5懊悩

「あなたは私の支配下にある」
“誰が、このまま屈するものですか……”
 ふと彼女は眉をひそめる。
「愚かなことを。私があなた程度の力で押え込めると思っているの?」
“思っているわ。それに、たとえ無理でもやらなくちゃいけないんだわ。あなたが何を考えているか分からないけど、決してこのままにはさせないわ……”
 そんな必死の抵抗を彼女はせせら笑う。
「声の調子が随分と弱々しくなったじゃない。あなたじゃ私に勝てないわ」
 ここでふいと優しい声で魔竜は懐柔しにかかる。
「それより、ねえエスト。考えてもみて? 私はジルギールが欲しいだけなの。それさえ貰えればあなたの体から出て行ってあげるわ。たかが剣一振りじゃない。それに、何なら竜族を打ち倒してやってもいいと言ってるのよ。勿論その後も私達は人間に手を出したりしないわ。ね? 願ったり叶ったりじゃない」
“冗談じゃないわ。シグラムートからジルギールがどれだけ恐ろしい剣か聞いたわ。それに、あなたは信用できない。たとえ、私があなたにジルギールを差し出したとしても、あなたはきっと約束を守ってはくれないわ”
 次第に魔竜の表情に、明らかに不機嫌を表すものが上って来る。
「反対できるものだと思っているの? ……少々の愚かさはかわいいものだけど、度が過ぎると頭にくるわ。私がこのままガルディスからジルギールを受け取ってしまえば同じことなのよ。ただ、あなたの確認が欲しいだけなのよ」
 エストは心の中で泣きそうになりながら――魔竜がかけて来る重圧はエストを絶望させるには十分だった――それでも、最後の何かが諾とは言わせなかった。
「いいかげんにしなさい。あなたはもう人間じゃあないのよ。私の血を受けた妖魔なのだから。二度と人としては生きられないのよ」
 それは既に思い知っていた。
 今は宮殿の中に誰もいない。エスト自身が夜の間は誰も入れないように宮殿を閉ざすように命令したからだ。
 それは、夜になると人の血を啜りたいという欲望に勝てなくなるからだ。
 魔竜が出て来なくても、エストは血が欲しくて欲しくて閉ざされた扉に爪を立てるのだ。
“それでも、それでも。……いいえ、私がたとえ何であろうとも関係無いわ。私がやらなくてはならないことは決まっているからよ。人間を、必ず生き延びさせる。させてみせるわ、絶対に!”
 血反吐をはくような叫びだった。気圧されたのか、魔竜が息を飲んだ。
「なぜ、そこまでこだわるの?」
 そう言った魔竜の言葉には不思議といたわりが込められていた。
 だがエストは押し込められた心の底で首を振る。エスト自身にさえ、その強い気持ちがどこから来るのか説明ができなかった。
 だが、彼女は理解はしていた。
 エストは選んだのだから、ガルディスへの愛よりも、女王となって人を救う道を。
 だからこそ、ガルディスへの強い愛情よりも、もっともっとその意志は強くなければいけないのだと。
 もしここでエストが屈すればそれは、ガルディスへの思いもその程度だということなのだから。
 きっとそれだけはエストにとって耐えられないことに違いなかった。
 エストがエストである為の、それが最後の障壁なのだ。
 そんなエリスの心の中を魔竜は理解したのかもしれない。
「かわいそうな人。けれど所詮人は運命という傀儡師には勝てないの」
 そう言うと圧倒的な力で魔竜はエストの意識を消し去った。
「運命というのは、力よ。歪んで狂っている。……エスト。あなたにとっては私がそうなのだわね」
 魔竜は悲しそうに瞳を陰らせると、誰一人いない宮殿の闇に消えて行った。
 
「あんたがクロノ・ドラゴンか」
 ガルディスは目の前に現れたその姿に度肝を抜かれていた。
 それは五つ首を持つドラゴンだった。
 体の大きさではウィンザーに負けるものの、その貫禄でクロノ・ドラゴンの方が上だった。
「妖精よ。今の世はそなたたちがこの世界から離れることに決めた昔より、更に悪い。平和な世界にできぬこと、本当に済まぬな。また時の先へ行って待っていてくれ。その時こそは、平和な世になっているはず」
 一度はガルディスに目をやったが、すぐに彼は妖精の女王に向かってそう言った。
「いいえ、私達が生き延びることができるのもクロノ・ドラゴン様のおかげ。私達はそれで十分です」
 妖精の女王はそう言って少し頭を垂れる。
「おかしなものだな、個々の妖精は礼儀の礼の字も知らんというのに、その集合体であるそなたはまるで別物のようだ」
「私は、それだけではありませんから……。あっ、それよりお頼みしたいことがあるのです」
 クロノ・ドラゴンは自分を見詰めるガルディスに目を向ける。
「このガルディスとか言う人間の若者を、オルデフィアムに連れて言って欲しいということか?」
 女王は明るく「はい」と答えた。
 だがクロノ・ドラゴンは五本ある首を、うねらせて、ガルディスを睨む。
 ガルディスもいきなり睨まれてたじろぐが、すぐにクロノ・ドラゴンを真っすぐに見詰め返す。
「良い度胸をした人間だ。だが、この男の目的はジルギールだぞ」
 女王は驚いてガルディスの顔を覗き込む。
「それは、本当ですか。なぜ、あんなものを……」
 その問いにはクロノ・ドラゴンが答えた。
「それだけ人間にとっては、いや竜族もだが、どうにもならない状況に来ているのだ。そして、妖魔だけが蘇った女王を奉じて着々と勢力を伸ばしつつある」
 女王は正に消えてしまいそうに薄れ、ガルディスは途中で妙な顔をする。
「ちょっと待ってくれるか。妖魔の女王って何のことだ?」
「なんだ、人間はそんなことも忘れてしまったのか? 妖魔を束ねるものは魔竜しかいないではないか」
「そりゃそうだ。だが、魔竜が蘇ったなんて話は聞いてないし、何で女王なんだ?」
 クロノ・ドラゴンは、彼ほどの知能をもっても今ここでガルディスに全てを理解させるのは、非常に厄介だと判断したらしい。
 瞬時困った顔を五本の首が一斉に浮かべたが、すぐにそれは消えた。
「蘇っているのだ魔竜は。おまえ達の知らぬ所で。そして、もう一つの事は信じられぬかもしれんが、魔竜は女だ。それもとびきり美しい人間の姿をしている」
 変なものでも飲み込んでしまったような表情を浮かべてガルディスは黙り込む。
 それに対してようやく立ち直った女王が話を戻した。
「……それでも、無理なのですね。あなた様がオルデフィアムで長年守り続けているものこそ、そのジルギールなのですから」
 そう言う女王にクロノ・ドラゴンが顔を近付ける。
「この男なら大丈夫だと思うか?」
 女王はびっくりした様子でしばらくは声も出せなかったが、再びクロノ・ドラゴンが質問を繰り返すと、ようやくの事で声を絞り出した。
「は、はい。……多分、無理でしょう。きっと剣の力に呑まれて世界が破滅してしまいます……」
 クロノ・ドラゴンは目を閉じて“やはり”と思う。
「……でも、私は信じられます。この方ならなんとかしてくれると、信じられます」
 クロノ・ドラゴンは驚いて女王を見詰める。
「どういう意味なのだ?」
「失敗すると思っているのです。しかし奇跡を起こしてくれると、そう信じられるのです」
 ガルディスには本当は口に出して言いたいことが山ほどあったのだが、女王が自分を支援してくれていたのと、交渉するのが下手なのを自分でもよく分かっていたから、黙っていた。
「そうか。若者よ、この娘が人間に対してこのような評価をしたのは初めてだ。よかろう、連れて行ってやろう。だが、それでジルギールが手に入るわけではないぞ」
「よろしいのですか」
 勢い込む女王に向けて、クロノ・ドラゴンは笑って見せた。
「しばらく前から、ジルギールを守るのは止めたのだ。いや、その役目を他の者に譲ったのだ」
「譲った、のですか? 一体誰に」
「異界の女神だ。美しい女神にな」
 話を聞きながらガルディスはひそかに、女難の相でも出ているのではと思っていた。

 移動に時間はいらなかった。クロノ・ドラゴン、ディーサーの手が一振りされると森は消え去り、後には広野が横たわっていた。
 そして彼はガルディスに手を差し出し、それをガルディスがつかんだ瞬間、世界は変容した。何かに沈み込むような感覚があって、ガルディスの姿は暗い洞窟の中にあった。
 回りにディーサーの姿はない。
「ここはどこだ?」
 微かに声が洞窟の奥に響いて行く。そして、何も聞こえなくなった。
 ガルディスはしばらく、自分のおかれた状況が理解できない。
 考えた末歩こうと決め、最初から向いていた方向に向かって歩いて行った。
 ……何もない。道はいつまでも続く。それでもひたすら歩き続けていた。
 そろそろ、騙されたのかなとガルディスが思い始めた頃。
 いきなり目の前に人が立っていた。
 流れるような白金色の髪を持つ美女だった。
 その目の底には空を映す深淵が広がっていた。
 その呪縛から解き放たれたガルディスが辺りを見回すと、そこは神殿の入り口の草原だった。
「ここは……?」
 女性はそれでも彼を飲み込むような瞳でじっと見詰めているだけだった。
 自然とガルディスは黙らされた。
 彼女との間にある空気が、これまで彼が知っているものとは全く異質な感じだった。
 ガルディスは彼女に胸を打たれていた。
 何をした訳でもない、何をされた訳でもない。
 ただ、真剣に何より真剣に見詰める彼女の姿はきっと、この世の多くのものより尊いのだろうと。
「あ、なたは?」
 たどたどしい言葉だった。
「ガルディス」
 女性は小さく頷く。
「なに、を?」
「ジルギールを探しに」
 女性の質問はそれからも続いた。そして最後の質問を終えると彼女はふうわりと笑った。
“消える”そう思った。
 その瞬間ガルディスは手を差し延べていた。
 彼女の瞳に潤んだものが溢れ、差し延べられた手に手を伸ばす……。
「違う! それはエストの微笑みじゃない」
 自分の中の何の部分だったのか、それは激しく口をついて出た。
 女性の顔がひび割れる。やがてそれは全身に及び、彼の引き戻せずにいた手の向こうで崩れて行った。
 ガルディスは青ざめていた。あれはガルディスの理想だった。
 あの手をつかめば彼は永遠の理想を手に入れられたのだろう。
 彼にはショックが大きすぎた。あれが理想だという事が分かるだけに苦しみを増す。
 なぜあんなことを言ったのか。いや、違う。理想はなぜエストでなかったのだ。
“そうじゃない、俺の心の中には本物のエストはいないからだ。そして、他の誰の心の中にも”
 下を向いて歯を食いしばっているガルディスの前に人影が現れた。
「ごめんなさい。私があなたの心にある理想に映しだしたのです」
 その姿は先ほど消え去った彼女と同じものだった。同じ姿なだけに、ガルディスには正視するのに勇気が要った。
「何のつもりだったんだ……」
 女性は儚さを浮かべてガルディスを眺める。
「あなたに幸せをあげたかった。ここに来る人は皆、心を痛めているわ。そんな人でもなければ、ここへは来ないけれど。でも、私の作り出した幸せで満足する人には“純白なるべしもの”は渡せないの。それだけこの剣を欲する人にでなければ」
「俺が探しに来たのはジルギールという剣だ」
 彼女は首を振る。
「同じもののことです。この剣は幾つもの名を持つのです。それだけ多くの世界に知られているからです」
 決然としてさっきの幻とは全く違う強い意志の光。それを感じてガルディスは言葉を挟めなかった。
「それだけにその力は計り知れません。これが存在するすべての世界と同等のエネルギーをこの剣は秘めています。そしてその力の一端であろうとも解放されれば、たやすく世界の一つを滅ぼしてしまうのです。そして、この世界はそうなるべく、破滅の道をたどっています。残念ですが、お引き取り下さい」
 ガルディスは引き取るという言葉を聞くとさすがに表情を険しくした。
「それだけはできない。確かにそんな恐ろしい剣だとは知らなかった。だが、だからと言って引く訳には行かないんだ。俺は……エストに約束したんだ」
「そう言うと思っていました。あなたの気持ちも分からない訳ではないのです。ただ、その気持ちに流されてしまってはいけないのです。流されれば、私のように大変な業を背負うことになるかも知れませんよ」
 彼女はそう言うとうつむく。
 その姿はやけに幼く、小さく見えた。
 微かに震える肩のなだらかなラインが、ガルディスの胸を痛ませる。
「私は神と人との間に生まれた子でした。そして彼もそうでした。私と彼――人間の名ではライティルスと言いました――は大切な使命をもって生み出されたのです」
急に彼女は切々と語り始めた。
「死の剣と呼ばれる恐怖の剣を消し去ることでした。私達は始めて会ったときに恋におちました。でもそれは有ってはならないことでした。二人、共に使命に目覚め、死の剣を後一歩で滅ぼせるという所で、ある事件が起き、ライトは私か死の剣かを選ばなければならなくなってしまったのです……」
 彼女の深い悔恨の思いがまるで周囲を変質させているかのようにガルディスには感じられた。
「そして、彼は私を選びました。彼は使命を見失ってしまったのです。たった一度しかなかったチャンスなのに。そのせいで私達は大きな業を背負うことになりました。私は他の多くの世界を救うという使命を、そしてそれが終わるまで彼は闇の底に幽閉されることになったのです」
 ガルディスは黙って聞いていたが、話に区切りがついたと思うと、彼女にむかって微笑んだ。
「それで、君は幸せだったかい?」
 はっとしたように彼女は目をあげてガルディスの顔を見遣った。答えなかった。いや、答えられなかった。
 沈黙が続く。それでもガルディスの瞳はずっと彼女から離れなかった。
「……うれ、しかった。彼の気持ちがどんなものより私の心を酔わせてくれた。頭では、愚かなことをと考えつつも、感動で涙が止まらなかった。私は、今でも幸せです。辛くてもその先になにより幸福な時を信じられるから」
 大粒の涙が、彼女の瞳から溢れ出した。
「ありがとう。これで、決心がついた」
 何かがふっ切れた笑顔をしてガルディスは彼女に背を向けた。
「えっ? なんのこと」
 振り向いてもう一度優しく微笑みかけるとガルディスは答えた。
「俺は、王都まで戻って、エストをかっさらう。誰が反対したって構うものか。俺はあいつがいればそれでいい。迷惑をかけた。じゃあ、頑張りな」
 あっけに取られて彼女はしばらく何も言えなかった。だが、その一瞬が過ぎると彼女は静かにその背中に声をかけた。
「持って行っても……良いです。あなたなら、うまくやるのかもしれません」
 振り向いたガルディスの目の前に、彼女が両手で差し出した抜き身の剣があった。
 
“良いのか?”
“彼は、多分失敗するでしょう”
“ならばどうして”
“ただ、成功する確立がない訳ではありません。彼にはそれを信じさせる何かがあります”
“そうか、妖精の女王と同じことを言うのだな”
“彼が、滅びの運命を回避することを信じましょう、クロノ・ドラゴン様。剣は解き放たれてしまったのですから”
“……”
 
「被害は?」
 訊いたエストの声は疲れていた。
 彼らの本格的な進行が始まって二週間が過ぎ去っていた。彼らの遊撃隊とも言うべき部隊は各地に出没し、幾つもの村を潰滅させている。
 そして本体は何故かゆっくりとこの王都に向け、西の果てより近付きつつあった。
「そろそろ、ここも捨てるしかないのか」
 エストはそうぽつりともらした。
 エストの頭の中にはこれから先の計画がぎっちり詰め込まれている。
 まずはゲートを守らなければならない。
 戦争には耐えられない多くの一般人がいるのだ。
 ゲートの開く場所は既に決定している。
 王都からもさほど遠くなく、なるべく他国からも近い、その場所はエストが第二の故郷とも思うリューヌであった。
「やはり、誓いの塔か」
 エストはポツリと呟いた。
 何度となく重要な防衛地点として、その陣を何処に置くかが論議されてきた。
 そして竜族の本隊からゲートを守るために最も適した場所が皮肉にも、竜族と人間の永遠の友好を誓って立てられた誓いの塔だったのである。
 竜族には誓いの塔で待つ人の軍勢を無視できないだろう。
 神聖な誓いだったからこそ竜族にはその塔での戦いを逃げることはできないはずだった。
 けれども、誓いの塔で足止めするためには尚、多くの兵士が必要だった。
「他国に援軍を要請するしかないのか……?」
 そうつぶやいてからエストは激しく首を振る。
「いや、他国も相応に苦しいはず。そういう訳には。それに、今からでは到底間に合わぬ」
 頭を抱えるエストの胸に異質の感触が涌く。
 魔竜の気配だ。
 一瞬でその感覚は消えたがエストの集中力を奪うには十分だった。
 エストの表情が落ち着かなくなり、脂汗が伝う。心配した家臣が声をかけるがそれも聞こえていないようだ。
 そのとき、慌ただしく伝令が駆け込んで来た。
「城壁の南方にペルートのものと思われる軍勢、その数三千余り。ガルダーと名乗る者が参っております。女王に至急お目通り願いたいと」
 急な出来事に城内は俄かに騒がしくなる。慌て、色めき立つ者たち。
 だが、その事変が逆にエストから魔竜の呪縛を取り除いていた。
「通すが良い。ここで騒いでいても真意は分かるまい」
 その一声で伝令は引き下がって行き、重臣達の間にも一応の平静が戻った。
 そして緊迫した空気の謁見の間に、ペルート国大将軍ガルダーの入室が告げられる。
「あっ」
 ガルダーと付き従う一組の男女を見て、エストも含む多くの重臣達が思わず声を上げる。
「お初にお目にかかります、エステリーカ女王陛下」
 ガルダーの低音の挨拶が、驚きの後の一瞬の静けさをついて響き渡った。
 
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