巻之壱

滝壺に細い糸のような水が落ちていく。

白い糸は淵に呑まれると濃い緑の水に姿を変えてしまう。

いや緑があるのは淵の周りだけだった。

渦巻く流れとなって山裾に向かっていた川底はひび割れて白い石がゴロゴロと転がっている。

日照りが続いていた。

去年も…一昨年も…

最初の年は溜め池を作り新たに井戸を掘って何とかしのいだ。

だが秋の実りは当然もたらされることはなかった。

僅かな蓄えを地頭に奪われれば冬は越せない。

百姓は山に逃げて何とか粟や稗、芋をかじって生き延びた。

そうして春の雨も梅雨の長雨も降ること無く二度目の夏が過ぎた。

井戸も涸れた。

川も干上がった。

病人、老人、子供…多くの人々が餓え飢えて死んでいった。

それでも竜宮に通じると信じられているこの淵の水に手を伸ばす者は誰もいなかった。

龍神に断り無く淵から水を汲めば子々孫々に至るまで祟られると言い伝えられていた。

さらに古代より龍神を司る一族がこの山一帯を治めていた。

勝手に山に入ることは土地の地頭でも適わない。

その禁忌の水辺にじっと佇む少年の影があった。

思い詰めたように水面を見つめる瞳に涙が光っている。

生い茂る木々の隙間から差し込む強い日差しがその髪の色を殊更に紅く見せていた。

「漣」

不意に背後から呼びかけられ咄嗟に目頭をぬぐった。

「何?泣いてたの?」

漆黒の髪に透き通るような白い肌をした少年は同じ龍神の一族でも本家筋にあたる。

遠慮無く近づくと少し年上の幼なじみの紅い髪をかき上げた。

動揺を悟られまいと声を荒げる。

「雅王はいつも気配が無いからびっくりしただけだよ!」

それでも差し伸べられた手を払いのけもせずに漣は共に育った少年を見つめた。

白い肌に緑が映っている。

だが漣の目に映るのはそれだけではない。

その躰に゛巻き付いているモノ″がはっきり見えるのだ。

青白くうねる鱗…銀色に輝く目…

荒々しく首を振り堅く目をつむった。

「見えてるんでしょ?」

雅王は変わらぬ口調で尋ねた。

「漣が苦しむことなんて何もないよ…俺は覚悟ができてるから」

閉じた目から涙が溢れた。

もう、いやだ!

あんな残酷な儀式を行うなんて…もう絶対にいやだ

それも今度供贄に選ばれているのは…この共に育った、いや赤子の頃から面倒を見たこの雅王なのだ。

そして彼を選んでしまったのは…

物心ついた時から、漣には雅王に巻き付く小さな蛇がはっきりと見えていた。

そして雅王が長ずるに伴って子蛇も大蛇となり今はその躰を八重に巻いて、なおその背から高々と鎌首をもたげている。

それは誰にも知られてはならない秘め事だった。

生まれながらに紅い髪を持った「忌み子」に御託宣の力などあるはずも無いと…ただ一族の末席を汚す存在として奴婢のように扱われてきたから、それを幸いとすら思って雅王自身にも漏らす事無く一人胸に秘めてきた。

毎年普通に雨が降り、陽がさし、穏やかな天候が続けば、彼ら一族は実りを感謝し次の収穫を祈願する祭事を執り行うだけですんでいた。

最も本家、分家に関わらず殆どの者に蔑まれてきた漣は、いつの祭りにも携わる事なく祭祀台の足場を組んだり篝火を配したりといった力仕事や雑用ばかりさせられていたのだが…。

少なくとも生まれてからこの方、本家の誰も犠牲となることはなかった。

その運命が変わったのは去年の雨乞いに失敗した斐伊家の主が二年続きの失態の責任を取って自刃して果てた時だった。

雅王の属する本家は自ら生贄となってその身に龍神の眷属を降ろし竜宮から雨を呼ぶ役目を負う。

漣が生まれた斐伊(ひの)家は守矢(もりや)、初瀬(はつせ)と続く三つの分家の中で一番位が高く全ての祭祀を司る中心を担っていた。

その最も重要なものが゛御使い″となる供犠の選択だった。

本家の中で龍神の眷属となれる資質の者を見抜かねばならない。

眷属になれねば゛御使い″として竜宮へ参内できない。

いくら祈りを称え供物も献げても雨は降らない。

一昨年も去年も供犠に選ばれた者は…その身の裡に蛇精を宿していなかった。

守矢の家の主が声涸れるまで祝詞を叫けび、その一族悉く精根尽き果て倒れ伏すまで祈祷しても供犠の身に蛇精を降ろすことはできなかった。

蛇態となって嫁いだはずの本家の娘は龍神と交われぬまま、ただ苦悶のうちにその手足を血に染めて淵に沈んでいった。

三日待っても雲一つ沸いてこない。

それは腕を落とされ足の関節を外され蛇態となって嫁したはずの娘が淵の龍神に受け入れられずに人のまま死んだことを意味している。

初瀬の者達に都牟刈太刀(つむはのたち)で切り落とされた腕だけが本家の墓に埋葬された。

                                巻之壱 完

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