とらいあんぐる八犬伝

 

第1話 過去から来た手紙

 
 真っ白い封筒が置かれていた。宛名は野々村小鳥。
「これ……?」
 この文字は……。
「お母さん?」
 思わず、口からもれた一言。
「どうしたんだ小鳥」
「!しんくん、あ……何でもないよ。さ、それより、料理作っちゃおうよ。唯子もすぐ来るだろうし、ね」
「ん?あ、ああ良いけど」
 押し出されるように真一郎が出て行くと、小鳥はもう一度手の中の封筒に眼をうつした。
「こんなの、いいよ。なんで……?」
 小鳥は精いっぱいの怒りを込めて、その割には弱々しかったけれど、ごみ箱へ投げ込んだ。
 それは戸惑いのせいかうまく入らず、縁にぶつかって澄んだ音を立てた。
 キィン……。
 その音はなんだか小鳥の胸に響いた。言い知れない切ない思いにとらわれて封筒を拾い上げる。
 封を切り、手を添える。
 中から淡く輝くかのような一つの珠が現れた……。
 
 透き通った珠。
「水晶かな?」
 でもこれ、見たことある。胸のずっとずっと奥にかすかな記憶が触れる。
「小鳥ぃまだか」
「ご、ごめん今行く」
 小鳥はポケットの中にそれをしまいかけてはっと思い出した。
「これ、唯子と私が……」
 

第2話 友達のしるし

 
「ない、ない、ない、なーい、あうーどうしよう」
 ひっくり返されたおもちゃ箱の中のような部屋で、唯子が泣きそうになっていた。
「指輪、なくしたなんて、知れたら、うにゅーやぐりぐりーじゃすまないだろーな、あうー」
 去年の12月の誕生日にもらったフォーチュンリング。
 せっかくの真一郎からの大切な贈り物。
 たとえ名前が書いてなくて、本当の意味で望んだ物では無くっても。
 唯子には何より大事なものだから。
「ないわけないのにー。お風呂に入るから外して机の上に置いたのに。うー、転がって、押し入れの中でも入っちゃったのかな」
 扉は閉めていたからそんなわけあるはず無いけど、必死の唯子はごそごそと押し入れに潜り込む。
 ごつっ。
「いたあっ、つううう」
 ごだごだごだっと中で何かが崩れ落ちて来た。
「うわあ、うわうわ」
 ごん!
「ふにゃあああ……」
「唯子、なにやってんのー」
 下から、お母さんの声が響いてきて唯子ははっと体を起こす。
「なんでもなー……あれ?」
 押し入れの奥の方にぼんやりと光ってる物があった。
「何だろ」
 唯子はそれを手にとって押し入れから這い出した。
 直径2センチぐらいの透明な珠。
「なんで光ってたのかな、これ」
 きょろきょろみていると中に何かが見えるようだった。
「文字、かなあ?」
「唯子、なにこの惨状は……あら、懐かしいもの見てるのね」
「えっ?」
「その珠よ。確か宝物なんでしょう、あなたと小鳥ちゃんの」
 その言葉にイメージがひらめいた。
「そうだ、思い出したこの珠……」
「しんいちろーに初めて貰ったプレゼントなんだ」
 
 もう、ずいぶん昔の事なんだな。
 
 ……。
「ほら、来てみなよ。かっこいいだろ」
「わあ、ほんとにおっきい、いぬだねー」
「う、うん……」
「あははっののむー恐いの?唯子は平気だよ」
 そう言って唯子は真一郎の横で丸くなっている犬に近づいていった。
「ぅおん」
「ひやっ」
 なんだか、そういう割には唯子もおっかなびっくりだ。
「大丈夫だよ。唯子ちゃん。吠えるなよハチ」
「くぅおーん」
 ハチはまるで真一郎の言葉が分かるみたいにないて応えた。
「べ、別に怖がってなんか無いもん。唯子は空手だってできるんだから」
 一緒にやっている真一郎に取っては当たり前なのに、唯子はそう言って恐る恐る近づく。
「ゆいちゃん」
 遠くからおろおろとした小鳥の声が聞こえた。
 それでも真一郎の笑顔に励まされて近くまでやってくると、ハチはいきなり唯子に躍りかかった。
「ひゃあああああ!」
「きゃあああ、ゆいちゃん」
 ハチは遊びのつもりだったのだろうが、当の唯子にとってはびっくり仰天でしかなかった。
 ただでさえハチは大きい。小学生の唯子にとって驚異的な大きさだ。
 のしかかられて怖さは爆発し、とうとう泣き出してしまう。
 その声に触発されて、小鳥も泣きだし、真一郎が困ってハチを叱り付ける。
「こら、ハチ。怖がってるだろ」
 こつんと真一郎が叩くとハチは少し首をかしげて唯子の上からどけた。
 そうして唯子の頬をべろんと大きな舌で嘗め出した。
「……わあああああ、ひっ、……すん、えっく、だ・いじょう、ぶ?」
「ごめん、こいつ唯子ちゃんたちが気に入ったんだよ。僕がえさをやりに来る時だって嘗めてくれたりしないんだよ」
 少しだけど、唯子は落ち着いてきたみたいで、ハチの顔に手をやって撫ではじめた。
 すぐに泣き顔が笑顔に変わっていく。
 でも、一方で小鳥は泣き続けていた。唯子が大丈夫とわかってほっとしたら余計に止まらなくなってしまったのだ。
「ごめんね、二人とも。もう泣かないで、これをあげるから」
 そう言ってポケットから真一郎は二つの珠を取り出した。
「これ、何?」
 もうすっかりハチとじゃれ付いている唯子が珠について聞いた。
「わかんない、こいつが持ってたんだ。僕がこいつを見つけた時に咥えてたんだよ」
 小鳥も興味深そうに覗き込む。
「奇麗……」
「ね、友達のしるしだよ」
 
「懐かしいにゃあ……見つけられてよかった」
 唯子が浸っていると、お母さんが声をかけてくる。
「それを探すのにこんなにしたの?」
 ぱたっ。
「はわー、忘れてたー。指輪指輪探さなきゃ」
「指輪?……指輪ってこれの事?」
 差し出された指輪に唯子が飛びつく。
「これ、これこれ。どうしてママが持ってるの」
「あなたねえ、どこか置いておいて忘れちゃうのいやだから持っといてって言ったまま。取りに来なかったんでしょ」
「あ、あう……そーだった」
 とるるるるるる。
「あら、電話。多分真一郎君からじゃない?今日小鳥ちゃんの家で約束して……」
 最後まで言いおわらないうちに、唯子はすっ飛んで降りていった。
 電話口で「あうっあうあう」と唯子がうめいている。
 

第3話 

 
「うわああああん」
 泣いている記憶……この珠にはそんな記憶ばかりある。
 真くんは私が泣くと優しくしてくれたけど、泣くまではいつも意地悪だった。
 私は優しく慰めてくれる真くんのちょっぴり困った顔が好きだった。
 もちろん、みんなと一緒になって遊んだ楽しい記憶だっていっぱいある。
 でも、この珠にはもっと悲しい記憶が詰まっている。
 
 あれは……ゆいちゃんと相川君が空手の練習に行ってて、私が一人ぼっちの時の事だった。
 
 ハチは野良犬だった。
 最初、相川君は家に連れてかえろうとしたらしい。
 でもそうすると普段は聞き分けの良いハチが全然動かない。
 だから、ここでみんなで時折えさを持ってきてあげた。
 お菓子だったり、お小遣いでドッグフードを買ってあげたりもした。
「そうれ、ハチ一緒に遊ぼう」
「うぉん」
 しっぽをぱたぱたさせてハチが擦り寄ってくる。もうここの所ずいぶん慣れた。
 最初は恐かったけど、さびしい時に遊び相手になってくれるハチは大好きだった。
 それに、恐い男の子達をハチは追っ払ってくれた事もあった。
「やははははは、くすぐったいよハチ」
 ハチは顔を近づけてぺろぺろ嘗めてくる。
「今日はね、相川君とゆいちゃんは空手にいってるの、だから今日は私だけだけどハチもさびしい?」
「わぉうん。わん、わん」
 元気付けるように吠えるハチは小鳥がいるから平気だと言っているように思えた。
「そうだよね、私もハチがいるからさびしくないよ」
「お散歩、しようか」
 ハチはお散歩が大好きだった。といっても野良犬だから自由にお散歩できるけど、みんなと一緒のお出かけがハチの好みだった。
 しっぽをふりふり、私の横を嬉しそうに付いてくる。
 野原から、小さな林を越えると川が見える。いつものお散歩コース。
 できる限り、町中には行かないようにしていた。ハチが追い払ってくれるけど恐い男の子達に出会うのはいやだった。
 川辺までいくと私は腰掛けてポケットからあの珠を取り出した。
「これ、ハチが持っていたんでしょう。どこで拾ったの」
「くーん」
「ごめん、ハチには言えないよね」
「でも、奇麗な珠。それになんだかあったかい気分になれるんだ」
 手の上でころころと転がすと日の光に反射して虹色に輝く。
 するっ。
「あっ」
 きぃん、きん、こん、ぽちゃ。
「だめっ」
 私はすぐに探し出したけど透明な珠は見つからなかった。
 泣きながら探した。
 頭の中で相川君の「友達のしるしだよ」という言葉が渦巻いていた。
 だから、ようやく見つけた時、気が緩んでしまったのは仕方なかったといえば仕方なかった。
 でも、この時私がほんの少し足元に気をつけていればあんなことにはならなかったのに。
 …………。
 気がついたのはベッドの上だった。
 お母さんが顔を覗き込んでいた。
「目が覚めた?小鳥」
「うん、あれどうして」
 聞いたけど、おぼろげに覚えていた。足を滑らせて深みにはまった後、耳元でハチの泣き声を聞いたのを。
「川辺で倒れていたんだそうよ。見つけた人が知っている人だったから良かったのよ」
 ハチは?
 聞いてみたかった。でもお母さんはハチを知らない。
 この後私は熱が出て3日学校を休んだ。
 ハチがいなくなったのを知ったのはその3日目に二人が尋ねてきてくれた時だった。
 …………。
「そうそう小鳥、これを返しておくわね」
 あの珠をお母さんは差し出していた。
「いらない。見たくない……」
「そう……」
 うつむいていた私にはわからなかったけど、お母さんはきっと悲しい顔をしていたんだと思う。
「でも、大切な物なんじゃなかったの?」
「でも、私が探したから……だから」
「仕方ないわね、あなたが返して欲しくなるまでお母さんが持っていてあげる。あなたが大人になってつらい気持ちを受け入れられるようになったら」
 私は布団の中で黙っていた。
 そんな日が来るなんて考えられなかった。
 そして、その一年後にはお母さんはいなかった。
 
「小鳥」
「小鳥……」
「私、まだ……」
「おい、小鳥!うにゅーするぞ」
「あ、真くん、あや、いひゃいいひゃい、何するの」
 小鳥は自分が料理の途中だったのを思い出した。
「何するのじゃないぞ、自分で何やってるかわかってるか」
「あ、……お肉の千切り……」
「何の料理を作る気だよ」
「ご、ごめん真くん。これは適当に使っちゃうから」
 そそくさと小鳥は切った肉を集めてラップし冷蔵庫に入れ直した。
「さーて、しかし唯子のやつ遅いな。電話するか」
 

第4話

 
 真四角に切り取られたような整った和室にいづみは一人で座していた。
 ふすまが静かに開き火影が入ってきた。
 いづみは正面に兄が腰を下ろすまで微動だにしない。
 忍者は主君にのみ頭を垂れるものだから。
「今日はすまなかったな、いづみ」
「いえ、ところで急に呼び出したわけは何でしょう」
 いづみの言葉は兄への言葉とは思えないほど固い。
 当然、例の騒ぎでうやむやになっていた昇格試験の失格についてだろうと、いづみはあたりをつけていた。
「これを見たことがあるな」
 火影が一本の忍刀をいづみの前に差し出す。
「これは、狼牙丸……?」
 狼牙丸は蔡雅御剣流の中でも認められた一部の者しか携帯を許されない銘剣だ。
 つまり、これを持つという事は蔡雅御剣流の看板を背負っているのも同じ。
 だから、いづみは次の一言に飛び上がるほど驚いた。
「これをおまえに授ける」
「……えぇっ!」
「しょ、正気ですか?私は、あの、昇格試験に失格して……それに」
「父上が決めたのだ」
 火影の答えは短く、そして絶対の重みを帯びていた。
「それにな、実力は試験などでは押しはかれん。おまえはこの間実践でそれを証明して見せただろう」
「あ、あれはしん……相川が私を助けてくれたからです。私一人では、到底」
「それを父上が見越せぬと思っているのか?そんなことなどすべて知った上でおまえにそれを授けようというのだ」
 いづみはまだ、意味が飲み込めぬように瞬きを繰り返す。
「さあ、受け取れ……いづみ」
 火影がめったに見せない優しい笑みを浮かべて可愛い妹を促した。
「は、……はい」
 いづみは狼牙丸を受け取るとぎゅっと胸にかき抱いた。これまで噛み締めた事のない喜びが身内をめぐっていた。
“相川……ううん、真一郎様、これはみんなあなたのおかげですね。私に、何が返せるかな”
『ぅ゛ぅん』
 狼牙丸がいづみの想いに呼応するように低く哭いた。
 驚いたいづみが狼牙丸に眼をやると、柄の部分に埋め込まれた珠にうっすらと[忠]の文字が浮かびあがって見えた。
「これは……真の狼牙丸、『八房』だ」
 さすがに驚きをあらわにした火影がいづみに告げた。
「『八房』……」
「狼牙丸の元になった妖刀だ。いつの時代にか権力者の眼から隠す為に同じ形の狼牙丸を作らせたと聞いている」
「あ、兄様。それでは、これはお返しした方が……」
「……くどいぞいづみ、それがたとえ『八房』であってもその所有者として足ると思ったからこそ、授けたのだ」
「し、しかし」
「恐いか?」
「……はい」
「だが、本心は放したくないのではないか?おまえは返すといいながら、尚の事しっかりと胸に抱いているではないか」
「あっ……」
 指摘されていづみが真っ赤に熟れる。ようやく力を緩めて『八房』を手に握った。
『八房』は静かにたたずんでいた。火影の手にあった時にはなかった[忠]の文字は消えていなかった。
「おまえは『八房』に選ばれたのだ。いづみ」
 

第5話

 
 水羅は自分のもっとも忠実な部下を振り返った。
「ぐるるる」
 低くうなりを返す巨大な狼の名は八房。
 小さな牛ほどもあろうかというその体でありながら、すばやくそして静かに移動できる。
 もし、この八房と出会っていなかったら、きっとここまで話はうまく進まなかったに違いない。
 敵はただの人間ではない。
 下手な忍者などはるかに上回る運動能力、そして残虐性。
 鬼の一族だった。
 一族は滅ぼしかけられた。土地を奪われ彼らがどこへ散っていったのか水羅は探し出せなかった。
 だが、彼らは決していなくなったわけではない。
 そう信じて水羅は自分の使命を全うしようとした。
 長として、鬼どもから再びこの地を奪い返そうと。
 八房の闘志を確認すると再び奴等の潜む自分達の村に注意を返す。
「……ぃぃ……ぁ」
 切れ切れに人の悲鳴が聞こえてくる。
 鬼どもは人を食らう。
 人の命と心までも。
 あそこには幾人もの村人達が今もなおそこにいる。心を食われ、亡者のようになりながら。
 その中にはまだ囚われている生きたものたちもいるはずだった。
 忍びとして何年もの修行を積んできた水羅にも、焦りがじわじわと身を包んでいくのを止める術はない。
「遅い」
 思わず声が漏れた。
 水羅が待っているのはもう一人の協力者。
 黒いマントに身を包んだラインヘルという毛唐(外人)である。
「待たせたな」
 我慢も限界かという頃合いになって、ようやく男は姿を見せた。
「来たか。しかし、本当にこれだけの人数で大丈夫なのだろうな」
「ああ、合図とともに火の手が上がる事になっている」
「……一つ、聞いておきたい、何故我々を助けてくれるのだ」
「これは我が一族の不始末だからだ。悪しき魔術に手を染めた異端者は我々の手で裁かねばならない」
「わかった、信じよう。手助けを素直に感謝する」
 二人は示し合わせたように微笑んだ。
「さあ、ゆくぞ」
 
 奴等の首領は死闘の末に水羅と八房がとどめをさした。
 死ぬ間際、首領は何かをわめきながら死んでいったが水羅にはまったくわからない言葉だった。
 だが、ラインが真っ青になったところを見るとろくでもない呪いの言葉を吐いたに違いない。
 しかし、水羅には気に留めている余裕はなかった。
 生き残った村人達を早く火の手から逃がさなければならない。
 それに、妻は、二人の子供は無事だろうか。
 そして、水羅の名を呼ぶ声が聞こえた。
 そんなに長い間ではないはずだった、だが何年も離されていたような気分だった。
「桜!」
 名を呼んで近づいた。その時……!
「うぉぉぉん」
「ぎゃあっ」
 八房が眼にも止まらぬ勢いで妻の体に飛び掛かった。
 忍びとして、いかに身を鍛えていた女でも八房の前では赤子同然だった。あっさりと首をかみ切られて絶命する。
「八房ーーーーっ!」
 水羅はその出来事に激情した。
 八房に向かい、忍刀を振るう。鈍い感触がし、八房の体から血が吹き出した。
「くぅぅん」
 しばらく苦しんでいた八房も、何かを訴えかけるようにしながら、息を止めた。
 視線を妻に移した水羅は、妻の手に毒の塗られた短刀があるのを愕然と見つめた。
「まさか、桜が」
「八房、すまん。おまえは俺を守ってくれたのだな」
 水羅は八房を抱き上げた。
 すると、目の前で光を放ちながらその姿が別の物に変わりはじめた。
 それは徐々に美しい獣人の姿へと変化し、いったんその変化が止んだと見るや水羅の手の中で粉々に砕け散った。
「今のは……」
「我が妹、ユニケの真の姿だ」
 ラインがいつのまにか水羅に追いついていた。
「ユニケ?」
「そなたが八房と呼んでいた狼は呪いで姿を変えられた私の妹なのだ」
 ラインの声には悲しみも怒りも存在していなかった。
「私を憎まないのか?」
「妹が救った命だ。ユニケはそなたに好意を持っていた」
 しばらく黙った後、水羅は言った。
「そうか、ユニケというのが本当の名前なのか」
「ああ、美しく雄々しき一角獣ユニコーンから取った名だ」
 言ってラインは死んだ水羅の妻に手を伸ばした。
「美しい娘が、屍鬼に操られていたか。これは知り合いか?」
「妻の桜だ」
「桜か。この島にわたって、初めて見たあの美しい花の名だな?」
「ああ、それ以上に愛らしい女だったよ」
「その名、覚えておくとしよう」
「私もユニケの名を忘れはしまい」
 二人がそう言うと、ぽうと光を放つ物があった。
 死んだユニケの体の破片が光っていたのだ。
 光は全部で八つ。
 一つは仁。一つは義。一つは礼。一つは信。一つは智。一つは悌。一つは孝。
 その文字を浮かびあがらせる七つの珠と、水羅の忍刀に埋め込まれた忠の文字を浮かび上がらせる珠。
「これは……」
「呪いに対する唯一の力となる八つの聖玉か。呪いによる自身の死は覚悟していたのかユニケ」
 ラインが一つの珠を拾い、水羅が忍刀を手に取ったとたん。
 バシュッという音を立てて、他の珠は夜空に光跡をのこして飛び去った。
「もう火が回る。これでお別れだ我が朋友よ。君が一族を立て直す事を祈っておこう」
「ありがとう。ラインヘル、この恩は生涯、いや子々孫々までも語り継がせよう」
「そうだな、名残惜しいが我々はもう二度と出会わぬ方が良いだろうな」
 ラインはそう言うと燃え盛る火に向かって去って行った。
 反対へ向かって水羅も歩を進めた。
 そして十年後水羅は見事、蔡雅御剣流を再興した。
 

第6話

 
「そんな事があったのですか」
「ああ、信じられんような話だが、鬼というのは実在するらしい」
 いづみはじっと手にした『八房』を見つめた。
「『八房』が目覚めたのは何かの前兆かも知れん。忍びの心を忘れるなよ」
「はい……」
「さて、そろそろ帰らないと明日にさわるだろう。私もこの後は用事があるそろそろ終わりにしようか」
「兄上の用事とは弓華の事ですか?」
「どうして、わかった」
「いえ、なんとなく」
 と言った物の本当は火影がいつになくいそいそとしていたから。
 この間弓華に会いに行った時に、毎日来てくれると言っていた事から推理しただけの話だ。
「何がおかしい」
「あ、私も用事がありました」
 逃げ出すようにいづみは部屋を出た。
 笑いをかみ殺しながら縁側を歩いていると上からぞくりとした気配を感じていづみは空を振り仰いだ。
 先ほどまで夕焼けだった空に何か異様な雲が垂れ込めはじめていた。
 
「どうしたのですか?」
 真っ白な病室の中弓華がベッドから起き上がって火影を迎えていた。
「いや、出掛けにいづみにからかわれた」
「そうですか。何か怒らせたかとおもいました」
 ほっとしたような弓華。
「いや、弓華はいづみの命の恩人だからな」
「それは、怒れないしという事ですか?」
 ちょっぴり弓華の表情がさびしそうになる。
「そうじゃなくて、怒る事なんて何も無いさ。それより、本当にもう退院できるのか?」
「ええ、前にも言いましたけど、弾丸は身につけていたこの珠で弾かれましたから」
 弓華はお守り袋を引きだしその中に入っていた小さな珠を見せた。
 弾丸を弾いたというわりには傷一つついていない。
「そうか。……うん?」
「どうしました?」
「いや、この珠は中に何か……」
 ぼんやりと水面に墨を垂らしたような何かが珠の中に見て取れた。
「ええ、老爺が言うには[信]といウ文字が描かレているそうです」
「[信]……?もしかしたら、これは八房の珠の一つか」
「八房ってなんですか?」
「いや、そうだな話して害になることでもないか。実は……」
 ……。
「そうだったんですか」
 感慨深げに弓華は手の中の珠を見つめる。
「ああ、気になる話なんでできればどうやって手に入れたのか教えてくれないか」
「これは昔……老爺が日本に来た時に譲り受けたと聞いています」
 弓華は病室から見える切り取られた空に眼を向けた。
「幼い頃泣いていた私に老爺がくれたです。これを心の支えにして頑張れって」
「信か。いい言葉だな、まさしく今の君に必要な言葉だ」
「うふふ、信じる。恐いけど大切です。今までなくしてた……」
「そんな事はない。眠っていただけだろう、今はなくしているようには見えない」
 そこでいったん言葉を切って、照れくさそうに火影は言い添えた。
「……この間は守れなかったが、これからは私を信じてくれないかな。絶対に君を守って見せる」
 最初びっくりした弓華がじっと眼鏡の奥から火影を見て、ほんのり頬を染めた。
「はい。弓華は、火影を、信じます」
 少し涙を浮かべながら、弓華は特上の微笑みを浮かべた。
 

第7話

 
 そこには物悲しい想いがあふれている。
 少なくともさくらはそう思った。
 そんなのは、ここであった事を知っている自分と極一部の人間だけが持つ感傷だというのは、十分承知していた。
 それでもさくらはここに来るたびにそう思う。
 引き出しの中にしまった物を否応なく引き出されてしまう。
「私が、先輩の事好きになった事を知ったら。あの人はどうするんだろう……」
 考えても無駄な事だと思う。
 あれが正しい事だったと信じているけど、それでも自分がここから追い出してしまった彼女に対して罪悪感を覚えてしまう。
 窓際の椅子に埃を払って座ると、不意に彼女の声がよみがえってくるような気がした。
『私ね、彼の事が好き』
 見えるはずの無い彼女の微笑みまでが見えるような気がした。
『彼が卒業するまでの間……それだけで良いの』
 どれだけ彼女が真剣だったのかさくらには推し量れない。
「そう、できたのかもしれない」
 言ってから自分が相当気弱になっていると実感する。
「私らしくないな」
 でも、そんな気分にあえて浸りたかった。
「どうしようもないくらい、先輩が……好き」
 でも、彼女と同じように自分も、真一郎にとってそばに居るべき存在ではないのではないか。
 彼女の想いを断ち切っておいて、自分だけがそばに居るのは酷く間違った事のような気がした。
『いいじゃない、好きなんだもの』
 聞こえるはずが無い。それに彼女がそんな自分に都合の良い事を言うはずが無い。
 それでも心の中に慰めを見いだそうとしている自分がたまらなくいやだった。
「私は、早いうちに先輩の前から姿を消す方が良い」
 言い聞かせるようにつぶやくさくら。
 旧校舎のひびの入った窓ガラスから差し込む陽光はすでに、赤の紗をまとっていた。
「でも、せめて先輩が卒業するまで……そうしたらきっと自然に離れて行ける」
 結局自分も彼女と同じ事を言っているのだ。
『馬鹿ね、私だったら生まれ変わってでも会いに行くわ』
「くす、そうかも。私もそんなことできたら良いな」
『なんで、できないの?』
 想像の彼女が問い掛ける。
 さくらは呆然と考えてしまう。
 そんなこと考えた事なかった。生まれ変わるという事じゃなくて自分の気持ちに素直に行動する事。
 長い間沈黙してから、ゆっくりとさくらは言った。
「告白ぐらい、してみようかな。もうすぐバレンタインデーだし」
『そのいきそのいき、でも譲ってあげる気はないからね。私も必ず彼に会いに行くから』
 さくらは制服を払って立ち上がる。
「ありがとう」
 いるはずの無い女生徒にそう言ってさくらは出て行こうとした。
 ころころころ。
 軽やかな音にさくらは興味を引かれて振り向いた。
 虹色の光を撒き散らしながら小さな珠が転がっていた。
「これ……」
 手に取るとほんのり暖かみがある。
「七瀬先輩?」
 応えるように、薄くはかなく珠は光って見せた。
 彼女自身はもうこの旧校舎にはいない。でも、想いだけはここに残ったのかも知れなかった。
「でも……」
 さくらは自分の服の内から同じ珠を取り出して見せた。
「これが、ここにあるという事はすでに始まりつつあるのかもしれない」
 さくらは沈みかけた夕日に照らされた景色を憂いた瞳で見つめていた。
「呪いがその輪を閉じる……」
 

第8話

 
「ここの所、元気ないね瞳」
「そう?」
 尾崎の顔には瞳がいくら隠してもわかるよと笑みが浮かんでいた。
「うん、ごめん。気持ち切り替えるから」
「ううん、そうじゃない。できれば話して欲しいなって」
「……言えないわよ、こんなこと」
 瞳は珍しく陰のある表情で顔を伏せた。
「年下の男の子に惚れて告白もできずに悩んでいる事がそんなに恥ずかしいの?」
「な、どうして……」
「ほほう、やっぱり。とすると真一郎君ね」
「カマをかけたわね」
 驚きの表情が怒りでか赤く染まってくる。でも尾崎には照れ隠しがその大半なのが良く分かっていた。
「怒っても無駄よ。それより真一郎君か……ライバル多いわよ」
「そんなの、わかってるわよ……」
 少し視線を逸らして瞳が下を向く。
「まあ、残念だけど好きになっちゃった事に関しては私にはどうしようもないわね。当たって砕けるぐらいしか手はないんじゃない」
「知らなかった。私って、結構のめり込むタイプだったのね」
「そんなの、私は前から知ってたわよ」
 その時、尾崎は立ち止まって一軒の店を指差す。
「どう?バレンタインに告白してみるって言うのは。どうしてもだめなら、義理チョコのふりして渡すぐらい良いじゃない。ね、瞳スポーツに熱中してるばかりが青春じゃないわよ」
「いじめてくれるわね。今度必ずお返ししてあげますからね」
「おーこわ、ま、買わなくてもいいからさ中入ってこ。私はあげる人いるからね」
 半ば強引に瞳は店の中へ連れ込まれた。
 普段から女の子でいっぱいのその店の中は洪水のようだった。
「はあ、どうしよっかな」
 店頭に積まれたきらびやかな包装のチョコレートを手に取ってみる。
 これを真一郎に渡すのを想像してみようとする。
 だめだった、なんだか……。
「とっても似合ってない」
「あれぇ瞳さん?」
 後ろから、急に声をかけられて瞳はびっくりして振り返った。
「た、鷹城さん、あなた」
「んー?人いっぱいですね。それ、買ったんですか」
 慌てて、瞳はそれを棚に戻した。
「え、わ、私は……それより鷹城さんは買わないの?」
「もう、買ってあるから良いんです」
「やっぱり、あ、相川君?」
 思わず、どもってしまう。気にしてるのがみえみえだ。
 でも唯子はまったく気づかなかったみたいだった。
「えへへぇ。やっぱりわかります?」
「いいわね……」
 思わずそうつぶやいてしまう。なんてこの子はピュアなんだろうと瞳は思う。
「あっと、こんなことしてる暇無いんだった。早く小鳥んち行かないと……」
「あ、ごめんなさい引き止めちゃった?」
 話し掛けたのは唯子の方なのに瞳は気遣う声をかけた。
「全然。それじゃ」
 駆け出して行こうとして、思い出したように唯子が振り返る。
「瞳さん、も、素敵な想いを渡せるといいね」
 それだけ言うと、唯子は走り去っていった。
「そう、ね」
 正直、かなわないなと瞳は思った。
 それでもなんとなく、瞳は店内に足を向けた。
 ふとその足が止まる。チョコレートばかりの店内におまじないコーナーができている。
 普段だったら、通り過ぎてしまっていたに違いない。
 でも今日はその言葉に眼が止まった。
 願いをかなえる水晶の珠。
「私も、素直になれるといいな」
 

第9話

 
 はっはっはっ。
 白い息を吐きながら、ななかは公園を目指して走っていた。
 夕方のロードワークは中学生の頃からの日課だ。
 家から公園までは決して近い距離ではない。
 それでも、ななかは雨の日も毎日欠かさずにこの訓練を続けていた。
 強くなる為にできる限りの事をしたい。
 昔は病弱といっても良かった自分が、こうして元気でいられるのは護身道に出会ったからだ。
 もちろん、今では超が付く健康だ。
 こうして走っていても心地よい。
 技を覚え強くなるのは、他に表せない達成感がある。
「ふう」
 公園の入り口に付くと、ななかは息をついてゆっくりと歩き出した。走りおわってすぐ止まるのは体に悪い。
 この公園が目的地なのは実はもう一つ理由がある。
「あちゃ、また来てたのか」
「大輔さん」
 それがこの大輔だった。
 大輔の家はこの近辺で、時折大輔はこの辺りを歩いている事がある。
「毎日来てるじゃない。知ってるんだから会いに来てくれてもいいのに」
「馬鹿野郎、なんでそんなことしなきゃいけないんだ」
「なんでって……あーあ、ロマンの無い人だなあ」
 心底がっかりした口調でななかは言う。
「大体そんなのがらじゃねえだろ」
「うーん、がらとかそういう問題じゃないと思うけど、それだったら犬を散歩させてる大輔さんもかなりがらじゃないと思う」
「わん」
 応えたのは大輔が連れている犬の方だった。
「仕方ねえだろ、たまには散歩させねえとひどく文句言うんだからさ」
 大輔は苦り切った様子でそう答えた。
「そんな事言って、結構嫌いじゃないくせに」
「わんわん」
 ななかがよしよしと撫でてやると犬は元気に吠える。
「けっ勝手にしろよ」
「あの時も大輔さん、犬を連れてたよね」
「あの時?……ああ、初めて会った時か。おまえにいきなり殴られた時だな」
「あれは、私を男の子呼ばわりしたから。大輔さんがいけないんだよ」
「そういえば、あの時くれてやった珠、まだ持ってるか?」
「え、ええ……持ってますけど」
「なくしたのか?」
「な、なんでですか?持ってるって……」
「急にですます口調になったから。……別になくしたって怒んねえよ。実際たいした物じゃないしな」
「うー、信じてくれるかなあ。本当は今も持ってるんだけど、これ」
 そういってななかはネックレスの先につけられた珠を取り出した。
「何じゃこりゃ?」
「うーやっぱり」
「この[義]ってなに?」
「わかんない、貰ってからしばらくしたらそうなってた」
「うーん、ま、いいんじゃねえの。そういう事もあるんだろ。でも、まだ持ってたんだな」
「そりゃあ、大輔さんがくれたものだから」
 この、と照れ隠しに怒ろうとして大輔が見るとななかは少し照れたように笑って「きざかな」と言った。
 それがなんだかやけに可愛らしくて大輔はななかの顎に手を添えた。
 ななかがそっと眼を閉じる。
 二人の唇が近寄っていき……。
「ありゃりゃ、たいへんだー。寄り道で時間が無いよう。公園の中突っ切っていこーう」
 突然近くで上がった声に二人は驚いてぱっと離れてしまう。
「唯子先輩?」
「鷹城……」
 当の唯子は二人には気づかず一本隣の道を走っていってしまった。
「なんだかなー。そうだそろそろ、ななかは帰らないとまずいんじゃないか」
「あ、そうだった、それじゃまた明日」
「おう、またな」
 ななかはまた家までの道を走りはじめた。規則正しいななかの呼吸音がどことなく楽しそうだった。
 

第10話 凶兆

 
 2/11その日は晴天の予報だった。天気が崩れるのは早くても14日以降という話だった。
 だが、空は予報どおりだった昼までと打って変わり、重苦しい雲が垂れ込めていた。
 おりしも、日が暮れようとしていた時分であたりは急速に暗闇に包まれていく。
 道を行く何人かが空を見上げいやな顔をし、体を震わせてはコートの襟をしめて足早に去っていく。
 愚痴る声が聞こえる。
「ちきしょう、いつものことながら役にたたねえ天気予報だよ。ちっ、雪が降ってきやがった」
 男は手のひらに雪が落ちるのをじっと見守った。
「なんだ……こりゃあ」
 雪は手のひらで融けてかすかな異臭をあたりに放った。
 暗くなってきたせいか判別しにくいが、それははっとするほど赤く見えた。
 ぬるっとした感触。鉄のさびたにおい。赤い液体。
 男はごくりと喉を鳴らすと、次の瞬間悲鳴を上げた。
 
 赤ん坊が突然火のついたように泣き出した。母親は困ったようにその顔を覗き込む。
 彼女がどんなにあやしても娘は泣き止んでくれなかった。
「ふう」
 つかれきってじっと見つめていると娘のむずかり方に一定の法則があるのに母親は気づいた。
 どうも外を指しているらしい。
 馬鹿らしい、生まれて1月ぐらいしか経っていない赤ん坊がそんなことをするはずはない。
 母親はそう思いながら、それでもなんだかおかしくて娘を抱えあげると庭へと連れて行こうとした。
「きゃああっ」
 外の光景に母親は危うく大事な『七瀬』を落としてしまいそうになった。
 
 いづみは列車の窓から外を眺めていた。
 さっきから『八房』が異様に高ぶっているのを感じていた。過去の話を聞いたせいかいづみには『八房』に知性があるように感じる。
 そして、いづみ自身もひどく緊張していた。
 さっきから濃密にその気配が強まってきている。
 影の世界に生きているいづみにも体験したことのないような、いやな感じだった。
 殺意と表現できるような鋭い感覚ではない。まがまがしい、そう表現するのがぴったりなどろりとした空気だ。
 すでに真っ暗になった空からさらに黒いものがちらちらと落ち始めた。
 窓にぴたりと張り付いて消えていく。
「これは……」
 濃淡を持つその液体は紛れもなく血に見えた。
 ほかの乗客も気がつき騒ぎ始めていた。そして誰かが窓を開けようとしたとき、いづみのいやな気配は最高に達した。
「何かにつかまれ!」
 思わずいづみが叫んだ次の瞬間、列車は横へと倒れこんだ。
 車内は阿鼻叫喚に包まれた。
 
「いたっ……」
 小鳥が人差し指を口に含む。
「どうしたんだよ小鳥、今日はずっと変だぞ。包丁で指を切るなんて」
「違う。しんくん感じない?この気配。……窓の外!しんくん、窓の外見て」
 真一郎は外へと目を向けた。
 真っ赤でどろりとしたものが窓に付着していた。
「なんだこれ?」
 首を乗り出して上を見上げる。空から降って来る、どこかから滴ってくるのではない。雪の形をして町中に降り注いでいた。
 振り返ると小鳥は胸を押さえてうずくまっていた。
「小鳥!」
「大丈夫、少し気分悪くなっただけだから」
「だけど……」
 小鳥を介抱しようとすると、驚く程に強い瞳で小鳥は真一郎を見つめた。
「しんくん。私はいいから……」
 
 唯子は走りながら、必死で小鳥の家を目指していた。
「なんなのー。この雪。怖いよう」
 もう半べそだった。
 お気に入りのセーターは融けた雪で赤く染まりつつあった。
 そして、唯子も感じていた。
 敵意というのか、獲物を見るものの視線か。
 とうとう唯子は立ち止まってしまう。
 体が震えていた。
 寒い、怖い、一歩も動けない。
「しんいちろー」
 つぶやいて目をつぶる。
「呼んだか?」
 思いもかけない声に唯子はびっくりして目をあける。
 真一郎が傘を差し出しながら立っていた。
「少し遅かったか?」
「しんいちろー」
 唯子は傘も無視して真一郎に抱き着いていった。
「ば、ばかやろ。身長差を考え……ま、良いか。怖かったか、唯子ー。もう大丈夫だからな」
「うん、うん。怖かったよう」
 真一郎は自分より背の高い幼馴染の頭に手を回し撫でてやっていた。
 
「あ、瞳ー大変なことになってるわよ」
 お風呂から出てきたばかりの瞳に姉がお気楽な声をかける。
「知ってるわよ……」
「あんた、どうしたの真っ青よ」
 そうだろうと瞳は苦々しく考えた。
 ぞっと、体中から血の気が引いている。
「お姉ちゃんこそよく平気ね」
「えー。確かに良く血に似てるけどさ。それだけでしょ?」
 実害はないと言いたげである。
「服が真っ赤っ赤になっちゃった」
「災難だったわねえ。でも多分洗えば落ちるわよ」
 なんだか憎らしいくらい落ち着いている。
「それに……」
 この気配を感じないのか……そう言いかけて瞳は口をつぐんだ。
 一般人の姉には気配は感じられないのかもしれない。
「それに、なによ」
「ううん、何でもない」
「はっはぁん。大切なものでもぐちゃぐちゃになったのかしら」
 姉の目がいやらしく笑う。
「大切なものって?」
「御風呂場の横にある包みの中身とか」
「あっ!」
 瞳は確かに大切なもののことを思い出してその場へ走った。
「良かった……」
 抱きしめるようにしていたのでリボンが少し曲がっているが、妙な雪には濡れていないしほかに変なところもない。
 びくっ。
 後ろに姉の興味津々の視線を感じて瞳は振り返った。
 
 ななかは一向に降り止まない不気味な雪を、早くに店じまいした花屋の軒先で見ていた。
 どうしてだか知らないが、雪そのものよりも何かほかに恐ろしいものがあるような気がしてならなかった。
 町は静まり返っていた。もう振り始めてだいぶたつ。
 今でも外にいるのはななかぐらいかもしれない。
 お財布持ってきてれば、タクシーで帰れたのにと思う。
「どうしてこんなに?」
 頭の中はパニックになりそうだった。
 せっかく大輔に会えて今日はラッキーだと思ったのに。
 どうしてもこの雪に濡れて帰る気にはなれなかった。
 でも、こうして軒先にいても雪は風に舞って吹き込んでくる。
「寒い……」
 体が震えるのを止められなくなっていた。汗をかいていた分それが冷えて熱を奪っていく。
 覚悟を決めて飛び出そうとしたとき、目の前にきいっと鋭い音を立てて車が止まった。
「どうせこんなこったろうと思った。ほれ乗れ!」
「大輔さん。どうして……」
 聞き返すななかを無理やりに車内に引き込みながら、
「ロマンのない男だからな」
 面白そうに大輔は笑った。
 
 つっと火影の顔が離れていく。
 照れているのか、少し赤くなっている。多分自分もそうだろうと弓華は頬に手を当てた。
 しかし、自分たちがそうして興じている間にどれだけ時間が立ってしまったのか。
 不意に弓華は懐かしいような気配を感じて総毛だった。
 憎しみそして醜い欲望の強い思念。
 それが回り中に満ちていた。
「弓華……」
 火影もそれに気づいたらしい。いや、ひょっとすると守ろうとしていた意識の強い火影のほうが早く気づいていたかもしれない。
 声音には注意を促すような響きはない。
 表情も恋人と逢瀬を楽しんでいる青年の顔でありながら、瞳だけがしんと冷えていた。
 その目が窓の外へと向けられた。
 つられて弓華も外を見る。
 その、地獄絵図のような光景に二人は声を失う。
「これは……」
 真っ赤に染められた都会の姿は想像したこともないほどの恐怖であり、そしてある種の美を持っていた。
 そのとき何かが彼女に呼びかけたような気がした。
 驚いて横を向くと火影はまだ町並みに惹きつけられたままだった。
 その瞳の中に、これまで見られなかったような炎がかいま見えた。
「火影!」
 彼を失ってしまうような直感にとらわれて弓華は叫んでいた。
「どうしたんだ?弓華」
 彼の瞳にはもう、弓華が脅えた炎は見えなかった。
”あれは……人殺しを楽しむような壊れたものの目……でも、火影に限って……”
 それでも、弓華には彼に微笑み返すことができなかった。
 
 旧校舎から出たさくらは雪が降ってくるのに気づいた。
 さくらは空を見上げた。
 視界を埋め尽くすように狂気が降り続けていた。
 さくらは膝を折った。
「そんな、早すぎる。まだ……」
 鼻先を雪の異臭が掠める。
 それを心地よく感じる自分に吐き気がする。
 それなのに、耐えられないような強い欲求が襲ってくる。
「チガ、スイタイ……」
「いや、先輩……」
 さくらはすがりつくように真一郎のことを思った。
 手に自分の珠を握りこむ。
『獣に戻れ』
 自分のものとは違う恐ろしい声が聞こえた。
 それに呼応する自分がいる。
「センパイヲワタシノモノニ」
「先輩の血が吸いたい……」
 手が震えていた。珠が手からこぼれおちそうになる。
 心の中で真一郎を呼ぶ。何度も何度も……。
『さくら』
 見えたような気がした。優しく微笑む真一郎の顔が……。
「絶対!絶対駄目!先輩を傷つけるのは、許さない……!」
 ぎゅっと握り締めた珠が光を放つ。視界を真っ白に染めるほどの光だ。
 体に入り込んでいた熱のような快楽と嫌悪の気配がゆっくりと抜け出ていく。
 さくらが見ると珠には[智]の文字が浮かび上がっていた。
 荒い息をついていたさくらは、はっと気がついた。
 赤い雪は止み、白い本当の雪が覆い尽くすように本降りになっていた。
「どれだけの仲間が今ので理性を失ったんだろう」
『獣にもどれ、愚かな同胞達よ。呪いがおまえらの知性を奪い、おまえらが望む、くずのような人間との共存は滅ぶ。殺し合うといい、獣と人間で……獣は死に、人間もいずれ獣に……』
 あざ笑うような声が聞こえた気がした。
「私は、呪いなんかに負けない。先輩がいるから。……そして、私に先輩を殺させようとしたことは、絶対に許さない」
 さくらはきゅっと口を引き結ぶと、その場を立ち去っていった。
 
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