ショートストーリー1



ピーナツファームの春
 〜落花生のホームページ開設の挨拶にかえて〜


思い起こせば2年前のことである。ふと、自分のホームページがあったらいいなあ〜と思い、よくわからないまま作成ソフトを買ったことから始まった。全くものを知らない強みというのは、少しでもわかり始めるととたん弱みに裏返る。説明書を読むと猛烈に眠くなる。眠りはいつもあたたかいもの。インストールした段階で小休止。ホームページビルダ氏は悠久の眠りについた・・かに思われた・・。

しかしこの春、立ち上がった。やりゃあできる。これから充実を図りたい、まだまだの個人サイトだ。おもに見るのは私だ。文句があるのも私だ。偉大なるビルダさま!構想2年、作成3日。

この間いちばん時間を費やした作業は、HPのタイトルを決めることだった。伝えたいこと、表現したいことよりも、まずタイトルを自分でつけたいという望みがいちばん先にあった。始まりはいつも思いつき。

「ピーナツファームの春」というフレーズが浮かんだとき、連想したのは、
ジャック・フィニィ『ゲイルズバーグの春を愛す』(早川書房)という短編だった。
おお!ノスタルジックなSFファンタジーの名作よ!


名前が内容を決定します。2年前は猿岩石応援サイトに憧れていたし、1年前は有吉文庫ファンサイトしかないと思っておりました。そして今、創作サイト急浮上です!かるくからりと、ぽっかりぽかんとしたお話!また夢で終わるかな。ピーナツファームはゲイルズバーグとは全然違うけど、よし!本気で取り組もうという気になれます。とりあえずエッセイです。ラッカセイのエッセイ。随筆というか、感想文だな。う〜ん、そんなことでいいのでしょうか。ま、修正しつつやっていきます。

と、ここまで書いてきて、正式サイト名は「いっき落花生」となりました。
「ピーナツファームの春」は説明するときめんどくさいので、気持ちの名前。
通称「落花生のホームページ」です。


『ゲイルズバーグの春を愛す』の原著は1960年、日本では1972年に翻訳され、1980年にハヤカワ文庫になっており、現在これが入手可能。図書館でゆっくり読むのにふさわしい気がします。
ほかに早川書房から出ている『異色作家短編集』シリーズもよいです。レイ・ブラッドベリ、シャーリー・ジャクソンなど何人かの作家のものがあります。同じく古いので、図書館で幻想と怪奇の世界へ。
リチャード・マシスン、ジョン・コリア、シオドア・スタージョン等々、かつての「ミステリマガジン」の常連作家、皆よろし。

2004/06/08   I Love Galesburg In the Springtime





『熱海殺人事件』 〜そして昔語り〜


HP開設1ヶ月にして、どんどん有吉さんファン感想サイトになっております。やっぱりなあ。ただいまのところ、わかったことは二つ。一つは、書くことは孤独な作業だということ。もう一つは、書きたいことと書けることは違うということ。そんなこと百も承知のつもりだったけど、しみじみ実感する蒸し暑い夜。だから面白いのさ。気を取り直してショートストーリー。


1976年、そのころ私はまだ何も知らない学生で、春休み毎日、映画や芝居を見に出かけていた。紀伊國屋ホールで上演の『熱海殺人事件』に足を運んだのは、安かったのと、雑誌や新聞で話題になっていたのと、そこにはまだ行ったことがなかったという理由から。それと推理小説好きだったけど、いわゆる推理劇じゃないよ、ってことで。じゃあ何なんだ。

一言で言うと、ハマってしまったわけだ、ばっちりガッチリ。迷いは微塵もなかった。進むことしか思いつかなかった。一緒に行った友達のほうはサッパリ冷たくて、私は翌日からひとりで当日券で通ったよ。同じものを何度見ても飽きないどころか、もっともっと見たくなる。熱病に身も心もとらわれて。というか冷静に判断するより先に自分ひとりで行動してしまうのは、たぶん生まれて初めての経験で、明日のことはどうでもよかった、いま!いま行かなくちゃこうして生きてる甲斐がない!

情報といっても本を読むぐらいで、都立日比谷図書館や広尾の中央図書館で、専門誌のバックナンバー読んだり。ちょうど紀伊國屋で立ち読みした『新劇』って雑誌の最新号に載っていました、劇団員募集!これを見逃せるほど意志が強くなかった。役者になろうと思ったことは、後にも先にも無いが、申し込んじゃった。採用試験に行っちゃった。丸の内線に乗って中野方面まで。なぜか幼稚園が稽古場で。

結果を言うと、落ちました。でも募集要項や試験当日のスケジュール表を手に入れ、これで資料が増えたと、歓喜の泉に浸っていると、電話連絡来ました。原稿のお清書しませんか。はい、します!やります!やらせてください!考えるより先にOKしてました。こうしてわがパシリ人生が始まるのでした。履歴書の「字」がよかったんですって。古き良き手書き時代のお話です。

あのころ活躍していたまぶしい存在の役者さん、キミはよくやってるよ皆わかってるよと励ましてくれたスタッフのかた、もうお亡くなりになられた方もいらっしゃいます。本当に惜しい。まだまだじゃないか。やっと円熟期を迎えたというのに、病魔。みんな若いころは無茶だったもんな。命削って芝居に没頭していた。もう一度やり直せたとしても同じように無茶するんだろう。バカだな。

私は残り時間ということを考えて、書けるうちに書いておこうと思いました。誰でも身近なことは書ける。でも他人がそれを読んで面白いかどうか。時間と労力を費やす価値はあるのか。結論が出ないままの「ショートストーリー」です。


戯曲は、自分がその劇を演出することを想定しながら読む。もしくは自分が俳優として役を演じるときのことを考えて読む。というのがいちばんわかりやすいのかもしれません。想像力のいる分野であることは確かです。
そんなわけで、戯曲をよく理解できない私が、当時普通に読んで好きだったのは

ウジェーヌ・イヨネスコ (1912-1994) フランスの劇作家。不条理劇です。

『イヨネスコ戯曲全集全4巻』(白水社 1970)
いかんせん古すぎ。品切れ。図書館へ行こう。

『授業/犀』ベストオブイヨネスコ (白水社 1993)
こちらはまだどこかにあるかもしれません。

『禿の女教師』『椅子』『授業』『犀』 タイトルだけでも魅力。心躍ります。後味のしっくりこない奇妙さがずっと残ります。見事にスキの無いカッチリした感じのベケットよりも、すっとぼけてどっかに行っちゃうみたいな感じのイヨネスコが好き。わけわかんない世界。

2004/07/06





赤頭巾ちゃん気をつけて 〜青春ってやつは〜


唐突ですが、赤ずきんちゃんは可愛い。オオカミに食べられそうになってハラハラします。おばあさんは食べられちゃうけど、赤ずきんちゃんは助かってほしい、と願いながら読むわけです。おばあさんは心配されるよりも、心配する側の人間であることが多いのです。赤ずきんちゃんは、無条件で庇護されるべき対象で、可能性を秘めた未来そのものです。おばあさんは大事にしたい思い出として位置づけられます。

月いちペースの「ショートストーリー」であります。そういえば、ここを柱にサイトを始めたハズでした。ピーナツファームは夏休み。誰もいない豆畑。

ずうっと、あのころの気持ちで書いていたかった。経験も知識も無くて、見えるものは白い未来で、「このまま季節をいくついくつ越えたら僕たちの世界は始まるのだろう」と、何となく抱く焦燥感も、いたってシンプルなものだった、あのころ。

庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(1969/中央公論社)
いちばん好きな青春小説という気恥ずかしい項目を埋めなきゃいけないとしたら、やはりこの作品以外に考えられません。この文体は鮮烈で、影響は何年も続きました。薫くん4部作のおかげで、学校の図書室にある中央公論を読みました。連載を待ちました。そして次の行き先は、サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』でした。

作家が世に出るきっかけとなるのは、文学賞をとった場合などで、それで話題となり、店頭に本が並び、多くの人の目に触れるわけです。私も、ためらいもなくハヤリものに飛びついていた時期がありました。村上龍『限りなく透明に近いブルー』、田中康夫『なんとなくクリスタル』、三田誠広『僕って何?』、読者にとって最初に読んだ1冊目は印象が強く、高橋三十綱『九月の空』、村上春樹『風の歌を聴け』、橋本治『桃尻娘』、北杜夫『幽霊』など愛着があります。1970年代は青春時代。もう、そういうことにしておけ、と思う2004年の夏であります。

デビュー作は特別です。いちばん書きたいことを書きたいように書いているように思えます。純粋という言葉は、たぶん適切ではないのでしょうけれど、読者は生まれたばかりの赤ん坊に対するように、ロマンチックな期待を寄せるのです。

さまざまな要素が重なって姿を現す新星は、こよなく愛しいものです。出会えた偶然に、獲得した幸福が長く続くことを祈らずにはいられません。はじまりは無垢で、ときめきは永遠に。なんだか、ゴールした猿岩石だ。と強引な展開。青春は常に心のどこかに現在進行形として存在します。

さるとも解散パーティーのビデオは良い。すごく良い。詳しい感想文は書きたくなったら書きます。解散が惜しいから、感想を書いてしまったらもう終わってしまうという考え方もありますが、終わってもいいじゃないか、また始めればいいんだから。いつだって私は本気なんだ。本当にとても良いビデオです。ちびちび書くか、どかーんと書くか、もうちょっと固まってから。いまはまだうまくまとまらない。コントは2本目が好きです。もちろん1本目も面白い。これは99年秋の太田プロライブで見た、なつかしい記念碑的なもので、2本目は今の感じでセリフも動きも間も、ぜんぶ大好き。歌のほうは泣けます。トークもぐっと胸に迫ります。

2004/08/08





『ストリッパー物語』 〜逆説〜


昨日のことも忘れがちなのに、30年前のことを書こうというんだからね、調べつつでありますが、なんだか無人島にいるみたいだ。ま、オシャレをしようとハダカでいようと構わない。気の向くまま書きます。

「ストリッパー物語」の初演は1975年、青山VAN99ホールということらしい。私がかかわったのは、次の年の紀伊國屋ホールの7月公演です。3ヶ月間、毎日朝から晩まで稽古でした。稽古は本番より100倍面白い。もちろん完成された舞台は、お金を払って足を運ぶ価値があります。でも稽古はね、無から有、生き物みたいに成長していく過程が、この上なく、すこぶる刺激的。これを超える快感は、なかなか無いね。役者と乞食は3日やったらやめられない、という言葉を待つまでもなく、一度でも舞台に立ったら麻薬以上にやめられない、というのは、わかる気がする。

公演中に多くの有名人がお客で来ていましたが、いちばん印象的だったのが、粋人、故・田辺茂一氏であります。紀伊國屋書店の創業者です。氏がご自分のビルのホールにいらっしゃることはほとんどなかったそうだが、このときはお見えになった。なぜか。「ストリッパー物語」というタイトルに惹かれてであろうと誰もが想像した。でも、この芝居、銀粉男は出てきても、オンナのハダカは登場しません。あのころの「つか芝居」は逆説でした。「ヒネリすぎて一回りして元に戻ってしまう」というくらい裏返すことに躍起になっていた感がある。脱げないストリッパー、身を持ち崩せないヒモ。「みじめさを武器にして」「傷つくことだけ上手になって」。芝居を見て人生観が変わる。

舞台中央から客席の前部に細長い張り出し舞台が作られていました。かぶりつきのお席をご用意したハズですので、田辺氏には、踊り子の妖艶な踊りを間近でごらんいただけたと思います。

「惜別篇」と「火の鳥篇」の2本立てでした。前者は、ストリッパーのアケミさんとヒモのシゲさんの『純愛』で、後年(私は見てませんが)改訂を重ねて上演されていくものの元となった、いわば本篇です。後者は、外伝ともいうべき、ストリップ小屋の照明さんのお話。伝説のアカリ「火の鳥」は、踊り子を脱がせることなくストリップを成立させるという、荒唐無稽な物語。稽古中に本編が煮詰まったとき息抜きに作っていたとおぼしきもので、結局ストーリーが収拾つかなくなったフシギな作品。ポスター作って宣伝していて、上演には漕ぎつけましたが、これっきりで以後上演されたことは無いと思います。私は火の鳥篇、好きでした。問題児ほど可愛い。

なにしろ、脱がないにしてもストリップがモチーフとなっていますから、ヒワイな言葉っていうんですか、活字にしたら伏せ字にすべき言葉が飛び交う場面がありました。稽古場で練り上げ試して作っていく現場主義の芝居なもんで、それを書き留めておかなくちゃならない。その日稽古場で作られたセリフをノートに書いて台本にするのが仕事です。家に帰って、ひたすらテープ起こしです。下ネタに引きまくっていては仕事になりません。げげっ!と心の中で絶叫しつつ平気な顔で記録するわけです。言葉は記号である。意味を与えるのはそれを使う人だ。いったん、これは芝居だ、作品だ、というスイッチが入り、お仕事モードになれば、なんでも来い、です。

ちょっと脱線しますが、下ネタについて、私が引っ掛かるフレーズがあります。「下ネタでラクをする」「下ネタに逃げる」「下ネタでもやるさ」。私は下ネタが不憫でならない。下ネタでラクをするって、下ネタってラクなのか?簡単に作れるのか?作ったことがあるのか?ただ同じ言葉を連呼するのがラクに見えるからか?下ネタを使わずに表現することが、健全で上品で高尚なんだな?下ネタに逃げるって、下ネタは避難所か?下ネタでもやるさって、ほかにやることないから仕方なく下ネタってことなのか?下ネタばかりずっと続いたらゲンナリするが、下ネタっていうだけで「生理的に受けつけない」って取りつくシマもないのは、どうなんだ。よほど過去に特殊な体験をしたというのなら話は別だが、いろんな可能性を見捨てているとは思わないか。

「ストリッパー物語」から「ヒモのはなし」ができて、小説化され、直木賞候補になるわけで、ひとつ極めた世界であります。身を持ち崩すため、切磋琢磨する男。可笑しくも哀しい駄目な男を見事に演じていたのは、故・三浦洋一さんでした。彼のために作られた役は、舞台でより魅力的に輝いていました。

すべての人はあらゆる場面で何かを演じている。


さて、今回は映画紹介です。
神代辰巳監督『壇の浦夜枕合戦記』(1977 日活)
当時、日活ロマンポルノとしては破格の予算で作られた、巨匠神代監督の意欲作です。調べたら、1996年にビデオになっていました(在庫切れ)。私が初めて見たアダルト映画。初物は強烈で、以来、義経は元気でヤンチャでスケベな人と信じて疑いません。

2004/08/14





易者の言葉


毎朝、星座占いを見て、きょうのラッキーカラーはピンクかあ、などとうなずいたりしています。いろんな種類の占いがあって、そのときどきの流行りが色濃く現れて、身近なものです。かつて一度だけ易者に手相をみて占ってもらったことがあります。ずいぶん前、たしか新宿3丁目付近の路上でした。特に何か深刻に悩んでいたわけではなくて、たまたま歩いていたら易者の姿が目に入り、試しにみてもらおうか、と軽く思いたった次第。

「アナタは目的から外れて横道にいくダラシナイ性格ですね」
その初老の易者はサラリと、のたまった。初めての易者体験で、あんまりな言葉をいただいた。えー、そんなー、ひどいー。なんだって、お金払ってそんな言い方されなきゃならないのさ。何かとトンガッていた時期だったので、すぐに立腹。以来、手相からはずっと遠ざかっています。いいこと言ってもらいたかったんだ、明るく気分よくなりたかったんだ。それなのに。ま、甘いこと言わないほうがその人のためということなんでしょう、厳しい姿勢でのぞむ易者だったんでしょう、いまにして思えば。

同じころ、似顔絵も描いてもらいました。こちらは渋谷の駅構内、画家グループのイベントでした。これも一度くらいは描いてもらおうかなあ、と。料金は手相より安かったけれど、綺麗過ぎました。いくら自意識過剰の若い時だったとはいえ、これアタシよりかなり良いわ、ぐらいの判断はつきます。描かれた帽子も服も、そのときの私に間違いはないけど、顔も髪型も数倍オマケしてありました。う〜ん現実にこれぐらい整っていたら人生違ったものになってるよ、ふふふ。よく描かれて悪い気はしないが、リアルな自分が見たかった、これ別人だよ、誰か本当のアタシを探し出してよ、ワガママな20代でありました。


「最初は誰でも本気なんです」
その高名なる易者は静かに、おっしゃった。私は、いつだって本気なんです、と言ったら、そんな答えが返ってきた。最初は本気でもそのうち変わってしまうということなのか、と私は考えた。そのとおりだな、と納得してしまうのが少し寂しい秋だった。

うん、最初はね、勢い込んでいるんだ。見切り発車じゃなきゃ、いつまでも車は止まったままだ。準備万端整えていたら時間ばかりが空しく過ぎて、走り出すのはいつになるかわかりゃしない。いつまでも同じ気持ちで頑張るつもりで始めるんだ、最初は。最初はね、みんな。どうして気持ちは変わってしまうのだろう。あんなにやる気いっぱいだったのにガラリと変わってしまう。変わるのが人間だし、いちいち振り返っていたらやってられないだろう、人生は短いんだ。でも、できれば変えたくないものもある。きっと変わらないものはある。変わるものかと思っているものがある。何を信じて進んでいくんだろう、未知の明日へ向かって、過ぎ去った思いを忘れないために。

よく相手の立場に立って考えろとか言うけど、それって面白いね。決して他人にはなれないんだから、人は往々にして自分に都合のいいように相手の考えることを決める。仕方がないけどさ、できるだけ自分の都合を減らす努力はするよ。でも限界があるからね、結局オチャラケちゃうわけだ。

易者の立場になって考えるというのは難しそうだが、ちょっと主体を変えてみるのも悪くない。易者はそんな人たちを見てきたんだろう。目的からそれてしまう人、はじめは真剣で後で変わってしまう人、そんな大勢の人たちを。

耳に優しい言葉はすんなり入ってくる。自信を無くした時にホメられると嬉しい。傷ついた時に慰められると勇気が湧く。日々の慰安は生きる糧だが、心地よさばかりが続くと優しい言葉はすぐに抜けていってしまう。耳障りな言葉がいつまでも残っている。ただの悪口はいただけないが、いくらかでも真実を感じとれる言葉は取っておこうと思う。人は思うほど弱くない。


では、今回は「少女まんが」です。
萩尾望都『ポーの一族』全3巻(小学館)
永遠の時を旅するパンパネラ一族。変わらぬ彼らが見つめる悲しみ。人は変わっていき、限りあるものだからこそ生きる価値があると思えてきます。美しくも深い極上の作品です。
中でも『小鳥の巣』は、少年の繊細な心理、葛藤が隅々まで描かれた透明感あふれる世界、まさに宝石箱のようです。

2004/10/07





『戦争で死ねなかったお父さんのために』 〜自虐〜


はい、ホームページのトップの壁紙を変えることが趣味の落花生です。いやはや、ストイックに生きたいと願う小春日和のころです。

しかし「戦争で死ねなかったお父さんのために」というのは、やっぱり凄い題名ですね。戦争で死ぬのが前提なんだな。「広島に原爆を落とす日」というのもあります。落とす側の事情です。思わずたじろぐぐらいがいい。「ハッタリをかませ」というわけで、まず最初が肝心。名前負けを恐れていては何も始まりません。

ええっと、この芝居はいつだっけと調べて1977年2月だと判明。ひとごとみたいですが、忙しい時期だったというのは記憶しています。稽古や公演が無くても、午前中は学校、午後は事務所、それから図書館に行って、夜は友達と飲んで終電で帰る毎日。若かった、あまり笑わなかった、悩んでいた、テレビもほとんど見なかった。現在とは正反対です。

記憶は前後ごちゃごちゃで、たぶん思い違いも多いはずです。思い出は球体、触れると跳ねて、遠くへ弾んでいって、あわてて取りに行くと手の中でざらざらゆがんだ異形、これをどう語っていいものか途方に暮れる。いったい誰がそれを望んだんだろう。

このときの稽古場は新宿から私鉄で一駅か二駅ぐらいのところで、駅の近く、昼間歩いているとすれ違う人もほとんどいない。動かない日常。下を向いて遅れないようについていく。舞台の絶頂感、稽古場でうねる高揚感に比べ、地を這うような準備期間、穴蔵のような暗い地下鉄のホームで電車を待つ所在なさ。

いつも疑問に思っていたことの一つに、役者が舞台の役から個人に戻る瞬間はいつなのか、というのがありました。間近で役者を見るようになって、確かに同じ人なのに、舞台上と舞台から下りた後ではこうも違うか!というぐらい違う。まあ、同じだったら大変です。あり得ません。非日常を凝縮し尽くした舞台です。答えは出ました。本番で舞台の袖に引っ込んだ瞬間に普通の人に戻ります。舞台上で照明と音響をあび、観客の熱気に包まれた時、この時だけがその役の人なのです。一歩でもそこから外れたら成立しません。


「戦争で死ねなかったお父さんのために」は、戦後30年たって「手違い」で遅れて召集令状が届き、戦地に赴く「お父さん」の話です。冒頭、主役の茫洋としたお父さん(平田満)と、見送る息子(風間杜夫と加藤健一のダブルキャストだったような気がします)の猛烈サラリーマンぶりが笑えます。続いて南の島で、二等兵の平田さん、上官の風間さん、上等兵の三浦さんの3人のやりとりが、トリオ漫才さながら爆笑をよびました。でも、作演出のつかこうへい氏は当時のエッセイの中でこう書いています。

私はコメディなどどいう下衆なものを書いたことは一度もない。

「横紙破り」を自認する、つかさんですが、驚かされました。私はずっとお笑いが好きだから、そこまで、そんなふうに言わなくても・・と思ったし、何がそこまで彼にそう言わしめたのか、わからなかった。お客は笑いに来る。そして泣く。感情の大いなる発露の場としての観客席。当時、あんなの演劇じゃない、と評論家からこきおろされ、でもけなされればけなされるほど、現場は燃えたのだった。新しいもの、いままでにないものをやっているという若い気負いがあった。未知なる世界へ掘り進んでいるという一体感があった。そして客の反応は「笑い」だった。劇場が笑いの渦、という一点を強調して、皮肉に評価する向きもあった。だから、彼は不満だった。私の理解はそこまでです。つかさんだって、稽古中、セリフつけながら笑っていたぞ。既成の価値観に疑問を投げかける芝居だった。「捲土重来」と、古めかしいセリフを繰り返すエンディングは、新鮮な希望を伝えるに充分だった。観客は、笑う以外にどんな反応ができただろう。つかさんは、お客に反乱でも起こしてほしかったんだろうか。

生意気を承知で言うけど、作劇術において「自虐」は有効です。「自虐ネタ」などと、お笑いブームの昨今、言われたりしますが、笑いにおいては「自虐」じゃなくて「自嘲」と言うべきでしょう、笑える要素がなければならないんだから。劇中の人物はコンプレックスをバネに羽ばたいていった。つか芝居の自虐の人といえば「蒲田行進曲」のヤス。銀ちゃんも相当なものだが、屈折していてわかりにくい。斬りつける刀の勢いは激しくて、相手に対しても自分に対しても制御しがたく、結果は途方もなく切ない。人情喜劇というより、グロテスクな物語なんだよ。劣等感が深ければ深いほど、飛躍は大きい。ダメっぷりが極限まで達して、それが裏返ったときの爽快感は壮大だ。そんな手続きを踏むヤツは、かなりの物好きだけどね。


はい、今回はCDアルバムです。悲しいときには悲しい歌を。怒れるときには怒れる歌を。私は今年これをよく聴いていました。聴き飽きない鎮魂歌。
THE RC SUCCESSION 『カバーズ』 (KITTY RECORDS)

2004/11/09





犬のエピソード


(1)不安と迷惑 9/25

年々体重がふえ続け、ダイエットが急務と思われる飼い犬のベニー(仮名)ですが、相変わらず丈夫です。かかりつけの五井ばうばう病院(仮称)の先生は「年とると犬は太りますよ」と、犬が太るなんざあ肉好きなのと同じくらい当たり前のことだよ知らんのかね発言で、順調に肥満の道をひた走る毎日。

隣のネコを追いかけては追いつかず、ハトにジャンプしては届かず、カラスに吠えては無視され、庭のカマキリにかろうじて勝利してシッポをぶるんぶるん振ります。

「おすわり」と言うと伏せをするとです。「待て」でも伏せをするので、ためしに伏せをしたままで「伏せ」と言ってみると微動だにしません。何でも伏せです、ふせです、ふせです、ふせです、、ふせヒロシです。


(2)黒い犬の苦労 10/24

休日、近所の五井ぱくぱく食堂(仮称)で食後に薄いお茶を飲んでいると、窓の外、太った犬がとっぽとっぽ歩いているのが見えました。飼い犬のベニー(仮名)です。先に食べ終えた家族が散歩させていたのですが、物憂げな曇り空が似合います。

似合うといえば、田んぼや畑が似合います。車の後部座席で窓から顔を出すのは、農道を走るときです。田植えの春、緑をたたえた夏、刈り入れの秋、広々と休む冬、どの季節でも気持ちよさそうに風に吹かれます。

雷や大声や小さな地震にビビりまくる犬です。もし大きな地震が来たら、きっと足がすくんで歩けなくなるだろうから、そのときはコイツを背負って避難せにゃなるまい、と話し合ったばかりです。

そういえば、「伏せ」以外に「お手」が得意なんですよ。というか「伏せ」と「お手」しかできません。何か要求するときには、みずから手(前足)を持ち上げ、アピールします。すごくバランスの悪いポーズです。飼い主一家はとにかく強く生きようと誓うのでした。


(3)信頼 11/29

先週、8種混合という予防注射を受けた際に体重を測ると、前年比2キロ増の22キロであることが判明。大型犬です。記念に「22キロ」と改名されました。22。ときどき「タブチ」あるいは「ぶっさん」とも呼ばれます。堂々たる出世です。

犬はイビキをかき、寝言も言います。そのうち人間の言葉を喋るんじゃないかと思えてきますが、もし喋ったらかなりうるさいでしょう。吠える以上にヤッカイです。いまのところ「肉肉肉をもっとーー!」とか「散歩散歩散歩連れてけーー!」と叫んだりはしません。

相手の動作や声の調子に敏感なわけです。雰囲気で勝負の関係、気持ちを肌で感じとります。言葉で通じ合うのが理想のように思えるときもありますが、それはひとつの手段です。それぞれに適した理解の仕方、伝達の方法があります。

その場で与えられた方法を最大限活用すべく、犬はじっと飼い主を見つめ、聞き耳を立て、鼻を動かします。その一直線に集中している様子が可愛いかったりします。たとえ「タブタ」と呼ばれようとも。信頼しあえているのが実感できたときが、幸せです。


さて今回は、太ったつながりで、太ったおじさんが主人公のテレビゲームです。
『トルネコの大冒険』〜不思議のダンジョン〜(1993年チュンソフト)
このあとプレステやゲームボーイで続編がありますが、私はこのスーパーファミコン版でいちばん長く遊びました。難しくなくて奥が深いところがいいです。ダンジョン深いです。

2004/11/29





『出発』 〜客席〜


寒いです。めずらしく千葉にも雪がふりました。このショートストーリー、12月中に書きあげたいと思ってましたが、年内中に書き上げようなんて年賀状みたいです。それより眠りたい。暖かい部屋で眠っていたら夢を見ました。日頃あまり夢は見ません。見てもすぐ忘れます。浅い眠りの夢は変な世界で、辻褄が合わず、ちぐはぐに展開するけど、どこかリアルです。ま、夢ですから。

憧れの人の夢はたまに見ます。あまりに身近な人の夢はめったに見ません。昔の友達はもう全然会わないのに、夢の中にはよく出てきます。無意識に封じ込めているからでしょうか。今日の夢は憧れの人が友達でした。もう比喩でも何でもなく、普通に友達感覚。私は思いつくまま話しかけ、相手の話は半分ぐらいしか聞いていない。それで和んでいる。ふうう。憧れの笑顔は、何万光年も離れているくらい遠く感じられる時もあるのに。


1978年1月『改訂版 出発』と『ヒモのはなし2』、六本木の旧・俳優座劇場。稽古場がどこだったか思い出せない。信濃町の文学座アトリエかもしれない。中野、新宿、飯田橋、市ヶ谷、目白、渋谷、下北沢、もうごちゃごちゃです。

新築前の古い俳優座劇場は、かなりボロっちくて、二階席の床が傾いていて今にも下に落ちそうでした。上演中に客が落ちたらどうしようと関係者一同心配していました。本番中に舞台の上に客が落ちてきたら芝居の邪魔だろう、というのは冗談で、もちろんお客様の安全が第一です。

「チケットぴあ」も無い時代で、私は一仕事終えた泥棒よろしく現金の束ならぬチケットの束をドカッとバッグに入れて、赤木屋やチケットビューローに届けに行っていました。

事務所で留守番をしていると、一般の人から電話がかかってきます。公演前は、どのプレイガイドに行けば良い席のチケットが買えるかという問い合わせがたくさんありました。全席指定ですから、ひとつひとつに極力くわしく答えていましたが、あまりに同じような質問ばかり続くので、私は意地悪になってきました。とにかくほとんどの人ができるだけ舞台に近い席を望むのです。近くでよく見たいという希望は、もちろん理解できます。なにしろ私は、芝居をずっと見ていたいがために劇団に入っちゃったようなものだったんですから。

前の席じゃなきゃイヤだという人に対して、私は「少し離れて見たほうがよくわかるんですけどねえ」と嫌味を言ったりするわけです。事実、演出家は客席のちょうど中央の座席あたりから指示を出して、芝居を仕上げていたのですから、私がまるっきり嫌味だったとは言い切れません。

1ミリでも憧れのそばに近づきたいという人たちに多く出会いました。でもね、星がいちばんきれいに見える距離は、さまざまなんだよ。全体を見なきゃ本当のことはわからない。本当のことを知るよりも、そばに行くことのほうが大事なんだと思ってるんだろうけどさ。


『出発』は、菊池寛の『父帰る』の現代版と称して、実は大いに茶化しているわけで、田中邦衛さんという大スターを主役に据えての公演でした。大メジャーの役者さんをお招きしての上演は、つかこうへい事務所としては初めてのことで、面白かったです。なにが面白かったかというのは、またの話で。いずれ書けたら書きます。今回はこれにて。

2004/12/31


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