とらいあんぐる八犬伝

 

第41話 魍魎

 
 広い畳敷きの部屋で、さくらは目を覚ました。
「私、ほっとして寝ちゃったんだ」
 体を起こしてみる。
 昨日より、大分ましだ。
 でも、ここはどこだろう。
 ちっとも見当がつかない。
 ただ、それほど富士から移動しているとは思えなかった。
 こうして考えている間にも、一度例の地震が起こったし、それほどの距離を移動させる理由はないはずだ。
 辺りを見回して、近くに置いてあったりんごを手に取る。
「用意して行ってくれたんだ。あの人」
 しゃく。
「美味しい……」
 食べおわって、ぽてっと、もう一度さくらは横になる。
 体力回復させないと、今動いてもどうにもなんないな。
 ぼうっとして、寝転がっていると、考えるのは彼女の事。
「……私なんだ」
 自分が強いと思った事など無いけれど、それでも、ショックだった。
 追い込まれた時、私は悪い事だって知っていても、そうしてしまえるんだ。
 なんだかひどく悲しかった。
 理性的でいられる人間だと思っていた。
 残酷なほど、辛い判断を出来ると思っていた。
 結局、私はただの普通の人に過ぎないんだ。
「偉そうな事、先輩に言っちゃった……」
 先輩、私は……。
「違う! 私は普通の人かもしれない。そのことを否定したりしない。でも、そんな事で諦めるのは違う」
 先輩。
 私がどれだけ先輩に感謝してるか、どれだけ先輩がいる事で救われてるか、先輩は知らないですよね。
「私は、あの子を信じてあげなくちゃ。あの子も、私なんだから」
 気分が大分楽になった。
 不安がなくなったわけじゃない。
 でも、信じる事は出来る。
「大丈夫。私は絶対」
 さくらは、笑みを浮かべる。
 でも、もし、万が一。
 私が先輩に手をかけるような事があったら……彼女は私の手で。
 
 ずずず。
 さくらは突然感じた気配に驚いて辺りを見回す。
 ちびきのいしが、開いた?
 ずずず。
 また、今度は逆の力を感じる。
 閉じたみたい。
 でも、今の感覚変だった……。
 まるで、こちらから死者があちらに出て行ったような……。
 まさか……。
 
 
 瞳は、きらきらと輝く空間をさまよっていた。
 幻想的というより、幻惑的って感じね。
 あまりの寒さに、体が自然に震えて止まらなくなる。
 ダイヤモンドダスト。
 お目にかかったのは初めてだった。
 空気中の水分が凝固してきらきらと舞う現象。
 森の中に入って、そう経たないうちに辺りはそれに包まれていた。
 にゃーお。
 びくっ。
 突然、ネコの鳴き声が聞こえて瞳が体を震わせる。
 ネコ?
 ううん、絶対今のはただのネコじゃない。
 だって、とんでもなく大きな鳴き声だったもの……。
 にゃあー。
 今度は上からその声が降ってきた。
 とっさに、横に飛んで避ける瞳。
 そして、自分がいた所に視線を向けて、絶句する。
 体長5メートル近くある巨大なネコ。
 虎とか、ライオンじゃなくて、間違いなく、それはネコだった。
「しかも、三毛……」
 センスの悪いB級ホラーの世界だ。
 でも、間違いなく、現実。
「ひっ」
 その上こちらに向いたネコの顔が、半分だけでもう一方は車に轢かれたみたいにぐしゃぐしゃなのも。
 ぞくっと恐怖と寒さで体が固まる。
 ふーっ!
 ネコが怒りの声を上げて瞳に前足を伸ばしてくる。
 我に返って瞳が避けようとするが間に合わない。
 左腕をひっかけられて、木に激突する。
 一体何?
 なんで、急にこんなものが出てくるようになったの?
 ここは現代日本だって言うのに。
 ネコに向かって叫んでやりたかった。
 それでも、目の前のネコは容赦してはくれないだろう。
 瞳は辺りを探って、手にかかったものを目の前に持ってくる。
 明かりの棒だ。
 近くの木と打ち合わせて見る。
 コン。と高い音がする。
 そこそこ、固そうね。
 ネコはまた、いたぶるように瞳に前足を伸ばしてくる。
 1……。
 2……。
 3!
 ぶんっと瞳は棒をネコの目めがけて投げつける。
 ぎにゃあああっ!
 見事に、それは目に刺さる。
 ネコがすさまじい声を出して暴れ出した。逃げだそうとして失敗した瞳は目を閉じて小さくしゃがみこむ。
 まともに、一撃当たったらおしまいだ。
 そんな中での一時は、瞳にとって永遠にも近い長さを持っていた。
 そして、ようやくネコの声が止んで、瞳が恐る恐る目を開けて見ると、そこには普通の大きさのネコが哀れな姿をさらして死んでいた。
 ほっとして、体中の力を抜く瞳。
「いかにも、吸血鬼と対決って雰囲気になってきたわね」
 強がって言う瞳の声には、疲れと震えが混じっていた。
 よろよろと立ち上がり、辺りを見回す。
 このネコはどこから来たのだろう。
 この辺りに、何かあるのかな。
 とりあえず、そろそろ帰らないと。
 瞳はその場所を覚えておくことにして、御剣の家までの帰路についた。
 偶然なのか、その場所は前日弓華が死者にであった場所でもあった。
 
 
 さっきまで何かが暴れていたような跡があるけど。
 なんだろう?
 ななかは、大木がなぎ倒された情景に、まさかネコが暴れたのだとは考え付かなかった。
「ここか、弓華」
「ええ、でも何か荒らされてます」
 大輔と弓華は、場所を確認している。
 しばらく周囲を眺めた後大輔はふんと鼻を鳴らした。
「ここ……だな?」
 そう言って手を何も無い虚空に伸ばす。
 すると……。
「大輔さん! 手が」
 大輔の手が途中から空気に溶けるように消え去っている。
「まやかし、さ」
 ぐうんと大振りに大輔が手を動かすとそこにいきなり洞窟の入り口が現れた。
 あまりの出来事に、口もきけない弓華とななか。
「さあ、行くか」
「ち、ちょっと待ってください」
「なんだ、ななか」
「一体これは何ですか?」
「霧が晴れたようなものだ」
「全然説明になってないです」
「ち、仕方ねえな。代われ」
 大輔が意味不明な事を言ったかと思うと、混乱して泣きそうになっているななかをつかんでぐっと引き寄せた。
「む、ぐ。ううーーーー」
 ななかは、何度かこれまで感じた事のあるその感触にすっと緊張を解いていく。
 弓華がすっと目をそらす。
 私のいない所でやってください。大輔。
「少し、変に見えるかもしれないがよ。大丈夫だから、ななか。俺を信じて付いてきて欲しいんだ」
「はい……」
「少ししたらまたいつもの俺に戻るからさ」
 柔らかい微笑みを投げかけられたななかは1も2も無く肯いていた。
「大輔さんがそう言うなら」
「ありがとな」
 くしゃくしゃとななかの髪をかき混ぜる大輔。
「それでは行きますか?」
「ああ、行くぞななか」
「はい」
 3人が、洞窟へと入り込んでいく。同じくそこへ踏み込もうとする静花。
 だが、その前で大輔が手を振った。
「これ以上、一般人を巻き込むわけにはいかないんだ。そこで、いづみ達を待っててくれ」
 洞窟の景色が静花の目の前で霞んでいく。
 静花が、たどり着いたと思った瞬間辺りは元の森の中だった。
 

第42話 忠

 
 ちりんちりんちりん。
「はーい。少し待ってくださいね」
 呼び鈴を押すと軽やかな音と女の人の声が聞こえて来た。
「凄い家だね」
 唯子はびっくりして屋敷をきょろきょろと見回している。
 御剣の家は、真一郎達に驚きを与えるに十分な門構えだった。
「本当だね」
 小鳥が同じように辺りを見回して言う。
「呼び鈴までなんか、奇麗な音だったな」
「でーも、寒いよ。かなり」
 十分厚着してきたつもりだったが、この寒さはちょっと尋常じゃなかった。
「ああ、そうだな。ふぅぅぅぅぅ。早い所暖まりたいな」
「真くん、大丈夫?」
「小鳥のほうこそ、大丈夫なのか? さっきから震えっぱなしじゃないか」
「大丈夫、それにもうすぐ中に入れてもらえるよ」
 小鳥の言葉が合図だったみたいに、目の前の門がすっと開いていく。
 古めかしい木の鳴る音を想像していた真一郎はすこし、意表を突かれた。
 でも、良く考えれば、それは門にも手入れが施されているという証なんだろう。
「やあ、よく来たな相川」
「ああ、早く入れてくれー」
 出てきたのはいづみだった。
「唯子もいるよー」
「ああ、わかってるよ。それに野々村もな」
「こんにちわ、御剣さん」
「こんにちわーはいいから早く入れてくれってー」
「悪い悪い、確かに寒かっただろ」
 いづみが3人を中へと招き入れる。
「ああ、死ぬかと思った」
「唯子もー」
「暖かーい」
 中に入ると、適度に暖められた空気が3人を包み込む。
「それじゃ、部屋まで案内するよ」
 3人の様を見て笑いながら、いづみが促す。
「はーい」
「お邪魔します」
「こんにちわー」
 玄関で靴を脱いで、ぎしぎし言う廊下に上がっていく。
 なんで廊下の方はぎしぎし言うんだろうなあ?
 真一郎の素朴な疑問は心の中だけで言われたので、その理由を聞く事はなかった。
 
 とりあえず、少しは気が紛れたみたいね3人とも。
 ふう、こっちが緊張しちゃっていけないわよ。
 寒さは私には感じないからね。
 でも……これは生身の良い所かな。
 どんな時だってお腹は減るし、痛い事、心地よい事は心と関係無く起きる事もある。
 でも、それが救いになることもあるんだから。
 一時の救いでも、ね。
 
「こんな豪勢なもの食べていいのか?」
「なんだよ、せっかく招待してやったんだ。食べないんならそれでもいいけどな」
 目の前の膳には所狭しと料理が並べられている。
 すべて日本料理だけど、本当にいろいろな種類の物がある。
「こんなの悪いよ」
 小鳥はすっかり恐縮しきってる。
 目を輝かせているのは唯子だけだ。
 と言うより、よだれでも垂らしそうだな、こいつは。
「早く食べようよー」
「そうだぞ、相川。感謝の気持ちなんだから、受け取ってくれ」
「それに野々村の誕生日パーティでもあるんだろ? おっとまだ言ってなかったな、誕生日おめでとう」
「ありがとう。御剣さん」
「わかった、わかった。そうだ、こいつがあったんだ」
 ちょっと場違いなケーキを出す真一郎。
 家で作って持ってきたのだ。
「しんいちろの作ったケーキ?」
「弟子が師匠に腕試しするみたいなもんだ」
「あはは、では、腕前を見てしんぜよう。かな」
 小鳥まで、真一郎の台詞にのってくる。
 用意されていたロウソクを立てて部屋の明かりが消される。
「こういうのは雰囲気が大事なんだよねー」
「そうそう」
 照れている小鳥に唯子といづみが両側から話し掛ける。
「それでは、小鳥の誕生日を祝って」
「「「誕生日おめでとう」」」
 真一郎の言葉に続く3人が唱和する。
 そのまま、ハッピーバースデーに場が流れていく。
 誰にも知られていなかったけど、七瀬もひっそりと小鳥の誕生日を祝ってくれていた。
「ありがとう、みんな」
 小鳥は、みんなの息のあった祝福に胸が熱くなる。
「それじゃあ、食べよう」
「よし、じゃあ、切るな」
 いづみが少し危なっかしい手付きでケーキを8等分する。
 真一郎のケーキ。いいなあ。
 七瀬がそれを見ながら思いっきり涙目だ。
「全員行ったな」
「うん、でも唯子もう一つ欲しいな」
「一つ食ってからにしろ」
「はーい」
 許してもらった事が嬉しいのか、にこにこ笑って唯子がケーキを食べはじめる。
 小鳥も、ケーキに手を付ける。
「真くん。美味しいよ」
「そうか良かった」
 小鳥の微笑みに、いつもの空気を感じて真一郎はほっとした。
 
「えーと、ところで話があるんだが、良いか?」
 1時間ぐらい、食事したりしゃべったりして過ごしてから、いづみがおもむろにそう言い出した。
「なーに、いづみちゃん」
「御剣さんかしこまってどうしたの?」
「なんだよいづみ」
 同時に話し掛ける真一郎達にいづみはちょっと気圧される。
「いや、この珠を相川達は見たこと無いか? 中の文字は別に違ってもいいんだ」
 八房の柄にはまった[忠]の珠を見せるいづみ。
「あ、それは」
 唯子が真っ先に声を上げた。
「しんいちろ、いづみちゃんにも上げたの?」
 唯子は少し不機嫌な顔だ。
「な」
 なんの話だと言おうとして、真一郎はようやく思い出した。
 小鳥と唯子にこれと同じ物を上げたのを。
 そして、ハチと小鳥との悲しい別れも。
 小鳥を見ると案の定、固い顔をしている。
「違う、これは御剣の家に代々伝わってるものなんだよ」
 いづみがフォローを入れたので、特に唯子の言葉には突っ込まず真一郎は七瀬の珠を取り出した。
「これでいいなら」
「それは、ちょっと貸してくれないか?」
 いづみは興奮していた。
 好きな人が自分と同じ物を持っている。なんだか、凄く嬉しかった。
 近づけて見ると、瞳の珠と同じくそれは淡い光と音を発した。
「ほえ、凄いね」
「それどうして?」
 小鳥はまだ表情を凍らせていたものの、不思議と見えていづみに尋ねる。
「どうしてかはわからない。でも、唯子と野々村も持ってるのか?」
「うん、持ってるよ。これでしょ?」
 唯子が自分の珠を取り出す。
 近づけると、更に光と音は強さを増した。
「これは、本物だな」
 いづみの、そして真一郎の視線を受けて小鳥が目を逸らす。
「私は持ってないよ……」
「そうか、それはある意味良かったかもしれないな」
 ほっとして、いづみがそう口にした。
「どうしてだ?」
「いや、実は……」
 いづみは少しためらいながら、御剣家の過去について、そして今また吸血鬼が人を襲いはじめている事を語った。
 それを聞いて蒼くなったのは真一郎だった。
 さくら?
 まさかそんなはずは……。
 もちろん、いづみの話ではそこの所はうまくぼかされていたけど、真一郎にはやっぱりさくらの事は気にかかってしまう。
「そこで、力を貸して欲しいんだが……野々村には荷が重そうだからな。だから、持ってなくて良かったって言ったんだ」
 小鳥はそれを聞いて、仕方ない事なのに疎外感を感じて、出せずに手の中にしまい込んだ珠を更に強く握り締めた。
「吸血鬼? うーん、いづみちゃんの頼みなら協力するけど……ちょっと怖いなあ」
「唯子は結構怖がりだからな」
 真一郎は例の痴漢事件を思い出す。
 本当なら真一郎より強いはずの唯子がただの痴漢に、逃げ回るしか出来なかったのだから。
「また追い払ってやるから気にすんなよ」
 今度は実際そんな事が可能なのかはわからなかったけど、真一郎にとっては大事な妹分だ。カッコ付けないわけには行かない。
 でも、やっぱり気にかかるな。あの男の事もあるし、後でさくらに連絡とってみるかな。
「それでちょっと、相川に聞きたいんだが。綺堂さくらって知ってるよな」
「!」
「さくらちゃん?」
 声も出ない真一郎と、何故さくらの名前が出てきたのか驚いている小鳥。
「ああ、野々村も知り合いだったのか……」
「ちょっと待ったあ」
 いづみが先を続けようとしたので、真一郎は慌てていづみの腕を取って廊下に連れ出す。
 
「ふう、ここまで来れば」
 いづみを引っ張ってきた真一郎はひざに手をやって下を向いた。
「すまない、相川。余計な事を言ってしまう所だった」
 いづみも、自分が何故連れ出されたのか知って真一郎に謝る。
「だけど、こんなことをしたってことは、本当にあの綺堂さくらって子は」
「そう、だよ。さくらは吸血鬼だ」
 真一郎は誤魔化しきれないとみて、苦々しく答えた。
「じゃあ、あの時のはやっぱりそうだったんだな」
「あの時?」
 気にならないわけが無い。
 後ろでは七瀬も聞き耳を立てている。
「またちょっと長い話なんだが……」
 瞳とのことを含めて聞かされた真一郎は即座に「違う」と言った。
「でも、私はあの時と同じ奴だったのをちゃんと見てるんだ」
「それでも、何か事情があるんだ」
「やけに肩を持つんだな」
「さくらはそんな事しないって知ってるし。借りだってあるからね」
「そうか、違う人物かもしれないな」
 いづみはそうは思えなかったけど、真一郎が辛そうなのでそれ以上は言えなかった。
「きっとそうだよ」
 真一郎は、少し笑って元の部屋に戻ろうと歩きはじめる。
 いづみは、その真一郎の背中に意を決して声をかけた。
「相川、ちょっと待ってくれないか?」
「まだ、何かあるのか?」
「これを、う、受け取って欲しいんだ」
 いづみはラップにくるみ込んだ力作のチョコレートを真一郎に差し出した。
「プレゼントだったら直接小鳥に……」
 真一郎は勘違いする。いづみは慌ててしまって、どきどきが止まらなくなる。
「違うんだ……今日は2/14だろ?」
「あ……」
 さすがに真一郎が気づいて、いづみからそれを受け取る。
「ありがと、しかし、結構でかいな。これもお礼を兼ねてなのか?」
「違う、うう、ええと、なに言ったらいいんだろ。ああ、きちんと聞いて欲しいんだ」
 いづみは真っ赤になったまま、必死で言葉をまとめようとする。
「な、何を?」
 すううっ。
 いづみは息を吸うと真一郎の瞳を真っ直ぐ見て、告白した。
「私、御剣いづみは相川真一郎、あなたが好きです。恋、しています」
 いづみが優しく微笑んだ。
「私はあなたに尽くせるものになりたい……」
 

第43話 安らぎを

 
 いづみに告白されちゃった……。
 真一郎は呆然と廊下を歩いている。
 頭の中には、さっきの事がリフレインしている。
 
「私はあなたに尽くせるものになりたい……」
 いづみの告白。
 でも次の瞬間、いづみはもう一度顔を真っ赤にさせて、真一郎にこうも言った。
「答えは、まだで良いです」
「どうして?」
「今ので、勇気全部使っちゃったから、答えを聞くだけの勇気が無いんです」
 いづみは困ったように言って、真一郎の反応を見る。
「それでも良いなら、いいけど」
 真一郎の反応にいづみはほっとしたみたいだった。
「それに、今日はバレンタインですから、まだ真一郎様に告白してくる人はいるはずですから」
 真一郎様?
 それに、他にもいるって?
「だから、今答えを聞くのは、きっとフェアじゃないですから。その人とも約束したし……」
「いづみの知り合い?」
「え、ああっ! 知りません。何でもありません! 私そろそろ行かないと、それじゃあ、真一郎様……また」
 どたばた慌てて、最後だけ真一郎に照れくさそうにいづみは振り返った。
「あ、待って……もういないよ」
 真一郎が声をかけた時には、廊下のどこに姿を隠したのかいづみは見当たらなかった。
 
「しかし、誰なんだろ。俺に告白する人って」
 まさか、唯子とか?
 確かにいづみと唯子は友達だけど……良く分かんないや。
 考えても無駄だし、やーめよっと。
 がらがらがら。
 玄関の方で、扉の開く音がした。
「誰か帰ってきたのかな? そうだ一応、挨拶ぐらいしておかないとな」
 そこには意外な人が座り込んでいた。
「瞳ちゃん?」
「相川君?」
 ぽへっとした、瞳らしくも無い無防備な顔をしている。
「どうしてここに、瞳ちゃんが?」
「いづみさんから、話してもらってない?」
「あ……」
 すっかり告白騒ぎで、事件の事を忘れていた真一郎だった。
「あのね、唐突で申し訳ないんですけど、ちょっとお願い聞いてくれません?」
「はい? 良いけど」
「ちょっと、抱きしめてくれないかしら」
「え?」
 瞳は辛そうに身を震わせ、大きく息を吐く。
 口付けを待つようでもあり、何かに耐えているようでもあった。
「良いんですか?」
 真一郎の頭の中に、初めての出会いがよぎる。
 投げ飛ばされたりしないだろうな。
 きゅっ。
 瞳の体は冷え切っていた。
 でも、それ以上に何か別のものに瞳は震えているみたいだった。
 瞳が、体を預けるように、真一郎の胸に顔を埋めた。
「ぅ……ぅぅ」
 ひどく小さかったけどそれは。
「泣いてる?」
「うん……」
 しばらく、瞳はむずかる赤ん坊のように真一郎の胸から顔を放さなかった。
 真一郎はなんだかわからなかったけど、瞳をずっと抱きしめてやっていた。
 人が通りかからなかったのは幸いだった。
「ふふ、甘えちゃった……」
 瞳がようやく体を起こして、はにかむ。
「やっぱり優しいですね。相川君は」
「そんなことないですよ」
 てれてれと頭に手をやる真一郎。
「ううん。でも、まずかったですね。もし、鷹城さんなんかに見られたら」
「唯子に?」
「ええ、私一生恨まれちゃう所ですね」
「唯子は別に俺の事なんか、なんとも思ってませんよ、きっと」
 瞳がクスリと笑う。
「鈍いんですね、全く。気づいて上げないと女の子が可哀相ですよ」
 全く、私の事も気付いてないんだろうな。
「でも、そんな所も含めて好きなんですけどね……」
 え?
 ええ?
 えええええええええええっ?
「今なんて言いました?」
「私、もしかして、口に出して言ってました?」
 真一郎の質問と、瞳の質問が交差する。
 2人して真っ赤になって、奇妙な沈黙が流れていく。
「あの、相川君。今更何だけど。これ」
 瞳が、チョコレートを真一郎に向かって差し出す。
「う、うん」
 真一郎は少し迷ったけど、瞳のチョコを受け取る。
「もう、開きなおっちゃいましょうか。……こほん……相川君、私と恋人として付き合ってもらえませんか?」
 瞳が苦笑しながら、でも真剣に想い込めて告白する。
「あなたの『お姉ちゃん』じゃ、私満足できないみたいです」
 
 
「二人とも帰ってこないね?」
「うん。どうしたんだろうね」
 小鳥の質問に、唯子が答える。
 いづみと真一郎が出て行ってから、もう大分経つ。
 最初唯子が覗きに行こうとし、小鳥がそれを止めてから二人は黙っていづみと真一郎が帰ってくるのを待っていた。
 こんな単発的な会話が時折交わされて、再び静寂が訪れる。
 その時、とうとう小鳥が意を決して唯子に話し掛けた。
「……唯子、私に何か隠してるでしょ」
 唯子が小鳥の顔を見ようとして振り向くと、小鳥はまるで見られたくないかのように顔を伏せていた。
 
 
 ゼオは扉を開け、中へと踏み込んでいく。
「あら。ゼオ様」
 声をかけたのは、金髪を腰まで垂らした妖艶な美女だ。
「どうしている?」
「どうもこうもないですよ。全く、苦労させてくれます」
「ほう」
 驚いたように言うゼオ。
 女が部屋の置くを指し示す。
 均整の取れた男の体が透明な容器の中に浮かんでいる。
「私の元の体を、良くここまで復元したものだな」
「大変でしたよ。ここまで、かけらを集めるだけで」
 女の声は甘えを帯びている。
「ラインの一族とも、ずいぶんとやりあったのではないか?」
「ふふん。私と勝負できる奴なんか早々いるもんですか。大抵の奴は返り討ちですよ」
 ゼオが女の首筋に手をやり、すすっと撫でる。
「あ……。ゼオ様、ねずみが入り込んだようですけど……」
「構わん。どうにか出来るわけも無い。ただ、お前が望むなら歓待してやっても構わんぞ」
 ゼオの手は、言いながら女の体を這って行く。
「ふふ。こちらにどうぞ」
 女がベッドに倒れ込み、ゼオを誘った。
 
「しかし、珍しいな。お前は老婆の姿が好みなのだと思ったぞ」
「ゼオ様に不況でしたからね」
 女が、褥で寄り添いながら笑う。
「違うだろう? シフ」
「半分は本当ですけどね。生意気な餓鬼に痛い目を見せてやりたくてね」
 ギラリとシフの目が輝く。
 あの、女幽霊。今度あったらかけらも残らないくらいに消し去ってやるよ。
「さくらは、やはり裏切るかな?」
 ゼオの口調は心配しているとか尋ねているというものではなくて、状況を楽しんでいるものだった。
「私が、やっぱり消しましょうか?」
「そうだな、お前の他に使えそうな奴は……そう言えば」
「どうしました?」
 ゼオの顔に浮かんだ楽しそうな顔をシフが見逃すはずはない。
 よほど、残酷なショーを考え付いたに違いない。
 シフはその事を思って舌なめずりする。
「いや、さくらが連れていたあの男。使えると思わないか?」
 ゼオはまるでシフを試すように言う。その瞳は冷徹で、感じようを表には出していない。
 あの男と、さくらを……。
 刺された痛みと憎しみが、残虐な喜びとなっていく。
 シフは自分が押さえ切れないほど興奮してくるのを感じた。
「それは、本当に面白そうですね」
 欲望に濡れ光ったまなざしが、火影の面影を映していた。
 

第44話 親友

 
「くっ、なかなかやるな」
『さくら』は空也の言葉に反応せず、その喉元へ手刀を繰り出す。
 御剣の中でも最高の力を持つという空也を倒さなければ、たとえ里を滅ぼした所で120年前と同じテツを踏む事にもなり兼ねない。
 そのことを懸念して、『さくら』は空也の不意をついたつもりだったのだが。それはどうやら、『さくら』を誘い込む罠だったらしい。
 そのことに気付いたのは、戦いはじめてすぐの事だった。
 仕掛けられた数々の罠。
 そして、任務でいないはずの鋼の存在。
「火影。やるようになったじゃないか」
「……」
 鋼は火影を釘付けにしている。
 どちらの戦いも、互角で互いに打つ手がなくなりつつある。
 そして、時間が経てば経つほど状況は『さくら』にとって悪いものになっていく。
 時そこに至って『さくら』は撤退を覚悟する。
「また、会いに来ます」
 まるで友達に対するような挨拶をして退く『さくら』
 力比べをしていた火影もすぐそれに従う。
「待て」
 鋼がその後を追って動き、空也がその後を追う。
「追うな鋼」
 だが、その声が少し遅かった。
 火影の投げた牽制用の手裏剣。
 鋼が弾く。
 用意された戦場の外には、何がいるのか分からない。
 手裏剣は、路地裏から餌を追って現れた一匹の鳩に向かっている。
「ーーーーっ!」
 空也でさえ、見捨てたその鳩を『さくら』は自分の身でかばっていた。
 鳩は瞬時のその出来事に驚いて飛び去ってしまう。
『さくら』の腕からぽたっぽたっと血が流れ落ちていく。
 ずっ。
 血が吹いて、『さくら』の半身を汚す。
 傷はすぐにふさがるが、体力は消耗している。
 それに、その手裏剣には火影が毒を塗っていた。
『さくら』は空也を見る。
「なかなかの心意気だ。それに免じてここは去るがいい」
 鋼は空也の決定に異を唱えるつもりはないようだ。
「ありがとう」
 奇妙な感謝の言葉を残して、『さくら』はその場から去った。
「良いのか? 兄者」
「言っただろう? 火影はわれらの弟なのだから、もう少し信じてやらねばな」
 空也は不敵に笑った。
 
 
「外から開けないと、出られないか……」
 さくらは無念そうに扉を開けるのを断念する。
 焦ってもどうにもならないのはわかるが、ここがどこだかわかったさくらには、こんな所で悠長に過ごすつもりは無かった。
 ここは、黄泉比良坂だ。
 どうやってか知らないけど、その途中にこうやって屋敷を構えているに違いない。
 いや、城かもしれない。
 とりあえずどちらでもいいが、こんな所から戻って仁の珠の持ち主を探しに行っていたのでは手後れになるかもしれない。
 そもそも、どうやったら現世に戻れるのかさくらにはわからなかった。
 その時だった。
 がらっ。
 諦めていた扉が簡単に開いた。
「さくら。こんな所にいたのか」
 横柄な声に聞き覚えのあったさくらは思わず頭を抱える。
「御主人様である俺がお呼びなんだ早く来い!」
 そこに姿を現したのは、遊だった。
「遊……御主人様?」
 思わずさくらが引きつった声を上げる。
「なんだ? どうかしたのかさくら」
「何をさせたんです?」
「なんだよ? 何をさせたって……」
「私に、何をさせたか、聞いてるんです。遊」
 まさか、この男は破廉恥な事をしたんじゃ……。
「まさか、お前は……」
 くるりと背を向けて逃げ出そうとする、遊を後ろから首根っこをつかんで引き止める。
「ぐえっ」
 蛙のつぶれたような声を上げて、遊が倒れた。
「何、何もしてない。大体、お前言う事聞かないじゃないか。ほとんど。シフの奴嘘つきやがって」
「本当ですね」
「ああ、神誓って本当だよ」
 神に誓ってと言う言葉がこれほど似合わない存在も無いだろうとさくらは思ったが、まあ、この小悪党にたいしたことはできっこないに違いない。
「とりあえず、私を助け出してくれた事には感謝します。遊」
「は、ははは。そうだ、そうだぞ。俺はお前を助けてやったんだからな」
 さくらの言葉に気を良くして悪乗りする遊。
「だから、これまでの事をほんの少し赦してあげる事にします」
 さくらはそう言うとつかんだままの遊を自分が入れられていた部屋に投げ込む。
「それでは遊、ごきげんよう」
 ぴしゃり。
 外からしか開かない錠が、部屋にかけられる。
 これで、ようやく自由の身になれた。
 急がなくちゃ……。
 肌に感じる地の竜の気配にさくらは唇を噛み締めていた。
 
 
「唯子、何か隠してるでしょ」
 小鳥の一言に面白いぐらい唯子が動揺する。
「何? 別に唯子何にも隠してないよ」
 いつもより僅かに早口だし、視線が小鳥の目から外れている。
「嘘、じゃあ、なんで昨日はあんな電話かけてきたの?」
「それは……」
 唯子は答えられない。
「唯子、私の事、真くん好きなの見ればわかるって言ったけど。私だって、唯子が真くん好きなのもわかってるよ」
 自分で言っていて、真一郎を好きだという宣言をしたのも同様だと気づいて少し小鳥は頬を赤らめる。
「それなのに私が告白なんて出来ないよ」
「唯子は、大丈夫なの。他に好きな人いるんだから」
 唯子は、そんな小鳥になんとか翻意させようと、思ってもいない嘘をついた。
「……本当に? 唯子嘘ついてない?」
「ほ、本当、本当」
 小鳥の、疑わしそうな目線に思わず吃る唯子。
 こういう時は、やけに小鳥強いからなあ。
「何が、あったの? 昨日真くんと何かあったんでしょ」
「な、何にも無いよ。しんいちろとは本当に何にも無いよ」
 鋭い追及に、唯子の方がたじたじになる。
「唯子、真くんと付き合ってるんじゃないの?」
 思い切って、一番聞きたかった事を小鳥は唯子にぶつけて見る。だけど、唯子の反応は小鳥が予想していたのとまったく違った反応だった。
「へ?」
 目を真ん丸にして、しばらく考え込むような唯子のそぶり。
 どうも演技には見えなかった。
「唯子と、しんいちろが?」
 おかしく思いながらもつ、小鳥は軽く肯く。
「なんで?」
「だって、昨日真くんと公園にいたでしょ?」
「うん、いたよ」
「デートしてたんじゃないの?」
 唯子がようやく、合点がいったと何度か肯いて苦笑する。
「……あれは、確かにデートだけど、いつも、小鳥と一緒に遊んでたのと同じだよ」
「でも、デートは普通の遊びとは違うよ」
「うにゃー。そうじゃなくて、昨日は小鳥が来れなかったから、二人でいただけ。いつもの3人でいるのとおんなじデートだって意味」
「3人でデート?」
 デートなんかしたっけ? 真くんと唯子と?
「うん、あれもデートでしょ」
「唯子、それは違うと思うけど……」
 ようやくいつもの遊びの事を唯子がデートと呼んでいるのに気づいて小鳥が突っ込む。
「むう、でも、唯子はしんいちろと恋人になった事ないし、そういうデートはしたことないよ。つまり、しんいちろが小鳥の家に行って料理作ったりして過ごすのと同じだよ」
「本当に付き合ってるんじゃないの?」
 ちょっとしつこいかなと思いつつ、小鳥は確認する。
「そんな、それで小鳥に告白勧めたら、唯子極悪人じゃん」
「あや、ご、ごめん。そういや、そうだよね、唯子が真くんと恋人だと思って勘違いして、それで、えと、混乱してて」
 真一郎と唯子がいつのまにか恋人同士になったという事ばかり頭にあって、そんな事にすら考えが回らなかった。
「小鳥良いよ。意味は分かったから」
 唯子がワタワタする小鳥に笑いかける。
「はう。ご、ごめんね唯子」
「いいってば。唯子も突然あんなこと言って、悪かったんだし」
 唯子は慰めの言葉をかけて、小鳥に頭を上げさせようとする。
「そうだ。真くんの事じゃないなら、なんで、あんなこと」
「う、うん。実はね」
 そう言ったきり、唯子はなかなか次を口にしようとしない。
 それでも小鳥は唯子が言いたくなるのをじっと待った。
「小鳥、お母さんが病気なの知ってる?」
 考え抜いた末に、唯子はそう言った。
「え? 唯子のお母さん?」
 一瞬自分の事だと、小鳥は理解できなかった。
「違う……小鳥のお母さん」
「…………」
 お母さんがビョウキ……?
 心臓が、思わず一拍跳ね上がったような気がする。
「小鳥のお母さん、今度手術するって……」
 何?
「会いに行って来なくちゃ駄目だよ。小鳥」
 何がどうしたの?
「どうして……唯子がそんな事知ってるの?」
「あ、あのあの。悪気があったんじゃないよ。これ……」
 そう言って唯子はカバンの中から封筒を取り出す。
「!」
 見覚えがある。
 ううん、無いはず無い。ついこの間から、小鳥の心の中で引っかかり続けていた物だから。
「この中に書いてあったの、小鳥、中読んでないんじゃないかと思って」
 唯子の声はひどく苦しそうに重い。
 けれど、こういう時に限って、小鳥は気付かない。
「……ぃよ、唯子」
「え?」
 奥の方から低く響くような声で小鳥が言った言葉を唯子は良く聞き取れなかった。
「ひどいよ、唯子。私がお母さんの事大嫌いな事知ってるのに」
 小鳥の呵責の声に唯子は胸を痛める。
「でも、小鳥本当は……」
「大嫌いだよ。お母さんなんて大嫌い!」
 すがり付くような唯子に向かって、小鳥はなおも悲しい否定をする。
「小鳥、でも、今行かなかったら小鳥絶対後悔する」
「後悔なんかしない! あんな人知らないもん」
 いつのまにか、小鳥の目には涙がにじんでいた。
「嘘だよ、小鳥はお母さんが嫌いなんじゃない。お母さんがいないのが、嫌いなんだ」
 ぱしっ。
 ぶるぶる震える手で、小鳥が唯子の頬に平手打ちをする。
 びっくりして何も言えなくなる唯子。
「勝手に気持ちを決めないで、それに……私に来た手紙を、勝手に読むなんて」
「こ、小鳥……それは」
「唯子の馬鹿」
 赦しの一片も無い小鳥の言葉に、とうとう唯子はすべての勇気を使い切ってしまう。
 ぽろりと、唯子の瞳からも大粒の涙が零れ落ちた。
「唯子なんか、大っ嫌い」
 ばん。
 とたたたた。
「小鳥ぃ……」
 頬をはられた痛みが、唯子を打ちのめしていた。頬をはらせた痛みが気力を根こそぎ奪っていた。
 小鳥の痛みが、唯子の胸に突き刺さっていた。
 
 
 真一郎はもはや呆然を通り越して、虚脱しているような感じだ。
 今度は瞳ちゃんが……。
 いづみの言ってたのは瞳ちゃんの事なのか。
「相川君、貴方の気持ちは?」
 瞳が、真一郎の目を覗き込む。
「俺は……」
「待って……」
「え?」
「今はやっぱりいいわ。今聞いちゃうと、どっちでも私、他の事が手に付かなくなっちゃいそうですから」
 ・、そう言えば、瞳ちゃんも吸血鬼と戦ってるんだっけ。
「だから、今度の事が終わったら、絶対に気持ちを聞かせて下さいね」
 半端な気持ちでは、答えられないと思い、真一郎は「はい」と一言だけ口にする。
「それじゃあ、また後で。いづみさんと相談したい事がありますから」
「あ。はい。それじゃあ瞳ちゃん。また」
「うん、またね」
 瞳は凄くはにかんで真一郎の前から立ち去った。
 どん。
「あいた」
 真一郎は急に誰かにぶつかられて、廊下でよろめく。
 振り返って見ると、小鳥がぶつかった事を謝りもせず走り去って行った。
「小鳥……?」
 泣いていたように見えた。
 まさか、唯子と?
 真一郎は考えるより先に小鳥を追いかけていた。
 
 
「どうしたんだ? 唯子」
「いづみちゃん……」
 唯子は涙でぐしゃぐしゃの顔をいづみに見られたくなくて、懸命にセーターの袖でぬぐう。
 でも、拭い切れるはずも無くて最後には唯子は諦める。
「何でもないよ……」
「馬鹿、信じられるか。相川が何かしたのか?」
 それとも、私が告白したのを、見ていたのか?
「ううん。違うよ。唯子が悪いの」
「なんだかわからないぞ、それに野々村はどうしたんだ」
 いづみの言葉に唯子がびくっと肩を震わせる。
「まさか、野々村と喧嘩したのか?」
「……うん。唯子が小鳥を怒らせちゃった」
「私で、話し相手にはなれないか? 良かったら、聞かせてくれ」
「いづみちゃん……うん」
 唯日はしゃくりあげながら、事の次第を話していく。
「……そういう事か」
 いづみが納得して肯く。
「で、唯子は何してるんだ?」
「え?」
「ここで、じっとしてて良いのか?」
 いづみは自分が言っている事はとても辛い事だと分かって居ながら、続ける。
 唯子が小鳥にしたと同じように、自分も唯子の親友なら、ここで甘い言葉をかけてやるわけにはいかない。
「謝るにしろ、そうでないにしろ。こんな所にいても、野々村には想いは伝わらないぞ」
 はっと唯子がいづみの顔を見詰めた。
「そうだ、唯子はまだ言わなくちゃいけないんだ。ありがとういづみちゃん。私小鳥を追いかけるよ」
 いづみが「そうするといい」と声をかける前に、唯子は部屋を飛び出て行った。
「やれやれ。全く羨ましい奴等だな……」
 いづみは、唯子の走り去っていく後ろ姿にそうつぶやいた。
 
 
 ひどいよ。
 ひどいよ、唯子。
 小鳥の涙が頬を伝って後ろへと流れていく。
 御剣家を飛び出して、どれだけ走ったのか小鳥にはもうわからない。
 手紙を見るなんて。
 お母さんの事をあんなふうに言うなんて。
 唯子の馬鹿。
 ひどいよ……。
 でも、小鳥はわかっている。
 ……違う、ひどいのは唯子じゃない……。
 私のほうだ……。
 心の中で認めてしまうと、小鳥はもう走れなかった。
 唯子を、傷つけちゃった。
 私、前にも同じ事してるのに……。
 唯子のこと、わかってあげられなかった。
 ひどい事しちゃった。
 もう、取り返しがつかない……。
 
 
 小鳥が泣いている所へ真一郎が走ってくる。
「小鳥」
「真くん……」
 真っ赤に泣きはらした瞳がとても痛々しくて真一郎は思わず渋面になる。
「小鳥、こんな所でいると凍えるぞ。帰ろう? な」
「駄目だよ、真くん、私唯子にひどい事しちゃった。ひどい事言っちゃったの!」
 小鳥は今、真一郎でさえ受け入れられなかった。
「大丈夫だよ、小鳥。唯子だってわかってる」
「違うよ、私ね唯子に顔向けできない。なんて謝ったらいいのかわからないよ」
 感情が抑えられない。
「小鳥」
 真一郎の手が強引に小鳥をつかもうとする。
 小鳥が真一郎の手から逃れようと、むちゃくちゃに手を振り回す。
 ずずずずず。
 ぐらっ。
 山の斜面だったのが災いした。偶然、地震が起こったのも拍車をかけた。
 小鳥は足を滑らし、真一郎にしがみついたが、小鳥捕まえようとしていた真一郎にも踏みとどまる事は出来なかった。
 体中をぶつけながら、二人は斜面を転がっていく。
「小鳥ー」
 唯子の声が聞こえたような気がした。
 だけど、それもほんの一時で、めまぐるしく変わる視界に何もかも飲み込まれていく……。
 空と地面。上と下。青と茶色。
 すべてが一つの平たんな世界に変わる。
 ぐるぐるぐるぐる……ぐるぐるぐるぐる……。
 
 危ない!
 このまま下に落ちたら二人とも死んじゃう。
 七瀬は下に先回りして、全力の風を二人に送り付ける。
 二人の落下速度が、止まったように、一瞬見えた。
 でも、本当はそんな事はなくて、少しだけ落ちる速度が鈍ったに過ぎなかった。
「お願い! 止まってええええええ」
 七瀬が叫んで無制限に力を解放する。
 自分の存在が、希薄になっていくのを感じる。
「それでも……それでも、真一郎は死なせない!」
 自分の想いを切り売りするような力の放出に、とうとう立っていられなくて七瀬はひざを付いた。
「絶対……た、すける……」
 七瀬はもうろうとした瞳で、ただ真一郎の顔を眺めていた。
 
 
「小鳥……」
 声が聞こえる。
「小鳥……大丈夫?」
 誰だっけ、この声は……。
「ん……?」
 自分の声がかろうじて出る。ようやく少しだけ目が開いて……。
「唯子?」
 小鳥の真ん前に唯子の顔が大きく見えた。
「……良かった」
 唯子が軽く微笑んだ。
「唯子、え?」
 周りを見ると暗い穴の底だった。小鳥と真一郎は唯子の腕の中にくるまれていた。
「小鳥無事で、良かった……」
 唯子が、震える声でそう言ってふっと、力無く目を閉じた。
 はあはあと、浅く速い呼吸音だけが小鳥の耳に響く。
「唯子……どうしたの?」
 小鳥は震えながら問い掛ける。
 でも、返事はない。小鳥は半狂乱になって唯子の体にしがみついた。
「唯子、唯子ー!」
「唯子ーーーっ!!!!」
 小鳥の悲痛な声が穴の底に反響してわんわんと響き渡った。
 

第45話 銀狼

 
 私のせいだ。
 私のせいで、唯子が死んじゃう。
 死んじゃうよ。
 私が悪いんだ。
 唯子にひどい事言って……。
 唯子に迷惑かけて、気持ちわかってあげなくて。
 唯子唯子唯子唯子ゆいこゆいこゆいこ…………。
「小鳥」
 はっとした。
 今自分が何を考えていたか、わからなかった。とっても怖い所に行っていた気がする。もう少しで、戻れなくなりそうだった。
 真くんが引き戻してくれなかったら……。
 
「小鳥」
 もう一度真一郎が小鳥に声をかけた。
 少しだけ小鳥はほっとする。
 だから余計に、唯子が返事をしないで震えているのが……痛かった。
「真くん……私。私がいけないんだ」
 ぐしゃぐしゃの顔を拭いて真一郎に小鳥は振り向く。
「小鳥、唯子はどうしたんだ?」
「わかんない。でも私が唯子の気持ちを分かってあげれば……」
 また、自虐的になりかけた小鳥を真一郎が一喝する。
「今はそれどころじゃないだろ。ちょっと、見せてみろ」
 ずいっと真一郎が進み出て、唯子の様子を見る。
「わかるの?」
「空手の道場でこういうのにうるさい人がいてさ、叩き込まれたんだよ」
 唯子の体を真剣な顔で触診していく真一郎。
「……唯子大丈夫?」
 おずおずと覗き込む小鳥。
「大丈夫だよ……」
 真一郎は、本当はそうは思っていなかった。
 上が真っ暗で良く見えないからわからないが、少なくともあれだけ長い時間を落ちてきたのだ。
 それに、この浅くて速い呼吸。
 外傷は右足の骨が折れているだけだが、それだけじゃないかもしれない。
 最悪、内臓破裂や脳内出血だってある。
 幸いと言えるのは、ここがさっきまでより大分暖かい所だという事だった。
「右足の骨が折れてる。あとは、怪我無いよ」
 わかった事だけ言う。
 小鳥をここで不安がらせるのは避けたかった。
 でも、小鳥はすぐに嘘じゃないかと思ったみたいだった。
「本当に? でも唯子凄く苦しそうだよ」
「大丈夫だよ。小鳥は気にしなくていいから」
 そんな事言ったって、唯子は私のせいでこんな怪我をしたのに……。
「私何かすることない?」
 真一郎は辺りを見回す。この3人以外は何も見えない真っ暗な世界だ。大体どこからそれだけの光が入ってきてるのかもわからない。
「明かりが欲しいけど、何かあるか?」
 明かり……私、何にも持ってきてないや。
 急いで飛び出してきたから……。
「ごめんなさい、真くん。私何にも持ってない……」
「じゃあ手探りでも良いから、木を探してくれないか?」
「木って?」
「唯子の足の添え木に使うから、まっすぐなのが良いな」
「わ、わかった探して見る」
 小鳥は一生懸命、辺りの地面を手で探って見る。
 でも手に当たるのは石ころばかりだ。
 草一本生えていないみたいだ。
 いつまで探しても見つからない。
 私は唯子にこんなこと一つしてあげられないんだ。
「ごめんね。私何の役にもたっていないね……」
 涙がまた、零れ出した。
「小鳥、こっち来い……」
 真一郎は寂しげに小鳥を呼び寄せる。
 小鳥は涙をぬぐいながら真一郎に近づいた。
「この馬鹿鳥!」
 近づいた小鳥に真一郎が怒鳴りつける。
 小鳥が驚いて、体を竦める。
「この……馬鹿鳥」
 今度は優しく言う真一郎。
「前にも言ったろ。小鳥は傍にいて笑っていてくれるだけで良いんだ。それが一番嬉しいんだよ」
「でも、唯子がこんな状態なのに……」
「だからお前は馬鹿なんだ。こんな状況じゃ、俺だって唯子には何もしてやれない。医者がここにいたって、きっとどうにもならないよ」
「でも、唯子がひどい目に合ったのはきっと私のせいだよ」
「小鳥、本当は黙ってないと唯子怒るだろうけど、昨日唯子が話してくれた事教えてやるよ……」
 
「唯子が……そんな事言ってたんだ」
 ようやく小鳥の中で唯子がおかしかった理由。全部納得が行った。
「でも、そんなに苦しんでたなんて、私の事なんかで」
「そう、思うだろ。唯子もそう思ってるよ。小鳥が自分の事で悲しんでたら、辛くてしょうがないって」
「真くん……うん。うん……」
 ありがとうね。真くん、唯子。
「だから、ほら笑ってろよ。小鳥が笑ってくれてたら、ぎりぎりの所でも俺達には力が湧いてくるんだから」
 小鳥は肯き、笑おうと努力する。
 でも後からあふれてくる涙のせいで、うまく笑えずに変な顔だったに違いなかった。
 それでも真一郎は小鳥の頭を嬉しそうに撫でてやった。
 
 
 いづみは、瞳と一緒に真一郎達の帰りを待っていた。
 しかし、いつまで経って帰ってくる様子が無いので、いづみは心配になってきた。
「千堂先輩。相川達に何かあったんじゃないですか?」
「そうかもしれないわね」
 瞳が、厳しい表情でそう言う。
「とりあえず探しに行きます?」
「いえ、相川君達が巻き込まれたなら、私達の目的地にいるはずだわ。もし違うなら、いずれ帰ってくると思うけど……」
 瞳は歯切れが悪い。
 もしもの可能性が捨て切れないからだ。
「やっぱり……探しに行きましょう」
「そうですね」
 非情になろうとしても、瞳にはそこまでは無理だった。
 急いで出かける支度を整える二人。
 その時唐突に瞳は思い出した事を聞いてみる。
「そう言えば、端島君だったかしら、井上さんの恋人の……」
「ええ、そうですけど。どうかしたんですか?」
「さっきもらった紙は切って見たの?」
「あ、忘れてました」
 実際、それどころでは無かったので、完全に忘れ去っていた。
 大体何が起こるとも思えなかったが。
 とりあえず、そんなに時間を食う事も無い。
 いづみは、紙を八房で切り裂いて見る。
 紙は切られた瞬間、何か光ったような気もしたが、その後何も起こらなかった。
「何だったんでしょう?」
「さあ、何か意味があったとは思えないけど」
 瞳もわけがわからないと首をひねる。
「さて、そんな事している場合じゃありませんね」
「そうね何か起こるかと期待したんだけど、何も無いんじゃ仕方ないですね」
 二人が外へと足を踏み出した途端だった。
 うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉん。
 るぉぉぉぉん。
「これは?」
 突然響き渡った狼の遠吠えに、八房が合図を返すように吠えたのだった。
「狼?」
 二人が驚いていると、木々の影から優美な姿をした一匹の銀狼が姿を現した。
 優美といっても繊細ではない。
 大きさは小さな牛ほども在るのだ。
 思わず、恐ろしさに体が固まる。
 その二人を銀狼は眺め渡した後、ふいっと歩き出す。
 ほっとする二人。
 だが、すぐに動きを止めてまた銀狼は振り返った。
 首を傾けて、肯くようにして見せる……。
「まさか、この狼?」
「同じ考えみたいですね」
 いづみと瞳は顔を見合わせると、また少し歩いた銀狼に二人は付いていくことにした。
 

第46話 孤独

 
 そこは黄泉比良坂。
 現世と黄泉を繋ぐ、異界の回廊。
 そこにゼオの手によって作り上げられた、魔の城がある。
 歪んだ地下迷宮のようなそれは、今、多くの死者を飲み込んでいた。
「くくく」
 ゼオはその一角で赤い液体の入ったグラスを傾けていた。
 黄泉へと逝くはずの死者たちは、この城ですべてを奪われる。転生の可能性も、死の安息も。そして、生きていた時の喜びも何もかもを。
 おぉぉぉぉおおおぉぉぉぉお。
 人々の怨嗟の声か。城の周囲には不気味な物音が絶えずしている。
「血ですか?」
 シフがそんな主の姿に興味を持って尋ねた。
「いや、ワインだよ。素晴らしいワインは美しい乙女の血と同じほどに素晴らしいものだ」
 その目はどこか遠い何かを見据えているようだ。
「それよりも、シフよ。『さくら』が帰ってきたようだ」
「わかりましたわ。ゼオ様。では、楽しみにしていてください」
 古代ギリシャ風のドレスに身を包んだシフがすそを翻してゼオの部屋から出て行った。
「ふん……」
 ゼオは、つまらなそうにつぶやくと、再び液体を喉に流し込んだ。
 
「はあ……」
『さくら』は熱い息を吐く。
 火影がそんな『さくら』を横から支えた。
『さくら』は体を預けて、火影を見やった。
 その瞳には意志の色は見えない。
 さくらは、少し悲しそうに顔を歪める。
 もし、彼に心が戻ったら、私は恨まれるだけなのにね。
「ふふふ。おかえりだね」
 部屋まではまだ少しある、ホールのような所で『さくら』は声をかけられた。
「貴方は?」
 見たことの無い女性が立っているのを見て、『さくら』が警戒する。
「そんなに、びくつかないでよ。何も取って食おうってんじゃないんだから」
「答えになってません」
「おや、さくらも結構鈍いね。それとも、弱っててかぎわけられないのかい?」
『さくら』が霞む目で女を睨み付ける。
 どこかで聞いた事のある嫌みな言い方だ。
「シフだよ」
「まさか……」
「ふふん。あのはばあがとか思ってるのかい?」
「…………」
「良いさ。あっちの方がわかりやすいならその姿で話してあげるよ」
 シフがみずからの体を変化させようと呪力を込める。
「それで何の用?」
『さくら』がわざとなのかそうして、シフの変化を遮る。
「可愛くない娘だね」
 ぶつぶつ言うシフ。
「姉さんの事?」
「ふふ、そうじゃないさ。今日はそこの兄さんの事さ」
「え?」
「そこの兄さんは御剣の一族だろう?」
 それまで全くシフの言葉を受け流していた『さくら』が慌てる。
「ゼオ様には、憎くてたまらないあの男の子孫さ」
「殺せって事?」
『さくら』がぎりっと歯を噛み締める。
「そうは言わない。こんな良い男殺したら、もったいないじゃないか」
 シフはそのさくらの殺気をものともせずに笑いかける。
「私が貰ってあげるよ。その男は……」
 シフの目が光る。
 いけない、支配の術!
『さくら』が施した魅了よりも、もっと強力な術。
 たとえ意識が覚醒したとしても、体の自由がきかなくなる従属の魔術。
 目を逸らして……。
『さくら』は考えるが、そこまでの判断は今の火影には無理なはずだ。
「何!」
 シフの驚く声。
 見上げる『さくら』の目に映った火影は、顔の前に銀の刃をかざしていた。
「残念だが、この御剣火影。年増趣味はない」
 火影の瞳には、意志を宿す光があった。
「……ふっ、くっくっくっ。そうかい、操られたふりをしていたって事かい」
『さくら』がびくりと震えた。
 知っていた……。
 この人は知っていたんだ……。
『さくら』の中にどうしようも無い激情が込み上げてくる。
「うあああああ」
 体を起こした『さくら』はシフに向かって、むやみやたらに攻撃を繰り出す。
「隙だらけだね」
 どすっ。
『さくら』の腹にシフの膝が入る。
「うく、あ」
『さくら』の動きが止まる。
 がしっと首筋を捕まれて高々と差し上げられた。
「血を吸って、お前の力……ぎゃっ」
『さくら』が急に支えを失って地面に崩れる。
 その『さくら』の耳にあざけるような火影の声が聞こえてきた。
「目が節穴なのかな? それとも、ぼけているのか?」
 火影は腕を切り落とした刀を振ってシフの首を狙う。
「良い目だねえ、男。絶対に人形にしてやるよ」
 シフは両腕を切り落とされた凄惨な姿のまま、にやーっと笑う。
「軽口はそこまでだ」
 火影の忍刀で真っ二つに断ち切られるシフの姿。
 だが、どさと倒れたその顔が再び笑いを形作った。
「けひひひひひっ。無駄無駄。私はどんな事されても死にゃしないんだよ……」
 さすがに、後ずさる火影。
 ふわりとシフの体が浮かびあがり、その姿が掻き消えた。
「っ!」
 火影の肩に気付かぬうちに痕が付けられていた。
「狙った獲物は逃がさないよ。楽しみだ……お前が私に愛をささやいてくれる時がね……ひっひっひっひっ」
 不気味な台詞を残して、シフの気配は虚空へ消えた。
「本体を見つけなくちゃ、絶対に倒せない」
『さくら』がぽつりともらした。
 シフはもともと、人間だった吸血鬼だ。
 120年たった今、本当の体はもう使い物にならない。
 だが、それこそがシフの呪の核なのだ。
『さくら』にもそれがどこにあるのかは知らない。
 張り巡らされたこの地下の迷宮のどこかに保存されているのだろうけど。
「すまなかった、騙していて」
 火影が緊張を解いて『さくら』の傍に近寄ってきた。
「ずっと、最初から?」
 下を向いて表情を見せずに尋ねる『さくら』
「ああ……。御剣は前から吸血鬼の動向には注意を払っていた。君が現れた時、時は来たとわかった」
「でも、あの時貴方は死にそうだった」
「そう、それは本当だ。力不足で殺される所だったわけだ。だが、君はこの私を見殺しにしなかった」
「…………」
「だから、私は君の傍で、見極めることにした。君らが一体何をしようとしているのか、そして君が本当に悪しきものなのかという事を」
『さくら』は黙って聞いていた。
「君は、決して悪に染まっているわけではない。いや、むしろ普通の人々より、優しい人間だ」
 火影の脳裏には今朝の『さくら』の行動が思い返されている。
「まだ、取り戻せるはずだ。君は今の状況を望んでいない」
『さくら』が顔を上げて、火影を見る。
「無理……私は悪しきもので良い」
「どうしても、か?」
「どうしても。……今の貴方なら、私を殺せる。何だったらそうして」
『さくら』の癒せない悲しみに火影は胸を痛める。
「そうか、仕方ない。私はまず、あのシフと言う妖怪を倒す事にしよう。止めたければ止めるといい」
「殺さないの?」
「それでは解決にはならない。君には出来る事があるし、私はまだ希望を捨てていないのだ」
 火影は、『さくら』に一瞥を投げかけると走り去って行った。
 そして……『さくら』は唯一人でそこに残されていた。
 
「ここ、一体なんですか?」
 洞窟にはいったあと、ななかは何度もそういう質問を繰り返す。
 びくびくと周りの空気に脅えているようだった。
「黄泉比良坂の中に作られた魔窟に通じる幾つかの道の一つ」
 大輔の言葉は難しすぎて、ななかには理解できない。
 弓華にしたって同様だ。
 しかし、二人の態度には大きな違いがある。
 弓華の落ち着きようと比べて、ななかは小動物のようにそわそわしている。
 やはり、目的意識の違いか。
 大輔の体を借りている、ラインの意識体はそう判断する。
“けっ、そりゃそうだろう。だがよ、ななかだって俺の可愛いやつだ。すべて話してやればきちんと分かってくれるはずだぜ”
 大輔が彼の意識に直接話し掛ける。
 だが、私はこれ以上一般人を巻き込みたくはないのだ。
“何言ってやがる。俺だって十分一般人だぜ。それにお前の話が本当なら、あの珠とやらのせいでななかはすでに巻き込まれちまってるんだろうが”
 大輔は苦々しく考える。あの時軽い気持ちでななかに珠を渡すのではなかったと。
 そうでなければ、大輔はラインの申し出に応じる事は無かったはずだった。
 体を貸す代わりに、ななかの安全を保証する事。
 自分の無力が腹立たしくてならない。
“ななかは、あれでとんでもなく優しいやつなんだ。お前が真剣に話せば、あいつだって協力するさ”
 そうかね? 君は人間の恐怖というものを甘く見ているのではないかね?
“あいつの持っている珠は、義だ。あの珠に力があって、それでななかを選んだんだろう? あんたは自分の妹すら信じられねえのかよ”
 ふう、君は彼女を危険な所に追い込もうとしているのだぞ。もし、君が言うとおり、彼女が義の心を持つものなら、彼女は進んで戦いに身を投じる。
“大丈夫さ。俺はあんたを信じてるからな。どんなことがあってもななかを守ってくれるってな”
 自分で何とかする気はないのかね?
“自分で何とかできるならやってるよ。情けねえとも思ってるさ”
 大輔は間を置いてこう言った。
“だけどよ……ななかを守る為だったら俺のプライドなんて捨ててやるよ”
 …………
 その台詞、彼女に聞かしてやり給え。
“出来るか馬鹿野郎!”
 おもむろにくつくつ笑い出した大輔にななかと弓華が戸惑った視線を向ける。
 ななかは真剣に心配そうだ。
 その顔を見返しながらラインは、全てを話すつもりになっていた。
 

第47話 笛の音

 
「ここ……」
「静花……」
 瞳といづみが同時に驚きの声を上げる。
「申し訳ありません……彼らを見失ってしまいました」
「どうして? 静花が振り切られるなんて……」
「ここで、突然洞窟の入り口が現れて、彼らは中に入っていきました。でも、私が入ろうとすると、あの青年が手を振って、洞窟は掻き消えてしまったのです」
「まさか……」
「そうともいえないんじゃないかしら。私はここで化け猫に会ったけど、目を覚ましたら小さなネコの死骸があっただけだった」
「化け猫? いつそんなのに会ったんです?」
「さっき、出て行った時にね。丁度この場所で……あっ」
 瞳が小さく叫んで、何かに走り寄る。
「どうしたんですか?」
「ううん。もし、何かに利用されたんだとしたら、このネコも普通のネコなんじゃないかなって」
「これ……ですか」
 いづみは半分なくなっているネコの顔に痛ましそうな顔を向ける。
 瞳は、冷たくかじかむ手で、地面に小さな穴を掘ると、ネコをその中に入れてやった。
「……優しいんですね。千堂先輩」
 瞳は首を振る。
「いいえ。私はこんなネコの亡骸まで使った奴等に腹を立てているだけ。せめてもの、腹いせなんです」
 いづみは、そんな瞳にこの人はやっぱり強いと思わざるを得なかった。
 手を合わせて自分もネコの為にその成仏を願った。
 その間、銀狼は辺りをかぎまわっていた。
 そして、何も無い空間を睨み付ける。
 次の瞬間、空間がその銀狼の吠え声とともに、姿を一変し洞窟が姿を現した。
 瞳といづみも驚いたに違いないが、静花はある意味もっと驚いたようだ。
「これは……間違いありません。彼らが入って行った洞窟です」
「じゃあ、この中に弓華がいるんだな?」
 いづみが聞き返すと静花はこくりと肯きかえした。
「どうします? 相川達を探すべきでしょうか?」
 いつのまにか、瞳に判断を任せている自分がすこし情けない。
「この中に、入りましょう……」
「じゃあ、相川達は?」
「……相川くんは、出来ればそこの人達で探して欲しいんだけど……お願いできます?」
 瞳にとっても辛い決断なのは分かっていた。
 だけど、いづみはそれでも。
「私は……相川達を探したい」
「そう、そうしたいというなら。止めはしません。……いづみさん。私の分まで探してね」
「ーーーーーーっ」
 瞳の言葉に、いづみは涙が浮かんできそうになる。
「それじゃあ、私は行くわ。貴方も来てくれるでしょう?」
 瞳は銀狼に手を差し伸べる。
 銀狼は擦り寄って瞳の手の甲を嘗めた。
 微笑んで瞳が入って行こうとすると、周りの景色が歪み始めた。
「あれは……もうすぐ消えかかっている」
 静花の声にいづみは、自分がとんでもない間違いをおかしているような気になってきた。
 その時。
 ――――――。
 ちりん、ちりん。
 はっと面を上げるいづみ。
 いま確かに、中から笛の音が……。
「私も行きます!」
 瞳と銀狼が消えていく入り口に向かっていづみは走り込んだ。
 間に合ってくれ。
 静花が見守る中、いづみは入り口とともに掻き消えた。
 
 
 ――――――。
 真一郎は、笛を吹いていた。
 いづみからもらった、何かあったら呼べと言われていた笛。
 まだ返していなかったのを思い出したのだ。
「音鳴らないけど、良いの?」
「うん、前の時にも音は鳴らなかったけど、いづみには分かったみたいだった」
「ふうん。いろいろあったんだね」
 小鳥は言いながら唯子の体を撫でさすっている。
 それで唯子が楽になるわけでは無いけど、小鳥にはそれしか出来なかったから。
「うん、いろいろ小鳥にも話してない事があるな」
「そう、なんだ」
 小鳥が少し寂しそうにする。
「なあ、あの七瀬の事覚えているか?」
「真くん……」
 小鳥は胸が締め付けられるような気がした。
「……ごめんね。真くん私」
 真一郎に旧校舎の話をしたのも自分なら、七瀬が消える事になったのも自分が発端だ。
 あの後、真一郎は見た目にも分かる落ち込みかただったから、ずっと小鳥の中では後悔のような迷いのようなものが渦巻いていたのだ。
「勘違いするなよ。別に小鳥を責めようなんて思ってるんじゃないから」
 小鳥はそれでも何も言えなくなって、うつむいてしまう。
「俺さ、この間夢で七瀬の事見たんだ。それ以来、なんだか、ずっと七瀬が見守ってくれているような気がするんだ」
「え?」
「七瀬はいなくなっちゃったけど、でも、今でも七瀬は俺の事好きでいてくれるって感じられるんだよ」
 真一郎は小鳥に笑いかけた。
「変な事かもしれないけどな。なんだか、いつでも慰められてるような気がする」
 小鳥の辛い気持ちに真一郎は気付いたのか、真一郎は眉根を寄せた。
「まだ、変な事考えてるだろ。違うんだよ、俺は小鳥に感謝してるって言いたいんだ。七瀬と会えた事、大事な想い出に出来た事。そして新しく始まる何かのきっかけをくれた事」
 小鳥が驚いて真一郎を見つめる。
 嘘をついているようには見えない。
「新しい何かって?」
「さあな。わからないんだけど、漠然と感じるんだ。今俺の前にはいっぱいの選択肢があって、それを選ぶ事が出来るんだ」
「その一つは小鳥を恋人にしちゃうとかな」
「し、ししししし、真くん。ななななな、何言ってんの。唯子がいるんだよ。起きてて聞かれたら誤解しちゃうよ」
 慌てて、ワタワタする小鳥。
 それを見て吹き出す、真一郎。
 その動きが、ぴたっと止まる。
「しんいちろ……?」
「唯子。目が覚めたのか!」
 良かった。これで多分頭を打って昏睡してたわけじゃなさそうだ。
「唯子……」
「小鳥?」
「うん……」
「ごめんね、小鳥。……唯子が、悪かったよね」
 謝る唯子の声は、苦しい呼吸のせいかなおのこと小鳥の胸に響いた。
「違う、私が悪いんだよ。唯子が、言う時に苦しまなかったはずないのに……殴っちゃったりして」
 小鳥の瞳から、ぼろぼろと涙がまた零れ出す。
「小鳥……泣かないでよ。唯子は、体丈夫だからあれぐらい全然平気だよ」
 唯子の言葉に、小鳥は今唯子が苦しんでいるのも自分の責任だと思い出す。
「でも……」
 そう言った瞬間、真一郎がその背中をぽんと叩いた。
『だから、ほら笑ってろよ。小鳥が笑ってくれてたら、ぎりぎりの所でも俺達には力が湧いてくるんだから』
 真一郎の言葉が思い出されて小鳥ははっとする。
「そうそう、小鳥は笑ってるのが一番……」
 唯子が嬉しそうに頬を崩した。
 

第48話 通う心

 
 七瀬は、弱っているのを感じていた。
 そのまま、消え去ってしまうのではないか。
 不安が襲う。
 真一郎……。
 すぐそこにいる真一郎は自分の事に気付かない。
 分かっている。最後まで残った今の力も真一郎を守ってやる為に使おうと思っている。
 もともと、自分が消えたからって七瀬が消滅するわけじゃない。
 ここに残されたのは、七瀬のいっぱいの想いだけ。
 幽霊みたいに、魂があるわけじゃない。
 それでも、力を使えるのは七瀬の想いがとても強いから。
 でも、もう一度本当の自分に会わなければ、七瀬はもう力も想いも補給する事は出来ない。
 真一郎は、そんな七瀬に気付かない。
 小鳥と、寄り添って座っている。
 暖めあっている。
 いいなあ。私も、暖めてあげたかった。
 七瀬は、羨ましげに見つめる。
 七瀬の想いが消えていく。
 七瀬は知っていた。今、自分が消えてしまえば、七瀬の魂は、もう一度真一郎に会う事はないだろうってことを。
 真一郎と七瀬の縁はそこですっぱり断ち切られてしまうのだ。
 真一郎。また会いたかったな。
 貴方と会って、また恋したかった。
 今度は、苦しんでも悲しんでも、普通の、極普通の恋人同士になりたかった。
「なあ、あの七瀬の事覚えているか?」
 ……真一郎、嬉しいな。
 私の事話していてくれるんだ。
「俺さ、この間夢で七瀬の事見たんだ。それ以来、なんだか、ずっと七瀬が見守ってくれているような気がするんだ」
 え?
 もしかして、うっすらと覚えてたんだ……。
 それに、どこかで私がいるの、真一郎は気づいていたんだね。
 ありがとう、真一郎。きっと、だから私を慰める為に真一郎は私の話をしてくれるんだね。
 これで十分かな。
 凄く、悲しいけど、前にも一度経験してる……もんね。
 だるくなってきた。
 それに、今度は、真一郎泣かせないですむし……。
 ああ、消え……ちゃうんだな……。
「七瀬はいなくなっちゃったけど、でも、今でも七瀬は俺の事好きでいてくれるって感じられるんだよ」
 ふわっ。
 力が少し戻ってきた。
 どうして?
 私は、ここにいないのに。
 私は想いだけの存在なのに。
 だからだよ……。
 急に、七瀬に声が聞こえたような気がした。
 でも誰も話してはいない。
 だけど、なんとなく七瀬にはそれがどうしてかわかるような気がした。
「ありがとう、本当に愛してる真一郎」
 七瀬は、そのまま真一郎の頭を撫で撫でしてやった。
「変な事かもしれないけどな。なんだか、いつでも慰められてるような気がする」
 変な顔でそう言った真一郎に、思わず七瀬はおかしくなってしまう。
 でも、わかったのかもね真一郎。
 七瀬は無意識に自分の目元をこすっていた。
 
 
「まだ、体本調子じゃないか」
 さくらは、歩きながら溜め息を吐く。
 少し、めまいがして壁に身を寄せた。
「やっぱり、全然血を吸ってないのが痛いんだろうけど……」
 どくん。
 壁か脈打った気がする。
 ぱっと離れて見るが、なんともなった様子はない。
 だいぶ、疲れてる。
 先輩が、血をくれるって言ったのに……。
 ふるふるふる。
 今はまだ駄目。
 ううん、先輩がもし私を選んでくれたらその時は。
 忘れずに持ってきた自分のポーチの中、チョコの包みが二つ入っている。
 自分で作る事は出来なかったけど、これを渡せるといいな。
 そっと、チョコに手を添えると、その頃には立ち眩みは、大分良くなっていた。
 ーーーー?
 さくらの鋭敏な感覚が、何かの声を捕らえた。
 悲痛な、心を切り裂くみたいな寂しい声。
 どうしたら、こんなに、人は絶望できるんだろう。
 さくらは、誘われるようにふらふらと、足を向けて行った。
 そうか、彼女なら分かるかもしれない。
 そこにいた、少女の影を認めて、さくらは納得した。
「『さくら』」
 びくっと震えて上げた顔は自分のもの。
 彼女は、結局人間の中にいた私と同じ。
 わかってもらいたくて、支えて欲しくて、でも、どこにも立つ事が出来ない。
 苦しくて、泣きたくて、それを懸命に押し込めていただけの自分。
 いつか限界が来て、私は彼女になっていた。
 それでも私は、今はそれが間違っていると思える。
 どうしてか。
 それは、先輩に出会えたから。
 先輩は私をわかってくれた。
 先輩に正体がばれた時、怖がったのは当然。
 もし、先輩が怖がらなかったら、私は信じられなかったかもしれない。
 何も分かっていないって、口先だけだって思ったに違いなかった。
 でも、先輩は違う。
 怖がっても、信じてくれた。受け入れてくれた。
 だから、同じ想いが在るのなら、『さくら』にだってわかるはず。
「姉さん」
「違う。さくら。私は貴方なんだから」
 嫌な顔をする。
 彼女は大分自分から離れてしまっているのかもしれない。
 こうして別たれたまま、時を過ごせば過ごすほど、自分達は別のものになっていってしまうのかもしれない。
 でも、まだ今なら取り返しが付く。
 先輩と過ごせた二ヶ月がこの一月足らずに負けたりしない。
「さくら……」
 ほっとする。
 認めたくはなくても、私を『さくら』だと思ってくれるなら。
「一人だから泣いているの?」
「答えたくない」
「努力もしなくって?」
「出来なかったよ」
「怖かっただけじゃない?」
「別に、誰かに見てもらわなくても良かった」
「それは嘘」
「……無駄だから」
「どうして?」
「私は、いない存在だから」
 ひたっ。
 さくらの手が、『さくら』の頬に触れる。
「いるじゃない。貴方はそこにいる」
「でも、私は貴方がいなければいないのと同じ。あなたの影だから」
「影に心があったらいけない?」
「影は影だもの」
「ううん、違うよ」
「どう違うの?」
 その質問にさくらは少しだけ戸惑う。自分が言ってしまえる言葉なのか。
「私にも、それは答えられない。……と言うより、私の言葉じゃ貴方は信じてくれないから」
『さくら』は失望したようには見えない。ただ、信じていないみたいだった。
「何しに来たの?」
 今度は『さくら』から問い掛ける。
「泣いていたから、寂しそうだから放っておけなかった」
「そういう自分が大嫌い。おせっかいな自分なんて大嫌い」
「私は……好き」
「どうして? 貴方は私のはずなのに」
「上手く言えない、けど。何か怖がってしないでいるより、前に進んで傷ついてもいいから生きていたい」
「貴方らしくない」
「そうかな? そうだとしたら、先輩が私を変えてくれたんだと思う。だから、きっと貴方も貴方らしくない」
『さくら』はまたひどく辛そうな顔をする。
「やっぱり貴方にはわからない。先輩は、私を見てくれない。それぐらいだったら……」
 そこまで『さくら』が言った途端、固い声で遮られた。
「言える? あの先輩の喜びも悲しみも、夢を追う瞳も奪ってしまえるってさくらは言える?」
 それは自分自身に問い掛けるような言葉だった。
「…………」
「それから、先輩を侮辱しないで。貴方は、まだ何にもしていない」
 さくらは、うずくまったままの彼女に手を差し伸べる。
「行こう。やらなくちゃいけない事いっぱいあるんだから」
 それでも、『さくら』はその手を拒んだ。
「私には、私の考えがある……」
 よろよろと立ち上がった『さくら』にさくらは痛ましい目を向ける。
 どうして分かってくれないんだろう。
 先輩がもしここにいてくれたら。
『さくら』が去っていくのを引き止める事は出来ずに、差し伸べた手を握り締める。
 
 
「しかし、唯子、痛い所はどこだ?」
「しんいちろ、右足が、凄くあっつい。多分、折れてる」
「ほかには、ないか?」
「大丈夫だと思う……はあ。あとはそんなに痛、くない、から」
 唯子も、最初は小鳥に心配かけたくなくて、普通に話そうとしていたけど、やっぱり無理みたいだった。
「唯子は大丈夫?」
「心配するなって。これで内臓破裂の可能性も無いから、多分打撲とかで体中痛いだけだろ」
 もちろん、真一郎に確証はない。
 だけど、大丈夫だと真一郎が信じなかったら、きっと小鳥も信じられない。それに何より、そう信じたい。
「寒いね……」
 小鳥が、自分の事と言うよりは唯子の事を心配してだろう、そう呟いた。その証拠に、ずっと小鳥は唯子の体をさすってやっている。
「くそっ、せめて明かりがあればなあ」
「そうだね」
「……あ……」
「どうした唯子、苦しいのか?」
「違う……はあ、唯子、持ってる、よ」
「何を?」
「明かり……」
「持ってるのか?」
「う、うん。いづみちゃんに、もらったの」
 ごそごそと、棒を取り出す唯子。
「うくっ」
「だ、駄目だよ。唯子。私が取り出すよ」
 痛みに顔を顰めた唯子に、もっと痛そうな顔をした小鳥が止めに入る。
 取り出されたのは、瞳がいづみからもらったものと同じだ。
 唯子が荒い息の中で説明して、真一郎がそのとおりに明かりを灯した。
「え」
「ど、どうなってんだ。こりゃ」
 小鳥と真一郎の驚いた声につられて、少し目をつぶっていた唯子も目をあける。
 最初は急に明かりを目にしたせいで、何も見えなかった。
 徐々に辺りの様子がわかってくる。
 ごつごつした岩壁。草木一本生えているわけでも無い。
 そして、同じような天井。
 てんじょう?
「なんで? 唯子、落っこって来たはずなのに……」
 天井にはどこにも継ぎ目なんか無い。
「唯子……動けるか?」
 急に真剣な表情で、真一郎が言った。
「はにゃ。ごめん、それは、無理みたい」
「じゃあ、背中に乗れ」
「どうしたの? しんいちろ」
「む、無理だよ、真くん。今唯子動かすのは」
「黙って、小鳥。下を見てよ」
 真一郎の言葉に小鳥が下を向く。
 別になんだか小鳥には気にするような事は見当たらなかった。
「何かあるの?」
「これだよ」
「なに、なに……があるの?」
 そこには、地面がへこんだ跡がある。
「これは。動物の足跡だよ、それも、とんでもなくでかい……」
「え?」
「ここにいたらまずい。移動しないと……」
 小鳥は不安そうに、唯子と真一郎を眺めた。
 

第49話 ずっと想ってた

 
「はあ、はあはあ」
「どうした、はあ……唯子」
「ううん。大丈夫だよ、ちょっと痛かっただけ……」
 唯子を背負って歩いている真一郎も、つい息が荒くなる。
 小鳥は側で、寄り添って歩いてる。
 辺りを見回しながら、不安そうにしながらも、その表情にはさっきまでの危なっかしい部分は消えている。
「いや、ちょっと唯子お前熱があるんじゃないか? 小鳥、ちょっと」
 真一郎が、唯子を少し横にすると、小鳥が唯子の額に手を当てた。
「わっ、熱っいよ。唯子、熱あるよ」
「そうか、やっぱり……」
 くてっとしたまま、唯子は小鳥達のする事に抵抗しない。
 するだけの気力が無いのかもしれない。
「やっぱりこのまま動くのは無理だよ。唯子倒れちゃうよ」
「くっ、そう」
 真一郎は諦めて、唯子をゆっくり下に降ろす。
 そのまま、ぐんにゃりいってしまう唯子。
「小鳥、なんか暖めるもの持ってないか?」
「ううん。持ってない。あ、でも、私のコートで良かったら。私、そんなに寒くないし……」
「ばか、そんなわけないだろ」
 必死で隠そうとしてるけど、足がぶるぶる震えてる。
「だって、私は全然健康だから、唯子に」
「小鳥、残念だけど、小鳥のコートじゃ唯子を暖める事は出来ないよ」
 こうでも言わないと、小鳥はこの寒い中絶対脱ぎ出すからな。
 きつい言い方だったかな? でもすこししょんぼりしてしまったけど仕方ないよな。
「真くん、その明かりって分けられるんだよね」
 しんいちろうがそんな事を考えていたら急に小鳥は立ち直って顔を真一郎に向けた。
「あ? ああそうみたいだけど」
「だったら、分けて欲しいな」
「どうして?」
 小鳥は、耳に手を当てて音羽聞くしぐさを見せた。
「なんだか、水の音がするから、ハンカチ濡らしてこようと思って」
「ハンカチ?」
「うん、唯子の熱を冷まして上げたくて」
「そうか、俺が行ってくるよ」
 真一郎が立とうとすると、小鳥が強く引き止めた。
「駄目だよ、何かあった時、私じゃ唯子を助けてあげられない」
「じゃあ、唯子と一緒にそこを探そう」
「それもまずいよ、水の側だと、やっぱり冷えるだろうし、それに唯子を動かすのはやっぱり良くないから」
 小鳥はどうしても自分が行きたいんだな。
 本当は行かせないのが一番だけど……。
「わかった……。だけど、なんかあったら大声で叫べよ。絶対だぞ」
「うん。わかってるよ。真くんこそ、唯子がぐんにゃりしてるからっていたずらしちゃ駄目だよ」
 にやあっと笑ってくる。
 うう、小鳥と唯子はこういうとこ良く似てるよな。
「たく、下んない事言ってないでさっさと探して来いよ」
 小鳥の背中を叩いて送り出す。
「じゃ行ってくるね」
「ああ、早く帰って来いよ」
 
「あれ? 小鳥は」
 しばらく経ってから、唯子がそんな事を言い出した。
「なんだ寝てたのか?」
「うう、うん。実は昨日全然寝てないんだー」
 息は、やっぱり苦しそうだ。
「馬鹿だなあ、お前ら本当に馬鹿だよな」
「やっぱり、そう……かなあ」
 唯子が、元気ない顔でへろっと笑って見せた。
「全く、気使い過ぎだ」
「うん、そうだね。……あのね」
「なんだ?」
「ありがとうね、しんいちろ」
 突然の感謝に照れる真一郎。
「いきなりなんだよ」
「小鳥、慰めてくれたでしょ?」
「ああ? 俺は何にもしてないよ」
 そんな事、本当に当然の事だったから。
「……そんな事無いよ」
 唯子は目をつぶって思い返すようにゆっくり話し出した。
「ずっと、しんいちろは唯子と小鳥を守ってくれたもん。いじめっ子だけど、本当は凄く優しいよ。唯子達が本当に辛い時は、しんいちろ、いつだって慰めてくれたから」
「おいおい、唯子熱あるんじゃ……」
「うん、熱あるよ」
「あのなあ」
 真一郎に顔を向けてはっきり答える唯子に、馬鹿にされたのかと思うが、熱で潤んだ目は真剣そのものだった。
「カッコいいし、頼りになるって」
「どうしたんだよ、唯子」
「しんいちろは、知らなかったかもしれない。だけど、唯子はずっと見てたよ」
「……」
「しんいちろ……これ覚えてる?」
 唯子が、すっと指輪を取り出して真一郎に見せる。
「この間のフォーチュンリングだろ?」
 恥ずかしい事を思い出して、真一郎はぶっきらぼうな口調になってしまう。
 名前を彫らずに渡すのは、女の子からの告白だと後から聞いて、唯子に散々からかわれた。
『唯子が、男で、真一郎が女だね』
「うん、あの時唯子がどんな気持ちだったか、わかる?」
「ああ、唯子は、全く俺の事を男として見てないんだなって、よーくわかった」
「……しんいちろ、本気で言ってる?」
「……冗談だよ、まあ病人に飛ばす冗談じゃなかったか……」
 どきどきしてくる。
 心臓がぱんくしそう……。
 それとも、病気のせい……なのかな。
「唯子は……それでも凄く嬉しかった。唯子が男でも、しんいちろが女でもそれでもいい。だから、ずっとしんいちろの事からかっちゃったんだよ……」
 なんだか、涙が出てきた。
「唯子、しんいちろに告白された気分でいたかったから……」
 声が震える。
「ずっと、見てたよ。しんいちろの恋人にずっとなりたかった……」
「唯子……」
 
「……大体。わかりましたけど……」
 ななかは困ったように弓華を見た。
 弓華も、振られても困るといった顔で肩をすくめた。
「協力してもらえるかな?」
 大輔の声で話すラインにななかが言いにくそうに切り出した。
「ちょっと、本当には信じられなくて、だから、本当にいるなら大輔さんと話させてくれますか?」
 ラインは、じ……とななかの表情を眺めた後肯いた。
「嫌だっつったろうが……やあ、ななか」
「大輔さん?」
「他の何に見える?」
「この場合、それ冗談になりません」
「悪い。でも、あの爺が言ってた事は多分本当だ」
「信じろっていうんですか?」
「ああ、信じてもらうしかないな」
「強引ですよ。強引すぎます!」
「ななか……」
「私はここに、大輔さんにチョコレートを渡しに来たんですよ」
「う……悪いと思ってる。だけどなあ」
 ぐっ。
 ななかが大輔に背伸びして口付けした。
 茶目っ気たっぷりに笑うななか。
「大輔さんが強引だから、私も強引にしちゃった」
 ぽかんとしている大輔。
 からかわれた……。
 この俺が?
 事もあろうに、ななかに?
「チョコ、貰ってください。大輔さん。大好きだから」
 大輔が、呆然とした感情を怒りに向けようとした瞬間、ななかは大輔の前に可愛くラッピングされた包みを差し出した。
 くそ、怒るに怒れん。
 しぶしぶながら、受け取る大輔。
「信じてるに決まってるよ。大輔さんの事は」
 ななかは笑ってそう言って、その眩しさに大輔はつい目を逸らしてしまう。
「終わりましたか?」
 ここの所ずっと当てられっぱなしの弓華はすこぶる機嫌が悪い。
 それでも、大輔がいや、ラインがいなければここまで来れなかっただけに文句も言えない。
 ただでさえずっと、火影がどうしているのか気になるのに。
 生きているか死んでいるのか、自分の背中にある冷たい刃だけが、確固たる存在で、自分の方が希薄なぐらいなのだから。
「ああ、君の探している人はここにいるよ」
 大輔が弓華の胸の内を読んだように、言った。
 ちがう、これはラインとかいう人。
「どこに、いるかわかりますか?」
 怖くて、生きていますか? とは聞けなかった。
「漠然とだけ……」
 ラインが一方に向かって指を差す。
「そちらにいるんですか」
「ああ、だが……」
「だが、なんです?」
「彼には、暗雲が近づいている。彼自身の裁量では抜け出す事が出来ないかもしれない」
 弓華はラインの不気味な予言に、いてもたってもいられなくなる。
「私は行きます……」
 弓華は言うが早いか、闇の中へと姿を躍らせていた。
「良いんですか?」
「彼女は今、もっとも強いものだ。愛しているものを守る為。その想いが彼女自身を守ってくれるだろう」
「追わなくていいんですか?」
「君には、やってもらいたい事がある」
「なんですか」
 不安そうに、息を呑むななか。
「ちびきのいしを壊してもらう」
「ええっ?」
 ラインのとんでもない台詞にななかは思わず素っ頓狂な声を上げた。
 

第50話 枝道

 
「唯子……」
 唯子は、黙って真一郎を見つめていた。
 恋人になりたかった、と言う気持ちそのままの笑顔で。
 不思議な淡い蛍光に彩られた瞳は並みだい゛濡れ光っている。
 真一郎は、唯子をこんなに奇麗だと思った事はなかった。
 告白された事が、そう思わせているのかも知れないけど。
「唯子……」
 もう一度、真一郎は唯子の名を呼ぶと、擦り寄るように唯子に近づいた。
「しんいちろ……?」
 熱で、良く分からないといった感じで唯子が真一郎を呼ぶ。
“頬が、赤くなってるかな……”。
 真一郎がその頬に触れて、ひんやりと気持ちよい感触が唯子に伝わってくる。
 どきどきどきどき。
“心臓が、パンクしちゃう”
 胸を押さえる、苦しいくらいで……。
 真一郎が口を開いて唯子に何かを言おうとした、その瞬間。
「きゃあああああ」
「小鳥!」
 真一郎は即座に立ち上がっていた。
 真一郎が唯子に顔を向けると、力強く肯いていた。
「動くなよ。すぐ戻ってくるからな」
 駆け出していった真一郎の背が闇に溶けて消えていく。
 唯子は不意に心配になった。
 何故だか真一郎が、もう二度と戻ってこないような気がした……。
 真一郎が残していった小さな明かりを見ながら、唯子は小さな心を叱咤して真一郎が戻ってくる事を信じようとしていた。
 
 
 ――――――――――――――――。
 ちりんちりんちりんちりん。
 また聞こえてきた。
 笛の音に、いづみは敏感に反応した。
 しばらく聞こえなくなっていただけに、それはいづみを喜ばせた。
「千堂先輩、また聞こえました」
「そう。近いのかしら」
 銀狼がくんくんと地面の匂いをかいでいる。
「それはわかりません」
「残念ね。そこまではわからないか」
「すいません」
「どうしたの?」
 瞳の声は銀狼にかけられたものだ。
 銀狼はある一点をずっとかぎまわっている。
「良く見ると、ここにずいぶん大きな足跡が」
「まさか、これ本物の足跡ですか?」
 いづみは足跡に気付いてはいたものの、本物ではないだろうと勝手に判断してしまっていた。
 だけど、これをいづみの注意不足とは責められないだろう。
 こんな大きな足跡があっても、普通は偽者としか信じられない。
「あのネコガ出て来る時ここを通ったのかもしれないわね」
「あ、これは」
 いづみが明かりの棒を包んである紙を見つけ出した。
「じゃあ、さっきまで相川くん達はここに痛という事なんですね」
「そうみたいです」
 瞳の顔に久しぶりの笑みが浮かぶ。
 ――――――――――――――――。
 ちりんちりんちりんちりん。
 まだ笛の音は続いていた。
「何か大変な目に合ってるのかもしれませんね」
「急ぎましょう」
 二人は銀狼を連れ洞窟の中を先に急いだ。
 そして、たどり着いた先には唯子の側で悲壮な顔をした小鳥が笛を吹き続けている姿だった。
 
 
「きゃあああ、真くん。真くん」
「小鳥? うわあああああ」
 真一郎はその光景の異様さに、思わず立ち止まってしまう。
 小鳥は、壁に食べられようとしていた。
 触手のように壁が伸び、小鳥の体を捕らえてはずるずると引きずり込んでいく。
 脅える小鳥の手から、明かりがぽとりと落ちる。
 その光景にようやく我に帰った真一郎は小鳥に手を差し伸べる。
 小鳥が真一郎の手を取った。
 「小鳥。頑張れ」
 思いっきり、腕を引っ張る真一郎に小鳥が顔を歪める。
 それでも、痛いとは言わなかった。
 「っく・く……ごめん、ね。真くん」
 「馬鹿、何言ってんだ。黙ってろ……」
 ひたりと、触手が真一郎にも触れる。
“くっ、気持ち悪いなあ”
“なんだよこれ”
“一体ここはどこなんだ?”
 取り止めも無い思いが浮かんでは消えていく。
「もう良い、もう良いよ真くん。このままじゃ真くんまで……」
 小鳥が真一郎から手を離そうとする。
 だけど。
「真くん、手離して! 離してよぅ!」
「馬鹿鳥……ここで手を離すようなやつは、男じゃないよ」
 ずずず。
 でも、本気でまずいな。
 このままじゃ飲み込まれちゃう。
「助けてくれ。くそう、誰かあああ!」
 叫び声がわんわんと壁を反響して伝わっていく。
“小鳥がまた泣いてる”
“守らなくちゃいけないのに”
“俺が、小鳥を守ってやらなくちゃいけないのに”
“守れないなんて、絶対やだ!”
「誰でも良いんだ。力を貸してくれ! 小鳥が、小鳥が!」
「大丈夫、真一郎。力貸してあげるよ」
 その声は誰にも聞こえなかったかもしれない。
 でも七瀬が放った力は劇的に効力を現した。
 深い亀裂が走り、耳を押さえたくなる悲鳴が響き渡った。
 見ていた真一郎と小鳥にはそれだけがわかった。
 七瀬は見ていた、壁の中にうごめく魍魎どもを。
 そして、それらが自分の放つ風で消え去っていくのを。
「切り裂くのは簡単なのよ。風の量は必要ないから」
 それに、現実のものではないから。
 小鳥は、真一郎の腕の中に収まっていた。
「はあ、ふう……」
「真くんの馬鹿。どうして離してくれなかったの?」
「うるさい。黙れ。小鳥……はあはあはあ」
 息が苦しくてつい、命令口調で小鳥に言ってしまう。
「嫌だよ、真くん。死んじゃうかも知れなかったんだよ?」
「……それは小鳥だって同じじゃないか」
「でも……」
「助かったんだから、良いじゃないか……」
 真一郎の言葉に、あの感触を思い出したのか小鳥は体を震わす。
 そのまま、震えが止まらなくなってしまったようだった。
 ぎゅむ。
 真一郎が小鳥の震えを押え込んでしまおうとするように、力いっぱい抱きしめる。
「真くん……ありがとう」
「素直になったかー。ところで、水は見つかったのか?」
「ううん、ほら。聞こえてくるでしょ?」
 かすかに水の流れる音が聞こえてくる。
「河かな?」
「そうみたいだけど、全然近くにならないから」
「そっか、じゃあ戻ろうぜ」
「うん」
 さすがにあんな目に合った後では小鳥も素直に戻る気になったようだった。
 真一郎は立ち上がって、小鳥も立ち上がらせてやる。
「あ……」
 小鳥は、自分の明かりを落とした場所に銀色の何かが落ちているのに気が付いた。
「あれは笛じゃないか」
 真一郎も小鳥の様子で気付いたみたいだった。
 顔を見合わせてみたが、置いていくわけにも行かない。
 恐る恐る、壁に近づいていくが何にも起こらない。
「しかし、どうしてさっきは壊れたのかな?」
 壁には大きな穴が開いている。
 真一郎は床の破片に触ったりしながら、もうそれが動いたりしない事を確認していく。
 どうやら平気だと、真一郎が近づいて笛を拾い上げた。
 ぼとぼと。
「あっ」
 屈み込んだ途端に真一郎のコートのポケットから大事なものが転げ落ちた。
「チョコレート」
 笛をまた取り落しながら真一郎はチョコレートを空中で受け止めようとする。
 びしっ。
 ……弾いてしまって、壁の穴を越えて転がり込んでしまった。
 仕方なく、真一郎は壁の中を覗き込む。
 あった。
 一段低くなっているそこはどこかの通路のようだ。
「へえ」
 真一郎が、そこへと降りる。
「真くん!」
 小鳥の注意を促す声。
「大丈夫だよ」
 何も無い様子に安心して答えを返す真一郎。しかしチョコレートを拾って後ろを向いた時、そこにはただの壁が一面を覆っていた。
「小鳥?」
「真くん?」
 ほっとする。どうやらまだ小鳥はそこにいるらしい。
「どうしたんだこれ?」
「うん、真くんが入ったら。また穴がふさがっちゃったんだよ」
「そうか……もうこいつは動いてないみたいだけど……小鳥、笛を拾って早いとこ唯子の所に帰れ。それで笛でいづみを呼ぶんだ」
「でも、真くんを放っておけないよ……」
「馬鹿、唯子は怪我してて、しかも病人なんだぞ。小鳥がついててやらなくちゃ」
「わかった。でも必ず戻ってくるからね。御剣さん来てくれたら、絶対戻ってくるから」
「わかった。小鳥。早く行け……」
“寂しい”
 ぞくっとするほど一人にされるのは心細かった。
 小鳥に、行かないでくれと言いたくてめまいがしそうなくらいに。
 でも、小鳥は行ってしまった。
 真一郎は周りに目を向けた。
 どこかへ通じているのかその通路の中を一縷の期待を持って真一郎は歩き出す。
 もしかしたら、小鳥達のいた所に戻れるかもしれない。
 ただそれだけを信じて。
 
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