とらいあんぐる八犬伝

 

第51話 『さくら』

 
 小鳥達と別れてどれぐらい時間が経ったのだろう。
 緊張しているせいか、疲れはまったく感じないけど、恐怖で押しつぶされそうだった。
 いつ、横の壁がまた襲い掛かってくるかも知れないし、大きな足跡の持ち主に出会うかしれない。
 さすがに、小鳥達の事まで心配している余裕は無かった。
 ーーーー?
 音がかすかにした。
“なんだろう”
 いやが上にも、真一郎は心臓がばくばくいいはじめるのを聞いた。
 息を潜めてそちらを伺う。
 それでも、相手は真一郎に気が付いた。
「せ…んぱい……?」
 いぶかしげじゃない。どちらかというと脅えきった声。
「さくら。どうしてここに」
 声に嬉しさが混じってしまう。
 こんなところで知り合いに会えるなんて思っても見なかったし、それがさくらならなおさら嬉しい。
「私は……」
 真一郎が近寄っていくと、『さくら』は後ずさりした。
 背中を向けて逃げだそうとまでする『さくら』
“なんで? 俺さくらになんかしたっけ”
「待ってよ、さくら。俺、迷ってるんだ」
『さくら』は、真一郎の困った声を聞き逃す事は出来なかった。
「……わかりました。少しだけ、案内します」
「どうしたの? さくら様子が変だよ」
「何でもないです! 『私』の事は気にかけないで」
 何が気に触ったのかわからない真一郎はちょっとしゅんとしてしまう。
「ごめん。さくらは人にそういう事言われるの嫌いだもんね」
“ちがう。そうじゃない。先輩に心配してもらえるのは嬉しい”
“でも、先輩がさくらって呼びかけるたび、私は違うんだって気付かされるの”
 言えない事。
 だから、真一郎に『さくら』は首を振って答える。
「いいえ、私が悪いんです」
「……?」
“さくらが、こういう謝りかたをするなんて珍しい”
「それじゃ、外に出る道に案内します」
「ありがとう」
 一緒に歩き出して少しして『さくら』が真一郎に話し掛けてきた。
「先輩、一人でここに来たんですか?」
「いや。唯子と小鳥が一緒にいたんだけど……ここなんなの? 小鳥が壁に食べられそうになったんだけど……」
 言ってみて、凄い状況だなと真一郎は思った。
「壁に? ……何かの間違いじゃないですか?」
「いや、間違いじゃないよ、俺まで食べられそうになったんだもの」
『さくら』は困ってしまう。
「……知らない方が良いです。でも、壁が襲うなんていうのは初めて聞きました」
「……さくらの関係なの? ここ」
 真一郎の質問にまた戸惑う。
「私にも、関係あるけど……先輩にも、関係あります」
「俺に?」
「だって、ここは黄泉路ですから」
 どきっとする。
 黄泉路?
「それって……俺死んじゃったって事?」
「そうじゃない。きっと間違って迷い込んじゃったんです。いまこの辺は凄く不安定だから……」
「また、何か起こってるの?」
 真一郎の頭に氷村遊という、軟派で馬鹿でどうしようもない嫌味なやつの顔が浮かぶ。
「ここの所の変な事みんなあいつがまたなんかやったとか……」
「あの雪なんかの事ですか?」
「うん、それとか……そうだ、さくらにあったら聞きたい事があったんだ」
「え? なんですか」
「実はさ……」
 真一郎はいづみから聞いた話を『さくら』にする。
「その話……」
「さくらじゃ無いんでしょ?」
 青ざめた『さくら』が真一郎の言葉に辛そうにする。
「私の事です……」
“先輩の顔が、怖くて見れない。胸が痛い……”
“なじられると思った”
“殴られるかもしれない”
“理由を聞かれるかもしれない”
“優しい先輩ならありえる事。だけど、今度はなんて答えたら言いんだろう”
“一人で寂しかったから?”
“自分が影の妹だから……?”
“姉さんに、自分に嫉妬して、絶望して?”
“言えるわけない”
“先輩にそんな事言えるわけない”
“先輩”
“嫌われたくない”
“手を伸ばせば届く距離にいるんだ。ずっと手を出せなかった先輩”
“今自分の中の棒をひょいと思った方向に倒すだけで、先輩を永遠に私の虜に出来る”
“大好きな先輩を……”
“なじられたくない”
“本当に絶望してしまうから”
“殴られたくない”
“きっと心が痛すぎるから”
“理由を聞かれたくない”
“先輩の優しさが私の心を締め付けるから”
“だったら、全部奪ってしまおう”
“力を込めて先輩の瞳を見るだけ、たったそれだけ……”
“先輩!”
 深い、奇麗な先輩の瞳が目に入った。
 ……そんな事、最初から出来るわけなかった。
“なじられたくないのも、殴られたくないのも、理由を聞かれたくないのもみんな”
“……先輩を悲しませたくないからだから”
“それが一番辛い事だから”
「そうか……」
 だけど、真一郎の答えはそれだけだった。
 長い間の沈黙の後、そう言っただけだった。
「どうして?」
「どうしてって何が?」
「だって、聞かないんですか理由を。なじったり殴ったりしてもおかしくないのに……」
「さくらは、理由聞いて欲しかったの?」
『さくら』は首を振って、ようやく気付いた。
 真一郎が『さくら』が気にした事をするはずが無かった事に。
「でしょ? さくらが言わないんだったら、それには絶対何か言えない訳があるんだと信じてるから」
 ぎゅっと、『さくら』は拳を握り締めた。
「私が、影の妹でも? 私は見ていただけでも? 本当はこうして在るはずのない者でも?」
 全部の想いを込めて、『さくら』は大好きな先輩に言葉をぶつけた。
 想いの強さに圧倒されて、真一郎がしばし黙り込む。
「はっきり言ってね、さくらが言っている事は俺にはよく分からない。でも、たった一つだけ言える事があるよ」
 真一郎は、そこまで言ってふうと息を吐く。
「“さくら”は“さくら”だ」
「あ………………」
「今こうして、迷ってる俺を助けてくれるさくら。七瀬と俺の両方の為に辛い役を背負ってくれたさくら。吸血鬼で人狼で、でも可愛くて優しい俺の後輩。影であろうがなんだろうが、全部俺にとって大切な“さくら”だよ」
 言葉に、ならないーーーーーー。
『さくら』の胸の中いっぱいに何かがあふれている。
 きっと、愛なんて陳腐なものじゃない。
 心の共鳴。
 魂の共振。
 理性なんかで、もう涙は止められやしなかった。
 
 ずいぶん泣いていた気がした。
“暖かい胸。安心する……鼓動の音”
“生きているんだ”
“自分の鼓動の音も聞こえる……”
“私も生きてるんだ……”
 くす。
「どうしたの? さくら、気は済んだ?」
「うん、でももう少しだけ、こうさせていてください」
“なくしていたもの、先輩が全部くれた”
“ううん。 なくしていたと思っていたもの全部、自分の中にあった”
“先輩が見つけてくれた、あるって事を教えてくれた”
『君には出来る事がある』
 火影の言葉が思い出された。
「そう」
『行こう。やらなくちゃいけない事いっぱいあるんだから』
『自分』の言葉。
「うん」
“そうだ、私には先輩の想いに応える義務がある”
“たくさんしなくちゃならない”
「先輩……この道をまっすぐ行って、突き当たりを左に曲がると扉があります。そこから外に出られます」
「さくらはどうするの?」
「私はまだしなくちゃいけない事、ありますから」
『さくら』は真一郎の胸から顔を引き離す。
「小鳥達もいるんだ、小鳥達も助けないと……」
「わかりました。私が必ず外までお送りします」
「ありがとう」
「ううん、ありがとうを言わなくちゃいけないのは私の方。先輩ありがとう」
「どういたしまして。って大した事はしてないよ」
「先輩、これを……」
「え?」
『さくら』が差し出したものを見て真一郎が自分のポケットをごそごそと探る。
 奇麗な水晶の珠。
 真一郎は七瀬の珠を見つけ出す。
「これは、さくらのものなの?」
「ええ、姉さんに会ったら渡してください……」
「姉さん?」
「お願いします」
『さくら』は真一郎の返事も聞かぬうちにぺこりと頭を下げると走り去っていった。
 
 
「じゃあ、相川くんはここにはいないのね?」
「はい」
 小鳥がしゃくりあげながら答えた。
「その場所に行ってみましょう」
 いづみの質問に言い辛そうに瞳が応じる。
「多分そこから入るのは、無理じゃないかしら。それとも、壁に食べられる危険を冒してみます?」
 冷たくも感じられる瞳の言葉に小鳥が混乱した言葉を投げかける。
「私には何も出来ないから、真くん助けてください。唯子もこんなに熱が上がってるし……」
「助けないなんて言ってるわけじゃないのよ、野々村さん」
「で、でも……」
「どこか、入り口がほかにあるはずだわ。彼らの方から、招いているようなものなんですから」
 うおおおおん。
 銀狼の吠え声。
「鷹城さんをこの子に乗せていきましょう。それが一番多分早く移動できるわ」
「戻れないんですか?」
「相川くんの事も気になるし、これがどうにかならなきゃ、戻れないでしょうね」
 瞳は珠に浮かんだ礼の字を小鳥に示す。
「じゃあ、唯子も真くんも、その珠を持ってたからここに来たの?」
「わからない……これは人知を超えた事態だもの。私にも判断できないんです」
 申し分けなさそうに瞳は言う。
「野々村、今戻ったとして、またここに来れるかどうかわからないんだ。唯子には悪いが、今はこのまま進もう」
「うん、ごめんなさい。御剣さんや千堂さんが正しいと思う。ただ、私も一緒に付いていっていいよね」
「当たり前だろ。野々村だけ置いてきたりしたら後で相川に申し訳が立たない」
「そうですよ。私達、相川くんにふられたくないですから」
 にっこり笑って言う瞳に、ぽかんと口を開けて驚く小鳥と慌てて瞳の口を閉じさせようとしたいづみ。
「せ、千堂先輩?」
 だけど、そんないづみの耳元に真剣な声で瞳は呟いた。
「張り詰めてばっかりじゃ、切れちゃうわよいづみさん。これから先は、どんなことになるかわからないんだから。心にだけは余裕を持っておきなさい」
「は、はい」
 瞳の言葉を聞いて、いづみは気を引き締め直した。
 

第52話 再会

 
「唯子、動ける?」
 小鳥が、銀狼に唯子を乗せようと、必死で唯子を助け起こす。
 ちなみに、最初、小鳥が銀狼を見た時には一悶着あったのだが、今では小鳥は銀狼にかなりなついていた。
「大丈夫、だよ。小鳥は心配性なんだから……」
 唯子の意識はかなり、もうろうとしているようで、小鳥と違って最初から銀狼を恐れてもいなかった。
「鷹城さん、ごめんなさい。本当はあなたの事を考えたら、すぐにでも帰らなくちゃ行けないのに」
 小鳥を手伝って、肩を貸す瞳といづみ。
「はや、瞳さんにそんな事、いいですよ〜。だって、しんいちろが……」
「唯子、一応足の方は処置しといたけど、無理するなよ」
 いづみが、無理に動こうとした唯子を制して言った。
「うう。……うわあ、ふかふかだねぇ」
 寝かせられた唯子は、その毛並みの感触の心地よさにうっとりとしている。
「しかし、不思議な狼ですね」
「ええ……」
 いづみは応えながら、これが『八房』の真の姿なのではないかと思いはじめていた。
 その証拠に、これまで時折息吹を感じていた『八房』にそれが感じられなくなっていた。
 その代わりに、なんとなく、この狼が自分に何かを伝えようとしている事がわかるようになっていた。
 それは少し、怖い感覚だった。
 自分が、人間でなくなってしまうような、ぞろりとした違和感があった。
 でも、それはひどく甘美な誘惑の響きも持っている。
 いづみがずっと感じているさまざまな恐怖や苦痛。
 能力に対するコンプレックス、理想と現実のギャップ。
 真一郎に対する想いだってそうだ。
 本当は、何よりも優先させたい想い。
 だけど、その想いのままに動く事はいづみには出来ない。
 いづみには、やっぱり忍者の家元の娘として育てられた、18年間があるから。
 だからこそ、あの時真一郎のために外に残ろうとした時、あんなに胸が痛くなったのだ。
 いづみはその自分の行動を、ずっと責め続けていた。
 真一郎達が傷ついているかもしれない、そんな理由を付けなければ真一郎の為に動けない自分の潔くない態度が嫌だった。
 そして、大局がわかっているのに、そんな理由で行動を否定した自分もひどく嫌だった。
 瞳のような強さが欲しかった。
 真一郎に対する想いは同じ。
 想いの深さも、瞳と話していていづみは思い知っている。
 それでも、真一郎よりも自分の信じるままに動けた瞳の潔さに、いづみは嫉妬、羨望してしまう。
 強さが欲しかった。
 真一郎のためにと行動して、言い訳などしない、他を省みない強さ。
 大局のために自分を押し殺す事の出来る、信念の強さ。
 それが、誘惑に乗って、『八房』に明け渡せば、得られるような気がずっとしていた。
 るぅぅぅぅぅぅぅ。
 銀狼のうなり声に、いづみははっと我を取り戻す。
“いま、なにを考えていたんだっけ……全然思い出せない”
「いづみさん、行きましょう」
「あ、はい」
 気にかかったものの、思い出せないならたいしたことではないだろうと気にしない事にしてしまう。
 急ぐいづみをじっと推し量るように銀狼が見つめていた。
 
 
「行っちゃった……でも、あれで良かったのかな?」
 さくらが、ひどく悩んでいるみたいだったのは真一郎にもわかった。
 でも、さくらの言葉はよく分からない事ばかりだったから自分の答えでさくらは満足できたんだろうかなんて思ってしまう。
「あの子……さくらだよねえ」
 七瀬も不思議に思う。
 真一郎と別れるような羽目にはならなかったが、この状況ではさくらが側にいてくれるのは非常に心強かったんだけど。
 だって、あまりに出来過ぎている。
 真一郎だけ小鳥達から引き離されてこの中に囚われるなんて。
 大体、真一郎が中に入り込むまで、ぴくりとも動く様子を見せなかった壁がいきなり閉じるなんて。
“変だ”
“絶対ーーーーっ、変!”
「そりゃそうだよ……くっくっくっ。私がここに招待したんだからねえ」
「誰?」
 真一郎が、暗闇の奥からかけられた声に反応する。
 一方七瀬は、その声にぞくぅっと背筋を悪寒が駆け上っていた。
「また来たの?」
「ふふふっ。そう言えば、貴方に会うのは初めてだったわね」
 七瀬の問いかけは無視して、真一郎に甘い声を出すシフ。
 その姿が、闇の中からあらわになる。
「あっ……」
「うわっ……」
 驚きの声が同時に上がった。
 妖艶な美女がきわどい服装で現れたのだから、真一郎が思わず声を発したのもわかる。
「うふふ、可愛い子ね」
「ちょっと、なによ、あんたは! 真一郎も何どきどきしてんの!」
「うるさいわね。私が若くなったんでびびってるの?」
 挑戦的な視線を向けられて、七瀬がいきり立つ。
「ふん、見た目だけ若返ったって中身がばばあじゃない」
「ふふふ。邪魔出来るとでも思ってるの?」
「何にもできないかどうか、もう一度思い知らせてあげようか」
 風が七瀬の周りに渦巻きはじめる。
 はずだった。
 なのに、何も起きなかった……。
“なんで?”
 呆然とする七瀬。
「くっくっくっ。もうあんたの力はわかってるからね。最初から封じさせてもらったんだよ」
「何言ってるんですか?」
 真一郎は七瀬とシフの会話がよく分からないから、突然出てきて独り言を言う怪しい人間だと思って少し引いているみたいだ。
「ふふふ。そうよね。真一郎くんには、見えないんだものね」
 優しく、諭すように微笑むシフ。
“こいつ……!”
「貴方は誰ですか?」
「私はシフ。貴方を迎えに来たのよ」
「迎え……に?」
「そう、さくらの知り合いなのよ、私」
 シフはさっきまでのやり取りを隠れて見ていたに違いなかった。
「真一郎! こんなばばあの言う事聞かないで」
 でも、その声は真一郎には届かない。
「そうだったんですか」
 真一郎はなんだか、納得してしまったみたいだった。
「凄く、美人だからちょっとびっくりして……でも、さくらの知り合いならわかる気がするな」
 顔を伏せて照れまくっている。
“何それ……”
 ニヤリと意味ありげに微笑むシフ。
 腹立たしかった。
“真一郎もそうだけど、こんな時に肝心の力が使えないなんて……”
 なぜなのか。
 そんな事を七瀬が呆然と考えている間にも、シフは真一郎に近づいていく。
「だめ! 真一郎。お願い、こいつから逃げて!」
 真一郎とシフの間に立ちはだかって七瀬は叫ぶ。
 わかるわけないのに、それでも、やらないわけには行かなかった。
“だって、私は真一郎を護る為だけにいるんだ”
 本当に幽霊だった頃、真一郎を悲しませた。
 私は、悲しませたくなかったけど、出来る事は何も無くて。
 だから、せめて今は真一郎を護りたい。
 真一郎を守る為だけに、ある力。
 守れなかったら、せっかく七瀬に任せてくれた『さくら』にも申し訳がたたない。
 でも風は使えない。
 だったら。
 七瀬は、シフに殴り掛かった。
 挌闘技なんてやった事無い七瀬の拳は、きっと滑稽だったに違いない。
 それでも。
 どんなに、避けられても。
 七瀬はそうして時間を稼がなくちゃならなかった。
“誰か来て。真一郎を護ってくれるなら誰でもいいから! さくら、あんた何やってるのよ!”
 涙なんか、流してる余裕は無い。
 力を込められた拳。だけど、シフにとっては当たってもたいしたことの無い程度のものだったろう。
 それなのに、シフは丁寧にその全てから身を躱す。
「無駄だよ、うっとうしい。いいかげん、諦めな」
 ずっと、殴り掛かる七瀬に最初こそ面白そうにしていたシフも、延々と続くその行為に腹が立ってきたようだ。
 何より真一郎が不信な目で見つめている。
「この幽霊が!」
 シフの叫びとともに闇色のゲートが口を開いた。
 七瀬は、そのゲートに拳を突っ込ませてしまう。
「あ……」
 急速に力が失われていく。
 吸い取っている。七瀬の力を全部、なくしてしまおうとしている。
 引き抜く事も出来ない。
「真一郎ーーーーっ!!」
 七瀬の血を吐くような叫び。
「幽霊?」
 真一郎は、途端に心臓が大きく高鳴っていた。
 シフの言葉と、何かが真一郎に想いを伝えていた。
“馬鹿らしい、幽霊って聞いただけで七瀬だなんて思うなんて”
 でも、『それ』を見た瞬間真一郎は叫んでいた。
「七瀬! 七瀬! いるんだな? 今ここにいてくれるんだな?」
 真一郎の手の中でいっそうの光を放っていた珠。
 それが、真一郎に想いを伝えてくれていたんだろう。
「真一郎……」
 消えかかっていた七瀬がかすれた声を出す。
 聞こえるはずの無い声。でも、今度は真一郎に聞こえた。
「七瀬ーーーー!!」
 真一郎の叫びに珠が強い光を放つ。
「ぎゃっ」
 シフがその光で目をつぶされて苦しみの声を上げる。
 光が去った時、闇色のゲートもシフも消え去っていた。
 代わりに、七瀬が、ずっともう一度会いたいと想っていた七瀬が、真一郎の前に立っていた。
「えへへ。真一郎。また、会えたね」
 照れくさそうに、笑った七瀬。
「七瀬、俺……」
 微笑む七瀬を見た瞬間、真一郎の言葉はもう声にならなかった。
 

第53話 闇の招き

 
 ばしっ。
 瞳の持つ棍と、いづみの持つ『八房』がぶつかって重い音を立てた。
『八房』を持つ手にしびれが走って、いづみが顔を顰める。
 瞳の方にはなんのダメージにもなっていないようだ。
「千堂先輩。本当に好きなら……負けないでください!」
 いづみの声が届かないのか、瞳に変わった様子はない。
「はっ」
 巻き込むように打たれた棍を受け損ねていづみが地面に叩き付けられる。
「こんなこと、本当に相川が喜ぶと思っているんですか!」
「いづみさんこそ、そんな事をしていいと思っているの?」
 瞳が見下すように言う。
「……でも、これは仕方ない事です!」
 いづみの、悲しみを押し殺すような声。
「そう」
 瞳が辛そうに棍を頭上に振り上げた。
 一方では、七瀬が苦痛にのた打ち回っている。
 黒く染まった水晶球が七瀬の想いもどす黒く染めようとしている。
「いや、真一郎、真一郎!」
 その叫びに、真一郎は答えてくれない。
 実体化している体が徐々に闇に覆われていく。
「七瀬先輩……」
 七瀬の側で必死に闇の侵攻を食い止めようとしているさくら。
 側にぴくりとも動かない妹までもが転がっている。
 腹部からの出血は、まだ止まらない。
「野々村先輩!」
 さくらが小鳥を呼ぶ。
 地面に横たえられた唯子の前で小鳥は首を振る。
「さくらちゃん。……出来ない、出来ないよ……」
 小鳥に、期待するのは無理だ。
“強制なんか出来ない”
“巻き込んだのは私たちなんだから”
 さくらは、とうとう覚悟を固めた。
 ゆっくりと立ちあがり、ゼオに向き直るーーーーーー。
 
 自室で、ゼオはゆっくりと目を開けた。
「未来知覚……か」
 ゼオは今まで見ていた夢を検討して見る。
 あれが、自分の敵だというのか。
 あんな女ばかりが?
 だが、どう見ても自分に優勢な状況だった。
 特に気にする事も無いのだろう。
「しかし、シフめ。相変わらず小細工が好きな女だ」
 馬鹿にした口調ながら、ゼオの表情は面白そうだ。
 楽しみだ。
 120年前、呪いを打ち破る為にわざわざ呪いの輪の中に入り込んで死んだユニケ。
「その精一杯の抵抗がどこまで出来るか、見せてもらおう」
 ゼオはふと不思議になる。
 自分は呪いを破られる事を望んでいるのだろうか、と。
 これは、一考する余地があるかもしれなかった。
 ゼオは笑ってワインをグラスに注いだ。
「そう言えば、未来知覚のような感覚能力は人狼族の方が強かったな」
 
 
 肩が痛む。
 ほんのかすり傷だと思っていたが、毒でも仕込まれていたのか?
 思わずよろめきそうになって、壁で体を支える。
 激痛が走って、そのままずるずると滑り落ちる。
「く、くく……」
“このままこんな所で、死んでたまるか”
 必死でこらえていると、次第に痛みが収まっていくのが感じられた。
「そう言えば……弓華との約束。破ってしまったな」
 今ごろ弓華はどうしているだろう。
 火影は痛みで取り留めの無い頭で愛しい少女の事を考える。
 あの年の少女が闇の世界に住む事になったのにはどれだけのいきさつがあったのか。
 強さと、その逆の火影に見せてくれた弱さ。
 純粋なまなざし。
 浮かんでは消えていく、弓華の面影。
 最後に会った時の不安そうに見ていた表情が頭に残る。
「心配しないでくれ……必ず、戻るから君の元に」
 それでも、想い出の中の弓華は微笑んでくれなかった。
「……そろそろ、移動しなくては」
 火影はそれを振り切って、立ち上がった。
 しかし、広い。
 この地下に広がる迷宮のどこかというものの、これでは見つけるのは不可能に近い。
「やはり、手助けが欲しいな」
 ここ数日でずいぶん調べたつもりだが、それでも後半分は未調査の場所がある。
 ゼオという男の居場所はわかっているが、その前にシフという女吸血鬼を倒しておきたい。
 そうでなければ、後に禍根を残す事になるだろう。
 そういう意味では、『さくら』を説得した方が本当は早かったのかもしれない。
 だが、あのまま火影が説得を続けても、『さくら』は受け入れてくれなかっただろう。
『さくら』には時間を置く事が必要だった。
“仕方ない、しらみつぶしに探すしかないのか?”
『ふふっそんなに私に会いたいのかい? 美男子』
 シフの声が聞こえた。
「化け物め……」
『くふふ、その化け物の体がどれだけ良いか教えてやるよ』
 壁全部から声が聞こえてくる。
 いくら、不死身の肉体を持っているからといって、シフのこの再生能力はただ者じゃない。
“一体こいつは何者だ”
『怖いかい。私が。恐れる事はないんだよ、良くしてあげるからね。さあ、おいで』
“心も読むのか”
 ずぶ。
 足元が沈みはじめた。
 跳躍しようとするが、その前に触手が伸びて火影を拘束する。
「うっとうしい……っ!」
 切り払っても切り払っても、後から後から沸いてくる。
 その間にも沈み続けた足元のせいで、ほとんどの身動きが取れなくなってしまう。
 地面に刀を突き立てるが、少しも堪えていないみたいだ。
「火影!」
 その時、自分の名を呼ぶ声が聞こえて思わず火影は耳を疑った。
“まさか、彼女がここにいるはずが……”
 だけど、目の前に現れたのは紛れも無く弓華だった。
「はあっ」
 弓華のサイと言う名の武器が地面に食い込む。
『お前みたいな女は要らないんだよ』
「火影は私の大切な人。誰だか知らないけど、渡しません」
 弓華はそう宣言して、火影の手をつかむ。
 引きずり込もうとする力と、弓華のとどめようとする力が拮抗して動きを止める。
 無言の戦い。
 火影も何も言わない。必死で這い出ようと努力していた。
『しつこい女だね……わかったよ。あんたも案内してやろうじゃないか』
 途端に弓華の足元までが体を飲み込みはじめた。
「火影」
「魔女め……。弓華、すまない」
 敢えて、ここに来た理由を聞く必要は無かった。
 火影にもうすうすわかっていた事だったから。
 しっかりと二人は寄り添い、口付けを交わしながら地面に飲み込まれていった。
 

第54話 別れるとしても

 
「本当に、七瀬なんだな?」
「うん……本当に春原七瀬だよ」
「本当の本当にだな」
「疑い深いな……真一郎。ほら」
 七瀬が、真一郎の頬に手を添えた。
 暖かかった。
 初めて感じる七瀬の体温。
 それは真一郎の喜びのせいか、ひどく熱く感じた。
「七瀬、俺。あの時、あの時……」
 言えなかった言葉。伝えられなかった想い。
「私、聞こえてたよ。私の事好きだったって言ってくれてたの……」
「七瀬……」
 七瀬は真一郎のそのまなざしだけで全てが報われると思った。
“でも……”
「うん、もう一度言うけど。私は本物の『春原七瀬』なの」
 真一郎が『?』という顔をする。
「現実にいちゃいけないの」
“痛いな……”
「『春原七瀬』は何十年も前に死んでる。そして、幽霊になって残ってた魂も、もういないわ」
「じゃあ、ここにいる七瀬は?」
「本物だっていったでしょ。『春原七瀬』の最後に残された想いの連なり。それが私」
「想い、想いって……」
「私も、ずっと一緒にいたかったな。真一郎が優しくて嬉しいな。真一郎の笑顔見たいな。真一郎、今何してるかな。真一郎怒らせちゃったかな。真一郎……」
「……」
「そんな想いだけの集合体。本当は何かの意識も意志も無い、漂うだけのモノ」
「そんな私が、考えたり、こうして真一郎に話し掛けたり出来るのは、きっと絆のせい」
「絆?」
「真一郎が、私に会いたいと思ってくれたから。魂を、私の形の無い想いに結んでくれたから……」
いったん、七瀬は微笑みを浮かべた。だが、それは一時で消え去り、見ている真一郎の胸が痛むほどの悲しみをたたえた。
「真一郎の持ってる珠が私と真一郎を結ぶ力になってくれてるんだ。でもね、それも少しの間だけ。また、すぐに別れなくちゃ、いけないの」
「なんで? どうしてなんだよ」
「真一郎。もうすぐ、皆終わるから。今のこのおかしな事件が終わったら。私は私の元に帰らなくちゃ行けない」
「そんな。それなら何の為に会ったんだよ。こんなことなら……」
「そうだね。あの寒い12月、私達は出会わなければ良かったね」
「……違う! 俺はそんなつもりで……」
「違わないよ。真一郎はあの時、旧校舎に来た事、後悔してる?」
「してるわけない……」
「でしょ。だったら、今私達が出会えた事、それは良い事だよね」
「! ごめん、七瀬。いくら辛い別れがあるからって、出会えた今まで悲しいものにしてしまわなくても良いんだよな」
「うん、真一郎。今でも私の事好き?」
「それは、当然だよ。七瀬が、大好きだ」
「じゃあ、もう一つだけ」
「何?」
「必ず、私はまた会いに来る。その時の私は春原七瀬じゃないけれど。その代わり、今度は真一郎と一緒に過ごしても誰にも文句の言われない女の子になってくる」
「でもねその想い、縛られないで欲しい。それは何年先の事になるかわからないから」
「そんな、いくらだって……」
「待って、言わないで。……たった3週間なんだよ。私にとってはそりゃ、何より大切な3週間だったけど、私が会いに来るまでの長い間も真一郎はずっと生きていくんだよ」
「どうして、どうして、待っていて欲しいって言ってくれないんだ?」
「……真一郎。そんな事言うと、私本当に言いたくなるじゃない」
「言えよ」
「駄目。真一郎、私と別れた後にも、いろいろあったでしょ。大切な人、いっぱい増えたでしょ? 好きでしょ? 彼女達の事も」
「そんな……」
「真一郎は今、私に会えて想い出を思い出して、私が好きだった気持ちを思い起こそうとしている。でもね、そんなの嫌だよ。私を忘れそうになって、それでも、その気持ちを無くしてしまうのが怖くて、すがって、思い出して必死に止めようとしないで欲しいの。私は、いつ会いに来れるかもわからないのに、そこからの一生私に縛り付けたくないんだよ」
「だからね、無理に想わないで欲しい。長い間経ってもし、それでも……もし、ずっと私を好きでいてくれたら、私が会いにいった時に、応えて……」
「それで良いの?」
 そうとしか聞けない自分が真一郎は情けなかった。
 自分の心の赴くまま、好きという気持ちを思い出したりしているわけじゃないと言えなかった事が。
 ただ、言いたくても七瀬はそれでも、真一郎に同じ事を言ったんだろう。
「良いよ。ただ、この事が終わるまでは、私しっかり、他の人達からも真一郎を守るよ」
「ええーっ」
「こら、真一郎! なにそれ」
 むかぷんと怒る七瀬。
 真一郎は無理に笑いながら、今のこの一瞬を大切にしようと改めて心に決めていた。
 
「待って……誰か来る」
「誰かって?」
「そんなの……」
 知らないと七瀬が言おうとした瞬間、相手から声が掛かった。
「先輩?」
 闇の奥から姿を現したのは、さくらだった。
「やっぱり先輩。どうして、こんな所にいるんですか」
 さくらは顔が青ざめている。
「さくら……どうしてって? また戻ってきたの?」
 話が、かみ合っていない。
 互いにそれが良く分かったのだけれど、うまく説明が出来なかった。
「まあまあ、さくらも真一郎も落ち着いて」
「七瀬先輩、まで、ここに?」
 七瀬の存在に全く気付かなかったのか、さくらが今更に驚きの声を上げる。
「はぁい。さくら。とりあえず元気でやってるわよ」
「まだ、こんな所でうろうろとしてたんですか?」
「違うわよ。全く、ああ、一人ずつ説明しなくちゃいけないみたいね互いの状況を……」
 そう言って、七瀬がまず自分の事を話しはじめた。
 次いで真一郎、さくらが順番に話を終える。
「ほえー、じゃあ、さっきのは『さくら』なんだ」
「聞いてるだけだとなんだか良く分からないよ七瀬」
「変な事突っ込まないでよ、真一郎」
「それじゃあ、先輩には、何もしなかったんですね?」
「うん、『さくら』も良い子だったよ」
「ありがとう、先輩」
「あ、そうだ。真一郎『さくら』から姉さんにって預かり物してたでしょ」
「ああ、そうだった。これはつまり、さくらに渡してくれって事だったんだな」
「なんですか?」
 真一郎が、取り出した『智』の珠にさくらが目を丸くする。
「これを? 『さくら』が?」
「うん」
「そうですか……そうだったんですか」
 しんみりとした表情になるさくら。
 ぐう。
 真一郎のお腹が鳴った。
 気まずい雰囲気だった。
「ぷっ、くすくす。先輩、お腹減ったんですか?」
「真一郎、雰囲気無いわねえ」
「うう、うるさいなあ。仕方ないだろう、生理現象なんだから」
「でも、私もお腹減りました……そうだ、七瀬先輩ちょっと来てください」
 さくらが七瀬を連れて遠くで何か話している。
「ええっ、本当に? 良いのさくら?」
 七瀬が声を上げる。
「元からそのつもりでしたから……」
 さくらも、もう聞かせたくない部分は終わったと見えて普通の声で真一郎をちらちらと見て話す。
「なんだよ、2人そろって隠し事なんて、なんだか気分悪いなあ」
「良いじゃない。んっふふふ」
「すぐに、わかりますよ。さあ七瀬先輩」
「うん。じゃ、えっとね。ああ、私初めてなんだよ、さくら」
 七瀬が途中でくじけてさくらに助けを求める。
「早くしてください」
 さくらはまったく取り合ってやらなかった。
「ううー。さくらの意地悪。えっと、真一郎、私からのバレンタイン。チョコ受け取って……」
「ええ? でもどうやって……」
 その理由に思い当たってさくらの顔を見る真一郎。
「受け取ってくれないの?」
「いや、もちろん受け取る。嬉しいよ……」
「それじゃ、今度は私の分。先輩、受け取ってください」
 七瀬のものと同じ、ラッピングされた間違いなく本命のチョコ。
「ありがとう。さくら」
 受け取るのを待つさくらのすがるような表情と、真一郎が手に取った時の輝くような笑顔。
 真一郎の胸が、その変化にうずく。
「食べてください。お腹膨らむと思います」
「あ、ああ。でもさくらは?」
「私は……良いです」
「良いよ、さくら半分ずつ食べようよ」
「ううん。想いの全部、先輩に受け取って欲しいから。迷惑かも知れないけど……」
「うん、そうだよ。真一郎。私のもちゃんと全部食べてね。そう言えばそれ以外にも後二つあったっけ」
 にこっと、笑う七瀬。
“この〜”
“でも、良いな。こんな雰囲気。凄く暖かくて優しい……”
「全部、食べられますか?」
「大丈夫、大丈夫。美味しいよ」
「良かった……でも、そうここに長居するわけには行かないですから、あんまり食べ過ぎないようにしてくださいね」
「わかってる」
 本当は少し忘れかけていた。
「でも、一体何が起こっているの? さくらに妹がいるのはわかったけど、ここで何が起きているのかはちっとも話してくれなかったでしょ」
「すいません……七瀬の珠を渡さなければ、先輩がここに来るような事にはきっとならなかったんでしょうけど」
「やっぱり御剣が話してくれた昔話が何か関係あるの?」
「ええ、そのことを話すには、私の一族の事をもう少し、先輩に知ってもらわなくちゃなりません」
 
「先輩は、私が一族と呼ぶのを聞いて不思議に思った事はありませんか?」
「……別に、無いけど?」
「でも、私が人狼と吸血鬼のハーフだって事は前にも話しましたよね」
「うん。……あっ、そうか。一族ってどっちの事なんだ?」
 にっこりと笑うさくら。
「今では、あんまり両種族に明確な区別はしてないんです。もちろん、私達の間ではですけど」
「ふーん? さくらって人狼と吸血鬼のハーフだったんだ」
「七瀬先輩には話してなかったですね。これでわかりますか」
 バンダナを外して耳を覗かせるさくら。
「へえ? おもちゃみたい」
「やん、触らないでください」
「ごめん、ごめん。なんだか可愛くって。話のこし折っちゃってごめんね」
「いえ、それよりも元々、確かに人狼と吸血鬼は切っても切り離せない存在で、しばしば人間の区別によっても同種の存在とされてる事は多いんです」
「それは、人狼も吸血鬼だって事?」
「そうです。人狼の場合はそのまま、肉まで食らうけれども、取りあえずそういう意味の吸血鬼と判断をされる時があるんです」
「ふんふん。なんだか難しいのね」
「でも、昔は本当に、この二種族には大きな差があったんです。これも内輪での話ですけど」
「どう違ったの?」
「封建制度みたいなものでした。吸血鬼が貴族階級で、人狼は被支配者階級だったんです」
「ふうん。人間の社会以外にも複雑なのが存在してたんだなあ」
「確かにちょっと複雑です。でも、吸血鬼には人間を人狼に変える力を持っていたんですが、当の人狼族は繁殖能力には優れてなかったんです」
「でも、さくらは人狼族の子供でもあるんだろ」
「でも、吸血鬼の血も混じってますから」
「そう言ったわけで、なかなか、厳しい制度だったみたいです」
「でも、今では区別無くやれてるんでしょ? どうして」
「革命ですよ。民主主義の革命みたいなもの。一部の吸血鬼を倒して、人狼族が権利を主張したんです」
「うへ。過激だな」
「仕方が無かったんだと思います。だって、吸血鬼の手助けが無いと子孫を残していく事すら出来なかったんですから」
「どうでも良いけど……それがどう今の状況と重なるわけ?」
「今から、話します。丁度その革命が起こった頃、吸血鬼の王族の中にゼオリオルム・クィドル=フィンカシス一世という人物がいたんです」
「ゼオリ・オ……むむ、舌噛みそうだな」
「その男が、今回の一連の事件を起こした張本人なんです」
 
「実際、なんだってその人はそんな事をしたの?」
「私の祖父は、このゼオ、面倒くさいからこう略しますけど、に仕えていたんです」
「仕えていたって、やっぱり奴隷みたいな感じで?」
「私の言っている祖父は確かに人狼ですけど、祖父の言うにはゼオは領主として、指導者として大変優れていたそうです」
 さくらがあまりに長い事話し続けたせいか、大きく息をついた。
「人狼族のものでも、能力のあるものは要職に就けるべきだとして、分け隔て無く扱ったそうです。人狼族革命の気運も、ここから大きくなったという事らしいです」
「良い人じゃん」
「でも、不幸な事件があったんです。革命は多くの犠牲を払って成功しました。そしてその中にはゼオの妻エデュリシスの名前もあったんです」
「でも、事故だったんだろう?」
「いいえ。人狼族の中には強大な力を持つ王族のゼオを快く思っていないものや恐れるものが多く居たんです。そして革命の名を借りて襲われた彼女は散々辱められた後、ゼオを捕らえる為の餌として使われたんです」
「ひどい……」
「確かにひどいや」
「ゼオの目の前で、彼女は処刑されたそうです」
「処刑って……何をしたって言うんだ?」
「私には……わかりません」
「でも、さっきの話だと、影の妹とか出てきて蘇っちゃうんじゃないの?」
「あっ、言っていませんでしたけど、エデュリシスは人間だったんです」
「そうだったんだ」
「ゼオにとっては2人目の妻だったそうですが……その後も、ゼオは革命派の中でも祖父達からなる擁護派の手によってなんとか殺されずに数年を過ごしたそうです」
「捕まったままで? なんともならなかったの?」
「何度も、助けだそうとしたようですけど結局一度も成功しなかったそうです」
「それで、どうなったの?」
「それから、ある時、ゼオはどうやったのか自力で監獄を抜け出しました。エデュリシスを殺した事件に関わった全てのもの達を徹底的に殺戮した後に」
「その後は、悲惨でした。彼一人と、すべての一族との激しい戦いがあったという話です。もちろん一族全員を敵に回して勝てるはずがありません。彼は辺境の島国に流れ着き戦う為の準備をはじめました。あとは御剣先輩の話された通りです」
「……ねえ、さくら。どうしてそんな話をしたの?」
「え?」
「確かに、可哀相な話だと思う。だけど、俺達は同情は出来ないよ。今やってる事も昔やった事も理由があるからって許される事じゃないよ」
「先輩……」
 さくらは下を向いた。
「そう言って欲しかったんだと思います。自分の中にある迷いを吹き飛ばして欲しくて」
「迷い? 同情してたの?」
「同情とはちょっと違うかもしれません。異種族の人を好きになって、その人の寿命が短くて、別れは覚悟していたけれど、護ってあげたかった人をそんな事件で失ったら、私だって気が狂わなかったなんて言えない。その気持ちを考えると、やっぱり少し胸が痛くて」
 そのさくらが語った内容に、真一郎は驚く。どこと無く、七瀬と話していた事と重なる部分がある。
「さくら……確かに辛い事かもしれない、だけど……」
「わかってます。先輩に聞いてもらえて、気が落ち着きました」
 さくらは、微笑んでいた。だけど真一郎には何故だかその微笑みがひどく痛かった。
 

第55話 和解

 
“俺はまた、何も出来ないんだ”
 無力感を噛み締める真一郎。
 でも、きっと、さくらの違ってしまっている想いを正してあげる事の出来る人間は、さくらの恋人だけなんだろう。
 ふっと、何故自分がその位置にいないんだろうという、違和感が湧く。
“……俺って気が多いのかな?”
 でも、同情かもしれない。さくらへの想いはそうなのかもしれない。
 何が自分の中で正しい気持ちなのかわからなくなってくる。
 七瀬が、何故だか、おおらかな微笑みを浮かべているのに気がついた。
『赦してあげる……』
 その笑顔は真一郎に向かってそう言っているみたいだった。
 痛みと同時に、癒されていく感触がある。
「ところで、さくら。その人が呪いの張本人だっていうのはわかったけど、実際その呪いって何が起こるわけ?」
「地の竜が目覚めて、ちびきのいしを吹き飛ばし、黄泉とこの世が繋がります」
「質問」
「はい、なんですか?」
「ちびきのいしって何?」
「ちびきのいしって言うのは、黄泉と現界を隔てているいしの事です」
「良く分かんないんだけど……」
「要するに、死んだ人が逝く時に通る門のようなもので、あっち側から死者が戻ってこないようにしているんです」
「……てことは。死んだ人が蘇ってきちゃうってわけ?」
「多分……」
 さくらの答えは自信なさげだ。
 まあ、無理もないかもしれない。
 これまで、そんな事が起こった歴史は無いのだから。
「そうなんだ。でも、それだけ?」
 でも案外、真一郎は落ち着いている。
「……それだけでも十分だと思いますけど。でも、もっとわかりやすい事件が起こりますよ」
「何?」
「富士山が噴火します」
「ええーっ!」
 驚く真一郎。
 死者がどうの、黄泉が言われてもピンと来なかった真一郎だったが、富士が爆発するとなればそれがどれだけ大変かは良く分かった。
「それが、目覚める地の竜です。最近地震が多かったでしょう?」
「うんうん」
「あれ、でも今日はあれ以来、起こってないような気が……」
 肯く七瀬と疑問を投げかける真一郎。
「そうなんですか? そう言えば確かにずっと……起こってないけど」
「まさか、嵐の前の……」
「……ってやつかな」
 顔を見合わせる3人。
「こんな所でこうしてる場合じゃないじゃんか」
「そうですね、でも、先輩を外まで送っていかないと」
「馬鹿言わないでよ。この状況で、逃げ出すほど臆病じゃないよ」
「先輩……分かってないんです。ゼオがどれだけ危険な相手か」
「わかってるよ、さっき話してくれたばっかりじゃない」
「先輩、遊の事覚えてるでしょう?」
「うん。でも、あいつには勝ったじゃない?」
「でも、怖かったでしょう? ゼオはあれの比じゃないんですよ」
「怖かったよ。でも、俺は、いづみ……御剣やさくらがいくら強い女の子だからって、自分一人だけ後ろにいたいなんて思わないよ」
「それに、私はどうすんのよ」
「あ、七瀬先輩の事は考えてなかった……」
「さくらぁ!」
「でも、この事は私の一族の責任だから、私と『さくら』でカタを付けます」
「でも呪いを解くには、この珠が必要なんだろう?」
「私が持っていきます。先輩渡してください」
「嫌だ」
「先輩、どうして」
「どうしてはこっちの台詞だよ。悲しい事、言わないでさくら。なんで、また皆一人で背負い込もうとするんだ」
「先輩に何かしてもらえるんなら、私はちゃんと頼みます。でも、これは……」
「良いわよ。真一郎、ね。珠あげてごらんよ」
 七瀬が、少し怒っていた。
 真一郎にはその気配がわかった。
「じゃあ、さくら」
 珠を渡す真一郎。
 ふうっ。
 吹き消されたロウソクのように、珠の中の字が霞んで消えた。
 同時に光も、共鳴も弱くなり、やがて消えてしまう。
「これじゃ……」
「……! 七瀬? 七瀬!」
 真一郎が急にいなくなった七瀬の姿を捜し求める。
「さくら……」
 どこにもいない七瀬に、困惑してさくらに声をかける。
「……わかりました。……珠を持って、付いてきてください。でも、でも絶対に危険な事はしないでください」
「ああ、わかった」
 さくらが、珠を渡そうとして、躊躇する。
「七瀬先輩。もう良いですよ。隠れてなくても」
 そう言われると、七瀬が舌を出しながら現れた。
「ばれた?」
「ばればれです」
 困った顔で言うさくらに、さすがに七瀬がすまなそうな顔をする。
「先輩が悲しむじゃないですか」
 小さな声で付け加えるさくら。
 それと同じくらい小さく、さくらの胸は痛む。
「ごめん」
 謝る七瀬の声も小さい。
「それじゃ行こうよ」
「どこへですか?」
「え? そのゼオとかいうやつの所じゃないの?」
「呪いはもうずいぶん前に、そのゼオの命を触媒にして作られたものです。残念ですけど呪いを解除するには、ゼオが死んだって無駄です。どうしても仁の珠の力が必要不可欠なんです」
「仁の珠?」
「ええ、8つの珠を統べる、最初の珠です」
「それがあれば、呪いを解けるの?」
「多分……」
「わからないの?」
「はい。そう言われているけど、この珠が何なのか、どういうものなのか祖父にもわからないらしいんです」
「じゃあ、どうしたら良いのさ」
「信じるしか、無い。これが、作られたのは呪いを解く為だから。その為だけにあるこの力を信じたい」
「……わかった。俺も信じる」
「ありがとう先輩」
「でもそれなら、なおさら皆と会いに行かないと。確か唯子も持ってるって言ってたし」
「え? 鷹城先輩も?」
「うん、千堂さんもらしいしね」
「なんだか、結構近くにあるよね」
「わかりました。『さくら』が教えてくれた出口で待っていましょう」
 歩きだそうとしてふらりと揺れるさくら。
「大丈夫?」
「ええ、ちょっと立ち眩みがしただけです」
「……さくら。ちょっと待って」
 真一郎は服を脱いで首を露出させる。
「先輩?」
「血、吸いなよ」
「駄目です。そんな事したら、先輩が」
「良いから、お願いだから吸って欲しいんだ。さくら自分の顔色がどんだけ悪いかわかんないでしょ」
「そんなにひどいですか?」
「ひどいわよ。私の方が血色良く見えるもの」
「七瀬……」
「怒んないでよ真一郎。……ってぐらい真一郎真剣だし、私も親友の調子が悪いの黙って見てられないしさ」
 七瀬は残念そうにこうも付け加えた。
「私が上げられると良かったんだけどね」
「……いいんですか?」
「頼むって言ってるでしょ」
 真一郎の言葉にさくらが決心した。
「七瀬先輩。私が、吸いすぎそうになったら、止めてください」
 さくらは、言うと真一郎の白い肌に顔を近づけた。
 自然と、頬が紅潮してくるのがわかった。
 軽く舌なめずりする。
 かぷっ。
 こく、こくん、こくん、こくんこくん。
 血が、喉を流れていくたびに頭の芯が痺れていく。
 どっぷりと、何か重苦しくて暖かいものにくるまれていくような感触。
「はぁぁ」
 途中で怖くなって、さくらは真一郎を突き放した。
「もう良いの?」
「十分。これで、大分力は取り戻せたから」
 心臓がどきどき鳴っていた。
 本当はもっと欲しかったけど、理性を失った姿を見せたくなかった。
「真一郎……本当、愛されてるわね」
 七瀬は、そんなさくらの様子に気づいていた。
 
 
「ようやく見つけた」
「あなたは」
 瞳が、目の前に現れた『さくら』にびっくりする。
「千堂先輩……。私は今は争いに来たんじゃない」
「さくらちゃん……?」
 小鳥の声に、『さくら』がぺこりとおじぎをする。
「知り合いなの野々村さん?」
「あ、はい。千堂さん。綺堂さんとはお友達で」
 小鳥の、気を許したものへの笑顔を見て、瞳は警戒を解く。
「とりあえず、話す余地はあるという事かしら」
「はい、みなさんを出口に案内します」
「待って、急にそんな事言われても、付いていけないわ」
「なぜですか?」
「真くんがいないの」
「大丈夫です。出口で先輩待ってますから。私は野々村先輩達を案内するように先輩に言われて来たんです」
「相川が?」
「真くん、いるの?」
「良……かった……しんいちろ無事だったんだ……」
『さくら』の言葉に喜ぶ面々。だけど、瞳だけが。
「それは早い所案内してもらわなくちゃ。あなたが信用できるのなら」
「信用できませんか」
「出来るわけないでしょ。あなたが、した事を思い出したら」
「千堂さん? さくらちゃんは信用できると思います。でも、どうしてこんな所にいるの?」
「……野々村さんは知らないんですね?」
『さくら』に向かって問い掛ける瞳。
「余計に信用出来ませんね」
「……どうしたら信用してもらえるんです?」
「せめて、何が起こってるのか、説明して貰わないと」
「わかりました」
 小鳥をちらりと見る。
 不安そうに『さくら』を見つめている。
 優しい小鳥を、悲しませるのは胸が痛んだ。
 
「……と言うわけです」
 包み隠さず全部を話し終えた。案の定、小鳥は驚いたのと悲しいのとで言葉が出ないらしい。
 そんな様子に『さくら』の胸は激しく締め付けられる。
「じゃあ、相川君が巻き込まれたのはあなたの責任ね」
「はい……」
 ぱしっ。
 瞳が、『さくら』の頬を張った。
「千堂さん!」
 小鳥が我に帰って叫ぶ。
「相川君をひどい目に合わせる権利があなたにあるの?」
「罰は……受けます」
「言いたい事はそれだけ?」
「千堂さん、さくらちゃんは……」
 必死で抗弁しようとする小鳥に、『さくら』も首を振る。
「殺されても文句言えないわよね」
「……殺したいなら……でも、今は、やらなくちゃいけない事在るから死ぬわけに行かない」
「そう。どう思います? いづみさん」
「私は……」
 いづみは、見た目小鳥ほどではなかったにしろ、十分すぎるほどその話に圧倒されていて善悪を判断していられなかった。
「信じても良いかと思います」
「……私もそう思う。さっき、私が頬に張り手した時、本当だったら避けられたはず。それどころかあなたの力だったら私を逆に殺す事だって出来たはず」
 瞳は優しい笑みを浮かべて、『さくら』に手を差し出した。
「信じてもいいかなって、思います。ちゃんと相川君の所に案内してくださいね」
『さくら』は、瞳の優しさに、思わず顔がまっすぐに見れなかった。
 手が触れ合い、握り締められた。
 その時、微妙に瞳の心が揺れたのをいづみは感じ取っていた。
“なんだろう。今、千堂先輩にひどく危険な負の気がまとわりついたような気がしたけど”
 もう一度いづみが瞳を見た時にはその気配は消え去ってしまっていた。
 

第56話 許せない

 
 憎い。
“ううん。憎いのとは違うのかもしれない”
 怒り、やり場のない怒り。
“どうして、私はこんなに、悩んでいるんだろう”
 それなのに。
「信じてもいいかなって、思います。ちゃんと相川君の所に案内してくださいね」
 こんなこと言ってる。
 手に握り返される『さくら』の手の感触。
“この子は悪くない”
“正しい判断”
“だけど……許したくない”
“大賀さんが、ああなったのはこの子の責任なんだ”
“それどころか、相川君まで巻き込んだ”
“こんな、暗い世界に彼を一人で置き去りにした”
“……間違ってる。こんな想い、間違ってる”
 いづみさんの視線を感じる。
 羨望の眼差し……。
“いやだ”
“そんなに、私は凄くないの”
“確かに、正しいと思える判断をしてる。私は、間違っていない”
 でも、今はそれでも心が揺らいでる。
“許したくない”
 怒り。
“私は、いつだって、本当に決断した事は無いのかもしれない……”
“動揺していない振り。強い降り。本当の私はこんなに、こんなに弱いのに”
“やっぱり、それも出来てしまっているんだろうか”
 痛い。心が冷えて痛む――――。
“私は卑怯者だ。自分の想いを隠して接するなんて、最低だ”
 真一郎には嘘をつきたくないと瞳は思う。
“相川君。支えて欲しい。私、ずっと甘えてみたかった。今度甘えたら、駄目ですか”
 ぅるるる。
 銀狼が、瞳の手の甲を嘗めた。
「ありがと」
 誰にも聞こえない小さな声で、瞳はほんの少し慰められたお礼を言った。
 
「その狼は……」
『さくら』の台詞に、話し掛けていた瞳が向き直る。
 すでに、いつもの涼しい笑顔を浮かべている。
 るるるるるう。
 狼が挨拶するように、『さくら』に向かってうなりを上げた。
 きぃんきいんきぃぃぃぃぃぃぃ。
 それとともに、瞳達の持っている珠が共鳴を始めた。
「わ、わわわ。何?」
 驚く小鳥。
 瞳といづみはすぐに思い当たって、懐から珠を取り出す。
 輝く珠に、黒い文字がくっきりと浮かび出ている。
「みなさん、珠を持っているんですね」
『さくら』の台詞に、瞳が反応する。
「これはあなたがやったの?」
「いえ、多分その、狼が」
 そのやり取りの裏で、小鳥はそっと自分の持っている珠を取り出して見る。
 りぃぃ。
 かすかにだけど、それが音を放っている。
「野々村……その珠」
「御剣さん」
 いづみではなく、他の何かに脅える小鳥。
「そうか、持ってたんだな野々村も」
「違うよ。きっと」
 お母さんから返して貰った珠が、そんな珠である訳が無い。
 小鳥はそんな風に思ってしまう。
 最初に渡してくれたのは、精一杯小鳥のことを気遣ってくれた真一郎だという事も忘れて。
「それでも、良いさ。出来れば見せて欲しいんだ」
「……わかったよ、御剣さん」
 小鳥は、おずおすと珠をいづみに差し出す。
 いづみが、手に取ろうとした時、ふっと、珠の中に字が揺らめいて消えた。
「仁……そう書いてあったように見えたけど」
「気のせいだよ。きっと」
「気のせいなんかじゃありません」
「さくらちゃん」
「野々村先輩が、仁の珠の持ち主だったんですね」
「何か、あるのか?」
「仁の珠はすべての珠の最初に来て、呪いを打ち破る最後の鍵だと言われているんです」
「そうなの?」
 瞳、いづみの視線に晒された小鳥は、縮こまってしまう。
「ち、違うよ。きっと見間違えだよ。私がそんな凄い珠の持ち主のわけないよ」
「いや、今のは絶対に、仁という文字だった」
 思い返して見て、間違い無いと思いはじめるいづみ。
「もう一度、持って見て野々村さん」
 瞳の静かなお願いに、嫌がっていた小鳥も仕方なく珠を手に取った。
 今度は、何も揺らめかなかった。
「……ほら」
 小鳥は、ほっとしながらもそのことに少しだけ寂しさを感じる。
「確かに、違うかもしれませんね。何も起こらないし」
 ウォン!
 銀狼が、注意を促すように吠える。
「でも、あの子も、これは本物だといっているみたいね。きっと、字が浮き出ない何かがあるのね」
「……だったら、私が持ってない方が良いんじゃ……」
「……いいえ。曲がりなりにも、一度野々村先輩の手の中でそれは輝いたんです。野々村先輩が持ち主なのは間違い無いんです」
「でも、私何も出来ないよ?」
「そんな事ありませんよ」
「だって、皆戦うんでしょう。凄く怖いはずなのに。私にはそんな勇気も無いし、力も全然無いもの」
 ふるふる。
「きっと野々村先輩には野々村先輩のやれる事が必ずあるはずなんです」
「私に出来る事……?」
「いっぱいあるんじゃないかしら。ね、野々村さん。あなたは、笑顔で元気をくれる人だわ」
「そうだな、きっと相川もそう思ってるだろうな。唯子と相川が羨ましいよ」
「そ、そんな……私は……」
「そういう事なのかも知れません。でも、その珠に字が浮かび上がった時、きっとするべき事はわかると思います」
「どうやったら、それが浮かび上がるんですか?」
 瞳の質問に『さくら』が少し考え込む。
「……みなさんは、どうやったんですか? それが浮かび上がった経緯が在ったはずです。多分、その言葉に対応しただろう何かの事件」
「私は、ほとんど最初、手に取った時からだったが」
「それなら、その時、御剣先輩は何か考えていたんじゃないですか?」
「あ……」
 思い出したいづみは思わず赤くなる。
 真一郎の事を考えていたのだ。感謝の気持ちであふれていた自分。
 だからこそ、『八房』は応えてくれたのだ。
「私は……残念だけど、いつだったのか特定できないわ。気付いた時にはもう、浮かび上がっていたから」
「唯子も、なんだかそんな事言ってた。気がついたら浮かび上がっていたって」
「じゃあ、推測でしか無いんですけど。野々村先輩が仁の持ち主だってのは考えて見ると凄く良く分かるんです」
「うん。そうね。野々村さんは優しいものね」
 小鳥はそんな事無いと手を振るが、『さくら』は気にせず続ける。
「だから、先輩の素質は十分だと思うんです。ただ……失礼なんですけど、野々村先輩、仁愛に関係する何かコンプレックスのようなものがあるんじゃないですか?」
「え?」
「野々村先輩自身にも気付かないものかもしれませんけど、きっとそれが解消されない限り、珠は力を取り戻さないんじゃないかと思います」
 音が消えたような気がした。
 どくどくと、自分の鼓動の音ばかりが鮮明に聞こえる。
 そんなもの一つしかなかった。
 どうしても認められない想い。
 許せない人。
 小鳥は、痛いほどに、下唇を噛み締めた……。
 

第57話 鳴動

 
「それほど複雑な事をしてもらう必要はない」
 ラインがそう言ってもななかの不安は晴れない。
「でも、凄いものなんでしょう?」
「ああ、一種の世界を覆う壁のようなものだからな」
「どうやって壊せって言うんですか、そんなもの」
「君自身は珠をいしに押し当てているだけでいいのだ」
「押し当てているだけ……ですか?」
「ああ」
「そんなに簡単な事で良いんですか?」
「……単純かもしれないが、簡単であるとは言えないぞ」
「どうしてですか?」
「ちびきのいしは別名殺生石といい、それに触れるものを殺してしまうからだ」
「……し、死ぬんですか」
「そうだ。人間というのは恐怖には弱いものだし、いしの束縛を打ち破るには時間がかかるかもしれない。それだけの長い間、死と隣り合わせの行為が君に出来るかね?」
「う……。それなら、言わないでくれれば良かったのに……」
「じゃあ、何も知らずに偶然体が触れた途端に死にたかったかね?」
“それも……ヤ”
「わかりました、出来る限りやって見ますけど……」
「堅くなるな。な、いつもの通りにしてれば大丈夫だからよ……。って勝手に思ってる事言ってるんじゃねえ!」
「は?」
 突然不思議な言葉を喋ったラインにななかが目を丸くする。
 そして、それがなんだったのかすぐに気づいてくすくす笑い出す。
“てめえ、後で覚えてろよ”
 大輔はラインに怒りと照れ隠しを込める。
“その代わり、君の恋人は少し緊張をほぐしてくれた”
 その答えに大輔もまじめに考える。
“もし、ななかが死んだらどう責任とるつもりだ”
“絶対死なない。……理由があるからな”
“理由?”
“……彼女には、一度死んでもらうからだ”
“なんだと?”
“私は、すでに、この状態は予知していた。だから、ゼオを封じる前に自分が封じ込まれる未来は想定していたのだ”
“だからどうした。ななかを殺すとはどういうことだ”
“彼女の持つ義の珠にはそれこそ、120年かけてため込まれた力が宿っている。それを鍵にして封呪をつかったからな”
“それと、何の関係があるんだよ”
“ゼオがその呪文を返した時に、鍵の部分に細工したのだ。そのために、本来すぐに効力を発揮する鍵が二重に必要になってしまった。そのために、彼女は珠を持ったまま死んでもらい、ちびきのいしの外から中を通って解呪してもらわなくてはならない”
“じゃあ、嘘をついてななかを殺そうとしているってのかお前は!”
“違う。ここは黄泉への通路なのだ。つまりちびきのいしを通った彼女は義の珠同士の復元しようとする力に引かれてこちら側で蘇る事が出来る”
“……保証は?”
“前にも言ったかと思うが、私の言葉だけだ”
“……もし、失敗したら。覚えておけよ”
“その時は、私も閉じ込められたままだよ”
「さあ、行きましょう」
 何も知らないななかは、無邪気にそう言った。
“守ってやるよ……絶対、絶対だ!”
 
 
「ここが、そうなんだ?」
「多分そうなんでしょうね。大きな歪みを感じますから」
 目の前に、楕円形の不思議な揺らめきが存在している。
「奇麗だね」
「そうですね。でも、それはこちら側が汚れているからかもしれません」
「汚れている?」
「ええ、人の意識を負の方向へと持っていく力が充満しているんです。この中には」
「そんなものが在るの?」
「ええ、だから、凄く、不思議でならないんです」
「何が?」
「先輩はどうしてそんなにポジティブなんだろうって」
「え。俺は、ポジティブなんかじゃないよ。さっきだって、さくらが一人で行くって言った時、嫌な予感とか変な事ばっかり考えちゃってさ。だから、一人で行かせたくなかったんだよ」
「ううん。それでも、先輩が凄く優しいってのが良く分かる」
 照れる真一郎。
「そろそろ来るかな。唯子達……」
“そうだ、唯子は大丈夫かな”
 あの時あんなに高熱を出して苦しんでいたのに、それなのに戻ってやれなかった。
“それに、唯子にも応えなくちゃいけないんだ自分の気持ち”
 ずっと仲良かっただけの幼なじみ。でも、本当にそれだけだったんだろうか。
 笑顔ばかりの想い出。
 唯子はいつも笑っていた。
 小鳥の事を守ろうと、真一郎と約束した唯子はずっと強かった。
 苦しい時が無いわけ無かったのに、いつだって唯子は天真爛漫な笑顔を浮かべていたんだ。
“俺も唯子に守ってもらってたのかもしれない……”
 そのつもりが、唯子にあったのかはわからない。
 だけど、間違いなく、唯子は真一郎を守っていてくれた。
 唯子の辛い顔。苦しい想い。
 真一郎にとっては、唯子は幼なじみでは無かったのかもしれない。
 そうでなければ、きっと、こんなに胸のうちが震える事も無いだろうから。
「んんんー? 何を考えているのかな? 真一郎君」
 鋭い感性で七瀬が真一郎の考えに水を差す。
「あ、いや。何でもない」
 手を振って誤魔化す真一郎の横でさくらがぽつりと呟いた。
「でも。『さくら』本当に連れてきてくれるといいけど」
 さくらは自分の妹ながら不安を隠せないようだ。
「大丈夫だよ」
「さくらじゃないけど、私も真一郎が優しいってのは賛成」
 さくらを励ます真一郎に七瀬がちょっとだけあきれて、ちょっとだけ惚れ直して、言った。
 るおおおおおおおおおん。
 その時聞こえた遠吠えのようなものに、さくらがぴくりと反応する。
「なんだ今の?」
「狼の鳴き声みたいだったけど……」
「そうです……あれは狼の声……私達に挨拶してきたんです」
「挨拶?」
「ええ、今からこっちに来るって。……自分は仲間だって」
「へえ、狼の言葉分かるんだ」
「ええ、一応。大体のニュアンスぐらいは」
「でも、狼の仲間?」
 通路の奥を眺めて見る、真一郎。
 まだ何も見えない。
“いや、あれは……”
「明りだ……」
 間違いなく、それは明りを持った人の集団だった。
 
「……野々村先輩。どうしたんですか?」
『さくら』に声をかけられて、はっとして小鳥は首を振る。
「ううん、何でも無いよ……」
 小鳥は自分の言おうとしている言葉の後ろめたさに下を向いてしまう。
「思い当たるような事、無いよ……」
「小鳥……」
 唯子が、苦しそうに小鳥を呼んだ。
 びくっとする。思わず、唯子が聞いていたのだと思って責められているような気持ちになる。
「小鳥……」
 でも、そうでも無いみたいだった。
 ただ、うわごとのように小鳥を呼んでいるだけなのだ。
「唯子……大丈夫?」
 唯子の看病に、小鳥は専念する。
 自分の心の中から、痛いもの皆追い出してしまいたい。そんな風に考えながら。
「野々村先輩……」
「野々村にもいろいろあるんだと思う。他に何か手だては無いのか?」
「分かりません。多分方法を知っているのはゼオ本人ぐらいだと思います」
「ところで、あなたにはこの銀狼が何者なのかわかるかしら」
「千堂先輩それは……」
 いづみがうろたえた声を出す。
「いづみさん? あなたが何故うろたえるの?」
「いえ。何でもないです」
「……多分、『八房』だと思います。この名前の方がわかりやすいですよね」
「『八房』って……まさか。この珠そのものの」
「ええ、何らかの形で生前の力を顕現しているんだと思いますけど……そんな事が出来るのは本当に極一部の人だけなんですけど」
“やっぱり”
 いづみは胸の奥が締め付けられるような気がした。
 ずっと感じる感覚。
 でも、何故『八房』なら、そんな事をしようとするのだろう。
 それとも、これが妖刀である『八房』なのか。
 多くの力を与える代わりに、人間である事を止めなくてはいけないんだろうか。
“……本当に『八房』を私が持っていて良かったんでしょうか、兄様”
『たとえそれが『八房』であったとしても、それを持つに足ると判断したから渡したのだ』
 火影の言葉が蘇ってくる。
“そうだ、私が誇りを持たなくてどうするんだ。それは、火影兄様や私を信じてくれた真一郎様をも侮辱する行為だ”
「私は負けない。これで良いんだ。私は私のままで良い。おのれを失った力に、意味はない」
 言葉に、想いを込めて。
 言霊が、自分の弱い心を押し流してくれるように。
 祈る。
 るおおおおおおおおおん。
 八房が吠えた。
 それはどこと無く、いづみの決断にエールを送ってくれるようでもあった。
「何なの?」
「あっちに、人がいるみたいです。多分相川先輩がもう来てるんじゃないかと……」
『さくら』は言いながら、すでにその他に七瀬とさくらがいる事に気がついていた。
「なんで……七瀬先輩が」
『さくら』はさくらが真一郎に七瀬の想いの込められた珠を渡したのを知らなかったから。
「え?」
 小鳥が、その言葉に反応する。
「さくらちゃん。今、七瀬って……」
「野々村先輩……」
「あの真くんの……?」
 誤魔化しても、すぐ分かる事だった。
 小鳥は、真一郎と七瀬の逢瀬を見ているのだ。
 宙に浮いたり、透き通ったりしてたらしいけど、顔を見ればすぐに分かるはずだ。
「はい。ただ、今は、先輩の生気を吸ったりはしてないみたいですけど」
「……私、謝らなくちゃ」
「野々村先輩?」
「だって、私が、真くんと七瀬って人の……」
「……それなら、私も同罪です」
 はっと、気づいて小鳥が顔を伏せる。
「ごめんなさい、さくらちゃん。そんなつもりじゃ……」
「良いです。私、先輩の事信じる事にしましたから」
 小鳥は、『さくら』の真一郎に対する想いにこの時気付いた。
「先輩が、責めたりしないなら、それを私は信じていたい」
「さくらちゃん」
「おおーい。小鳥ー」
 真一郎が、駆けてきていた。
「あれ、瞳ちゃんに、御剣まで……」
「無事だったんだな……良かった」
「本当に。相川君、心配しましたよ」
「真くん……大丈夫だった? 寂しくなかった?」
「ありがとう。……馬鹿言うな、小鳥。それで……唯子はどうだ?」
「うん。御剣さんが手当てしてくれたから、大丈夫だと思うけど」
「そうか、ありがとな。御剣」
「よせよ。私だって唯子は親友なんだ。放っておくわけないだろう?」
 唯子を覗き込む真一郎。
「へえ、怖がらないんですね」
「え、ああ。この狼の事? さくらから聞いてたから」
 瞳の質問に軽く応えて、真一郎は唯子の額に触れる。
「まだ熱いな……」
「しんいちろ……」
「唯子、大丈夫か?」
「うん。大丈夫……だよ。今日ゆっくり寝たら、明日はまた元気になるから」
 けなげな唯子の言葉に、真一郎の胸が詰まる。
「うん、唯子を苛められないとつまらないから、さっさと良くなれよ」
 その様子を見ながら、ゆっくり近づいてきた七瀬。
 それを見て、やっぱり小鳥は居たたまれなくなる。
「こぉら。野々村、小鳥ちゃん」
 七瀬の方が先に声をかける。
「あ、あ……」
 喉に舌が張り付いたみたいになって声にならない。
「何考えてるか、当てて見ようか。私に申し訳ないとか、そう思ってるんでしょ」
「どうして?」
 小鳥の胸に、驚きとちょっとの恐怖が沸き上がる。
「もう、なんだか他人事のような気がしないんだ。ずっと、一緒にいたんだよ。だから、小鳥ちゃんの事は大分わかったから」
「ごめんなさい。私」
「真一郎、泣いたでしょ。私がいなくなって。でも、真一郎はいま、笑ってる。それはあなたたちがいてあげたからでしょ。側にいてくれたから、真一郎はきっと笑えるようになったんだと思う。感謝してる……って真一郎言ってたけどそれは私だって同じ」
「七瀬さん?」
「真一郎を見守ってくれて、本当にありがとうね。私には出来ない事だから」
「赦してくれるの?」
「小鳥ちゃん……言わないと、わかんないだろうから。言ってあげる。……赦す。その代わりこれからも真一郎の事支えてあげてね。私はまたいなくならなくちゃいけないし」
「そんな……」
「それが自然なの。だから、小鳥ちゃんも真一郎のことを心配したんでしょ。だから、気に病む必要なんて全然無いんだよ。あなたが、悲しい顔してると、真一郎も悲しむでしょ。だから、真一郎を信じて。大好きだったら信じてあげて」
「私、皆に言われてばっかり。そうだよね、真くん信じてあげないと……」
 七瀬が、泣き笑いみたいな小鳥の頭をすっと自分の胸に抱き寄せる。
“暖かい、まるで……”
 最初びっくりしたものの、その暖かくてどこか懐かしい感触に小鳥は逆らえなかった。
 
「さくら」
「『さくら』」
 互いに、同じ名前を呼び合う。
 言葉はそれ以上必要無かった。
『さくら』はくるりときびすを返す。
「どこに行くの?」
「ケリを付けに……」
「私も行く」
「姉さんは、先輩達を外に。大丈夫だと思うけど、何があるかわからないから」
「場所を教えて」
『さくら』が手を差し出した。
 それに手を添える。
 頭の中に閃くイメージ。
 闇の玉座で笑う陰の王。
 ぞっとした。
『さくら』が本当はひどく脅えているのが分かった。
 それでも、それでも。
『さくら』はその決断をもう迷っていなかった。
「頑張って。絶対、先走らないで。もし、そんな事になったら、きっと先輩は悲しんでしまうから。私達の事も先輩は包んでくれる優しい人だから」
「わかってる。さくら。大丈夫」
『さくら』は最後に微笑むと驚異的な跳躍で闇の中へと消えた。
「行ってしまったの?」
「あ、千堂先輩ですよね」
「そうか、同じ顔してるから違和感無かったですけど。あなたとは初めてという事になるんですね」
「……いえ。私は“さくら”ですから」
 さくらは、しばらく『さくら』の消えた方を凝視していたが、やがて向き直って言った。
「そろそろ行きましょう。今日が終わってしまう前に」
 
「この変なの本当に通れるのか?」
 心配するいづみを八房が後ろから押す。
「早く入れって言ってるみたいだな。俺が先行こうか?」
「いや、いや、そんな事はしなくていい。唯子についてやっててくれ」
「そうか?」
 心配そうな真一郎の様子に、いづみはほんのちょっと嬉しくて、悲しかった。
「よし」
 いづみが意を決して、先に入る。
 指の先から、手、腕と銀色の水面のようなものにいづみが飲み込まれていく。
「大丈夫みたいだ」
 いづみが全身をあちらに移動してしまう。
 しんと静まり返る。
 時間が経って、真一郎達が心配しはじめた頃、いづみが戻ってきた。
「こっちも、大丈夫だ」
 おずおずと通り抜けたいづみがそう言ったのを受けて、瞳がその後に続く。
 八房も唯子を乗せたまま歩き出し、必然的に真一郎と小鳥もその中に入っていく。
 七瀬とさくらが最後にその門を抜けた。
 辺りは、真っ白だった。
「うわ、霧かなこれは?」
「さあ、ただ、太陽が隠れてて良く分からんな」
「でもとりあえずは洞窟の中ではなさそうね」
「確かにそうみたい。やけに寒いし……」
 七瀬が、実体化しているからか寒さを感じて震えた。
 後ろを振り返って見ると、岸壁だった。
「あれ? 入り口が消えちゃったぞ」
「ああ、大丈夫だ。相川。見えないけど、そこにちゃんとあるから。私も最初戻れなくなったかと思ったけどな」
「真くん、戻るつもりなの?」
「ああ、俺も、行ってくる」
「駄目だよ、真くん」
「小鳥ごめん。心配してくれるのは嬉しいんだけど、俺は行きたいんだ」
 ぞっとした。
 呼吸の奥の方から、怖い何かが浮かんできそうな、子供の頃の病魔の感覚。
“いなくなっちゃう。真くんは行ったまま、帰ってこなくなっちゃう……あの人のように”
「……いやだ……真くん。行かないで」
 声が意識しないまま、震えていた。
「行かせて……小鳥。俺も怖いけど。小鳥を泣かせたくないけど……今ここで行かないと、俺は俺じゃなくなっちゃうんだ」
「……う……」
 引き止められない。
 七瀬に会いに行った、あの時の真一郎と同じ。自分という存在では引き止められないもの。
 でも、それをも含めて小鳥は、真一郎が好きなんだと思い知らずにはいられなかった。
 だから、自分はせめて、真一郎にたくさんの力を上げる笑顔で送り出してやらなくちゃ行けなかった。
 小鳥が、そうしようとした瞬間ーー。
「残念だが、そろそろタイムリミットのようだ」
 全員の心を一瞬にして冷やす声がかけられた。
「せっかく来てくれた諸君を、何も無しで返すわけには行かないからね」
 白い霧が晴れていく……。
「ゼオ……それがあなたの本当の姿」
 さくらが、強い意志を持って光る男の目を睨み付けながらそう言った。
 その時、真一郎達は一様にはっと顔を上げた。
 ずずずずずずずずずず。
 世の終わりを暗示する、恐怖の音楽が奏でられはじめた。
 

第58話 戦いの覚悟

 
「……?」
 焦点の定まらない目で、弓華が目を開いた。
「目が覚めたか……弓華」
「火影!」
 辺りを見回して見る。
 物置のような、ごちゃごちゃした小さな部屋だった。
「ここは?」
「わからない。だが、シフとかいう化け物が私達をここに招いたのは確かだ」
「シフ?」
「ああ、陰険で邪悪な女吸血鬼だ」
 不思議そうな顔で見つめる弓華に、軽く頬へのキスを送る火影。
「とりあえず、倒さなければいけない敵のようでね」
「敵じゃあないよ。お前の主になるんだよ」
 声が響いてきた。
「この声の持ち主?」
「そうだ」
 火影が、ぎゅっと弓華を抱きしめる。
「怖いの?」
「いや……大丈夫だ」
 本音を言えば、さすがに恐ろしい部分もある。
 相手は化け物なのだ。
 これまで火影が信じてきた常識を覆す相手なのだ。
「ここに、お前の本体があるというわけか?」
「くっくっく。そうだよ、美男子。だけど、お前に殺せるかねえ私を」
「どういう意味だ?」
「言葉どおりさ。お前には、私を殺す事など出来ないんだよ」
 火影はぐるりと部屋を見回す。
 どこにも明りが点けられていないのに、ほのかに明るい部屋の中、一つだけ棺桶が壁に立てかけられている。
 あれに違いない。
 火影は、一歩の跳躍で棺桶の前まで跳んだ。
「滅ぶがいい!」
 徹の扉をも貫いた火影の白銀の奇跡は見事に棺桶を切り裂いた。
「ひっひゃっひぃっひっひっひっ」
 だが、その中にはシフの体らしいものなど何も入っていなかった。
 ほんの少しの埃があたりに舞っただけだった。
「くっ」
「面白いねえ。くっくっくっ。予想通りの反応だよ。いつまでも体を元のまま保存していると思ったかい?」
「火影」
 激しそうになった火影を柔らかに弓華の声が落ち着ける。
「おや、もう一人いたのを。忘れていたよ」
「本当に、この部屋の中に、本体があるの?」
「……くっくっ。私は嘘などつかないよ。でも、楽しませてもらわないとね。せっかく来てくれたお客なんだから」
 しゃっ。
 タンスの上から、黒い固まりが弓華に向かって跳んだ。
 はっとして避ける弓華。
 とんっと床に着地してそれは。
 にゃああああぉん。
「ネコ?」
「これが本体だとでも言うのか?」
「どうして私が、本体を教えてやらなければならないんだい美男子」
 面白そうな声。
「見つけたかったら、部屋中ひっくり返して見るんだね。ただし、どんなに危険なものがあっても、私は知らないよ」
 狭い空間。
 たかだか六畳ほどの空間だ。
 だけど、扉も無く、ここから出て行く事は出来ない。
 こんな所では全てに火を放っておしまいというわけにも行かない。
 かといって、一つ一つ調べていっても……。
「調べましょう。火影」
「弓華」
「二人で手分けすれば、見つかるのも早いかもしれません」
 微笑みを浮かべて、火影を促す弓華。
「……そうだな」
 二人は部屋の中を捜しはじめる。
 その様子を一対の目が楽しそうに見つめていた。
 
 
 そこは、まだ洞窟の中だった。
「ようこそ、諸君。そのままお帰りにならないよう、少しばかり道案内をさせてもらったよ」
 禍々しい玉座が一段高くなった所に据えられ、そこからゼオの言葉が降ってきていた。
「あんたが、悪の親玉ってわけか」
 真一郎が、ゼオに向かって不敵な言葉を吐く。
「そうだ。……面白いな少年。良くそんな言葉が出てくるものだ」
 発する気は、まさに圧倒的だ。
 その彼に向かって、声をかける事が出来るのはさくらぐらいだと思っていたのだ。
「奥さんを殺されたのは、確かに可哀相だと思うけど、だからってこんな事して良いわけないだろ?」
「さくらが話したんだな」
 ゼオは意外に驚いた様子は無い。
「私は、絶対あなたを許さない」
 さくらが皆を庇うように一歩前へ踏み出す。
「あなたが、エデュノシスをよみがえらせたい気持ちはわかる。そのためにちびきのいしをこじ開けようとするのは私には良く分かる」
 さくらのその台詞に、ゼオは初めて顔色を変えた。
「だけど、あなたは許せない。私のもっとも大切な人達を巻き込んだ。大義名分じゃない、私は私の大切な人達のためにあなたを許さない」
「……なるほど、強い決意だ。だが、ふふっ、一つ間違っている」
「何が」
「私はエリスを蘇らせるつもりはない。私はエリスを愛したゼオでは無いのだからな」
 にじみ出る、狂気。
 思わず、さくらすら生唾を飲み込む濃密な気配。
 他の皆はすでに震えを止める事に必死だった。
「……で、でも私もあなたを許す気は無い。あ……あなたは、大賀さん……を」
「勘違いするなよ、私は何もシフに命じちゃいない。あの女は確かに私の下僕だが、主が責任とって殺されねばならぬほどの事でも無いと思うが」
 余裕を崩さず、ゼオは瞳に視線を向けた。
「……」
 言葉が出なくなる。
 相手に飲まれる。
 意識が混乱して、正しい言葉が出て来なくなる。
「うああああ」
 思わず漏れる恐怖の言葉。
 見ていられなくなっていた、ゼオは何も力を使っていなかったのに。
 がだがた震えてしゃがみこんでしまう。
「千堂先輩……くっ、どっちにしたって、お前は私達をみんな殺してしまうつもりだろう」
「……いや、何なら助けてやろうか?」
「呪いを解呪する方法でも教えてくれるというの?」
「ふふふ、それは無理だな。私のかけた呪いは私が解呪を宣言しない限り決して解けない」
「じゃあ、どうしたって無駄じゃないか」
「ここにいれば、大丈夫だ。我が下僕として、ここにとどまればな。何なら、我が妻に迎えても良い」
 るおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおん。
 その時、八房は辺りがびりびりと震えるほどの雄たけびを発した。
乗せられていた唯子がずるずると地面に降ろされた。
 雄たけびは、全員を金縛りにしていたゼオの気を吹き飛ばしていた。
「ユニケ……か。懐かしいな、120年前の我が求婚受ける気にでもなったのか?」
 うるるるるるるるるるる。
「そんなはずはないか。それに、その姿ではな。……ラインの手回しか?」
 八房が飛び掛かる。
 笑いを押さえ切れぬ様子のゼオと八房の激しい戦いが始まった。
「大丈夫ですか? 千堂先輩」
「瞳ちゃん……」
 いづみと真一郎が、瞳のことを心配して近寄ってきた。
「あ、ああ、ありがとう。情けない所見せちゃったわね」
 瞳はまだ僅かに、震えていたけれど間違いなく元の瞳だった。
「怖いのは仕方ないと思うよ。だって、吸血鬼の親玉なんだから」
「でも、今勝たないわけには……」
「そうね。……ふう、私達に何が出来ると思う?」
「私には、戦う事ぐらいしか」
「残念だけど、私にも他には考え付かないわ」
「止めた方が無難です……」
 さくらが横に来ていた。
「足手まとい……?」
「はっきり言って、そうです。ゼオが今の体。本当の自分の体に戻った以上、先輩達では太刀打ちできません」
「私達はここまで来て、何も手出しが出来ないのか!」
 いづみの吐き捨てるような言葉に、さくらが首を横に振った。
「そんな事はありません。あそこを見てください」
 さくらが指し示す方角には、杖を持ってチャンスを伺うシフの姿があった。
「あの女はシフと言って、ゼオの腹心。さっき言っていた大賀さんという人を吸血した魔女です」
「あの女が……」
「私達は、あいつに邪魔をさせないようにすればいいんだな?」
「ええ、私は、早く八房を助けに行かないと」
「頑張って、私達の分まで、あの男に……」
 瞳の、悔しい気持ちがさくらには十分伝わってきた。
「もちろんです。でも、そのシフという魔女も一筋縄では行かない女です。出来れば魔法を使わせないように攻めまくってください。くれぐれも油断しないで」
「わかってるよさくら」
「あ……先輩は駄目です!」
「何故。俺はせっかく付いてきたのにやる事はないの?」
「今は、野々村先輩と、鷹城先輩がいるじゃないですか。お二人を守ってあげてください。それは先輩にしか頼めない事ですから」
「……わかった。みんな無理をしないでくれよ。俺まだ言わなくちゃいけない事があるんだから……」
「はい」
「必ず、戻って来ます」
「分かりました」
「さくら、私はどうする?」
 七瀬が最後に割り込んできた。
「出来れば私と一緒にゼオと戦って欲しいんですけど」
 いまこの中では、七瀬の力はかなりの戦力になる。
「オッケー。私もそうしたいと思ってた」
 七瀬は、自分だけは消えても構わないのだからと割り切っていた。
 それが七瀬と真一郎の絆を断ち切る事になるとしても、真一郎を守って消えるのならそれで良い。
「それじゃ、行きます」
 さくらが、ゼオと戦っている八房の元に駆けていった。
「また後で」
「じゃあね」
「行ってきます」
 瞳、七瀬、いづみが真一郎に言葉を残して同じように走っていった。
「絶対、帰って来てくれよ。誰一人欠けたら許さないからな……」
 自分の無力さに、真一郎は歯噛みした。
 
 大地の鳴動は、終わらず続いていた。
 普通の地震では無い事がそこからもわかる。
 すでに5分以上鳴動は続いているのだ。
「何か聞こえる……やっぱり何かが、聞こえてくる」
 地面の奥から何か言葉のようなある一定の何かが訴えかけてくるのが小鳥には感じられていた。
「怖い。どうしてこんなことになってるの」
 地面に降ろされた唯子をぎゅっと抱きしめて、小鳥は呟いた。
「私、どうすればいいんだろう」
 

第59話 決着?

 
 戦いは激化していく。
「はぁっ」
 さくらの手はゼオに受け止められる。
「こんなものか?」
「ちっ」
 距離をとった所に、一条の光弾。
 頭上高くに浮かんだ、七瀬が放った光の矢だ。
「破魔の力を持つだと?」
 ゼオが身を躱す。
 後ろの玉座に当たり、その破片が飛び散る。
「くっ……」
 さっきまでよりずっと強い力だ。
 七瀬自身が驚いている。
 それに、もっといろいろ出来るのがわかった。
“守って、大事な人達を……”
「これは?」
 さくらが体の周りを覆う光の風に驚いた。
 ゼオの手刀を弾いたのだ。
「えへへ。出来るもんだね案外」
 その頃、シフと戦っていたいづみと瞳もその変化に驚いた。
「ちち……い。またあの幽霊かい」
 シフが歯噛みする。今の姿は老婆だ。
「もうあんたの力はわかってるんだ。また封印してやるよ」
「ふふん、妖怪婆あに出来るものならやってみなってのよ。今の私は、真一郎の側にいられて、勇気100倍なんだから!」
「止めておけ、シフ。興醒めだろうが」
 やり取りに口を挟むゼオ。
「そんな事言ってていいの? 結構苦戦してるように見えるけど……」
「ふふっ、お前こそそんなことを言っていて良いのかな? 私は、お前の力を止める方法はすでに感づいているのだぞ」
「何よ?」
「お前の恋人だな? あの少年は」
「あっ……」
「ふふっあっという間だろうな、鮮血が飛び散って、彼の最期の一息がこぼれるように吐き出されるのは」
「先輩には、絶対手を出させない!」
「そうだ、そのいきだ。そうでないと楽しみが無いぞ。私の末裔よ……」
「え……?」
「隙だらけだ!」
 さくらが、ゼオの言葉に反応した瞬間、蹴りがさくらに跳んだ。
 どんっとさくらは吹き飛ばされた。
 だが、それはゼオの蹴りを体に受けたわけではなくて、八房がさくらを突き飛ばしたからだ。
「嘘!」
 起き上がりもせずに、さくらが荒い感情を吐き出す。
「ふん、説明してやらないか、ユニケ。ラインの妻は私の娘だという事をなあ!」
「嘘、私は絶対、信じない……」
「信じなくても良いが、さくら、真実は一つしかないのだ。お前は紛れも無い私の曾孫だよ」
「私は人狼と吸血鬼のハーフ。母は生っ粋の人狼なのに?」
「くくく、生っ粋の人狼を生ませる事が吸血鬼に出来ないわけがなかろう?」
 さくらは自分で説明した過去の話を思い返して慄然とする。
「お前は正真正銘、私の曾孫なんだ」
「そんな、そんな……」
「だからどうした、さくらはさくらだろう!」
 真一郎の声。
 はっと立ち直るさくら。
“また、言ってもらってしまったな……”
「ほう、余計な事を言ったかと心配したが、その様子なら安心だな」
「たとえ、あなたが、私の曾祖父でも、私は戦う!」
 さくらと八房は同時にゼオへと飛び込んだ。
 
「やぁぁっ!」
 裂帛の気合とともに、瞳の振り下ろした棍がシフの鼻先をかすめた。
 最初こそ、その老婆の姿に全力を出しにくかった二人も、今ではこの老婆が、恐ろしい敵だという事に気づいていた。
「よっ、全く、年寄りにいたわりと言うのが、無いのかね……っと」
 ことごとく、瞳の棍が躱される。
「凄い……」
 思わず感嘆の声が沸くほどだ。
「そりゃありがとよ。でもね、お前さん。私は女はあまり好きじゃないんだよ」
「私だって、好きじゃないっ!」
 いづみが後ろに回り込んで八房を抜き放つ。
「ひょう、危ない餓鬼だねえ。刃物の使い方を親が教えなかったのかい?」
「私は御剣一角! 残念ながら、私の家は蔡雅御剣流忍術の家元だ。刃物の使い方は徹底して叩き込まれている!」
 がいん。
『八房』と杖がぶつかって嫌な音をたてた。
「……ふん、ろくでもないというんだ。だから女は……」
「聞きたい事があります。あなたが、大賀さんをあんなふうにしたの?」
 攻撃の手を止めて、瞳がシフに質問した。
「千堂先輩!」
「大丈夫よ、答えるでしょう?」
「……あの男なら、確かに私が吸血鬼に仕立ててやったんだ。ちょっとした座興だよ。人間の苦しむ姿ってのは、最高の娯楽だからねえ」
 瞳がすっと下を向いて、悲しそうな表情をしたようにシフからは見えた。
「……そうですか。それなら……あなたに手加減はしません」
 ふつふつと燃える、怒りの炎。
 静かだけど、その熱さは何者にも負けない、そんな炎。
 シフが、その気迫に目を丸くする。
「千堂瞳、礼を持って、お相手いたします……!」
 ひゅっ。
 風をまいて、シフへと瞳の棍が迫った。
 杖で受け止めるシフ。
 瞳が首を傾げた。
 そこから七瀬の光弾。
「ひっ」
「とどめを!」
 瞳の声に反応して、いづみの影が、シフへと重なる。
 ごきっ。
 嫌な感触がして、『八房』がシフの肩の骨を断ち割った。
「ぎゃああああああ」
「許さない。あなたを許すものはいない」
 瞳が棍を振り下ろした。首の骨が、不自然に曲がる。
“これで、終わり……”
 一瞬の攻防。運は瞳に味方してくれた。
 
“方法が無い……”
 あまりにも、ゼオの力が桁違いすぎた。
 七瀬の力も最初こそ、避けて見せたものの、ゼオはすぐに対応してきた。
 瘴気を纏わせはじめたのだ。
 あまりにも、強い邪気。触れただけで普通なら肌が腐り落ちる。
 さくらならずとも戦慄するだろう。
 それで、七瀬の力をほぼ無効化している。
 だが、敢えて、その力を押さえているらしく、全力で七瀬が放つ光弾は瘴気を切り裂いていた。
“楽しんでいるんだ、まだ、私達の力じゃこの男の本気を出させる事すら出来ないんだ”
 絶望にも似た思いがさくらの体をじんわりと包んでいく。
 でも、さくらは真一郎を見た。
「先輩に、きちんと言わなきゃ、死んでも死にきれない。ううん。絶対死ぬつもりなんかない」
“そうだ、絶望なんかしてらんない。ゼオが本気じゃないのなら、今が最大のチャンス。今こそ、何か手があるはず……”
 捨て身……。
 だけど考え付くのは、そうして全力攻撃をする事ぐらいだった。
 ゼオは自分から攻撃をしてこない。
 私達の攻撃に合わせて幾つかの反撃をするだけだった。
 だったら、今までよりももっと攻撃だけに力を入れた一撃を放てば。
 じりじりと、ゼオと差を詰めるさくら。
「どうした。かかってこないのか?」
 七瀬の光弾。
「今度こそ、当たれえっ!」
 大きく、横に広い刃のような光。
 さくらは光弾と同時に襲い掛かる……と見せかけてステップバックする。
 ゼオは光弾を処理する為にそれ以上さくらを追えずに飛び上がって躱した。
 その目の前に急速に迫るさくら。
 まさしく、攻撃だけしか見ない特攻。
「無駄だ!」
 力を込めた腕で横薙ぎにされる。
 がきん。互いの攻撃が交差し、空中で動きが止まった。
「なっ!」
 驚きの声を上げたゼオの次の言葉は、声にならなかった。
「ごほあっ!」
 八房が脇腹を噛み千切っていたのだ。
 どさりと地面に落ちる三つの影。
 さくらが真っ先に立ち上がった。
 次いでゼオが立ち上がる。
 ゆらりと揺らめく霊気を背負って。
 手には八房がつかみあげられている。
 ひゅーひゅーという、苦しげな呼吸音が響いている。
 子牛ほどもある八房が簡単に持ちあげられ、頭上でその喉笛がつかみつぶされていた。
 見ていた誰もが目を背けた一瞬だった。怒りのすさまじさに、誰もがぞくりと震えた一瞬だった。
 だが、それがゼオの見せた一番の隙の瞬間だった。
 ぐしゃあっ!!
 …………。
 誰も、何も言う事が出来なかった。突然訪れたその空白に。
 激しい威圧から開放されたその瞬間には全てが麻痺していたから。
 最初に言葉を口に出来たのは真一郎だった。
「『さくら』」
 時間が止まっていたようにゆっくりとゼオが首を失って前のめりに倒れた。
「はあはあはあ……うう」
『さくら』はそのまま倒れ込む。
 ただでさえ強い瘴気があの瞬間、加護を受けていない『さくら』を蝕んだのだ。
「ようやく辿り着い……た。間に合っ……てよかった……う、ぅぐぁ……」
 ごろんとその横にゼオの生首が転がる。
 その顔は恐ろしくも微笑んでいた。
 まだ死んでいないかのように、それでもぴくりとも動かずに。
「大丈夫?」
 さくらが、心配して駆け寄っていく。
 ずっと傍観せざるを得なかった小鳥も、『さくら』の様子に駆け寄っていく。
 瞳といづみは顔を見合わせ、それでも、どこかほっとした顔を浮かべた。
「終わりましたね」
「ええ、これで、長い間の因縁が終わるんです」
 そう言いながら、いづみは未だ止まらない地震が早い所静まってくれるように祈っていた。
「彼女の手当てもしてあげるんでしょう?」
「ええ、もちろんです。相川を……真一郎様を好きな仲間ですから」
 いづみは吹っ切れたように笑顔を浮かべた。
「そうですね」
 瞳にもいつもの優しい笑顔が戻っていた。
「『さくら』大丈夫なの?」
 七瀬が心配して覗き込む。
『さくら』は痛みで震える体を押さえて軽く首を振る。
「『さくら』……」
 青ざめた顔の真一郎。
『さくら』は笑って見せる。そして。
「心配……しない……で……?」
『さくら』達がそれに気付いた時、あたりに血がしぶいた……。
「きゃあああああああああ」
 

第60話 絶望の隣

 
 異様な光景に、全員の頭が痺れていた。
 真一郎が愛しげに支える『さくら』の腹部には真一郎の右腕が突き立っていた。
 力の入らない状態で、その腕に『さくら』の手が添えられていた。
「大丈夫?」
 優しい笑顔を浮かべて真一郎が『さくら』に尋ねた。
「あ……。あう……ああ」
 まるでいとおしい恋人に話し掛けるような熱い吐息を投げかける『さくら』。
 真一郎も、答えるように甘い声を投げかける。
「ここが痛い……?」
「あ、ぐっ! ……はああ。ああぁ……あぁぁ」
 真一郎は手に『さくら』の熱さを感じる。
 生きている、命の熱さを。
 湿った内臓の柔らかさを……。
 真一郎の手は、『さくら』の腹に突き込まれたまま、中でうごめかされる。
 ぐちゃ……ぐちゅ。
 そのたびごとに、『さくら』がびくんと震える。
「痛くないわけないよなあ。可哀相に……『さくら』」
 そう真一郎が告げた瞬間、『さくら』の背中に腕が突き抜ける。
 ばしゃ。
 腹部に溜まっていた血がそこからこぼれ落ちた。
 目に鮮やかな鮮血の赤。
 見ていたさくらが、ぺたりと座り込む。
 ずるずると抜かれていく真一郎の腕。
 真っ赤に彩られた真一郎の腕。
「いくら、呪で強化されたホムンクルスの肉体とはいえ、この傷は治らないね。『さくら』」
 あくまでその呼びかけは優しい。
 手についた血ををぺろりと嘗め取り笑う真一郎。
 どさりと重い音を立てて、転がる『さくら』。
 全てが、狂気の出来事。
「だれ? あなた誰?」
 小鳥が震える声で真一郎に尋ねる。
「小鳥……何言ってるんだよ。俺は相川真一郎だよ。お前の幼なじみの……」
「違う! 真くんは、そんな事しない。あなたは誰?」
「強情だな……小鳥は。本当に俺は真一郎なんだよ……」
「う、嘘、嘘嘘嘘……嘘だよね。嘘だよね、こんなの、真くんじゃないもん……」
 小鳥は、彼が見せた否応の無い真一郎の証であるその微笑みに、自分が震えはじめるのが判った。
「違うよ。小鳥ちゃん……」
 七瀬も震えてはいたけど、気丈に真一郎を見つめていた。
「え?」
{確かに真一郎を感じる。でも、これは……」
「そう、私はゼオリオルム=クィドル=フィンカシス一世だ」
 楽しそうに口の端を歪める真一郎。いや、ゼオか。
「なんだって? 相川はどうしたんだ!」
「御剣、ここにいるじゃないか。ここにね」
「貴様、ふざけるつもりなのか?」
 不安と怒りがいづみの心を千々に乱す。
「ふざけてなどいない……小鳥といづみは嘘を付かれたと思っているかもしれないが。まるっきりの嘘というわけでもないんだぞ」
 その言葉に黙ったままだったさくらが口を挟む。
「……魂の捕食……支配でも、魅了でもなく、おのれの魂の糧にしてしまう、最大の禁呪……」
「良く知っていたな。さくら」
「でも、この術は事前に準備が必要で、少なくとも半日はかかるはず……」
 さくらは、呆然と呟き続ける。
 強いはずのさくらの心にとってさえ、今の現実は受け入れ難い物だった。
「そんなはずない。そんなはずない。先輩が私を、殺してる……」
「半日前? まさか……」
 七瀬の頭に、シフの姿が浮かぶ。
「そのとおりだよ。ひっひっひっ」
 瞳といづみ、七瀬が声のした方に振り向いた。
「『さくら』のためにしてやったんだけどねえ。案の定さくらには堪えたみたいだねえ」
 シフが首を折られた姿のまま立ち上がっていた。
「ば、化け物……」
 ぎりりっと歯を噛み締める瞳。
 心がまた、恐怖に囚われそうになる。
 目をつぶって、瞳は軽く深呼吸する。
 緊張が体から去らない……嫌な感触だ。
「綺堂さん……」
 瞳の呼びかけに、さくらは答えない。
 ばしっ。
『さくら』に会った時した張り手の何倍も強い力でさくらの頬が張られた。
「目を覚ましなさい! 今出来る事は何? あなたはそこで相川君が食べられるのを待つつもりなの?」
「……仁の珠なら、もしかしたら正気を取り戻す事が出来るかもしれない」
 さくらが頬に手を当て呟いた。
「野々村さん……」
「千堂さん……」
「やって欲しいの」
「でも、私は」
「お願い、このとおりだから……」
 瞳が冷たい地面に伏せて土下座する。
 小鳥が首を振って瞳を抱え起こした。
「ごめんなさい千堂さん、私……真くんを助ける為だったら何でもするよ! でも……でも! さっきからずっとこの珠にそんな力があるんだったら、真くんを助けてください、皆を救ってあげてって頼んでるのに……。駄目なの。全然何も起こらないの!」
「野々村さん……」
「ごめんなさい真くん、千堂さん。私、私……何も出来ない……!」
 滂沱と流れ出す涙。
 小鳥がしゃくりあげていた。
 その様子に真一郎の中の何かがほんの少し頭をもたげた。
 
“俺は……”
“何してたんだ?”
“ここはどこ……”
 何もない空間。
 いや、凝り固まった圧倒的なもので埋め尽くされた空間。
 真一郎のまわりに隙間無く壁を作っているように、それは存在している。
“何かが、聞こえたような気がしたのに……”
 それらのモノが、囲んでいては、何かあるはずも無かった。真一郎は恐ろしくてならなかった。
 その周りのモノ。
 それが何なのか次第に真一郎には判ってきた。
 ゼオの思い。
 圧倒的に強い憎しみ、怒り、悲しみの記憶……。
 それらには少しも真一郎が受け止める事の出来るものは無かった。
 真一郎を蝕み、拒絶する悪意だった。
 ここにいたらいけない。でも、まわりには抜け出る隙間はなかった。
“何とかしなくちゃ、なんとか、ここから出なくちゃ……”
 闇雲に、周りの思いに触れた。
 そうして……同じ痛み、苦しみ、怒りを真一郎に注ぎ込まれてくる。
 その中には愛や安堵、喜びといった柔らかいものは一切存在していなかった。
 そんなはずはないのに、無いはずはないのに、真一郎は救いを求めて触れ続ける。そして、次第に侵食されていく。
 自分が、誰であったのか、また忘れそうになる。
 真一郎を拒絶する。
 真一郎を隷従させる。
 数々の思い……。
“……見つけた”
 エデュリシス、ゼオの妻の記憶……。
“これで、痛みが和らぐ……”
 暖かいはずの記憶。愛の想い……。
 むしゃぶりつくように、真一郎はその思いにすがり付こうとした。
 だけど。
 だけど……。
 ……それはからからに干からびて、今では絶望というもっとも辛い記憶に成り果てていた。
“あ……もう、良い……や……”
 真一郎は座り込んだ。
 もう、何の為に悪あがきをしていたのかもわからなかった。
 じわじわと、食い尽くされていく自分を感じながら、真一郎は呆然とそれが終わるのを待っていた……。
 
「……それなら、それなら!」
 瞳が血を吐くような叫びを上げる。
「相川君を、殺しましょう。彼に、もうこれ以上こんなことはさせられない……」
「……!」
 小鳥がびくんと震えた。
「ぁ……あ……ぃあ……」
 言葉が、詰まって出てこなかった。
 胸の中には言葉じゃない、痛い想いばかりが詰まっていて、言葉が口から出てこない。
「でも、先輩まだ、死んでないのに……」
「いずれ死ぬのに?」
 さくらにも、それは判っていた。
 誰よりも、痛いほどにそれを知っていたのはさくら自身だったのに。
“馬鹿な事。もう無理なのに、先輩はもう、帰らない……せめて……そうなら”
 それでも、真一郎の穏やかな微笑みを見てしまうと足が竦んで動かなかった。
“駄目……”
「いいわ。いづみさん……あなたは?」
「私は……くそっ、どうすれば良いんです! 本当に打つ手は無いんですか? こんなことこんなこと、あっていいはずないのに。何故ですか?」
「……知らないわ。それにたとえ、どんな理由があったとしても……私は納得できないから……」
「くっ……私も、私も……相川を、殺します」
 自分の中から出た言葉に、いづみが悔し涙を流した。
「私も、やる……」
 七瀬が、いづみの側に立った。
「良いのね? ……」
「……やる……」
 七瀬はそれ以上答えられなかった。
“ごめんね真一郎。私、大好きだから。真一郎の事大好きだから……”
「決まったかね?」
「……真一郎、さようなら」
 無造作に、光弾を作り出した七瀬。
 それが途端に、消失する。
「あ。そんな……いや、や、止め……め……め・めめめ……うわあああああ」
 七瀬がもんどりうって地面に倒れ込んだ。
 激しい苦しみに、七瀬の端正な顔が歪む。
 驚いた二人がゼオに目を転じると、彼の手のひらで孝の字の浮き出た珠が瘴気で黒く染まりつつあった。
「面白い見世物だ。そちらの二人はどんな風にして楽しませてくれるかね?」
 ゼオの声はそれでも真一郎の声音なのだ。
 胸の奥が火掻き棒でかき回されるような苦痛。
「真くん!」
 小鳥の声に真一郎は反応しない。
 さくらはそれでもまだ動けずに、七瀬の苦しみを和らげようと無駄な努力をする事しか出来なかった。
「ふふふ、そうだな。さくらばかり影に苦しむのは不公平だな。そこの二人には影と戦ってもらおう」
「何です?」
 そう問い掛けた瞳の前に、自分と寸分違わぬ顔をした影が現れた。
「真一郎を、殺したくない。それぐらいだったら、世界が滅べば良い……」
 自分の声音でそう語られるのを、瞳は呆然と見つめていた。
 
「真一郎様を殺そうとするものは許さない!」
「くっ……」
 いづみも激しく動揺していた。
「違う!」
 そういうものの、いづみの心には、痛みが渦巻いていた。
「何が違う? 想いを殺し、自分に嘘を付いて真一郎様に刃を向けているくせに!」
『いづみ』の持つ忍刀がいづみの肌をかすめた。
 しゅっと空中に血の軌跡が出来る。
「真一郎様に、牙を向けるのか?」
 いづみの胸が言葉に動揺する。
「千堂先輩の決断に引かれただけじゃないか。本当は、真一郎様を殺す気なんか無いくせに」
「違う。そんな事はない!」
 いづみの言葉が空しい。
 苦しみが、胸の中にいっぱい詰まっている。
“こんな酷い事、耐えられない”
“それなら、明け渡して下さい……”
 声が聞こえた。
 女性の声。
 美しい澄んだ声。
“あなたは誰?”
“私はユニケ”
“ユニケ?”
“そう、あなたの持っている『八房』と言った方が良いのかしら”
“でも……『八房』はさっき……”
 いづみが、例の無残な光景を思い返して見て見ると、八房だった死骸はいつのまにか消えていた。
“あれは、兄さんの術でかりそめの姿を得ただけの事……”
「愛していないのか?」
『いづみ』の足払いが風を巻いて襲い掛かる。
 それを紙一重で躱しながら、いづみが叫ぶ。
「うるさい……愛していないわけ、無いじゃないか!」
“明け渡してください……”
“何を? 今はそれどころじゃ……”
“あなたの体を……明け渡してください”
“そんな事出来ない”
“でも、苦しいでしょう? 代わりに私が、戦ってあげます。あなたを助けて上げます”
“……本当に?”
“ええ、恥じる事は無いです。これまでの私の主達もそうして苦難を乗り越えてきたんですから”
“……苦しまなくていいのか?”
“ええ、あなたが求めていた、強さを手に入れられます”
“強さ……”
 渇望していた強さ。
 辛い決断を冷静に下せる強さ。
 信念を貫いて、他を顧みる事のない強さ。
 それが、手に入る。
 強さがあれば、真一郎を救える?
 ずくん!
 それまでで、一番、胸が痛んだ。
 それはほとんど現実の痛みになって、いづみの動きを止めた。
 腕に、『いづみ』の忍刀が突き刺さった。
「……八房、要らない。それは本当の強さじゃない。私が求めている本当の強さじゃ……」
“……それでいいのですか?”
“ああ、私は自分を決して失わない。私は私のままで強くなる”
 いづみは『いづみ』の手首をつかんで投げ飛ばした。
“私を信じてくれた多くの人の為に……尽くしたい人の為に……”
「まだ、真一郎様に敵対するつもりなのか? 忠義があなたには無いのか!」
「……そんなものは忠義なんかじゃない! 変わってしまわれるのなら、あの大切な人が取って代わられるなら、まだあの人であるうちに殺してあげるのが、それこそせめて忠義! 取り違えるな。私は、真一郎様に本当の想いを注いでいるんだ!」
 いづみの攻撃が、『いづみ』を叩き伏せる。
 首元に八房を突きつけられ、『いづみ』は抵抗を止めた。
“……良く言いました。それでこそ、忠の珠の持ち主。私はあなたに力を貸しましょう……”
 押さえつけていた『いづみ』が急に実体を失った。
 体の中に、彼女が入り込んでくる。
“そうか、目の前の私は、弱い自分でもあったんだな……”
 いづみの手の中で八房が息づいている。
 これまでに無い、強力な力をいづみは感じた。
 どさ。
 突然、人の倒れる音がして、いづみは振り返った。
 瞳が地面に倒れていた。
 それを見下ろすもう一人の瞳。
 地面に倒れた瞳の姿が揺らいでいき、見下ろす瞳の体に吸い込まれていく。
 ……瞳が、いづみに目を向ける。
「あなたも真一郎に刃向かうのね……」
 いづみの胸にいいしれない悲しみが湧き起こった。
 
「どうして、どうして……私は何も出来ないんだろう」
 唯子の側に戻って、祈るしか出来ない自分を責め立てる小鳥。
 救われる事のないその行為は、延々と自分自身を傷つけていく。
「どうして、真くん……」
 あの時から、何も変わってない。
 ハチに助けてもらったあの頃から……。
 
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