ショートストーリー4
パンフレットいかがですか
この5月に久しぶりに演劇の舞台を見に行きました。目の前で生身の人間が演ずる世界は、やはり魅力です。そこにご贔屓の役者がいれば、なおのこと。『ステイゴールデンウィーク』には役者・有吉さんが出演していました。
池袋の東京芸術劇場に行ったのは、今回で2度目です。たしか2000年にテレビの『特捜TV!ガブリンチョ』で、猿岩石が中国雑技団にチャレンジという企画のとき、この東京芸術劇場の中ホールに行った記憶があります。あれから6年、再び池袋で演劇の舞台を見る機会に恵まれました。なにしろ、観客席に身を沈めているより、芝居作りの現場にいたほうが断然面白いという思い込みがあって、自分が芝居作りにかかわっていない舞台には、なかなか足が向かなかったのです。もう芝居作りにかかわることはありませんけど。
客席よりも舞台裏にいたい。出来上がった舞台を鑑賞するよりも、作り上げる作業に参加することに夢中になれる。舞台上で演ずる苦しさ、喜びを知っている人は、少なからず、見るよりも出演することに執着するんじゃなかろうか。たとえば客席から、舞台上の友達に向けて一際大きな声援を送って盛り上げたりする行為というのは、自分もその芝居に参加して目立ちたいという意思表明をしていることにほかならないと、私は解釈しています。
さて、パンフレットです。『ステイゴールデンウィーク』ではロビーで、役者さんたちが、パンフレットにサインをしてくれました。これは夢のようなサービスです。私は昔、一度だけ、劇場のロビーでパンフレットを売る仕事をしたことがあります。当時それまで、つか事務所はパンフレットというものを一切作らず、公演のたびにお客さんから、パンフレットありませんか、という質問を何百回も受けていました。それが1回だけ、パンフレットを作ったことがありました。パンフレットなんて、言い訳に過ぎない、芝居の本番が総てだ、観劇の記念は観客の記憶の中にのみ存在するというポリシーを曲げたのは、ひとえにつかさんの気まぐれからです。
『君たちがいて僕がいた』というタイトルは、ギャグではありません。が、なぜかそんなタイトルのパンフレットでした。ピンク色で、和田誠さんのイラストの表紙と記憶しています。これを上演前と上演後に、パンフレットいかがですかー、と声を上げて一人で販売していました。よく売れていたほうではないかと思いますが、今回のサインサービスを見るにつけ、これがあったらもっと売れてただろうなあと思わずにはいられませんでした。まあ、その場でサインとなると、お客の誘導といった仕事が増えていたでしょう。
役者の「素」を芝居の余韻が醒めやらぬタイミングで、お客にさらすのはもってのほかというわけか、パンフレットにサインという発想がありませんでした。それでなくても、観客の熱い視線を一身に浴びる役者は羨望の的です。つかさんはたぶん、こう言いたかったんじゃないかと、私は睨んでいます。…その感動を生み出したのは誰だと思っているんだ。拍手を、賛辞を、いちばん受けるべき人間は俺だ…と。客入れ前のロビーにおいて、書店で販売する山積みの自著のサイン書きに励む、つかさんでした。
今にして思えば、たかだか芝居なんですから、終演後に出演者がサインをしようが何をしようが、それによって、芝居そのものの評価に影響することはないはずです。いや、むしろ、芝居は芝居として、現実とは別のものであることを実感できるほうがよいのです。舞台を見るたびに、人生観が変わっていたら身がもちません。お客さんが気持ちよく楽しい体験をして家路につければよいわけです。
「すごくよかったです、これからもがんばってください」と、観客は役者に、これ以上どんな言葉を発せられるでしょう。終演後の、まだ夢が続いているような空気のロビーで、同じ空間に立っているという興奮のうちに、熱い戸惑いの時間はあっという間に過ぎていきました。
5月の池袋は平穏な街でした。充足感に満ちて帰宅いたしました。
2006/08/03
BACK