巻之伍
どす黒い雲が渦を巻き、稲光が走る。
叩きつける雨と荒れ狂う風が全てをなぎ倒す。
海原から立ち上る熱気を帯びて、暴風はさらに勢いを増す。
背の君の蒼い眼は遙か彼方を睨んでいる。
南海竜宮の主…沙竭羅王(しゃからおう)は陶酔の表情で腕の中から、その御姿を仰ぎ見る。
オツヒコが海底を出て空を行くことは稀であった。
時折こうして大~の胸に抱かれながら、海上を渡る。
幾多の命を奪いながら…
それは贄となってオツヒコの中に取り込まれる。
海で死んだ者は海の眷属となる。
漁村の仕来りには、船を出してはいけない日や、網を仕掛けてはいけない場所など細かな決まり事がある。
舟板一枚下は地獄──荒くれの漁師が食うに困って禁漁を犯した時など、きまってシケが続き不漁になると信じられている。
その一つに海岸に漂着した水死体…土左衛門を埋葬する時、その身体の一部か持ち物を“エベスさん”に返すという風習があった。
それを犯せば竜宮の使いが村ごと海に沈める…と言い伝えられている。
オツヒコの逆鱗に触れ津波に流された村が幾つあるのか…崇め讃えらえる“気”もいいが怯え恐れられる“気”もいい。
もはやオツヒコにはかつて“雅王というヒト”であったという記憶は全く無かった。
大~の愛撫に身も心も変わり果てた。
大~…もっと“神気”を注いでください…
顔をすり寄せた愛姓に、彼方を眺めていた大~の視線が移った。
“沙竭羅王よ、我はこれより常世(夜)へ渡る…そなたは竜宮へ戻るがよい”
“はい…”
常夜…そこは大~の兄神が御座(おわし)ます処。
黄泉(夜見)の王(おおきみ)にして、夜食國(よるのをすくに)を統べる御方。
眷属は玲瓏典雅、鋭利雄麗な方と噂する。
冷たく優しい?
日の神に次ぐ二位の天神(あまつかみ)とは、どのような御方であろう?
兄神と大~が常世に渡られる時、ヒトの世では月蝕が起きる。
何故、俺を伴ってくださらぬのか?
僅かに疑心が起きる。
だが大~の命令は絶対、問いはおろか口を挟む事さえ許されない。
暴雨風の中央から竜巻が起こった。
大~と離れて一人天空を行くのは初めてのことだ。
ほんの少しの緊張と、大いなる開放感に浸る。
自由──
巻き上げた海水の中で若き竜王は身体をうねらせ、首を擡げた。
嵐が過ぎ去り、雲の切れ間から欠け始めた月の光が降り注ぐ。
いつも通り海面すれすれを飛ぶのはつまらない。
もっと高みを目指したい。
海水を振り落とす。
旋風(つむじかぜ)は夜空を一気に上昇していく。
気持ちいい!
今度祭りで里の社に降りる時は、こうやって天空を行こう。
暗黒に呑まれた月が近づく。
その月は水底の波間の間から眺めるものとは違って見える。
かつてこの冴え冴えとした光を浴びたことがあった…
あれは何時のことであったろう…
そう、傍らに…
傍らに…誰かいた…
紅い髪の少年…涙をためた瞳に月の光が輝いて…
“れ…ん…?”
“思イ出シタ?”
頭上から声がした。
飛び去ったはずの雲が一塊、細く輝く月の端に掛かっていた。
その雲がゆるゆるとほぐれ、一本の縄のように細く長く形を変えた。
天空に浮かぶ白蛇…
“誰?”
“我ハみしゃぐち…御身ノ半身”
“!”
身体を包む風が消えた。
大~より授かった腕も、脚の自由も…。
そこにヒトカタをしたオツヒコはいなかった。
代わりに蒼碧の鱗を煌めかす竜がいた。
長い爪をはやした短い四肢で空を斬る度に火雲が湧き、長く伸びた尾が海面を叩けば渦が巻く。
金の瞳が白蛇を見つめる。
“れん…漣はどうしているの?”
“御身ノ知ル漣ハ、トウ二滅シタ”
“滅した…死んだっていうこと?”
“モウ百年以上前ニナル”
“百年?そんな…俺はまだ竜宮に上がったばかりだ”
“神ノ世ニ時ハ無イ”
魂(たま)の手箱に時を封じられるのはヒトの理(ことわり)の中に在る者のみ。
“我ハ空カラズット漣ヲ見テイタ、アノ淵ニ毎夜佇ミ、雅王ヲ慕イ泣イテイタ”
“雅王…それは俺の…こと?”
“ソウジャ…我ト御身ノ名”
“漣は…幸せだったの?”
“豊穣ノ祭ヲ絶ヤス事無ク、皆ニ慕ワレ崇メラレ…ダガ心安ラグ時ハ無カッタ…最後マデ雅王ヲ思イナガラ罪ノ意識ニ苛マレ、一人寂シク死ンデイッタ”
“ああ!”
竜は身もだえした。
“漣の最後に立ち会えなかった”
ヒトとしての感情が竜の眼から大粒の涙を流させる。
“我モ同ジ…月ノ光ニ紛レ只見守ルコトシカデキナカッタ”
“会いたい…漣に…”
“既ニ、一度漣…イヤ漣デアッタ者ハ転生シテイル”
“えっ?では、漣に…漣に会えるの?”
“漣ノ魂波長(たまふり)ヲ持ツ者ハ確カニイル…ダガ我ラハ会エヌ”
“何故?”
“御身モ我モ神ユエニ”
“神でなくなれば…漣に会える?”
“ソレハ…我ノ主モ御身ノ背ノ君モ御許シニナルマイ”
“主?”
“ソロソロ帰ラネバナラヌ、常世ニ渡ラレタ主ガ月宮ニ戻ラレル頃…”
常世から月宮?…大~の兄神…
“今度、何時会える?”
“次ノ月蝕…”
“そんな!何年も待てない”
“先ホドモ言ッタハズ、神ノ世ニ時ハ無イ…イヤ次ニ日蝕ガ起キレバ…主ハ黄泉ニ降ラレルハズ、ソノ折ナラバ月宮ヲ抜ケ出セル”
それは天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天磐屋(あめのいわや)に入られ、新たに若き太陽神として生まれ変わられる再生の儀式。
ヒトの世…葦原中國(あしはらのなかつくに)では皆既日食が起こる。
月神の荒魂(あらみたま)は黄泉軍(よもついくさ)の総大将とされている。
日の神の力が消え去る一時の間、月神はその和魂(にぎみたま)を天空に留め置き、荒魂のみが黄泉津比良坂(よもつひらさか)を降り、黄泉津大神(=伊耶那美命)より幽界を継承する。
そうだ、大~も日蝕の折には根堅洲國(ねかたすのくに)を出でて天安河(あめのやすかわ)を越え高天原(たかまがはら)へ戻られる。
天神(あまつかみ)と地祇(くにつかみ)と繋ぐ大~として…。
再び海原に煌々とした光が差し始めた。
白蛇は身体をうねらせ月へ帰る。
竜はその後姿をじっと見送っていた。
月光を浴びて鱗がキラキラと輝く。
ヒトの眼には波間の輝きに見えるそれを、さらなる高みから見下ろす二柱の神がいた。
煌々たる光に包まれその御姿は定かでない。
暗黒の闇にあってその御姿は形をなさぬ。
“此度の…そなたの寵童はおもしろいのう…”
“我だけではあるまい?そちらは如何か?”
“あれは生来がヒトでは無い…そなたの竜王より堪え性がある”
“ほう、それ故兄者は、下界に降り我が正妻(みめ)の憑依(よりまし)を看取る事許されたのか?”
“そなたと違い、我は手元にあれを置いている…神としてヒトが死するままじっと見続ける…私情を捨て去るには良い機会であった”
“主の留守を突いて、半身の元を訪ねるとは…消したはずの私情がまだ残っていたと言うわけか?”
“相変わらずきつい事を言う…その調子で折檻されてはあの竜王も堪らぬの…”
“なんの愛おしいと思えばこそじゃ。そうよな、我も兄者を見習ってしばらく手元に置くとしよう…ヒトの世のことなど思う間もない程に、一時も離さず責め苛んでくれる”
荒振る御魂の滾りが蒼い眼に燃える。
月神の白く長い指がその頤(おとがい)に掛かった。
誘われるまま唇が重なる。
兄神は弟神の神気を吸う。
しばらく抱き合った後、暗黒の神はニヤリと笑った。
“兄者よ、近々もう一度会わぬか?さすればあの二体も…”
巻之伍 完