来を」
「そんな事しません。わ、私、斉さんなら……」
思わず、遙ちゃんをまじまじ見つめてしまった。
「お、おお!? 大胆発言」
「あ、私……」
自分の台詞に気がついたのか、奈緒に抱きつかれたまま下を向く遙ちゃん。
「奈緒、スケベ親父みたいだぞ」
遙ちゃんが可哀想なので、助け舟を出してあげることにする。
奈緒はにいっと笑って、立ち上がった。
ようやく解放された遙ちゃんがほっと息をつく。
「さってと、お邪魔虫はそろそろ帰るわ。あんたも気が向いたら帰ってきなさいよ」
「おう、そのうちな」
俺の返答に軽くため息を吐く奈緒。でも、心底呆れてるっていうわけじゃない。まあ諦めてるんだろう。
「会えるのは休み明けになりそうね。じゃあね、遙ちゃん」
「あ、はい。さようなら潮巻さん」
コートを着て、荷物をまとめていた奈緒がふと、思い出したように遙ちゃんに向き直った。
「そういや、遙ちゃんは帰んないの?」
「……私は、ずっと、こちらにいたいですね。出来たら帰ることにはならないと良いと思ってます」
「へ? あー、まあ色々有るのね。そんじゃ、斉。遙ちゃん泣かすんじゃないわよ」
「わかってるよ」
ドアを開けて、奈緒が出て行く。
途端に妙な緊張感が部屋の中に満ちた。
「あー、ごほん」
本当に喉がいがらっぽかっただけなのに、咳払いがなんだかわざとらしく響く。
俺も遙ちゃんも、まだこんなときに相手にどう接していいのか、わかってない感じだった。恋人同士として、何が自然なのか。
そしてそれは、初恋だと言っていた遙ちゃんより、初めてではないはずの俺のほうが強く感じていたのかもしれない。
「斉さんは、本当に帰らないんですか?」
だから、遙ちゃんが話題を提供してくれたことに、心底ほっとしていた。
「うん、まあ、帰っても、親父はいつも家にいないし、兄弟もいるわけじゃないからさ。暇なんだよ」
「でも、ご友人ぐらいいるでしょう?」
「そりゃ、ね。でも、あっちに残ってる奴らはみんな働いてるし、他は俺と同じで、休みにも帰ってこない奴がほとんどだからなあ」
俺の答えを聞くと、露骨にほっとした表情を遙ちゃんは見せた。
「……良かった。それじゃ、こっちでたくさん、一緒にいられますよね?」
「う、うん」
今更ながらに、自分がどうしてこんなに好かれているのか不思議になる。
そんなに自分に魅力がある奴だとは到底思えないのに。
彼女みたいな慎み深い女の子が、知り合ってたかだか1月の男に告白するなんて、今もって信じられない。
「遙ちゃん」
「はい、なんでしょう」
「前にも聞いたけど、俺のどこが好きになったの?」
「それは、どこというのは言えません。ただ、一つだけ言えるのは、出会えたからだと思います」
「なに、それ?」
「言葉どおりですよ。私は、どんな素晴らしい何かを持っている人だと知っていても、その人に会えなかったら好きにはなれませんから」
「なんだ、当たり前じゃない」
「ええ。でも、重要な事です。それが縁ですから」
まあ、確かに、遙ちゃんが言ってるとおりだろう。普通はそうだ。
中には、アイドルに本気で恋しちゃう人もいるらしいけど。
しかし、誤魔化された?
「あ、えーと、もちろん斉さんに良い所が無いといってるわけじゃないんです。上げろって言われるんなら良いところならたくさん上げられます! 本当です。 でも、私が斉さんに、……その、恋した、理由となると、どこがどうだからと言うのは画竜点睛を欠く気がするんです」
「なるほどねえ。しかし、遙ちゃんって運命論者?」
「え?」
「いや、縁とか言い出すからさ」
「運命論者とか、そんな大層なものじゃないと思います。ただ、私は自分の回りに有るものを大切にしていきたいだけなんです」
ご立派、さすが優等生のお答え。でも、それじゃ話が面白くないしなあ。
「女の子って、占いとか好きだって言うもんね。遙ちゃんも好きなんだ?」
「占い、ですか? あんまり好きじゃないですね」
「あれ、珍しいね」
「そうでしょうか……それは、きっと、実家が神社だからかもしれませんね」
ああ、なるほど。
彼女の実家についてはこれまで話に出なかったんだが、神社だったのか、それなら納得だな。
いや、占いが好きじゃない理由ってだけじゃなくて、妙に礼儀正しい遙ちゃんの性格とか、いろいろな面で。縁とか言えちゃう事も含めて。
「神社だったのか、遙ちゃんの実家」
「ええ。あの、嫌じゃ有りませんか?」
「なにが?」
「神社なんて、古臭くて嫌だなとか。そんな風に思いませんか?」
「そうかなあ、俺は割と浪漫を感じるけどな」
「浪漫ですか?」
「俺、これでも、文学部史学科の人間なんだけど。しかも、日本史専攻」
「あ、すいません。先輩が、史学科だったのを忘れてたわけじゃないんです。とっさに繋がらなくて」
「遙ちゃん、『先輩』に直ってるよ」
「あっ……。斉さん」
少し赤くなって照れくさそうに笑う。
「でも、それだったら、斉さんもそろそろ私のことちゃん付けしないで呼んでくれると嬉しいな……」
後半部分はほとんど聞き取れないくらい小さな声だった。でも、たとえ聞こえなくても、遙ちゃんが何を言いたかったのかぐらいはわかっていた。
「遙」
そう声をかけて近づくと、遙ちゃんはあのときみたいに真っ赤になって、俺を見上げた。顔から肩から、全身力入りまくりのカッチカチって動きで。
口を開けて何か言おうとする遙ちゃん。
その遙ちゃんの頭の後ろと、顎に手をかけて、真正面を向かせる俺。
手に触れる彼女のさらさらの髪と滑らかな肌が気持ち良い。
これから何が起こるのか、悟ったのか、遙ちゃんはぎゅっと目を瞑る。
それはあんまりにも懸命に目を瞑りすぎて、滑稽なぐらいだったけど、今は気にしない。
薄くリップクリームを塗っただけの唇が、部屋の照明を跳ね返してピンク色に光っていた。
清楚で、普段そんなことを全く感じさせない遙ちゃんのその部分だけがやけに艶かしい器官に見えて、思わず俺も息を飲んだ。
彼女の緊張がこっちにまで伝染してきたみたいだった。
顔を近づけて、彼女の熱い吐息と体温が感じられるぐらいになって……。

――――!

俺は、彼女の頬に口付けた。



「ふう……」
あの後すぐ、遙ちゃんは帰っていった。二人っきりでいる緊張感に耐えられなかったのかもしれないし、何か用事があったのかもしれない。
もしかしたら、俺の行動が期待はずれだったのかもしれないし、まだそこまで深い関係になることに躊躇を感じているのかもしれない。
遙ちゃんなら、後者は非常にありえる話だ。
結婚するまでは清い体でいたいと思っていたって、俺は不思議だとは思わない。
それでも帰り際、遙ちゃんは「明日、斉さんの最後の試験が終わったら、デートしてくれませんか?」と俺を誘ってくれた。
俺は二つ返事で「もちろん」と答えて彼女を送り出した。

とりあえず、ちょっとした買出しを終えると、明日の試験の勉強をする。
友人たちからはカンペ作りに誘われたが、まあ、この講義は出席さえしてればC評価を確約されているので、さほど危機感は無い。それに、選択科目だから、た とえ取れなくても、他で単位が足りていればすむ話だ。
まあ、見つからないようにしろよとだけ言ってやった。
きっと、遙ちゃん辺りは、カンペ作りなんて聞いたら眉を潜めるタイプなんだろうなあ。
友達から話を持ちかけられたときの彼女の対応を想像してみて、思わずくすりと笑ってしまう。
やれやれ、机に向かって勉強しながら、ニヤニヤ笑ってる大学生か。
これじゃ、まるっきり変な奴だな。
しかし、奈緒だったら、どうだろうな、あいつなら。
あー、でも、案外あいつもそう言う意味では正義感溢れるつーか、融通効かない所あるからな。
きっと誘った奴の好感度が下がるこったろう。バッドフラグ確定だ。
……何のバッドフラグだか。
苦笑いをすると、勢いつけて立ち上がった。
あー、もう駄目だな、頭が休憩モードだ。よし、休むとするかな。
時計を見てみると、もう、結構な時間だった。
「おー、俺って集中力あんのな」
そんな時間だと思った途端に腹が減ってきた。
「全くお前は現金なやつだな」
腹を軽く拳で小突いて、インスタントラーメンを作るために台所に向かう。
麺を湯でほぐして、粉末スープを入れて、買っておいた葱を細かく刻み、生卵を冷蔵庫から取り出す。
ラーメン皿のふちでかつんとひびを入れ、片手で割りいれる。
片手で割れるようになるまでは結構苦労した。まあ、無駄になった物資の割に大学生にとっちゃ役に立たない技能だけど。
それを持って机まで戻る間、ふと、頭に思い浮かんだことが有った。
「そういや、瑞帆も……そう言うこと嫌いだったっけ」
食べ終わって、ふと、メールをチェックしてみると迷惑、ウイルス、広告メールに混じって、遙ちゃんからメールが届いていた。


遙です。
斉さんの明日の試験は、11時に終わりですよね。
11時半に、噴水のところで待ってます。
何か、ご都合が悪かったら、メールかお電話ください。
明日、楽しみにしています。


それを見た途端、なんだか、何もかもがどうでも良いような気がしてきてしまった。こうして試験勉強している事も、遙ちゃんと付き合っていることも何もか も。
明日俺が何も言わずに約束の場所に行かなかったら、遙ちゃんはどうするだろう。
ずっと、夜までふきっさらしの寒い噴水の傍で、俺を待ちつづけるんだろうか。
ありえそうな話だ、あの遙ちゃんなら。
そうしてやりたいという、残酷で激しい熱を持った獣が胸の中にこみ上げる。
全てを道連れにして死んでしまいたいような、自暴自棄な破壊衝動。
でも、それは一瞬のこと、次の瞬間には、何でそんなことを考えたんだろうという気持ちでいっぱいになる。
遙ちゃんみたいな良い娘を悲しませるなんて最低の男。
俺ってもしかして、Sの気があるのかな。
とりあえず、心の中で謝っておく。
“ごめん遙ちゃん”
心の中の遙ちゃんは笑って許してくれている。なんだかその笑顔が胸に痛くて、俺はため息をつく。
ごろりと横になって天井を眺めると、今自分が不安定なのが良くわかった。
俺は、まだ遙ちゃんと付き合うことに、どこか躊躇いを持ってるんだろうか。
それだったら、あのときになんで返事なんかしてしまったんだろう。
嫌いなんて事はない。
何度でも言うが、遙ちゃんは良い娘だし。とっても、真剣だ。
もっとも、彼女が真剣だからこそ、俺も躊躇いを覚えてるんだろうけど。
俺だって、大学に入って数年、付き合った彼女の一人や二人いないわけじゃない。
一時期は、あの奈緒ともそれに近い関係だったんだ。
まあ奈緒の場合は、結局そこまで踏み込む前にやめてしまったから、今もこんな関係が続いているんだろうけど。
でもどれも、そんなたいした理由のない、恋人と呼べる人がいれば良いって感じの軽い付き合いだった。
相手も大概は似たような感覚で、中には俺のそう言う部分を非難して去っていく女の子もいたけど、だからと言って、その娘がその言葉ほど、俺のこと真剣に パートナーとして求めていたかって言うと、俺はそんな風には思えなかった。
別れたその日だけ、哀しいって泣いて、済ませられるようなもんだったろう。
ああ、本当俺っていやな奴かもしれない。
でも、本当の本当に最低な奴にならないために、俺は遙ちゃんみたいな娘とは付き合わなかった。
だから今、俺は当惑してるんだ。
自分の気持ちがわからなくて。
それとも俺は本当に最低な奴になっちまったのかって。
それがわかんなくなって。どうせ最低な奴なら、そうなってやるみたいなそんな気持ちに襲われる。さっきみたいに。
自分が最低だって、最低だから遙ちゃんみたいな娘を騙しても平気だって、そう思い込むほうが気が楽だから。
「馬鹿みてえ」
口にしてみると少し落ち着いた。
どうも暴走気味だ。頭の中が。
日本人ってのは自分を悲劇のヒロイン化するのがお好きだからな。
俺もご多分に漏れずというわけか。
そう思うと、自然と苦笑いが漏れた。
「あーあ、寝ちまえ寝ちまえ、こんなときは」
体をうーんと伸ばすと、机の上を片付けてさっさとベッドにもぐりこんだ。
ああ、ゴチャゴチャ考えていたわりには、楽に眠りに入れそう……。



どこかで水滴が落ちる音が聞こえる。
……。
水面に落ちて、その波紋が広がっていく様が脳裏に想像できそうな位、深く響く音。
…………。
ここは、どこだ?
また、聞こえる。静かでいながら、どこか人の心をざわめかせる水滴の演奏。
あたりは真っ暗で何も見えない。ただ、下から染み込んでくるような冷たさが漂っている。
でも足元はごつごつした感触がある。水の中じゃない。
湿った空気、それでいて、動きの無い停滞した闇。
洞窟の中か?
ひんやりした感じは、まさしくそんな感じだ。
ォーォーォーーォォーー。
何だ?
何か、聞こえた。
ぞっとするような、あれは……声なのか?
狼の遠吠えのような。いや、もっと低くて、もっと甲高い矛盾を孕んだ無気味な声。
目が慣れてきたみたいだ、辺りがおぼろげに見える。
やはり、どこかの洞窟のようだ、慎重に歩き出す。
ォーォーオーーオオーー。
声は、さっきよりもずっと近くから聞こえた。
びくっとして飛び跳ねる。
その音が聞こえてきたのは、俺の向かっている先。
それがなぜかわかる。
洞窟の中でさまざまに反響したはずの声がそこから聞こえてきたのだと。
歩き続ける。
このまま進んだら、あれに出会ってしまうのに。
進みたくないのに。急に吐き気がこみ上げてくる。
怖い、怖い怖い……。
空気が、喉の奥に粘りついているような不快感。
いやだ、もう、この先には進みたくない。
でも、俺の足は、また意を決して歩き続ける。
どうしてだよ、何で……。
仕方ないよ。これは夢だから。
そんな声が、聞こえた。
ああ、そうか、夢だもんな。
夢だから、わかるはずの無いようなことでもわかってしまう。
そう、わかってしまう。
本当はここが、光など差さない真っ暗な空間で、たとえ、闇に目が慣れた所で、辺りなど見えるはずも無いということも。
ここが本当に実在する場所だということも。
場所だってわかる! ここは、あそこだ!
口にしようとして、空間認識が俺の中を逆流する。
どこのどこだと言えない、ここは名づけられていない場所。
地図と見比べて口に出すような認識ではなく、俺は、ここがそこに有るということを良くわかっている。そう言う類のものだ。
そして、またひたすら歩き続ける。
心臓は破裂しそうな勢いで高鳴っている。息がひっくり返ってしまいそうなほど。
時折、拒否反応でももたらすように、手足が痙攣する。
恐怖が前に進もうとする自分を押さえつけている。なのに、俺はそれを抑えながら、先に進んでいくのだ。
後数歩。
その角を曲がったその先にそれは居る。
そして、俺は、そこを覗き見る。
化け物!!
間違いない、俺が恐れていた化け物だ。
こんなのは嫌だ、こんなのは嫌だ。
さっきまで俺を進ませていた何かなんて、あっという間に霧散してしまう。
ひたすら恐ろしい。アレは、アレは、人間じゃあない、人間みたいだけど、人間じゃあない。
だって、あいつらは、人間を喰らっていた。
口の端から血を滴らせ、くちゃくちゃと嫌な音を立てて、人を喰らっていた。
逃げなくちゃいけない。見つかったら、喰われる。きっと、生きながらにして、喰われるだろう。柔らかい所が好きなあいつらは、腹を裂き、内臓をすすり、目 を掘り出して喰らう。
その先、自分がどうされるか見えないのは、きっと幸せな事だろう。
俺は、矢も盾もたまらず、踵を返す。
逃げ出そうとしたその瞬間、後ろで叫びが上がる。
「きゃーーーーっ!!」
あの声は。
慄然とする。まさか、何で、何でそんなことに。
がちがちと震える歯の鳴る音、恐怖に震える荒い吐息。
それまではっきりわかってしまう。これは夢だから。
自分が涙を流していた。震える頬の上をみっともないくらい流れている。
恐ろしくて、でも、今から、それに立ち向かわなくてはならないことがわかったから。。
みっともなくても、怖いものは怖かった。
でも。
「ああ、助けて……」
その声を聞いたら、振り向かないわけにはいかなかった。
瞬間的に、体中に力が行き渡る。いや、萎えていた体に行き渡らせる。
振り向き、地面を蹴って角を曲がって、ありったけの気力を振り絞って雄叫びを上げる。
「うおおおおおおおおおおお、――!!」
名前を呼ばれた彼女の表情が、驚きと安堵で崩れるように歪んだ。
「この化け物めっ」
そしてそのまま、世界は、同じように歪んで……。


「うあああっ」
はあっはあっはあっ……はあはあ……?
窓から差し込む光がさっきまでの闇に慣れていた目に眩しい。
何の事はない。あれは夢だったのだ。
夢? 本当に夢だったのか?
あんなにもリアルだったのに。靴の裏から伝わる硬い岩肌の感覚。あの化け物が喰らっていた血の鉄さびのような匂い。
そして、俺に向けられた彼女の表情。
……彼女?
あれは……?
あれは、誰だった!?
その表情までがわかってるってのに、あれは誰だよっ!!
誰なんだ?
ヤバイ、思い出さなくちゃいけない。
思い出さなくちゃいけないのに!!
つかもうとすればするほど、それはたやすく手の中をすり抜けていく。焦れば焦るほど、それは輪郭を失っていく。
そんな、あの、俺の声を聞いた彼女が劇的に表情を変えたその仕草まで追えるのに、何故、俺は彼女が誰かわからないんだ?
それは、大切な事なのに。
真っ先に心に浮かんだのは、瑞帆だった。
やっぱり、あれは、瑞帆だったんだろうか。助けを求めた時のか細い声。
そう思えば、瑞帆の声だったような気もする。
「瑞帆……」
夢の中の俺は、瑞帆を助けてやれたんだろうか。
こんな現実と違って……。
いつのまにか握り締めていた拳を見つめて、俺は緩やかに息を吐いた。
……何を考えているんだろう。
久しぶりに瑞帆の夢なんか見たと思ったら、随分突拍子も無い夢を見たもんだ。
脳のどこの部分が活性化したか知らないが、滅多に見られないくらいリアルな夢だった。
今でも、あの洞窟の中を踏みしめて歩いた感覚が残っている気がした。
握り締めていた手を開くと、びっしょりと汗をかいていた。
息を吐いた瞬間、突然電子音が耳元で鳴り出した。
うわっ!
なんだ、電話かよ、驚かすない。
電話に出ようとして、一瞬躊躇した。嫌な予感がする。総じて、嫌な予感っていうのは当たることが多いもんだ。
「もしもし、芳澤ですが」
といっても、出ないわけには行かないよな。
「あ、斉、起きてた?」
「なんだよ、奈緒。オマエか」
「オマエか、じゃないわよ」
「あのな、昨日といい、今日といい、なんの用だ」
「何よ、昨日は、帰る前に挨拶しに行ったんじゃない。それに、あのまま遙ちゃんを待たせていたほうが良かったって言うの?」
「いや、それは、そうだが……」
確かにそうだ、だが、寝起きの人間はイメージで動いてるもんだよ、奈緒。
「そうでしょ?」
なんだか俺をやりこめて得意になっている奈緒の姿が目に見えるようだ……。
「で、こんな朝早くから、一体全体今日はどんな御用かね?」
「あ、そうだ、くだらないあんたのたわごと聞いている場合じゃないのよ」
「くだらなくて悪かったな」
「あのね。まあ良いわ、それより。あんた、瑞帆が行方不明になってるの知ってた?」
「……な、んだと?」
自分でも、びっくりするぐらい声が低くなったのがわかった。
「やっぱ、知らなかったみたいね」
奈緒に見えないと知っていながら、思い切り頷いてしまう。
「うん、それでね、あの娘、おじいさんとの二人暮しじゃない?」
「え? 瑞帆のご両親はどうしたんだ?」
確か、3年前は一緒に暮らしていたはずだ。俺自身言葉を交わしたこともあるし。
「あ……。まあ、そんな事、どうでも良いでしょ? それより今はその失踪事件の方の話よ」
瑞帆の両親の事は気になったが、今はそれどころではないのも確かだろう。
「ああ、話せよ」
「その、瑞帆のおじいさんもね、行方が知れないの」
「二人して蒸発か……。まさか」
「んー、どうだろう、その可能性は低いと思うな。あの子が自殺とか考えるの、ちょっと想像できないでっしょ? 遺書も家の中に無かったみたいだし」
俺が何を言いたかったか、察して即座に言葉が返ってくる。さすがに長い付き合いだ。
「じゃあ、瑞帆の家の経済事情は?」
「そこまでは、私も、あんまり良くは知らないけどね。でも、夜逃げするほど酷いって事も無いと思うわよ、あの子の家が借金してたなんて聞いたこと無いも の」
まあ、実家の酒屋さんでアルバイトしていて妙に顔の広い奈緒のことだ、その推測は多分間違いじゃないだろう。
「それでね、私瑞帆の家に行ってみたのよ、今朝早く。そうしたら、玄関の鍵掛かって無くてさ、声かけながら中入ってみたんだけど」
「それは、犯罪じゃないのか?」
「なに言ってんのよ、ちゃんと、声かけて入ったんだし、合法よ」
そうだろうか……。
「とにかく、中に入ってみたのよ。そしたら、確かに寂れてたけど、あれは、戻ってこないつもりの家じゃなかったわね」
「どうしてそんなことがわかるんだ?」
「だって、二階のベランダに洗濯物が干してあったもの」
「……それでどうして戻ってくることになるんだ?」
「少しは頭使いなさいよ。二階のベランダなんて、雨が降ってきたら取り込まなくちゃびしょぬれになっちゃうでしょうが。それに、そもそも戻ってくる気の無 い家に洗濯物なんて干しといてどうするのよ」
それは、そのとおりだ。
「頭良いな、奈緒」
「あんたが馬鹿なのよ」
そこで、奈緒は急にトーンを落として続けた。
「それとね……多分、瑞帆が書いたと思う、あんた宛の手紙を見つけたの」
「え……?」
「表に、芳澤斉様 裏に、桜井瑞帆って署名が入ってる。間違いなく、あの娘の字だよ」
「戻る」
「は?」
「戻るから持ってろ」
「ちょっ、ちょっと、こっち来るってこ…………」
奈緒がなにやら喚いていたけど無視して電源を切った。
勢いよく立ち上がると、ぐるりと部屋を見回した。


……
…………
とりあえず、身の回り品だけ、適当にバッグに詰め込んだ。まあ、実家に帰るわけだし、それほど必要なものはないから、時間は余りかからなかった。
自分自身の身支度の方も、必要最低限整えただけで時計を見た。
電車の時間はもうすぐだ。
バッグを持って、扉を出たところで、冷たい北風が俺の体に吹き付けた。
まるでそれが俺を行かせまいとしているかのように感じて、俺はふと、部屋の中を振り返った。
それはもちろん、俺の錯覚だったけれど、何も無いわけでもないことは良く分かっていた。ふと、少しだけ冷静になった気がした。
『デートしてくれませんか?』
そう言った時の遙ちゃんがこちらを見ていた。
潤んだ瞳で、どこか不安そうにこちらをうかがっている彼女の顔。
ずきりと胸が痛んだ。
俺は、どうするべきなんだろう。
瑞帆は、何を俺に伝えようとしていたのだろう。3年前のあの日、伝えてくれなかったことなのか。
瑞帆は俺に助けを求めていたのだろうか。
そして、たかが夢なのに、そのはずなのに、あの時助けてと俺を呼んだ声が耳を離れてくれない。
あれが、誰だったにしろ、それは、今ここにはいない声だと感じた。
だが、それでも今、俺は遙ちゃんと付き合っているのだ。
ここでこうして瑞帆のために動くことは、誠実と言えるんだろうか。
俺の中で決着をつけられぬまま終わった瑞帆との関係。
俺は――。


    *選択肢

    帰郷しない
    帰郷する



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