幕間1
痺れるほど静かな闇の中に、ぼうとたたずむ影があった。
その人影が、視線に気付いて顔を上げた。
鐘守遙。
手に持った灯篭が微かな光でその姿を照らしている。
辺りの暗闇から僅かに白く浮く白衣に、闇を打ち払うような鮮やかな緋袴。先ほど斉が駅前で見かけた姿のまま、彼女はそこに居た。
「貴女がそこに居ると言う事は。封印は解けたと言う事かな?」
光の届かぬ闇の中からかけられた声に遙は眉をしかめる。
「まだ盗掘を繰り返すおつもりですか?」
「盗掘とは心外ですね。これは正当な権利ですよ」
敵意を孕んだ遙の声に気負う所の全く無いひょうひょうとした返事が返ってくる。声の感じから若い男の声ではないかと推測された。
「人の法が通用する場所とお思いですか」
今度は質問ではない。遙の瞳は貫くほどに強い光を放っている。
「おお、怖い怖い。貴女のような美しいお嬢さんがそのように剣呑な表情をするものではありませんよ」
「そうさせているのは貴方たちです。“これ以上進むのが怖い”のなら
早く引き返しなさい」
ほう、と溜息が漏れた。
「んー。とりあえずはそれでも良いんですが、せっかくですから一つお手合わせしてやってくださいよ」
「まかり通ると、そう仰るのですね?」
「ええ、どうぞ止めるのなら力づくで」
遙の答えに声の主が微かに笑ったようだった。
遙はゆっくりと灯篭を持っていない右手を袂に差し入れる。
「武器を持ってらっしゃるんですか? そいつはちょっと分が悪そうだ。その分ハンデをもらっても良いですかね?」
「……ハンデ?」
明らかな嫌悪を顔に浮かべて遙は声のする方角を見ていた。
「ええ。ハンデです。皆さん、こちらです、来てくださいよ」
男は自分の後ろに向かって声を張り上げた。
どやどやとやってくる足音。
「こんなにも多くの人を連れ込んで……。貴方はここがどんな所かきちんと理解しているのですか!?」
静かな怒りが、それまで一切の感情を込められていなかった遙の声に現れていた。
「もちろんですよ。……ふふっ。貴女こそ何を憤ってらっしゃるんですか」
「憤ってなどおりません」
途端に男の哄笑が響き渡った。こちらへ駆けてきていた男たちの足までもが止まる。
「ふ、ふふっ。あはははは! もしかして、彼らの事を心配しているのですか?」
遙は答えない。
「黒川さん。君達、敵のはずのあんな少女に心配されてますよ?」
男の声は、現れた黒服の男たちに向かって掛けられる。先頭に居たのが黒川という男なのだろう。その言葉に一瞬いかつい顔をさらにしかめて遙に向き直る。
黒川の様子はいかにも暴力に慣れた男のそれだった。がっちりした肩幅、油断無く辺りを睨む目は鋭い。男の挑発じみた言葉にもそれ以上の反応を示さなかった
事といい、かなりの手練れに違いない。
だが、その黒川という男以外は、それほどの度量の持ち主ではなかったようだ。
「おう、お嬢ちゃん。わしらを馬鹿にしてんのかい」
一人の男が遙に向かって怒声を飛ばす。
彼らの放つ暴力の匂いに動じた様子も見せず、袂に入れていた手を遙は引き抜く。
一瞬拳銃でも出てくるのかと男たちに緊張が走るが、当然のこと遙の手にはそのような物騒なものは無い。
「か……み? なんじゃそりゃ! 折り紙でもしたいってんなら一人でやんな」
遙の指の間には幾枚かの紙片が挟みこまれていた。
「へええ、もしかしたら、式神とか使えるんですか?」
いまだに姿を隠したままの最初の男の声が興味深そうに響く。
「愚かな事を。式神などというものはお話の中だけです。普通の人間にそのような事できるはずがないでしょう」
言葉とは裏腹に遙の声には馬鹿にした様子も呆れた様子も無い。
「そうですか。少し残念です。私はこう見えてもロマンチストでね」
「……」
しかし男の軽口に今度は何も答えない遙。
周りの男たちが発言権を奪われて、じりじりと彼女の周りに広がりつつあったのを警戒したものか。
「……やれやれ。無粋な話です。まあ、私が呼んだんですけどね」
「宜しいですか?」
黒川が初めて口を開く。この暗い地面の上を這うような低い声だ。
「ええ、仕方ないですね。始めてください」
黒川は頷くと右手を振り上げて男たちに合図する。
そこへ暗闇の中からさらに声がかかる。
「ああ、そうそう。女の子だからって手加減したら、死ぬのは貴方達の方ですからね? 全力でやりなさい」
死ぬ? その時周りを囲む男たちの誰もがそう思ったはずだ。この自分たちの雇い主である男はこの小娘の脅しを真に受けているのだろうか。
ありえない。
男たちは暴力のプロなのだ。目の前の小娘は少し武道をかじっていると聞くが所詮そんなものはおままごとのようなものだろう。あの細い手足、華奢な体格。あ
れでこれだけ大勢の男たちを相手にできるはずが無い。
男たちは遙の美貌を見てごくりとつばを飲み込む。反抗する気を奪ったら、その身に男の恐ろしさというものを教えてやった方が良いだろう。きっと、可愛らし
く鳴いてくれる事だろう。
男たちは遙を甘く見ていた。忠告を受けた今でも、遙に脅威を感じなかった。
“馬鹿が”
周囲に漂う雰囲気を正確に感じ取った彼は、心中そう毒づいた。だが自分から動こうとは思わなかったし、黒川にも動かないように手振りで合図する。
その目の前で、遙が緩やかに動き始める。
「……式神は使えませんが――」
遙が男たちの前で紙を挟んだ手を横に振りぬいた。
「――こういう事は出来ます」
遙の言葉が終わる頃には三人の男が悲鳴をあげて倒れこんでいた。
“なん……だ? 今のは”
闇の中から観察していた男は自分の目が信じられない。
となりの黒川の瞳も驚愕に見開かれていた。
「動脈を断ち切りました。急がないと、その人たちは死にますよ」
遙の声は、手首から血を吹きだして倒れた男たちに対しても全く平素と変わらない。その冷静さが恐ろしい。
遙の周りを取り囲む男たちに動揺の広がるのを見た黒川は闇の中に声をかける。
「どうしますか」
黒川は引くべきだと目で訴えていた。だが、態度はあくまでも彼に従う様子を見せている。
舌打ちしたい気分で彼は黒川に答える。
「そうですね。人死にが“ここ”で出るのはまずい。引いてください」
その命令に従って男たちが撤収していく。その目にはまぎれも無い恐怖が浮かんでいる。それはそうだろう。ほとんどの人間は何が起こったかすら理解もしてい
ないのだろうから。
彼は足下に落ちている紙片を拾い上げる。
そしてその重さに心底驚愕する。
「紙で指を切る、ぐらいはわかるんですがねえ」
男の手の中でくにゃりと折れ曲がったそれは、紙本来の重さしかなかった。
「どうやったらこんなものを飛ばして人の手首をあんなに綺麗に切れるんですか?」
だが男の質問に遙は何かを答える様子も見せず、手品のように指の間に紙片を登場させる。
「ちょっと、ちょっと待って下さいよ。僕も引きますって。ただちょっと聞きたいことがあるだけですよ」
それまで静かだった遙の気配がざわりと動いた。
「貴方が消えれば、彼らももう二度と分不相応な願いは持たないでしょう」
「へえー、つまりここで僕を消しておきたいとそういうわけですか」
遙はそれに軽く首肯して肯定の意を返す。
「残念だけど、それはちょっと無理じゃないかなあ」
言いながら男の背筋を冷や汗が伝う。遙の先ほどの技をまだ見切れていない。じりっと気圧されるように男の足が半歩後ろに下がった。
「逃がしはしません」
「いいえ、逃がしてもらいますよ」
いまだ軽口だけは変わらず、男はさらに一歩下がる。
「さようなら」
遙の右腕が振り抜かれるその瞬間。男の手からいつの間に隠し持っていたのか木刀が遙に向かって投げつけられた。
「くっ」
遙の手から放たれた紙片がまるで迎撃するかのように木刀へと方向転換をする。紙片がまとわりついたかに見えた次の瞬間、木刀はばらばらに切り裂かれて地面
に転がっていた。だが、その時には既に男の姿は遙の視界の外へと逃げ出していた。
「また、会いましょう。鐘守遙さん。そうそう、彼らを殺さないでいただいたのは感謝しますよ。鐘守の巫女とも有ろう方が、“彼らの死後の事”など腐心して
くださったとは思えませんしね」
遠くから愉快そうな男の声だけが遙の耳に届いた。
「…………」
顔を伏せてしばらくじっとしていた遙も、やがて静かにその場を立ち去った。
続く