巻之四

眼前に轟音をとどろかす大瀑布が迫る。

深い碧の淵から山裾に向かい満々と水を湛えた河が流れていく。

その豊かな水は森の中まで支流を延ばしている。

木立の間を川面を渡る涼やかな夜風が吹き抜ける。

せせらぎの岸に月光を受けて、赤髪の青年が佇んでいた。

十年前、今は川底に沈んでいるあの場所に俺と雅王は立っていた。

雅王…

あの満月の夜を一日とて忘れた事はない。

ミズハノメに付き添われたミシャグチサマが淵の水で禊ぎを始めた頃から山の端に雲がわき出した。

冴え冴えと輝いていた月が朧月に変わった。

それだけで山裾に集まった村主達から、期待の声が上がる。

ミズハノメに付き添われたミシャグチ──漣に伴われた雅王は水の滴る裸体のまま、初瀬の者達の手で腰骨から大腿骨を外された。

ヌカヒメに変わった漣は仰臥した雅王に神酒を飲ませる。

大祝(おおはふり)となって一年、覚悟のできている雅王は、痛みをこらえながら祭祀を進める漣を仰ぎ見る。

漣の手に握られた小刀が膝裏に差し込まれる。

初瀬の者達に押さえられた雅王の身体が大きくはねる。

断ち切られた膝裏に止血の白布がきつく巻かれる。

ブン!

次に、淵に響く低い音を立てて、踵の腱が断ち切られた。

口に当てられた布を噛み締め痛みに耐える。

“大丈夫だから”

ヌカヒメの蔭で泣く漣を気遣う。

ミシャグチサマを乗せた御神輿─斐伊の者達の手で御輿飾りが被せられた蓮台が斎場に担ぎ上げられる。

そこは水があれば大滝となる崖のさらに上─頂上から突き出した一枚岩。

張り巡らされた天幕によって結界とされた神域の中。

蓮台から祭壇前に敷かれた白布に移されたミシャグチサマに守矢の者達が拝礼を繰り返す。

去年までは、いや古式天覧によれば、このまま彼らによって蛇精を降ろす祝詞が詠まれる。

斐伊の家長─いやヌカヒメは、それを止めた。

神送神事(からさで)は本来蛇精を持つ者のみが行いうる祭事、蛇精を降さねばならぬような只のヒトには最初からその資格が無いのだ。

本当の…今は失われた古代の祭礼が復活しようとしている。

それは蛇精たるミシャグチを天空に昇らせ、大祝たる供犠を水底に渡らす秘事であった。

蛇精は竜となって月宮へ飛び、人魂も竜となって竜宮へ沈む。

竜宮の竜が雲を呼び、雨を降らせる。

月宮の竜がそれを止ませ、晴天に戻す。

その二つを…天候を司ることが竜の眷属となった者の御力。

斐伊の家長はその証である水晶の勾玉を口中に含んだ。

守矢の家長が恭しく差し出す神鏡を左手に掲げる。

「太刀を」

漣、いやヌカヒメに呼ばれたタカオカミに即され、初瀬の家長が都牟刈太刀(つむはのたち)の鞘を払い差し出す。

風が吹き始めた。

雲はさらに厚みを増す。

ぼんやりと白い光を見せていた月が、いつの間にか真っ赤に変わっている。

タカオカミは神鏡を赤い月に向かってかざした。

勾玉を置いた舌が、奇妙な旋律に乗せた文言を称え始める。

と──痛みを堪える雅王の身体から凝った霧のような…白いモノが立ち上った。

赤月を映した神鏡を仰臥する雅王胸の上に置く。

白い固まりはうねうねと蠢きながら神鏡の上に乗った。

「御柱を持て」

「は?」

じっと見守っていた前の大祝、雅王の父は神懸かりした神長(かんのおさ)の指示の意味を図りかね、おずおずと尋ねた。

「御柱とは御幣を飾ったこの柱でございますか?」

「そうじゃ、御幣を結ったまま大祝の傍らに置くのじゃ」

祭壇の中央に立てられた神木…本家の者達によって鎮守の森から切り出され御幣によって清められた神降る柱。

その御幣に書かれた名こそ本家の姓、建御名方(たけみなかた)…。

雅王の横に寝かされた柱にタカオカミは祈念する。

やがて顔を上げた漣は、とぐろを巻き甑立(こしきだて)となった蛇精を乗せたまま神鏡を持ち上げた。

蛇精と分かたれた雅王の顔に恍惚の表情が浮かんでいる。

神酒の力を借りることなくミシャグチ神の依代(よりしろ)はトランス状態に入っていた。

神鏡を携えた漣は脇に控える初瀬の者達に命じる。

「大祝を御柱に繋げ」

顔を見合わせる従者達の顔に小さな雨粒が当たった。

「はようせぬか!月が陰っては虹が渡せぬ、急ぐのじゃ!」

漣とは似ても似つかぬ苛立ちの声に、飛び上った祭祀人達は雅王を抱き上げると、御柱に縛り付けた。

「ミシャグチよ、腕を空に向かって伸ばせ」

神懸かりした雅王の腕がゆっくりと上がる。

漣は左手で頭上高く神鏡を差し上げ、右手で太刀を構える。

都牟刈太刀が風を切った。

白い腕が空に舞った。

その瞬間、神鏡から一本の虹が赤い月に向かって立ち昇った。

月虹(げっこう)は七色の光を放ちながら天空を渡って行く。

虹が消えると同時に月は雲に隠れた。

唖然として夜空を見上げる守矢の家長に神鏡が返された。

辺りは肩から吹き出す雅王の血で真っ赤に染まっている。

血だまりに雨が落ち始めた。

「御柱を落とせ」

初瀬の者が我先に駆け寄り、歓声を上げて丸太を担いだ。

崖の縁へ向かう。

降り始めた雨が身体を濡らしていく。

降る!

降るぞ!

今度こそ地が潤うまで雨が降る!

皆が雨乞い神事の成功を予感していた。

天幕の中の誰もがトランス状態になっていた。

この祭祀に携わる者、全てが神の御使い─もはやヒトでは無い。

人外の“気”に酔った者達は本家、分家の区別なく丸太─御柱に取りすがる。

あとは御使いとなった我らの手で、大祝を竜宮へ送るだけだ。

頭を下に縛られた雅王の身体が痙攣している。

気も狂わんばかりの痛みで身をよじるが固く縛められた身は血糊にまみれたまま柱に留められている。

何度も上げた絶叫で声は枯れ果て、喉からはひゅーひゅーという掠れた音が洩れるだけだ。

唯一自由に動く頭を打ち振る。

失われていく血で蒼白になった顔に黒髪が張り付く。

その顔をじっと見つめるヌカヒメの蔭で、漣が身もだえし泣き叫んでいる。

──ヤメロ!雅王ヲ殺スナ──

漣の右手がゆっくりと挙がった。

血まみれの太刀が滝壺を指す。

「大~の御許へ!」

ヌカヒメの声を合図に放たれた御柱は、一気に崖を降り水柱を立てて淵に落ちていった。

生涯忘れない─

落ちていく雅王の眼は俺を見ていた。

「雅王!」

山裾から吹き上がる風に漣の声が乗った。

あれから十年…

毎年十分な雨が降る。

陽は柔らかに降り注ぐ。

五穀の恵みは里を豊かに彩っている。

以来、今日まで雨乞いの供犠が供えられる事は二度となかった。

“それは大~の寵愛深き証”

心の裡で寂しげな声がする。

こうして夜ごと雅王を偲び淵に立つ。

十年…竜となってしまった雅王はその気配すら見せない。

いずれヒトであるこの身は、老いて命を全うし朽ちていく。

ヒトの理から外れてしまった雅王には、この世が尽き果てても巡り会うことはできないのだろうか?

そして大比売神は何度生まれ変わっても、自分の裡に潜み続けるのだろうか?

稀代の神長官(じんちょうかん)…蒲葵主(びろうしゅ)の再来と崇められる紅髪の青年の祈りと嘆きは、彼がヒトとして命尽きるその日まで続いた。

遺言によって漣が毎夜立ち続けたあの場所に、小さな社が建てられた。

御祭神は建御名方命(たけるみなかたのみこと)…諏訪明神の分社である。

だが近隣の人々は“ミシャグチサマ”とか“びろうしゅさま”と親しみを込めて呼び、折々の参拝を欠かさない。

どんな炎天下にも願えば、たちどころに雨が降る…と。

今夜も、月は滔々と流れる川面に社の影を映す。

──雅王──

夜参りの古老が、里帰りした孫達を連れ社に詣でる。

「さぁて、むかしむかしのぉ、この辺りに紅い髪の童と、色白の美しい童がおったそうな…」

                                        巻之四 完

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