とらいあんぐる八犬伝
第21話 殺生石
「ほ……げ……」
はっと、さくらは目を覚ました。
夢を見ていた、そして……。
「誰……?」
なんだか、大切なものを忘れているような気がした。
それに、ひどく疲れている。
ふう。
いやに生暖かい座席に座り直しながらさくらは溜め息を吐いた。
「お客さん、もうすぐつきますよ」
前から、タクシーの運転手が声をかける。
カーブをかけた拍子に、目の前に雄大な富士の姿が広がる。
那須野原。
さくらの目的地はそこだ。
殺生石にさくらは用があった。
殺生石というのは、近づく虫などが死ぬ所から名づけられた。
伝承は元々、玉藻前という九尾の狐が死してもなお他人をとり殺すからだと言われていたが、それが後々毒ガスのせいであることは明らかにされている。
といっても、正確にはその有名な割られた方ではなく、本物の割れていない殺生石にこそさくらは用があった。
地域の住民には『チビキノイシ』と呼ばれていたと聞く。
冥界と現界をつなぐ扉となるイシだ。
日本の神話では、イザナギが黄泉から逃げ帰ったとき、入り口をふさぐために置かれたといわれている。
その中に、悪魔が封じ込められているのだ。
さくらは今、一族で一番近くにいる正常な意識の持ち主として、その安否を確認しなければならない立場にあった。
キイッ。
「ありがとうございました」
タクシーの運転手に、さくらは一礼し地面へと降り立つ。
「気をつけなよ、ここのところ、ここは物騒なうわさがあるからな」
「噂、ですか?」
「ああ、化け物を見たって話が多いんだ、もともとこの辺りで行方不明になるやつは多いんだけどよ」
そういって運転手は樹海に向かって顎をしゃくる。
「ただ、あながち単なるほらとも思えないんでね。この辺を流していて変な声を聞いた事もあるし」
さくらは少し笑う。
「貴重な情報ありがとうございました。でも、私、強いですから」
さくらの微笑みに、運転手はぞくりと来たらしい。
「それじゃ気をつけなよ」
幽霊でも乗せた気分なのかもしれない。
先までの半ばおせっかいな態度はどこへやら、タイヤを鳴らして反転し去って行ってしまった。
さくらはそれを少し見送った後、本物がある場所へ歩き出した。
いづみは町中をぼんやりとした気分で歩いていた。
なんだかもやもやしたものが体中を覆っているような感覚で、心地よくもあり耐え切れないほど不快でもあった。
嫉妬してるのか。私は?
あの一年生に、何故嫉妬しなくてはならないんだ。
『さくら』
呼び捨てにしていた。
それに、なんだか、あの二人の間には入りずらい何かの空気があった。
まだ、野々村や唯子ならここまで嫉妬しなくてすんだのに。
最初から、彼らの間に入るつもりは無い。
そんなのは無理だし、彼らの関係そのものを含めて真一郎が好きだったから。
でも、あの一年生は違った。
私の知らない強い絆。
わからないから不安だった。
どん。
「あ、すいません」
ぼうっとしているうちに人とぶつかってしまった。
「いや、いや。お嬢さん心配には及ばないよ」
ぶつかったのは、初老と見える正装の男性だった。
あまり、風景には似合っていないが、本人がいかにもなヨーロッパ風の紳士なのでそれが浮いた風ではない。
どちらかといえば、風景の方がミスマッチなのだと言わせてしまう、そんな強力な存在感の持ち主だった。
それを見ながら、いづみはこんなにぼんやりしているようではまた火影兄様に叱られてしまうなと思っていた。
「ところで、ぶつかったのも何かの縁。お嬢さんは蔡雅御剣流という流派をご存知かな?」
「え?知っていますが……」
いづみは突然自分とぶつかった上に蔡雅御剣流の事を尋ねた人物が、何者かを見極めようとしてじっと見つめた。
「ほう、もしかして君は直系の血を引いているのではないかね」
「すいませんが、蔡雅御剣流にどんな御用があるのですか?」
だが、男はいづみの質問を気に留めた様子もなく、しきりといづみを眺め回してはふむふむと唸っている。
「ずいぶん昔の事だったが、今でも鮮明に思い出せるものだな。髪の美しさといい、顔の造詣といい君には桜の面影が色濃く残っているようだ」
「あの……」
「おお、すまなかったお嬢さん。ところで御剣水羅は君の何代前の先祖にあたるのかな?」
「水羅?」
唐突にその先祖の話をそして懐にしまった『八房』の事を思い出す。
「4代前です。私が生まれる少し前まで生きていたそうです。そして次に生まれる子供が男だったら、いっかく。女だったらいづみと名づけよと遺言してなくなりました」
男は驚いたように見えた。
「そうか、彼は最後まで覚えていてくれたのだな」
いづみはその様子に確信する。
常識ではありえないその話を確認しようと口を開く。
「まさか、あなたは……」
「お嬢さん、聞かないでおいた方が面白い事と言うのは多いのだよ」
茶目っ気たっぷりに男はウインクした。
「やっぱり……」
さくらはバックリと割れた、『割れていないはず』の殺生石の前に立ちすくんでいた。
第22話 惑乱
「ふむ、出来ればお嬢さんの家に挨拶していきたかったが、そうも行かなくなってしまったようだ」
空を見上げて厳しい顔をしていた男は、振り返っていづみににっこりと笑った。
「その刀は大事に使いなさい。いざという時に使えるように、無駄なものを切らないようにね」
「どういう意味ですか?」
「戦いが始まるという事さ。下手をすればこの国すべてを巻き込んで」
その言葉に不安そうにするいづみを見て、男は何やら聞きなれない言葉をいづみに投げかけた。
「勇気を持ちなさい。大切なものを守る為。神の祝福は常に勇気持つものに与えられる」
いづみには、ドイツ語の意味はわからなかったが、それでも体が温かくなる気がした。
「それでは君に幸運があるように」
男は、にこやかなまま手を振って去っていく。路地を横へ入り込み、さよならの挨拶をしていなかったと気づいて追いかけたいづみが覗き込んだ時にはもう誰もそこにいなかった。
「夢でも、見たのかな……」
かきかき。
さくらが無言で地面に絵を描いている。
「んしょ、んしょ」
結構重労働のようだ。
結局、直径3メートル近くの模様を書き上げる。
見る人が見ればわかるだろうが、正三角と逆三角を重ねて出来た物の周りに円と文字が描かれたそれは、まごうことなき魔法陣だった。
「これで、何が起こったのかわかるはず。とんでもない事が、起きていなきゃいいけど」
さくらは言ってから、とんでもない事が起きていないわけが無いと陰鬱な気分で割れたままの殺生石を見つめた。
「とりあえず、やってみよう」
すうっと、意識の遠くなるような感触。周りの時間がどんどん遅くなり、そしてすべてが停止する。
「ここか」
氷村は『割れていない』殺生石を前にして馬鹿にしたように鼻で笑う。
「案外たいした力でも無いな」
やっぱり、遊。
さくらはその光景を眺めながら唇を噛み締める。
あの時情けをかけるべきでは無かったのか。
せっかく信じたかったのにと思うさくらの耳に、もう一人の声が聞こえた。
「そうかな、遊が感じ取れないだけだと思うけど」
ひどく冷たい声だ。
だけど、良く聞き取れない。
姿も、良く見えない。術の出来があまり良くなかったのだろう。
とりあえず女性だと思う。
「なんだと?」
「何でもない、早くやれば?」
氷村はその女性に殺しそうな視線を向けた。
「ふん、言われなくたってやるさ」
いちいち態度がキザったらしい。
さくらは、髪をかきあげながら石に正対する氷村を見て頭痛を覚えた。
「……砕けろ!」
氷村が少しの呪文の後にそう命令する。
…………。
何も起きない。
格好つけていた分、とてつもなく恥ずかしい。
こんなのが身内だと思うと、さくらは消え入りたくなってきた。
同道していた女性もそう思ったらしい。
「私、帰っていい?」
「まだ待て、ほんの小手調べだろう」
女性はとりあえず、しぶしぶその場に残る事にしたらしい。
だが、その小手調べは延々2時間あまりに渡って続けられた。
最後の方になると女性は、もう近くの木の幹にもたれて眠っていた。
「いいかげん、砕けろよこいつ」
すでに、氷村の方は呪文うんぬんの問題ではなくなっている。
見ていたさくらは情けないと思いつつも少しほっとしていた。
遊には悪いけれど、この石は壊せそうに無い。良かった、遊が犯人でなくて。
ただ、もちろん、そうしようとしたのはとんでもない過ちだし、見過ごすわけにはいかないが、それでも殺すほどの事もないだろう。
でも、じゃあ誰がこの石を……。
「くそっ、寝ていないでお前も手伝え」
氷村が寝ていた女性を揺り起こす。
「眠い……」
さくらはその声にどきっとした。どこかで聞いた事があるような気がしたからだ。
「また寝るな、おい!」
「寝起きはあんまり得意じゃない」
氷村がしつこいので仕方なくといった感じで女性が体を起こす。
「邪魔しないで」
横で力を使おうとした遊に向かって女性は冷たく言った。
「く、わかった。どれほどのものかお手並みを拝見しようじゃないか」
ここにいたっても、自分のプライドを捨てられないらしい。
しかし、とするとこの女性が石を割った張本人なのか。
顔を見極めようとさくらは懸命に目を凝らす。
だが、過去見の魔法の不具合で出来た歪みは正確に見て取れない。
そうこうするうち、空が暗くなって来た。
天から雷光が石に向かって落ちる。
白光に包まれた次の瞬間、石はその無傷の姿を目の前にさらしていた。
「だめじゃないか!」
何を鬼の首を取ったみたいに騒ぐんだろう。
今のがどれほどの力があったのかわからないんだろうか。
私にだって出来るかどうかのぎりぎりのものなのに。
もちろんさくらはこんな呪文を使うような事はおろか試した事だってない。
一応、一族の基礎知識として知っているだけだ。
「そうみたい」
女性はひざをついて辛そうに息をしながら、さっきの氷村の言葉に答えた。
「イマノハ……ダ・レダ」
呪文を通して見ているだけのさくらが、一瞬心臓を止められたように感じた。
その場にいた二人にはもっと強いショックだったはずだ。
びくりと動きを止める。
「イマノヲ、モウイチドダ。ソトカラノチカラト、ウチカラノチカラヲアワセレバコワセヨウ」
止めて止めて、こんな声の持ち主を出してはいけない。
本気で声一つで人の息の根を止める事が出来そうだった。
声の一音一音に穢れがこもっている。
ああ、聞いているだけで発狂しそう。
操られるように、再び女性が力を集めはじめる。
だが、先ほどと違って恐ろしい力が石の反対側にも集まりつつあった。
雷光が再びほとばしる。そしてそれを覆い尽くす石の中からの黒き炎。
それが収まって、さくらがゆっくりと目を開ける。
女性が辺りを不安そうに見回していた。
「ふふふ。どうやら、上手く行ったようだ。お前の名を聞いておこう」
女性はゆっくりと立ちあがった。
「私は……さくら」
「そんな、そんなはずない」
さくらは女性の言葉で集中を失い、現実に戻ってきた。
風が強く吹き付け、体の熱を奪い去っていく。
「私?」
あれは、自分なのか。
「違う、そんな記憶無い」
だけど、記憶は無くす事も出来る。
もっとはっきり見なくちゃ、そうしないといけない。
自分の力でも、もっとはっきり見る方法がある。
過去の出来事に関わりのある物を呪文に組み込めばいい。
「殺生石……」
申し分の無い材料だ。
それが、たとえ長寿で限りなく不死に近い一族にとってさえ致命になるものでなければ。
だが、さくらはそれに手を伸ばしていく。
あの男の狂気がさくらに判断を謝らせたのかもしれない。
その時一際強い風が吹いた……。
ゴウッ。
「うわっ」
真一郎は目を押さえた。
突然の突風で砂埃が舞って目に入ったのだ。
「いたた」
つい目をこすってしまう。
そうして、真一郎が目を開けると、狂い咲きの桜はその花をすべて散らしてしまっていた。
第23話 使命
「ちょっと、さくら。なにやってんの!そっち行っちゃだめ!」
七瀬は、急に感じた友人の喪失の感覚に顔を青ざめさせた。
だが、その感覚はすぐに感じ取れなくなる。
七瀬には、さくらがはっきりと黄泉への道を歩いていくのが見えていた。
それが急に感じられなくなったのだ。
「まさか、死んじゃったんじゃないでしょうねさくら」
七瀬は半狂乱でわめき散らす。
「あんた、ライバルなんじゃないの?真一郎残して死んじゃって、そんなの良いわけないでしょ」
七瀬は真一郎に目をやる。真一郎が今のを感じていたら、どうしただろう。
……!
真一郎は涙を流していた。
「なんだ?変だな、なんだか……涙が止まらないぞ。おかしいな、くそ、なんか情けねえなあ」
「情けなくなんか無いよ。真一郎だったら、絶対そうだと思った。ごめんね、きっと私の時もたくさん泣かせたね」
七瀬はそっと真一郎の肩を抱く。
「今は、私が隠してあげるからいくらでも泣こう?ずっと抱いててあげるから」
七瀬は想いを両手に込める。
それが真一郎に伝わるように、暖かさが少しでも真一郎を癒すように……。
「さくら、これだけ真一郎を悲しませて、本当に死んでたら許さないからね」
七瀬は、花が散ったばかりの桜の木を睨み付ける。しかし七瀬の瞳にも光るものがあった。
「やっぱり、連絡取れないですか?」
「ああ、そのようだ。少なくとも急ぎの任務を受けていない今、それで連絡が遅れているとも思えん」
前者の声の主は弓華、後者は御剣家の長兄空也だ。
「そうですか」
弓華ががっくりと下を向く。
「心配する事は無い。あれでもわれらの弟。何かに巻き込まれても自分の手でけりをつける」
「でも……わかりました。私だけ探します」
失礼にならないようにと気を使って話す弓華。
だが、空也はそんな弓華をつかんで引き止めた。
「あなたは今でも火影の管轄で監視という裁量で自由行動を許されているのだ。その火影が連絡を絶った以上あなたを自由にさせるわけには行かぬ」
「そんな!」
「何も、ずっとと言うわけではない。いづみと共にという事でも許可は出ている。いづみが帰ってくれば家を出る事も出来よう」
「それなら、あなたたちで……」
「われらはそれぞれに任務がある。残念だが、火影を探す事は出来ない」
「……わかった」
弓華はまるで冷たい氷のような起伏のない声を放つ。
「丁重に部屋へお連れしろよ」
空也は落ち着いた態度で家人に命令する。
『自分の大切なものの為、刃を振るうのは間違っていない。もう一度戦う。たとえ嫌われても、あなたが教えてくれた事無駄にしたくないから』
弓華は空也の手が離れた瞬間を狙って飛びすさる。
そのまま障子を突き破って弓華は逃走に入る。
「追え、逃がしてはならん」
空也が後ろでそう命じているのが弓華の耳に届く。
「必ず、火影を見つける。それまでは絶対捕まらない」
弓華は屋敷の屋根から大きく跳躍した。
目の前に富士の青木ヶ原樹海が広がっていた。
ここなら、流石に彼らでも追っては来れないだろう。
迷うことなく、弓華は樹海へ入り込んでいった。
「鋼、何故追わない?」
「任務があります」
空也の質問にかしこまって答える鋼。
「それより兄者こそどうして追いませぬ?」
「私も任務だ」
したりと鋼が肯く。
「そろそろ任務の時間ですな」
「ああ、私もそろそろ行くとしよう。そうだなその前に」
空也はまだ残っている人間にいづみへの伝言をしたためていく。
いづみよ。
弓華が脱走した。
しかるべき処置を取る為に弓華を連れ戻す任務をお前に与える。
どんな方法を用いても生かして弓華を連れ戻すべし。
さらに、その際お前が弓華を捕らえるに必要と思ったならば火影に援護を頼んでも良い。
それでは必ず任務を成功させよ。
第24話 幸せ
「ひゃぶ」
「ぐあっ」
いきなり後ろからぶつかられた真一郎は思いっきり桜の幹に額をぶつけた。
「な、何こんなところで突っ立ってんの、しんいちろー」
ぶつかった張本人の、のーてんきな声に真一郎は少しぶち切れ気味で振り返る。
「突っ立ってんの、じゃねえ。思いっきり痛かったぞ」
「はれ、ごめん。急いでたから」
「急ぐってなに急いでたんだよ」
唯子はいぶかしげに動きを止める。
散々首をひねった後。
「しんいちろ、なんだっけ」
「俺が知るかあ」
ぐりぐりぐり。
「いにゃにゃにゃいい」
「ふう、全くどうせ飯の時間に遅れるとかそんなんだろう」
ぷうっと唯子が膨れる。
面白いやつだな本当にこいつは。
真一郎は思わず唯子の反応が微笑ましくて、さっきまでの悲しさがどこかへ行ってしまうのを感じていた。
「違うよー。だって、お好み焼き屋さんでさっき食べたばっかりだもん」
「お好み焼き屋?」
「そうだよ。前に言った事あったでしょ、お好み焼き屋さんおいしかったよって」
「あ、ああそう言えば聞いた気がする。でも唯子ばっかり食ってずるいな」
「今度一緒に食べに行こうよって誘ってるのに、しんいちろが付き合ってくれなかったんだぞ」
「唯子が用事の入っている日ばかりに誘うからだ」
真一郎はさも当然みたいにとんでもない事を言う。
その後ろで七瀬は指を咥えて『いいなー』と眺めている。
「そうだ、それじゃ明日はどうだよ」
「え、明日?」
「そうだどうせ小鳥の誕生日パーティは明日出来なくなったんだし、唯子暇してるだろ」
「うん。そっか、どっか遊びに行く?」
「そうだな、一日中暇だし唯子に付き合うのも悪くないか」
「ちょっと、真一郎、私ともあろう者がありながらまさかデートなんて」
七瀬が後ろからすごんでも、今の真一郎には聞こえない。
唯子との間に入り込んで精一杯邪魔をしてみるけど効果無しだ。
「しくしく」
そんな七瀬を尻目に二人はしっかりと約束を終えている。
「じゃあ、約束だよ」
「おう、遅れてきたら唯子におごってもらうからな」
「その台詞、そっくり返すよ」
唯子はじゃあねと続けて去っていく。
苦笑しつつも、結構嬉しそうな真一郎の横顔を、これまた仕方ないかといった感じで眺める七瀬がいた。
「たっだいまー」
「おうおかえり。元気だなあ唯子は」
「ありゃ、パパ、ずいぶん早いねえ」
「はっはっは。今日は明日に備えて早く帰ってきたんだよ」
父は嬉しそうだ。
でも、そこまで聞いて唯子が「明日何があるの」と言った瞬間、表情が凍り付いた。
「唯子、明日は前から約束していたじゃないか、家族みんなで遊びに行こうって」
「ああっ、そうだった」
唯子はようやくそのことを思い出して声を上げた。
「…ごめんパパ。明日唯子パス」
笑顔がひきつる唯子父。
「な、何か用事でもあるのかな?」
「うん、しんいちろとデートなんだ」
にゅふふふと笑う娘に、いかばかりのショックを受けたのか父は言葉を無くして立ち尽くした。
「あっと、明日の用意をしなくっちゃ」
とたどたと二階に唯子は上がっていく。
唯子父は固まったままだった。
「ええっ。じゃあ明日から旅行へ行っちゃうの?」
ななかは素っ頓狂な声を上げる。
「ん、ああ言ってなかったか?」
「言ってなかったよ。大輔さんひどい。うー」
大輔は、ななかがなぜ怒っているのかわからずに簡単にあしらおうとする。
「なんだよ。単に土日かけて釣りに行くだけだぞ。別に良いじゃないか2日ぐらい」
「良くない。大輔さんちっともわかってない」
ななかは、あんまりにもな恋人の言葉に思わず涙がにじんでしまう。
「おいおい、まるで俺が悪人みたいじゃないか」
「ふぅぅうう。だって、日曜日は2/14なんだよ」
大輔がびっくりしたように動きを止めてななかを見つめた。
「あ。……なんだっけ」
あう、私……負けない。
「バレンタインデー、女の子がチョコを渡して告白する日。私が初めて大輔さんに告白してOK貰った日!」
「だああ、嘘だよ嘘。わかってたよ」
「わかってて、用事入れたの?」
じと目のななかから、大輔はついっと目をそらす。
「入れた時は忘れてた」
「はあ、これだからなあ、この人は。付き合い考えた方が良いのかなあ」
「全く仕方ねえなあ。チョコ一つでよくそれだけ騒げるもんだぜ」
「チョコ一つの問題じゃない」
「ああ、わかったから良く聞け。どうしても渡したかったら一緒に来るか?」
「え?」
「宿は一部屋しかとって無いけど二人部屋だからな」
「それって」
ななかの頬が真っ赤になっていく。
「ああ、行くか?」
「う…うう…行く。行きます」
「よっし、じゃあ、朝早いからな用意しとけよ。バイクで迎えに行くからよ」
「はい!」
必要以上に元気な声がななかの口から飛び出した。
第25話 罠?
がちゃ。
音を立てて扉が開かれた。
女の人が花束を持って立っていた。
瞳は横たわる大賀からその女性に目を移した。
あれから、目の回るような忙しさだった。
大賀を病院へ連れて行くと、同じような症状で担ぎ込まれた人がすでに何人もいるらしかった。
大賀は検査と称されて、そこらじゅうを引きずり回されるはめになった。
その間、瞳は大賀の家族などに連絡を取っていた。
ようやく、それらが一段階付いた頃その女性がやってきたのだ。
「大賀の病室はここでよろしいんでしょうか?」
「は、はい」
瞳が何者だろうといぶかしんでいるのを見て女性が挨拶をする。
「私は本郷亜鈴と言います。大賀の婚約者です」
「それじゃ大賀さんが言っていた」
瞳は納得して頭を下げる。
「あ、申し遅れました。私は大賀さんの弟子で千堂瞳です」
「というと、護身道の?」
「そうです。ずいぶんお世話になりました」
「そう、それじゃあ、彼の言っていた約束はあなたとの事だったのね」
亜鈴は優しい瞳で瞳を見つめている。
婚約者の事を信じきっているのだろう。
瞳がここにいても、全く嫉妬を感じていないようだ。
自分だったら、こんなに相手の事を信じてあげられるだろうかと瞳はちょっぴり悔しい想いをする。
「大賀はどんな様子?」
「今は、寝てるみたいです」
「そう、話は聞いたから飛んできたのだけど」
初めて亜鈴の表情が暗く沈む。
「こんなになってしまったのね」
大賀の寝ているベッドに近づいた亜鈴はそっとしわだらけの顔を撫でた。
それは決して、嫌悪しているようでも落胆しているようでも無かった。
時折洩れ出でるように悲しみの気配が伝わってくるそんな感じだった。
「亜鈴?」
しゃがれた大賀の声がする。
「来たのか」
「ええ」
亜鈴は手を止めゆっくりと大賀の顔を覗き込む。
瞳は邪魔をしないように、音を立てずに病室を出ていった。
夜の繁華街。
瞳は大賀が襲われたという場所を一人で歩いている。
誰か、目撃者でもいないか、聞き込みの真似事までやった。
だが、誰も知らないという。
瞳は焦る。もともと、大賀が襲われたのだって瞳との約束を守る為に外国から帰国したからだ。
そのうちに、完全に裏通りまで入り込んでいた。
いつもだったら通らないようないかがわしい通りだ。
いやらしい目で見つめてくる男達に瞳は鳥肌の立つ思いだった。
「あれ、こんなところで逢うなんて奇遇だね」
そんなすっとぼけた声をかけてきた男がいた。
あきれて振り返ると、そこには遊が立っていた。
「氷村君…」
瞳は落ち着いて答えたけれど、胸の中は嫌悪感でいっぱいだった。
特に、瞳と真一郎の会話に割り込んできた時に、彼を侮辱するような台詞を吐いたのを瞳は許していない。
その後すぐに転校していってしまったから、もう合わなくてすむだろうと思っていたのに。
「こんなところにいると、汚らわしいハイエナどもがやってくるよ」
そういって瞳の肩に手を回し、周りを嘗めるように見回す。
かちん。ときた。
その態度はまるで、自分が瞳の所有者であるようなひどく敖慢な態度だったから。
腕をつかんでひねりあげようとする。
「おっと」
遊はその動きに気づいたのか、手を引っ込めた。
「何の用?」
出来るだけ冷たく言ってやる。
「いや、君が吸血鬼を探していると聞いてね」
最初、奇遇だねとかいったのはなんだったの?
そう思ったけど、吸血鬼の事について何か知っているのかも知れない遊に下手な事を言うのはよしておいた。
「何か知っているの?」
「知っているさ。そこまで一緒に行こう」
遊がビルとビルの隙間に手を向けて言う。
「そこってどこです?」
瞳は、この馬鹿な男に圧倒的な自分の不利を感じながらも少しだけ抵抗してみた。
「ああ、そこの誰にも邪魔されない所」
どういうセンスをしているんだろう。
これは単なる『馬鹿』かもしれない。いや、『極めつけの馬鹿』だろうか。
でも、瞳にはそこへ行かざるを得なかった。
それにこの男がたとえ襲いかかってきても、あしらう事が出来るだろうと自信を持っていたから。
「わかったわ。行きます」
「そうそう、女の子は素直が一番だよ」
瞳の言葉に気分を良くした遊は笑顔でそう言った。
「それで?」
「それでって?」
瞳の質問に、なんだかふてぶてしい態度を取っている遊は聞き返した。
「だから、吸血鬼の話」
「ああ、その話か」
「そう、ここまで来て知りませんでしたとか言わないでくださいね」
「言わないさ、もう隠す必要はないからね。瞳、僕の事が好きだろう」
だめだ。やっぱり頭がいかれている。
相手にするのは間違いだったと瞳が無言で去ろうとした時。
「こっちを見ろ!」
思わず振り返る瞳。
遊の瞳に眼が釘付けになる。
そらせない…。
「ひ…み。お前は…」
なんだか、心臓が止まっているような感覚で、遊の言葉がうまく聞き取れない。
近づいてくる。
「俺が、吸血鬼なんだよ」
かろうじて、それだけは聞き取れた。でも体が重くなっていく。
…吸血鬼?
遊が瞳の体を抱きかかえる。
「ふふっちょろいもんさ。さくらめ、真実の想いがどうのっていったって、所詮こんなものさ」
今ここにはいない、義妹に向かって負け惜しみを言うと遊は瞳の首筋に牙を立てようとした。
遊は気づかなかった。
瞳の体に怒りと気が張り詰めはじめているのに。
「許さない!」
「うぎゃ」
瞬時に反転して相手を崩した瞳はアスファルトに思いっきり遊を叩き付けた。
はあはあ。
気絶している遊を見て、瞳はつぶやいた。
「役に立つかどうかわからないけど、少しは話が聞けそうね」
第26話 過ち
「く・・・ここは、一体どこだ」
男は目を覚ました。
ひどく頭が痛い。
それに、ひどく衰弱している。
体を起こそうとして、力尽きもう一度横になる。
布団に寝ているという事は、どこかの家なのだろうか?
ぼんやりと男は考える。
さっぱりと片付いた居心地の良い部屋。
見たことの無い部屋だ。窓も無いし、少し息苦しい気はするが。
そこまで考えて、男ははてと首をかしげた。
「どうしてこんなところにいるのだろう」
口に出した言葉は奇妙に反響して聞こえた。
「・・・そもそも、私は誰だ?」
つぶやく声には真剣さはあまり無い。
まだ頭が起きていないのかもしれない。
「わからない・・・」
不安はある。だが、そのことをそんなに大事には感じなかった。
「目が覚めました?」
正直、いきなり声をかけられた事の方がよほどこの男を驚かせた。
誰かが自分のほかに部屋にいるとは思ってもいなかったのだ。
「大丈夫ですか」
覗き込んだ顔はまだ少女といってよいだろう。
「あなたは・・・?」
「さくらです」
「さく、ら。名前ですか?」
男は妙な自己紹介だと思って聞き返す。
ところが少女は困ったように少し顔を伏せ、「それしか覚えていないんです」とつぶやいた。
「私と、同じという事か」
男は天井を眺めたまま思考を巡らせる。
「ここがどこかは知りませんか?」
「富士の近くだと言っていました」
言っていました。と言うからにはさくらは誰かに会った事があるのだろう。
「それでは他にも人がいるのですか」
「はい。私達を救ってくれた人です。でも、あまり多くの事を考えると体に悪いです。これを」
そういってさくらは赤い液体の入ったグラスを差し出した。
「何ですか?これは」
「栄養剤だそうです」
どぎつい色に男は思わず顔を顰める。
だが、さくらがじっと差し出したままでいるのでとらないわけには行かなかった。
「・・・これは」
一口飲んでそう唸る。味のベースはトマトジュースだろうが、衰弱していた体に活力がみなぎってくるようだ。
「美味い。それに、なんだこの湧きあがる力は」
「血は力の源ですから」
やけに平淡な声とその内容に思わず男はさくらを振り返る。
ぬらりとした気配が男を包む。
舌なめずりをするような女の姿には、先ほどまでのどこか悲しげで儚い少女の面影はなかった。
「血?これが血だと」
「くすくす。眠いですよね。これで、儀式はおしまいです」
さくらの言葉を聞くうち男の意識はまどろんでいく。
それでも懐を探り、さくらに向かって手を突き出す。
さくらは目の前に差し出された空手をそっとつかんで降ろす。
「まだ、体が覚えているんですね。自分が忍者だって事」
すでに気を失っている男を抱きかかえるようにする。
「火影。あなたの主は私。私を守って・・・」
ふっと首筋に口付ける。
「御意」
火影が目覚めてさくらに答えた。首筋には青く口付けの後が残っていた。
火影の瞳は何を見るでもなくぼんやりと濁っていた。
「どうした、さくら。気になる事でもあるのか?」
「何でもない」
闇の奥に座る壇上の男に向かってさくらは敬意も払わずに言ってのけた。
「やはりこの姿が、気に入らんのだろう」
男が進み出てくる。
「そうかも」
さくらはその姿を一時だけ見て顔をそらす。
「ふん。だがこの姿はお前とは因縁深い氷村遊の姿ではないか」
あの顔で笑われると異様にむしゃくしゃするとさくらは思う。
近寄ってきた男がぐっとさくらの顎をつかんで上向けた。
さくらは抵抗しない。
男が顔を寄せてくる、そして唇が触れそうになった瞬間思わず顔を背けていた。
「ふふふ。そうだろうともよ。だが、お前も知っているだろう。私には正しい体が無いのだ。乗り移るか呪による依り代(よりしろ)を作るしかない」
「分かってます」
「しかも実際の体を元にして依り代を作らねば、存在が危うくなる」
さくらは仏頂面を崩さない。
「まあ、道化も良いものさ。いろいろとな」
そして、にやりと笑うと付け加えた。
「それとも自分と同じ顔の人間がもう一人増えた方が良いか?」
「私には・・・答えられない。私は姉さんじゃないから」
男の言葉にさくらは顔色をなくして絞り出すように答える。
「ふっふはははは。そうだな、これは聞き方を間違えたのだろう。・・・ところで氷村遊が捕まったようだ」
「え?」
「まあ、私としてもまずいが、さくらにもまずかろう。彼奴が下手に命を失えば私達も道連れだ」
ちらりとさくらを見る。
「分かった。行ってくる」
「それがいい。・・・もうすぐだからな。この富士が大輪の花を咲かせるのも」
男の声にさくらは耳を背け、足早に出てゆく。
「どうしよう。どうしよう」
自分が何に対して言っているのかも分からぬままさくらはつぶやき続けていた。
第27話 対決
さくらが去ったのと入れ替わりに地面に影が落ちた。
「ようこそ、ラインヘル」
遊の姿を借りた男が笑う。
「ゼオ・クィドル。120年ぶりか・・・」
ラインヘルの顔は気難しそうに引き結ばれたままだ。
「私を呼び捨てにするとは偉くなったものだな」
その態度にむっとした様子でゼオと呼ばれた男が答えた。
「私の下僕に過ぎなかったお前がな」
その一言にぴくりとラインの眉が動くが、表情に変化は見えない。
「私が仕えたあの方はすでにない。お前はただの化け物に過ぎぬ」
「だが、私もまたゼオ・クィドルである事はお前も認めているではないか」
「・・・・・・」
「我々吸血鬼一族は二つの魂を持って生まれてくる。長い年月を生き、その二つが融合して死を迎えるのが大半ではあるが、中には別たれたまま死を迎える事がある」
ラインが何も答えないのを満足そうに見てゼオは続けた。
「そうなった時は、われらはもう一つの魂を持って蘇る」
「真正の化け物としてな」
苦々しげに付け加えるライン。
「まあ、それでも良い。要はゼオ・クィドルは自分の一生を満足して終えたわけではないという事だ」
馬鹿にするように過去を振り返るゼオ。
「紳士面をして生きた一生ずっと、私を押さえ続けていたのさ」
「口の軽い悪役は長くは生きれんぞ」
「ふ、今更お前とて知っている事だろう?たいしたことを話してやったわけではない」
「何をするつもりだ?」
ラインの質問に肩を竦めるゼオ。
「特に考えていないな。呪いが・・・私が死ぬ時にかけた呪いがどういう効果を上げるのか見物しているさ」
「呪いは、この後どうなる。かけたお前なら分かるはずだ」
「教えてやる義理はない。もっとも、私が義理を大切にすると思っていないだろうが」
「ならば、もう一度死んでその罪を悔いるがいい」
その言葉にまたゼオの顔が笑みに歪む。
「ほう、この私と一人で勝負すると?その老いぼれの体でか」
「そうだ」
「甘くは見てやらんぞ。私はこれでもお前を買っていたのだからな」
「やれやれ、少しは見くびってくれるかと期待していたのだが」
「余裕だなラインヘル」
ゼオがすっと近寄っていく。
それへどこから取り出したのかステッキを取り出し、突くラインヘル。
体をかわすゼオ。
だが、視界の中でステッキの先端が巨大化すると思った途端、ゼオは弾き飛ばされていた。
むっと顔を顰めるラインヘル。
くるりと舞って着地したゼオがにやりと笑う。
ステッキが見る見るしおれていく。
そしてそれを持っている腕までもが醜く節くれだっていく。
しかしラインがもう一方の手の平で自分の腕を押すように叩くと、その変化は見る見るうちに治っていった。
パンパンと余裕の表情で埃を落とすラインヘル。迎えるゼオもまた不敵で邪悪な表情を崩していない。
戦いは、かなりの間続いた。体術、そして自らの存在に宿した魔術を駆使して。
魔術はほぼ互角、体術ではラインよりも遊の体を使うゼオに分があった。
だが、それでもラインは徐々に相手を追い込めていく。
120年のブランクか、技の組み立て狡猾さという点でラインが上回っていたのだ。
「どうやら、そろそろ私の孫の体を出ていってもらう時がやってきたようだ」
ラインは動きが鈍くなったゼオを眺め、『ちびきのいし』を元に戻す呪文を唱えはじめる。
「まさか、あの岩を元に戻すつもりか?」
引き寄せられる力が強まったのを感じて、初めてうろたえた声を上げるゼオ。
「また同じ事が起こらぬように、今度こそ壊れぬように結界を張ってやろう。おとなしく冥界に行き罪を裁かれるがいい」
「待て、もし今封じたらお前の孫は死んでしまうぞ」
ラインは命乞いとは哀れなものだとゼオに目を向けた。
「遊が死ぬとでもいいたいのか。だが、体を借りて依り代としているのは御主の方だ。その体ごと石に封じても滅びるのは御主だけだ」
ゼオがにやりと笑った。
「ちがうわ、もう一人の孫の方よ!」
「何?」
ラインの脳裏に、さくらが殺生石に手を伸ばすシーンが浮かび上がる。
そして、自分がたどり着いた時には誰もいなかったぱっくりと割れた殺生石。
まさか・・・・・・。
「かかったな!」
それは一瞬の夢想だった。
だが二人の戦いにおいてはその一瞬の隙が戦局をひっくり返す要素になり得るのだった。
ゼオは自分を送り返すべくラインが唱えていた呪文をそのまま利用し、ラインへと突き返した。
「う、ぬあっ」
自分の力と、ゼオの力に一瞬だけ抵抗したラインの姿は白い光の中に消えていった。
「くっくっく。ふはぁっはははははは」
そこにはゼオの長い哄笑が響き渡っていた。
富士の某所。
殺生石は、『割れていない』
第28話 友愛
「追手は来ない?」
弓華は、だいぶ森の中に入り込んでからようやく走るのを止めた。
流石に奥まで入り込んでしまっただろうか、ここでは自分の感覚はあまりあてにならない。
方位磁石も役に立たないし鬱蒼と茂った森の中では遠くを視認する事も出来ない。
ましてや、すでに夜も深くなってきている。
とりあえず、野宿せざるをえなかった。
このままでは自分が行方不明になってしまう。辺りの木々で体中を傷つけてしまっていた。
木に寄りかかって体を休める弓華。
その目を何かの光が打った。
「なに?」
地面の何かが月の光を弾き返していた。
弓華は近寄ってみる。
「これは……狼牙丸」
火影の物だった。彼が持っていた物に間違いない。
「血糊が付いてる……」
べったりとついた血糊に、弓華の表情が痛々しく変化する。
ぎゅ。
持っていたリボンで狼牙丸を体に縛り付ける弓華。それが火影の元に導いてくれるような、そんな期待とも言えない物を抱いて。
「無事でいて、火影」
疲れきっているのに、弓華はまだ、休む事は出来なかった。胸の奥が痛くうずいていたから。
かちこちかちこち。
小鳥は規則正しい音にふと手を止めて時計を見上げた。
もう11時だった。
明日は自分の誕生日だ。
真一郎も唯子もいない誕生日はどれぐらいぶりだろう。
もちろん、二人とも今日のうちに小鳥におめでとうを言ってくれている。
それに明後日には唯子の時と同じようにいづみも交えてパーティを開いてくれる事になっていた。
「なんで不安なのかな?」
父親とする誕生日は不満ではない。それよりも久しぶりに父親とゆっくりできる事に小鳥は喜んでいる。
小鳥は今の時間までずっとしていた事を振り返る。
もうすぐ役に立たなくなりそうな毛糸で編んだマフラー。
別に、特に使うつもりがあるわけではない。
ただ、一人でいる事を考えたくなかったからだ。
「私、なにやってるのかな」
小鳥は編みかけのそのマフラーを引っ張ってほぐしてしまう。
「もっと使える物を作らなくちゃ。そうだ唯子に指先の無い手袋を作ってあげようかな」
小鳥は一人、夢想する。
「やっぱり、やめとこ。御風呂入んなくちゃ」
小鳥はそうして、昨年から壁に掛かったままの小鳥には大きく、父親には小さいセーターを眺めた。
ごそごそ。
唯子が明日の用意をしている。
服を引っ張り出してはうーんと唸ってまた他の服を取り出す。
実を言えばさっき部屋の中を片づけたばかりなのだが、これではまた同じ事をしなくてはならなそうだ。
「しんいちろと二人きりなんて、めったになれないもんね」
口で歌うように言ってから、当然のように唯子はその理由を思い出した。
「しんいちろに、相談しようかな」
バッグの中から一通の手紙を取り出す。
「唯子、ほら起きてよ」
「んー、んにゃ眠いよ小鳥」
「いつもジョギングしてるんでしょ」
「だって、今日はお休み」
「学校あるよ!早く行かないと遅刻しちゃうよ。しんくんももう起きてるし」
「しんいちろ?」
「そうだよ、家に帰って制服とって来なくちゃ行けないでしょ」
「そうだった・・・でも眠い・・・・・・」
「もう唯子ったら。私食事の用意してくるから、ちゃんと起きてるんだよ」
「ふにゃあい」
「ん?ん・・・あれあの珠はどこいったかな」
きょろきょろ。
「あ、あった」
ぱしっ。きぃんからん。
「あっちゃあ、ごみ箱に落ちちゃったよ」
「あれ?どこに行ったのかなあ・・・もう、逆さにしちゃえ」
ばさばさ。
「あれ、これ」
封筒とその中から覗いた手紙が唯子の目に留まる。
「だめだなあ、小鳥。ダイレクトメールでもないのに捨てちゃうと後で困るよ」
ぱらっ。
手紙を持ち上げた時、中が少し読める。
「え?これ」
いけないと思いつつ、唯子はその手紙を最初から読み直した。
「小鳥、あの調子じゃ読んでないよね」
中も読まずに捨てるつもりだったに違いない。
そう思うとおせっかいとは思っていてもそのままにしておくことは出来なかった。
「でも、置いてくる方が良かったかな」
小鳥が、思い直して読んでくれるのが一番いいから。
でも、ここで見て見ぬふりをしたら唯子は二度と親友を真っ正面から見る事が出来なくなる。
そう思って、唯子は手紙を無断で持ってきたのだ。
たとえ、小鳥に嫌われてもそれはそれで仕方ないと思って。
それでも、いざとなるとなかなか小鳥に話を切り出すのは難しかった。
「16日までには何とかしなくちゃ」
もう一度唯子は手紙に目を落とす。
何でもない事を付け加えたように最後に書かれたその言葉。唯子が目にし、ほうっておけなくなった言葉だった。
――私は16日に、心臓の手術をする事になりそうです――
第29話 戦いの気配
明かりがともりはじめ、再び街は新しい顔で活気にあふれていく。
「平和だな」
いづみは行き交う人々を見ながら、口の中でそうつぶやく。
昨日の騒ぎなどまるで忘れてしまったような人々に、いづみは苛立ちを押さえ切れない。
「戦う事を忘れた人達。私達はそのためにこそいるとはいえ、なんだかやりきれないな」
そう愚痴ってから、まだまだ修行が足りないなと少し反省する。
だが、こんな日ぐらい息を抜かないと壊れてしまいそうだ。
幸い、今日のバイトで結構色もつけてもらったし懐は暖かい。
「くら屋のきつねうどんでも食べて行こうかな」
くら屋は有名なうどんの専門店だ。
美味しくていづみも大好きなのだか、少しばかり高いのが玉に傷。
久しぶりに食べるくら屋のうどんにうきうきしていたいづみが、暖簾をくぐろうとした瞬間だった。
背後を風のようにすり抜けていった者があった。
はっとして振り返ったいづみの目に、駆け抜けていくさくらの姿が映った。
「あれは…それにその前にいるのは、火影兄様」
何故追うのか考える間もなく、いづみは走り出していた。
「さて、では話していただきましょう」
「その前に、この姿を何とかしろ!」
遊が帯で両手両足縛られて転がされている。
場所は学校の道場だ。
「何ですか?」
睨み付ける瞳は吸血鬼の遊がびくりとなるほど威圧感に満ちていた。
「そ、そうか。これは君の趣味なんだな。いやあ、悪いけど僕にはこんな趣味はないんだ。好きなのはうれ……」
ごつっ!!
「私にそんな趣味はありません!」
「じゃあ何の冗談だ。これは人権蹂躙だ」
はあ、この馬鹿は何を言うのだろう。
「冗談なんかじゃありません。あなたが知っている事をきっちり教えてもらいます。素直でいないと腕の1、2本は覚悟してもらいますよ」
「ごくっ。な、何を知りたいんだよ」
「吸血鬼の事を、聞かせて欲しいの」
遊の顔が少しだけシリアスに引き締まる。
「なんの話だか、さっぱり…」
ぐきっ。
「ぎ、あっ……かは」
「話す気にはなりませんか」
「だ、だからなんのことだか…」
「そうですか。ところで吸血鬼がにんにく嫌いなのって本当なんでしょうか」
静かに言い出した瞳に遊の顔が青ざめる。
「そんなのでたらめだ!大体そんなのはわざと私達が振りまいた嘘さ」
「へえ?そうですか。わざわざ吸血鬼に対するでたらめを広める意義があなた達にはあるんですね?」
そうして瞳は用意しておいたにんにくを持ってくる。
瞳は笑っていない。
「私は、大事な約束を吸血鬼の女性に汚されました。そのけじめをつける為には冷酷になります」
そして、にんにくを遊の目の前に持っていく。
「や、やめろう!」
「何故です? 吸血鬼でもなければ、吸血鬼にも効かない物なんでしょう?」
「だ、だからに決まってる! にんにくを食べられないと怪しまれるって言う事で子供の頃無理矢理食べさせられ続けたんだ。それ以来、結局にんにくが駄目で…」
瞳があまりの馬鹿さ加減に表情を凍らせる。
遊はじん麻疹が出ていた。それが嘘か本当かは瞳には区別が着かなかったけど、なんとなく瞳には本当の気がした。
「…どちらでもいいです。それじゃこれ以上されたくなかったら話してもらいましょうか」
「わかった、わかったからどけてくれえ!」
泡でもふきそうな様子だったので瞳はにんにくを遠ざけた。
一応吸血鬼を相手にするかもしれないという事で他にも十字架、杭などを瞳は用意していた。
ただ、現実の吸血鬼にどこまで効果あるのか疑問だと思っていたが、とりあえず遊には効いたようで瞳は少しだけほっとする。
「それで、あなたに聞きたいんだけど10日の夜にこの辺で人を襲った吸血鬼を知っている?」
「さくらだよ。この学校にいるだろう? 綺堂さくら。一年じゃ評判の美少女ってね」
「綺堂さん?」
瞳はかすかな記憶を思い出す。
図書館で時たま会った寂しげで儚げで、でも強さを感じさせた少女の事。
『あの人ですよ。綺堂さくら。お高くとまって男の子の告白を片っ端から断ってるって…』
教えてくれたのは、物見高い一年生の女の子だった。
確かに、大賀さんに聞いた人物像に合うけど、本当にあんな子が…?
「信じられないか。あいつはとんでもないやつだからな。みんなを騙して裏ではとんでもない事をして…」
なんだか不愉快で、瞳はにんにくを再び遊に突きつける。
「ぐああっ何をするんだ」
「余計な事は聞いていません。それでは次の質問に答えてもらいますよ」
遊がひーっひーっとうめきながら顎をがくがくさせる。
「他の吸血鬼にはにんにくが効かないというのは本当?」
「本当だ。というより全部平気さ。日光には多少弱いけど人間にだっているレベルだ」
遊が嘘をついているかどうかじっと見詰めるが、これも瞳は信じてよいのではないかと判断する。
「と言う事は十字架も杭も?」
「杭なんか心臓に打ったら誰だって死ぬだろ!」
…それはそうね。
なんだか遊のせいで自分までが馬鹿になってしまったような気がしてげんなりする。
「…でも、一度死んだやつなら十字架とにんにく以外なら効果的だが…」
言ってからはっとしたように辺りを見まわす遊。
「…一度死んだ?」
「……」
だんまりを決め込む遊に再びにんにくを近づけようとして瞳は立ち上がる。
「そこまでです。千堂先輩」
道場の扉が開いて、夜の不穏な空気と一緒に、さくらの声が中に入り込んできた。
第30話 影に生まれたもの
瞳はごくりとつばを飲み込んだ。
ちらりと遊を見る。
こんなまがい物のような男より、さくらの姿にはよっぽど本物の空気が漂っていた。
「あなた…本当に綺堂さくらさん?」
「…私の名前をご存知だったんですか。話すのは初めてだと思いましたけど」
「あなただって私を知っていたでしょう?」
「先輩は有名ですから」
「あなたも、有名ですよ綺堂さん」
顔を俯けるさくら。
「ろくでもない噂でですか?」
「…本物なんですね」
瞳はなんだかとっても残念だった。少女が纏う雰囲気は、昔の自分に良く似ていたから。こんな状況でなければ友人になれたかもしれないのに。
「…私は、正確には綺堂さくらじゃない」
「え?」
違うとしても本当に答えるとは瞳は思っていなかった。それを期待していながらも。
「私は、影の妹。綺堂さくらと常に共にいた影のような存在」
「おい、何を二人で悠々と話してるんだ。いいかげんにこの帯を解け」
恨めしそうに、遊を見るさくら。
「この男がいなければいずれ私達は一つに解け合って死ぬはずでした」
「お前は俺には逆らえないはずだろうが。さっさと何とかしろと言っているんだ」
瞳が無言で遊を踏みつける。
「○×▲!」
遊は静かになる。
「でも、出てきてしまった以上、私は私です。解け合う時を待って姉さんの奥でずっと眠るのはもう嫌」
「じゃあ、あなたが大賀さんを襲ったのね」
なんだかわからない事だらけだったが、瞳は静かにさくらの言い分を聞いてから言った。
「大賀?」
「こういった武術を使う人よ!」
手加減など微塵もせずに渾身の一撃を放つ。
だが、それがさくらに届く事はなかった。
無言でさくらとの間に立つ男がいた。瞳の腕を軽く押さえたまま身動き一つしない。
「ありがとう、火影」
それから驚きで固まってしまった瞳に声をかける。
「わかった。確かに私が相手しました。…弁解するつもりはないです。でも、出来るなら千堂先輩と戦いたくない。私の知る人が目の前で死ぬのは嬉しくないから」
「…そう言うわけにはいかないわ。私にも大切なものがあります。ここまで来たら引くわけにはいきません」
ようやく声を絞り出す瞳。
「離してあげて、火影」
ずっと握りっぱなしだった瞳の腕が色が変わっている。
ざあっと流れ込む自分の血潮が熱く感じる。
「何故、大賀さんを?」
「寄る身が欲しかった。私は、この世界のどこにも寄る身が無いから……」
「だからって、血を吸ったの?」
「少しだけでも、不安をなくしたかっただけ。自分がここにいる事の」
「そのせいで、大賀さんは老人のようになってしまったのよ。しかも、日に触れられないような体にして!」
「え?少し気を失うぐらいにしか私は吸ってない。それに、その症状は…」
さくらの目が見開かれ、その視線が遊に向く。
「遊、馬鹿やってないで変化して逃げなさい!」
「そうか!」
その途端に遊が姿を消し、帯がはらりと道場に舞い落ちる。
「コウモリ?」
「くそっ、さんざんよくもやってくれたな」
コウモリが瞳に人の言葉で話し掛ける。
ああ、本当に本物なんだ。
「遊、逃げなさいと言ったはずよ。ゼオ様が怒ってるわ」
「くそっ」
窓から、遊が飛び出していく。
「あっ、しまった」
瞳が後を追おうとするが、目の前にさくらが立ちはだかる。
「追わせませんよ」
拾い上げたにんにくを瞳は投げつける。効くと思っての事ではない、ただの目くらましだ。
「こんなのが聞くのは、遊だけです」
だが、さくらはそうとらなかったらしい。それを受け止め、辺りを見回して十字架を見つけ出した。
ぐにゃ。
十字架がさくらの手の中でゴムのように姿を変えた。
「私は化け物です…。これ以上何もさせないで」
瞳が気おされて動けなくなる。
「ちょっと待った」
その時外から声が掛かった。
「御剣さん?」
「千堂先輩。すいません、余計なお世話かもしれないけど、どうやら私も関係者みたいですから」
火影は妹の登場にも全く心を動かした様子はない。
退路を断ったいづみはさくらに尋ねる。
「火影兄様に何をした?」
「あなたのお兄さん。と言う事はあなたも御剣の人間…」
さくらの瞳がすうっと細くなる。
「危ないっ!」
かろうじて瞳が金縛りを破って声を出した。
「きゃあっ」
だけど、悲鳴を上げて退いたのはさくらの方だった。
手に深い傷を負って血を流している。
信じられない顔で見上げるさくら。だが、傷つけた当人の方が、もっと信じられないといった顔をしていた。
「なんだ、今のは。まるで…」
体の周りに障壁のようなものが、と言いかけてそこでいづみの言葉が途切れる。目の前に火影が立ちはだかったからだ。
「くっ、兄様」
火影が無手でいづみに襲い掛かる。
とっさに受けようと八房を構え直すがそのまま押されて転倒する。
それを見てさくらが手を押さえたまま逃げ出した。
その傷は火影がつけたもののようにはすぐに治っていかない。
「待ちなさい!」
瞳が追いかけようとするとその前にいづみを叩き伏せて戻った火影。
「くっ」
瞳が壁に掛かっていた根で火影に打ち掛かる。
跳んで避ける火影。そこへいづみがどこから出したのか手裏剣を投げたが、すべて手甲で受け止められる。
それどころか即座に投げかえされ、いづみの頬をかすめた。
その一挙動の後、地面に伏せるような足払いを瞳に放つ。
速くて鋭い蹴りに瞳の体が宙に舞う。
そして二人が体勢を立て直した時には火影もさくらもいなくなっていた。
夢を見ていた。
子供の頃の夢。
「私、弟が欲しい」
こういったのは誰だっけ。
ああ、私だ。
私が、お母さんに頼み込んだんだ…。
「あら、それは困ったわね」
懐かしいお母さんの声。
大好きだったお母さんの笑顔が見える。私のわがままに困ったようにけれども優しく微笑んでいる。
「だめ?」
「ううん。お母さんも家族はいっぱいの方が好きよ。家族みんなで、わいわい過ごすのはお母さんの夢なのよ」
お母さんは笑い、私の顔を手で挟み込んだ。
「でもね、小鳥。子供は神様からの大切な授かり物なの。だから、大事にしてくれる人でないと子供は出来ないのよ」
「そうなの?」
くす、とおかしそうに笑う。
「そうよ。私達が小鳥を大事に思えるから神様が小鳥を授けてくれたの。だから、小鳥とお父さんお母さんが大事に思うならきっと弟や妹も出来るわ」
「うん、私弟が出来たら大事にする」
「そう、いい子ね。きっと神様もその気持ちを聞いてくれるわよ」
お母さんの嬉しそうな顔。私の覚えてる限り一番幸せそうな顔だった。
「ごめんね、小鳥」
お母さんはそう言った。
『りゅうざん』
子供の私には聞きなれない言葉だった。
その上、お母さんがもう子供を産めなくなった事が私には理解できなかった。
ただ、もうすぐ生まれてくるはずだった弟が、もういないんだなという事はわかった。
凄く悲しくて、私はお母さんがそれ以上に悲しんでいるのに気づかなかったんだ。
「ごめんね小鳥」
お母さんはもう一度繰り返した。
何かが、抜け落ちてしまったんだと思う。
お父さんは、この頃良くお母さんの側に付いていた。
けれどお母さんがあの笑顔を見せてくれる事はもう無かった。
笑う時はいつも寂しそうに微笑んでいるようになった。
「お母さん」
「なあに小鳥」
何も変わらないお母さんの声。
私は自分の不安を何といっていいのかわからなくなってしまう。
「ううん、何でもないよ」
「そう」
また、あの微笑みを残してお母さんは虚空を眺めている。
赤いカーネイション。
「お母さんにあげるの」
お小遣いを溜めて、母の日にカーネイションを買った。
「お母さんも喜ぶわよ」
花屋のお姉さんがそう言った。
「うん」
本当にそうだったらいい。
花を渡すとお母さんは満面にみんなを元気にするような微笑みを浮かべて「ありがとう」って、そう言ってくれると良い。
「早く帰ってこないかな」
私はそわそわと台所でお母さんの帰りを待つ。
だけど、その日。
ううん、それからお母さんは帰ってこなかった。
手紙が残っていた。
ほとんどはお父さんに向けた言葉。
そして最後に、お母さんは私に一言だけ。
『ごめんね、小鳥』
どうして!
私はただ、お母さんの笑顔が見たかっただけなのに。
嫌だよ、寂しいよ。
笑っていて、お母さん。ごめんなんて言わないで…。
お母さん!
はあはあはあ。
寝汗でぐっしょりになっていた。
「みんなに、笑っていて欲しいよ私は。だから、このままの関係が一番だよね」
嫌でも目に入るセーターにそうつぶやく小鳥は知らないうちに涙を流していた。
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