猫とゆうひ

 
 彼女は旅立ち、猫は残った。
 それだけと言えば、ただ、それだけの話。
  
  
  彼女…「椎名ゆうひ」と言う名の女性…は公園にいる。
 早朝。誰もいない中、独りブランコに腰掛けて、小さく歌を口ずさんでいる。
 ……いや、一匹だけいる。
 黒猫。
 少し離れた位置で、じっと彼女の方を見ている。
 歌を聴いているのかいないのか。ただ、目に映る光は柔らかに、彼女をずっと見つめている。
 ふっ…と歌がとまる。
 彼女がふっと首をめぐらす。視線の先には……猫。
 ちょっと、考えると彼女はブランコを降りる。
 そして、しゃがみこむと猫を呼んでみる。
 動作と声で
 「ちょっと、こっちおいでー。遊べへんかー」
 と。
 しかし、猫は一声
 「みゃーん」
 と、満足した礼だと言わんばかりに鳴くと、パッと朝の町に消えていく。
 大学入学を一月後に控えた彼女と名もない猫のこれが出会い。
 
 
  日課、なのだろう。
 次の日も彼女は早朝に公園で歌を歌っていた。
 歌い始めには、やはり誰もいない。
 けれど、昨日のようにいつのまにか……猫がいる。
 昨日と同じ、黒猫が。
 昨日の繰り返しのように、彼女は歌をとめ、しゃがみ、声をかけ、猫は礼を言い、消える。
 ……いや、少しだけ……違う。
 ほんの僅か猫は彼女のそばにいた。
 次の日も、次の日も、繰り返される。
 日課のように。
 知らぬ間に取り決められた約束事のように。
 ただ、変るのは近づく、一人と一匹の距離。
 そして、10日後。
 猫は少女の目の前で、歌を聞いていた。
 そして、繰り返される約束事。
 歌を止め、しゃがみ、声をかけ、猫は礼を言い……消えない。
 彼女の差し出された手を
 「ぺロリ」
 と、なめる。
 そして、今度は
 「にゃ」
 と、別れを告げて消える。
 そして、
 「明日も来るやんでー。……クロー」
 と、その後姿に声が飛ぶ。
 シンプルな見たままの名前。
 けれど、その声に猫……いや、クロは答える。
 足を止め、彼女の方を向き。
 「にゃーん」
 と、わかったよっと言わんばかりに大きく鳴く。
 10日。一人と一匹の間に生まれる絆。
 
 
  次の日から、クロは彼女の足元で歌を聴く。
 歌の後には僅かなじゃれあい。
 クロが許す範囲で、彼女は撫で、毛を繕い、遊んで、やる(もらう)。
 けれど、クロが許さなかったこと。
 それは、抱かれること。
 一度だけ、彼女がクロを抱きかかえようとしたとき。
 クロは爪を立てて抵抗した。
 そして、少し離れた位置に立つと、彼女を見つめ
 「みゃーー」
 と、哀しげに、そして、謝るかのように声をあげる。
 彼女も突然のことに驚きながらも、少し考えるとクロの謝罪を受け止める。
 「……それがあんたの誇りなんやなー。ごめんなー。きいつけへんで」
 と。
 これだけが一人と一匹の小さなしこり。
 けれど、それすらも友情のための栄養にすぎない。
 クロと彼女にとっては。
 しかし、判れは……彼女の旅立ちの日は少しずつ近づいている。
 育まれる友情と反比例するかのように。
 
 
  旅立ちの日。
 朝はいつもと変らずに訪れる。
 いつものように、時は流れ、歌を終えた彼女がしゃがむのをクロは静かに待っている。
 けれど、彼女は動かない。
 静かに……クロに話し出す。クロが理解できると信じながら。
 「うちな、ここにはもう今までみたいに来られへん。遠くの方に行ってしまうから。大学に入って、歌の勉強をするから。だけど、クロとは離れたないから。……うちと一緒行け……へんか、クロ?」
 沈黙。彼女の目にはうっすらと涙が浮んでいる。
 けれど、彼女の言葉を考えるかのように、クロはじっと彼女を見つめたままだ。
 …………見つめあったまま、時がすぎる。 
 急にクロが彼女のひざの上にのる。
 今まで一度もしなかったことなのに。
 そして、
 「みゃー」
 と、声をかける。
 まるで抱きかかえろと言わんばかりに。
 「……ほんまにええんか?」
 以前のことを思い出し、彼女はそうクロに確認する。
 それに答えるかのようにクロも
 「みゃ」
 と、許しを出す。
 彼女はこらえきれぬように、クロを優しく抱きしめ、涙を僅かにこぼしながら、聞く。
 「一緒に来てくれるんやな?」
 と。
 しかし、クロは答えない。
 答える代わりに、彼女の頬を伝う涙を慰めるかのように、なめとってゆく。
 もくもくと……これが最後だとでも言うように。
 返事がないのと行動をいぶかしんだのか、彼女はもう一度確認をとる。
 「一緒に来てくれるんやな?」
 と。
それを無視するかのように、クロは彼女の腕からすばやく飛び出る。
 そして、鳴く。
 一声。
 
 「みゃおぉぉーーん」
 
 と。別れを告げるかのように。
 哀しみを振り切るかのように。
 高く高く。鳴く。
 「……な、なんで?」
 呟きながら彼女が近づこうとしても、さっと、一歩飛び退る。
 彼女の理解を待つように目線は逸らさぬまま。
 
  
 考える。彼女は。
 …………………
 そして、気づいた。
 すべて、別れの餞別だと。
 新天地へ向かう彼女への、友達からの。
 自らの誇りを抑えてまでの餞別だったのだ……ということに。
 ……笑顔をつくる。
 しめっぽいのは似合わない。それにきっと、また、会いにくるから。
 残して行く、小さな友達に。
 別れを告げる。
 「んー、しゃあないな。クロはここがええんみたいやから。うちは一人で行くは。……けど、うちのこと忘れたあかんでー。ビックになって戻ってくるからな」
 と、笑顔で告げる。片隅に哀しみを残しながら。
 クロも答える。
 「みゃおぉぉぉーーーん」
 と、忘れないから、ここはちゃんととっとくから、いつかまた帰ってこいと。
 哀しみを瞳だけに抑え込み。
 そうして一人と一匹は別れた。
 いつか出会うことを誓いながら。
 
 ただ……ただ、それだけの話。
 
 
 
 
 
 
 再び、出会うとき。
 お互いにパートーナーがいることになるが。
 それはまた……別の話。
 
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