Mirror Labyrinth

 

 第26話

 
 町にはクリスマス商戦のサンタクロースが溢れていた。
「明日はクリスマスイブか……。こんな風景見てると、それなりにわくわくするものだから不思議だよな」
 真一郎は私より少し高い目線から町を見渡していた。
 ベージュ色のコートに身を包んだ真一郎は私の知らない時の真一郎で……とても、格好良かった。
 でも、私のほうはこの格好じゃ少し……って言うかかなり恥ずかしいかも。
 二人して歩き出してしばし、私は自分の格好を思い出して頭を抱えた。
「あ、あの? 真一郎」
「何?七瀬」
 繋がれた手から、暖かいものが伝わってくる。
 それは真一郎が決して私をないがしろにして無いからなんだろうな。
「あの、ね……私……くしゅっ」
 話しだそうとした瞬間に、私はいきなりくしゃみしていた。
「七瀬、大丈夫? そういやあ、変な格好してるね……あ、ごめん」
「う、真一郎酷いよ……そういうところ、全然成長してない。女の子にはもう少し気を使ってよね」
 わざと少しふくれっつらをしてみせると真一郎は慌てて私の前に回り込んで弁解し始めた。
「ああ、だからごめんって……そうだ! 再会の記念とお詫びに何かプレゼントするよ」
 服を買ってくれるって事なんだろうなあ……。
「う、気になるかなあ? だったら、自分で買うよ……」
 言われてから真一郎は少し私を眺めて。
「ちょっと寒そう、かな。今日は雪が降るって言われてるしね……」
 私はどんよりと雲の立ち込めた空を見上げる。
「本当だ……降りそうだね」
 あんな、暗いどろどろした物から真っ白な雪が降ってくるなんて不思議だよね……。
「七瀬と会ったのも、冬だったね……」
「うん……あのときは『真一郎君』だったのにね。今はおじさんだね」
 真一郎が少しむっとする。
「そんなにおじさんとか言うほどの年でもないぞ」
 ドキッとした。心臓がかすかな痛みを覚えて一拍打った。
「あ……ご、ごめんちょっと勘違いしてた」
 最低だ……私。
 私は『私の真一郎』とデートしてるつもりになってた。
 
 やっぱり言わなくちゃ……嘘は付いていられないよ。
「ほら七瀬」
 目の前に、真一郎がホットコーヒーの入った紙コップを差し出す。
「うわ、いつのまに……」
「はは、ちょっと七瀬がぼうっとしてる間にだよ」
 真一郎はそう言って笑った。
「優しいね。真一郎」
「何言ってるんだよ。俺、昔は優しくなかった?」
「……そんな事は無いけど。もっと、こうがっついてたって言うか……」
「そんな、酷いな七瀬は」
 苦笑いを浮かべる真一郎に、私はなんだか泣きたいような救われたような気持ちになっていた。
「な、俺からプレゼントさせてくれよ。何か、七瀬に上げたいんだ。それを想い出の代わりにしようなんて考えちゃいないけどさ……」
 真一郎の言い募る言葉に私は思わず頷いていた。
 
 二人で、長い事いろんな店に冷やかしに入った。
 服は、最初の店で白いふわふわした綿のついた赤いコートと長めのスカートを買った。
 同じく買ったバッグに元の服を詰め込んで、私達は寄り添って歩いた。
 久しぶりに、心の底で安心できたような気分に私は、言わなくちゃいけないと言う気持ちを少しずつ先送りにしていた。
 
 振り返った真一郎が笑いかける。胸がいっぱいになって、私は思わず微笑む。
 どこかで見た光景、幸せの構図――――。
 ああ、そういえば、去年のクリスマスの真一郎とデート、ショッピングして町を回ったっけなあ……。
 
 
 あの日、私は精一杯のおしゃれをして、真一郎とのデートにはしゃぎ気味だった。
 町は真っ白で、生まれ変わってからはじめてのホワイトクリスマスだった。
「なあ、俺達はどんな仲に見られてるんだろうな」
 真一郎が町行くカップルを見ながら、苦笑いして私に言った。
「そうねえ、クリスマスの日に仲良く歩いてる親子連れってとこかな?」
 茶目っ気たっぷりに言うと、それでも、真一郎は少し悲しそうにした。
「悔しいけど、そんなとこだね」
「真一郎、ちょっとしゃがんで」
 真一郎は、私の言葉に、柔らかい笑みを浮かべる。少しだけ、子供扱いされているようで、胸が痛い。
「なんだい?」
「いいから」
 私は真一郎の袖を引っ張って、半ば強引に私の目の前に顔を持って来させる。
 目をつぶって。
 ちゅ……。
 軽く、でも、私はそのまま離そうとしない。自分から真一郎の口へと舌を差し入れていく。
 大分して、ゆっくりと離すと、真一郎が驚いた顔をしていた。
「な、七瀬……?」
「えへへ、これで誰も親子連れだなんて思わないよ」
 真一郎は一瞬ぽかんとした顔をして、次の瞬間笑いそうな、怒ったような顔をした。
「……この」
 真一郎が言ったかと思うと急に顔に冷たいものが張りつく。
 雪……。
「や、やは。真一郎、雪だまぶつけるなんて……今日のプレゼントは高くつくわよ」
 雪だまを払っている私を、くすくす笑いながら真一郎は見ている。
「ああ、良いぞ。ボーナス出たばっかりだからな。……なんなら……給料3ヶ月分いってみるか?」
「やったーーっ。うふふ、ふ、何買ってもらおうかな……ん? さっき最後に何か言った?」
 真一郎は、ちょっとだけ残念そうに苦笑いして首を振った。
「……いや、なんでも無い」
 本当は聞こえていた。
 胸がどきどきしていた。
 でも、まだ14だもんね。
 今は聞こえなかった事にしとくよ。
 まだ、独身時代を満喫したいもんね。
 …………なーんて言っても、真一郎以外の男なんか眼中ないんだから、同じだけど、さ。
 真一郎、こんなに私が想ってやってんだから16になったらとっとともらってよね。
 
 
「指輪……指輪買っておきたかったな……」
 こんな事になるんだったら、真一郎を感じられるもの、もっと身近に持っておくんだった。
 でも、良いんだよね。明日には会えるんだし。
 会ったら、今度こそおねだりして、買ってもらおう……。
 真一郎との絆になるような物。
「指輪? う、安物しか買えないけど……」
「え? あ、ああ。そういう事じゃないの。ごめん、ぼうっと変なこと考えてて……」
 真一郎は、ついと目を逸らす。
 遠くの方を見て微かに寂しそうな苦しそうな表情が浮かんで消える。
 一体何を考えたんだろう……。
 そうして、少し考えて、私はもう1度この『真一郎』が私にとっての真一郎じゃないんだって実感した。
「唯子さんのこと、やっぱり気になる?」
 真一郎がびっくりする。
「ごめん、そんな事考えるつもりじゃなかったんだよ。ただ、指輪、明日渡そうと思ってたからね」
 指輪……。
『婚約指輪だね』
 口にしたつもりの言葉は微かな吐息になって白く流れただけだった。
 こんなに、胸が痛い。違う真一郎だと解っているのに。
 これまでだって小鳥さんの真一郎やいづみの真一郎にも会って来たのに……。
 握り締めようとした拳は力が入らなくて、ただ、小さな震えが体に沸き起こる。
「七瀬……」
 心配する真一郎に私は無理して笑顔を浮かべる。
 心の中に一つの疑問を浮かべながら。
 
 ……この世界の私はどこでどうしてるんだろう。
 真一郎に選ばれなかったこの世界の私は、どうしたんだろう。
 真一郎に会いに来なかったのかな?
 もし、会っていたなら、この気持ちに耐えられたのかな……。
 
『人魚姫は王子様に出会って恋をしたのです。そして、声の代わりに両足を手に入れ王子様のもとに行く事が出来ました。けれど、王子様は他の女性を選んでしまいました。人魚姫は王子様に選ばれなかったために、海の泡になってしまったのです……』
 
 急に頭に響き渡った懐かしい声に私はどきりとした。
 それは、昔の私の――まだ春原七瀬が生きていた頃の――母親の語る声だったから……。
 そして、次いで沸き起こる私であって私で無いものの声。
 
『……消えてしまうんだよ、その為だけに私は生まれてきたんだから。真一郎に愛してもらえなかったら、なにも残らないんだから……』
 
 私は自分の心に浮かんだ考えを頭を振って追い払う。
 あまりにも、悲し過ぎた。
 私は、この世界では生きている意味すら無いんだろうか……。
 もう1度空を見上げる。
 白い雪がちらちらと視界に入り始めていた。
「雪だね……」
「……うん」
 やっぱりここに私の居場所は無い。
 ここは、違う世界の違う真一郎の元なんだ……。
「真一郎、話があるんだ……ゆっくり話出来るところ、行こ」
 真一郎は少しだけ考える様にしてから頷いた。
「……ん、解った」
 雪は、少しずつ勢いを強め始めていた。
 
 
 暖房の効いた店内には、客の姿はまばらにしか無い。
 こぽこぽと音をたてるコーヒーのサイフォンが妙に眠気を誘うのか、端の方で客の一人がテーブルに突っ伏して寝ていた。
「なに頼もうか?」
 真一郎が、気分を紛らわす様に言った。
「うん」
 私はここに来るまでさっきから、真一郎の言葉に返事しかしていない。
 また、変な返事をしてしまった私に真一郎はため息をついて、ミルクティーとブレンドコーヒーを頼む。
「ミルクティーでいいね?」
「うん」
 私は一体なんと言って切り出せば良いのだろうかって、ずっと悩んでいた。
 ミルクティーとコーヒーが運ばれてくるまでのわずかな時間、耐えきれないほどの緊迫したときが流れた。
 真一郎は、そんな私を見て諦めたように微笑んだ。
「……話ってなに?」
 心臓が、どきりと脈打つ。
「あの、ね。真一郎には笑わないで聞いて欲しいんだ……」
 真一郎が頷いたのを見て私は少しずつ、話しだす。
 私が『真一郎』の七瀬じゃ無い事を。
 
「そうか」
 ひとしきり語った後に『真一郎』はそう答えた。
「それだけ?」
「……実は、なんとなく、そんな気がしてた。と言っても、もちろん、そんな詳しくわかってたわけじゃなくて、君が七瀬だけど、なにかが違うって感じがしてただけだけど」
 感じ取って、いたんだ……。
「……でも、それでも良かったって思うのは……やっぱり俺は自分の事しか見えて無いのかもね。七瀬のこと考えてやれなかったんだな……」
 真一郎が、自分を責める様に言うと自分の胸が痛かった。
「そんなこと無い、私だって嬉しいよ。『真一郎』とデート出来たこと」
 本当なんだよ。辛くても、本当に嬉しかったは嬉しかったんだよ。
 解って欲しい。
「でも、辛いこととか……いや、なんでも無い。こんな事言ったらそれこそ楽しみに水をさすようなものだしな」
「そうそう。私が楽しかったのは、本当だから……」
 ほっとする。
「ありがとう。そうだ、もっと詳しく七瀬と一緒になった俺の話を聞かせて欲しいな……」
「真一郎の話?」
 私は少し驚いて、それからやっぱり少し嬉しくなった。
「うん、ちょっと興味あるんだ。もし、俺が七瀬を選び取ってたら、一体どうなったんだろう……って」
「後悔するよ?」
 いたずらっぽく笑ってみせる。
「何故?あんまり上手くいっていなかったの?七瀬?」
「違うわよ、きっと、私を選ばなかった事後悔するからって」
 私は茶目っ気いっぱいの笑顔を見せる。『真一郎』は嬉しそうに、「そりゃ楽しみだ」と言って笑った。
 私は、それから喋り過ぎて苦しくなるくらい、ずっと真一郎の事を『真一郎』に話していた。
「良かった……幸せなんだね、七瀬は」
「うん、私は幸せだよ……ここのところ、ちょっと辛かったけど、それも明日で終わるし」
 好きな人の事を話せるのはとっても嬉しい事だって思う。
「……そうだね、ちょっと辛い目にあわせてるんだね……なんだか、怒る権利俺には無いはずなのに、ちょっと腹立たしいよ」
「『真一郎』、真一郎はきっとなにか事情があったんだよ、だから、真一郎のことあまり悪く言わないで」
「……妬けるな、本当。少し確かに後悔したかも……七瀬って可愛らしくなったね」
「な、なによ、急に。私は昔から可愛かったわよ」
「違うよ、昔はどちらかって言うとクールで、でも、情熱的な一面もあって。なんと言うか美人だった。だけど、今の七瀬はさ……好きだって気持ちでとっても可愛らしくなってる気がするんだよ」
「う……それって子供っぽいって事かなあ?」
「それは……あるかもしれないけど、でも、それはそれで七瀬はとっても魅力的だと思うよ」
「『真一郎』がそう言ってくれるなら、少しは安心できるかな」
 私はちょっと苦笑い。
 年の差はやっぱり、気にかかる問題だから。
「大丈夫、七瀬を待っていた、選んだ俺なら……きっと七瀬の事幸せにすると思う。こんな事俺が言っても説得力は無いかもしれないけど……」
「ううん、ありがとう。私は私で幸せになるよ、だから……唯子さん……大事にして上げてね」
「ああ、解ってる……もう、あんな事はしたく無いからね」
「瞳さんの事?」
「! 知ってるんだ……?」
「うん、私の事雪山で助けてくれて……真一郎とのこと話してくれたよ……」
 真一郎は痛ましそうに黙って口をつぐむ。
「ごめんね、『真一郎』に辛い思いを味合わせて……私は例え真一郎が他の人選んでも文句なんか言えないんだよ、ね……」
「いや、結局俺が瞳ちゃんと付き合うって決めたのに、七瀬のことをどこかで吹っ切っていられなかったせいだよ……今だって、そうなんだ。七瀬の事嫌いにはなれないから……」
「良いよ、でも、真一郎は唯子さんを選んだんだよね。だったら、そうするべきだよ……」
 私は意思の力を総動員して、厳しい顔を作ってみせる。
「私も、そんな気持ちで愛して欲しいとは思わないから。だから、私の事は想い出にして」
「七瀬……」
「さ、出よ! その最後の、想い出作りに協力して上げてるんだから……」
「ああ、行こう七瀬。今日は思う存分楽しもう」
『真一郎』は私の手を取ってレジへと向かった。
 
 
「ここを過ぎるともう少しで、見えてくるねっ」
 笑いながら微笑みかける私に『真一郎』も笑顔で答えてくれる。
 あれから、どれぐらいの時間が経ったのか……外が暗くなり始め、そろそろ別れの時間が近付いて。
『真一郎』と最後に風芽丘高校を見に行こうと途中にある歩道橋を上った時。
 私の目はその人だけに引きつけられる。
 あの、真一郎が亡くなった日。
 あの日のままの真一郎が、そこに立っていた。
「こんな所にいたの? 真一郎」
 私は、なんだかとっても間抜けな台詞を真一郎に投げかけていた。
 あまりにも自分の中で色々な想いが交錯して、なんて言ったら良いのか……わからないよ……。
 隣の『真一郎』が息を呑む音が伝わってくる……。
「七瀬、七瀬なのか?」
 驚いた面持ちの真一郎。
「真一郎、なんだね?」
 雪の降りしきる歩道橋の上、私達は見つめあっていた。
 真一郎の表情が喜びに、そして……微かな恐怖に彩られる……。
 それを見てようやく、私の中で想いは言葉になった。
「真一郎、会いたかったよ……本当に会いたかったよ」
 私はバッグをかなぐり捨てて、真一郎に飛びつく。
 ぎゅっと、背中に手を回す。回りきらない大きな背中……大好きな真一郎の匂い。
 暖かい……。
「来てくれたんだな……七瀬」
「うん、辛かったけど……我慢して、ここまで来たんだよ」
 真一郎は、私が顔を上げて見つめると、少しだけ困った顔をした。
 ……?
「あら、七瀬じゃありませんか」
「か、花摘?」
 真一郎の後ろから、見慣れた影が現れる。
 いつもの巫女装束などではなく、可愛らしいハーフコートと綿毛のついた手袋をした彼女はまるでデート中の女の子だった。
「……これで、ようやくですね」
 花摘の楽しそうな声に真一郎の顔が青ざめる。
「ど、どうし……?」
 私が心配して声をかけようとした途端、真一郎は私を引き剥がした。
「七瀬は来た。これで、もう俺は必要無いだろう!」
 え?
「さあ、俺を元の世界に帰してくれよ。七瀬を取り込めればあんたは満足なんだろう?」
 私の視線から逃げる様に真一郎は私から一歩遠ざかる
「な、なに……?」
 言葉、真一郎がなにを言っているのか、私には理解できなかった……。
「なあ、早く帰してくれよ……」
「し、真一郎……それ?」
 舌が張り付く様で上手く動いてくれない、急に舌の動かし方を忘れてしまったような感じだった。
「七瀬が来れば帰してくれるって約束しただろう? 花摘が、その為に呼んできてくれたんじゃないか!」
「そうですね、これでようやく、帰れますね、真一郎さん」
 花摘は慌てる真一郎と対照的にクスクスとにこやかに笑っている。そうして、真一郎の左腕にそっと手を添えた。
「七瀬、あなたは捨てられたのよ。真一郎さんは……自分の代わりにあなたをここに置き去りにする事にしたのよ……母さんのエネルギーの源として」
「花摘、あんたは……」
「あはは、真一郎さんでも良い様に母さんは彼の霊質に変化を促したけど、やっぱり七瀬の方がしっくりくるんだって。だから、真一郎さんの為でも有るし、あなたをこの鏡の中におびき寄せる為にあなたに会いに行ったのよ。ごめんね七瀬」
 花摘の言葉は、ほとんど耳に入っていなかった。
「……と? 本当なの? 真一郎……」
 瞬きさえ出来ずに私は真一郎を見つめた。
「………………ごめんな、七瀬…………」
 私にとって無限に近い時間が経過して……真一郎はそう言った。
 
『……王子様に選ばれなかった人魚姫は、海の泡になってしまったのです』
 
「私が、悪いの? 私が?」
 ふらりと真一郎に近付こうとした。
 その時。
 風が舞った――――。
「貴様ぁぁぁぁぁぁぁあっ!!」
 私の後ろにいたはずの『真一郎』の血を吐くような叫びがして、真一郎の頬骨にその拳がめり込んでいた。
 突風が、それを後押しした。
 歩道橋の欄干で一瞬持ちこたえるかに見えた真一郎の体は、雪と同じに下のアスファルトに向かって落ちていった……。
 キキキキキキキキキキッーーーーッッ!
 トラックの甲高いブレーキ音があたりに響き渡った。
「真一郎ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」
 私は絶叫していた。
 側で『真一郎』が自分の拳を見詰めて呆然としていたけど、私はそんな事に構っている余裕はなかった。
 必死に、歩道橋の上から走り出す。
 真一郎が落ちた、道路に向かって。
「真一郎!」
 道路の脇から、ガードレールを飛び越えようとして足を引っ掛け、したたかに雪の路面へと突っ伏す。
 それでも、私は痛みすら感じなかった。
 もがく様に走り、真一郎の元にたどり着く……。
 真っ赤な雪の絨毯の中に座り込んで、真一郎を抱き起こす。
「真一郎、真一郎、目を開けてよ。ね、御願いだから。私の事、好きでなくても良い、騙したんでも許して上げるから、だから、御願い!」
 ぐっと、抱き上げた拍子に真一郎の首がかくんと折れ曲がる。あり得ないような向きへと。
 頭蓋は割れ、そこからピンク色のモノが覗いた…………。
 
 ピシッ。
 
 どこか、随分と近くで何かの砕ける音がした。
 
 私は真一郎の体を抱きながら頭を撫で、必死に、はみ出してしまうそれを元の中に収めようとしていた。
「くすっ」
 笑い声が聞こえた。
 誰、だろう……?
「……くすくす」
 花摘?
「くすくすくす……」
 違う、もっと近く…………なんだ、私だ。
「くすくすくす、うふふふふ、あははははははははははははははははははは」
 なにが可笑しいんだろう、自分でも、良くわかんないや。
 ううん、笑うのは当たり前だよね。
 だって。
 だって、真一郎と一緒なんだもん。
「ね、真一郎。楽しいね、うふふふふふふ」
 私は、真一郎にほお擦りする。
「あ、駄目だよ、真一郎、こんな人目の多い所で、キスなんて……ほら、こぼれちゃってるよそんな事するから……」
 私はでも、口付けして上げて、それから『それ』を拾い上げる。
「真一郎って柔らかいんだね……あは、あはははははは。私知らなかったよ……くすくす」
 
 つ、つつ……つーっ。
「あれ?」
『どうしたの? 七瀬?』
「ううん、真一郎……なんだか知らないんだけど、涙が出てきちゃってさ……」
 おかしいなあ……なんで涙が出てくるのかな……止まらないよ……。
『それは……だよ』
「うん、あはは。そうだよねえ、嬉し涙に決まってるよねえ。だって、くす、あはは、だって……こんなに楽しいんだもんね――――――」
 
 
“ふふふ、これで全ての準備は整った……。後は、永遠に……”
 花摘がニヤリと笑った。
 
 
 
 
 
 そして、同じ時、違う場所で……。
「……最悪の事態になってしまったようですね……あの人が大体何を狙っているかは解っていたはずだったのに……」
 苦渋に顔をしかめる『花摘』がいた。
「こうなったら、真一郎さんから、あれを返してもらわなくては……間に合うかしら?」
 呟いて『花摘』は1度だけ何か遠くを眺め、その後、姿を消した。
 
 
 
 
 うふふ、真一郎の体……冷たいね……凍えちゃうよ?
 でも、大丈夫だよ……私が暖めて上げるからね。
 
 ……真一郎。
 
 ――――――――――ずっと一緒だからね――――――――――。
 
 
 
 

 第27話

 
 ……
 …………
 
 また、また見ている。
 ……これが、真一郎を追い詰めたんだ。
 真一郎を私の過去に巻き込んだんだ…………。
 
「そろそろ、茶番もお終いだね。花摘、お前には長い時間をかけてゆっくりと教えてあげるよ。誰が、お前の主人なのかをね」
 ふわりふわりと机や椅子が浮かび上がる。
「サイコキネシス!」
「そちらの、人狼にはこれで十分じゃな」
 最初ゆっくりと飛びまわっていたそれは、次第に速度を増し、そのままさくらへと襲い掛かった。
 さくらは超常的な反射神経でなんとかかわす物の、操作されているその動きにじりじりと追い詰められていく。
「七瀬の体を返せ! 化け物ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
 その瞬間、真一郎の叫びが響いた。
 真一郎の手にした椅子がおもいっきり鏡に打ち付けられた。
 全ての時間が、一瞬静止したように感じた。
 ピシッ。
 鏡の表面に、小さなひびが入った。
 
 ああ、この時……私が『魔』に体を奪われていなかったら。
 真一郎をあんな悲しい目に合わせなかったんだね……。
 ごめんね真一郎、ごめんね……。
 
 
『ふふふ、束の間の幸せに浸っているが良い。この男、力は持っていないが長い時間かければ“要(かなめ)”にぐらいはなるであろう。しかし返す返すも口惜しいのは、あの娘を失った事よの……』
 誰の耳にも、届かなかったはずの声。
 
 ああ、鏡の魔が真一郎の霊質を蝕んでいく。
“要”にふさわしいように……。
 
 鏡の魔が取り込む魂……“要”
 鏡の魔が現実世界に出ていく為に必要な身代わり。
 ずっと、ずぅっと昔、私はその“要”だったんだ……。
 
 私がそのまま、“要”であり続ければ良かったんだね……。
 そうしたら、真一郎も、幸せだったのにね。
 ごめんね、ごめんね、ごめん、お願い……真一郎ぉ……。
 
 
 私が、嘆願する間も夢は続く。
 また、繰り返す。私の心が呼び覚ます……私の時間が止まったその一瞬を。
 雪を真っ赤に染める狂おしいほどに美しいその光景を。
 
 その時。
 風が舞った――――。
「貴様ぁぁぁぁぁぁぁあっ!!」
 私の後ろにいたはずの『真一郎』の血を吐くような叫びがして、真一郎の頬骨にその拳がめり込んでいた。
 突風が、それを後押しした。
 歩道橋の欄干で一瞬持ちこたえるかに見えた真一郎の体は、雪と同じに下のアスファルトに向かって落ちていった……。
 キキキキキキキキキキッーーーーッッ!
 トラックの甲高いブレーキ音があたりに響き渡った。
「真一郎ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」
 
 そう、延々と延々と……。
 私の全ては、ここで終わるのだから……。
 
 …………
 ……
 
 
 私は飛び起きた。
 な、なんだろう……この嫌な感覚は……。
 うう、寝不足かなあ……昨日遅くまで深夜放送なんか見てるんじゃなかった……。
 赤……血のイメージ……なんだか頭にこびりついて離れない。
 考えようとすると頭が痛んだ。
「つぅ……なんか、記憶喪失の典型みたいだな……悪い夢でも見たかな?」
 それとも、この血のイメージは月のものが近い証拠かな?
 なんとなく、下腹部に重苦しい感じもするし……。
 憂鬱だな、私は結構重いほうだからな。
「ああ、やめやめ。朝っぱらからブルーになってるなんて冗談じゃないよ」
 それに、予定だったらまだまだ先のはずだし、きっと関係のあるイメージじゃないんだろう。
 ろくでも無いことみたいだし忘れてしまうに限る。
 ……とは言うものの、月経がまだ先と言うのはあくまで予定。
 生理不順と言う言葉が頭の中に引っかかる。
 どうも私はそう言うところがあるようだし、唐突に始まっても不思議は無い。
 それもこれも先天的な遺伝子障害のせいらしいけど……。
 自分の体の事ながら尋ねるのはなんとなく怖くてあまり詳しく説明してもらった事は無い。
 実際医学の分野でもまだまだ未知の領域の多い病気らしい。
 ……だからって、そんな事で悲観したりしないけどね。
 私はまだ生きてるんだから、元気に出来る事いろいろあるんだから。
 
「んーっ」
 体をぐっと伸ばしてベッドから起きあがる。
 白のパジャマが自分の目にまぶしい。
 寝ている間にぼさぼさになってしまった髪を後ろに回して、とりあえず縛っておく。
「ふぁあ……」
 思わず口から漏れたあくびを抑えに手を添えていると外から声が掛けられた。
「七瀬、起きて居るか?」
 お爺ちゃん『春原洞弥(はるはらとうや)』だ。
 なんでも、戦争の時には空戦でエースを誇った腕前らしい。
 そう言うことを自慢げに今でも話してくれる、ちょっと時代錯誤な爺さんだ。
 でも、私はそんなおじいちゃんが嫌いじゃない。
「はぁい、起きてるよ……すぐ支度するから」
 お爺ちゃんが呼びに来た理由は簡単だ。
「うむ、そうか。早く頼む……」
 要するに私に朝御飯を作って欲しいのだ。
 正直言って私もあんまり得意じゃ無いんだけど、お爺ちゃんに作らせるよりはましだ。
 それこそ作らせた日には後片付けで余計に悲惨な目にあう。
 それでも、お爺ちゃんは、もっと早く起きているはずで、それでも、私が起きる時間までは待ってい るのだから可愛いものよね。
 セットしなくても起こしに来てくれる目覚し時計みたいなものだ。
 こんな事を言ったら本人は激怒するだろうけど。
 その様子を想像して思わず笑みが漏れた。
「あっ、こんな事してる場合じゃないわね」
 手早く、学校の制服に着替えると顔を洗い、すぐさま台所に飛び込む。
 簡単な料理と昨日の残りものでお終い、だけど……お味噌汁だけは必ず無いとお爺ちゃんが納得しないので鍋を火に掛け作り始める。
 確か昨日良いナスを母さんが届けてくれたな。
 ……あった、あった。ダンボールに季節の野菜がぎっしりと詰まっている。
 これだけあると、お爺ちゃんと私だけじゃ食べきれないよ……。
 母さんもたまには帰ってくりゃ良いのに。
 ……無理、かな?
 ま、しょうがないよね。
 
 味噌汁をかき混ぜてお玉ですくう。
「ん、良い味……」
 お味噌汁だけは上手く作れるようになったなあ、私も。
 あんまり人前に出せるようなものでは無いけどね。
 特に知り合いに料理の上手い人がいるからその人達には恥ずかしくて見せたくも無い。
 ……しかし、同じような境遇なのにこの差はなんだろう。
 私は彼女との違いを少し考えて苦笑いした。
 
「じゃ、行ってきまーす!」
 朝食を食べ終わって時計を見たらもう結構な時間だった。
 後片付けもそこそこにして、家を出た。
「あっ、おはよう七瀬」
 通学路に飛び出た途端、声をかけられた。
 振り返ると少し不良っぽい『可愛らしい』青年が笑いかけていた。
「真一郎……おはよう……」
 どうして……?
 今、真一郎に挨拶しようとしたら、自分のどこかで、何かが怯えてた……痛がってた。
「どっかしたの?」
「う、ううん。なんでも無い」
 ずっと『幼馴染』の真一郎に違和感? を感じるなんてなんか変だよね、私。
「でも、やっぱり何か変だよ。熱でもあるんじゃない?」
 そう言って真一郎が私の額と自分の額に手を当てて、比べている。
 本当はちょっと恥ずかしかったけど、真一郎が心配してくれてのことだから、私も逃げるに逃げられない。
「大丈夫……みたいだな」
「当たり前でしょ、真一郎。……少しは熱あるかもしれないけど、それはいつもの事だしね」
 真一郎はやっと安心して笑った。
 その笑顔を見ると心が和んだ。
「おっはよ〜しんいちろ、それにぃななぴー」
「おはよう、真くんに七瀬」
 テンションの大きく異なった二人の声が後ろからかけられた。
「お、唯子に小鳥、おはよう」
「おはよう、二人とも」
 一旦はにこやかに挨拶して、それから少し顔をしかめる。
「ところで、唯子」
「ん、な〜に? ななぴー」
 にっこりと顔を覗き込んでくる唯子。
「その、ななぴーって言うのいい加減辞めてよ、私達もう高校二年生なんだよ」
「ん〜でも、ななぴーはななぴーだから、ねぇ?」
「『ねえ?』って俺に振るなよ唯子」
 真一郎が困った顔をする。
「そりゃ昔は俺もそう呼んでたけどさ」
 あ、まずい話題だったかな……。
 
 あれは小学校高学年――女子はそろそろ異性を意識し出す微妙な年齢。
 その頃の私は真一郎にそう呼ばれることがどうしても嫌で、ある時、真一郎に強く言い過ぎてしまったんだ。
 そのせいで、私と真一郎は少しの間話もしない険悪とまではいかないものの疎遠な関係になった。
 小鳥が取り持ってくれなかったら、きっと私と真一郎は友人ではいられなかったかもしれない。
 普段はこのメンバーの中では自分が一番しっかりしている……と自分では思っているんだけど、いざって時には小鳥には敵わないな。
 そういえば、唯子と真一郎が同じような事になったときも上手くまとめたのは小鳥だったな。
 
「わかった……ななぴーで良いわよ」
 私は不承々々それを了解する。
「ねえ、3人とも。そろそろ話してないで学校急がないと遅刻になっちゃうよ」
 時計を見ると……。
「ああっ、まずい。急がなきゃ」
 私達は少し小走りに急ぎながら学校へと向かった。
 
 ――こうして、平凡な一日が始まる――
 
 退屈で、……とても、かけがえのない……夢のような一日が……。
 
 ………………くす、くすくすくす…………
 
 
 
 
 
 
 これが、お前の望みか?
 たわいのない、望みだねえ。
 まあ良いわ、いくらでも浸るが良い。お前の望む世界をくれてやろう。
 辛い現実など見なくて良い。
 ここで、永遠に私の糧とお成り……ふふ、あはははははははははは。
 
 
「真一郎さん!」
 急に飛び出してきた花摘を見て真一郎がびっくりする。
「……水沢さん……」
 真一郎の声はかすれてがらがらになっている。
 きっと、私の言うとおリにしてくれているのだと花摘は思った。
「……な、七瀬は?」
「すいません、最悪の事態になってしまいました。……私が未熟なせいです」
 花摘の顔に浮かぶのは濃い疲労の色。
「どうなったの?」
「一刻を争う状況です、さっき渡した物を返していただけますか?」
 花摘は十分に説明もせずに真一郎にそう迫った。
「ああ、解った。頼むね……」
 真一郎は懐からそれを取り出すと花摘に手渡した。
「ありがとうございます。でも、もうすぐ母はあなたを襲いにやってくるかもしれません。これがあれば、あなたを守ってくれたはずですが……」
「良いよ。今は、七瀬がそれを必要なんでしょ? だったら、持って行って。俺は大丈夫だから」
「なるべく早く戻ります……」
 真一郎が頷くのを見届けると花摘は姿を消した。
「七瀬……早く気付いてくれ……」
 真一郎はずっと腕の中に抱えたままの『それ』をなおいっそう、強く抱きしめた。
 
 

 第28話

 
 全身にびっしょり嫌な感じの汗をかいていた。
 辺りに授業終了の聞きなれた鐘の音が流れている。
 私は少し重苦しい頭を押さえて辺りを見まわす。
 もう、昼休みのようだ。
「んー、なんか、また眠ってたのかな……?」
 私が目を覚ますと、唯子と小鳥が寄ってきていた。
「もう、今の授業寝ていたでしょ」
「ななぴー、疲れてんの?」
 う、良く見てるなぁ、二人とも。
「なんかね、最近どうも寝つきが悪くてさ、寝不足気味なのよね。しかも、夢見が最悪でさ、眠りは浅いし……」
「それは大変だね。でも、授業中に寝てちゃ駄目だよ」
 まっとうな意見の小鳥。
 いや、それはそうなんだけどねぇ。
「どんな夢、見るの?」
 なんか興味津々に聞いてくる唯子。
「嫌な夢の内容なんて話したく……あれ?」
 どんな夢見てたんだっけ?
「そうだよね〜。嫌な夢だもんね、ごめんね、ななぴー」
「う、うん」
 忘れてたことにしっくりとしないまま、私は頷く。
「でも、もうすぐテストだよね。あんまり寝てたりして大丈夫なの? 七瀬そんなに成績良く無いのに」
「う……そんなこと言わないでよ……せっかく忘れようと思ってたのに」
 そう言えばそうだったんだっけ。もうすぐテストかぁ……夢どころじゃないよね。
「なんなら、また、御勉強会する? 今度はしんいちろも誘って」
「え……? でも、唯子良いの?」
 私の疑問になにが? って感じの唯子。
「そうだよ、唯子も私達に付き合ってたら自分の勉強できないんじゃないの?」
「そんなことないよ〜。人の勉強見るのって復習には結構良いんだよ。結構自分で見逃してたこととかわかったりするしねぇ」
 唯子は人の良い顔でにっこりそう笑う。
 ここら辺がこの子の良いところだよね。
 人に嫌味を感じさせない、不思議な笑顔。
 不安に駆られていた私の気分まで拭い去ってくれそうだ……。
「よ、仲良いな。皆で御弁当か?」
「あれ? いづみちゃん。今日は練習しないの?」
 いづみが昼休みに教室にいるのは確かに少し珍しい。
「ん? パン食べ終わるまで、さ。しかし、七瀬は昼を買いに行かなくて良いのか?」
「……え? ああ、忘れてた。いきなりこんなところでだべってる場合じゃなかったわよ!」
 早く行かないと、パン売り切れちゃうじゃないのよ。
「あ、私も一緒に行くね」
 そう言って席を立ったのは小鳥。
「あや? 小鳥パンなの?」
「違うよ、唯子の分もちゃんと御弁当作ってあるよ。ただジュース買いに行こうかなって」
「あ、なるほどね、ん、でもよけりゃ私がついでに買って来るわよ」
 私は急いでいた手を止めて幼馴染を振り帰る。
「いいよ、そんなこと。私も一緒に行くよ」
「ん、唯子も行くね。ここでまってたら死にそうだから……」
 へにゃって顔して立ちあがる唯子と小鳥をつれて私は食堂の隅のパン売り場へ向かった。
「頑張れよ」
 いづみが出ていく私に向かってそう言った。
 
「……はやや、凄いね〜」
 ちょっと呆れ気味の小鳥の反応。
「……頑張ってね、ななぴー」
「戦場だわね、いつものことだけど……」
「私達はジュース買って来るね」
「先帰ってて良いわよ。私は時間掛かるかもしれないし」
「ん、わかった」
 小鳥と唯子が去って行ったあとに私は突入を開始した……。
 
 ……玉砕。
「ろくな物が残ってなかった……はぁ」
 出遅れは痛かった……。せめて体の調子が良ければなあ。
「七瀬?」
 疲れきっていた、私の背中に声がかけられる。
「真一郎……。うう、放っておいて。今私は失意のどん底にいるのよ……」
「そう? サンドイッチが一つあまったんだけど……これは唯子にでもくれてやるか」
 そう言って、私の前を掠めていくサンドイッチ。
「ちょっちょっと待った!!」
「いる?」
 にっこりと笑う真一郎。
「いるわよ……意地悪ね〜」
 私がふくれると真一郎はなだめるように頭を撫でで、私の手の中にサンドイッチを落としてくれた。
「それじゃ、そいつを上げる代わりに、今日の放課後校舎裏まできてくれる?」
「校舎裏〜? なんか変なこと考えてるんじゃ無いでしょうね」
 思いっきり怪しいなぁ……と私が思って見ているとひょいとサンドイッチが取り上げられた。
「嫌なら良いけど?」
「…………うう、わかったわよ……」
 私は帰ってきたサンドイッチを大事に手で包み込んで真一郎に言う。
「いじめっ子、ふんだ。……でも、一体なにがあるのよ?」
「今話しちゃったら意味無いだろ」
 そりゃそうだけど……なんだろうな……なんか、気になるなぁ。
 二人して戻ると、唯子と小鳥が待っていてくれた。
「ううう、おなか空いたよ〜」
「ばかね、食べてたら良かったのに」
「良いじゃない七瀬。一緒に食べた方が美味しいよ。真くんもどう?」
「ん、俺はもう食べちゃったから遠慮しとく。それより、七瀬、約束忘れるなよ?」
「ハイハイ。わかったわよ……」
 私の返事に満足して真一郎は歩いて行ってしまう。
「どうしたの七瀬?」
 小鳥の少し心配そうな様子に私は苦笑いして見せた。
「うん、こいつの代わりにちょっと放課後呼び出されてんの。私に何させる気なんだか」
 サンドイッチの包装を破って中から一つつまみ出す。
 まぐ……はむ……。
 もぐもぐ……うん、美味し。
「ななぴー美味しそうだね」
「唯子も食べる? 私あんまり食欲自体無いしね……」
 私が取り出したサンドイッチを、満面に笑みを浮かべて受け取った唯子をよそに、少し考え込んでいる風だった小鳥が小さく呟いた。
「それは、七瀬。きっと真くんは……」
 そこまで言って急に口篭もる小鳥。
「なに? なんか知ってるの?」
「え? う、ううん。真くんに直接聞いた方が良いと思うしね。私は言えないよ」
 変なの〜。気になるじゃないの。
「むむ、なんか腹立つわね」
「ごめんね、でも、私のは推測で言って良いようなことじゃないし」
 結局、その昼食はなんだかすっきりしないままに終わったのだった。
 
「俺とつきあって欲しいんだ」
 ぱちくりと目をしばたたかせてしまう。
「どこに?」
 思いっきりすっとぼけた答えを返して見る。
 いや、わかっているのよ、真一郎の言っている意味は、もちろん。
 小鳥が言ってたのはこのことだったんだな。
 んもう、教えてくれても良かったのに。私全然心構えが出来ていないよ。
「いや、そうじゃなくて」
 でも、私以上に慌てている真一郎が可愛くて私はもっといじめたくなってしまう。
 くすくす、真一郎が唯子や小鳥をいじめてるときもこんな気分なんだろーな。
「じゃあ、なに?はっきり言ってよ。ね、真一郎……はっきり言って……」
 どきどきどき……なんか急に心臓がばくばく鳴り始めたわね。
 静まりなさいってば。真一郎に聞こえちゃったら恥ずかしいじゃないの。
 でも、私がずっと真一郎のこと思ってきたように、真一郎も私のこと見ててくれたのかな?
 小鳥と唯子には悪いけど……。
 私凄く幸せな気持ちだよ。
「えと、七瀬!」
「は、はい!」
 う、なんで私まで畏まらなくちゃいけないのよ……もぅ。
「俺の恋人になって欲しい」
 どきん。
 うわぁ、真一郎……恥ずかしいって。
 でも……。
 胸がぐっと締めつけられる。なんだか嬉しいを通り越して哀しくさえ感じてしまうよ。
「う……」
 声が出なかった。
 うん、って頷こうとしたのに、舌が張りついたみたいに、言葉にならなかった。
「駄目なのか?」
 真一郎の言葉に私は必死で首を振る。
 だけど、なんだか体はとうとう何かに怯えてるみたいに震え出してしまった。
「そ、そんなこと……ないけど……私、ビックリしちゃって……あの、少し考えさせて欲しい、な」
 そう、決まっているはずの答えを、後延ばしにしてしまう。
「そうか……ごめん悪かった……でも、俺良い返事を待ってるね……」
 真一郎が言い捨てると同時に走り去って行く。
「あ、し、真一郎……待って……」
 小さ過ぎて、呼びかけた最後の部分はきっと真一郎には聞こえなかっただろう。
 大体、引き止めて何を言うつもりだったんだろう。
 真一郎はなんて思っただろう。
 真一郎のこと嫌いなわけ無いのに、断ったように感じただろうか。
 真一郎のことを傷つけたのじゃ無いかと言うことが怖かった。
 自分のこと以上にそれが何より嫌だった……。
 でも、それなのに答えることは出来なかった。
 なんだか、とっても怖かった。大切な何かを失ってしまうような、説明のつかない根源的な恐怖だった。
「明日、はっきり言わなくちゃ。……何でこんなに怖がってるの? 大好きな真一郎に告白されたんじゃない。おかしいよ、私。何が怖いの……?」
 でも、その気持ちは結局治まらなかった。
「どうしたの? 死にそうな顔をして……」
 かけられた声にはっとして振り返って見るとそこに立っていたのは千堂先輩だった。
「あ、千堂さん……」
「良かった、鷹城さんの御友達の春原さんよね。あんまり落ち込んだ顔してるし、私あんまり眼が良くないから別人だったらどうしようかと思っちゃったわ」
「はい、春原七瀬です」
 私がそれしか言えずに黙っていると瞳さんは少し苦笑いを浮かべて私を誘った。
「もし、暇があるんだったらうちの練習でも見に来ない? 鷹城さんも少しは気合が入るんじゃないかしら」
「いえ、今日は体調も優れないし、このまま帰ります」
「そう? 残念だけど体調が悪いなら無理し無い方が良いわね。今度気が向いたら見に来てね?」
「はい」
 なんとか微笑む事が出来たと思う。
 
 
 自宅に帰ってきて、疲れた体をベッドに投げ出そうとした私を机の上に置かれた物が引きとめた。
「何だろ?」
 ハードカバーの本ぐらいの大きさの小包だ。
 差出人は……綺堂さくら。
「綺堂さくら……」
 口の中でその言葉を転がして見る。
 誰だか全くわからないのに、胸の奥が怪しくざわめいていた。
 包装紙をびりびりっと引き千切る。
 中から現れたのは、一枚の手鏡と一通の手紙だった。
 
 前略
 
  あなたがこの手紙を読んでいると言う事は、きっと大変な状況なのだと
  思います。
  同封した手鏡を肌身離さず持っているようにしてください。
  きっとそれがあなたを助けてくれるはずです。
  これが多分私にできる最後の助力だから。
  頑張ってください、私にはこれしか言う事は出来ません。
  最後まで、先輩を信じて上げてください。
  草々
 
“何? これは……”
 私が愕然としてもう一方の手に持った手鏡を見ると、それは妖しく光を撥ね煌かせているようだった。
 
 
 
 
「何故、あんなものが!!」
 彼女は憤慨していた――あり得ないはずの事だった。
 七瀬を取り巻く全ては彼女の支配下にある。
 七瀬が吸う空気の一息一息までもが彼女の意図するものなのだ。
 けれど……あの手紙と、手鏡だけは彼女の意図したものではなかったのだ。
 できるはずが無かった。
 七瀬は今や彼女のもっとも深いところに閉じ込められており、それゆえに彼女以外のものが干渉する事は不可能なのだから。
 よしんばそれだけの力を持っているものが居たところで、彼女と異なる存在が無理矢理に七瀬に干渉すれば彼女も、そして七瀬も無事ではいられないはずだから。
 唯一可能性があるとすれば……。
「母さん……」
「花摘、お前か?」
 だが、花摘には特に厳重なプロテクトをしたはずだ、近付く事までは出来ても、中に入り込む事は出来ないはずだ。
「ええ、私は、例え、例えあなたが何度現れようとも。それが……私のせいでもあなたを許さない。必ず……滅ぼして見せる」
 彼女は笑った。
 何をどうしたのかは知らないが、花摘はあの手鏡と手紙を送り込んだらしい。
 だが、それだけで何ができると言うのだ。
 思い知らせてやらねばならない、所詮花摘は自分の駒であると言うことを。
「なら、力づくでやってみよ!!」
 花摘がきゅうっと唇を噛み締めた……。
 
 
 
「……って……れ。く、はぁ、はぁ……もど……こ……」
 真一郎はかすれて出ない声を振り絞りながら必死に呼びかける。
 喉は長い間叫び続け焼けつくような痛みが襲っている。
 それでも、真一郎は花摘の言葉を信じて声を絞り出しつづけた。
 胸の中の大きな痛みに比べれば、喉が潰れても構わなかった。
 誰よりも何よりも大切な愛しい少女のためにその名を呼ぶ事を、真一郎は躊躇う気は無かった。
 大事な大事な彼女と過ごした年月。またも手の中から消えて行く為だけに巡り合ったなんて、絶対に承服できなかった。
 七瀬と連れ立って二人が出会った旧校舎を見になど来なければ良かったのか?
「七瀬、七瀬!! かえ……っごほっごほっ」
 思わず咳き込んだ真一郎は手の中に抱え込んだ『それ』の長くてつややかな髪を撫でさすった。
 涙が思わず流れそうになって、真一郎はぐっと歯を食いしばった。
“泣いてる暇は無い……”
 手の中の『それ』がまだ暖かである事に微かに安堵を覚えながら、真一郎はまた声を振り絞る。
 旧校舎の薄暗い教室の中、不気味に辺りを映し出している鏡に向かって……。
 
 

 第29話

 
 声がする。
『こんなことがあなたの幸せなんですか?』
『現実から逃げ出して、そこでそうして夢を見ることが、望なんですか?』
 もう一つの反論する声。
『これで良いよ。幸せを甘受しているから。厳しい現実は痛すぎる。辛い思いはしたく無いわよね?』
『そこは安らかなのだから。心地良い、それで十分でしょう?』
 
 私は思わず頷く。
「うん、痛いのは嫌」
「もう、どうでも良いの……」
「幸せだから……幸せなんだから。私はここにいたい……」
 片方の勝ち誇った声。
『ほら、余計なお世話だったろう?』
『…………』
 私はそのまま目を背けて……また夢の中に埋没して行く。
“嘘……だよ……”
 そのとき、どこからかそんな声が聞こえた。それは外の声ではなくて自分自身が発した声のように聞こえた……。
 
 
 頭ががんがんしていた。
 熱が有るかもしれない。
 ふらふらする。
 でも、お爺ちゃんの朝御飯作らなくちゃ……。
 あ〜、おばあちゃんが生きてた頃は良かったのにな……。
 あれ? なんだろ……。
 柔らかい触感の羽毛布団にくるまれながら、私はじっと天上を見詰める。
 悲しい事なんてなにも無いはずなのに、涙が流れ出していた。
 
「うん、うん……そう言うことだから。御免ね」
 午後になってから掛かってきた小鳥からの電話に私は体調が悪かったのだと謝った。
「謝る必要は無いよ。案外七瀬は体弱いんだから気をつけなきゃ駄目だよ」
「ん、わかってる……」
 少し心配のし過ぎだと苦笑いしながら小さな幼馴染に言って電話を切る。
 遺伝子病……言ってしまえば簡単だけど、その病状は複雑だ。
 色々な症例が確認されているけど、私は中でもかなり特殊なタイプらしい……現在では全くと言って良いほどその対処法も明らかになっていない。
「先生は、後10年もしたら大分マシになるだろうと言っているけど……」
 10年後には私の青春なんて終わっているじゃない……。
 何度そう反発してやりたかったかしれない。
 けれど、その為に、七瀬の効くかどうかもわからない薬の代金を稼ぐ為だけに、世界中を飛びまわっている両親のことを思うととてもそれは口に出せなかった。
 本当は自分も色々と病院自体を転々としていなければいけなかったはずなのだけれど、どうしても住み慣れたこの町が離れがたくてその話は断っていた。
 その理由の大きな一つに真一郎のことがあったのは言うまでも無い。
「なのに、どうして……」
 昨日のことを思い出してほぅとため息をつく。
 大好きだった真一郎からの告白の台詞。
 嬉しかったはずなのに、どうして即答できなかったんだろう。
 頭の中に舞い散る何かのイメージ……恐怖感で胃がどんよりと重くなる。
 でも、そんな事はなかった。なかったんだ……。
 でしょ? あり得ないよ。あり得ないんだから……。
 ああ、頭が痛い……今、私はよっぽど酷い顔してるんだろうな。
 側の机に手を伸ばして手鏡を手に取る。
「やっぱり、酷い顔してる……なんて顔してんのよ……真一郎」
 
 そこには、私を必死になって呼んでいる真一郎の姿が映っていた。
「え?」
 急いでもう一度鏡をのぞきこむ。
「いない……なんだったの? それに、真一郎はあんなに年取って無いよ……どうして私」
“わかってるでしょ? わかってるくせに、気付いてるんでしょ?”
 どこかから聞こえた声に私は呟く。
「なにも知らないよ……」
 鏡をベットに伏せて私は布団を被った。
 
 
 また、また始まる……永遠に続く悔恨の儀式――。
 夢の中で繰り返される、辛い現実。
 私が私である間はずっと忘れられない。
『受け入れれば良い。この幻を本当にしてしまえば、お前はずっと心地よい夢の中で生きていける……』
 声に頷きそうになる。
 でも、それは――。
 
 だからまた始まる。
 過去の変えられない現実が。
 私が認めてしまうその日まで……。
 
 
「七瀬の体を返せ! 化け物ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
 その瞬間、真一郎の叫びが響いた。
 真一郎の手にした椅子がおもいっきり鏡に打ち付けられた。
 全ての時間が、一瞬静止したように感じた。
 ピシッ。
 鏡の表面に、小さなひびが入った。
 
 嫌だ、嫌だっ!!
 私は叫んでいた。
 もう、嫌だった。
 このとき、私がいれば。
 私が、真一郎を助けておけば。
 私の体が有ったのに。
 私が乗っ取られてさえいなければ……。
 そうすれば、真一郎が鏡にとり込まれることなんか無かったのに。
 駄目、駄目だよ真一郎。
 逃げてぇぇぇぇぇっ!!
 
 私は手を伸ばした、届くような気がした。
 押しのけて、真一郎を助ける事が出来るような気がしていた。
 でも、それは所詮叶わない夢で。
 現実は、真一郎に鏡の破片が降り注ぎ、真一郎は変えられてしまう。
 鏡の魔の餌として、とり込みやすくする為に。
 これは夢なんだから。
 私の願いは届かない。想いは……誰にも聞こえない。
 
 はずだった……。
 
 がしゃあああん……ビシッ。
 腹部に突き刺さるものの嫌な感触。
 体中に細かい痛みが走った。
 衝撃で気を失いそうになる……。
“だ、駄目……まだ、言わなくちゃ”
 皆の驚いた目。
「ごめん……真一郎。ご、めんね……げほっ……ぐ……」
 血が胸の奥から押し寄せてきて、口の周りを汚した。
「七瀬、七瀬っ!!」
 真一郎が駆け寄ってくる。
「あ、ああ……」
 私は真一郎の手に抱き起こされる。
 何が起こったのかよく理解できて無い。だけど、それでも良い。
 自分の体が、もう致命傷で長く無いと言うことも、構わない。
「ごめん、ね……真一郎」
「そんな、なんでだよ。七瀬、なんで……?」
 錯乱して私を揺り動かす真一郎。そのたびに激痛が走る。
「駄目……しんいち……ろう。う……こぷ……」
 妙な音を立てて私の口から更に溢れた血を見て真一郎がようやく静かになる。
「そう、あんまり触ると……真一郎に鏡が入り込んじゃう……う、うう……」
「構うもんか。七瀬……」
 ぎゅっと抱きしめようとする真一郎に私は残るわずかな力で抵抗する。
「駄目だよ……お願い、真一郎……ごめんね、皆私のせいだから、ごめんね……う、あや、まるから…・・お願い、嫌わないで……嫌われたら……」
 真一郎は戸惑ったように抱きしめる腕を緩めて首肯する。
「俺は七瀬のこと絶対嫌わないよ。嫌うわけ無いよ。それより、死ぬなよ。また逝っちゃうのかよ!!」
「ごめん、ね。多分……もう無理……」
 そして、少し離れた所に所在なげに立っているさくらにもにっこりと微笑みかける。
「七瀬先輩……」
 さくらは一瞬だけ悲しみを浮かべたように戸惑って私を見た。
「お願いね、さくら」
 それから真一郎に目を戻す。
 既にほとんど体は動かなかったし、目の前まで暗くなり始めていた。
「ああ、死ぬのって……こんな感じだっけ……? ごめんね、本当。でも、またいつか。いつか絶対会え、え……えるから。だから……バイバイ…………」
 そして急に全てが掻き消えた。
「七瀬、死ぬなよ、七瀬、生き返って来いよ。……なんでだよ……七瀬ーーーーーーーっ!!」
 私はまた、幽霊のようになり、真一郎が私の体を抱きしめているのを見下ろしている。
 私にはもうなにも出来ない。真一郎に触れることも、声を届けることも。
『なぜだ? そんなことが……』
 そのとき鏡の魔のぞっとするような呟きが私の耳に響き渡る。でも、それは真一郎にもさくらにも聞こえていないみたいだ。
 そして、離れた所で見守っていた花摘が驚愕の瞳を見えないはずの私に向かって注いでくる。
「過去の……歴史に干渉した……?」
 花摘がそう呟くのと同時に私は覚醒していた。
 
「は……真一郎?」
 辺りを見まわす……いつもの私のなんでも無い部屋だ。
「疲れてるのかな……」
 私は横においてある手鏡を見た。手鏡はいつのまにか表を向いていた。
「おかしいな? 裏に返しておいたはずだったのに……」
 覗きこんで見ても何かが見えるわけでも無い。寝起きの自分の酷い顔が映っていただけだ。
「おーい七瀬。真一郎君がお見舞いに来たぞ」
「え? 真一郎が?」
 私は急いで、鏡を見ながら整える。
 沸きあがりつつあった自分の疑問を無理矢理心の中にしまって私は真一郎を迎えるべく笑顔を浮かべる。
「やあ」
「……真一郎」
 私は真一郎の顔を見て涙がこぼれるのを抑えきれなかった。
 だって、私は忘れてはいられなかったから……。
 もう、嘘の世界をそのままに見る事は決して出来ないから。
 
 
「……まさかここまでの力を発揮するなんて……」
 花摘は脂汗を浮かべながら呟いた。
「ほほほ。確かに驚いたわ。だが、結局私の内に囚われていると言う現実は変化しなかったようだぞ?」
「そうね。きっと大きな変革ではなかったから。私達にも気付かない程度の変化は起こったのでしょうけど……」
 苦虫を噛み潰したような顔になって彼女が応じる。
「ただ、おかげで七瀬が気づいてしまったようだ……もはや遅いけれどもね」
「助け出して見せる。私が、力づくでも……」
「出来るか? ほほ。そなた程度の力でこの私をどうにか出来ると思うてか」
「約束……」
「ん?」
 下を向きぼそりと呟いた花摘の顔を覗き込むように、彼女が問いかけた。
「約束したから。絶対に、真一郎さんのもとに連れていくと。約束したから!!」
「馬鹿な娘だよ。一人で勝てると思い込むなんてね。あのときのような偶然は無いよ? ここは私の体の中なのだからね……」
 不気味に笑った彼女に花摘はぐっと拳を握り締める。
「だから、絶対に負けられない……」
 
 
 
 全てが動き出そうとしているのを私はどこか遠い知覚で感じ取っていた……。
 
 

 第30話

 
「ごめんね、真一郎……せっかく来てもらったけど、今日は帰って」
 そう言われても涙を抑えられない私の事が真一郎は気になるみたいだった。
「どうしたんだよ。なんかあるんだったら、相談乗るぞ……それとも、俺の事なのか?」
「うん、だから……今日は帰っ。お願い……」
 真一郎は寂しそうに少し躊躇ってから「じゃあ、また明日な」と言って部屋を出ていった。
 
 一人になった私は放心したように天井を見つめて考えていた……。
 
 真一郎優しいね。本当に、私の事好きでいてくれるんだね。
 でも……私にはわかってしまったから。
 それは、ちっとも価値のある事なんかじゃないって。
 眺める全ての物が、色を失い虚しく見える。
 
 私は真一郎とずっと一緒に学生生活を送りたかった。
 そんな事はどうしたって無理なのに。
 年を取って働いている真一郎と共有する少ない時間は私にとってやっぱり寂しい物だった。
 そんな事わかっていて、それでも受け入れていたつもりだった。
 でも、今目の前にそんなあさましい思いを私は見せ付けられている。
 それから私は真一郎と切っても切れない絆を持つ二人に嫉妬してもいた。
 だからここでは私も真一郎の幼馴染なんだ。
 ここは私の願いが全てを形作っている。
 それがどんなに愚かで嘘に満ち溢れているものであっても……。
 
 そして、私に不信感を抱かせない為に私の記憶――春原七瀬として生きていた頃の古い記憶――で世界を繋ぎとめている。
 私の病気が対処不能の難病になってるのがその証拠みたいなものだ。
 今の『私』が生まれた頃にはもう大分研究も進んでいて、昔ほど大変でも無いと言う事を聞いた。
 それでも完治はしないし、相変わらず厳しい生活には違いなかったけど。
 
 本当の私は、各地を転々とさせられ、数多くの研究所や病院を渡り歩いた。
 両親と滅多に会えなかったのは本当だけど、祖父母は私が小学生の時分には死んでいた。
 普通の苦労なんかじゃなかった。
 思い出したくもないような悲しい過去。
 小学生に入ってから、何度転校しただろう。
 でも……。
『駄目でしょ? 七瀬』
 数少ない記憶に残っている話しかけてくる母の面影……。顔などとっくに覚えてなどいない。でも、そのとき私は泣いていて、優しくあやされているという事だけはおぼろげに覚えている。
『泣いちゃ駄目よ。泣いたらもっと悲しくなるわ。そんなときはね、逆にこれでもかって笑うのよ。そうしたら悲しい事もなんだか悲しくなって、良い事もやってくるから。“幸せ”は、笑っている人が大好きなんだから』
 だから、私は泣かなかったし、どんなときでも笑っている事にした。
 出来始めた友達ともすぐに別れ、私は新しい町へ、知らない人ばかりの中に飛び込まなくてはいけなかったけれど。
 私は明るく振舞った。その時その時がその人に会える最後の時かもしれないと言い聞かせて。
 だから一生懸命友達を作って、悲しさなんか忘れてしまうくらい忙しく生きていた。
 時折耐えられない事があると、小さな手鏡を覗き込んで自分の御願いを言い、後はすっぱり忘れてそれから笑顔が上手く出来るかどうか練習する事にしていた。
 いつも使っていたその小さな手鏡は本当の意味で唯一の幼馴染と言える人からの贈り物だった。
 小学生に入る前、近所の神社に住む少年から餞別にもらった物だった。
 そういえばあの修治君はそれからどうしたんだろう……。
 結局それっきり会わないまま死んでしまったから。
 
 だから余計に真一郎の幼馴染に憧れたのかもしれない。
“言い訳にも何にもならないけどね……”
 私は少し苦笑いする。
 それより私は何でまだこんなところに居るんだろう。
 この悲しくなるだけの世界に、私は浸っているんだろう。
 わかってるよ、本当は。
 それは……これが私の愚かな望みの投影だと知ってもなお、今の私にとっては否定したく無い世界だからだ。
 忘れてしまいさえすれば、幸せになれるのだから。
 そう囁く声はまだ止まない。
 辛いよ、寂しいよ……でも、でも……。
 頭の中で飛び散る赤のイメージがフラッシュする。
 痛みで、目を背けてしまいたくなる。
 駄目……。逃げちゃ駄目……。
 そんな自分に負けてしまうような、そんな女にはなりたくない。
 いつだって負けない強い心を持っていたい。
 
 でも、ここは一体どこなんだろう。私はどうやったらここから抜け出せるんだろう。
 花摘……そうだこれは彼女に誘われて始めた旅だ。
 でも、本当にそうだったんだろうか……。
 なんだか混乱している。一体何が正しくて何が間違っているのか、わからなくなってきていた。
 本当に花摘なんて少女はいたんだろうか。
 鏡の魔なんていたんだろうか……私が好きだと思ってる真一郎だって…………。
 何馬鹿なことを。
 それだけは本当。
 その想いだけは本当。例え本当には真一郎が存在していないんだとしても。私の心にはいるから。
 ……じゃあどこからが夢でどこからが現実?
 私は思い出せる限りの記憶を呼び起こしていく。
 花摘が私のことを母と呼んだこと。真一郎とのクリスマスデート。初めて真一郎と会ったこと……。
 そして私は古い記憶にたどり着く。
 鏡の魔に始めてあった日の記憶。
 そして……私が死んだ日の記憶。
 
 
 ……
 …………
「明日で、さよなら……か」
 私は暮れなずむ教室でじっと佇んでいた。
 窓から見える校庭ではサッカー部や野球部がまだ球を追いかけている。
 でも、もう少ししたらそんな彼らも帰ってしまうはず。
 私はもう1度教室に目を戻す。
 4月に越してきて、ここには随分と長い事いられたものだと思う。
「ああ、恋ぐらいしたかったな……」
 私は叶いそうに無い自分の望みを口にする。
 ゆっくりと教室の中を歩き回りながら、私は一つ一つの机に触れていく。
「この席は……水元の席。くすっ……馬鹿だよね〜あいつは」
 想い出が頭の中でフラッシュのように瞬く。
 この学校で最初に友達になった男の子。
「そうそう、五木に怒られてばっかりいて」
 五木と言うのは、風紀に厳しい頑固婆あ。
 私も何度も注意されたっけ。
「あの、大きな鏡で身体検査って言って、『スカートが短いわね、ちゃんとした服装で来なさい!』だもんね。皆嫌がってたな」
 私はなんだかそんな事までおかしくて笑ってしまう。
「馬鹿みたいな4ヶ月だったな……」
 でも、幸せで楽しいかけがえの無い時だった。
「行きたく無い……」
 ぽつ……ぽつ。
 いつのまにか涙が零れ落ちていた。
「もう、嫌だよ……この町に、ずっといたいよ……」
 そう呟いた私の耳にどこからか声が聞こえた。
『七瀬……その願いを叶えてあげようか……』
「誰?」
 私が振り返るとそこにはがらんとした教室の風景。
 誰もいない、なんて事のない寂しい教室。
 馬鹿みたいと思って止めていた息を吐き出すと、何かが動くのが目の端に映った。
「誰?」
 その人がこちらを向いて立っていた。
「驚かさないでよ……」
 そこには私が同じ顔同じ反応見せて立ちすくむ。
「いつもかけてあるはずの布切れ、ずり落ちちゃったのね……」
 私は近づいていって床に落ちてしわくちゃになっている布を取り上げた。
「しっかし……なんだかなあ。オイこら、私。誰か来てくれると良いなんて思ってた? 本当は一人で寂しくここに佇んでいるのを見つけてもらいたかったか?」
 私は鏡の中の自分を小突く真似をする。
 鏡の中の顔がぐにゃりと歪む。
「だよね。見つけてもらいたかったよ……。何で私はこんな体に生まれついちゃったんだろうね」
 手にした布がまたこぼれてしまっていた。
「お母さんとお父さんと一緒に暮らしたかったのに、恋もしてみたかったのに、一つの町に半年といる事が出来やしない。もう、転校なんかしたくない。病院なんで大っ嫌いだよ……」
『だから、その願いを叶えてあげようか? と言ってるのに』
 今度は間違いようがなかった。はっきりと聞こえたその声。そして私と違う動きをする鏡の中の私の像。
 驚いて飛び退る私を鋭い痛みが貫いた。
 心臓が何かでえぐり込まれるようにきりきりと痛んだ。
「う……」
 声も出せないほど酷い痛みだった。
 いつも服用している薬の副作用だ。心臓に負担が掛かるから時折こういうことも起こる。
 私は副作用を抑える為の薬を取り出そうと震える指でポケットをまさぐる。
 だけど……。
 カラン。
 私は瓶を上手くつかむ事が出来ずに取り落としてしまう。ころころと転がっていく小瓶。
「あ、うう、ううーーーっ」
『あら、発作が起こってしまったのね。ほほ、どうするの? 私が、その苦しみから助けて上げましょうか?』
 喉を掻き毟るほどに苦しみが募る。
 それでも、素直に頼む気はしなかった。
 怖いとか、嫌だとか言うより混乱していてなんだか理解できていなかったと言う方が正しかった。
 自分がここで苦しんでるいことだけがはっきりとわかる真実だった。
 私は足掻いて、薬に這いずろうとする。
 だけど、体が震える。私は動くことも出来なくなってただひたすらに誰かが助けにきてくれないかと乞い願う。
“誰か、誰でも良いから……助けて……このまま一人で死にたくないよ……”
『でも、このままだったら死ぬわよ……一人で、孤独にね』
 声が冷徹に私に告げる。
“あなたは誰なの……?”
『私はあなたの願いが生んだ影、この鏡の中にいるの』
 まるでそれは私の心の中の声が聞こえたようにそう答えた。
“助けて……なんでも良いから助けて。一人は嫌……”
 私は息も出来ない、ただ口をパクパクとさせてもがいていた。
『それなら契約して』
 いつのまにか涙がぐしゃぐしゃになるほど顔を伝っていた。
“契約……?”
『私がここから出られるように願って……』
“それは……”
 さすがに恐怖なのか、自制心が働く。
『それなら私には助けて上げることは出来ないわ。きっとお母さんたちが悲しむでしょうね……』
 母さん達が悲しむ。
 その言葉を聞くといても立ってもいられないほど切なかった。
“……わかった……よ。出てきて、お願いだからっ……”
 私は思わず心の中でそう叫んでいた。
『……ありがとう。これで自由になれたわ。ほほ、ほほほほ』
 私はその笑い声を聞きながら視界が暗転していくのを感じていた。
 
 そして気が付いたとき、私は既にそこにいた。
 がらんとしてなにも無い空間。ぽっかりと開いた窓の外から、彼女が私を覗き込んでいた。
「私の代わりにそこにいなさい。七瀬」
「ここ、どこ? 一体……」
「そこは鏡の中よ。ほら、外が見えるでしょう?」
「……私をこんな所に閉じ込めて。騙したのね?」
「あら、騙してなんかいないわ。私はこの学校を離れたりしないし、あなたの体を救ってあげたわ。ほら、こんなに元気……」
「酷い……こんななにもないところで。出して、出してよっ」
「何も無いのは寂しいか?」
「嫌に決まってるでしょ!」
「そこに何もないのは私がまだ何も見ていないからさ。私は鏡だからね。私が多くを見ればそこは潤うよ。そうだね、20年もしたら戻って来て上げるかもしれないね。そのときにはその願いを叶えて上げる」
「ほほ」と甲高い笑い声を上げた彼女はさらに続けた。
「楽しませてもらうよ。七瀬。お前がそこにいさえすれば、私はこの素晴らしい世界を堪能出来るんだからね」
「そんな、待って、待ってよ。嘘でしょ? ここから出してよ、ねえ、ねえっ。助けてよーーーっ!!」
 
 
 それから私はずっとそこにい続けた。誰も私のことを見つけてはくれなかった。
「ねえ、誰か話しかけてよ。私を見つけてよ……誰か、誰か……」
 
 
 そして、長い年月が経って。いつのまにか私が外にいたとき、私は既にそのことを忘れていた。
 私は、自分を幽霊だと思いこんでいた……。
「誰もいない旧校舎って寂しいね……」
 だって、孤独なことにはなんの変わりも無かったんだから。
 
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