深い愛情のため、悲しみを顔に宿し、少女は彼の前に立っていた。
「……それじゃあ、あの妖魔がこの泉を教えたのは……そのためだったのか」
少女はゆっくりと一度だけうなずいた。
がっくりと崩れ落ちる彼を見て、少女はなおさらに悲しみを深めなければならなかった。
“この人は、私を愛すあまりに、まだ大切なことに気付いてない。……でもすべて私が悪いんだ。妖魔が言ったことは決して間違ってない。私が愚かだったんだ。……これを招いたのが私なら、すべて受け入れるしかない。私の生きる道はそれしかないから……”
「君には死ぬよりもひどい目に合わせてしまった。どうしたら詫びられる?」
少女は大きく首を振った。ぎこちなく微笑みを浮かべる。
「どうして詫びて貰わなければいけないんです? 感謝してます。ただ、一生お側に置いていただけたら……それだけで」
“感謝してる。その気持ちは嘘じゃない。私の為にかけてくれたその情熱がとても嬉しい。だからこそ、この人から離れちゃいけない。すべてが分かったときこの人は、自分一人で罪を被ろうとする。でも……それは間違ってる。罰を受けなければならないのは私だ。だから絶対について行こう。どんなに苦しくても、この人を見詰めて生きて行こう……”
「そんなこと、私から頼まなければ。君をそんな体にしてしまったのは、私の責任なんだから。……妖魔の血が君の体に流れているなんて……」
下を向いた彼を愛しくてたまらなくなってしまった少女は、抱き着くように彼の頭を胸に抱え込んでいた。
「いいえ。いいえ、グラナダ様……」
少女の背にも腕が回され、二人は強く抱き合った。
その後ろで、恐ろしい変化は起こっていた。命の泉に落ちた一滴のどす黒い血が、徐々にその色を広め始めていた……。
……古くから、人と妖魔は争っていたという。
いつから妖魔がこの世界に現れたのか、いつから争っているのかその歴史を知るものはすでにいない。それでも決して両種族は相入れる事はなかった。なぜなら妖魔の目的はこの世界の生命すべてを滅ぼすことだったからだ。
かつてそれを知った竜族は人間に味方することに決め、人間を一つにまとめるため王国を作った。これが後に聖王国と呼ばれるウィンフィアの誕生である。
こうして竜族の助けを借り、人間は各地で妖魔を相手に勝利を収めていった。
だが……妖魔の総てを生み出したと言われる魔竜は恐ろしいまでの力を持ち、無限の生命力を持つ竜族を散々に苦しめた。
それでも、永遠に尽きぬ竜族との戦いに魔竜はとうとう倒れた。
しかし竜族にもその体を滅することはできず、果ての地にそれを封印するのが精一杯だったと言う。
封印され動く事も出来ないまま、魔竜は妖魔を生み続け、中にはその封印を破り人間達に干渉するもの達もいた。
そのたびにウィンフィアは妖魔を駆逐して来た。
時が経ち、国自体は分裂したが今でも全世界の中心的国家と言える。ウィンフィアは竜族を神として崇め、聖王国として確立したのだ。
だがその栄えある王国に今、滅びの時が近付いていた。
「そんな……じゃあ、お兄様は……」
厳かに王はうなずいた。
「竜族は一体どうするでしょう?」
訊くエストの額には冷たい汗が流れていた。その場にある空気は凍りついたかと思うほど固い。
「無論、妖魔と戦うだろう。だが、我々とも敵対して来るだろう」
予期していても、恐ろしすぎる答えだった。竜族はウィンフィアに住む人にとっては日々、神とも崇めて来た相手なのだから。
「では、ウィンザーたちは?」
ショックに我を失ってばかりはいられない。エストは最も現実的な質問をした。
「彼とは既に話してある。我々と一緒に戦ってくれるそうだ。……たとえ相手が同族であろうとも」
ウィンザーとは王国の守護神として、人間たちと最も近いところにいた黄金竜たちの長である。
「……辛いですね」
エストの声は苦汁に溢れている。
黄金竜は他の竜よりも大きな力をもっている。しかし、絶対数が他の竜に比べて圧倒的に少ないのだ。
それに人間が戦わねばならぬのは竜族だけではない、妖魔もこの機に乗じて戦いを挑むだろうし、そしてなによりも自分達の心と戦わなければならない。
「……最後の手段がある」
自分の中の思考に落ち込んでいたエストは、王の一言に我にかえった。
「えっ?」
「オルデフィアムの魔導書を探せ。王宮の地下書庫に有るはずだ」
そう言うと、王は枕元の小棚から書庫の鍵を取り出した。
「オルデフィアムというと……『前世界』の 」
「そうだ。真の神々が存在したという、我々の前に有った世界の理想郷の名だ」
オルデフィアム――神々に滅ぼされたと言われる『前世界』で唯一残された都市。だが長い長い歴史の中で忘れ去られ、今では竜族ですらその正確な場所を知っていない。
「しかし……それは禁戒……」
「たわけ! 我が王国どころか、人類全体が滅ぶかも知れぬときに……」
王は咳き込み、エストは背中を撫でさする。落ち着くと王は目を閉じた。
「分かりました……。生き延びるためにできるだけの事は」
エストは自分の覚悟がまだまだ足らなかったことを思い知っていた。
「ああ……そうだ。もう……眠い」
エストは父に声をかけずに、静かに礼をすると扉を開けて出て行った。
その二日後カルトロ・ディム=エイセンが逝去した。エステリーカはその葬儀を事務的に行い、涙ひとつこぼさなかった……。
「何故だ、何故エステリーカ様は私に会って下さらぬのだ。せめて説明して下さっても良いものを……」
隣で酒杯を手にしていた髪の長い男が顔をしかめた。
「ガルディス……実はな」
手で顔を覆っていた男が驚いて見詰める。
「何か……知ってるのか! シグラムート」
立ち上がって、つかみかからんばかりの勢いに酒場の視線が一斉に向く。
「馬鹿、落ち着け」
シグラムートがガルディスを制し、再び座らせた。喧嘩にならなかったのを見ると、酒場の客は再び自分達の相手に向き直った。
「まだ、公には出来ない事なんだが……エステリーカ様は王位を継がれるんだよ」
「なっ 」
幼いころからの友人に、静かに首を振ってシグラムートは言った。
「嘘じゃない。2、3日中には公布されるはずだ」
「馬鹿な、それではグラナダ様はどうなる」
声が荒くなるガルディスを再び抑えながら、こともなげに言い放つ。
「どうにもならんさ。帰って来たら王兄として扱われるだろう」
「国が荒れるぞ」
「かもしれん。だがこの決定は変わらんよ。……だからお前が幾ら頑張っても、もう……」
ガルディスは友の声を遮るように酒杯をあおった。
「言うな。そうなったら、分かってるさ……もう俺だけのエステリーカにはなってくれないって事ぐらい」
下を向いて小刻みに震えるガルディスをじっとシグラムートは見詰めていた。
「くそ、何だかやけに酒の匂いが目に、染みる……ぜ」
友から視線を僅かにそらし、シグラムートも杯を軽く傾けた。
次の日、シグラムートはエステリーカに呼ばれた。
彼はエストの部屋の前で複雑な思いに心を悩ましていた。だが静かに決心すると衛兵に取り次いでくれるように頼んだ。
「お入りなさい。待っておりました」
入って来たシグラムートにエストは挨拶もさせずこう切り出した。
「あなたを呼んだのには二つあります。まずはこれをご覧なさい」
そう言って取り出したのは茶色の革で装丁された一冊の古めかしい本だった。
「これは?」
「あなたは、オルデフィアムというのを聞いた事がありますか?」
シグラムートは驚いて聞き返した。
「オルデフィアムですか? それは私も魔導の探求に身を費やす者ゆえ多少は知っておりますが……」
うなずくとエストは続けた。
「これがその有名なオルデフィアムの魔導書です」
シグラムートはその書を恐ろしいものでも見るように振り向いた。
「そ、それで私に何を……?」
声が自然と震えるのを止める事はできなかった。
「鬼才と呼ばれるあなたに、この本を極秘で解読して欲しいのです」
しばらくの間沈黙が部屋を支配する。業を煮やしたか、エストが付け加える。
「これは玉命です」
シグラムートはそこまで言われて慇懃に礼をした。
「つ、謹んでその役目、承ります」
ふ、とエストの表情が変わった。どこがどうとシグラムートには言い表せなかったが、柔らかくなったような気がした。
「もうひとつ、あなたに頼みたいことがあります。……ガルディスのことです……」
それはシグラムートも予想していた。何もないままではすませないだろうとは思っていた。
「私は、あの人に謝らなければなりません。そうでなくては、人の道理が通りません。けれども一介の兵士に、王が頭を下げることはあってはならないのです。たとえ……人の道理を曲げてでも、通さねばならない事があるものです……」
エストの面は意志よりも次第に感情に溢れてきた。シグラムートに顔を向けていられなくなり、横を向く。
「……ガルディスをどうか慰めてやってください……」
彼女はそれきり何も言わなかった。
「それだけですか……?」
エストの反応がショックだったシグラムートは、つい、そう聞き返してしまっていた。だが返事はなかった。
長い沈黙に退出すべきだろうかとシグラムートが考え始めたころ、彼女は彼に振り返った。
「これを……」
涙は流れていなかった。だが、瞳は揺れ輝いていた。
下唇をかみ締めて下を向き加減なのは、きっとそのせいだろう。
エストが差し出していたのは、シグラムートにはすぐには何だかわからなかった。
「これは……リューヌの、シュリの実ですか?」
シュリの樹はリューヌにしか生えていない。
その大きさは本来非常に小さく、人の膝までしか無いが、実をつけるのはその中でも何百年と生きた、人の背をはるかに越えた大きな樹だけなのだ。
エストはうなずいてそれを、シグラムートの手の中に押し込んだ。
「わたし……どうしても、お金をかけた贅沢なものでない……何かを送りたくて……本当は婚礼の日にそれを、渡したかったの。私の思いそのもののような、それを……」
シュリの実の首飾りに込められた意味を、シグラムートは理解した。
シグラムートとガルディスならばこそ……解るものだった。
エステリーカは幼いときには病気がちで、静養のためウィンフィアから離れてリューヌで暮らしていた。
リューヌはガルディスとシグラムートの故郷でもあった。
彼らはエストにとって、幼い頃の素晴らしい時を共に過ごした大事な人たちだった。
……シュリの実にはそんな彼らの思い出が詰まっていたのだ。
「自分で……屋敷を抜け出して取って来たの。渡せば……わかってくれるわよね、シグ」
問いかけるような瞳をエストはしていた。だが、シグラムートは答えを返さなかった。
彼女が本当は彼の返答を期待していないことがわかったからだ。彼の返事はエストにとってはどうでもいいことだったろうから。
エストは再び彼に背を向け、窓の外に目をやった。
「話すことはそれだけです……」
外に出ても彼はずっと、エストにシグと言われたのは本当に久しぶりだと考え続けていた。