とらいあんぐる八犬伝
最終話 数多ある明日へ
地震が収まった後、再びあの恐ろしい振動が襲ってきた。
小鳥を抱きしめていた真一郎は、驚いた。
呪いは止めたのだ。
それは、はっきりと真一郎には感じ取れていた。
「この城が、崩れるんです!」
さくらが真っ青になって言う。
「早く逃げなきゃ!」
“でも、どうやって?”
「駄目だよ! 唯子も、『さくら』ちゃんもいるんだよ」
小鳥が叫ぶ。
「私の事は……良い……から、先輩……逃げて……」
「馬鹿、そんな事出来るか!」
真一郎は思わず涙目になる。
「……もう、この体は助からないから……」
首を振る『さくら』に真一郎は自分が『さくら』をこんな目に合わせたのだと思い返す。
腕に蘇る、感触ーー。
「うわああああああ」
真っ赤な手に今更のように気づいて真一郎が絶叫を上げる。
「あなたは操られていたんですから、そんなに自分を責めないで!」
瞳がそんな真一郎を押さえつける。
「だって、だって俺は……」
「仕方ないなんて、言わない……言わないけど、悔やんでいるだけじゃ前には進めない。同じ目にあっていた時私を前に進ませてくれたのはあなたなんだから」
「そ……うです……先輩……私はもう、十分……救ってもらいました……くふ……ごほっ」
『さくら』が口からねっとりとした血を吐き出す。
「『さくら』ちゃん!」
小鳥が、『さくら』の側に駆け寄る。
でも、やれる事はもう無い。
今尽くせる手は無い。
「先輩。『さくら』がそう言ってるんです。私が鷹城先輩を背負いますから、一刻も早く逃げ出しましょう」
さくらは平然と真一郎に向かって言った。
「さくら、どうしてそんな事が言えるんだよ。これは、君自身じゃないか!」
「……私自身だからです。私は残酷なんです……忘れましたか?」
「さくら……」
その言葉の裏には、手ひどい悲しみが、見え隠れしている。
真一郎は、言ってしまった言葉を後悔した。
一度口にした言葉は取り返しが付かない事を痛烈に感じる。
「ごめん。さくらが辛くないわけなかったよな。わかった。でも、俺は諦めるさくらなんか見たくないぞ。最後まで、あがくんだ!」
「先輩……」
さすがにさくらは反論しなかった。
「そうだな、相川、私も手伝う。二人で運べばなんとかなるだろう」
本当は、『さくら』を動かす事なんて出来そうに無かった。
せめて担架が欲しかったけど、ここにはそんな気の効いたものもない。
「ありがとう、御剣」
真一郎は感謝を述べて、『さくら』の肩の下に手を回す。
御剣が同じように『さくら』を抱え起こす。
『さくら』の顔が少しだけ苦しげに歪むが、それだけだった。すでに、抵抗する気力も『さくら』には無かった。
揺れはますます酷くなっていた。
上から、崩れ出した破片がバラバラと落ちてくる。
バランスを崩して、真一郎といづみが『さくら』ごと倒れ込んでしまいそうになった時。
光が走って、全員は森の中にいた。
「どうなってるのー」
唯子がはじめに声を上げた。
「まさか……」
さくらが呟いた。
「そのまさかだよ。さくら」
「御祖父様!」
ラインが、さくらの前に現れた。
「誰?」
真一郎の台詞にさくらが説明した。
「それじゃ例の……」
ラインの右手には何かが引きずられていた。
さくらが良く目を凝らして見ると、それは。
「遊! ……忘れてた……」
「忘れてたじゃない! よりにもよって、あんな所に閉じ込められて、いきなり崩れ出すし、死ぬかと思ったろうが!」
「黙りなさい、遊」
ラインが首根っこを引っつかんだまま恫喝する。
「……なんだよ、人狼風……情……が……」
それでも突っ張る遊だったが、その声音は震えていた。
「今回の事は、きっちり伝えさせてもらう。そうすれば、最低でも再教育は免れまいな」
遊の顔が、愕然と蒼くなる。
「さて、そんな事より、『さくら』はどうだ?」
ラインが遊を放り出し、二人に抱えられた『さくら』の元に歩いていく。
いづみが、ぺこりと挨拶する。
ラインは、それに応えて微笑みかけ、それから厳しい目を孫娘に向けた。
「……す……」
『さくら』は何かを言おうとして、それを諦める。
『さくら』には、もうそれだけの命がなかった。
「判っている。だが、罪は罪だ。償わなければならない」
「じゃあ、このまま死なせるって事なのか? 『さくら』だってあなたの孫娘なんだろう!」
真一郎が、ラインに噛み付く。
「そうだ、だが、私は今一族の代表としてここに来ているのだ」
「なんだよ、それ!」
真一郎が、更に言おうと声を荒げた所にそれを押さえつけるように手が添えられた。
振り返ると、それはさくらだった。
「私は、罰を受けます……」
さくらがラインの前に進み出る。
「いや、罪は『さくら』が償わなければならない」
「……」
さくらはがっくりとうな垂れる。
「それでは、罰を受ける準備は出来たかな?」
『さくら』は視線だけで、ラインに承諾の意図を伝える。
「それでは、『さくら』君には再びさくらの中で眠りに付いてもらう。それが罰だ」
「ちょっ……」
ちょっと待った! と言いかけていた真一郎はその言葉に驚いて途中で口を止めた。
「御祖父様……」
「さあ、さくら。『さくら』の体力が尽きて死んでしまう前に。死んでしまわれては、罰を与えられなくなってしまう」
「わかりました……『さくら』良い?」
『さくら』は否定も肯定もしない。ただ苦しそうに息を吐き出していた。
「さあ、手を取りなさい」
ラインに促され、さくらが『さくら』の手をとる。
ふわっ。
途端に、『さくら』の姿が霞んで消えた。
何一つ、真一郎に言い残す事もせずに。
漂うダイアモンドダストに重なるように。
真一郎は、自分が本当に彼女に何をしてやれたんだろうと思わず唇を噛み締めた。
「さくら……?」
「はい。私はさくらです。『さくら』の事は……先輩が気にする必要はないです」
「でも……」
ふるふると首を振るさくら。
「だって、今は、感じられますから。『さくら』と心が通じ合っているのが。きっと、そんなに長くはかからないんじゃないかと想います。『さくら』と一緒になる日も……」
「さくら……」
「本当ですよ。私、先輩には嘘つきたくないですから」
「わかった……『さくら』もさくらだって言ったのは俺だしね」
「はい……きっと、先輩のおかげですから。曲がりなりにも私と『さくら』が心を通じられるようになったのは……」
「そんなたいしたことはしてないよ」
「いいえ、先輩は私を助けてくれた。きっと他の誰にも出来ない方法で。……凄く感謝しています」
『さくら』はいったん下を向く。
それから、真一郎に向かって少し頬を赤らめながらこう言った。
「でも、それ以上に、私は先輩が大好きです」
真一郎は、少しの驚きとともにその言葉を受け取る。
「ありがとう、さくら……どうしたの?」
その時さくらは驚いたように目を見開き、そして思わず「あ……」と呟いていた。
「い、いえ。何でもないんです……本当に……何で・も……」
そう言いながらもさくらは自分が涙を流しているのを止められずにいた。
“今、はっきり感じたんです。先輩、『さくら』が私になったって……”
さくらにはその理由がわかるような気がした。
「……もう一度、言います。“私”は先輩が大好きです」
今度は2人分の想いを込めて、さくらは微笑んだ。
「……さくら。祖父の前で告白とはなかなか情熱的だな」
揶揄するように、ラインが二人を見ていた。
「あ、ラインさん……」
告白された真一郎が、あからさまに表情を変えた。
さくらも、思い出したように顔を真っ赤に染めて俯いた。
「いづみ……」
さくらの告白を複雑な心境で聞いていたいづみに声がかけられる。
「あ、弓華に火影兄様……」
振り向いたその先には、二人が寄り添うようにして立っていた。
「迷惑をかけたようだな、いづみ」
「い、いえ……迷惑なんて……」
「いえ、迷惑かけたと思います。いづみ、ごめんなさい」
弓華は自分のした事を思い出して、今更ながらに多少の慙愧の念に駆られた。
しかし、後悔は微塵もしていない。
「弓華……本当に良いんだ。二人とも無事で帰ってきてくれれば……」
「ああ、大丈夫だ。さっきまではもう駄目かなとも思っていたがな」
弓華の方に苦笑しながら顔を向ける火影。
「ええ、閉じ込められていましたから。でも……何か光ったと思ったらここにいました」
「そちらも何か、いろいろとあったみたいですね……一体。何があったのか、後で聞かせてください火影兄様」
「と言う事はそちらでも何かあったんだな?」
「ええ、とっても凄い事が……」
ふと、そう言ってからいづみは考える。
実際本当の所自分達は何をしたのだろうと。
考えて見ると、吸血鬼と戦ったのは凄い事だったが、結局倒したのかどうかわからない。
呪いというのも、どこまで本当の事だったのか……。
今では、『八房』も沈黙し、話し掛けてきたりはしない。
忠の文字は確かにあるが、不思議な力を感じたりはしない。
まるで全てが夢の中で起こった事のようだ。
“だが、あの戦いはあった。私達の心の中で、それは間違いの無い事実だ。そして、自分達は……勝ったんだ”
いづみは、事実がどうであるかなど、些末な事なのだと考えを放棄する。
いづみの顔には、満足げな微笑みが自然と浮かびあがっていた。
「鷹城さん……怪我の具合はどう?」
「にゃはははは……大丈夫ですよう」
そうは言うものの、まだ唯子は少し辛そうだった。
「駄目だよ、唯子。起き上がろうとしちゃ……」
小鳥はそんな唯子を地面は暖かくないから、樹の幹に寄りかからせる。
足が駄目だから腰から下は地面に直接つくけれど……。
「私が背負いますよ」
瞳が、唯子を抱えあげようとする。
「そんな……瞳さんにそんな事させられませんよ……」
「ううん、私は今何かをしたくてしょうがないんですよ。嬉しいって言うのと、不甲斐なかったなっていうのと」
「不甲斐ないなんて、そんな事ないです。瞳さんは……」
「良いのよ、大丈夫だから。私は、もう迷ったりしていないから。自分には、まだまだ鍛える所があるなって、余計にやる気が出てきてるんですよ」
そう言って唯子を背負う瞳に小鳥が感心した声を上げる。
「……はややや。千堂さんかっこいい……」
「ふふ、ありがとう」
照れくさそうに言う瞳。
“でも、本当は、私達みんな、あなたに感謝しなくちゃいけないわね。可愛らしくて強い、歌姫さん……”
「あ……あれ」
小鳥が何かに気付いたようだ。
「ちょっと、唯子をお願いします」
ぺこっと御辞儀すると小鳥はどこかに駆けていった。
「どこへ行ったのかしら」
「ちょっとよろしいかね……」
「あ、あなたは……」
「さくらちゃん……の、おじいちゃん」
瞳の言葉にまるで答えるつもりでいったかのように唯子の言葉が重なる。
「怪我をした足はこちらかね?」
「うん、そーだよ」
「どれ、ちょっとかしてみなさい」
「ええっ? 唯子の足は……貸せないよ?」
「鷹城さん……そういう意味じゃないわよ」
「はえ?」
「まあ、熱でもうろうとしてるんだって解釈しておくとします……」
瞳は呆れて、溜め息を付く。
「お嬢さん、ならば、足を見せてはもらえないかね?」
けれども、ラインはそんな事を気にしていないようだ。しんねり強く唯子に話し掛けていく。
「おじいちゃん、お医者さんなの?」
「……まあ、そんなものだな」
ほんの少しだけ苦笑するライン。
唯子が足を差し出した所に、手を当て、少々の気を注ぎ込んでいく。
少々の気といってもラインの気は膨大だ、あっという間に唯子の体を駆け巡り、折れた骨をも復元していく。
「あれ?」
ぶんぶんと足を振る唯子。
「気分も良くなっちゃった? ……むむむ、わかった、さてはおじいちゃんは世界一の名医でしょ!」
全然勘違いな事を言う唯子に瞳は無言でこめかみを押さえた。
「ははは、そう言ってもらえると嬉しいね可愛いお嬢さん」
「ふにゃ〜可愛いだなんて、唯子照れちゃうよ〜」
照れる唯子を見ながら真剣な瞳は聞きたかった事を尋ねて見る。
「吸血鬼にされてしまった人を元に戻す事は出来るんですか?」
「大賀と言う人の事かね?」
ラインがずばりと核心を付いてくるので、思わず瞳は聞き返してしまう。
「心を読んだんですか?」
「いや、知っていただけだ」
「……わかりました、そのことはどうでもいいです。で、どうなんでしょう」
瞳は、少し怖くもあったが、それでも、今は構わない。話が早いというぐらいにしか考えていなかった。
「彼だったら、今ごろ試練を乗り越えて元に戻っているだろう。我々も、ただ私ばかりが出張ってきた訳ではないからな」
“気付かれて、血の雪という先手を打たれたがな……”
実際、あれで行動不能にせざるを得なかった同胞の数は半端ではない。
「ただ、彼が試練を乗り越える事が出来たのは我らの力ではない。彼には強力な守護者がいるようだな」
「……守護者?」
「ああ、亜鈴という女性の強い力が彼を後押ししたのだ」
「……なかなか、くさい台詞ですね」
「おや、そうかね?」
とぼけた表情でラインは瞳に微笑む。
「いえ……そういうの嫌いじゃありませんけどね」
瞳はおかしそうに笑った。
そんなみんなを一人で眺めている者がいた。
寂しげに、風を纏いつかせている七瀬だ。
“誰にも気付かれないまま、こうして去ろう……”
七瀬は、後ろ髪引かれる想いでその場に背を向ける。
“寂しくなんか無い、だってこれは……”
「七瀬さん……」
「なんだ、見つかっちゃったか……さすがに目ざといね小鳥ちゃん」
七瀬は、落涙してしまいそうな自分を必死に元気付けながら、振り返ろうとした。
「でも……真一郎には黙って……」
トンと背中に当たる感触。
七瀬はそれだけで、何も言えなくなる。
苦しいほどに強く腕が後ろからぎゅっと回された。
「七瀬……」
そして、七瀬の胸を震わせて真一郎の声が届いた。
「ごめんね……もう真くん呼んできちゃったんだ……」
小鳥はそれだけ言うと、お邪魔とばかりにふいといなくなった。
「馬鹿、馬鹿……これじゃ、涙も拭けないじゃない……」
七瀬は、それでも、振りほどこうとはせずただ、抱かれるままになっていた……。
「……俺は、泣かないよ。これは悲しい別れじゃないんだもんな……」
真一郎のとても泣いていないようには聞こえない声。
「当たり前だよ、これは、また出会う為の別れなんだから……」
「涙がふけないって言ったくせに……」
「真一郎こそ、鼻声じゃない……」
「これは、七瀬の背中で息苦しいからだよ……」
“嘘つき……背中が、暖かいからすぐ分かるのに……”
「私だって、真一郎が強く抱きしめるから、涙が滲んだだけよ……」
“手に、ぽたぽた落ちてるこの涙が滲んだだけのわけないじゃないか……”
二人はしばらくそうしていた。
でも……。
「お別れだね」
七瀬は、自分の体がいよいよ薄れてくるのを感じて別れにピリオドを打つ。
「七瀬……」
「忘れないでね。誰か他に好きな子がいても良いけど、私の事を絶対に忘れないでね」
七瀬の姿は、少しずつ、薄れていく。
「忘れるわけない。次に会う時まで、ずっと……覚えてるよ」
「ありがとう……真一郎。それじゃ、また会おうね!」
七瀬が手を振って一生懸命微笑む。
「ああ、またな」
だけど真一郎が振り返した時、そこにはもう誰もいなかった……。
「七瀬、忘れやしないよ。俺の初恋の人を……」
真一郎は、自分の手の中に残った温もりにそう話し掛けた。
「私も、伝えなくちゃいけないな……」
小鳥は、真一郎のことを想って一人呟く。
「小鳥ぃ!」
そこに唯子が駆け寄ってくる。
「唯子! 駄目だよ、なんで走ってるの?」
「ああ、さくらちゃんのおじいちゃんに治してもらった……っとと、そんな事は良いよ」
「良くないよ……大丈夫なの?」
「大丈夫だよ〜。さくらちゃんのおじいちゃんは世界一の名医なんだから」
小鳥が、唯子の足を触って見るが、腫れ一つ見られない。
「どうやったの?」
「ううん。手を当ててね。ほわぁって」
「なんだかわからないよ……唯子」
「だから、そのことはもう良いの。これを見て!」
「これ……お母さんの手紙!」
「最後の所!」
唯子が、息を飲んだ小鳥を急かす。
「なに? …………手術?」
小鳥の顔が、見ていてわかるほどに蒼白になる。
「手術は明後日だから、今日から用意すれば間に合うよ。小鳥、急ごう?」
「……行け……うん、わかった。お父さんに連絡して、私、家に帰るね……」
『行けないよ』と言いかけて、小鳥はそれを飲み込んだ。
もう、この事で間違いをおかすのはたくさんだ。
駆けて行こうとして、小鳥が立ち止まる。
「唯子、一応病院に行くんだよ」
「ええっ? でも、唯子ぴんぴんしてるのに?」
唯子がぶーたれるけれど、小鳥はお説教する時の取って置きの顔で詰め寄る。
「駄目、絶対だからね」
「……うう、はーい」
小鳥に逆らえない唯子はしぶしぶ承知した。
「でも、本当にこの珠はどんな力があったの?」
瞳の質問にさくらは困った顔をする。
「さあ、わかりません……」
「わかりませんって……」
「でも、結果的には呪いは解かれましたから」
「それでいいの?」
「そんなもんですよ、本当の『魔法』なんて」
さくらは、にっこりと笑う。
「そうね。そんなものかもしれないわね。でも、何故、あの唄だったのかしら……」
「それは……きっと野々村先輩が仁の珠を持っていたからです。きっと他の人が仁の珠を持っていたら他の音楽だったんじゃないかと私は思います」
「なるほどね。……ふふふふ」
突然、何かに気付いた瞳が笑い出した。
「どうしたんですか? 千堂先輩」
「いや、ね。もし、あの珠になんの力もないとしたら、私達カラオケ出来るだけの珠を頼りにあの男と戦っていたのよ」
「あ……そうですね。それは私も気付かなかった……」
くすくすとさくらも笑い出した。
「そう言えば、そうだったっけ」
真一郎は、その事を思い出して思わず微笑んでしまう。
あれから、二週間が経っていた。
さくらとラインはいろいろと処理があるとかでドイツに行っている。
帰ってくるのは新学期が始まってからの事になるらしい。
瞳は、自分を見詰め直す為にと留学を決意して勉強中だ。
真一郎と会える機会はめったになくなっていた。
いづみは今回の事で、更に大きな仕事を任せてもらえるようになったらしく、最近では放課後になると早々にいなくなる事が多かった。
ただ一人、唯子だけは真一郎のすぐ側にいたが、唯子ももうすぐ護身道部の新主将として活動を開始しなくてはならないだろう。
そのために、現在も唯子は意欲的にそのことに取り組んでいた。
そして、小鳥は……。
小鳥と真一郎は緩やかな陽光の降り注ぐ公園をゆっくりと歩いていた。
「え? ……引越し?」
「うん、明後日にね、引っ越す事になったんだ……」
「そんな、急じゃないか……」
「うん、でも早い方が良いから」
「そうか、お母さんの事か」
「うん」
こくりと肯く小鳥。
小鳥はあの後、無事お母さんに出会う事が出来た。
小鳥のお父さんも仕事をキャンセルして駆けつけたらしい。
長い間話し合って、二人はまだぎこちなさはあるものの心は通じたという話だ。
小鳥は、帰ってきた次の日に泣いて真一郎に伝えてくれた。
『お母さんは本当に私のことを好きでいてくれたんだ。昔のお母さんの優しい顔で笑ってくれたんだよ』と。
そして手術は成功した。
だけど……小鳥のお母さんの病気は治ったわけじゃなかった。
ほんの少しだけ、命が延びただけだという。
「だからね、私……お母さんの側にいてあげたいの」
小鳥がそう言い出すのはごく自然の成り行きだった。
「……良かったな」
真一郎はそう言うしかなかった。
自分の胸に去来するなんとも言えない喪失感を言葉に出来なかった。
「ありがと……真くん」
「そうだ、唯子には言ったのか?」
「うん、真っ先に話したよ。話す人は真くんで、最後」
「……なんで最後なんだよ」
「伝えたい事があったから……」
「私ね、あの時……お母さんの事良く判ったような気がしたの」
小鳥が言うあの時とは、真一郎がゼオにのっとられていた時のことだ。
「でも、あの後またわからなくなっちゃったんだ」
「小鳥……」
「うん、お母さんとも話しながら、私、いろいろ考えたんだお母さんが言ってた事がどういう意味なのかって……」
「わかったのか?」
「うん……多分ね」
小鳥は自信なさそうに、ちょっとだけ微笑む。
「自分を赦すってお母さんは言ってたけど、本当は自分を愛してあげる事だと想うの」
「自分を愛する?」
「そう、自分を愛する事が出来ない人はきっと、本当の意味で人を愛してあげられないんだ……って」
「小鳥は出来るよな」
小鳥ははにかんで答えた。
「うん、私は真くんが大好きだもの。だから、自分も愛してあげられるよ……」
「……この馬鹿……」
真一郎は照れ隠しに小鳥の頭を抱え込んでぐりぐりする。
「いや、痛い、痛いよ〜」
嫌がっているはずの小鳥の声も、なんだか嬉しそうだった。
そして、真一郎の手から逃れた小鳥は、ずっと真一郎と唯子だけが見続けてきた天真爛漫な笑顔を向けた。
「大好き、真くん」
「好きな女の子……か」
七瀬の言葉が、頭に蘇る。
真一郎は心の中で誰が自分にとって一番大事なのか考える。
いづみかな?
瞳ちゃんかな?
唯子かな?
七瀬かな?
さくらかな?
小鳥かな?
そんな風に考えて見るけれど。
もうあの時から、その答えは決まっていた。
ゼオの暗い牢獄の中で、届いた声の持ち主。
彼女こそ、真一郎に取ってもっとも大事な女性だった。
彼女の事を考えていると、いま、こうして部屋の中で寝ている間にも自分の中に力が湧きあがってくるような気がする。
もう少し、その感覚に浸っていたい真一郎だったが、そろそろ動き出す時だった。
「夢を追いかけるにしろ、彼女のために強くなるにしろ……ね」
真一郎は、起き上がって走り出した。
目の前の数多ある明日に向かって。
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