とらいあんぐる八犬伝

 

第62話 仁(あい)の唄

 
「これが、ちびきのいしなんですか?」
 ななかの質問にラインは軽く肯いた。
 目の前に見えるのは、ただの壁にしか見えない。
「……触ったら死んじゃうんですよね?」
 びくびくして、ななかは近寄りたがらない。
「ああ、でも触らなければ死ぬ事は無い……くれぐれも触らないように」
“そんな事言っても、最初から、死んでもらうんだろう?”
 皮肉な声でラインに話し掛ける大輔。
 やっぱり少し納得行かない部分が在る。
“違う。側にいるだけでこのいしは生命を奪うのだ。もし、仮に触ったとしたら……助ける手だては一つしかない”
“な、なんだよ……”
“黄泉まで行く前に抱きしめて、決して離さないことだ。そのまま、現界に戻ればいい”
“……本当だな?”
“大丈夫、私は彼女に危険がない事を約束する代わりにここにいるのだから。それほど危険な事ではないよ”
 そう言った後、にやりとラインがほくそえむ。
“最初から、彼女を抱きしめていてやったらどうだね。それが一番危険が少ないぞ”
「……そ、それじゃやります。あの……呪文とかなんとか、必要な事はないですよね」
 ななかが、一度ちびきのいしに押し当てようとしてから、ラインを振り返る。
「ああ、だが、チャンスは一度、それを逃したら、少々厄介な事になる……」
「どういう事ですか?」
「さっきから、ずっと地震が止まらなくなっている……これは、とうとう呪いが発動する証だろう」
「プ、プレッシャーかけないでくださいー」
“うう。平常心、平常心。こんな時、千堂先輩なんかだったらいとも簡単にやって退けるんだろうな”
 そう言い聞かせても、ななかはなんだかぶるぶる震えてしまう。
 だって、自分の手に何人もの人の未来がかかってる。
 緊張しない方がおかしかった。
“鷹城先輩でも、平気そうだよな……絶対緊張なんてしなさそうだし”
 もちろん、事態を解決するのが自分ではない事は重々承知している。
“でも、なんの因果で、私が選ばれちゃったんだろう”
 ラインが言うには、義の珠を持っていたからだという。
 でも、そんなに、その珠が重要なんだろうか?
 ななかは面食らってしまう部分が少なからずある。
 でも、きっと、他の誰が想っているより、自分にとっては大切な珠に違いなかった。
 そのせいで選ばれたというなら……ななかは、むしろ光栄何じゃないかと想う。
 そんな事を考えていたななかは、突然ぎゅっと抱きしめられた。
「だ、だだだだ?」
 大輔さん? と言おうとして吃りまくってしまうななか。
「ななか、頑張れ……」
“俺は絶対に、お前を死なせたりしないから……”
「……はい!」
 ななかは、目をつぶってその暖かさを感じていた。
 心が、ゆっくりと鎮まって行く……。
 ななかは、もう緊張なんかしていなかった。
“やれやれ……二人の愛情こそが必要だった為に一芝居打ったなどと言ったら私は大輔に殺されかねんな”
 本当はななかに死んでもらう必要など無い。
 義の珠は特殊で、どうやら、二人の所有者に反応している。最初ラインがそれを知った時には困惑したものだ。
 どうすれば良いのかと。
 幸い、二人が恋人同士だったから、なんとかなったが、そうでなかったらどうなっただろう。
 そう考えるラインの意識体は、もうすぐ役目を終える為にその気配を薄れさせ始めていた。
 ななかは、ゆっくりと珠をちびきのいしに押し当てる。
 鋭い光芒がいしからほとばしり出た。
「きゃっ」
「うわっ」
 二人が、無意識にぎゅっと抱き合う。
 しかし、光はますます強くなってそのまま二人の意識をさらっていった。
 
「ふう、ようやく、出られたようだ。さて、私がなすべき事をするとしようか……」
 ラインは、倒れ込んでいる二人を宿泊先まで飛ばした後、自分もどこかへと姿を消した。
 
 
 ゆっくりとゼオが立ちあがった。
 近づいてくるさくらに対して不敵な笑みを浮かべる。
「激しい怒りを感じるな。さくら、ゼオの気持ちがどんなものか判ったか?」
 さくらは、どきっとする。
 怒りとその底にある深い悲しみを、ゼオに見透かされたような気がした。
「エリスが殺された時にゼオがどんな想いだったか……」
「関係無い。私は……私、先輩を……」
 言えない。言うべき台詞なんか無い。
 殺すというの?
 違うのに、想いは違うのに。ここでは同義。
 先輩を奪ったゼオを殺すというのと先輩を殺すというのは……。
「さくら、彼の魂はなかなか強い。まだ、私の中にいるよ……」
「え?」
 ゼオは優しく微笑みかける。
 その笑顔は真一郎のままで、さくらは激しく自分が動揺するのを感じる。
「一つ……提案しようか?」
 耳を貸しちゃいけない。
 聞いちゃいけない。
 いけない……。
「何……?」
 そう思っても、さくらはそう応えてしまっていた。
「さくら。シフがついさっき息絶えた」
「あの……魔女が」
「代わりに私のものになれ……。その代わり、この少年は助けてやろう」
“私の代わりに……先輩を……”
 悪魔の誘惑ーー。
 さくらは体が震え始めるのを感じてしまう。
「どうだ? 悪い取り引きでは無いのではないか?」
「あ、あ・あ……」
“悩む必要など無いはず……先輩が助かるなら、なんだってしても良いはず……”
 それなのにどうして自分には、その言葉が言えないのか……。
 ゼオが信用できないと言う事も確かにある。
“私に出来る事だったら……何でも……”
 でも、それだけじゃなかった。
「い、嫌……」
「なんだと?」
「嫌だと言った!」
 さくらは激しく叫ぶ。
「もし、私の代わりに助かっても……先輩は、絶対に喜ばない!」
 さくらの叫びが辺りを圧して響き渡る。
「先輩は、自分のために誰かが犠牲になったら、絶対悲しむ」
「魂が失われるのに?」
「……それでも……これは私のエゴかもしれない……それでも、私にはこれを選ぶ以外道なんてない」
 さくらはぐっとゼオを睨み付けた。
 そして、その先にいる真一郎に心で謝り続けた。
 だんっと地面を蹴ってさくらがゼオに躍り掛かる。
 がしっとゼオがさくらの腕を取り、くるりと回転した。
 さくらが巻き込まれて投げつけられ、その上に即座にゼオがのしかかる。
 そしてゼオはにやりと笑うとその、さくらの決心が強固なものになる前に更に揺さ振りをかける。
「本当に……俺がそんな風に想っているなんて考えてるの? さくら」
 真一郎の声音でゼオが話し掛ける。
「こ、の……」
「いやだよ……死にたくないよ。さくら、助けてよ……」
「卑怯者! 悪魔!」
 立ち向かう気持ちを傷つけられ、さくらは怒りと悲しみと不信で涙を流した。
 信じる気持ちを打ち砕く、本人の言葉。
 それが本当の真一郎では無いと判っていながら、それでも心の一部に疑いが広がる。
「何言ってるんだ……さくら……苦しいんだ……君が欲しい……そうすれば、俺は助かるんだよ……」
 押さえつけられた手に抗う力が抜けていく。
「酷い……こんなの」
 何度もの異常な状況に精神は疲れ果てている。
 思わず、本当に真一郎が側にいるような気持ちになってさくらは首を振る。
「ありがとう、さくら……大好きだよ……」
 力の抜けたさくらの手を放し、ゼオの手がゆっくりとさくらの首筋に伸びていく。
 優しく自分を見つめる彼を見ながら、さくらはもう少しですべてを諦めようとしていた。
 隙だらけのゼオに、さくらは何もする事ができなかった。
 
「さようなら、いづみさん」
 瞳の、自分を勘違いしている姿がいづみにはひどく悲しかった。
「もし、私の代わりに助かっても……先輩は、絶対に喜ばない!」
 その時聞こえてきたさくらの声に瞳が棍を振り上げたまま、びくりとした。
「先輩は、自分のために誰かが犠牲になったら、絶対悲しむ」
 辛くて悲しくて仕方ない声に、瞳が苦渋の表情を示す。
 その間にいづみが瞳の下から抜け出した。
「千堂先輩……なんで苦しんでるんですか? 本当は、分かってるんじゃないですか?」
 いづみが飛ばされた『八房』も拾わず無手のままで瞳に訴える。
 そんないづみに、瞳が睨み殺しそうな視線を向けた。
「うるさい! 私は真一郎を護る……そのためにあなたが邪魔になるのだったら私は容赦しない」
「千堂先輩……弱い心にどうして負けたんですか! あんなにいつも強い人なのに」
「私は……強くなんかない!」
 瞳の棍が振り下ろされた。
 だが、いともたやすくいづみがかわす。
「動揺してるじゃないですか。本当は、千堂先輩だって間違っている事気付いてるじゃないですか!」
「私は、動揺なんかしていない……。これが私の本心! いつもの私は強い振りをしているだけ……苦しさを秘めているだけなんだから!」
 いづみが、瞳の内心を暴露する姿にほんの少しの同情と新たな確信を得る。
「……振りなんかじゃないですよ。自分の内面を隠せるのは、それはそれで、凄く強いじゃないですか……」
「皆を騙して、自分の心を曝け出さない事が?」
「……嘘だって、時には必要です。それに先輩は、自分の心からの呵責に耐えていたじゃないですか。それは強さじゃないんですか? 自分の信念を貫きとおす為の力じゃないんですか? 今はそれが必要な時じゃないんですか?」
『瞳』の心に、ほんの少しのほつれが生じる。
「私は、もう人の為になんか……いやだ! 真一郎と私自身のために生きたい……これが私の本心よ!」
「千堂先輩! じゃあ、あれが、あんなことをするあいつが真一郎様だって言うんですか?」
 さくらに愛を囁き、殺そうと、下僕にしようとしているゼオの姿を指し示す。
「それでも、真一郎には違いない……」
 いづみが、動いた。
 瞳が、まるで反応できなかった。
 ばしいっ。
 平手が、瞳の頬を張り飛ばす。
 地面に倒れ込んだ瞳にいづみが怒りとそして最高の悲しみをたたえて近づいた。
「それが本当にあなたの本心かっ? あなたの相川に対する想いってのはそんなものなのかっ? ふざけるな、相川が、本当のあなたを見てなかったと言いたいのか!」
「……」
「……私も、相川だって、あなたの事が大好きなんだ! お願いだから、そんな悲しい事を……言わないでくれ……」
 鳴咽になりかけながら、いづみが瞳に訴えかける。
「大好き……?」
 頬を押さえて瞳がうめく。
「そうですよ……瞳さん……強いあなたも、弱いあなたも、全部あなたには違いないんだ……きっとそれをみんな含めて、大好きなんだ」
「彼が……私を?」
「当たり前じゃないですか。あれでも、相川は私達が大好きな相川真一郎じゃないですか……」
 ぱきんと瞳の中で音がした。
 不自然に背けられていた心の働きが、瞳の中に戻ってくる。
「あ、ああ、あ……ううううう。私は、私……」
 急に苦しそうに頭を押さえて倒れ込む瞳。
「千堂先輩! 大丈夫ですか?」
「あ、あああ……ありがとう、いづみさん……私は、絶対勝ってみせる……」
 弱々しい笑いを浮かべた瞳は次の瞬間、絶叫した。
「ああああああああああああああ!」
 
「……聞いて、私の大好きな小鳥……」
 小鳥はその声に驚いて振り返った。
 唯子が、苦しい息の下からじっと小鳥を見つめていた。
「唯子……どうしたの?」
「小鳥……唯子には、今何が起こってるのか良く分かんない……」
 唯子は、少し喋るのも辛そうだ。
「唯子は、気にしないで寝てて……」
 唯子に気を使わせたくなくて、小鳥はそう言うけど、自然に涙が頬を伝っていってしまう。
「ううん、知ってる……でも、理解できないの。どうして、しんいちろがあんなこと、してるの? しんいちろ止めなくちゃ、唯子そうしなくちゃいけないんだ……」
 唯子は、起き上がろうとして痛みに顔を歪めた。
「でも……唯子は、今しんいちろを助けてあげられない。……悔しいよ……」
「唯子……」
「……ううん。小鳥、唯子は心配はしてないよ……」
「え? どうして……」
「しんいちろを助けて、みんなも大丈夫にする力が小鳥にあるんだったら……安心できるから」
 小鳥はびっくりして、唯子を眺める。
「絶対大丈夫だって信じてるもん。小鳥だったら、そんな力を持ってるのも唯子はわかる気がする」
「でも、唯子……私は使えないよ。そんな力なんか、無いよ!」
 小鳥を招き寄せる唯子。
 柔らかく、暖かく、小鳥の頭を抱えて、唯子が囁きかける。
「うん、だからね。最後の一押しをしてあげる……」
「最後の……一押し?」
「小鳥、黙って聞いてね、きっと真一郎も唯子も伝えたいのは、同じ気持ちだから……小鳥のお母さんからの手紙……」
 小鳥が、首を振る。
「唯子……いいよ、今はそんな事……」
「駄目、今だから、今だから聞いてもらわなくちゃならないの……」
 じっと、唯子の瞳を眺めていた小鳥は、目に涙を浮かべて静かに肯いた。
「あはは、これでも唯子は記憶力良いから、全部ちゃんと覚えてるよ。そのまま、伝えるね……」
 唯子は、いったん目を閉じた。
「今更私から手紙を貰って、あなたは何事だろうと想っているでしょう。
あなたは、あなたを捨てて出ていった、この私を、許してくれていないに違いありません」
 小鳥は、おぼろげになってしまった母の声が唯子の声に重なるのを感じた。
「許してほしいなんて、私には言えない」
 唯子は、話していなければ、まるで眠ってしまったみたいに静かだった。
 小鳥は、母の言葉が、同時に唯子の言葉であるという事を、その『無言』の中に読み取る。
「それでも、あなたに伝えたい想いがある。
私に言う権利は無いかもしれない。
それでも、私にしかあなたにこの言葉を伝えられないだろうから。
そして、あなたが自然とそれを知る時間を待つ事も私には出来ないから……」
 出ていった、母親。
 思い出すたびに、胸が張り裂けそうに痛む。
 その言葉を聞いているのは、小鳥にとって治りかけた傷痕を針で突き刺されるような気分だった。
「この手紙に同封した、あの珠をあなたは覚えているかしら。
悲しい事件。
あなたにとって、痛くて受け止められない事件。
あの時、あなたは私が返そうとしたこの珠を受け取りませんでした。
それは、あなたが悲しみを受け止められなかったから。
苦しみを認められなかったから」
“痛いーー”
 小鳥は、耳をふさいでしまいたかった。
 優しい母の声、暖かい温もり。
 みんな、みんな小鳥の大好きだったもの。
 それが今、小鳥の周りに確かにあって、それが耐え切れないほどの痛みを小鳥に与えている。
 だけど、耳を背ける事は絶対に出来なかった。
 これは、唯子の、全部を込めた小鳥への激励だったから。
「私もそうだったと言ったらあなたは怒るかしら。
私も耐えられなかった。
夢を失った事。
あなたに、弟をあげられなかった事。
笑顔を上げられなかった事。
ほんの不注意。
一瞬の事。
考えれば考えるだけ、痛みは受け止められないものになる。
自分自身が痛いものになる……」
 真一郎の想いでもあったに違いないから。
「誰が悪いわけでも無かったのに」
 そして。
「言い訳じゃない。
そのことに気がついたのは、ずいぶん経ってから。
本当につい最近。
自分が本当に自分と向き合ってから」
 唯子が、はあはあと苦しそうに息を吐いた。
 小鳥が差し伸べようとする手に頭を振って言葉を続ける。
「辛い想いを、あなたは受け止められるようになった?
私は珠を預かる時にあなたに、辛い事が受け止められるようになったら返すと約束しました。
だから、今のあなたが、強さを手に入れていたら、何も問題は無いの。
でももし、あなたがそうでないなら、聞いて欲しい」
 小鳥は首を振る。
 見えない母に向かって、今でもまだ、あの時の約束が生きている事を実感して。
 自分が強くならないと、決してこの珠は輝かないんだと知って……。
「聞いて、私の大好きな小鳥。
私が、間違っていた事は、あなたやお父さんに、頼らなかった事。
自分の弱さを認めてあげられなかった事。
小鳥……自分の弱さを認めてあげる強さ、そんな強さもあるんだと知って。
それはひどく辛い事。
でも、そうして、今、私はあなたの元から逃げ出してしまった事をもっと辛い事だと知っています。
だから小鳥、逃げないで。
自分からは決して逃げられない、ううん、逃げてはいけない事を知って欲しい」
 唯子の続けられる言葉に、小鳥が思わず口を押さえる。
 悲しみが溢れ出しそうになって……ずっと思い込んでいた痛みが、もっと痛い別のものに変わろうとしている事に気づいて。
“弱さを、認めて上げるってどういう事? 私は、いつだって、強くなんかないよ……”
 それでも、小鳥は今、自分が母と同じ岐路に立たされているのがわかった。
 この痛みを乗り越えられなければ、もっともっと痛い想いを小鳥は背負わなくてはならないだろうと言う事は。
「逃げ出した私が、言う事では無いかもしれない。
でも、きっと、だからこそあなたを傷つけた償いのためにも、私は言わなくてはならない」
 小鳥は、痛みがようやく、どういうものに変わろうとしているのか、理解し始めていた。
「苦しい事、辛い事、悲しい事。
それを受け入れて初めて、人は強くなれるんだって事。
自分を赦してあげて、それで初めて人は『自分』になれるんだって事」
 そして。
 そしてー。
 それは、何より、ずっと待ち望んでいた、大好きな母の想いだったから。
 だから、小鳥は聞かないわけにはいかなかった……。
「私の大事な大事な小鳥。
私は信じている。
あなたが、強い気持ちを手に入れる事を。
そして、その珠を握って笑える事を」
「強く、なるよ……」
 小鳥が、初めてあの日から初めて母に答えた瞬間だった。
「だってあなたは小鳥だから。
私の愛したあの人の、たった一人の娘だから……」
「絶対……私は強くなるよ……」
「小鳥、あなたは飛べるはず。
恐怖を心に仕舞って、大きな空に飛び出して行けるはず」
「だから」
 小鳥の声は、涙に、押し流されそうになる。
「小鳥、あなたは唄えるはず。
痛みから目を逸らさずに、大事な想いを唄えるはず」
「だから……」
 小鳥は必死で、届くはずのない言葉を伝えようとする。
 唯子の言葉のその奥にいる、大好きな大好きな、お母さんにーーーー。
「飛んで小鳥。
そして、唄って……小鳥!」
 唯子が、力のすべてを振り絞ったように声を上げる。
「お母さんーーーーーーーーーーー」
 小鳥は、溢れるままの想いを抱いて、ぎゅっと珠を握り締める。
 
 小鳥の手の中から溢れた光が、辺りへと広がっていった……。
 
 小鳥には、ようやく、地鳴りの底に潜むもう一つのものが何なのか、聞き取る事が出来ていた。
「そうだったんだ……」
 小鳥は自分の持つ珠を見つめる。
 そこには、ようやく仁の文字が浮かんでいた。
「お母さん、ありがとう。今なら、きっとまだ間に合うよね」
 小鳥は敬謙な巫女のように、一心に祈りを捧げた。
 唯子の持つ悌の珠。
 それが初めに共鳴を始める。
 そして、いづみの持つ忠の珠。
 瞳の持つ礼の珠。
 さくらの持つ智の珠。
 それらが、連鎖するように光を放ち、りぃぃぃぃと快い響きを生み出していく。
 最後に真一郎の持つ七瀬の孝の珠。
 真っ黒になって消えかかっていたその珠が、ゼオの瘴気を弾き飛ばして鋭い光を放った。
「うおっ」
 目潰しされてさくらの上から、よろけて逃げるゼオ。
「地の声を、聞いて!」
 小鳥が、小さく、けれど、そこにいる全員が聞けた通る声で叫んだ。
 一定の音を上げて共鳴していた珠達が、少しずつ、その音を変えていく。
 ある珠は高く。
 ある珠は低く。
 それは、バラバラの音を奏で出す。
 そして、それらはやがて一つの集結点を見つけたように調和していった。
 それは、一つの歌へと変わっていく。
 聞き覚えのあるメロディに唯子が、小鳥を見上げる。
 小鳥は、目をつぶり珠を胸に抱いて、すぅと息を吸った。
「小さな、胸の中、ずっと育ててた」
 小鳥は、大好きなその歌を唄い出した。
「一つだけ大事な想いーー」
“真くん”
 小鳥は、心の中で、大事な本当に大事なたった一人の男の子のことを思い浮かべる。
 小鳥にとって一つだけの大事な想いを、込めて小鳥は唄った。
「「どこかに向かって、走るキミに大きな声で、がぁんばれー」」
 小鳥の声に、辛そうながらも、唯子の声が重なる。
「「キミが笑うたび、僕の心は優しく、なるから」」
 小鳥の笑った顔。
 いつもどこかへと向かっていた可愛らしい顔の少年、自分にとって大切な幼なじみへのエール。
 唯子は、想いを唄に込めた。
「「「誰かのために強くなる」」」
 いづみが、更に声を合わせた。
 真一郎への想い。強くなる事、尽くす事。忍者という修行の中で培った、すべての想いを乗せて、いづみが唄った。
「「「「間違いだよってキミは笑うけど」」」」
 そして、いづみが差し伸べた手に瞳が掴まって立ち上がる。
『自分』を見つめてくれていたであろう、真一郎への思慕の気持ち。
 強さを追い求めるわけでも無く、弱さを切り捨てるわけでも無く、瞳はみずからの信念を唄に託す。
「「「「「小さな、胸の中ずっと育ててた」」」」」
 もうすぐ消えてしまいそうだった七瀬が、元の姿を取り戻していた。
「「「「「一つだけ大事な想いがある」」」」」
 死を越えて重なった、二人の運命。
 別れと悲しみを乗り越えて、強くなった絆。
 真一郎へ幸せを。
 その想いのたけを込めて七瀬が唄に連なった。
「「「「「「となり歩くキミの事」」」」」」
 さくらが、ようやく立ち上がる。
 その目に、希望を宿して。
「「「「「「ずっと守ってく」」」」」」
 さくらは、自分の強さ。
 希望を信じる力。
 人の想いの強さを信じる力。
 それで、大好きな人達を護りたいと願う。
 さくらにとってそれらの象徴である真一郎への何より強い想い。
 その全部の想いが溢れて唄となってほとばしっていく。
「「「「「「「キミがくれた勇気、キミの笑顔」」」」」」」
 唄の、想いの振動が『さくら』を死の淵から呼び覚ました。
 かすかな声を喉の奥から絞り出す。
「「「「「「「何より、大事な僕の宝物」」」」」」」
『さくら』は、真一郎に会ってもらったすべての言葉、すべての想いが宝物だと想う。
 勇気を、大事な事に気付かせてくれた自分と世界を繋いでくれた人。
 どんなものにも適わない、すべての想いを感謝に変えて、『さくら』は声が唄となって震わす命を感じていた。
 
「なんのつもりだ……」
 ゼオの言葉は弱い。
 ひしひしと、それが迫ってくるのをゼオは感じていた。
 力が奪われていく。
 辺りの空気が、清冽に厳粛にそして慈愛に溢れたものに変わっていく。
 決定的な瞬間が来る前に、首謀者を殺そうと力を集めようとする。
 だが、力は止められているかのように、彼の元から離れていった。
「何故だ! 何故だ!」
 ゼオが、追いつめられて、その醜い性情を明らかにする。
「あの女の力だというのか!」
 ユニケの微笑む顔が脳裏に浮かんで、ゼオは怒り狂う。
「無駄だ! 我が呪いはびくともしていないぞ。ユニケよ、120年をかけたお前の策も全ては水の泡と化すのだ!」
 ゼオは自分の呪いに対して、その珠達が何もしていない事に気づいて笑った。
 だが……。
 
「「「「「「「いまキミのために僕はうたうよ」」」」」」」
 小鳥達が唄を唄い終わる。
「真くん!」
「しんいちろ!」
「相川!」
「相川君!」
「真一郎!」
「「先輩!」」
 全員が、彼を呼んだ。
 そしてその想いは……。
 
 ……届いた。
 真一郎は突然、自分にとってもっとも大切な女性が自分を呼んでいる事に気が付いた。
「守らなくちゃ……俺……を守らなくちゃ……」
 真一郎は魂の監獄の中で立ち上がる。
「会いたい……」
 その時、ふっと真一郎は気付いた。
 自分がどれぐらい強く、深く彼女の事を想っているか。
 彼女の為なら、自分がどこまでも何よりも強く大きくなれる事を。
 生きている真一郎には、全ての可能性が息づいていた。
 対して、ゼオの思いはその強大な力も、全てはもう決してそれ以上にはならない、縮こまった終わってしまったものであるという事にも気付いた。
 自分がゼオに恐怖を覚えていたのがどんなに馬鹿らしかったか、真一郎にはわかった。
 真一郎は自分がそうと望めばすぐにでも、ゼオを駆逐する事が出来るという事に思い当たる。
 でも、真一郎はすぐにはそうしなかった。
 まず、真一郎はゼオよりも、もっともっと大きくなろうとした。
 次の瞬間には、真一郎はゼオを自分の中にと飲み込んでいた。
 
 真一郎を呼ぶ声が収まった時、ゼオは苦しげな悲鳴を上げて倒れ込んだ。
 それから、ぴくりともゼオは動かなかった。
 ごごごごごこごごごごごごごご。
 その時一段と、地鳴りが激しいものへと変わる。
「きゃああああ」
「うわあああああ」
 地の竜が目覚めようとしていた。
 その時。
 真一郎が起き上がって、叫んだ。
「我。ゼオリオルム・クィドル=フィンカシス一世の名に於いて、呪いよ……解けろ!」
 瞬間、どくんと地面はうねった後、急速にその力を失っていった。
 それから、真一郎が照れとすまない思いのせいで不思議な笑顔を浮かべて言った。
「ごめん、迷惑かけたみたいで……」
「ううん。おかえり、真くん」
 小鳥が真一郎に、涙混じりに声をかけた。
「ああ、ただいま、小鳥……」
 真一郎の胸に、小鳥は飛び込んだ。
 
 
 ゼオは、流れる小川の側に逃げ出してきていた。
 吸血鬼は川を渡る事が出来ない。
 水は魔力を遮断するからだ。
 ゼオは、自分の何が間違っていたのか、わからなかった。ほんの少し前まで、事は彼の予想通りに進んでいたのだ。
「妄執は未だ晴れぬか?」
 声をかけられて、ゼオは驚いて振り返った。
 今の体無き彼を見分ける者がいるとは思ってもいなかった。
「ライン……何故ここに」
 そこに静かに立っていたのはラインだった。
 不思議な事に、殺気をゼオは感じなかった。
「あなたの最期を見届けに……」
 ラインは、悼みの表情でゼオを見た。
「ふ、ふふふ。お前に滅ぼされると言うわけか……」
 ゼオは皮肉っぽい笑顔を浮かべる。
 さすがに滅びる覚悟は出来ていた。
「いや、私は何もしない。あなたの裁きは天が下すだろう」
「なんだと……?」
「行くがいい。私は立会人として、あなたに関わった最後の者としてここにやってきただけなのだから……」
「何もしないというのか? ありもしない天の裁きとやらに私を任せるという事か?」
 ゼオの言葉には、怒りと僅かながらに恐怖が混じっていた。
 ラインはそれに答えなかった。
 ゼオは言いしれない苛立ちを感じて、その場を後にしようとした。
 それは……とても美しい光景だった。
 空から伸びる一条の光の柱。
 それが、ゼオの体を包み込んだ。
「な、なんだと……これが、これが天の裁きだというのか! ラインよ! 私は……」
 ゼオの叫びは、日の光に包まれて、消えていった。
「ゼオ……それは、天の裁きでも何でもない……サン・ピラーと呼ばれるただの自然現象だよ……」
 ラインは、寂しげに、そう呟いた。
 そして、いつのまにかその姿を消していた。
 
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