巻之七
四社からなる諏訪大社のうち上社本宮(かみしゃほんみや)──社殿は守屋山北麓に建つ。
御祭神は建御名方神。
本殿左脇には山から流れ降る御禊(みそぎ)の清流が流れる。
三之御柱を巡る御手洗川の源泉は水眼(すいが)と呼ばれる湧き水である。
川は北へ…諏訪湖へ注ぐ。
一月の凍てつく月の夜、氷結した湖面が大音響とともに割れた。
下座(くだりまし)と上座(あがりまし)から蛇体となって伸びる氷の亀裂がぶつかり合い氷柱となってせり上がる。
御神渡り(おみわたり)と呼ばれる神事は、その年の吉兆を占う大事であった。
神官は亀裂を回り、その形や長さから作物の出来や災害の有無を過去の事例から紐解くのだ。
「さても今年の御神渡りのなんと荘厳なる事よ、これほどの氷柱は見たことがない」
「瑞兆じゃ、明るいよい年になるであろう」
その氷柱こそ人界に降った沙竭羅王(しゃからおう)とミシャグチ神が再び一体となった証。
蛇体を帯びた童男が何時の世に生まれ出でるのか?
ヒトの気を持つ妖(あやかし)が何をするのか?
それは海原の果て、常世で見守る二柱の神にしか分からぬ事…
月と海面が近づく時、その引力で潮が満ちる。
太陽と月と地球が一直線に並ぶ満月には、さらに引力は強くなり大潮となる。
夜の満潮は地上に誕生する生命が最も多い時でもある。
逆に月が中天にある干潮時には亡くなる人が増える。
さればこそ常世に溢れる生命を、現世(うつしよ)に幸魂(さきみたま)を乗せて送り出す月宮の主は、黄泉の大君とも呼ばれる。
古来より日と並ぶと称された美しき男神(ひこかみ)。
その煌々と輝く腕(かいな)に海神(わだつみ)の王を抱く。
「竜王と白蛇、なんとか御現(みあ)れしおったの…」
「……………」
「そなたの謀事、見事に破られた…さしもの根堅洲大~も正妻(みめ)の奇魂(くしみたま)には弱いか?」
気怠げに身を起こした大~の唇がふっと歪む。
「新たに神として御生(みあ)れさせ我が意のままに使こうてくれようと思っていたに…」
「ふふ、その上で再び白蛇に会わせて取り込まんとしたか?」
一瞬ぎくりと身体を離す。
「兄者の眼に適った白蛇、一度我も賞味したかっただけじゃ…」
弟は甘えた声で言い訳すると、身を擦り寄せた。
「欲張ったお陰で愛しい竜王も奪われた、それも離れたままの妻にじゃ…弟が可哀想だとは思わぬのか?」
「埒もない…そなたの事を愛おしいと思う故、我も白蛇を一時手放した」
月神は苦笑する。
「そなた竜王が戻るよう左眼を抜いたであろう?お陰でこちらも白蛇を片眼にせねばならなんだ」
「我はあの竜王に執着がある…兄者とて月宮に片眼を置けば寵愛の白蛇と縁を繋ぐ事が出来よう?」
「そうよな…あのように美しい蛇身は二つとないからの」
「ヒトの眼は二つでよいのさ、代わりに腕と脚を戻してやった、十分じゃ」
「それだけか?そなた竜王の裡に己の精を挿れたまま人界に戻したであろう…」
兄神に見つめられ、ばつが悪そうに視線をそらす。
「いつか我も人界に降りるやもしれぬ、その折必ず巡り会えるよう少し細工しただけじゃ」
「正妻(みめ)だけでは足りぬか?さすが多くの妃神を囲う者はすることが違う」
かっと大~の美しい顔に朱が差した。
「嬲るな!」
兄神の愛撫の手を振り払う。
「そのように拗ねるな…ではそなたが人界に降る折は我も参ろう」
今度は兄神が身体を寄せた。
「えっ?」
「あの白蛇は我のモノ、さすれば共に降っても構わぬであろう?」
大~はニヤリと笑い兄神の唇を奪った。
「皆人界に揃うのか…今から楽しみじゃ」
神の世に時は無い。
だがヒトの理に戻った漣と雅王にとって、それは悠久の時の彼方にある。
神であったモノがヒトとして何時出会い、どのように関わっていくのか?
月はさらに西へ傾き、海原は東の端を緋色に染めた。
その日に向かって人界の夜が、また一つ明けていく。
巻之七 完