2 変貌

 竜族は静かだった。
 まるで、彼らが人間を滅ぼそうと襲って来るなど、夢の話のように。
 だが、それを知る者たちの中でエストだけは、一時もそのことを疑っていなかった。
 即位すると同時に緊急会議を開き、重臣たちに情報を公開した。
 当然のように議会は混乱した。
 だが、二回、三回と重ねる内に、頭の固い重臣たちも取るべき道が一つしかないのはわかってきたようだった。
 そんなさなかだった。エストの兄グラン・アディストル=プラタが一人の美しい女性を連れて帰還したのは。
 だがそれは華々しい凱旋ではなかった。
 数多くの情報を得られる立場になっていたエストは兄の帰還を知り、真っ先にその事実を隠蔽することにした。
 かくして彼らは囚われの身も同然に、ウィンフィアまで連れて来られていた。
「どういうことだ。説明しろ、エスト。お前が王位に就いたのは聞いた。しかし、曲がりなりにも私はお前の兄だぞ。それを、囚人のように……」
 グラナダの怒りは声だけではなくその表情にもありありと現れていた。だが、つまらなそうにエストは彼を一瞥し、軽蔑の口調を隠そうともせず放った。
「何も、気付いてないのですね……。だからこそおめおめと戻って来れたのでしょうが……。まあ今更言ってもせんないこと。なぜそのような扱いをされるか、どうしても知りたければお連れの人にお訊きなさいませ」
 エストは目線をそうやって、青くなって縮こまっている少女に向けた。
「知らぬとは、言わせぬぞ。妖魔の娘よ」
 言われた少女よりもグラナダの変化の方が激しかった。
「エスト! お前は我が妻を侮辱するのか!」
 自分の言葉が何を意味するかも分からず、いきり立ってそう叫んだ。
「妻……? 馬鹿な、何を言っているのか分かっていられるか兄上よ」
 エストは心底驚いてそう言った。
 兄は人が変わってしまったようだと思い、それを成し得た少女の中に潜む妖魔に畏怖を覚えた。
「ああ、分かっている。だからこそお前の王位には反対すまい。……だが、今の言葉は許せんのだ!」
 あることに気付いて、エストは冷やかだった。
「それは誰の為にです?」
 その言葉で一瞬グラナダを封じ、続けた。
「兄上はお疲れになっているようだ。それに良く考えればもう夜も深い。明日の日の出も早いゆえ、今日は宮殿に泊まってゆっくり休まれよ」
 収まらないグラナダが声を出そうとした瞬間、初めて少女が動いてグラナダのマントをつかんだ。
 振り向いた彼の視界の中で彼女は目を細めて首を振っていた。
「女王様がそう言って下さっているのです。今日はそうしましょう。グラナダ様、私も疲れました」
 グラナダは息を整えてエストに向き直り、睨みつけた。
「お前は変わったな……」
「兄上こそ」
 そうして兄妹はお互いに見詰めあった。数瞬後グラナダが先に目をそらし、少女を連れて出て行った。
 エストの瞳は堅く握られた二人の手を悲しげに映し出していた。
 
「真実を知っても私を、あなた様の元に置いてくれると約束してくれますか? 聞いた後も、私を助けたことを後悔してないと誓ってもらえますか?」
 王宮の一室に案内された少女は二人きりになるのを待ってそう言った。
 グラナダには一瞬、何のことだか分からなかった。
 彼は、竜族の血までひくという王家の人間が妖魔の女性を連れてかえって来たので、エストがあれだけ冷やかだったのだと思っていたのだ。まさか、それ以外の理由があろうとは思ってもいなかった。
 答えないグラナダを見て少女が頭を振った。
「馬鹿な事を……訊きました。たとえ誓ってもらえなくてもお話ししなければいけなかった」
 グラナダは彼女の、胸を突く表情を見ると自分が無力だということを感じずにはいられなかった。
 それは、王子でありまたその他の能力でも飛び抜けていた彼だからこそ痛切に感じるものであったかもしれない。
“安心させる言葉ひとつ、私には思い浮かばんのか……”
 懊悩する彼には気付かず、玲瓏な口調で少女は語り出していた。
「……遥か昔。魔竜と竜族との戦いがあったとき、魔竜の力は竜族をすら圧倒していました」
 伝説の話。だが、事実だったと言う事はグラナダも王家の人間であるからよく知っていた。
「ですが、竜族には無限の生命があったのです。このことは後の世の誇張ではないのです。彼らは魔竜に何度となく致命傷を与えられたにも拘わらず、彼らは死にませんでした……」
 グラナダは少女の姿をはっとして見詰めた。どうして彼女がそんなことを知っているのだろう。
 この、まるで見て来たように語る少女は何者なのだろう。
「なぜなら、彼らは命の泉を自らの内につなげていたからです。……そのおかげで倒された魔竜は、その最後の地に縛り付けられることになりました。しかし、魔竜は滅ぼされた訳ではなかった……再び立ち上がり、この世を滅するために妖魔を生み続けました。そして、命の泉に対する策略も長きにわたって練り続けていたのです。最初は単に命の泉を破壊しようとしました。ですが、彼ら妖魔はこの世ならぬもの。この世界を滅ぼす為に他の世界からやって来たものたちです。命の泉は彼らには見付けることができても、入ることは適いませんでした……」
 少女がようよう息を入れてグラナダを見遣ると、彼は恐ろしいほど真剣な眼差しで彼女を見ていた。
 すぐにその意味するところを悟った少女は、胸に微かな痛みを覚えながらも僅かに口元を緩ませた。
「私の中に住む、妖魔が教えてくれたんです。命の泉で、一つの命に溶けこんだ……私の半身ですから」
 少女は彼の反応を見定めようとはしなかった。
 一種の諦めともつかぬ思いが少女にあったからだ。
「命の泉ですが……彼らはこの地に入り込むために私達を利用したのです。そう……彼ら自身では入り込むことのできない魂の庭園に連れ込んで貰うために、あなたにその場所を教えたのです。彼らは命の泉に毒――彼ら自身の血ですが――を流し込みました。大半の竜族は、すぐに異変に気付き、自分の中にある命の泉を閉じることができました。しかし、既に帰らぬものとなったのも確実にいるはずです。また、竜族はその力に頼り過ぎていました。今では彼らはそれがなければ自分の命を支えていることすらできないのです。遅かれ早かれ、竜族は滅亡するでしょう。竜族も妖魔もこのことを知っています。そして、あなたが……そうしたと、いうことも……」
 彼の頭に、初めて自分がやった事の重大さが染みた。呆然と、小さくつぶやく。
「なんて……ことだ」
 少女はきっぱりとそんな彼に向かって言った。
「私はずっとあなたのそばについて行きます」
 すべてを決めた彼女の瞳は澄んでいた。
 
 白い人魚のレリーフのある小さなテラスで、エストは黙って闇を見詰めていた。
 だが、正確にはエストは闇を見詰めてはいなかった。
 彼女には遥か遠くの、光を受けて輝く美しい丘が見えていた。
 だが室内の明かりに照らされるその面差しは、まだ女王のものであった。
 一瞬、エストの顔が曇り、彼女は身を翻した。
 だが、室内に向けて進めようとした足を降ろす事なく、エストは凍り付いてしまった。
「お静かに……」
 その声には確かに聞き覚えがあった。
 エストは声に向き直って話しかけようとして……。
 だが、彼女は指一本動かすことも、声を出すどころか息をすることさえできなかった。
 そこには彼女の身を金縛りにするほどの、濃密な気配があった。
「お静かに、と言う必要はなかったかしら……」
 闇の中にふわりと浮かび上がった少女はテラスを越え、エストの顔を覗き込んだ。
“やはり……兄様をたぶらかした娘”
 少女は笑っていた。
 さっきまでの少女にふさわしい、ささやかな笑みではない。どぎつい感じさえする、華やかな笑みだった。
 その瞳に宿る光を見て、エストは実際何者がやって来たのか悟った。
“妖魔、これがこの娘に取り付いた妖魔なのね”
「ご名答、お礼に息だけはできるようにしてあげる」
 その言葉どおり少しだけ束縛が弱くなった。エストは震えながらも再び呼吸を開始していた。
 だが、話そうとしても舌は痺れたように動いてくれなかった。
 少女は人差し指を静かに口に当て、にたりと笑った。
「話す必要はありませんわ、女王様。心に思っていただけるだけで」
 少女は馬鹿にしたように敬語を使った。
「余り騒がしくされると困りますから」
 かっと頭に血が昇る。エストは心の声に怒りを込めつつ言った。
“気色の悪い。妖魔のくせに女のような話し方をするな”
 それを読むと声を殺して少女が微かに笑った。
“何がおかしい”
「いえいえ、あなたの方こそ男のような。それよりも私のことについてもう少しお話しすべきですわね」
 羞恥が沸き上がったがそれも瞬間の事。
 心を静めて、エストは妖魔が話し出すのを待った。
「私の名はギュノスと言いました。あなたの兄に魂の庭園の場所を教え、死んでいたこの娘の中に入り込み命の泉で我らの血を滴らせたのです。知っての通り、これは大変重要な計画でした。だからギュノスはかなり高位の妖魔だったのです」
 まるで、自分がそのギュノスではないような言い方に、エストは混乱する。
 しかし、妖魔はそんな彼女に何も気付かぬように先を続けた。
「しかしそれは絶対に成功させるためではありませんでした。なぜなら魂の庭園の結界は強力な妖魔ほど通るのが危険だったからなの。なら、どうしてだか分かる? そう、もうひとつ目的があったからよ」
 敬語を使うのが面倒臭くなったのか、もう妖魔は敬語を使おうとはしなかった。
「答えは、私よ。あなたもさっきから疑っている、私の正体がね。でもそう言ってもきっと分からないでしょうね。何しろ人間の伝承では……ええと、何と言ったかしらね」
 少女はその自分の容姿に合わせた様に可愛らしいそぶりで考えている事をアピールする。
「そうそう……闇そのものをまとうように、輝くことの決してない肌、そしてその中で不気味に輝く血の色をした瞳。体は小さな町ぐらいはあるかと見え、背には天を覆い隠さんばかりの翼がある。口を開ければ暗黒の瘴気がほとばしり、地を腐らせる。猛れば空が震えたという。その姿は竜に酷似し、人々は恐れて『魔竜』と呼んだ……」
 !
 エストは話すことができぬのも忘れ、口を開く。
 恐慌がエストの中に沸き起こって来る。
「落ち着きなさい」
 少女がすっと目を細めた。エストはぎくりとする。
 そして、その瞬間エストは『呑まれて』しまっていた。
「話がまだ途中。気が狂ってもらっちゃ、おもしろくないでしょう?」
 問いかけるようなその声にエストは心の中で“ええ、ええ”と同意をすることしかできなかった。
 恐怖は溢れなかったが、エストの心に残って畏怖という形で彼女を縛り付けていた。
「勝手な伝承ね。あなたは女のようなと言ったけど、当然でしょう。私は女なのだから。信じられない? 気持ちは分かるけれど癪に障るわ。私も女だから、自分の美しさには少々の自負があるもの」
 少しの怒りが刃となってエストを刺し貫く。だが、痛みさえ感じるその思念はすぐに消え、『魔竜』は楽しそうに微笑んだ。
「くすくす、そうね……本当の姿を見せてあげる、女王エステリーカ」
 少女の面差しが少しずつ変わり始めた。
 なよやかな手足は鋭く洗練されて行く。髪は漆黒に色合いを変え、つややかに輝く。
 エストは思わず息を飲んでいた。
 恐怖はもう微塵も心の中になかった。あるのは美しさに対する感動だけだった。
 エストは思わず両膝をつき、神に対してするように手を胸の前で握り締めていた。
 だが、『魔竜』は震えていた。回りの空気の質まで変えてしまうほど、『魔竜』の姿は神々しかった。
 それなのに『魔竜』は吐き捨てた。
「まだ違う。また、宿り主に影響されてしまった。この姿は本当の私じゃない……」
 確かによく見れば、それはあの少女の姿だった。どんなに美しくなっていても、それはあの少女だった。
 『魔竜』が嘆くと途端に元の姿に戻っていた。
 だが、そうしたことで逆に『魔竜』は立ち直っていた。
「さて、エステリーカ。私がここに来たのはこんな無駄話をするためじゃないわ。今の所この娘が眠っている間だけ、私が出て来ることにしているから、あまり長くはいられないのよ」
 エストも次第に精神の硬直がほぐれつつあった。
“それでは、一体何の御用ですか?”
「私達と共闘しない?」
 エストにはその真意が読み切れなかった。
 圧倒的優位に立つはずの彼らがなぜ人間と共闘したい等と言い出すのか。
 それに『魔竜』まで復活しているというのに。
「私達が共闘すれば竜族は敵ではないわ。それとね、私は邪悪ではないわよ。遠い遠い昔……私もただの人間だったのだから」
 本当に遠くを見るような目付きだった。
“でも、あなたは世界を滅ぼすつもりなのでしょう”
 急に『魔竜』は笑い出した。
「そうね。確かにそうだけど……私の本当の目的はそこにないもの。私は、世界に復讐したいだけ。ただ、それだけよ」
 なにか狂気めいたものをその笑いに感じ取り、ぞっと悪寒がエストの背を走った。
“で、でもそれではやはり世界は滅びるのじゃ……”
「そうでもないわ。私は歪められてしまった。世界を歪めてやれればそれでいいの。来るべき運命を変え、世界を混沌と化せば……」 またも震えがエストには感じられた。
“そ、そんな事に協力はできないわ”
「狂っていると思っているわね。そうよ、それは正しいわ。でもこのままではどちらにせよこの世界は滅びるのよ。歪んでも生き残れれば、良いことじゃない?」
 甘く誘うような響きがあった。
 一瞬頭の中でエストはそのことを考えてしまい、瞬時に後悔しその考えを捨てる。
“だ、駄目です。あなたたちと共闘する事はできません”
 『魔竜』は軽く眉をひそめた。
「愚かな判断ね。私がして欲しいことはたった一つ。魔剣ジルギールを私達に譲ってくれればいいの」
“ジルギール?”
「そう、確かこの世界ではその名で呼ばれていたはず。それを手にする権利を譲って欲しいのよ」
 エストにも聞いた事のない名だった。
“迂闊な事は答えられないわ。それに妖魔と私達は取引する気はありません”
「馬鹿な娘。断っても無駄なのに……」
 『魔竜』の瞳が細められた。
 恐怖がエストの体をかけのぼって来る。『魔竜』に取り付かれた少女の口が恐ろしいほど大きく開かれる。そこから覗く妖魔特有の鋭い牙がきらりと光った。
“助けて! ガルディス!”
 もう、彼女は女王などではなかった。ほとんど、気が狂わなかったのが不思議なくらいだった。
 つっ……と彼女の首筋から赤いものが伝った。
「ふふ、もうすぐこの世界も滅びる。最高の演出をしてあげるわ。うふふっ、ふふふふふ」
 ランプの明かりが照らす室内で、そう言って笑ったのは、紛うことなきエステリーカだった。
 
 街路の落ち葉を、早朝の冷たい風が吹き散らして行く。
 その中を旅装姿の男女が歩いていく。
 女性が隣にいる男性を眺めて下を向き悲しそうに下唇を噛んだ。
 男はマントを広げ、その中へと少女をくるみこむ。一度寒そうに震えて少女は男を見上げる。
「グラナダ様……」
 口から漏れた言葉を打ち消すようにグラナダが首を振った。
「私はここにいるべきではない人間なのだ。……悲しむ必要はない。私は後悔してはいないから。本当は君といるべきではない、と思った。私が幸せになるのは、間違っているから。でもその考えも愚かだったと、君に諭された」
 マントの下で少女を抱き締める腕に力を込めつつ、グラナダはそう笑みを作った。
「ありがとうございます。私の為なんですね……」
 少女は抱き締められて、胸の中まで締め付けられるようで、ほろりと涙がこぼれてしまう。
「ああ、いや、私の為でもあるんだ。君を失った後のことはもう、思い出したくもない。私は……君のために生きたい」
 はっと口を押えた少女の、その手を静かにどけさせてグラナダは軽いキスをした。
「さあ、行こう」
 二人は連れ添って歩いて行き、影に隠れて町の外へと出て行った。 少女が微かに振り返る。
「女王様……おかわいそう」
 そして突風が二人を包むマントを揺らし、グラナダは驚いて空を見上げた。
「あれは――」
 思わずつぶやきが漏れた。
 その黒い点は次第にウィンフィアへと近付き、果てが無いように広がっていった。
 
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