カトリック五井教会
Goi Catholic Church

守護聖人 労働者聖ヨセフ
St. Joseph the Worker


ようこそカトリック五井教会のホームページへ
Welcome to Our Website


← 左のアイコンからお選びください
Please choose an icon on the left.   English
http://www.icntv.ne.jp/user/goich/

IMGP0183.JPG



 皆様こんにちは。
 カトリック五井教会は、房総半島のほぼ中央に位置する市原市にあります。 西(東京湾の方向)には京葉工業地帯の工場群が立ち並び、東には房総半島の 緑豊かな丘陵と田園地帯が広がります。
 五井教会には、工場の移転にともない、九州地方から移り住んできた人達 を始めとし、全国から多くの人達が集まっています。また、フィリピン他の 外国から日本に来ている人達も多く、交流行事や国際ミサが盛んに行われて います。
 パッチワークグループ、聖書を読む会、教会学校等の諸活動も活発に行わ れています。このホームページも広報部が手作業で製作しています。
五井教会の様子が少しでも皆様に伝われば幸いです。
どうぞ、ごゆっくりご覧下さい。

goi.jpg

五井の町 〜川の流れと共に〜

 (設立50周年記念誌より)

上総の国

 JR千葉駅から内房線に乗り、三つ目の浜野駅を少し過ぎると電車は村田川という小さな川を渡ります。 別名境川、その名の通り千葉市と市原市の境となっています。昔この川は上総国と下総国の境でもありま した。当時、都への道は木更津から船で東京湾を渡り、三浦半島に上陸し西へとつながっていました。 こうして房総地域は現在の市川や船橋より都に近かったため、こちらが上総と呼ばれていたのです。
 市原の台地は上総国の政治的中心地である上総国府があった場所で、その地帯には多くの歴史的出土品が 発見され、文化的遺産の宝庫です。高さ63メートルもあった上総国分寺の七重塔や、敷地面積が尼寺と して日本最大の国分尼寺もありました。上総国府は更科日記の出発地でも知られており、市内のあちこち に頼朝伝説も残っています。戦国時代には椎津城、能満城、平蔵城等多くの城がありました。
 土地の名前の言われは様々で、「市原」は「いちいの木」からきているとか。「五井」については御井、 後井、五位等の文字を混用してきて五井になったとか、村を通りかかった刀工の名工から、良い刀を打つ には良い水が必要と教えられ、井戸を次々と掘り、五つの井戸を掘ってついに名刀を鍛えることができた という伝説も残っています。しかし最も信憑性がある五井の語源はゴウ・井で「川」を意味する語を重ね て、養老川の河口に立地した地名にしたと言う説です。

養老川

 養老川は夷隅郡大多喜町の源より市原を南から縦断して五井から東京湾に注ぐ73`メートルほどの二級 河川です。その昔、川船が養老渓谷の旅館街から近隣農家から集まった炭や薪を養老川を通って五井の問屋 まで運びました。二日間かけて運ばれた積み荷は五井など海沿いの港より江戸湾を行き来していた三百石積 みの帆掛け船、五大力船に積み替えられ、江戸に運ばれました。
 関西方面から多くの人が移住して漁業、海苔養殖や製塩を始めました。それはこの地域が養老川によって 運ばれた豊かな栄養分がもたらした魚介類の宝庫であったからです。ここでは独特の風物詩であった小舟を 使っての海苔の採集、潮干狩、簀立て(すだて)も盛んで、海水浴で遠くからバスを連ねて人々が訪れ楽しん だと言われています。
 明治27年(1894年)千葉県で市川‐佐倉間に鉄道が開通し、房総半島東部に建設が始められました。 蘇我‐姉崎間が開通したのは明治45年(1912年)で、現在の内房・外房線の環状線が全線開通したのは 昭和4年4月でした。大正14年には五井‐里見間の小港鉄道も開通しています。これに伴い大勢の人が 市原にやって来たと考えられます。

聖コロンバン会

 終戦翌年の1946年、東京大司教区の土井大司教が司祭の派遣依頼をコロンバン会本部に送ったことに始まり、 1947年に2人の司祭がアイルランドから来日しました。更に1949年東京教区はコロンバン会に千葉県の一部を 委託し、教会の敷地の確保、教会建築そして司祭の布教活動が始まりました。館山、木更津、鴨川、佐原、 銚子教会(いずれも1951年)、茂原教会(1952年)、千葉寺教会(1955年)に次いで1964年、カトリック五井教会 は勤労者聖ヨセフを守護の聖人とし、コロンバン会のオドワイヤ神父が着任し、翌年2月21日土井大司教に より献堂式が捧げられました。
 こうしてはるばる遠い国から派遣された司祭たちがキリストの息吹をこの五井の町に吹き込んだのです。

工業化した町

 時を同じくして千葉県は農業県から工業県へと脱皮を図っていました。昭和32年(1957年)には海岸の埋立 てに着手し、臨海工業地域の造成が促進されこの海岸地帯は一変しました。
 昭和38年には市原、五井、姉崎、市津、三和の5町が合併して市原市が誕生しました。臨海工業団地では 石炭から石油への燃料、原料の転換に伴う炭鉱閉鎖、アセチレン等からエチレンへの原料転換による石油化学 への発展に伴い、漁民は漁業を放棄し転職を余儀なくされ、豊かな漁場は姿を消しました。更に北海道から九州 に及ぶ生活手段の変更を求められた人が大勢移ってきました。また外国人も労働を求めて入ってきました。

川のほとりで

 埋め立てられた海岸地帯はゴビ砂漠ならぬゴイ砂漠のようでした。そして、工業地帯となった今でも養老川は 依然として豊かに流れています。上流には100mから200mの小高い丘陵が続き、下流の川沿いには今でもコサギ、 カワウ、キセキレイ、ジョウビタキなど野鳥が戯れ、タヌキの里もあり、そこには泉が湧き出てクレソンが自生 していて、あたかもオアシスのようです。町の中のオアシスとして五井教会も存在しているのでしょうか。
 聖書の世界にはヨルダン川という神の救いの歴史に深く関わる川があります。モーセの時代、エジプトを脱出 したイスラエルの民は長い流浪の旅の末、ヨルダン川を渡ってついに約束の地カナンに入りました。そして二千 年前、キリストは同じくヨルダン川のほとりで洗礼を受け、その地を出発点にしてガリラヤでの宣教に向けて一 歩を踏み出しました。
 五井教会も養老川によって形成され養われた町の一角に建てられ、神のいのちが注がれました。確かに自然豊 かだったこの河口の町は、工業化の時代の波の中で様変わりしていきましたが、この町にやってきた多くの日本 人や外国人たちがそこに建った教会に集うようになったのです。私たちは言葉、習慣、文化の違いの中で互いを 受け入れ、理解し合いながら共存しています。教会に吹き込まれたキリストのいのちが新たに豊かな泉となり、 そこに集うすべての人が流れ出るいのちの水に培われ、共に神の栄光へと導かれているのです。
( N.ISHIKAWA , I.SUSA  参考文献:「私たち市原市」市原市教育委員会 他)

     goichcurch.jpg