巻之弐
「蒲葵主様、昼餉にございます」
木々の向こうから斐伊家に仕える端女の声がした。
一族の中でもこの淵に近づける者は限られている。
使用人の身分では森の中から出ることさえできない。
「すぐに…」
漣は雅王に黙礼すると踵をかえした。
平伏して待っている女の元へ歩み寄る。
「あの…」
斐伊の家督を譲られ、さらに祭祀の最高位である“蒲葵主”の名を謚られたのは、去年の雨乞い−神送神事(からさで)が終わってすぐの事だった。
一夜にして“忌み子”が本家の主にまで提言できうる地位に奉られてしまった。
降って沸いた身辺の急変に戸惑いを隠せない。
凍える冬も洗いざらしの襤褸で過ごしてきた少年は眠る時にも絹の夜着を着せられて、ただ私室に座して日がな一日古書を紐解き、三の膳まで付く食事を出されるという生活に恐怖すら感じていた。
なんとか周りから言われるままに振る舞ってはいるが、こうして今まで自分が使われていた相手…
気にいらぬ事があれば漣を殴り、足蹴にし、食を与えず、闇夜の森に縛り付け…
そして時には情欲の捌け口に犯された者達から、顔もあわさぬ程に傅かれて、今のように一人で対峙する時にはどう言葉を掛けてよいかさえ分からなかった。
「そこまで一緒に行こう」
後ろからきた雅王が漣の手を取った。
分家の端女など眼中にない。
幼い頃から本家の跡取りとして育てられ、去年漣によって“ミシャグチサマ”に選ばれた神童は崇め奉られる事に慣れていた。
夏の盛りというのに繋いだその手は冷たかった。
さらさらとした肌触り…それは爬虫類特有の鱗を連想させた。
俺は次の満月、このしなやかな指を持つ手を切り落とさねばならぬ…
全てはあの日…斐伊の家長が絶望のあまり懐剣で自らの胸を差し貫いた時から始まったのだ。
不浄の物となってしまった家長の遺体を斎場に置くわけにはいかない。
祭祀の途中では、たとえ親子兄弟であってもその遺体に触れる事は適わぬ。
急遽、各家の下男が集められ、遺体を運び出し血の痕を清めねばならなくなった。
それが漣が斎場に足を踏み入れた最初であった。
孫でありながら言葉も掛けてもらえず、直に顔を見る事さえ許されなかった祖父に触れた最初であった。
白布で覆い戸板に乗せた。
御爺様…漣です…あなたの末娘の息子の…漣です…
漣の目から涙がこぼれ、布からはみ出した白装束の袖に落ちた。
と、袖口から紫紺の組紐が通された水晶の勾玉が落ちた。
それは先祖代々自らに八百万神を降ろし託宣をする者の証…
漣はあわてて、それを拾った。
家長が代々伝える秘宝であり、祭事の折りにしか目にすることはできない物だから、漣をはじめ戸板を囲む下男、端女はそれが何かは分からない。
「おい、しかられるぞ、袂に戻せ」
一番年嵩の本家から来ている奴卑が漣を咎めた。
赤毛の“忌み子”はじっと手に握った勾玉を睨んでいる。
自分の声が耳に入らぬ様子に苛立ち彼は戸板を置くと漣に殴りかかった。
漣が水晶を口にくわえた。
躰を反転させると走り出した。
あっけに取られていた下男達はその尋常ならざる気配に気づいて、慌てて後を追う。
斎場を覆う幕を引き裂き祭壇に駆け上った。
中央に祀られた神鏡−虹虫兒眸(こうげいむ)を左手に取った。
あっという間の出来事に居並ぶ神官も呆然としている。
斐伊の家長の自決という前代未聞のアクシデントで一時中断された神事も神に嫁す娘を蛇態とする最後のクライマックスにさしかかり、居並ぶ者たちも高揚している。
衛士達も咄嗟に動くことができなかった。
その隙を突いたかのように漣は絹地で口を塞がれた花嫁の上に今正に降ろされようとしていた都牟刈太刀(つむはのたち)を右手で奪った。
それは少年の半身と変わらぬ程の長さを持つ重厚な段平で、初瀬の男達はその太刀を常に二人で扱っていた。
片手で、それも小柄な痩身の少年が自在に扱える代物ではない。
神の花嫁を跨いで漣は仁王立ちになった。
昨日まで漣が沸かした湯を浴び、衣を干していた五歳の幼子…それが今年の祭りに選ばれた娘だった。
前年嫁がした娘とこの子しか本家の当主には娘がいなかったのだ。
もしこの子がだめなら来年は最も血縁の近い娘が嫁になる…生贄は一年に一度、神送神事にしか供されない。
その下半身はすでに血に染まっていた。
腰骨から大腿骨が外され、膝と踵の腱が切断されている。
躰に麻痺を起こす神酒を飲まされているとはいえ、痛みはあった。
意識を失わせては供犠にはならない。
躰を裂かれる痛みと死の恐怖で五歳の童はパニックになっている。
その目を漣はのぞき込んだ。
水晶を載せた漣の舌が何か呪文のようなものを称え始めた。
高く低く声が響く。
誰も動かなかった。
いや、動けなかった。
金縛り…ただ眼の前で繰り広げられる、今は忘れ去られた…本当の神送神事を見つめていた。
神鏡が幼女の顔を正面から映し出す。
祝詞の調子を変えると、その鏡を夜空に向けた。
青白く輝く月を映す。
その間目を見開いた幼女は身じろぎ一つしなかった。
涙も流していない。
いや逆にその表情には陶酔があった。
月を映したまま神鏡は幼女の胸の上に置かれた。
右手に握っていた剣に左手を添え頭上高くかざす。
新たな祭文が淵に向かって流れていく。
その時、遙か山の峰に稲妻が光った。
突風が吹いた。
篝火が煽られて火の粉が風に飛ぶ。
天幕が吹き飛ばされ、祭壇の一部が崩れた。
沸き起こった黒雲が月を隠し、一天俄にかき曇ると──雨だった。
二年間一滴の雨も降らなかったひび割れた大地に大粒の雨が吸い込まれていく。
山裾で神事の行方を見守っていた近隣六十一箇村の代表から歓声が起こった。
だが…斎場にいる縛られた者達は、咳き一つ上げることができずに雨に打たれている。
天に向かった切っ先がゆっくりと下げられた。
竜をよぶ呪詛を称えながら漣は幼女の右腕を─次に左腕を切り落とした。
そして神鏡を胸から口から泡を吹くその顔の上にずらした。
逆手に持ち直した剣を胸に突き立てる。
断末魔の痙攣を繰り返す幼い躰から離れ、口から水晶を取り出すと天を仰いだ。
古代の言葉…もはや誰にも理解の及ばぬ秘儀の文言がその口から発せられる。
それは雷神、アジスキタカヒコネに二谷を同時に照らす稲妻を乞うものだ。
落雷が一直線に剣に向かって落ちた。
肉の焦げた臭いが雨中に漂う。
剣を奪われたまま花嫁の周りに立ち尽くしていた男達の眼前で炭となった肌が破れてどろりとした血の塊が流れ出した。
胃の腑から込み上げてくる物があった。
「ぐううぇ」
血溜まりが足に達した時、中の一人が堪らずに嘔吐した。
その途端、金縛りが解けた。
男は悲鳴を上げて飛びずさった。
その声で周りの者達の不動禁の呪も解けた。
だが誰も漣に近寄らない。
彼らはそのまま泥の中にへたり込んでしまった。
漣は勾玉を右手にぶら下げたまま、左手で神鏡を拾い上げた。
幼子の顔は火傷の跡一つなくそこにあった。
「この者は人なり、淵に沈める事あたわず」
神鏡と勾玉を携えて漣は祭壇に立った。
「我はタカオカミなり、ヌカヒメの招きにて、この地に雨気を呼びしぞ」
本家の家長がその前に、にじり寄った。
「これに控え居るは大祝(おおはふり)なり、祈雨の神事仕る者なり」
「汝は大祝の任に非ず、その白蛇負いたる者こそ、真の大祝なり」
漣は人差し指に紫紺の紐を巻きつけ、真っ直ぐに本家の席を指差した。
揺れる水晶が雨をはじき、雷光に煌く。
その指の先に雅王がいた。
と、雷光を受けた勾玉の光を神鏡が反射し、持ち手の意を受けたの如く指差す者に向かい光が走った。
天幕にいるもの全ての目に鎌首を挙げ、鱗を煌かす大蛇が…、雅王に巻きつくその姿が見えた。
「蛇精持たぬ者は竜の眷属にはなれぬ。
祈雨の願いを伝えること叶わぬ。
あの者以外、大祝たる資格なし。
あの者は稀代のミシャグチなり、竜神と人を繋ぐ者なり」
皆が一斉に平伏した。
漣は祭壇に上がると神鏡を元の位置に戻した。
「我が妹の贄にて、慈雨齎された訳ではないと?」
その前に大祝とされた雅王が立った。
「控えよ、雅王!山津見と雨神統べる尊き神ぞ」
傍らで本家の家長は息子を叱責した。
「よい、タカオカミはお帰りに為られた。
これなるは巫(かんなぎ)の長たるヌカヒメの御霊なり、予てからこの者の裡に潜みし者なり」
「ずっと漣の中にいたと?」
「そうじゃ、しかし吾は祖霊の長に過ぎぬ。
この嵐過ぎれば雨雲は四散する。雨が降るのは今日より三日三晩の間のみと知れ」
三日三晩…伝承とは、このようなものだ。
蛇巫が竜神を降ろして降らせた雨は三日しかその効力を持たない。
それがいつの間にか“竜神の嫁に受け入れられれば三日の内に雨が降る”という言い伝えに変わってしまった。
「緋の御毛櫛(みけぐし)帯たる者には大いなる力持つ神宿りき。
この嵐は、大いなる比売神の呼びかけに応じたるタカオカミをはじめとする諸々の神々の御力。
大比売神こそ沸き出る泉の谷を巡り、滝の音轟かせ、大河となりて田畑潤し、大海原に注ぎて常世に通ずる力持てる神。
風を操り、根の国を差配する大~の正妻(みめ)なり。
山の端より昇り、海に還りたる太陽神(ヒルメ)の神霊併せ持つ神なり」
その大比売神の御名は…平伏する者達の胸にその名が響いた。
「その神通力を以ってしても、この雨は続かないのか?」
漣は頭を振った。
「古よりの理ゆえ、来年の神送神事でそなたが竜になる日まで雨は降らぬ」
供犠は一年に一人…雨が降るなら今すぐにでも、この命差し出すものを!
唇を噛む雅王に漣は微笑んだ。
「吾はミズハノメなり、来年の禊にて合間見えん」
そして予言どおり三日三晩荒れ狂った嵐が去ったあとは再び容赦なく陽が照りつける日々が戻ってきた。
それと共に漣から、様々な神の意を伝えたヌカヒメも抜けた。
漣は正気に返った。
伝説の大旱魃を救い“竜神の使徒”と崇められた神長(かんのおさ)…蛇の姿を模した蒲葵(びろう)の葉に覆われた場所に住んだと伝えられ、いつからか“蒲葵主”と呼ばれた男巫の再来とされてしまった。
神々がヌカヒメの霊位を媒体にして、その身体に顕れた時、漣の意識は隅に追いやられていた。
だから耐えられなかった。
自分が…自分の手が何をしたか…何をしゃべったか…彼は全てを知っていたのだ。
もうすぐ一年がたつ。
次の満月が昇れば、まずミズハノメが雅王を浄霊し穢れを祓いに顕れる。
そして…
それまでに雨が降れば…一滴でも降ってくれれば雅王を殺さずにすむ。
だが、大いなる比売神の力が目覚めてしまった神長には判っている。
彼が竜宮に上がるまで、けっして雨が降らないことを…。
漣は雅王の手を握り締めた。
巻之弐 完