俺は、後ろ髪引かれる思いで、下宿を後にする。
心の中では、これで最後だからとか、瑞帆との関係をきっちり終わらせるためだからとか、遙ちゃんに対する言い訳ばかり浮かんでいた。
本当に、言い訳だけだと思ってるわけじゃない。
事実、そのつもりだし、瑞帆とよりを戻すつもりは、無い。
それ以前に、俺にその気が有ったとしても、振られたのは、俺のほうだしな。
苦い気持ちで、そのことをかみ締める。
そのくせ、あれから三年も経つのに、その事を思い出に出来てない俺。
やめよう。考えてもあんまり良いことは無い。凹むだけだ。
とにかく、そう決めたんだから、やることはやっておこう。
試験の方は、せっかく勉強したのは惜しいけど、単位はもらえること確定だし、あんまり気にしなくても良いだろう。
問題はやっぱり遙ちゃんだよな。
「ありゃ、遙ちゃん携帯切ってんのかな」
遙ちゃんに携帯をかけても繋がらないことは割と良くある。
彼女がきちんと、場をわきまえて切るべき所では切ってるからなんだが。電車の中でまできちんと切ってる人は少数派だろうと思う。
今も、そういう状況なのかもしれない。
仕方ない、メール打っておくか。駅に着いてから、電車を待つ間に、メールを打ち込んで送る。
携帯のメールを使うのは実は苦手だ。
指が太くて、ボタンを押し間違うことが多いから。だから、大抵は、パソコンでメールのやり取りをしている。
「ふう」
打ち終わってため息をつくと、ホームに電車が滑り込んできた。
俺は、メールを送信して、故郷への電車に飛び乗った。
結局、故郷まで帰ってくるには、午前中いっぱい掛かった。
電車の窓から覗く風景が、馴染み深いものに変っていく。
それでも改札を抜けると、久しぶりに見る故郷の風景は新鮮な気がした。
……久しぶり? おかしいな、確か、俺、この間の正月に帰ってきたはずだけど。
なんだか、そのときのことがちっとも思い出せない。
まあ、そのときは、急いでたんだろう。そんなことを思い出しても何の役にも立たない、立たないが、思い出せないのはなんだか、気持ち悪い。
気分転換に辺りを見回す。
遠くに煙る山々、透き通った空。車の排気音さえ少なく、薫り高い空気。澄んだ冷たさを纏って一斉に俺の五感へと訴えかけてくる。
ああ、田舎だなと思った。
もちろん悪い意味じゃなくて、どこかほっとする気持ちの方が強い。
知らない間に、この町が、都会みたいになっていたら、きっと、取り残されたような気分になるだろうと思う。
とにかく、落ち着きたいが、その前に腹ごしらえをしようと駅前を見渡す。
見たことのなかった、パスタ屋があったので、そこを選んで食事をした。
味はまあまあだったが、量は少なかった。
どこぞの喫茶店みたいに山と盛れとは言わないが、あれで普通の食事並と言うのは詐欺だなあと思ったりした。
パスタ屋から出て、それからの予定を決める。
家に帰っても、親父は帰っていないだろう。合鍵は有るから心配はしなくてもいいが、冷蔵庫に何か入っているという保証は無い。
買出しをしていかなければならないだろう。
家に帰ったら、奈緒に電話しよう。
それで……。
考えながら歩いていたら、横合いから、強い視線を感じた。
振り向くと駅前のロータリーをこちらに静々と歩いてくる人影が見えた。
緋と白のコントラスト。
巫女さん!?
なんでこんな駅前に、いるんだろう。まるで夕焼けを何枚にも重ねたような美しい緋色の袴をはいた姿は故郷の景観の中でも特に際立ってみえる。
そして、俺は、うかつな事に、彼女がもっと傍に来るまで誰だか分からなかった。
俺を睨みつけるような冷たい目で見ている美女は、遙ちゃんだった。
「あ……遙ちゃん?」
俺の呼ぶ声とともに、不意にその表情が動きを見せる。悲しみと、諦め。
「帰って来られたのですね」
それは、帰って来るべきでは無かったのにと言いたげだった。
「……どういう意味だい?」
その俺の質問にも、遙ちゃんはまともに答えようとしなかった。
「いえ、失礼しました」
目を伏せ、そっと踵を返してしまう。
「ちょっ、どうしたの?」
やっぱり、すっぽかしたのを怒ってるんだろうか。
でも、そんなことで怒る遙ちゃんじゃないはず。メールできちんと伝えたし。
「ねえ、遙ちゃん」
彼女の肩に手をかけようとして凍りつく。
手が触れそうになったその瞬間、彼女の体から剣呑な気配が辺りに迸ったからだ。
自分にそんなことが分かるというのも驚きだったが、それ以上にあの遙ちゃんがそう言う雰囲気を纏っていることに驚いた。
くるりと振り返る遙ちゃん。
その意志の強そうな眉と瞳も、長い黒髪も、柔らかそうな唇も、みんな遙ちゃんだった。
だけど、そこにいるのは、俺の知らない遙ちゃんだった。
「……遙ちゃん、だよね」
口にしてから馬鹿な事を聞いてしまったと思った。
ついと、目を伏せた遙ちゃんが、それでも変らぬ口調で言う。
「帰って来たくなど有りませんでした。戻らせたくも……」
その後の言葉はあまりにもか細くて、吹きつけてきた北国の風が運び去ってしまった。
「何の事?」
「一つだけ。一つだけ御忠告を差し上げます。御自分の瞳で見たものを御信じなされますよう。時が来ればいずれ、御話する事もありましょうが今、私があなた
様に贈れる言葉はそれだけです」
俺の質問にやはり答えず、遙ちゃんは冷ややかに俺を見つめながら、そう言った。
そして俺がその衝撃から立ち直る前に、今度こそ彼女は去っていってしまった。
ただ、俺は一つだけ間違いの無いことを悟っていた。
あちらにいたときのような遙ちゃんと俺の関係には、もう二度と戻れないだろうということが。
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