3 竜族来襲

 頭が痛かった。体が重い。
 ――!
 何だろう、この匂いは。
 吐き気がして、エストは身を起こすけれどまだ、彼女には状況がよく分からなかった。
 朝日はまだ昇っていない。エストは微かな月明かりの差し込む部屋の中を見回す。
 趣味の悪い部屋だ。
 そう思った。
 部屋全体を真っ赤に塗りたくっているなんて。それにこの匂い、強くはないが何か生理的に受け付けない匂いだ。
 再び吐き気を催し、手を口に回す。その手にぬるりとした、いやな感触があった。
「あ……?」
 一瞬ほうけていたエストは、次の瞬間完全に目が覚めていた。
 そして今度は吐き気を堪えることができなかった。
 閨紙に、堪えていたものをすべて吐き出す。
 そしてそこに見たものは一層彼女の戦慄を深くした。嘔吐物は部屋と同じ赤に彩られていた。
 おそらくは彼女が飲み下した、血の赤で。
 そしてエストは昨日のすべてを思い出していた。
 自分が魔竜に乗っ取られるまでと、侍女を呼び入れ、歓喜してなぶり殺し、その血を啜ったことを。
 その歓喜に浸ってエストは眠りについた……。
 もう、吐く物もないのに胃袋は収斂を繰り返し、エストは血だらけのシーツを握り締める。
 そのシーツに周りよりも薄い染みがぽつぽつっとできていく。
「こんな……」
 これでは兄よりひどい。まだ、兄の方が救いがある。エストにはそう思えた。
 実際にはそうとは言いきれないけれど。
 それでもエストはまだ女王としての顔を捨てるわけにはいかなかった。
 次第に落ち着きを取り戻して行ける自分に、寒気がしていた。
「でも、どうすれば、どうすれば良い?」
 どうすればこの場をごまかせるのか。幸い、エストは部屋のすぐ外に護衛を配していなかった。
 だから、死んだ侍女がこの部屋に来たことを知っている者はいない。
 それと、破壊しつくされた娘の体は、肉片ひとつ残っていなかったのも幸運と言える。
 とはいえ、これだけ大量の血を消し去ることはできない。考えていたエストの胃がまた縮まる。
 気持ち悪さに押され、身だけでもその匂いから逃げたくて、エストは新しい服に着替えた。
 顔や体に付着したものも拭えるだけ拭った。
 そうしてから、エストは一つだけ証拠を消し去る方法を考えついた。焼却することである。
 多分、宮殿ごと灰にする事になるだろう。いざとなればそれしかない、とエストは腹に決めた。
 そしてエストが蝋燭の火を豪奢なカーテンに近付けたときだった。
 仄かに明るくなってきた空が影に覆われ、すさまじい音を立てて部屋が破壊されていた。
 瓦礫と化した壁の外からぞっとするような赤い濁り切った目がこちらを見据えていた。
 竜! その正体に気付いたエストは、逃げるのも忘れ、たたずんでいた。
 吐く息が微かに部屋を焦がす。爪を大きく振り上げ、もう一度竜はエストを見詰めた。……今度は悲しげに。
 そして血が飛び散り、部屋を更に染め直した。
 
 シグラムートは、夜のうちからガルディスの家にやって来ていた。
 それはどうしても彼に教えたいことがあったからだった。
 本来なら、エストに真っ先に報告すべき事だった。だが、どうしてもこの実直な友人に一番に教えてやりたかった。
 一晩は竜族との戦争が迫っていることをガルディスに説明するのに費やされ、そして、やっと彼の成果に話が進んだ。
「いいか、読むぞ。『……世界には一つだけ剣が存在している。それは数多くの世界をつなぎとめるもの、すべての世界の中心に位置するものだ。その剣はつなぎ止める世界と同様、多くの名を持つ。純白なるべしもの、ジルギール、創世の剣、破世の剣、……。その力は神を圧し、魔を滅す。人が欲するには過ぎたもの。されど神も魔も手にはできぬ。剣は人にこそふさわしいもの……』」
 続きがあるのかと見守ったガルディスに、シグラムートは肩を竦めた。
「それだけなのか?」
 あからさまに不信の表情を見せて、ガルディスがシグラムートを見遣った。
「確かにこれだけじゃ良くわからんが、この本はオルデフィアムの魔法書なんだ。嘘ではないはずだ」
 ガルディスはうなずく。
「よし、そのオルデフィアムとやらがなんだかは知らんが、百歩譲って本当だとしよう。だがそれで、どうやったら見付けられるって言うんだ?」
 あらかじめその質問が来るのを予期していたようにシグラムートは不敵に笑った。
「大丈夫だ。この世界の中心となる場所。その地名は分かっているのだから」
「どこだ? ウィンフィアか?」
 シグラムートは友の単純な発想に頭を抱える。
「あのなあ、都にあってどうして誰も気付かないんだよ。オルデフィアムだよ、オルデフィアム。まあこの都市も、どこにあるのかこれまで謎とされてきたけど。やっとそこの部分も解読できたんだ」
 得意満面に表すシグラムートを、ガルディスは他人事のように眺めていた。
 ガルディスはまだ、気持ちを整理できていなかった。彼は諦めるというのが何より嫌いだったから。
 だから、無理だと理解っていながらエステリーカを諦められなかった。
 いや、彼女だけは諦められるはずがなかった。
 ふと視線を落としたガルディスにシュリの首飾りが目に入った。
「なあ、シグ。覚えているか? お前がエストに告白されたときのこと」
 いきなりの話にシグラムートは戸惑い、ガルディスを見遣る。
「覚えてる。エストは俺のことが好きだって、そう言った。最初は何の冗談かとも思った。けど、エストは本気だった。だけど俺は彼女がその言葉と一緒に差し出した……それと全く同じだったな……シュリの実の首飾りを受け取らなかった」
 ガルディスは顔を上げた。
「シグ、本当はお前も好きだったんじゃないのか。お前は勘の鋭い奴だからな。俺があのころからエストの事を好きだったのに気付いていて、断ったんだな」
 シグラムートは思わず同様を顔に出してしまってから公開する。
 しかしいつの間にそんなことに気づいたんだろう。
 エストを失うと言う苦しみが彼の考察を深くさせたに違いない。
 だが、そこには親友の素晴らしい明るさがなかった。単純であるがゆえに細かいことを気にしない……そんな彼らしさが感じられなかった。
「あのとき、エストは俺に泣きついて来たっけ。馬鹿だったからな俺は。いきなり、飛んで行ってお前を殴りつけた。悪かったな。俺には何もわからなかったんだ……」
 次第にガルディスの言葉は自虐に彩られて行く。シグラムートはそんな親友の姿が許せなかった。
「おい、何が言いたいんだ。ガルディス、いいじゃないか、それがお前だろう?」
 ガルディスは押し黙ったまま答えない。
「……エストがお前のどこに本当に惚れたのか、考えてみろよ」
 そう言ってシグラムートはうなだれているガルディスを残して家を出た。
「ち、なんでこんな事になってしまったんだ? 俺はようやくあいつが幸せになってくれると喜んでいたのに……」
 微かに現れ出た太陽が地平を照らし始めていた。
 そして、その光が顔を上げたシグラムートの目にはっきりと幾つもの恐ろしい影を映し出した。
「これは……ガルディス!」
 再びシグラムートはガルディスの家に飛び込んでいた。
 
 グラナダはマントを外し、その中に少女を残したままにすると竜の元へ走った。後ろから少女の声がするが、グラナダは聞いていなかった。
「竜よ、命の泉を台なしにしたのはこの俺だ! かかって来い!」
 叫ぶと竜の動きに変化が現れた。空を舞う五匹の内、三匹までがグラナダに向かって来た。
「ミオボエガアル、ウィンフィアノオウジヨ。ワレラハソナタノセイデシニユクノダ。マズハソナタノチデアガナッテモラオウ」
 大気を震わせる声が響き、思わずグラナダは息を飲む。
 残る二匹を何とかせねばと心は焦るが、グラナダとてこれが精一杯だ。
 竜を相手にする――その闘いがどれほど辛い事なのか彼にだってわかっていたから。
 竜が下降と共に炎を吐く。
 グラナダは間一髪あぶられるぐらいですんだが、竜は再び上昇して行ってしまった。
“まずい、空が飛べない私にはあの攻撃を防げない”
 グラナダと竜の戦いは一方的になりつつあった。
 その間も残る二匹はウィンフィアへと飛んで行く。竜の連携を辛うじてかわしているグラナダが、焦りに足を滑らす。
 その瞬間を狙ったように竜の一匹がグラナダに襲い掛かる。
 だが、少女の悲鳴が響いた後で、グラナダは悠然と立ち上がっていた。
 引き裂こうとした竜の腕をすっぱりと断ち割り、その目に向けて二本の短剣を矢継ぎ早に放つ。
 逃げようとした竜は両目を潰され、空を飛べずに地に落ちた。
 即座にそこへ馬乗りになったグラナダは首を一刀両断にたたき落とす。
 すべてはほんの数秒の事だった。
 だが終わったわけではない。もう二度とこの手は使えない。まだ二匹もの竜がグラナダを狙い続けているのだ。剣はぼろぼろになっていた。短剣を引き抜く暇もなかった。体力も長くは持ちそうにない。精神だけが、燃えるように昂揚していた。
“ここで、死ぬか……”
 心地よさと共にそう思ったとき、竜の片方がバランスを崩した。
 罠かとグラナダが警戒したがどうやらそうではないようだった。
 翼が引き千切られたようにずたずたになっていた。
「落ちよ!」
 その言葉がとどめになったように、地響きをたてて竜は落ちた。
 そして、風のように走って来た男が竜の額に剣を突き込む。
「ガルディス!」
 グラナダは思わず叫んでいた。
 ガルディスと初めて会ったのはエストに会いに行ったときだった。
 そして二度目は王宮での武闘大会の時。
 そのときは結局はグラナダが優勝したが、あれは試合でしかなかった。
 強者であるグラナダには剣を合わせたガルディスの技の本質が良くわかっていた。
 それは、実戦でこそ力を発揮するものであり、もう一度実戦で戦えばまずグラナダは負けただろうと言う事が。
「グラナダ様」
 ガルディスも驚いた様子だ。
 だが、再会を喜んでいる暇はなかった。それにグラナダにはガルディスに対する強い負い目があった。
 もちろん、エストを彼の元から取り上げてしまったことだった。
“あのときは妹に心強いナイトが現れたものだと思ったが……”
「町に行った竜を! エストが危ない」
 だからそう叫んだのは決して、肉親を、国を思いやる気持ちからだけではなかった。
 エストが危ない。その言葉を聞いた瞬間ガルディスはもう何も耳に入らない。
 ただエストを助けるのだ、という思いでいっぱいになってしまっていた。
 走り出したガルディスに、やっと追い付いて来たシグラムートが呪文を唱えた。ガルディスの姿は消え、グラナダは彼が王宮に転移させられたのを知った。
 シグラムートがにやりと笑って言った。
「あと一匹。さっさと倒しましょう」
 仲間を倒されて怒り狂った竜が天で吼えていた。
 
 硬直していたエストはガルディスに抱き締められるまで、何が起こったのか分からなかった。
 体中に黄金色に輝く竜の赤い血が飛び散っていた。
 竜の背中から翼と前腕部が切り落とされていた。
 おびただしい血液が飛び散ったため、部屋がもともと血まみれだったことは誰にも分からなくなっていた。
 だが、そんなことより、ガルディスに抱き締められていることがエストの心を占めていた。
 こんな状況だというのに、胸が高鳴ってこれまでの決意など微塵に吹き飛んでしまった。
 助けに来てくれた。そう思ってしまうと、心は歯止めがきかなかった。
“いつも、苦しいときにはこの人がそばにいてくれた……そして、今も助けにきてくれた”
 けれど涙が溢れそうになったとき、ガルディスは抱擁を解き背中に隠すような形で竜に向き直った。
 竜は苦しんでいたがまだ生きていた。その竜が大きく息を吸い込む。
 ガルディスは避ける気は毛頭なかった。後ろにエストがいる以上はなにが起こってもこの前からどく気はなかった。
 ただ、そのままむざむざとやられるものでもなかった。
 竜が吸い込んだ息を吐く前に、その開いた口に神技の如く剣が突き立っていた。
 次の瞬間炎の息が吐き出されたが、それは崩れ落ちた竜の口から天へ向かって放たれた。
 緊張を解いたエストは思わず駆け寄ってガルディスを抱き締めようとして。
 けれど……。
「女王様……。お願いがございます」
 頭を鉄の棒で殴られたようなショックだった。
 そうなのだ、私は女王なのだ。
 自分で言い聞かせるその言葉が空しく、自分の心から流れ出す血が見えるようだった。
「……なんですか?」
 聞きながら絶望にも近い悲しみを必死で堪えて彼女はそう尋ねる。
 ひざまずいていたガルディスが顔を上げた。
「私に、ジルギールの探索を御命じ下さい。玉命あらば、必ずや御前に」
 拡散していた意識が、戦慄をもって集約する。
 ジルギール、このときまだエストはその正体を知らなかった。
 ただ魔竜が求めるものとして認識していたものだ。
 ガルディスはそうとは知らず、すでにシグラムートが報告済みだと思っていたのである。
「ジ、ジルギール? ガルディス、その名をどこで?」
 ガルディスもようやく自分が性急だったと気付き、言い添える。
「いえ、単なる伝承にございますが。ただ、友もその信憑性は高いものだと保証してくれました。その剣さえ手に入れば、現在の状況を打開することもできるかと。神をも魔をも、滅する事のできるという剣なれば」
 ガルディスとしてはシグラムートに迷惑をかけたくなかったのだが、エストには彼の言葉ですべてが悟れてしまった。
「友、というのはシグラムートのことですね。彼の言うことなら確かに試すだけの価値はあるでしょう。……分かりました。騎士、ガルディス=フォルスキン、魔剣ジルギールを捜しだし、必ずや我が前に戻って来よ」
「承知致しました」
 そうガルディスが頭を下げたとき、瓦礫と化した壁を踏み越えて金髪の青年が現れた。
「女王よ、残りの竜は私が方をつけた」
 驚くべき事をさらりと言う男にエストは頷いて見せる。
「ありがとうウィンザー。仕事をしてくれたばかりで悪いのだけどあなたも彼に協力してやって下さい」
 ウィンザーは不思議そうにエストを見遣ったが、『女王』の言葉に静かにうなずいた。
 ウィンザーは黄金竜ではあるが、普段はウィンフィアにいるために人間の姿を取ることにしている。
 エストの前にもいつもその姿しか見せたことはなかった。
 その姿では彼らの力は大きく減じられる。それが幸いしたと言えるのだろう。
 彼はエストに妙な何かを感じたようではあったが、魔竜が身に潜んでいる事には気付かなかったのだから。
“彼を遠ざけられるのは、願ってもないチャンスだわ”
「ジルギール……」
 去り際にウィンザーはそう一言漏らした。だがエストの耳には届いていなかった。
“ああ、すべて妖魔の、魔竜の思いどおりに話が進んでいる。彼らの謀略で私達はどんどん身動きが取れなくなっていってしまう……それでも、私達はそうせざるを得ない。希望にすがって、落とし穴にはまっていく……”
 エストは恐ろしさに震える自分の体をそっと抱き締めた。
 
「そうですか。あなただったのですか……グラナダ様」
 シグラムートは戦い終えたグラナダから、すべてを聞き出していた。
 グラナダは諦めの微笑みを浮かべ、やや強く言った。
「様付けで呼ぶな、私は大罪人だぞ。ましてやガルディスには顔向けできぬ。お前にもな」
 マントの下で少女がグラナダの袖を静かに引き寄せる。
 グラナダは厳しくなった表情をほころばせ、分かってると言わんばかりに優しく少女に笑いかけた。
「殺したいなら、やってくれ。だが、私は抵抗させてもらうぞ。いま死ぬ訳にはいかないからな」
 シグラムートは目をつむって首を振る。
「くだらない感傷ですね。今は非常時です。生き残ることに全力を尽くすべきでしょう」
 真剣にグラナダも頷く。
 竜を倒した二人だが、最後の一匹に竜の強さを再確認させられていた。
 一匹目も二匹目も、不意を突いた形になったからこそ倒せたのだと。
 正攻法に戦うと竜の強さは比類なかった。シグラムートが繰り出す風の刃はすべて炎の息の中に溶け去り、グラナダの剣は届かなかった。
 結局、二人で捨身にならざるを得ず、グラナダの剣は溶け崩れ、シグラムートの服には黒い大穴があいていた。 それも二人がかりで、一流の戦士と一流の魔術師の連携があってである。
「ですが王としてエストは、いえエステリーカ女王はあなたを許す訳には行かないでしょうね」
「だから、朝早くに逃げ出すのだ。シグラムート」
 シグラムートにグラナダは笑みを見せた。
「あなたの旅は危険なものでしょう。御気を付けて」
 そんなことを言うつもりはなかったが、そのグラナダの笑みがシグラムートに言わしめた。
「エストを、頼むな。こんなことになってしまったが、私は私なりに、あいつのことを愛していたのだ」
 静かにシグラムートはグラナダを見詰め返す。
「グラナダ様。長くはありませんでしたが、知りあえて光栄でした……。エステリーカ女王なら心配は要りません。私達忠臣も、そして何よりガルディスが堅くお守りするでしょう」
「そうか、ありがとう」
 二人はがっちりと握手を交わした。
 
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