Mirror Labyrinth

 

 第31話

 
 そうだった。
 ようやく思い出した。
 多くの事がこれでようやく説明出来る。
 ……ここは鏡の中なんだ。
 だから私の望みが叶う。
「でも、待ってよ? 何かおかしいよ、それ」
 そうだ。私はあのときからずっと鏡の中にいるわけじゃない。
 春原七瀬が真一郎に出会ったのは本当。
 だって、そうでなければこんな望み自体、あり得ないんだから。
「一体どこからどこまでが本当なんだろう」
 鏡の魔がいたと言う事は、花摘の存在も嘘ではないのだろう。
 だけど、鏡の魔の一人二役かもしれない。
 そもそも、なんで私を、この鏡は閉じ込めておこうとするのかな。
 えっと確か、私によって生まれたから、私がいないと外で姿を保っていられなくなってしまうんだ。
 だから、“要”としての存在を欲しがったんだ。
 ……あれ? なんで私こんな事知ってんだろ。
 なんとなく、かな……。
 どこかでわかっていたのかもしれない。
 私は長い間鏡の中にいたから、そんな事が自然とわかっていたのかも。
 だから、抜け出せるようになったのかもしれない。
 鏡の牢獄から。
 でも、結局はそこは旧校舎になってしまっていて、孤独には違いなかったけど。
 私があんなにも鏡を恐れたわけ。
 それは、何よりも孤独になる事が怖かったのかもしれない。
 一人で、何とも触れ合えずに生き続ける事が。
 それなのにまた、私は鏡に捕らえられている。
「とにかく、ここからは抜け出さないと……何か、あるはずなんだよ。昔の私もよく抜け出していたんだから……」
 とは言っても、ここからあまり遠くにまでは離れられなかったし、長くも外には出ていられなかったけど。
 じっと鏡を見つめる。
 さくらからの贈り物と称されたその鏡。
「そう言えば……私夢の中ではさくらを見たけど鏡に入ってから直接見て無いな」
 小鳥さんや、唯子さん、瞳さんに、いづみ、そんな人がいっぱい出てきているのに。
 何故なんだろう……。
 それに反応して、何かの記憶が頭の中でフラッシュバックする。
 
「おのれ……何故わかった……?」
 さくらがどこかぶつけていたのか、顔を苦しげに歪めながら近寄って行った。
「私の、もう一人の親が何者だか、貴方にはわからなかったから。私の父親は生粋の吸血鬼だから」
「く、く、く。そうだったか……天敵よの……」
 
 呟いた苦しげな私の顔――いや、鏡の魔。
 さくらのもう一人の親……吸血鬼。
 吸血鬼は鏡に映らないと言われる。
 だからこれまでさくらはこの中に出てこなかった。
 もしくは出て来たくてもきっと入れないに違いない。
 なら、今になって届いたこの鏡はきっと本物なんだ。
 さくらがこれを届けてくれたおかげで、私はきっと気付けたんだ。
「ありがとね、さくら……でも、私どうしたら良いのかな」
 どうしたらこの世界から元の世界に戻る事が出来るんだろう。
 鏡に訊いても答えてはくれない。そんな事はわかっているけど、もう藁にでもすがりたい気分だった。
「やっぱり駄目か……」
 でも、きっとこの手鏡はまだまだ何か役立つはず。
 ここに届いた事自体、これが凄い力を持っているって証明してるみたいなものだし。
 ふと、外を眺めてみるといつのまにか月が昇っていた。
「月は綺麗だね……この鏡の中で見ても。胸の奥がじんとするような切なさがあるね……」
 昔、真一郎が言っていた。
『今でも、今でも時折、こうして月を見上げていると無性に切なさを感じる事があるんだ。七瀬とは再会できたのに、それでも、悲しみはあるんだなって……』
 私にはその感覚全てを共感はできなかったけど、なんとなく、今ならわかるような気がした。
 もう寝ないと明日が辛くなる。
「……寝よう、まだしばらくこの世界にいなきゃいけないかもしれないし。なんとか明日から探ってみないと」
 私はぽすんと布団に包まって目を閉じる。
 また、私は夢を見るだろうか。
 見る夢は悪夢かな、それともまた混乱するだけかな。
「おやすみ……」
 誰にとも無くそう言って私は眠る事に意識を集中した。
 
 ……
 …………
 夢だ。
 それは良くわかっていた。だって、目の前に『私』が立っているから。
「ねえ? 七瀬」
 古いセーラー服を着た『私』が私に向かって話しかける。
「何?」
 その状況を平然と受けとめている私がいる。
「何じゃないわよ、いつまでこんなところにいるつもりよ」
「いつまでって言われても……」
「本当はもうわかってるんでしょ七瀬? どうやったらこの世界から出て行けるかなんて事」
「わ、わかんないわよ。わかったらとっくにやってる……」
「七瀬!! 目を開けなさいよ! 私こんな情けないのが自分の未来の姿だなんて認めたくないよ。ほら、見えるでしょ、何をすれば良いか」
 ぐいと顔を押さえて『私』が見つめる。その目の中に、本物の悲しみが垣間見えて、私は頷く。
 そう、『私』の言う事は正しい。
『私』はここから抜け出す術はもう知っていた。
「よし、それでこそ私だよ」
 ふわっとした感触に驚くと自分に抱きつかれてた。
「大丈夫だよ。大丈夫だよ……」
 私は、自分が泣いていた事にそのとき初めて気が付いた。
「あ、あああ……」
 私は『私』を抱きしめる。
 …………
 ……
 
 まだ、夜は明けていなかった。上を向いた瞳に涙の膜がかかっている。
 つうっと頬を滑り落ちて行く……。
「わかってるよ、もう逃げないから。今度こそ本当に逃げないから……」
 私はごしごしと目をこすった。
「最後にもう少しだけ泣かせてよ……」
 自分に言い訳すると涙は堰を切ったように溢れ出していた。
 
 そのまま私は眠る事も無く朝を迎えていた。
 重い足取りで学校へと向かう。
「おはよう」
 真一郎の聞きなれた声……ううん、聞けるはずの無かった声。
「おはよう……」
 その後に真一郎と付け加えはしなかった。
「大丈夫なのか? 七瀬」
「うん、それよりね。話があるの……」
「俺に?」
「そう」
「今すぐ?」
 そう言って往来を気にする真一郎。
「ごめんね、早い方が良いんだ。決心鈍ったら嫌だし……」
「わかった……やっぱりこの間の告白の事?」
「うん……ありがとね。嬉しかったよ。でもね、付き合えない。私はあなたの幼馴染じゃないし、あなたの事を一番には好きでいられないよ」
「どうして? それに、幼馴染じゃないって……」
「私の出会った真一郎はあなたじゃないから。私は私の真一郎しか本当には好きになれないから」
 小鳥さんにも教えてもらったよね。
 私の真一郎は一人だけだって。
「でも、あの人は死んでしまったんだよ……。あの人を選んでも、七瀬は独りぼっちにしかなれないよ?」
 彼がそう言ってきた事に驚きはしなかった。所詮私の想像の産物なのだ、知っていてもおかしくない。
「それでも。例え、どこにも寄る辺無い身になったとしても、孤独の中で死ぬとしても」
 私はにっこりと笑う。
「私は私と一緒に過ごした真一郎だけしか愛せないから。それぐらい大好きだから」
 言うと同時に景色が歪み始めた。
「これで、真一郎の元に帰れるね……また一人、か……」
 それでも良い。
 瞳さんの事を思い出した。
 一人で、自分の未来を探そうと足掻いていた。
 私も足掻かなくちゃ……真一郎のいない未来を受け入れて……。
「違うよ、よく考えて七瀬。本当に、そうだったのかい?」
 消え去る瞬間、彼がそう言った。
 
「え?」
 私は彼の方に目を向けたけど、そこにはもう何もなかった。
 

 第32話

 
『違うよ、よく考えて七瀬。本当に、そうだったのかい?』
 私は、彼の言った言葉を自分の中で反復する。
 ……何故、彼はそんなことを言ったのだろう。
 それも私を惑わす為なんだろうか。
 いや、もうあのとき彼はそれまでと全く違った答えを返したのだ。
 消え去る直前のその言葉には信憑性が有るような気がした。
 だったら……真一郎は生きている、死んでいない?
 そうだ、どうして私はあの真一郎が本物だと信じたのだろう。
 あのときの真一郎はおかしかった。
 その感覚は確かにあったのに……衝撃に紛れて上手くごまかされてしまったんだ。
 さくらの手紙に、なんて書いてあった?
 
  最後まで、先輩を信じて上げてください。
 
 それはこの事を示していたんじゃないだろうか……。
 ――信じる強さ。
 目の前にまっすぐな深い愛情を秘めた瞳が見えるようだった。
 それは、唯子さんが恋人の真一郎に対して示した、稀有な瞳。
 昔の恋人の出現にさえ揺るがなかった信頼なんだ。
 私は信じて上げなくちゃ。
 どんな事があったって、真一郎はあんな手酷い裏切り方はしない。
 例え、私をこの先嫌いになる事があったとしても……真一郎は過去のその想いまで嘘にしてしまったりはしない。
 そして何より、私達の永い年月育んだ想いはそんなに軽いものじゃない。
 莫迦だな……なんで信じて上げなかったんだろ。
 あの真一郎は偽者だ。
 全部嘘だったんだ、私の周りは多くの嘘と虚構で塗り固められている。
 でも、その中には必ず、私を助けてくれる人達がいた。
 私に大切な事を教えてくれる人達がいた。
 ――全部花摘の言ったとおりだった。
 花摘、今あんたどこにいるのよ。
 私を、本当の真一郎のところに連れていってくれるんでしょ?
 
「どうしてでしょうね。誰もが、真一郎さんの事を言わなかったのは」
 
「何故この鏡が怖いのか、そして何故貴方の真一郎さんとの別れの記憶があいまいなのか。……答えはこの鏡の中にある」
 
「でも、一つだけ正しい事は。真一郎さんはずっと、あなたを見守っていると言う事です」
 
 唐突に頭の中に閃く幾つかの花摘の言葉。
 なんで、こんな事を思い出すんだろ……。
 でも、今だったらその言葉に答えが思いつくのかもしれない。
 旅立つ前。あそこでも、私は真一郎が死んだと思っていた。
 真一郎の事を皆が話さないのは私に気を使ってるからだと思ってた。
 でも、違う?
 鏡が怖い理由はわかった。だけど、どうして真一郎が死んだ……いや、違う、鏡に囚われたんだっけ……その瞬間を思い出せないんだろう?
 真一郎は見守っている?
 鏡に囚われたのに?
 待って……本当に? 真一郎は鏡に囚われたの?
 花摘は私の周りには嘘だらけだと言って、それは正しかった。
 だったら、この事も……嘘?
 
 思い出せ……思い出さなきゃ……あの日、私は真一郎と旧校舎に行って――。
 
「真一郎、真一郎! ほらこっちこっち」
「元気なのは良いけど、そんなに急ぐと転んで怪我するぞ」
 そう、真一郎は笑顔だった。
 このときはまだ恐ろしい事なんか起きると思ってもいなかった。
 
「えへへ、捕まえてみてよ。真一郎、そしたら、もう一度キスして上げるね」
 真一郎から離れて階段を駆け上がる。
「おいおい、また転ぶなよ」
 もう少し先……この後私は真一郎と鬼ごっこして逃げ出して……。
 
 それで……あの教室に入ったんだ。
 
「あはは、こっちだよ。真一郎……」
 がらがらっ。
 教室の扉が音を立てて開く。
“くす……昔、真一郎と初めて結ばれた時もこうして、あちこち連れまわしたっけ”
「待て、七瀬! そんなに急ぐと本気で怪我するぞ」
“真一郎結局息上がっちゃってるわね……そろそろ捕まって上げようかな”
 ふわ……。
 そのとき、何かが心の網に触れたようなそんな感覚がして、私はそれに振り向いた。
『待っていたよ……七瀬』
 声がして、私は呆然となる。
 押し寄せる恐怖の記憶に体が動かなくなってしまう。
『さあ、おいで……お前のいるべき場所に』
「あ、ああ……」
 私は声を絞り出す事も出来ないのに、何故か足はそれの命令を聞いて歩き出す。
 大きな大きな鏡、私をずっと長い事捕らえ続けていた鏡。
 それが私の全身を写してそこにあった。
 近付けば近付くほど自分の中の恐怖は私をがんじがらめにしていく。
“い、いや……もう、一人でずっと過ごすのは……いや……”
 足は滑らかに歩みを進める。
「はあはあ……七瀬?」
 追いついてきた真一郎が私の様子にいぶかしんだ声をあげた。
“真一郎、助けて。真一郎……”
「……まさか、この鏡は! 七瀬!!」
 真一郎が私を引き戻そうとして叫び、走り寄ってくる。
『また、邪魔をする気だね……だがもう遅い』
 真一郎の手が届こうとするのと、私を捕らえようと鏡が中から触手を伸ばすのは同時だった。
 煌く景色ごと、私は鏡に飲み込まれていった。
 最後の瞬間、私はほんの少しだけ呪縛を打ち破り、叫んでいた。
「真一郎、助けて!!」
「七瀬、七瀬、七瀬ーーーーーーーーっ!!」
 真一郎の叫び声が私の耳にも届いたとき……私の意識は暗黒に包み込まれた。
 
 体がぶるぶると震えていた。
 そうだったんだ……真一郎が鏡に飲み込まれたんじゃない。
「飲み込まれたのは私のほうだったんだ……」
 ようやく気付いた真実に私は真一郎の姿を回りに求める。
「真一郎、真一郎はどこに?」
『七瀬ーーーっ! 七瀬……戻って来い。戻ってきてくれ、七瀬、大好きな七瀬、七瀬、七瀬ーーーーーーーーっ!!!!』
 不意に真一郎の声が聞こえた。
 私はその方向に目を向ける。
 今まで自分がどこにいるのかも気にしていなかったけど、そこは何もない空間で、私の視線の先にぽっかりと外の景色が覗いていた。
 そして、そこにはずっとずっと待ち望んでいた、私の真一郎の姿があった……。
「真一郎!!」
 だけど、私の声は届かなかった。
 真一郎は必死に私を呼び続ける。その手には、私の体が抱かれている。
 時折、ぎゅっと確かめるように私を抱きしめ、真一郎は口付けする。
 涙が、幾筋流れたんだろう、真一郎の頬は何度も涙を拭った跡で真っ赤になっていた。
 私は急に身近に真一郎の体温を感じるような気がした。
 自分の体を抱きしめてくずおれる。
 真一郎はずっと、あれからずっと私の事を呼び続けていたに違いない。
 その証拠に声は枯れ、ひび割れていた。それでもなお、真一郎は呼び続ける。声を振り絞りともすれば聞き取れなくなりそうなそんな声を必死で張り上げる。
 私は真一郎の強い愛情を感じて、私は涙を――これまでと違う感動の涙を――流していた。
「思い出したようですね」
 突然の声に振り返るとそこには花摘がゆらりと立っていた。
「花摘……真一郎が……真一郎が……」
 その言葉ににっこりと花摘は微笑う。
「ええ、あなたにずっと呼び掛けてくれる様にお願いしていたんです。それがあなたを引き戻す一番強い力になると思ったから……本当に、良くやってくれました」
「私、私さ……」
「泣くのは後、もうあんまり時間が無いんです」
「時間が無い?」
「ええ、もうそんなに長くは母を押さえておけませんから……」
 そう言って私の手をつかんで花摘が連れて行こうとする。
 けれど、花摘はふらりと揺れ倒れこむ。
 見た目に外傷は無いけれど、随分と弱っているみたいだった。
「無理だよ、少し休んで行こ?」
 青ざめた花摘の顔がこくんと素直に上下した。
「すいません……母との闘いで思った以上に消耗してしまったみたいです……」
「ねえ、母って言うと……」
 花摘は私の問いかけにこくりと頷く。
「夢で見て、もう御存知だとは思いますけど……七瀬さんを捕らえた鏡の魔というのは、私の母です……」
 それは本当だろうとわかっていた。
 つまり、花摘は私の生み出した魔物の娘なんだ……。
「じゃあ、あの夢は全部、本当に有った事なんだね……」
 私は一抹の悲しさを否定できずにそう呟く。
「はい、昔、私と真一郎さんとさくらさんで私の母と闘ったのも本当。真一郎さんが鏡を割り、母を一旦は滅ぼしたのも本当です」
「そうなんだ……あのさ……少し気になっていたんだけど、鏡を割ったぐらいで滅んだりするもんなんだ」
 花摘は少し困ったように顔を歪める。どう説明したものかと考えているみたいだ。
「そうですね……あのときは特殊だったと言えます。母も私とさくらさんを相手にしていたため、言うほどの余裕は持っていなかったんですよ。まあ、真一郎さんに対して油断していたとも言えますけど」
「でも、蘇ったんでしょ?」
「はい、そして七瀬さんを取り込んで力を取り戻したんです」
 そうだった、結局鏡の魔を生んだ事も今回の事も、私がもう少し強ければ良かった事なんだ。
「ごめん……」
「いえ、謝っててもらう事は」
 花摘は私を傷つけたと思ったみたいで少しうろたえた。
「……でも、私にそんな力があるの?」
 気になっていた事を訊いてみる。
「有りますよ。七瀬さんにはたぐい稀な力が備わっていました。ただ、自分では気付いていらっしゃらなかったので、自在に使いこなす事も出来なかったんでしょうが……」
「……今もあるの?」
「わかりません。でも、あなたは過去を変えました。母と私の力が介在していたとは言え映し出された『時』を変えたのはあなたです」
 良くわからないけど、私には力が有るのは間違い無いんだ……なんか、普通の人、じゃないわけだ私……。
 でも、良い事だってある。
「じゃあ、私があいつを倒す事も出来るのかな?」
「母はあなたの言葉から生まれました。そのあなたなら、可能かもしれません」
「そっか、それじゃ……」
 私が次の言葉を言おうとした途端、花摘は悲しそうに首を横に振った。
「いいえ、駄目なんです。母を本当の意味で消し去る事は出来ないんです」
「どうしてよ」
 私は花摘の表情から感じる不安と否定された事から来るいらつきで声を荒げてしまう。
「何故母が一旦は滅んだのに蘇ったのか、その理由を知らない限り誰にも絶対に不可能なんです」
「じゃあ、どうして蘇ったの?」
 苦渋に満ちた花摘の笑顔。
「七瀬さん、母子感染って知っていますか?」
「母子感染? えっとあの、子供が母親の体内にいる時に母親が風邪引いたりすると子供にまでかかっちゃうとか言う、やつのことかな?」
「まあ、そんな感じで良いです。その母子感染でかかった病原菌を子供が自分の体内――骨髄で生産するようになってしまう事があるんです。もちろん時期やその他の色々な条件が重なった上での事なんでしょうが……」
「え? じゃあその子供はずっと風邪引いているの?」
 私のとんちんかんな答えに、花摘は苦笑いする。
「さすがにそんな事にはなら無いでしょうけど。自分で生産しているものですから、そんな状況になるようだったらとっくに死んでしまっているでしょうし。詳しくは専門家では無いので私にもわかりませんけど……つまり、私はその特殊な症例の患者みたいなものなんですよ」
「……私には今一良くわからないんだけど……それとあいつが蘇った事となんの関係があるの?」
 私の問いに、花摘はその言葉を静かに言い放つ。
「私はね、七瀬さん。自分の意志に関わらず母を再生してしまうんですよ……」
 花摘の悲しげな瞳に私は何も言う事が出来なかった。
「私は怪我をすれば、回りの人から生気を吸い取り、なおかつその一部は母を癒す糧になる。私はそういう風に出来ているんです……」
「そんな……花摘が生きている限り、どんなに倒してもあいつは必ず蘇ってしまうって事?」
「そうなります……そして、私は神族と魔族の血を引きそれが故にどちらの血族にも傷つける事は敵わない、人では私が死ぬより先に私が殺してしまう……私を傷つけたその瞬間に、その人は生気を吸われて死んでしまいますから」
 しんと全ての音が静まったような気がした。
「誰にも殺せない、誰にも倒せない存在が私」
 やるせない感情に、私は拳を握り締める。
「じゃあ、じゃあどうするの?」
 花摘は疲れたように少しため息をつくと、笑った。
 それは儚げで、胸の奥がずきりと痛くなるそんな笑みだった。
「……とりあえず、ここを出ましょう。それが最優先です」
「わかった。それもそうね……」
 私は私を呼ぶ真一郎に潤んだ瞳をむけて頷いた。
 
 花摘がゆっくりと私の手を握って歩き出す。
「それにしても、ぎりぎりで気付いてくれて良かったです……鏡は役に立ったみたいですね」
「鏡? もしかしてこれの事?」
 私は持っていたカバンの中から手鏡を取り出して見せる。
「それです。さくらさんからの預かり物」
 さくらからの預かり物……か。一体どう言う経路でこれは私の元に届いたんだろう。
「……ねえ、悪いんだけど、教えてもらえないかな。私まだ良く思い出せていない事とか、分かって無い事がたくさんあるんだけど……」
 花摘はちらりとこちらを向き、進む速度は緩めずに問い掛け返してきた。
「そうですね。色々とお話しなければいけない事がありますね……ます何から話せば良いでしょう」
「出来れば、最初から私が捕まった辺りから知っていること全部」
「はい……」
 花摘は表情を変えずに前をじっと見つめたまま話し出した。
 
 先ほども語った通り、母は一旦は滅びました。
 けれど、私の力によって蘇り、力を取り戻す時を狙っていたのです。
 それを感じ取った私は色々と母を捜して歩きました。
 ですが、母の方もそれは予期していたのでしょう。
 巧みに私の前から姿を隠し決して現れようとはしませんでした。
 そして、偶然七瀬さんが旧校舎に現われた。
 それはもしかしたら、なにがしかの力が働いたのかもしれませんし、七瀬さんを母が呼び寄せたのかもしれません。
 もしくは真一郎さんを、ですが。
 真一郎さんを呼び寄せる理由は七瀬さんが過去を変えたせいで無くなってしまいましたから、現状が変わっていない時点で違うのでしょうが。
 その数日前、私はちょうど手紙を受け取っていました。さくらさんからの手紙です。
 内容は真一郎さんと七瀬さんに危険が迫っているが自分は差し迫った用事があり、現在ドイツにいる。ここからではその用事が終わった後戻っても間に合わないのでどうか、二人を手助けして欲しい。私にも由縁のある事だからと、そういうものでした。
 手紙を受け取り、私は差し迫った危険が母によるものである事は容易に想像できました。
 すぐに、旅立ち、お二人を探して歩いたのです。
 ですが、結局探し当てた時、つまり私が旧校舎にやってきた時には既に七瀬さんは捕らわれた後でした。
 私は真一郎さんの安全を確保する為に、さくらさんから贈られた鏡を渡し、それから母と話してみました。
 七瀬さんが捕らわれてさえいなければ、そのまま戦いになった事でしょうが、七瀬さんがいる状態で母を倒したら母ごと七瀬さんは帰らぬ身となったでしょう。
 それはともかく、母も完全に七瀬を取り込んだと言うわけではありませんでした。
 その為に母は私に手助けを求めたのです。
 私も自分の宿命を悟って大人しく言うことを聞く気になっただろうと思ったのでしょう……。
 とりあえず、その時七瀬さんは完全に母に取り込まれてもいないけれど、かと言って自由でもありませんでした。
 七瀬さんは抵抗して、母の極表層に近い部分で頑張っていたからです。
 ただ、それは無意識の母に対する恐怖が起こさせたものでした。
 七瀬さんは自分の世界を作って閉じこもってしまっていました。
 そのままでは、遅かれ早かれ魂を失った七瀬さんの肉体が滅んでしまう事はわかっていました。
 真一郎さんにも七瀬さんを取り戻してくれるよう頼まれましたし、私は母に一見協力すると見せかけて七瀬さんの作った世界に入り込みました。
 そこが最初に七瀬さんがいた世界。
 真一郎さんが死んでしまったと誤解していた世界です。
 それは、七瀬さんが母に対する恐怖で、取り込まれたと言う事に関する近辺の記憶の空白を作ってしまった事を利用して母が干渉した結果なのですが。
 母としては、そうして七瀬にその世界から出てきてもらおうと考えたわけです。
 一番簡単なのは七瀬さんに自殺してもらう事だったでしょう。
 そこまで弱った魂なら簡単に取り込めますからね。
 そう、もしあの時私の忠告を無視して死んでいたら、七瀬さんはきっとあの先ほどまでいた作り物の願いの世界に永遠に閉じ込められた事でしょうね。
 あの世界については母も学習したわけです。
 七瀬さんが外に行きたいと言う気持ちを持たないようにする事が大事だと。
 前回の母の失敗は七瀬さんが鏡の外に出たいと願うあまり、その力を押えておけなくなった事に起因するのですから。
 
 
「そこで私が真一郎と出会って、鏡の中から解放されてしまったからね?」
 私が口を挟むと花摘は軽く頷いた。
「ええそうです。もっとも……今回も母は失敗してしまったわけですけど」
「でもさ、花摘。なんで私に最初からその辺のこと説明してくれなかったの?」
「そんな事をしたら、さすがに母も力づくで七瀬さんを食おうとしたでしょうし、あの時の七瀬さんは母への無意識、本能的恐怖に支配されていて、信じてもらえない可能性もありました。もしそんな事になったら私は七瀬さんを人質に取られたまま母と戦わなくてはいけなかったでしょうね」
「う、悪かったわね」
「信じて貰えなければ、七瀬さんが自分で脱出しようと言う気持ちが起こる事も無く、当然ここから抜け出す事は出来なかったでしょう。だから、真一郎さんに会いたいと言う気持ちがその無意識の恐怖を上回るように仕向けたんです」
「それじゃずっと真一郎に会いたいって気持ちよりあいつにびびってたって事?」
 なんか、そうだったら凄く悔しいよね……。
「いえ、本当は何度かそうなりかけた時もありました、夢の中で。でも、母がそのたびに七瀬さんの邪魔をしたんです」
「邪魔……? そう言えば、思い出した……確かに真一郎が私を呼んでいる夢を見たことがあるよ。必死に私を呼んでいる夢……そこでなんか怖いモノが現われて忘れろって……でも、夢じゃなかったんだね」
 目の前に、見える真一郎とあの時の姿がだぶる。
「元々無意識の恐怖と言うのは捉えがたい物です。幾ら想う気持ちが強くても自分で巧妙に隠してしまっている真実ですから」
「でも、なあ……」
「良いじゃないですか、もう、克服したんですから。私も苦労したかいがあったと言うものです」
「ありがと」
「でも、本当に呪縛を断ち切れたんですね。失われた記憶まで思い出して……」
「うん、本当迷惑かけたよね。でも、もう大丈夫」
 花摘は嬉しそうなそれでいてどこか寂しそうなそんな笑顔を浮かべる。
 それは『私』を抱きしめて昇天させてやった時の花摘の顔。
「ねえ、花摘?」
 私は不意に感じた疑問をしまって置けなくてつい口にする。
「なんですか?」
「あの、最初の世界と最後の世界は私の作り出した物にあいつが干渉していた世界だってのは分かる。でも、途中の世界は? 小鳥さんやいづみや、私を助けてくれた人たちは?」
「……あれは、こことは違う、また別の本物の世界ですよ」
「どう言う事?」
「母は魔鏡です。普通の鏡は光を映しますが、母は『時』を映すのです」
「どう言う事よ……」
「世界のその瞬間瞬間を映し出す事が出来るんです。それは留められた『時』過去の世界、その中に人を招き入れられる……」
「過去……あの夢と同じ?」
「ええ、あれは、同じ事が出来る私が映し出した『時』ですけど」
「でも、真一郎は皆違う未来を歩んでいたよ?」
「母には、他世界をも映し出す力があるんです。あれは他世界の『時』。どこまで干渉出来るのかは知りませんが……あの世界にも、あの世界の母がいるのでしょう……」
「そうなんだ……でも、過去の時は過去なんでしょ? それは本物って言えるの?」
「合わせ鏡の中には光を閉じ込めたなら、その時の光は永劫にその中にあります。遠い星の光が嘘では無いように、その中に閉じ込められた光もまたその時を映しているのです。それが魔鏡同士の合わせ鏡だったから……そう言う事も出来たのかもしれません……」
「花摘がいたからなんだね? 私を助けてくれた人たちにも、花摘が会わせてくれたんだね?」
 花摘は照れくさそうに顔を背けると、前方を指差した。
「そろそろ出られますよ」
 ぽっかりと闇の中に開いた鏡の形。その先に、大好きな真一郎がいる。
 もう、ほんのあと少し……。
 思わず駆け出そうとした私の手を花摘が引き留めた。
『ほほ、そうはいかないよ』
 私達の前に現われたそれに、花摘が顔をしかめる。
「まだ、やる気なんですか? お母様……」
 内心の怒りが噴出そうとするのを必死で押えているような、ぞくりとする表情でそこには鏡の魔が立っていた。
『逃げられると思っていたのかい?』
「力づくでも、止めに来たってわけね?」
 私は言いながら緊張で溜まった唾液を飲み下した……。
 

 第33話

 
「まだ、懲りていないんですね?」
 花摘の声に、鏡の魔はにやりと笑う。
「花摘、ここは私の中なんだよ? 例えお前であっても私にはかなわないさ……」
「無駄よ……お母様。私にはどんな力でも、今になってはもう効かないわ。あなたがそういう風に仕向けたのでしょう?」
「ほほ、そうだね、花摘その通りだよ……」
「な、何笑ってんのよ!!」
 私はその笑いが不愉快で思わず口を挟む。
「強気になったものだの? 七瀬よ……」
 びくりと体が竦む……。
 今だって、私自身のこいつに対する恐怖が無くなったわけでは無いんだ……。
 一歩後退ってしまいそうになる。
 でも……下がったらまた負けてしまう。
 下がった一歩はもう埋められない……そんな気がする。
「強くなるわよ。私だって大切な人を護る為に、自分が自分であるために!!」
 勇気が欲しい。
 やけっぱちのものじゃなくて、信念を持った恐怖を克服する勇気が欲しい。
 いづみさんは持っていたね。
 悩んでもいたけど、彼女は強い信念と勇気を持っていた。
「七瀬さん……」
 花摘が呟く。
「花摘よ、お前は一人では無いぞ? 七瀬まで護って闘えるか?」
 さも面白そうに言う鏡の魔。
「……良いよ。花摘……私は大丈夫だよ」
「七瀬さん? ……わかりました……お母様、お覚悟を」
「は、そうかい。それなら、遠慮無くいかせてもらうよ?」
 途端、私の回りの空間で何かが弾けた。
 バシッイィィン。
「きゃあっ!」
 あまりの音に思わず声をあげてしまった。
 でも、鏡の魔もまた驚きの声を上げていた。
「なに? いつの間に結界を?」
 周りを見まわすと何かどす黒い恐ろしげな物が私の回りから押し寄せてこようとしては、火傷でもしたみたいに引き下がって行く。
「私の力じゃないわ……七瀬さん、鏡を手放さないでね?」
「そうか、あの鏡か。意志も持たぬ鏡のくせに、私に歯向かうか!」
「あははは。そんな事言っても、お母様では多分あの鏡を破壊する事は不可能よ」
 花摘が嘲りの声を投げかける。
「不可能のはずが無い!!」
「だって、私がいつまでもそうしてなんてさせて上げないからですよ。あはははは」
 な、何?
 花摘の笑いは狂気じみていた。
 見ていた私の背がぞくっと震える。
 花摘の手が振られ、私の回りを包んでいた物を炎が襲った。
 ごおおおおおおおっと恐ろしい音を立てて焼き尽くされて行く。
「花摘……」
 憎憎しげな鏡の魔の声。
「何度でも殺してあげます……お母様? 私は恨みを決して忘れませんから……」
「……くっくく。あれはそなたがやったのであろう? 自らの兄を殺し、そして食らったのは?」
 え?なんですって?
「ふふ、七瀬よ。お前は花摘の事を信用しているようだが、この娘は恐ろしい悪魔のような女なのだよ」
戦慄と共に私は花摘に疑いの眼差しを向けてしまう。
「そう仕向けたくせに!! わざと私に、兄様……お兄ちゃんを殺させたんだ……私を追い込んで、私の心を消しててしまうために……」
「ほほ、それでも殺したのはお前だ。のう、花摘?」
「あなたが私を操っただけじゃない……私は……殺したくなんか無かった」
「そうか? でも雪乃は殺したいと願ったであろ?」
 鏡の魔の表情がにたぁっと恐ろしい笑みに歪んだ。
「…………」
 花摘は答えない。
 それが正しい事だと認めるように下を向き、ぐっと唇を噛み続けている。
「ちょっと、一体なんなのよ!!」
「雪乃さんは……お兄ちゃんの婚約者だった……私は馬鹿な嫉妬をして、魔物の力であの人を殺してしまった……」
 花摘の表情はロウのように青白い。
「ほほ、だが、惜しかったの……あの時、洋一がその場を見つけなければ誰もお前の仕業とはわからなかったろうの?」
「……お兄ちゃんをあそこに呼び寄せたのはあなたでしょう? 知っています。あの時、お兄ちゃんが結婚すると知って動揺した私の心に囁きかけたのはあなた、雪乃さんがさも不義をしているかのように私に見せつけもしましたね……皆、もう知っているんですから!!」
「洋一に捕まり、お前は魔物として地下に繋がれたの……お前は自分を痛めつけ、最愛の者にも責められて、後一息で私の意のままに動く僕になるところだったのに、惜しかったわ……」
「私にお兄ちゃんを殺させたのはやり過ぎでしたね……あれも、私の心を砕く為にした事なのでしょうけれど……私はそのおかげで知ったのですから……全てがあなたの手のうちにあったと言う事を」
「そうだ、失敗だったね……お前はもっと弱いかと思っていたのにね」
「あの時まで、あの時まで……私はあなたを嫌いではなかった。あなたは優しかった。体が弱かった私を慈しんでくれたし、厳しくても、それは私のためだった。だけど、そんな事幻想だった。あなたがただの人間ではなく化け物だと知っても、私は信じていたのに……。お父様をも病死に見せかけて生気を吸い取り殺したんですものね」
「止めよ、花摘! 情けないね。気付かなかったお前が悪いのさ」
「あんたね、良い加減にしなよ?」
「七瀬さん……」
「花摘はあんたの子供なんでしょ? そんなに苛めて楽しいの?」
「今更何を言うんだい? 七瀬、私は魔物なのだよ……魔族と言い換えても良いけどね。どちらにせよ、私には親子の情などないよ」
「お母様……あなたは許せない。絶対に……倒して見せる」
「ほほ、出来るかえ? お前は母の言うなりも同然なのに」
「何?」
「お前の核には私がいるのだ、例えお前が外からは不可侵であろうとも、自分の心から護れるかね?」
 言うと途端に花摘が震えて崩れ落ちる。
「あ、ああ……」
 花摘の体がぎしぎしと軋む音が聞こえてくるみたいだった。
 肌がまるでガラスのように透き通り、爪が伸びて行く、髪の毛が根元から真っ青に変わっていく……。
「花摘……」
「七瀬……さん……」
 苦しみの声を漏らしてこちらを見つめた瞳は禍禍しい赤に彩られていた。
「ほほ、恐ろしい姿だろう? この子が受け継いだ本質よ。魔族としてのその正体さ」
 思わずびくりと反応した私に得意げな鏡の魔の言葉。
「く、苦し、い……」
 花摘が上体すらも支えきれぬように突っ伏す。
 確かに、花摘は今や恐ろしい化け物の姿だった……。
 だけど、私には泣き声が聞こえたような気がした。
「花摘……大丈夫?」
 私は花摘の体を柔らかくそっと抱きしめてあげる。
 花摘は私の事を助けてくれた。
 私がその借りを返すのは今しかないような気がした。
「止めて、側に来ないで……七瀬さん、離れて……」
 肉食獣が唸るような声が喉の奥から聞こえてきた。
「渇く……から、襲ってしまう……かも知れないから……」
「1度、魔に堕ちたお前をそうするのはいともたやすい事さ。耐えるなんて無駄な事だよ? くく、自分の意志など放棄して襲ってしまえば良いじゃないか」
 私は花摘から手を離さずにぎっと睨みつける。
「花摘……あんたの体の中には、魔族とかの血だけじゃなくて神族とやらの血も込められてるんでしょ? それに……どんな力が有ったってそれを決めるのは自分の心。さくらは、魔族だったかもしれないけど……私の大切な友人だったよ」
「さくらさん……ああ、私は……苦しいよ」
 私を見つめる瞳から、涙がこぼれ落ちていく。
「お母さん、助けて……」
 はっとする。
「大丈夫、花摘。ここに居るから……」
「七瀬。もう終わりだよ。花摘の体は限界に来てる……なんならあんたがまたあの世界に戻ってくれれば花摘を苦しめるのは止めてやるよ?」
「……ふざけんな」
「なに?」
「ふざけんなって言ってんのよ! あんた、私、本気で怒ったよ……」
「ほほ、怒ったからどうしたと言うのだい? せいぜいがその鏡に護られているだけしか出来ないじゃないか」
「うるさいっ。あんただってなんにも出来ゃしないんでしょ? 私の回りで怖々と近寄ろうかどうしようかしてるだけじゃない。はっ、ちゃんちゃらおかしいわよ」
「な……なんじゃと……」
「ふん、悔しかったらやってみなさいよ。どうせ人の心をねちねちといたぶる事しか出来ないあんたには無理だろうけどね!!」
「おのれ!!」
 周囲でばしっと閃く光に私は目を細めながら自分の腕の中で小さく震える花摘に私は声をかける。
「花摘、大丈夫だから。花摘は私を助けてくれた。私は花摘を信じるよ……」
「クアアアアアアアアアアアッ」
 私の言葉を聞いて、花摘が恐ろしい声を上げた。
 私を力任せに振りほどき、躍り上がる。
「花摘……」
 私がビックリして見つめる中で、花摘は目の前の鏡の魔の姿を爪で切り裂いた。
「ば、馬鹿な」
 私とそっくりな姿が無残に引き千切られながら言葉をつむぐ。
 そして、くるりと振り向いて花摘が私を視界に収める。
「お母さん……」
 花摘はそう呟いた。
 私は、その言葉に思わず微笑んでいた。
「どんな姿でも、あんたは花摘だよ」
 受け入れてあげる。
 花摘。あんたの事そのままに。
 あんたの辛い過去も、何もかも。
 花摘の魔性の輝きを持った瞳から涙が零れ落ちる。
「泣いてんじゃないわよ」
 私は少し照れくさい気持ちで花摘の頭をゆっくりと撫でてやる。
 そうすると、花摘は少しずつ元の、『私』に良く似た人の姿に戻っていった。
「ありがとう、七瀬さん」
 花摘が泣きそうな顔でそう言う。
「うん、それよりさ、私さっさと真一郎に会いに行きたいな」
 私はそんな花摘を笑わせたくて、そして、本当に会いたくてたまらなくて……。
「そうですね、行きましょう」
 花摘は笑って私の手を取った。
『そう、上手く行かせる物か……』
 そんな私達に投げかけられる声。
「あんたねえ、しつこいわよ。もう、諦めなさいよ」
「母も、死活問題ですから、そう簡単には諦めないでしょうね」
 花摘が渋い表情をする。
「でも、無駄だってわかんないのかしら……」
『ふふ、花摘を倒す事こそ出来ないかもしれないが、足止めするくらいは出来るのさ』
 ドシュッ。
「ぐ……ふ」
 花摘の口から吐息と一緒に大量の血が吹き零れた。
「花摘?」
『ふふ、精神にはもう効かなくても体内にダメージを与えるぐらいなら少しは効くね』
「足止めしたってあんたが適うわけじゃないじゃない。莫迦なの?」
『どうかな七瀬』
 その言い方が私の不安をかきたてた。
 鏡の魔は自信満々で見栄を張っているようには聞こえなかったから。
「な……さん、あ……つ、し……ちろうさんを……」
 花摘が苦しそうに胸を押えながら前方を指差した
「え?」
『ほほ、気づいたようだがもう遅いわ。そこでお前の大事な男が殺される様を良く見ておれ七瀬……』
「真一郎!?」
 私は呼びかけている真一郎に目を移した。
『ふふ、帰る体を奪われては戻れまい?』
「え?」
 
 目の前で私の体がかすかに震えた。
「七瀬?」
 真一郎が驚いて『私』の変化を見やる。それはまだ信じて良いものなのか確かめるように恐る恐る。
「真一郎……?」
 その『私』が焦点の定まらない瞳で真一郎を見上げる。
「七瀬! 気が付いたのか?」
「うん、心配かけてごめんね……?」
 
「駄目、真一郎、それは私じゃない! 逃げてーーーーーーっ!!」
 
「良かった……」
 真一郎の眦から涙が零れ落ちる。
 それを見て『私』の瞳がぎらりと光った。
 
「間に合わない? ううん、そんなことさせないっ!!」
 
 がしっ。
 今しも『私』の右手が真一郎の胸を貫こうとする……その瞬間、私の左手がその動きを止めていた。
 体中に真一郎に抱かれているぬくもりが戻ってくる。
“出ていけっ。私の体は私の物。真一郎は絶対私が殺させないっ!!”
“な、そんなバカな……こんなことが出来るはず”
“私はあんたなんかに負けない。絶対に。私が真一郎を想う気持ちにあんたが適うわけないのよ!!”
 私は自分の体の感覚を取り戻して行き、最後に右手を力強く握り締めた。
 体の中から、異物の感触は消え去っていた……。
 
「七瀬、大丈夫?」
 心配した声をかける真一郎。
 ……ああ、本当の真一郎だ……。
 暖かい。
「大丈夫だよ。……ただいま、真一郎」
「お帰り、七瀬」
「長い間心配かけてごめんね?」
「本当だよ、俺の可愛い人……」
 私達はどちらから共なく強く抱きしめあっていた。
 

 最終話

 
 ずっと、ずっと長い間このぬくもりを忘れていた。
 だから、今このぬくもりがどれだけ大事なのか私は実感していた。
 それは、真一郎に取っても同じだと思う。
 本当に愛してるって言える人。
 それが側に居るって事がどれだけ大事なのか。
 私は頬を伝い落ちる涙を不快な物には感じなかった……。
 真一郎以外の全てが私の周りから消えうせて、自分の中に色々な力が満ちてくるような気がした。
「七瀬……」
 真一郎は私の名前しか言え無くなってしまったみたいに、言っては抱きしめ、額に口付ける。
「真一郎、大好き……」
 それは私も同じだった。
 言う事なんてほとんどなかった。
 言いたい事はたくさんあったのに、今は胸がいっぱいで……こうしていることがそんな言葉なんかより何倍も何倍も大切で。
 だから、私は目をつぶり、真一郎の唇に自分の唇を添える。
 触れ合うことが怖いほど嬉しくて、私は少し臆病に真一郎を求める。
 恋人同士のキス。
 
 ――でも、いつまでもそうしてはいられない事は、私にも真一郎にも良く解っていた。
 
 先に冷静になったのは真一郎だった。
「七瀬、ここから出よう。いつまた化け物に襲われるかもしれない……」
「え? そ、そうね。でも、まだ中には花摘が……」
「うん、解ってる。でも、約束させられてるんだ。『七瀬さんが戻ったら私が戻ってくる来ないに関わらずこの校舎から逃げ出してください』って」
「……花摘……」
 私の心の中に複雑な想いが渦巻く、それは説明は出来ないけれど強くて大切な想いだった。
「駄目だよ、真一郎。私は花摘を置いては逃げられないよ。あの子は……」
 それは理不尽な想いだったかもしれない。
 真一郎と自分を危険にさらしてまで、花摘を待つ必要があるのか。どちらが大事かと問われれば間違いなく真一郎を選ぶはずなのに。
「……七瀬、でも、俺達に何かしてやれる事があるかい?」
「あるよ。私達がここで待っているから、あの子は戻ってくる……」
 説明は出来なかったけど、花摘は私がいるから戻ってくるような気がした。
「わかったよ。力づくでも連れ出してくださいって言われてたんだけど……七瀬がそう言うなら俺も待つよ」
 私が言葉にはしなかった想いも真一郎は気付いてくれたみたいだった。
 私と真一郎は互いを支えながら立ちあがった。
 体は酷く弱っているみたいだった、少しめまいがした。
「大丈夫かい?」
 真一郎の声は掠れていて私は申し訳なくなってしまう。
「うん……ありがとね、真一郎。ずっと私の事呼んでてくれて……だから私は戻って来れたんだよ」
「そうか……どこまで役に立っているのかわからなかったんだけど。それなら良かった」
 真一郎の微笑みがまぶしかった。
 それを見て私は考える。
 ……私は幸せなんだって。
 どんなに、さっきまであんな目にあっても私は幸せなんだ。
 ……あの鏡の魔は私がこの世に出してしまったのに。
 花摘だけが闘っている。
 その事に理不尽さを感じてしまう。
 もちろん不幸になんかなりたくない。だけど……。
 私には責任があるはず。それがどんな形なのか私にはまだ良く解らないけど、しなくてはいけないんだ。
「あのね、真一郎……?」
 私は真一郎に大切な質問をして、真一郎はそれに答えてくれた。
 
「はあっはあ……」
「花摘!!」
 転がり出てきた花摘は、息も荒くかなり消耗していた。
 
「はあ、逃げてください。今から私は母と最後のケリをつけますから……」
「何言ってんのよ。あんたそんな状態で……まさか、自分も死ぬ気じゃ……」
「……自分で死ねるんだったらとっくにしてますよ……でも、大丈夫ですから」
「何が大丈夫なのよ!! あんたが死ななきゃ終わらないってのにそんな闘い……」
「私はけじめをつけなくてはいけません。父と兄を殺した悪魔をこのままにしてはおけません」
「どうする気なのよ。あいつだってあんたを殺す事は出来ないんでしょ?」
「さっき合わせ鏡の話をしましたよね……二つの鏡が閉じ合えば、それは閉じた世界になるんです」
「どう言う事?」
「私と母でこの世界から閉ざされた合わせ鏡を作ります。そして…………」
 花摘は悲しいようでいて愛しさもが込められているような、そんな、なんとも言えない視線を鏡に向けた。
「時が終わりを告げるその日まで……そこに居ます……」
「そんな! そんな事したら、死んじゃうのと一緒だよ。花摘……」
「私は死にたいんです、七瀬。兄を自分の命としてしまったあのときからずっと、ずっとそう願って居たんですよ」
 花摘本人が私を七瀬と言ったのは始めてだった。
 その優しいけれど曲げようのない強い答えに、私は花摘の痕は癒せないほどに深いんだって知った……。
「でも、これで私は自分の罪を清算できる。母と一つになって永遠を過ごす……」
「駄目、駄目だよっ……」
 花摘の気持ちはわかった。だけど、だからって納得なんか出来ない。
「七瀬さん」
 困ったような口調で言う花摘。
 私はチラッと後ろに居る真一郎を見る。
 真一郎は少しだけ寂しそうに、でもはっきりと頷いてくれた。
“七瀬が好きなように。後悔しないで”
 私も頷き返す。
「花摘……それは駄目だよ。私はあんたがそんな事するの黙って見てるわけにはいかないよ」
「何故ですか? 私は母との因縁があるのです、こうしなければいけないんです」
「ううん、あんたの気持ちは解るの。あんたにも清算しなければいけない事があるってのは私も良くわかってるつもり」
「だったら、止めないで下さい。母は後少しもすれば七瀬さんから奪った全ての力でこちらに出てこようとするでしょう。そんなに暇はないんですよ?」
「でもね、それだったら私の方が先だよ」
「え?」
「あいつを生んだ責任、私があそこであいつの口車に乗らなければ、花摘も花摘のお兄さんもお父さんも……苦しまなくてすんだんだよね」
「そんな、あれは母が巧妙だったんです。逆らいようもない状況での事……七瀬さんに罪なんか」
「それは違うよ。それだったら花摘だって同じでしょ?」
 花摘は口をつぐむ。
「ね、だから私がいかなくちゃならないんだ……全てにケリを付けるのは私でなきゃいけないんだよ」
「でも、七瀬さんには自分の力を扱い切れてない。無駄死にです……」
「大丈夫だって……私は覚悟を決めたから……方法はあるよ」
「どんな方法だって言うんです? 七瀬さんが死んだら私はなんて真一郎さんに顔向けすれば良いんですか?」
 鏡の表面がさざなみを立てる。
 今にも魔がその姿をあらわそうとしていた。
 不死の存在。
 花摘を倒さない限り、決して滅びる事のない化け物。
 私は許せない。こいつがした事を。
「花摘、もう時間がないから。私行く」
「七瀬さん!!」
 私は悲痛な声を上げる花摘に向かって首を振る。
 そして真一郎の前に歩いて行ってすばやく口付けた。
「真一郎、ちょっと、待っててね……」
「真一郎さんも良いんですか?」
「水沢さん……良いんだよ」
「そう、鏡の魔を倒すのは私がどうしてもやらなくちゃいけない事。このまま逃げて花摘を見殺しにすれば、正直楽かもしんないよ。だけどね花摘、それは私じゃないのよ。そんな事をしたら命は助かっても私は私でない別の何かに変わってしまうんだよ……私が私である為に、その為に私は行くの。だから、止めても無駄だよ」
「……わかりました。でも、私も行きます」
「そうだね、花摘にもちょっとだけ手伝って欲しい事あったし、こっちからお願いする」
 鏡に向かって歩き出して、ふと思い出して花摘に目を向ける。
「ねえ、花摘。あんたの姓水沢って言ったよね。お父さんの名前はなんて言うの?」
「水沢修治ですが……?」
「そうなんだ……」
 もう1つ、許せない理由が増えたな……。
「合わせ鏡の中では『時』が本当になる。そう言ったよね花摘」
「言いました、けど……まさか?」
「うん、時を遡るの。全ての元凶だったあの時に戻るの……」
「まさか、そんな事をしたら。わかってるんですか? それがどんな意味を持つか」
「知ってるわよ……」
「わかってません。過去に干渉する事がどんなに危険な事か!」
「……あのときは、ごく限られた改変ですんだ。だけど、今回はそうはいかない。世界は再構成を余儀なくされる……んでしょ?」
 なんとなく、それらの事が理解できた。これが私の持っている力なのかもしれないな。
「はい、それは多くの歪みを生みます。そのしわ寄せは七瀬さん、あなたが受けとめる事になるんですよ?」
「わかってるよ。でもね、全てを元通りにするためにはこうするのが一番で、私に出来る方法はこれしか無さそうだからね」
「言うほど簡単では無いです! それは世界を敵に回しているような物ですよ?」
「さっきも言ったよ。もう覚悟はできたって」
 私は鏡に触れ、自らの意志で中に踏み込んで行った。
「待ってください。もう1つ問題が!!」
 花摘の叫びが後から追ってきた。
 
『自分の方から戻ってくるとはね。驚いたよ』
 私は、姿を表さない卑怯者を睨みつけながら花摘に言った。
「花摘お願い……合わせ鏡の中に」
「七瀬さん……私ではそのときまで送れないんですよ。私はあの『時』を映した事はありません」
「知ってる。花摘が生まれたのはそのあとだもんね。だから、出来る限り近い所まで送ってもらえれば良いから」
「どうするんですか? そのあとは……」
「大丈夫。コツを掴んだら自分でやるから」
「そんな……」
「良いからお願い、大丈夫なんだよ」
『何をしている……』
「わかりました。いきます」
 途端に空間が歪んだ。
 これまでなかった奥行きに世界がねじれて行く。
 体を掴んで振り回されたような感覚に思わず嘔吐感がこみ上げる。
 虹色の輝きがそこら中にうねり、甲高い音から体を震わせる極低音までの様々な音が響き渡った。
 そして、遥か前方に対峙する二人の似通った姿。
「そこが、合わせ鏡の焦点ね? もっとも古い時……花摘の生まれた時間」
 私はそこに吸い込まれるように近付いていく。
「……七瀬さん」
「七瀬、まさか戻す気か!?」
 私はそうしてその時間を行き過ぎる。
 花摘の姿が薄れ、そして消える。
「何故だ? 何故花摘も居ずに時を遡れる!!」
「何故だろうね? 私も出来るだろうって感じた事しかわかんないんだ」
 鏡の魔は焦って私を妨害しようとする。
 でも、私はその力を潜り抜ける。
 中心へ中心へ……。
 暗い暗い世界の中心に、私は反射し続けるその『時』を見つけた。
 
 
「明日で、さよなら……か」
 私は暮れなずむ教室でじっと佇んでいた。
 
『七瀬……その願いを叶えてあげようか……』
 
「お母さんとお父さんと一緒に暮らしたかったのに、恋もしてみたかったのに、一つの町に半年といる事が出来やしない。もう、転校なんかしたくない。病院なんて大っ嫌いだよ……」
『だから、その願いを叶えてあげようか? と言ってるのに』
 今度は間違いようがなかった。はっきりと聞こえたその声。そして私と違う動きをする鏡の中の私の像。
 驚いて飛び退る私を鋭い痛みが貫いた。
 心臓が何かでえぐり込まれるようにきりきりと痛んだ。
「う……」
 声も出せないほど酷い痛みだった。
 いつも服用している薬の副作用だ。心臓に負担が掛かるから時折こういうことも起こる。
 私は副作用を抑える為の薬を取り出そうと震える指でポケットをまさぐる。
 だけど……。
 カラン。
 私は瓶を上手くつかむ事が出来ずに取り落としてしまう。ころころと転がっていく小瓶。
「あ、うう、ううーーーっ」
『あら、発作が起こってしまったのね。ほほ、どうするの? 私が、その苦しみから助けて上げましょうか?』
 喉を掻き毟るほどに苦しみが募る。
 それでも、素直に頼む気はしなかった。
 怖いとか、嫌だとか言うより混乱していてなんだか理解できていなかったと言う方が正しかった。
 自分がここで苦しんでるいことだけがはっきりとわかる真実だった。
 私は足掻いて、薬に這いずろうとする。
 だけど、体が震える。私は動くことも出来なくなってただひたすらに誰かが助けにきてくれないかと乞い願う。
“誰か、誰でも良いから……助けて……このまま一人で死にたくないよ……”
『でも、このままだったら死ぬわよ……一人で、孤独にね』
 声が冷徹に私に告げる。
“あなたは誰なの……?”
『私はあなたの願いが生んだ影、この鏡の中にいるの』
 まるでそれは私の心の中の声が聞こえたようにそう答えた。
“助けて……なんでも良いから助けて。一人は嫌……”
 私は息も出来ない、ただ口をパクパクとさせてもがいていた。
『それなら契約して』
 
 私はそのとき……自分がしてはいけない事をしそうになっているのを感じた。
「嫌だ! 絶対に……いゃ……」
 痛みで声が掠れた。
 気が遠くなっていく……。
 
「あくまで、否定すると言うの? なら、食らってやる!!」
 焦ったような声音。
 鏡の表面が盛り上がり、私に向かってくるのが感じられた。
「あ、うう、あ……」
 私はほとんど最後の力を振り絞って自分のポケットに手を差し入れる。
 指先にひんやりした物が触れ、私はそれをつかんで大鏡に向かって投げつけた。
 それは、手鏡だった。
 投げられた時にわずかに回転を始めたそれは……大鏡に吸い込まれて行った……。
「うぎゃああああああああああ!!」
 直後、凄まじい叫びと共に私の目の前で大鏡は砕け散った。
 幾つかの欠片が私の体を切り裂いていく。
 でも、もう痛みは感じなかった……。
 
 
 投げ込まれた手鏡は鏡の魔を自らのうちに吸い込んで、そのままどこかへと消えて行ってしまっていた。
「これで……終わりね。何もかも」
 私はいつのまにか目の前に立っていた花摘に話しかける。
 その姿は、透き通って今にも消えてしまいそうだった。
「はい。そして……また今から全てが始まります」
 私は花摘のなにか言いたげな視線を目で制する。
「私も、その姿を消し、今ある魂もその原初の海へと帰る……」
「なかった事になるんだね?」
「そう、私は生まれない存在。もう決して今の花摘にはならない。全て消える。あの人を愛した私も、殺したその罪も、全てが」
「ごめんね。でも、私にはこの方法しか思いつかなかったんだ」
「ううん、私は良い。でも、七瀬さんの一生も!!」
「また一から始めるよ。大丈夫。私はまた真一郎と出会うから」
「そんなの、無理ですよ……」
「無理じゃない。私ね、花摘のことも忘れない。花摘が、その存在を許されるように……。またその人を愛せるように……」
「不可能です、そんなことできっこない。出来たらそれはきっと奇跡……」
 私は極上の微笑を浮かべて花摘を見つめる。
「うん。奇跡だよ、花摘。さっき真一郎が言ってたんだ……」
 
 
「真一郎……もし、私達また離れ離れになってしまったら、そうしたらどうする?」
 真一郎は少しビックリしたみたいだけど真面目に答えてくれた。
「七瀬が俺のこと好きで居てくれるなら、会いに行くよ」
 その言葉は嬉しいけど、ちょっと意味が違う。
「手の届かないもっともっと遠く……奇跡でも起きなきゃ巡り合えないような、そんな遠くに別れてしまったら?」
 真一郎が不安そうに私を見つめる。
「……そうだな、そんな遠くなら……」
 真一郎がその遠くに想いを馳せているかのように視線を上げた。
「奇跡だって起こすさ、絶対七瀬に会いに行くから」
 もう一度私を見た真一郎の瞳は真剣だった。
「俺は絶対、七瀬の元に来る。人の想いは世界だって変える。俺はそう信じているんだ」
「あ……ううん、そんなの無理だよ。奇跡は何度も起きないから奇跡なんだって、花摘が言ってたよ」
 真一郎はその言葉に軽く首を振って私に話しかけた。
「違うよ、七瀬。誰も知らない、何かの偶然は絶対に奇跡とは言わないんだ。人の想いが、強い想いがそこに存在しているって知ってる時、初めてそれは奇跡になるんだよ」
 真一郎は私にとって一番の笑顔を見せて言った。
 
「奇跡はね、人の強い想いが呼び起こすものなんだよ」
 
 
「……それは」
 私は花摘の言いたい事を悟って言葉を続ける。
「うん、わかってるよ。なんの根拠もないってこと。私も奇跡そのものは信じられないかもしれない。だけどね、私は真一郎の事は信じてるんだ」
「……七瀬さん……」
「忘れないよ、花摘。私がいつまでも覚えているから……だから、今はお帰り……花摘」
 両手を広げて花摘を抱きとめた。
 胸の中で柔らかい塊が小さく震えていた。
 でも、それもほんの瞬間、私の腕は空を切り……。
 
 そして世界は再構成を始める。
 
 
エピローグ
 
 死ぬ事は怖くない……私は真一郎に会うんだ。
 
 ……私はここに居なくちゃいけないんだ……
 
 
 遠くに、光が見える。
 でも、まだ空の上には行けない。
 あの人に会わなくちゃ。
 
 
 寂しいよ……。
 
 
 …………。
 誰か……居ない?
 そっか……。
 
 
 あ、誰か来る?
 やった、話が出来る。
 忘れちゃいけない事話して……。
 あれ?
 忘れちゃいけない事ってなんだっけ……。
 あ……行っちゃった……。
 
 
 ああ、生きてる間にたくさんいろんな事したかったな……。
 恋もしたかった……。
 あれ? どうしてだろ……涙が……。
 
 
 ……どうして、私はこんな所に居るんだろう。
 どうして私はこんなに辛くて寂しい場所に一人で居るんだろう。
 空に、暖かな入り口が私に向けて開かれているのに……。
 私は……何を待って居るんだろう。
 
 
 そして……。
「わ……っと」
 目の前で久しぶりの訪問者がが驚いていた。
 可愛らしい少年だった。
 胸の奥のほうで不可解な痛みがあったような気がした。
「なんか、探してるみたいだったから……」
 
「初めてじゃないよ、真一郎君」
 思わずそう言ってしまって私は驚く。
 本当は初めてのはずなのに、何故かそう言いたかった……。
 
「ねえ真一郎……。『ずっと側に居て』なんて約束なんかいらない」
 胸が痛かった。言わずにはいられなかった。
「会ってる間だけ、私の側にいるときだけでいいから。私の事抱き締めて『ここにいるよ』って言って……」
「ねえ……嘘でもいいから……」
 
「うん、あたしも……もう良いや」
「これ以上は……ちと、辛い」
 
「大好き、大好きだから……だから、ばいばい」
 
 
 
 そして、出会いの春……。
「あの、七瀬なのか?」
 私はこっくりと頷く。
 真一郎の瞳にいろんな思いが見え隠れする。
「じゃ、家に来るか?」
 私はもう一度頷く。
 
 
 すれ違った夏……。
「……もう、怒ってないよ。私が色々困らせちゃっただけだし……不安だったから」
「不安?」
「うん、やっぱり真一郎は他に好きな子が居るんじゃないかなって。だから私に手を出さないんじゃないかなって」
「だったら、こんなところに連れてこないよ……」
「え?」
「ここはね、とっても綺麗な夕焼けが見えるところなんだよ。そのせいで、恋人達にはキスの名所として有名な場所なんだ」
 
 
 誓いの秋……。
「もう、会えないかって、凄く怖かった。真一郎がいなくなっちゃうんじゃないかって怖くて、怖くて……」
 真一郎が私の顔を上向けた。額に軽くキスをくれる。
「あ……」
「大丈夫、七瀬。俺はいつだって七瀬のところに戻ってくる。絶対に、七瀬を見つけるよ」
「真一郎……」
 真剣な目で真一郎はそう誓ってくれていた。
 
 
 幸せに浸る冬……。
「……この」
 真一郎が言ったかと思うと急に顔に冷たいものが張りつく。
 雪……。
「や、やは。真一郎、雪だまぶつけるなんて……今日のプレゼントは高くつくわよ」
 雪だまを払っている私を、くすくす笑いながら真一郎は見ている。
「ああ、良いぞ。ボーナス出たばっかりだからな。……なんなら……給料3ヶ月分いってみるか?」
「やったーーっ。うふふ、ふ、何買ってもらおうかな……ん? さっき最後に何か言った?」
 真一郎は、ちょっとだけ残念そうに苦笑いして首を振った。
「……いや、なんでも無い」
 本当は聞こえていた。
 胸がどきどきしていた。
 
 
 
 そしてまた春……。
 
「七瀬? 七瀬、どうしたんだ急に、ボーっとして?」
 私はその言葉で不意に我に返って真一郎に目を移す。
「あ、真一郎。うん……なんだかね。私……ずっと長い旅をして来たみたいな気がするんだ」
 そう言って私は元々旧校舎が立っていた場所に立つ新しい校舎を見上げる。
 真一郎と別れたそのすぐあとに、旧校舎は壊されたのだという。
 でも、見上げる私にはそこに旧校舎が重なって見えた。
「……へえ?」
 少しわからないなって感じで真一郎は相槌を打った。
 今日は私が風芽丘高校に受かったので、もう一度下見に来たんだ。
「ねえ、真一郎、私さ、高校入ったらいろんな事してみたいんだ。料理とか、人助けとか、格闘技とか……」
 真一郎は目を丸くする。
「なんだか、えらく偏ってるな……」
「あはは、うんそれだけじゃなくて、いっぱいいっぱいやりたい事はあるんだけどね。この、大切な世界で……」
 真一郎はにっこりと笑った。
 その笑みを見て私は少しだけ切なくなる。
「あのね、真一郎。ここに昔大きな鏡があって……その鏡の中には女の子がいたんだよ……」
「それで……どうなったの?」
 真一郎の聞き方は無邪気だ。
 私は首を振って答える。
「何も。何も起こらなかったの」
 真一郎は笑い、そして私に口付けながら言った。
「違うよ、七瀬。奇跡が起きたんだ……」
「真一郎……」
 驚いた私を真一郎は抱きすくめる。
 暖かく、甘い抱擁の中で私は口を開く……。
「ねえ、私子供が欲しいな……」
「七瀬……良いよ、何人欲しい?」
「とりあえず、女の子を一人だけ……」
「ふうん」
「名前も、もう決めてあるの」
「どんな?」
 私は綺麗に晴れ渡った空を見ながら彼女の名前を呼んだ。
 
「……花摘、相川花摘よ……」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Fin.
 
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