MirrorLabyrinth
プロローグ
「おかしいな……」
さくらがあたりを見まわして言った。
見つけられるのはすすの積もった机に、くもの巣、悪戯書きが残った黒板だけだ。
薄汚いけれど、そこは、さくらにとって特別な意味を持つ場所だ。
七瀬と真一郎の別れの場所。
自分が別れさせた。
それ自体後悔している訳でもない。
あれは間違っていなかった。
でも……
真一郎と近しくなった今さくらはふっと気を迷わせる。
首を振るさくら。
そんな事は出来ない。
でも自分には直接手を下した責任がある。
正しい事をしたからそれでいいというのは直接関わらない他人の意見だ。
だから自分は真一郎の側にいる必要があった。
別に恋愛ではない。
さくらには、真一郎にそこまで踏み込むつもりも踏み込まれるつもりもなかった。
自分のなした事を受け入れるために、そのためだけにさくらはそうしていた。
小鳥や、唯子と言った幼馴染達にはある意味決して共通出来ない気持ちの受け皿にさくらはなってやっていた。
真一郎にとって、それはある意味では七瀬の代わりに近い行為だった。
さくら自身、真一郎に好意を抱いていた。
以前の彼がどうだったかは知らないけど、今の彼は悲恋を経験したからか強さを手に入れていた。
優しく強い、そんな彼の姿。
「もしも、違う出会いだったなら恋に落ちていたかな」
それでも、そんな事は絶対に起こらない。
そして、現在彼らは恋人同士よりも深い理解を互いにしているものの、それは決して恋人同士のそれになるものではない。
疲れているんだな。とさくらは思った。
めまいがする……。
……嫌……血なんか吸いたくない……。
さくらは、立ちあがってそこを出て行こうとした。
「あっ……」
くらりと視界が暗転する。同時に、上下の感覚も消えうせた。
がたん。
「……はあ、でも、そろそろ限界なのかな……」
ゆっくりと立ちあがって周りを見まわしたさくらはある1点で目を止めた。
「そんな、なんであなたが……」
さくらの驚きが旧校舎の中に流れていった。
第一話
私はまたここにいる。
いつのまにか、ここにいる。
こんなにも悲しくつらい場所にたった一人で私は立っている。
何もない……。
あるわけのない場所。
大好きな真一郎の面影も月日が流し去ってしまったような、そんな……旧校舎の一室で私は立ちすくんでいる。
楽しかった逢瀬を思い出す。
幽霊だったとき、悲しいけれどいつだってそこには喜びがあった。
切なさに胸が張り裂けそうだったけど、それでも幸せだった。
別れ……。
真一郎と別れなければいけない……私は身を引こうとした。
でも、真一郎は許さなかった。
真一郎と、自分の熱情は私に最も愚かな道を選ばせた……。
刹那の慰めに浸って……すべてを失うかもしれないそんな選択を。
でも。愚かでも、たとえよりつらい別れが待っていても……私はそれを選んだ。
そして、すべてが白に染まる……。
さくらのことを恨んだりしていない。
今は感謝している。
真一郎は知っていたんだと思う。
そのずっと前から……私が人ならぬものであることを気づいていたに違いない。
あのときの瞳……一瞬揺らいで、でもすぐに哀しみ――凍るような哀しみ――を浮かべた瞳がそれを教えてくれた。
「行かせたくない」
真一郎の言葉。互いを切り裂く、痛みを伴う刃。
それでも、私は幸せだったんだ。
そして、幸せな日々。
私は忘れなかった。
大切にしていた日々を。
大好きな人の記憶を。
そして、自分自身の想いを……。
私は忘れなかった。
だからこそもう一度真一郎と会えたんだ。
やりなおす事。再び出会いからはじめた事。
一緒に、遊園地に遊びに行った事。
一緒に、年の差について考え合った事。
互いに相手を想ってすれ違ってしまった事。
周りの人とのしがらみ。
反発……。
たくさんの想い出。
でも、私達はそれでもずっと一緒だった。
……ううん、一緒のはずだったのに……。
「真一郎、私高校生になったんだよ」
何もない空間の前でひらりとスカートを翻して見せる。
「ほら、今風の可愛らしい制服でしょ?」
大きめなリボンが特徴だ。
「昔のセーラー服はもうないんだって……でも、これだって結構似合うよね」
笑顔を浮かべる。
でも答える真一郎はいない。
笑いかけてくれる真一郎はいない。
『うん、可愛いよ七瀬……』
幻聴――それが、そんなものを聞いてしまう自分が悲しかった。
『可愛いってより、綺麗だって言われたいな』
慰めにはならないのに。
私はそんな甘い空想の中に浸っていたくなってしまう。
『その制服の話だよ。七瀬はいつだって綺麗で可愛いよ……』
涙があふれていた。もう帰らない時にそうやって延々と浸りつづけている自分が哀れだった……。
真一郎はもう居ない。ここにもどこにも、私が手の届くところには……いないんだ。
何も出来なくて、ただ、そこに崩れ落ちた。
闇が帳を下ろしてささくれ立った心を夢へと誘っていく……。
私はその慰めにせめて夢で真一郎に会えることを祈りながらまかせていく。
眠りに落ちるその一瞬前……砕け散る鏡が瞳の奥に映った……。
第2話
……いない。
……ここにもいない……。
真一郎、何処にいるの……?
もっと、もっと深くにいるの?
ぽう……。
…………あの光、真一郎、真一郎だ……。
『何故?』
だって、私を呼んでる。
……暖かいの。真一郎だよ、真一郎に決まってるよ……。
『違うわ、目覚めて。それは彼なんかじゃないわ』
やだ。
絶対真一郎だ。真一郎だよ……。だって、だって……。
『仕方ないわね』
消えたの?
あ、私真一郎に会いに行かなきゃ……。
『七瀬、戻って来い、起きるんだ七瀬!』
!!
真一郎、間違いない。今の声、今の声は……。
跳ね起きてあたりを見まわす。
真一郎の声だった、真一郎に会えるんだ。
どこ……?
どこにいるの……?
埃だらけの机の下?
半分はずれてしまっているカーテンの陰?
ねえ、どこにいるの?
かくれんぼ?
意地が悪いんだから……。
「し……」
声が出ない……出せない。
もしも、問い掛けて答えが返ってこなかったら?
しんと静まり帰ったこの旧校舎の中で私一人だって、わかったら?
違う!
違う違う違う。
そんな事ない!
真一郎、いるよね?
今私が聞いたのは、夢なんかじゃない・よ……ね…………。
しん・いちろう……は、ここに……うっ……いるんだよね……うぅ……いるよね。
いるわけないって、最初から解ってたのに。
それでも、私はひとしきり泣いた。
でも、本当に懐かしい声だった。
もう一月あまりも真一郎の声は聞いてなかったから。
幻覚だったのかな?
でも、幻覚でもそれでも真一郎と会えるなら、良いのに。
今日は幸せだったかな?
私は誰もいないその場所で時間を止めたように呆然と考えていた。
月明かりがグラウンドを照らしている。
あそこで真一郎とダンス踊ったよね。
……行ってみようか。
体にほんの少しだけ、気力が戻ってくる。それでも重い体を空しい希望が支えてる。
真一郎に会えるんじゃないかって期待。
そんな事ありえないって私が一番知っているはずなのに。
しとつく雨の降る冬の寒い日だった。
私は、傘もささずにただ、呆然とそこにいた。
黒い服だらけの人達。
泣いている女。
むやみに明るく騒ごうとする男達。
私自身黒い服に身を包んで静かに、何故自分がここにいるのかをずっと考えていた。
誰も私に話しかけてはこなかった。
「あのね、七瀬ちゃん……」
「風邪ひいちゃうわよ」
「さあ、部屋に入りましょ?」
……誰も、だ。
私は真一郎の声を聞くために一生懸命だったんだから……。
黒い淵に囲まれた真一郎の写真が飾られていた。
真一郎のお父さんが弔問客に何事か挨拶を返している。
お香の鼻を突く匂いが立ち込めている。
空を見上げてみる。
薄暗い、どんよりとした雲が垂れ込めていた。
全身がぐっしょりと重い。
でも、心は空っぽだった……。
人影が見えた。
心臓が跳ね上がる。
「真一郎……?」
人影は街灯のぎりぎりのところに立ってこちらを眺めている。
思わず走り出す。
早く、早くたどり着かないと。
そうしないときっと、これは……夢になっちゃうんだ。
はあ、はあ、はあふう、はあはあはあ。
体が、置いていかれる。
苦しい。
息がとか体がとかじゃない。胸が、心が苦しいよ。
真一郎。
真一郎。
とどけ。とどけ。とどいてぇっ!
ずるっ。
「あっ」
世界が、反転する。
ばしゃっ!!
地面の泥が口に苦かった。
ざりっ……。
手で地面を掻き毟る。
「ふぐっ……う、うぅぅ。……ふ、ふ、ふぅ……ふぅぐぐ……うぁぁ、あ、あああ」
こらえる事も出来なくて涙がこぼれていく。
嗚咽が体中を震わせていく。
慟哭――。
どれぐらいたったのか。
私が人の気配に気づいて目を上げると、そこには女性が一人立っていた。
「誰?」
巫女の装束をまとったその女性は、憐れむような覗きこむような鋭い目で私を見つめていた。
がんじがらめにされるような不思議な感覚。
その圧迫に耐えられなくて、私はもう一度尋ねた。
「あなたは……誰?」
「……水沢花摘……」
「みずさわかつみ……?」
花摘と名乗った女性は私から視線をそらして月を見上げる。
「綺麗な月ね」
空にかかった月は冴え冴えとして美しかった。
昨日も、今日もだ。
「そうね」
思いもかけずに応えが口からすべりでた。
「いいえ、綺麗過ぎる月だわ……」
こちらへ向けられた顔が何かを訴えかけようとしているようだ。
でも、わからない。何を言おうとしているのか。
それがとてつもなく大事な事だと知っているのに。
困惑している私を見て、花摘は言った。
「心配しないで、大丈夫だから……」
そうして花が開くように微笑んでこう続けた。
「あなたを待っている相川さんのもとに連れていってあげるから」
私は、また一つ何処かで鏡の割れる音を聞いた――。
第3話
ん……んん……。
なんだか苦しい。
空気が水で出来ているように体にまとわりつく。
「真一郎……」
うめいて私は寝返りを打った。
……。
…………。
私は、ゆっくりと学校の全景が見える高台に上ろうと足を進めていた。
夕日に、木造の旧校舎が赤く映えている。
「七瀬……」
私の口から、つぶやきが吐息のように流れ出る。
胸の奥がしめつけられるように痛い……。
“真一郎……?”
私は旧校舎を眺めたまま、心の奥に懐かしい情景を必死で思い浮かべる。
笑う『私』の顔。
むっとしてるところ。
キスの直前のまぶたを閉じたところ。
そして、泣きながら別れを言う『私』の……。
そこまで来て、私は思い出を呼び起こすのを諦める。
“これ……真一郎だ……私、今……”
あれから、もう一年が経つ。
長い苦しみの一年だった。
笑って、怒って、忙しいはずの一年。
一人になるといつも心の奥で泣いていた。
そんな自分がいた。
いっそあの時本当に、一緒に行ってしまえていたら……。
何度そんなことを思ったんだろう。
“真一郎……”
さくらとも仲良くなって、付き合っているという噂が流れた事もある。
二人とも、特に否定する必要がなかったから、何も言い訳しなかった。
そのうち、その噂も下火になり消えてしまった。
真相は二人を除けば小鳥だけが知っている。
「俺も小鳥に嘘つくのが上手くなったな……」
心の中で、消えない思いに小鳥が苦しんでいるのを見ていられなかった。
自分を責める、優しい幼馴染。
明るい笑顔を見せて欲しくて、小鳥の前で演技する。
前と変わらない、いじめっ子の相川真一郎を。
小鳥も、次第に顔を曇らせる事がなくなってきた。
それとも演技しているのを、小鳥は知っているんだろうか。
知っているから、無理して明るく微笑んでいるのだろうか。
「でも、本当に感謝してるよ。小鳥……唯子もな」
でも……。
忘れている演技は、次第に自分そのものになっていく。
七瀬とすごした大切な想い出のアルバムが、少しずつ授業風景や馬鹿話をしている姿で埋められていく。
だから一人になるとその分必死で想い出にしがみつく。
忘れるのが怖くて、失ってしまうのがとても悲しくて。
そして、いつも自分がまだ、焼けた火箸のような痛みを抱えている事に気づく……。
さくらの側にいるときだけは、自分のそんな気持ちを隠さずにすんだ。
さくらはそんな自分を微笑んで受け入れてくれていた。
“……真一郎……苦しいよ……今、私も苦しいよ……気づいてよここにいること。話がしたいよ……真一郎の側で、笑いたいよ……!”
高台の一番上まで、ようやく上り詰める。
そのすべてが赤に染まった光景の中。
下を見下ろして一人の女性が佇んでいる。
“あ、あれは……”
「七瀬……?」
女性が振り向いた瞬間、日がその姿をかすめて落ちていった。
「違いますよ、私は……花摘……」
“何故、この人が……”
「夜と昼の一瞬の境、美しいですね……これはどこにいても」
「あ、ああ……確かに綺麗だったね」
だけど、目はずっと彼女に向けられていた。
確かに『私』に良く似ていた。
偶然の出会い、あまりに良く似た彼女に心が揺れる。
違うと解っていてもひそかに慕情があふれる。
もう会えない人だから、それは抑え様もなく。
「……また会えますから」
花摘はそう言って笑った。
とたんに、呪縛から解き放たれたような気がした。
「え? どう言う意味?」
“私を……追ってきたの?”
「さあ、どうなんでしょうね……」
覗きこむような視線。
“解ってる……この人は私がいることを知ってるんだ……”
「っは……あ?」
起きたのは自分の部屋だった。
汗で、体中じっとりとしている。
「…………怖かった」
二度目と言う事になるのかな。あの人に会ったのは……。
よっぽどインパクトが強かったんだな……だっていきなり、真一郎のところに連れてってあげるとか……。
そう言えば……私真一郎になってたんだよね。
なんだか、凄く実感のある夢だったな……。
久しぶりだね。ずっと夢に見ることも出来なかったのに。
真一郎の感覚が、逃げないように、体を両腕で抱きかかえる。
夜が明けるまで、せめてこのまま……。
ざわざわとしている教室の中。
教師に連れられて一人の生徒が入ってくる。
思わず、私はつぶやいていた。
「……なんでよ?」
黒板に水沢花摘と書かれている。
担任の須本が静かにするよういつもながらの注意をし、それから花摘に自己紹介を促した。
「水沢花摘です。これからよろしくお願いします」
流れるような動作で軽く頭を下げる。
可愛らしい制服に身を包んでいる彼女はどこかの令嬢のようにも見える。
男どもの幾人かは、すでにころっといっているに違いない。
……でも、そんな事どうでも良いか。
休み時間になって、花摘が私の席にやってくる。
「七瀬さん……お友達になってくれますか?」
「……やだ」
「嫌いですか? 私のこと」
「好きになれると思う?」
「私が、あなたの前世に良く似ているから?」
……!
「……違う、そのわけわかんないところよ。あんたが一体何者で、どうして私に近付こうとしているのか、凄く不審な人物だから、よ」
「私の目的? いっぱいありますね。その中の一つは昨日も言ったけど、あなたを相川真一郎の元に連れていく事ですよ」
その名前が、花摘の口から出るだけで胸が痛くなって、私は立ち上がる。
「どこへ行くんです?」
「どこだって良いでしょう?」
「旧校舎……ですね?」
もう付き合ってなんかいられない。
「でももうすぐ授業が始まりますよ」
「気分がのらないから、さぼるわ」
「そう……ですか」
「……なんでついてくるのよ」
「いけませんか?」
「授業が始まるでしょ?」
「気分が乗りませんから」
「……勝手にすれば?」
早足になってみるけれど、花摘は平然と後をついてくる。
なんだか……むしょうに腹が立つわね。
走ったら、驚いて追いかけてくるかなとも思ったけど、さすがにそこまでするほど私も子供じゃなかった。
「入って来ないでよ」
真一郎との思い出の教室に他人が、それもこの女がいたら浸る事も出来そうにない。
「そんな事言われても困りますけど……」
花摘が上目遣いに私の顔を覗きこむ。
しぐさだけ見れば可愛らしいけど、瞳は相変わらず私の底までを覗きこもうとしているみたいだった。
「とにかく、入らないでよ」
言い捨てて、後ろを向いた瞬間だった。
「真一郎さんに会いたいんでしょう?」
花摘の無遠慮な声。
「いいかげんにしてよ! あなたに、あなたに一体何が出来るって……?」
振り向いた私の目には、花摘がぼやけて見えた。
「真一郎は死んだのよ。私の目の前で! 会いになんかいけるわけないの!」
花摘は少しだけ眉をひそめて見せる。
「そう言う事ですか……」
「だから、会いに行くなんて、死ぬ以外ないのよ。……死ぬ……以外……?」
そうか、死ねば、会えるんだっけ……。
その考えが天啓のように体を震わせた。
ゆっくりと、花摘の顔を見やる。
「それも、良いかもね……ほとんど、未練なんてないし。ああ、お父さんとお母さんにはきちんとお別れ言わないとね……」
「何を? 何言ってるんですか?」
「だから、死ぬのよ。真一郎が死んだら、私が生きてる意味なんかないんだから! そのために転生してきたんだから。それで出会ったんだから……」
「止めなさい、無駄だから」
「無駄? そんなわけない……死んだって私達の絆は無くなったりしないんだから」
つかつかと花摘が禁じておいたところから中に踏み込んでくる。
ぞくっとするほどの冷酷な瞳で私を見つめた。
「そう、あなたはその絆を賭けの代価にするつもりなの? それでも良いと言うなら、やって御覧なさい。私は止めないわ」
花摘は、そこで初めて、私が見る本物の感情らしき物を瞳に浮かべた。
「でもね、忠告しておくわ。奇跡は……何度も起きないから、奇跡って言うのよ」
その感情が目から少し零れ落ちる。
それでも、花摘は私をまっすぐに捕らえて離そうとしなかった……。
目を背けたのは、私のほうだった。
「死ななくても、会う方法はあるんですよ」
花摘は私にそう言った。
「どうやって?」
「私が力を貸します。その方法についてはまた後で。それよりも……」
「何?」
「真一郎さんは、何時何処でどうして死んだんですか?」
ちくっ。
胸の奥の痕がぱっくりと開いて、鮮やかな血を流し始める。
「言わなくちゃならないの?」
「ええ、それが必要ですから」
花摘は相変わらず冷酷な態度を崩さない。
さっきのアレは見間違いかなと思うくらいだ。
仕方なく私は、痛む心の内を過去に向かって遡り始めた。
……あれは、私がようやく中学を卒業した春休みの事だった……。
私は当然のようにこの高校に進学を決めていた。
受験勉強の過酷さに投げ出しそうになりながらも、必死で頑張った上での成果だよ。
昔は、あんな受験勉強なんてなかったのにな。
それでも、ここには大事なものがいっぱいあったから。
私達の出会いと別れ。
そして、止まっていた昔の私の時間……ようやくそのすべてを清算出来ると思っていた。
あの日、私は下見と称して、真一郎をこの旧校舎に誘った。
「真一郎、真一郎! ほらこっちこっち」
「元気なのは良いけど、そんなに急ぐと転んで怪我するぞ」
「大丈夫だよ。それより、懐かしいね」
「ああ……もう、15年も前の事なんだな」
「うん、長かった?」
「……七瀬に会えるまではね」
「そう、か……。あっ……あっちに……ってあっ……ひんっ」
ずってぇん!
「七瀬、大丈夫か?」
「……つっ、いつつ……はな、鼻がいたあい……」
「ぷ、あははははは。だから気を付けろって言っただろ……」
「う、うう〜笑うなんて、非道い……」
「おいおい、叩くなって……七瀬」
ぱしっ。
「あ……」
手首を真一郎に掴まれる。
自然に真一郎と視線があって、私は目を閉じた。
恋人同士のキス……。
「真一郎……」
「七瀬……」
もう一度キスをしようとして、急に遊び心が顔を出した。
「えへへ、捕まえてみてよ。真一郎、そしたら、もう一度キスして上げるね」
真一郎から離れて階段を駆け上がる。
「おいおい、また転ぶなよ」
「何度も転ぶほど、私はどじじゃないわよ!」
「……ようし、俺がまだまだ若いってこと見せてやるよ」
「そう簡単には捕まらないよ。それじゃスタート!」
…………
「それで……どうなったの?」
花摘が合いの手を入れて話の続きを促す。
「それで……、それでね……」
“あれ? なんだか、頭が痛い……”
真一郎の必死な顔……。
「七瀬っ! 七瀬ーーーーっ!」
「し・んいちろう……?」
差し伸べられる手。
でも……それは届かない……。
「―――――七瀬」
“え? なんて言ったんだっけ?”
……
“ああ、こうだ……”
「さようなら……七瀬」
それで、それで……。
「目の前には、しんいち、し……ちろうの冷たくなった……から、体が……」
「それじゃ解らないわ。どうして真一郎さんはそんな事になったの?」
「い、いやあああああああ。真一郎、いかないで、いかないでっ……私を、置いていかないで……」
「七瀬さん? しっかりして、しっかり……」
……結局、詳しくは思い出せなかった。
「やっぱりね」
花摘はそう言ってため息をついた。
「なによ……」
「だって。真一郎さんは死んでなんかいないもの……」
「え? 真一郎が……?」
「私は、真一郎さんに直接あなたを連れてきてくれるように言われたんですから」
「どこにいるの? ねえ、真一郎はどこに?」
私がしがみつこうとするのを、花摘は軽く手で制して言った。
「だから、最初から言っているでしょう。私はあなたを真一郎さんのところに連れていくために来たんだって」
花摘はそうして私に手を差し伸べた。
第4話
「ここにはいないわ」
私が、何処に真一郎がいるのかと尋ねた事に対する花摘の応えがそうだった。
「だから、何処にいるのって聞いてるんだけど……」
「……言葉で教えようとしても、多分無理ですから」
「私には理解できないってこと?」
「違う。……それは、あなたが自分で見つけ出さない限り話す事も出来ない禁忌なの」
「禁忌?」
「ええ、それがルールだから」
「……全然解らないんだけど?」
「解ってもらえるとは私も思いません。でも、余り時間があるわけでもないし選択肢はもっと少ないの」
「私が、選ぶの?」
「あなただけが、選べるんです」
花摘の声には、全くこちらを気遣う様子は見られない。だからこそただ、事実を述べているのだと言う事がはっきりと解る。
「今の状況は……はっきり言って非常に危ういバランスの上で成り立っていると言わざるをえません」
花摘は少しだけ、表情に憂いを見せて下唇をかんだ。
「私にわかっていることは、貴方は真一郎さんを探しに旅立たなくちゃいけないって事だけ」
「見付けに行く事なんて出来るの?」
わけがわからない。
でも、真一郎がどこかで私を待っているなら、私は。
「貴方次第。旅の扉は私が開いて上げます。どうしますか?」
「……当たり前じゃない、探しに行くわよ。真一郎に会えるんだったら、何も惜しくなんか無いし」
花摘の表情が少しだけ曇った。
どうしたんだろ?
「……そうですか、だったらまた明日、ここで会いましょう」
「すぐじゃ行けないの?」
「私のほうにも準備がありますから。なるべく早く用意します」
「危険なの?」
花摘のその様子が私の事を心配してのものかなと尋ねてみる。
「リスクは高いと思ってもらって結構です。それが摂理ってものですよ」
でも、花摘の表情は今度は変わらなかった。
「止める気になりました?」
「ううん……全然」
「他に質問はありますか?」
「無い。……本当はいっぱいあるけど、答えてもらそうに無いから、良いよ」
花摘は、少しだけ微笑む。
「ありがとうございます。私も、心苦しいんでそうしてくれると助かります」
「ふう……」
自分の心の中の興奮がつい口から溢れる。
凄く、期待してる。
ううん、期待せずにはいられないよ。
だって、だって真一郎にまた会えるかもしれないんだから。
そのために転生までしたんだから、私は。
でも、だから不安でもある。
なにかでごまかしていないとつぶれてしまいそうな不安。
花摘の方法がまるで、見当違いのものだったら?
……期待しない、しちゃ駄目だよ。
だって、裏切られる時が怖い。
もしそんな事になったら今度こそ、自分で生きていく力は無いよ……。
でも、抑えきれない。
「ふう……駄目だな」
私はもう一度想いを溢れさせる。
頭を振って、あたりを見まわす。
「あれ?」
既視感、というんだろうか。
その場所に来た事があるような感覚を味わった。
見た事があるような……いつだっけ。
……絶対、見た事があるんだけど。
夕日に照らされた高台……。
旧校舎の全景が自分の下方に広がっているのが見える。
その時ふっと、日が落ちた。
その場所に花摘が立っているのが見えたような気がする。
「そうだ。今朝の夢で見た……」
声が震えているのが自分でもわかる。
「どうして、私……この場所を知ってるんだろう。来た事無いはずなのに……」
それとも、あれは……予知夢かなにかなの?
日が落ちて急速に冷え込んでいく、周りに合わせて私の興奮も冷え込んでいった。
「どういうことなんだろう……」
家に帰ってきても、ずっと花摘の事を考えていた。
ただの偶然。きっとそうに違いない。
そう想いたかった。
それに高ぶっていたから、夢の内容があそこに重なってしまっただけなんだと想いたかった。
でも、自分の中のどこか冷えた部分が、違うぞと警告していた。
夢の中のあの時の真一郎は私と別れたばかりみたいだった。
私が転生する前……。
本当に昔有った事なのかも。
ふるふる。
ううん、そんな事ありえない!
だって、花摘は今と変わらない姿だったもの。
あれから15年姿が変わらないなんてはず……。
はず……あった。
私だって、27年……変わらず幽霊だったんだから。
「ば、馬鹿らしい。私がこんなにくだらない事考える人間だったなんて知らなかった」
言いながら、激しく動揺してるのを感じてた。
「あはは、もう冗談だよ。冗談。そんな訳無いしね。偶然だよきっと」
誰が聞いてるわけも無いのに……なに言ってるんだろう私。
「もう、寝よ」
部屋の明かりを消して、ベッドに横になる。考える事がいっぱいあって、眠れないかと想ったけど、横になったらすぐに眠りの世界へと引きこまれていった。
……
…………
「動物に好かれているのね」
「え?」
びっくりしてさくらが振り向いた。
そこには今日転校して来たばかりの少女が立っていた。
さくらは特に、気にも留めていなかった相手だ。
“なんて名前だったっけ?”
さくらは教師が書き記した彼女の名前を思い出そうと必死になる。
「一緒のクラスですよね」
にっこりと笑う。
その屈託の無さは人を引きこむ力がある。
「そう。確かに一緒のクラスです」
そして、さくらは同時に気づいた事があった。
“この人、七瀬先輩に似てる……!”
「良かった、さっきまで案内していてくれた人に用事が出来てしまって。いきなりのお願いで申し訳無いんですけど、校舎を案内してくれませんか?」
“何故気にも留めてなかったんだろう……”
「え、案内……」
はっとして、さくらが餌を上げていた鳩達を見まわす。
「それが終わってからで良いですから……あ、私も餌あげてみて良いですか?」
「どうぞ……」
さくらが毒気を抜かれて餌を手渡しする。
鳩達がパッと寄っていって花摘の手の上の餌をついばみ始める。
「こういうのも良いですね。でも……」
さくらはこの転校生に本能が警鐘を打ち鳴らすのを感じていた。
「でも?」
「ええ、自然の摂理に反する何か闇の者がわだかまっているのを感じるんです……」
「……闇のもの……?」
自分の心臓が一拍大きく鳴ったのを聞かれなかったかとさくらは冷や汗が流れ落ちるのを隠せない。
“もしかして、ハンター?”
人間の中には吸血鬼などを専門に狩るハンターがいることをさくらは思い出していた。
そして、そう言う人間は人間以外のものを毛嫌いする傾向にあるということを。
「あ、普通の人にこんなこと話しても、解ってもらえませんよね」
「……」
「私、つい家が神社だから。ごめんなさい……えーっと……」
「さくら、綺堂さくら」
「そう、さくらさんって言うの? 綺麗な名前ね、私さくらの花は大好き……」
「……ところで、あなたは、なんて名前なんですか?」
「え? 最初に挨拶した時、さくらさんいましたよね」
さくらはばつが悪そうに顔をしかめる。でも、忘れたか聞いてないのは事実なんだから仕方ない。
「ごめんなさい、紹介の時聞いてなくて知らないんです」
「そう」
花摘の表情がぱっと急激に沈む。まるで、雨が晴れた後にかかる虹のような劇的な変化だ。
「水沢花摘……花を摘むと書いて花摘よ……」
花を摘むといったときの表情はもう笑顔を取り戻していたが、その目はさくらの奥の奥までも覗き込もうとする目だった。
それを見て、さくらは確信した。
花摘がハンターだと。
そして、花摘が摘むと言う花はさくらであるかもしれないのだということを。
「ああ、餌もなくなってしまいましたね。行きましょうか」
その緊張感をにっこりと笑って吹き飛ばし、花摘が有無を言わせずさくらを促した。
「はい……」
「あ、ところであそこに見える建物、なんて言うところなんですか?」
そう言って、花摘が窓から指差した建物は旧校舎だった。
いや、いやあああ。止めて止めて止めてえええええ!
…………
……
「はあはあはあ、一体なんなのよ。この、夢は……」
涙も、流してるなんて……何が怖いって言うのよ……一体どうしちゃったんだろう私。
ぐしぐしと顔を拭ってやる。
「それにしても今度はさくら?」
不思議な気持ち、私があのさくらになるなんて……。
でも確信した……やっぱり花摘には、何か、ある。
私と関わりの深い何か。
会った時から感じる、恐怖と相反する親近感。
その二つの感情が付きまとう。
「まだ、暗いな……」
窓の外はまだ星が瞬いている。
「今度は、真一郎と会えると良いな……」
でも、今は出来るなら夢を見たくなかった。
きっと、怖い夢を見てしまうだろうから。
「来たわよ。花摘?」
私は誰もいない教室に向かってそう声をかけた。
「来てくれたんですね」
花摘が、隣の部屋の入り口から姿をあらわした。
緋袴のすそが床を払いそうな巫女服姿だ。
「その格好で、学校に来たの?」
「意味ありませんから、学校なんて」
つまらなそうに、静かに言い放つ花摘。
それから、向き直って私に微笑みかけてきた。
「それに精神集中の為に。私実家が神社だからこの格好が落ちつくんです」
「ふうん……そう、なんだ」
その時、花摘の目が何かを見極めるように細められたのを私は見逃さなかった。
「まあ、そんな事は良いです。それより準備が出来ましたから、どうぞ」
花摘が隣の教室へと誘った。
少しだけ躊躇してしまう……。
「止めますか?」
花摘は、わずかに諦めを混じらせた落ちついた笑顔を向ける。
その表情は何故だかとっても哀しく切ないものだった。
「行く」
私は、そう言った後少しだけ今の気持ちを言って良いものか逡巡する。
「あのね……はっきり言って、私あんたの事信用できない。だけど、真一郎の元に連れていくって約束してくれた。……真一郎が死んでから誰も、私に真一郎のことを言おうとしなかった。でも、あなたは真一郎がいた事……ううん、いることを認めてくれた。だから、私はそれがたとえ嘘だって、賭けてみる」
私の告白を聞くと、花摘はどこか虚空を眺めて言った。
「どうしてでしょうね。誰もが、真一郎さんの事を言わなかったのは」
それは、私に答えを求めているのかそれとも、単なる独り言なのか。
凄く微妙な口調だった。
私がその事に考えを寄せていると、花摘はまた私に向き直って言った。
「決まったなら、行きましょう」
隣の部屋に行くと、周りに何か変わった様子は見えなかった。
真中に、布で隠された人間ほどの高さのものさえ無ければ。
「あれは何?」
「見てもらえば解ります」
花摘が近寄っていって、その姿をさらけ出す。
――――!
「は、ああ、あ……あああああああああ、いや、いや、いやあああああああああっ!!」
そこに会ったのはただの古ぼけた鏡、でも、でも。
怖い、怖いよ、怖い怖い怖い怖い怖い怖い……。
花摘が近寄ってくる。
「こ、来な、来ないで来ないで、来ないで!」
「しっかりして!」
心臓が潰されそう。
逃げなきゃ、逃げなきゃ!
「真一郎さんはあなたを待っているのよ!」
震えが止まった。
正直まだ、怖いけれど、でも……もっと痛いものがあるから。
「どうして、そんなに鏡が怖いんだと思う?」
「わかんないわよ」
声は震えてる。鏡にまっすぐ目を向けられない。
「何故この鏡が怖いのか、そして何故貴方の真一郎さんとの別れの記憶があいまいなのか。……答えはこの鏡の中にある」
「か、鏡の中?」
「そう、これが貴方にとっての旅の扉……。貴方は真一郎さんを見つけなくてはいけない」
どう言う意味だろう、でも、とてつもなく恐ろしい事のような気がする。
「貴方は?ついて来てくれないの?」
とても一人では耐えられない様な気がした。
「私には道を開く事なら出来る。だけど、残念ながら真一郎さんを見つける手伝いは私には出来ません」
「真一郎がその鏡の中にいるって言う事?」
「……どう言えば良いか解らないけど、相川真一郎と言う名を持つ人なら確かにいるわ」
花摘が少しだけ、困った顔をする。
「でも、それが貴方にとって本当の相川真一郎であるかは私には保証できない。それにね、貴方にとって正しい真一郎さんなのか決めるのは貴方だけだから。それが、さっきの理由。真一郎さんを見つける手伝いが出来ない事の……」
「……わかった……扉を、開いて……」
「良いんですね」
「聞かないでよ、いまさら……怖いの我慢してるんだから」
「扉の先に何が待ち構えているか、私には窺い知る事は出来ません。でも、一つだけ、貴方が本当に元の世界に戻ってこようとすれば、何時だって貴方は戻れるって事だけは忘れないでください」
花摘が、目の前で手をかざし、何事かを朗朗と唱え始める。
合間合間に会わせて玉串が空を切る。
花摘が二人いる?
気づくと花摘が二人いた。いや、もっとたくさんいる。
回り中花摘だらけだ、それと、鏡だらけ……。
まるで合わせ鏡の中のように。
無限の空間、夢幻の世界が……。
「さあ、踏み出して」
花摘の声が聞こえて、私は進むと言うよりはふらりと前に倒れこんだ。
意識を失う少し前に、花摘の側に、誰か立っていた様な気がした。
紫の髪が視界の奥で翻る。
「……たわ、花摘」
「…………あ様」
嫌な音が耳の後ろの方で響いて、鏡が砕け散った……。
第5話
なんだろう。
あれは……。
霞のかかった景色の中に何かが見える……。
「うえーーん」
少女が泣いている。
ぐしぐしと長すぎる袖で顔を拭っている。
「泣くなよ」
傍らに立つ少年が、毅然としてその少女に言い放つ。
「だっ……だって……」
少女が余計に、しゃくりだしたので、少年は慌ててしまう。
「ば、馬鹿……悪かったよ……」
頭に置かれた手の暖かさに、すすり上げていた少女か顔を上げる。
「な、大丈夫だから。俺も一緒にいてやるから……」
優しい微笑みに励まされて少女は「うん」と頷く。
「でも、ごめんね、私のせいで……」
「気にするなよ、お前は大事な妹なんだから……」
少女が満面に笑みを浮かべて、少年に抱きついた。
“お兄ちゃん、大好き……”
……あ、消える?
でも、また、なにか……!
これは……
そこはすべては赤く染まり、金臭い匂いが充満していた。
「嘘だよね……」
そのたった一言と胸を締め付けるような悲しみがそこには存在していた。
一人の青年の姿、血の海に沈んだその姿……すべては赤に。
赤しか、見えなかった……。
なにかを嗅いだような気がした。
……ん…?
「真くん……こっち来て、気づいたみたいだよこの子……」
誰かの声。
優しくてなんだか安心する声だな……
「ちょっと待ってくれ……今、油使ってるんだから……」
「それじゃしょうがないね。でもなるべく早く来るんだよ」
私は、がばっと跳ね起きていた。
くらっ……
あ、めまいがする……
ふにゃふにゃとベッドに再び沈み込む私。
……気持ち良いと思ったらベッドだったんだ……
目の前には小柄な女の子がこちらを心配そうに覗き込んでいた。
「あなたは……」
「私はね、野々村小鳥。ここは私の家だよ」
びっくりした。
まさか、小鳥ちゃんに会うなんて。
でも、でも、それなら……。
さっきの声は……間違いない……真一郎だ!!
そう解った途端私は飛び出していた。
がつん!
なにかが、ひざに当たってカーペットに落ちた。
「真一郎、真一郎!!」
でも、そんな事、私は気にも止めていなかった。
台所で、揚げ物をしている真一郎。
エプロンをつけてびっくりした顔でこちらを眺めている。
少しだけ、なにか引っかかったけど、すぐにその違和感ごと私は忘れてしまった。
「真一郎!!」
真一郎は私を支えきれずに少しだけ後退した。
「う……ぐ、ひぐ……会い、たかったよ……ずっと、寂しかったよぅ……」
私は、泣いていた。
会ったら、最初に引っぱたいてやろうなんて考えていたのに。
こんなに心配させてって怒ってやるつもりだったのに……。
真一郎の存在は、私にとってなによりの免罪符だった……。
「あ、あの……」
真一郎が、ようやくそう言っているのに気づいたのは、泣き疲れて真一郎の服がぐしょぐしょになってからだった。
顔を上げると困った顔で真一郎が私を見ていた。
「なに? 真一郎……」
ふ、と眼の端で小鳥ちゃんが一生懸命揚げ物の処理をしているのに気がついた。でも、時折気になるみたいでちらちらとこちらを見ていた。
「……あの。なんか、勘違いしてない?」
「……え?」
そう言われて私はようやく違和感がなんだったのかに気づいた。
真一郎、そこにいるのは確かに真一郎に違いなかったけど、それは、私の知らない筈の真一郎の姿だった。
高校生でもなく、私と再会してからの真一郎でもない。
その間の微妙な年齢に見える。
「……真一郎……だよね?」
ますます困った顔で真一郎は頷く。
「私……七瀬だよ。春原七瀬を……ぅ……おぼ・お、覚えて……いない?」
聞きながら、もう、真一郎の答えはわかってた。涙がまた、こぼれ出すのを止める方法なんて知ってるわけなかった……!
「ごめん……知らないよ……」
真一郎の言葉が、音の消えた私に聞こえた唯一の物だった。
それ以上は泣かなかった。
意地でも泣いたりしたくなかった。
泣いたら、きっと、私はもう泣くのを止められなくなりそうだったから……。
「真くん……この子の事、どうするの?」
「うん……」
私の知っている小鳥ちゃんより少しだけ成長した彼女は、ここでの真一郎の恋人に違いなかった。
その間に流れる雰囲気で、私には良くわかった。
「こんなのって……ないよ」
思わず、言葉が転び出た。
「ねえ、七瀬さんだっけ?」
「……そうよ」
答えないでやろうかと思ったけど、そうしたら余計に自分が惨めだった。
「ねえ、一体なにがあったのか教えてもらえないかな?」
「うん、俺もなにがどうなってるのか聞きたいんだけど」
びくっ。
自分がその言葉に震えたのがわかった。
だって真一郎の声で、そんな辛い事を尋ねられるのは耐えられないよ。
「言っても……解らないよ」
その様子を見て、小鳥ちゃんは少し顔をしかめると真一郎に呼びかけた。
「真くん、ちょっと……」
そのまま隣の部屋に言ってしまう。
こうして一人になると余計に、悲しみがつのってくる。
一体……なんだって言うの?
私は何をしに来たの?
ここは大体なんなの?
頭の中の考えはまとまるわけもなく堂々巡りをしている。
「……ええっ? それは、小鳥……」
「じゃあ、真くんはどうするつもりだったの?」
声を荒げた真一郎に小鳥ちゃんも少し声を大きくして真一郎に詰め寄っていた。
「う……それは、そうだけど」
「真くんのところに泊めるわけには行かないでしょ?」
「そうだよなあ」
「私が、今日一日じっくり話を聞いてみるよ。だから、真くんは今日のところは、ね?」
「でも、大事な話があったんじゃないのか?」
「……う、うん……でも、その話はまた、今度で良いんだよ」
「そうか、じゃあ、俺は帰る、な」
「やだ!」
自分でその言葉に驚いた。
どうして、引き止めるようなこと言ったんだろう。
真一郎の顔すら胸が痛くて見れないのに、残っていてくれても何も言えなくなるだけなのに……。
「……春原、七瀬さん?」
真一郎が、戸惑った表情で語りかけてきた。
「そうだけど、違う」
「なにが違うの?」
「名字……それは前のだから」
「……ご両親でも離婚したの?」
違うよ……真一郎。
「生まれ変わったんだよ! 私は……」
「生まれ変わった?」
困惑しきった真一郎の顔。
「転生したんだよ……それで、ようやく真一郎と再会したんじゃない……!!」
涙って尽きる事がないのかな。
こんなに泣いたのに、また、上をむいてられなくなっちゃったよ。
「真くん、やっぱり私に任せて」
「いやだ、真一郎にしか話したくないよ」
「私、これでも結構そういうこと詳しいんだよ」
「え?」
「お父さんがいっぱいそう言う本持っているから、私も少しは知識があるんだよ」
……でも、普通の人に言ってこんな事信じてもらえるのかな。
「大丈夫だよ。えーっと……七瀬さんは転生前に真くんに有った事があるんだね?」
にっこり笑いながらそう問いかけてくる。
「俺は、会った事無いんだけど」
「うーん、真くんは少し黙ってて」
「はい」
なんだか、おかしかった。
殊勝な真一郎もそうだけど、小鳥ちゃんの優しさが私を少しだけ楽にしてくれたのかもしれない。
「……うん」
「え?」
「うん、私真一郎と前世で出会ったよ。それから、何度か会っている間に……最初は寂しかっただけなんだと思う。でも、そのうち……」
「真くんの事好きになったんだね?」
「うん」
今度は驚くほど素直に頷けていた。
「そうなんだ。あなたも、真くんが好きなんだね」
凄く嬉しそうに、小鳥さんは私に笑いかけた。
「……そんな事があったんだ……」
全部話し終わって私が一息ついていると小鳥さんがそう言った。
「ありがとう、聞いてくれて。でも、信じられないよね」
少しだけ、私は自嘲するようにうつむく。
やっぱり嘘吐きだって思われるかな? 仕方ないよね。
「ううん、良いんだよ。私、正直言って信じられそうにない事ばっかりだったけど。でも、七瀬さんが嘘ついてない事だけは解るよ」
「どうして?」
「うーん、なんとなく、かな」
そういって照れ笑いする。
凄く、可愛らしかった。
「真一郎が好きになるの解る…な……」
「え? だ、だだだ、誰の事?」
途端に、あわあわと周りを見まわしてる。
演技でなくて本気でやれるところが凄いかも。
「ここで、他に誰がいるんだよ。俺が好きになったって言うんだから小鳥の事に決まってるだろ」
「は、はやや……なんか照れるよう」
「いくつになっても変わらないなあ、さっきまではなんだか大人びたなあなんて思ってたのに」
「羨ましい……」
「あ、ごめん、俺には君の事思い出せなくて……」
「ううん、もう良い。少しは落ちついたから。それに、話してる間に思い出した事もあるし」
「なに?」
「花摘の言葉」
「花摘……って言うとさっきの話に出てきた巫女さんか」
「うん、戻って来ようと思ったらいつでも戻って来れるって言ってた」
「帰っちゃうの?」
「……ここにいてもしょうがないし……」
「そっか……そうだね、少し打ち解けられたかなって思ったから少し寂しいけど。しょうがないよね」
「で、実際どうやって戻るんだ?」
……は?
どうやるって……?
「さあ……?」
「う、小鳥、こういう場合は呪文とかなんかでぱあっと行くのか?」
「わかんないよ。私だって、そんなに詳しくないし、本当にこんな事があるなんて思ってもいなかったんだから」
「まあ、あんまり詳し過ぎるのも怖いよな」
……つまり、私は帰れないって事なのかな?
「嘘でしょ……」
「大丈夫だよ七瀬さん。今に帰る方法が見つかるよ。それまではうちにいると良いよ」
「お、おい小鳥」
「……真くん、良いよね」
「まあ、その事に関しては俺がどうこう言う事じゃないだろ? このアパートは小鳥が借りているものなんだし」
「……うん……でも、真くんにも断っておかないとやっぱり」
「俺も、この子を追い出したりは出来ないよ。なんにせよ、俺の責任には違いないみたいだからな」
「……ありがとう二人とも」
「でも、帰れないって事はここに七瀬さんの真くんがいるって事なのかもしれないよ」
「どういう事?」
「うん、七瀬さんがここに来たのはもしかしたらなにかの意味があるのかもしれないって思うんだ」
「そうなのか」
「まあ、そうとは限らないけど、十分その可能性はあるんじゃないかな」
……考えてなかった。
真一郎がここにいるのにもう一人、真一郎がいるなんて考えてもなかった。
「いるかも、いるかもしれないんだ……真一郎が、いるかもしれないんだ……」
「うん、私達も出来たら探すの手伝うよ。ね、真くん」
「そりゃ、夏休み入ったばかりだからな、大学も休みだし……構わないぜ」
「本当にありがとう」
「気にしないで良いよ。私達にも無関係じゃないんだし」
「それより、なあ、小鳥」
「なあに真くん?」
「そろそろ食わないと、冷えきっちまうぞ」
「あ、お料理!」
見ると、既に私の目にもしんなりしているのが良く判った。
「あはは、七瀬さん、こんな料理だけど食べるかな?」
「お腹減ったでしょ、あんまり美味しくないかもしれないけどね」
「ううん、いつだって真一郎が作ったお料理は美味しかったから」
「それじゃ、だいぶ遅くなったけど、夕食にしよう」
「うん、暖められるものは暖めてこいよ」
「わかってるよ。七瀬さん、まずかったら言ってね」
「大丈夫、大丈夫だよ……」
この日私は、あの雨の日以来初めて心を落ちつけて食事をとることができた。
でも、私の前にはまだ不安が重い緞帳のように垂れ込めていたのだった。
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