Mirror Labyrinth
第16話
私は、大勢の人に揉まれながら、ゆっくりと歩いていた。隣にはいづみがいてくれている。
「久しぶりだな……祭りに来るのも」
「そんなに忙しかったの?」
「ああ、こんなにゆっくりしているのは久しぶりなんだ」
「……でも、真一郎は良いの?」
「う、うん……もう、大丈夫だし、私が側にいたところでどうにかなるわけでもないし、な」
本当は側にいたいってのがバレバレな言いよどみ方……。
「私のことならいいんだよ。私は一人ででも回るからさ」
「そう言うわけにも行かないさ。七瀬と会ってこうしてるのも何かの縁だ。同じ真一郎様を好きな仲間なんだしな」
「……信じてくれるんだ」
少し意地悪に言ってみる。
「いや、兄様達に話を聞いたら、兄様たちは結構見た事があるらしいからな」
「見た事があるって……」
「ああ、裏の仕事だからな。色々異能力者や不思議な事は見なれているそうだ。私は、七瀬が初めてだけどな」
「私は、今は普通の女の子なんだけど」
「そう言う意味じゃなくて、その変な現象に巻き込まれてるだろう?」
「……そうだね。でも、昔は私も幽霊だったんだし、記憶持ってるだけでも凄く本当は変なんだよね」
「気にしてるのか? そんな事」
「ううん……そうでもなかったよ」
そう、真一郎がいてくれたときは……。
そんな自分が誇らしかったような気がする。
でも、真一郎がいないと私は。
「真一郎様?」
その時いづみがびっくりした声を上げた。
「え?」
「いや、今そこに真一郎様そっくりの人が……見間違いかもしれないが……お、おい」
走り出していた。
見える、確かに真一郎かもしれない。
でも、人ごみが邪魔して中々追いつけない。
息が切れる、焦りが募る。
いづみの声は聞こえなくなっていた。
……結局、その人には追いつけなかった。
何度も、声をかけられる位置まで来たのに、そのたびごとに邪魔が入った。
まるで私と真一郎を遠ざけようとする力が働いているみたいに。
しかも、いづみと完全にはぐれてしまっていた。
祭りの華やかさが、私の目の中に飛び込んでくる。
ただの風景と同じようにただただ私はそれを眺めていた。
「お嬢ちゃん、金魚すくいでもどうだい」
店の前にじっと立ち尽くしている私に露天の親父が声をかけた。
「あの時と同じだ……」
「は?」
親父は妙な声で聞き返したが、私は返事をしなかった。
あの時私は、まだ小学生の女の子だった。
祭りには、真一郎が連れてきてくれていた。
でも、その時は一人ぼっちだったんだ。
真一郎を祭りの御輿を見ようとする人の流れで見失ってしまったから。
「しっかり繋いでてね、真一郎」
「わかってるよ、お姫様。それとも肩車でもしようか?」
「ばか、真一郎のエッチ!」
「なんでだよ……」
「ふん、だ」
そんな些細なやり取りを思い出す。
そうしておけば良かったかな……。
不安が胸をきゅっと締めつけてくる。
もし、真一郎と出会えなかったら……。
辺りを見まわす。周りは誰も知らない人たちだった。
思わず「あ……」って声が漏れた。
私は、孤独だった……。
真一郎と会う為に転生した私は、真一郎がいなかったら世界の中で一人ぼっちだった。
怖かった。
周りの人に話しかけても、誰も気づかないような気がして。
私は、知らないうちに涙を流し始めていた。
「七瀬!」
ようやく、真一郎と出会った時、私の頬はぐしゃぐしゃだった。
「馬鹿、真一郎の馬鹿……」
こぶしを固めて真一郎の胸に殴りかかる。
「手、離さないでって言ったのに」
結局、転生してその記憶を持ってても、小学生の女の子は小学生の女の子に過ぎないって事なんだよね。
真一郎に会えて、私はほっとして泣き出してしまう。
「ごめん」と謝る真一郎の声が優しくて、だから私は安心してもっと泣いてしまう。
「もう、会えないかって、凄く怖かった。真一郎がいなくなっちゃうんじゃないかって怖くて、怖くて……」
真一郎が私の顔を上向けた。額に軽くキスをくれる。
「あ……」
「大丈夫、七瀬。俺はいつだって七瀬のところに戻ってくる。絶対に、七瀬を見つけるよ」
「真一郎……」
真剣な目で真一郎はそう誓ってくれていた。
ばしゃっ。
「あーあ、破れちまったようだねえ」
金魚に破られて大きな穴が開いている紙の網を私はじっと見つめていた。
抑えきれない物が体を震わせる。
「馬鹿、嘘吐き、真一郎の嘘吐き……」
下を向いた私に親父が慌てる。
「おいおい、お嬢ちゃんこんなところで泣かないでくれよ……」
泣いたりなんかしてない!
ただ、ただ……。
「あーあ、終わりだな。さあ、帰ろうか」
振り帰ると、いづみがこっちを黙って見ていた。
「いづみ……」
ずっと見てたのかな……?
「それとも、そんなに金魚が欲しいのか?」
「……馬鹿言わないでよ」
「ふふ、だろうな。それなら行こう?」
憎まれ口を叩くのも、本当は優しいからだ。
「いづみは、世界が自分の事を見ていない……そんな気分になった事がある?」
「なんだい? それは?」
「自分が、一人ぼっちだって事……」
「ああ、あるよ。昔は良くそんな事考えたよ」
「そっか……」
「でも、真一郎様が間違いだって教えてくれたよ」
「間違い?」
「うん、人は決して一人じゃない。孤独なんかじゃないって事を」
「でも、それはいづみはこの世界の人だからだよね」
「七瀬? 自分の事言ってるのか?」
「気にしなくても良いよ」
「確かに七瀬は元々ここの世界にいる人じゃないよな。でも、それは違うぞ」
「え?」
「一人なんかじゃないだろう? 七瀬を見ていていくれる人は必ずいるよ」
「そうかな? 真一郎がいなかったら、私は自分が自分ですらないような気がするよ」
そう言ういづみだって、私がここからいなくなったらきっと私の事を忘れてしまうんだから……。
「馬鹿言うなよ! 実は私も真一郎様に前に少しだけ怒られた事があるんだけどな」
「なに?」
「私が……尽くす事、その事にずっと気を取られていて、好きだってことの本質を見失ってた時……『いづみは俺の付属品じゃないだろう? いづみはいづみだから俺は好きになったんだよ』って。そう、言ってくれたんだ」
いづみは少しだけ恥ずかしそうに笑って言った。
「それはきっと七瀬の事を好きになってくれた真一郎様も同じだと思うぞ、真一郎様が好きになった七瀬は、自信を持って良い自分じゃないか?」
「……真一郎が好きになってくれた自分……」
「そう、七瀬は、七瀬なんだよ。だから、七瀬がここに来た事もきっとそれは意味のあることだし、私が七瀬の事を知ったのもきっと私にとって、意味のあることなんだよ。たとえ……忘れてしまうとしても」
びっくりして、いづみの顔を眺める。
「やっぱり、そうか。兄様たちがその事も言ってたよ。そう言うものなんだって……異邦人は忘れ去られる宿命にあるって……でも、極々まれにその事を忘れてない人たちもいるんだ。私は七瀬と会った事を覚えてられないかもしれない、だけど、七瀬に教えてもらった事はきっと忘れないよ」
いづみの顔は、自信と優しさに溢れていた。
「いづみ……」
「なんだ?」
「カッコつけすぎ……」
「そうかもな」
苦笑いして、いづみは言う。
でも、良い笑顔。
「だけど……ありがとう。私、自分を信じて、それでもきっと真一郎が好きだから、だから頑張るよ」
「それが良いと私も思う」
『うえええええん』
突然近くで、子供の泣き声が聞こえた。
きょろきょろと辺りを見まわす。
木の上に子供がいた。
どうやら上ったは良いが降りられなくなったらしい。
他にも気づいた大人が木に登ろうとしているが、こういうことは体の大きな大人より子供の得意分野だ。
ばっ。
気づいたらいづみの姿は私の前から消えていた。
木に登っていく姿が見える。
速いし身軽だ。全く危なげがない。
「流石、忍者かな」
辺りの人も感心して眺めている。
その人ごみの中に……!!
真一郎!
間違いない……あの姿はいづみの真一郎様でも、小鳥さんの真くんでもない。私の、私の大好きな真一郎だ!!
くらっ。
……え?
目の前が揺れた。
これは……。
「うそ、待ってよ。まだ……まだ行っちゃ駄目だよ」
世界が薄れていく感触……。
私は人を必死で押し分けて進んでいく。
真一郎がこちらに気づいた。
「七瀬……!」
真一郎の声が私に届いた。
でも……それが最後だった。
木から無事に子供を救出して降りてきたいづみは母親にその子を手渡した。
『ありがとうありがとう』とお礼を言う母親に笑顔で返すと、いづみは同伴者を探した。
「牙無き人の牙。こういうのもそう言うのかな。なあ……」
そう話しかけようとして、いづみは自分には同伴者など“いなかった”事を思い出す。
「何をしてるんだ私は……そうだ、早い所真一郎様のところに戻らないと……こんな事で悩んで真一郎様の側にいられないなんて、うじうじ考えてる場合じゃない。決めたんだから、私は」
走り出そうとして、ふっともう一度いづみは後ろを振り返った。
「ありがとう」
その後自分でも何故そんな事言ったのかわからないという表情でいづみは背を向けた。
『七瀬!!!』
私の脳裏には必死になって手を伸ばす真一郎の姿が映っていた――。
第17話
真一郎の手。
後、少しだったのに……。
どうして? どうしてよ!
私はどことも知れない場所を漂いながら、思い返す。
あの真一郎は私のこと、わかってくれていた。
私の真一郎だったのに……。
「花摘! 花摘出てきなさいよ! 説明してよ! 私は真一郎を見つけたのに!」
私の声は、何も無い周りに、吸い込まれるように消えていく。
なににも反響してこない。
感じられるのは自分の体だけだ。
「花摘……」
信じたのは間違いだったのかな。
あの子には、なにか感じたのに。
私に近い何か……何かの絆。
それは、悪いものではないはずの……。
……ら、ら……。
不意に、聞こえてきた音。びっくりして目を凝らすと、そこには、また、あの兄妹がいた。
「歌、歌ってるのか?」
「お兄ちゃん……うん。ちょっと切ない歌」
「そうか……ラブソングはそう言うの多いからな」
「うん、気持ちが良く判るから……大好きな人、でも、その気持ちを言えなくて……言っちゃいけなくて……」
「まさか、好きな奴でもいるのか?」
「え?」
彼女は頬を染める。
「いるのか? どこのどいつだ! 俺の妹に手を出す奴は」
「ち、ちょっと、お兄ちゃん。そんな人いないよ……」
「そうか、それなら良いけど……本当に本当だな?」
「本当だよ、疑り深いなあ」
「ごめん、でも、お前は体弱いし、心配なんだよ。大事にしてくれる奴で無いとさ、だから、もし好きなやつが出来たら、真っ先に俺に教えるんだぞ」
「うん、わかったよ」
うつむいて、小さく彼女は言葉を続ける。
「お兄ちゃん以外に、好きになるような人がいたら、ね……」
「なんだ? なにか言ったか?」
「ううん、なんでも無いよ」
彼女は、儚げに笑う。
この子……花摘?
私はなんとなく、彼女にかつての自分の面影があるような気がした。
「やめなさいと言ったでしょう?」
場面は移り変わっていた。彼女は成長し、より美しくなっている。
そして、もう一人の人物……顔はなぜかぼやけていて良く見えない。
ただ、紫の美しい髪だけが印象的だ。
「何故?」
「あなたと、あの人は兄妹なのよ?」
「だから、なに? 私は、おに……兄様の側にいたいだけ、それだけなのになんでお母様……」
「お前がどんな想いで見ているか気づかないとでも思っているのかい?」
彼女は顔色を変える。
「それにお前は私の子なんだよ。あの人とは、違うんだよ……」
「え?」
ぼやけた表情の中でも女がにいっと笑ったのがわかった。
「そろそろ、気づいているだろう?」
「な、なんのこと? お母様、一体……」
「ふふふ。お前は最近随分と元気になったね……でも、その代わり……」
なに? 良く聞こえない……。
でも、それを聞いた彼女はますます、青くなった。
「いや、いやあああああ!」
恐怖に耐え切れないように叫ぶ、そのシーンで何もかもがふっと消えうせる。
なんなの?
いったい……。
こんなものを見せて、何がしたいんだろう。
大体、ここはどこなんだろう。
私は何をしてるんだろう……。
花摘がやってるんだろうか。
あの子が私を苦しめて楽しんでるんだろうか。
「花摘……返事しなさいよ。してくんなきゃ、私皆あんたのせいだと思うよ?」
ふぅっ。
目の前に新しい景色が浮かび上がる。
「花摘?」
今度は間違い無い。花摘だ。
「花摘……あの女に余計な事をしているようだね」
相対する人物……さっきの夢と同じ、紫の髪……。
あれ、どこかで……見た覚えがある。
ついさっきとかじゃなくて、もっともっと古い記憶――。
痛っ!
頭がひどく痛んだ。
「そうですか?」
花摘は丁寧だが、愛想の欠片も無い言い方で答える。
「とぼけるんじゃないよ……あの女は、一度あの男と触れ合うところだったよ」
「……それは、あなたの仕事が上手く行かなかったんでしょう?」
紫の髪の女の焦燥をさらりとかわし、冷笑を浮かべる。
……花摘、まるで別人みたい。
こんな、怖い顔もするんだ。
「まさか私を裏切る気かい?」
「……どうやって?」
蔑んだような、そんな口調。
花摘は、その女の事が嫌いみたいだった。
「私は自分で死ぬ事も出来ないのに……」
「ほほほ、それもそうだね。お前の運命は我が手のうち……あの娘をどうこうした所でお前になにも出来るはずが無かったね」
いやな奴!
はっきり言って虫唾が走るような笑い声だ
でも、花摘の自分で死ぬ事も出来ないって……どう言う意味なんだろう。
それに、私の事?
この二人が話しているのは?
なんの為に、私の……。
「それより、準備はできたの? 七瀬を、捉えるための……」
言いながらちらりと花摘が視線をこちらに向けた。それは一瞬確かに私に向けられて、それから自然さを装って離れていった。
見ている事に気づいた?
「まださね。ものには準備がある……ほほほ」
だが、もう一人の女はその花摘の行動には気づかなかったようだった。
「真一郎さんはどうするつもり?」
「ああ、あの男にはもう用は無いよ……あの男が何をしようともう無駄なこと」
真一郎?
真一郎がどうかしたの?
「でも、放っておいて良いの?」
なんだか、花摘……急に態度が変?
汗かいてるし、ちょっと苦しそう。
「……ふふふ、苦しいのかい? 花摘」
「関係無い……それより、どうやって捕らえるつもりなの?」
また、チラッとこちらを見る。その瞳の奥に、訴えかけてくる光。
……どう言う意味なんだろう。良く判らない……花摘を信じて良いんだろうか?
でも、悩んでいる意味は無かった。
「……いや、秘密にして置いた方が、面白いさ……」
「教えてくれないの?」
「必要無いからねえ。お前が裏切るつもりでもなきゃ、ね」
花摘の表情がこわばる。
「さっきも言ったけど、そんな事するわけない……」
「わかってる、だけど。用心には用心を、いくら重ねても重ね過ぎと言う事は無いよ」
花摘は平静に戻って、「そうね」とだけ言った。
だけど花摘の、握り締められた手のひらは、悔しさを雄弁に物語っていた。
……花摘。
私に一体何をさせたいのよ。
私は、どことも知れない場所を漂いながら、再び消えてしまった花摘達のいた場所に声をかけた。
第18話
目の前に鏡が見える。
何も無い空間の中にポツリと鏡だけが見える。
そう、その他には何もない。
私自身の体さえも……。
だけど、私は確実にその鏡に引き寄せられていく。
なんだかあんまり気分は良くない……異様に眠いし……。
そのくせ、頭はがんがん痛む。
気にかかってる事とか、わけわかんない事が多すぎるからかもしれないけど。
もちろんずっと考えてるのは真一郎の事。
私は望んでこんなへんてこな場所に居るけど、真一郎はどうしてこんな場所に居るんだろう。
花摘に私をつれてきてくれるよう頼んだのは何故なんだろう。
それに、良く見る夢……さくらと若い真一郎の出てくる、あの夢。
さくらの気持ちがなんとなく解って、ちょっと妬ける。
でも、一体さくらは何を見たんだろう。
どうして、そんなに焦っているんだろう。
私が……まだ、あそこにいる?
花摘はあそこで、何をするんだろう。
それから、兄妹の夢。
あれも花摘が出てくる。
花摘は、あのお兄さんと幸せになったんだろうか……。
私は無い頭を振る――あり得ない。
最初に見た、あの血溜まりはきっと……泣いていたのは花摘。
最後に、さっきのあの二人……。
誰?
私を捕らえようとする?
あの、何故か懐かしい紫の髪の女の人は……教えて、花摘。
こうして考えてみると……どの話の中心にも、花摘が居る。
花摘はきっと、たくさんの事を知ってる。
そして、それを私に隠している。
それが、私にとって良い事なのか悪い事なのか……。
『あなたの周りは嘘と虚構で塗り固められています。でも、そこには常にあなたへの真実を示す何かと、味方が存在します。決して、それを見誤らないように』
突然、頭の中に花摘の言葉が蘇る。
どう言う意味なんだろう。
私は、何かの罠にはまりかけているのかな……でも、一体何を疑ったら良いのよ。
花摘……彼女は絶対に嘘をついていない、それは、信じられる気がした。
あの私との別れ際向けた、あの切ない瞳だけは、本物だったから。
身内を案じるような不安の色をたたえていたから……。
考えているうちに目の前に鏡が迫っていた、
ぶつかる!
思わず目を閉じたが、良く考えれば今の私には体も無かった……。
何かが変わる感触がして私は鏡に飲み込まれていた。
光が周りに満ちる。
乱暴に意識が攪拌される感覚。
その中で私は、大切な何かを思い出したような気がした。
「わあ……」
思わず私は感嘆の声を上げる。
気がつくと、私は美しい風景の中に立ち尽くしていた。
見渡す限りの、山、山、山……。
そして、それらは全て一つの色に埋め尽くされていた。
私は自分の失策と状況に、思わず頭を抱えたくなった。
そこは、一面の銀世界だった……。
くしゅっ。
可愛らしいくしゃみが、自分の鼻を突く。
寒い。
美しさに感動してるような場合じゃない。
こんな、スキーヤーも居ないような雪山の中に、私はサマーセーターで一人ぼっちなんだ。
そう、私はサマーセーターを着てた。
いづみの世界で、服を調達しておくべきだった。
あの世界は、既に秋だった……何故かはわからないが、世界とともに時がそうやって移ろっていくなら今回冬になる事は大体予想がついていたのに。
そんな事を考えている間にも、寒さは私の身に染み入ってくる。
「冗談でしょ……ここでじっとしてたら死んじゃう……」
自分で出した声がやけに静かで、改めて私はとんでもない状況に置かれているんだって事がわかった。
もう、今度は振り返らなかった、とにもかくにも、この山を降りなくちゃ。
私はざくっと音を立ててめり込む新雪に足を踏み入れた。
ざくっざくっざくっ。
下を見やると、いくらかは麓が近付いているように思えた。
このペースなら、きっと、もうすぐだ。
ざくっざくっざくっ。
靴に、雪が解けて染み込んで来た。
「うう、冷たい……」
こびりついてる雪を無駄と知りつつ払ってまた、下り始める。
ざくっざくっざくっ。
足はもう、靴下までびちゃびちゃだ。
でも、気にしてる余裕はない。
すきっ腹に手をやって、私はぞくっと震える。
「ああ、早く降りて暖かい物でも食べたいな……」
ざくっざくっざ……
ずるっ・ずしゃああ。
「あ、あっ!」
私は鼻から雪の中に滑り込む。
う……。
結構痛かった。
日中の太陽にさらされ表面が少し固まった雪は私に優しくはなかった。
じんじんひりひりする。
「ふぅっ……ぐ」
なんだか、泣きたくなってくる悲惨さだ。
でも、私は体中の雪を払うとまた、ゆっくり下り始めた。
ざくっざくっざくっ。
いいかげん自分の足音の単調さに気が狂いそうになる。
でも、変えられない。無駄な体力を使うだけだから。
ざくっざくっざくっ
ふもとを見やる……さっき見たときと何も近付いていないようだった。
自分の体を凍えそうな両手でさすって暖める。
そして、また降り始めた。
ざくっざくっざくっ
はあ、はあ、はあ……なんだか、異様に呼吸が苦しい。
熱が出てきてるのかもしれない。
くしゅっ。
また、くしゃみが出た。鼻が、詰まる。
額に手を当てる。
額が冷たくて気持ち良い。でも、手のほうは痛いぐらいだった。
「手もあっためられるし、好都合……」
自分で、馬鹿な事を言ってると思いながら私はそうして歩きつづけた。
ざくっざくっざく……
私は、目の前にちらついたものに驚いて足を止めた。
いつのまにか、空は暗黒に覆われていた。
そして、まるで無邪気な妖精のように、無慈悲な死の使いは私の視界を真っ白に変えていった。
「うそ……」
私は、それでも下に向かって歩き出した。
死にたくない。
ううん、死ねないから。
もう一度真一郎に会うまでは死ね無いんだから。
ざくっざくっざくっ。
誰かが、自分の前で立ち止まっていた……。
「大変! 大丈夫? 聞こえる?」
私は体を抱き起こされながら、何も言えずに居た。
うすぼんやりと、その声をただ聞いていた。
「……早く、連れていかないとまずいわね」
その人は、荷物を捨て去り、私を背負うと歩き出した。
私の意識はそこで闇の中へと飲み込まれていった。
第19話
……
…………
私は、怯えていた。
もうすぐ何かがわかる気がする。
目の前で起ころうとしている、このさくらと真一郎の一部始終は何かを教えてくれるだろう。
だけど、私はそのなにかが怖かった。
本当は知らなくても良い事なんじゃないだろうか。
でも、私は目を逸らす事なんか出来なかった。
きっとそれが真一郎の元に行く為に必要な事だと頭のどこかで知っていたのかもしれない。
「一体、はあ、どう言う事なんだよ……はあ」
走りながら真一郎がさくらに尋ねる。
「二週間前です。ここで、また七瀬先輩の姿を見たのは」
真一郎と違ってさくらは全く息が切れていない。
「……七瀬先輩を見て私は、先輩に会わせるわけには行かないと思いました。何故戻ってきたのかわからないけど、私は先輩に黙って送り返してしまうつもりでした」
「さくらちゃん」
さくらはすまなそうな顔で真一郎に謝った。
「ごめんなさい、でもそれが一番正しい事だと思ったんです」
「ううん、わかってるよ。でも、七瀬はなんて言ってたの?」
さくらは瞳をわずかに曇らせる。
「七瀬先輩は、意識が無いみたいでした。何度話し掛けてみても、私の声に応えてくれる事は有りませんでした……それに……」
「それに?」
真一郎の言葉にはっとしたさくらは首を振って否定する。
「いえ、なんでも無いんです」
真一郎は、聞き返したい気持ちをぐっと抑えつける。
「……良いけど、それでどうして考え直したの?」
「え?」
意外そうなさくらの声。
「先輩はやっぱり優しいですね。……実は、私何度も送り返したはずなんです」
「え?」
今度は真一郎が驚く番だった。
「確かに、送ったはずなんです……でも、次の日来て見ると、またいるんです。なにかが引き寄せているみたいに」
ようやくそこで階段まで二人はたどり着いて、だんだんだんと音を立てて駆けあがる。
「だから、私は……自分のしている事に、自信が無くなってしまったんです」
さくらは自分の苦しかった胸の内を打ち明ける。
「本当は自分のした事は間違っていたんじゃないか。運命が二人をめぐり合わせようとしてるなんじゃないかって……そして、自分が利己的な感情をいつのまにか抱いていたんじゃないかって、そう思ったら……否定できなくなってたんです」
真一郎は、さくらの告白にあえて反応を返そうとしなかった。
ただ、ひたすらに走る事に専念する。
まだ、ここじゃない、その通路の先を回ったところ――。
どしん。
横からさくらが真一郎に突きかかった。
ものの見事に転ばされる真一郎。
「な、何を?」
「……そんな、結界。しかも、これは神魔金剛陣……?」
呆然とするさくらに真一郎がわけのわからないまま近付く。
「ここには、結界が張られてます。とても強力な結界が……」
目の前の通路から目を離さずにさくらが答えた。
「結界、壁みたいなもの?」
「だめ、相川先輩!」
近付こうとした真一郎を今度は引き戻すだけでさくらは止めた。
「そこに張ってあるのは神魔金剛陣。神族の血筋を引く一流の術師と魔族の血筋の一流の術師が協力してやって張る事の出来る結界です。触れたら衝撃で普通の人間なら2、3週間は動けませんよ」
ぞくっと真一郎の体が震えた。
さくらが嘘など言っていないのが真一郎にはよくわかっていたから。
「でも、七瀬が、この先にいるんだろう?」
「はい、そして今水沢さんが中で、七瀬先輩を祓おうとしてるはずです」
さくらの表情は冷静な彼女には似つかわしくないほど焦り、苛立っていた。
「七瀬を祓う? 成仏させるって事?」
「違います。水沢さんは多分妖魔狩人(ハンター)ですから」
真一郎の顔がわからないと言う形に歪むのを見て、さくらは説明をする。
「妖魔狩人は、特殊な、自然の摂理から外れた生き物たちの命を奪う事を生業としています。だから、私は彼女が来た時、自分と戦う事になるのならいずれが勝つにしろここには居られないと思いました」
「だから?」
真一郎がさくらにさっきとはニュアンスが違う言葉を投げかける。
「ええ、私がいなくなる前に会わせてあげられる機会はもう無かったから」
話ながらさくらは結界の様子を探るように手を突き出している。
「大丈夫なの?」
「私は、普通じゃありませんから……。それより、今は急がないと……。妖魔狩人たちは滅多に相手しないけど霊も狩の対象なんです」
さくらは唇をかみ締めて、そう真一郎に告げた。
「それって……」
「ええ、成仏ではなく、彼らは消滅させるんです。無へと魂を返してしまうんです。そうすれば二度と七瀬先輩は……」
真一郎の全身に震えが走った。
「そんな……早く行かないと!!」
無理にでも、突破しようとする構えを見たさくらが慌てて引きとめた。
「駄目です! この壁を壊さない事には、先になんか行けません!」
「でも!」
真一郎の悲痛な表情にわずかに胸を痛ませながら、さくらはぐっと唇をかみ締めた。
「……やってみます、なんとか解呪してみます」
私が、帰って来てた?
そんな、そんなはず無い。そんな記憶は私には無い。
それとも、ここにいる私は……?
誰?
誰なの?
私は本当に七瀬なの……?
教えて!
…………
……
やけに良い匂いが漂っていた。
「ここは……?」
私は呆然と、木の天井を眺めながら呟いた。
毛布に包まっていて、それでも少し寒かった。
頭がボーっとするし、なんだか熱っぽい。
「山小屋の中よ」
答えを期待して言ったわけではなかったから、ちょっとびっくりした。
綺麗な緑の髪を揺らして、女性が私の顔を覗き込んでゆったりと笑った。
「どうして、……私?」
「雪山で倒れていたの。本当は麓の病院まで運んであげたかったんだけど……」
彼女は気遣わしげに外を見やった。
「この天気じゃ下まで無事に降りられそうに無いから……」
私が首をめぐらして見ると、外はものすごい吹雪だった。
「既製品で悪いけど」
そう言って差し出されたカップの中にはコンソメ味の野菜スープが入っていた。
さっきから、漂っていたのはこの匂いだったんだ。
「ありがとう……」
体は少しだるかったけど半身を起こしてそれを受け取る。
「暖かい……」
飲み込むと体の奥から暖まっていく。
「さあ、飲み終わったら、また横になって眠りなさい。まだ熱も高いし今のあなたには眠ることが必要よ」
なんだか、誘い込まれるような、そんな口調だ。
「お眠りなさい。私が、見ていてあげるから……」
彼女はそっと、私の頭に手をやり、ゆっくりゆっくり、撫で始めた。
“ああ、なんだか安心すると思ったら、この人若い時の真一郎によく似てる……”
私は、また怖い夢が待っているかもしれない事は忘れて、眠りへと落ちていった。
第20話
……
…………
すすっ。
廊下の壁に、手を沿わせながらさくらは真剣な顔で空中に何かを指で書いた。
「やっぱり、これならなんとかなるかも……」
「どうしたの?」
「さっき、神族と魔族の一流の術者が必要だって言いましたよね」
振り返ってさくらが真一郎を覗き込む。
「うん」
素直に首肯して答える真一郎に安心して次を続けるさくら。
「そう簡単には、その二人が揃う事なんて無いんです。何せ、敵対者ですから。だから、こうやって呪符等を使って誤魔化すんです。それによって片方だけの術者でもこの術を可能にします」
「良くわかんないけど、とりあえずまがい物なの?」
ちょっと複雑な表情をしながらもさくらはわざわざ詳しい説明をする事もないと判断したようだった。
「まあ、そう言うところです。でも……」
「どうしたの?」
煮え切らない言葉のさくらに真一郎が尋ねる。
「いえ、神魔両方の符があるので……てっきり水沢さんは神族だと思ってたから」
「あのさ、凄く基本的な質問かもしれないんだけど、神族と魔族ってどう言うものなの?」
……さくらの動きが一瞬、止まる。
「この場合の神族と魔族っていうのは、簡単に言ってしまえば使う力の方向性と特性の違いです。でも……元々両者は同じものだったのにね」
少しばかりの悲しさと、侮蔑の混じった表情をしたさくらは、それでもすぐにそれをかき消した。
「どう言う事?」
「ただ、それが人の目にどう映ったか。それが分かれ目。畏れの対象になったものは神へと、恐れの対象になったものは魔へと、人が両者を変えたんですよ。多くの神話とそれが与える役割。人の信じる力は怖いです。だから、魔族は迫害されたものたちで、人を恨むものが多く、神族は優遇されたものたちだから、魔族を倒したり、人に加護をくれるものもいる。その為に力を使ううち、魔族と神族はより明確に目に見える形で分化してきたんです」
思いを吐き出すのに疲れたかのようにいったんさくらは息を切り、ため息をついた。
「祝福者である神族と、呪詛者である魔族とに。でも、魔族の全てが神族の全てが必ずしもその特性に縛られているわけじゃないです。中にはその力を捨て、人と同じように生活してる、私の一族みたいなものも……」
「……さくらちゃんは魔族なの?」
真一郎は黙って聞いていたが、さくらが苦しそうな顔をしたのを見過ごさず、そう尋ねた。
「……私は、自分が人だと思ってますけど、魔族といった方が、正しいんでしょうね……」
思っていると言うより、信じたいと言う気配が色濃くにじみ出ていた。
「良かった、それなら、魔族ってのが怖いばっかりじゃないって信じられるよ」
「そうですか? 私は先輩を騙しているだけかもしれませんよ……」
「そんなこと、無いよ。だって、こんなに人のために一生懸命になれるさくらちゃんが、そんなわけ無いから」
さくらは、結界の方を向いて、必死で涙をこらえた。
“駄目、この人は、私が抱き着いちゃいけない人なんだから……”
集中が途切れそうになってさくらは慌てて、頭を切り替える。
「後、少し。ザぺテ・クライツという結界をぶつけてみる……この結界は中にいる者全てを攻撃する攻撃系の結界です。なんとか、これで無効化出来ると良いけど……いえ、なんとかします」
「中にいるもの全てって……」
心配そうな顔をしてしまった真一郎に微かに笑ってさくらは安心するよう言葉をかける。
「大丈夫、神魔金剛陣の外側からかけるから、力は全部それに吸収される。結界を崩せたら、その時点で術を解きますから」
「わかった、無茶苦茶言ってるかもしれないけど、無理はしないでね」
「はい」
さくらが、そう答えると同時に目の前の空間に星の形のような文様が現れる。
ミリッ……。
軋むような音がそこから聞こえてきた。
同時に足元が揺さぶられるような感触……。
「うあっ」
その衝撃に立っていられずに真一郎は無様に床を転がった。
バギンッと凄まじい音がした。
真一郎が顔を上げてみると同じように倒れ込んでいるさくらと、壊れた旧校舎の姿が目に入ってきた。
「さくらちゃん!」
「大丈夫……それより、壊せませんでした……」
がっくりとうつむいたまま言うさくらに、真一郎はかける言葉も無い。
かつんとさくらの投げた小石が何もないはずの場所に当たって撥ね帰る。
一瞬、その結界が煌いてその姿を見せたような気がした。
「ありがとう、でも、俺は行くよ……」
真一郎がぐっと拳を握り締めながら答える。
「……壊せなかったけど、通れますよ。壁壊れちゃいましたけど、その外側なら通れます。呪符の関係で内側にしか張れなかったみたいですね」
さくらはもう一度小石を外側から投げ入れるようにする。
今度は、壊れた所を通った石は向こう側に転がって行く。
「行きましょう、先輩!」
さくらは、にっこりと笑いかけていた。
「ああ」
真一郎は答えて走り出した。さくらも即座に立ち上がって走り出す。
“今ので、大分力を使わされちゃった……いざって時は先輩……”
さくらは覚悟を決めて、下唇をかみ締めていた……。
「七瀬っ!!」
いつものあの教室に真一郎が駆け込んで見たのは恐ろしい光景だった。
だらんと垂れ下がった手足。
力なく閉じられた瞼。
その細く白い首筋に手が巻き付いている。
白と黒の対照的な服装の二人。
一人は水沢花摘と名乗った少女。
もう一人は春原七瀬。真一郎の誰より大切な少女だった。
振り返った花摘は悲しそうな顔で、言った。
「来てはいけなかったのに……」
「来ては行けない? 七瀬に、一体何をしたんだ! 七瀬は一体……」
「私は七瀬さんには何もしてない。ただ、この肉体は破壊しなければ……!」
「やっぱり……」
さくらが後ろから現れて納得したような声を出す。
「何がやっぱり?」
「七瀬先輩の肉体がどこかにあるんじゃないかと思ってたんです。そのせいで昇天させられないんじゃないかって……ううん、ずっと私が払おうとしていたのは七瀬先輩の肉体、それも巧妙に隠された幻影のような物だったんじゃ……」
「その通りよ」
声は花摘の後ろから聞こえた。
さっきまで死んでいたようだった七瀬の体が花摘の手を振り払って床にと降り立つ。
そのまま、無防備になっていた花摘の腹部に手を添えた。
弾かれるように、花摘が机や椅子を伴って派手に吹き飛ぶ。
「ふふふ、私をずっと祓おうとしていたみたいだけど、ご苦労様」
さくらを眺めて言う七瀬。
だけど……。
「七瀬じゃない!」
「そうよ、でもこの体は正真正銘、春原七瀬なんだけどね……」
『それ』は、真一郎に向けてにたあっと笑った。
「それにしても、27年、そう言ってた。その間どうしてその体が年を取っていないの?」
「そんなのわかってるだろう? 人狼の娘」
びくっと震えるさくら。
「なぜ……」
「ふふふ、私の前で真の姿を隠していられるものなんて存在しないのさ。母親が生粋の人狼……もう片親は何てことないみたいだけどね」
その言葉にさくらが不思議そうな顔を一瞬だけする。
「あなたが、魔物だからね?」
「そうだ、お前と同じ身の上だからさ」
哄笑を上げる魔物に耐えきれないように、さくらが叫ぶ。
「私は違う! 人狼は、人の体を奪ったりしない」
「そうかな? 人を食らっておいて、奪わないと言うのも変な話じゃないか?」
あまりに血なまぐさい台詞に真一郎がどう思ったか気にするさくら。
だけど、真一郎の目はずっと七瀬の体そのものに向けられている。
「名前は?」
「我の名か?」
「そうだよ、七瀬なんて言うなよ!」
「ふん、じゃあ七瀬じゃ。その名と戸籍を借りて過ごしてきたのだからな。この30年近く……色々怪しまれもしたが、人間の記憶などなんとでもなるものよ」
その途端花摘が、飛ばされた辺りからがたんっと音をたてて平然と這い出してきた。体には擦り傷一つ見当たらない。
「刃閃!」
気合とともに手にした紙切れを七瀬に向かって投げ付ける。
光の軌跡を伴い、それが七瀬の頬を切り裂く。
ぎらりと睨みつける七瀬に、臆した様子もなく、花摘が言う。
「あなたを許さない。あの人を殺したあなたを!」
「本気で逆らう気かい? 花摘」
「私は、あなたを滅ぼしてみせる。絶対に、絶対に、お母様!!」
驚愕の瞳を向ける真一郎とさくら。
だけど、一番驚いていたのは……。
花摘の母親?
……私が?
ただその情景を見せられながら、私は呆然とその事実を受け止めきれずにいた……。
…………
……
悪夢はまだ終わらない。
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