第10章 メッサンティアの夜

メッサンティアの明かりが近づいてくる。

港内を照らす探照灯が交差して、遙か沖合まで光を延ばす。

岸壁に隙間無く置かれた灯火や店の明かり、街灯…細かな所までよく見える。

砂漠の旅で兄から聞いた憧れの港町。

そこに海の男としてもうすぐ上陸できる。

感激で胸が高鳴った。

「ガイ…ありがと」

ひたすら船を漕ぐ兄の背に頭を垂れた。

「ふふん、それじゃあ感謝の証として借金返すの手伝え」

「何?借金って?」

「お前を捜す為に船を買ったり、武器を調達したり、水夫雇ったり…あと食料に水、薪。海図だってみんな買ったんだぞ」

「な、何それ?一艘でよかったじゃない?なんでお金無いのに三艘も…」

「そうしたら雌虎号(タイグリス)の姉妹船に繋がれてる奴隷をみんな解放してやれるだろう?」

「あ…」

「おかげで馬の預かり賃も危ないんだ。借金のカタに取られてる」

「そうなんだ…」あの黒駒が素晴らしいのはド素人だって分かる。

「じゃあ、私もお金稼ぐ…って何したらいいの?やっぱり…」

「おっと、躯は売るなよ」釘をさしておかないと…

「ダメなの?他に売るモノないけど…じゃあ、適当に金持ち脅して奪ってこようか?」

「それでもいいが…」幼い頃から父親に仕込まれて盗賊稼業は身に付いているから、弟の提案も悪くはないが…

アルゴスまで来てお尋ね者になる気はない。

この国はアキロニア、特にポイタインと交易があるから、どこで正体がばれるとも限らない。

アキロニアの王太子とベンダーヤの皇太子の手配書がタランティアに着いたらシェバが自責の念から自殺――は親代々の敬虔なミトラ信者だから、ありえないが厭世感極まって“亡き兄シュカの意思を継いで出家する”とか言い出しかねない。

まずい…あいつに去られたら王太子宮が潰れてしまう。

ここは慎重に…疫病神が暴れ出さないようにしなければ…

「稼ぐ手段は俺が見つける。お前は勝手に動くな」

「なんでぇ?アルゴスの言葉だって少しは覚えたのに…」

「俺の言う事を…」

「あ、そうだった。絶対にガイの言う事をききます。一人で勝手な真似はしません。隠し事もしません。それから…えっと魔術もガイがいいと言うまで使いません」初めて雌豹号(レパーデス)に乗った時に誓った台詞をもう一度復唱した。

「それでいい、揉め事は絶対に起こすな」

「わかってるって」もう、さっきから何回言われた事か…

憧れの都への上陸第一歩は破損した船が並ぶ修理工場のような寂れた船着き場だった。

ポツンと街灯が一つ灯っている。

「何で、こんな寂しいところなの?あっちの方が賑やかだよ」逆らわない約束をしたばかりなのに、早速に不満を口にする。

「目立っちゃ拙いんだ。手頃な船を物色したり、水夫を集めたり、武器を買い付けたり、ちょっと派手に動きすぎた。俺の姿はメッサンティアの…特に裏社会じゃ有名なんだ、なにせアムラの再来だからな」

「…………」それが自分を探し出すためだったのは分かっている。

「じゃあ私も目立たないようにするね」薄汚れたベールを深く被り直した。

「そうだな…」どこまで自覚しているのか…怪しいモノだ。

兄は僅かな明かりの中を慣れた様子で歩いていく。

“迷路みたい…”シェラムは離れないように後を追う。

生臭い魚臭の充満する裏路地から裏路地を伝って行くと、いつしかけばけばしい明かりが並ぶ場末の色町に出た。

安酒と饐えた油、雑多な香辛料、女達の脂粉の香り、それに未だにそこかしこに漂う生臭い臭いが混ざって何ともいえぬ異臭が溢れている。

大股で歩む長身の男に群れていた酔っ払い達が怖々道を空ける。

その後を小走りで追いかける。

「ガイ、黒駒はどこにいるの?」そっと後ろから尋ねる。

「金を借りた貴族の屋敷だ」

「一番先にそこに行かないの?ここに少しくらいなら金貨があるよ。これを預かり賃に…」

「足りない」

「あ…じゃあ造ろうか?朝になったら落ちている金具とかで…」

「駱駝百頭の背に一杯の金貨が出来るのか?」

「そんなに?」いくら何でも…そこまでは…ここでは無理だ。

それこそカリニアの塔かコーシュミッシュの地下迷宮、タランティア郊外の恩師ペリアスの別邸あたりだったら道具に材料、その他諸々が揃っているからできるかもしれないが…

「船三艘、武器、食料、備品、水夫の雇い賃…いくらになると思ってた?」

「……わかんない…すっごく高いの?」

「借金のカタだと言ったろう、半端な額じゃないから借りたんだ。そうじゃなきゃ荒稼ぎして何とか都合してるさ」

「そうなの…」では、そんな高額な借金をどうやって返そうというのだろう?

“私を捜し出す為に…”タランティアへの二往復といい、海賊船を仕立てての大航海といい――今更ながらに置き手紙一枚で旅立った自分の浅はかさを思い知る。

しかも、そんな大事で捜し出した自分をアキロニアに連れ戻さずに“海の男”にしてくれたばかりか、どうやら恩師ペリアスの元へも同道してくれるらしい。

“もう絶対にガイに逆らわない”改めて心に誓う。

「よし、ここらでちょっと儲け話を探してみるか」猥雑な界隈でも一番に毒々しい明かりが眩しい酒場の門を潜る。

アルゴス、ジンガラ、クシュ、シェム、コス、オフルにアキロニア…種々雑多な言葉が飛び交い、それ以上に様々な髪や肌、目の色が異なる連中が、これまたあらゆる衣装に身を包んで酒と賭博と享楽に耽っている。

その間を殆ど半裸…薄絹一枚を腰に巻いた酌婦や娼婦が行き交って客を誘っている。

中にはペニスに宝石を繋げた首飾り…といってもガラス玉なのは一目瞭然だが…を巻き付けただけの男娼や、黒い革ベルトをあちこちに結んで筋肉を盛り上げた男娼もいたりして、彼らも安酒を奢ってくれる客を求めて、新たに扉を開けて入ってくる者達の品定めをしている。

水夫の中には海が女匂を嫌うといって上陸しても男しか買わない者も多い。

ガタイのいい大男は今海から上がってきたと一目で分かるほど髪が乱れ、磯の香りに満ちていた。

声を掛けようとして続いて入ってきたオレンジのベールを見て足を止めた。

“なんだ、ご同業がもうくっついてるのか”

「麦酒(エール)を大杯で」ヴァイロンは独特の抑揚のアルゴス語で、亭主の前に立った。

「金が先だ…前払いで…銅貨5枚」カウンターを挟んで店主は片手を開いた。

「5枚だと?お前の店の麦酒(エール)には金粉でも入ってるのか?」

「すまんが一見の客にはこれが決まりでね。不服なら他の店に…と言ってもどこの店も同じだがね。ま、足繁く通ってくれよ、馴染みになったら半額で飲ませてやる」

「チッ」舌打ちをした大男は後ろの男娼に声をかけた。

「お前の金貨で払っとけ」

「えっ?」金が足りないと言っておきながら、こんな所で散財するなんて…と思ったが逆らわないと決めたから、黙ってカウンターの上に金貨を一枚置いた。

「釣りはこいつに渡してくれ」金貨を見て急に愛想笑いをし始めた亭主が並々と注いだ杯を片手に奥に屯している傭兵らしき一団の方に歩いていく。

「お前さんも何か飲むかね」釣り銭を出しながら亭主はオレンジのベールを上目遣いで見た。

膝から下の真っ白な脛が赤い照明に映えている。

さっき金貨を置いた指も華奢で真っ白だった。

その時ちらりと漆黒の髪が見えた。

“見掛けはこ汚いが肌は極上じゃないか”…ゴクリと唾を呑んだ。

見かけない男娼だ。

どこか他の港で買われて、連れ回され、行く先々で客を取らされているのだろう。

“さっきの金貨はこいつの花代だ”と亭主はふんだ。

「ウチで客を引いても構わんよ、花代の一割を置いてくれりゃ…あの旦那に断って一稼ぎしちゃどうだ?」この喧噪では奥に聞こえるはずはないが、声をひそめて囁く。

「躯…売ってはダメなの」釣り銭をしまいながら、たどたどしいアルゴス語で断る。

「ほう、あの旦那は焼き餅焼きかい?」

“焼き餅焼き?それ何?”シェラムのアルゴス語はまだ稚拙だ。

知らない単語も多い。

亭主が気を引いても、意味が分からずに沈黙する。

「残念だなぁ、この店は金払いのいい上客が集まるってのに…もしあぶれたら俺が買ってやってもいいがな…ただしショ場代と宿代代わりにまけて貰うがね」

「お金…稼げるの?」

「ああ、お前さんなら相場の…ちょっと顔を見せて」

亭主の手がベールに伸びた。

スッと躯を引く。

“ここで顔を見せては拙い”何故なら今まで顔を見せるたびに言い寄られて大騒動になるから…

『揉め事は起こすな』メッサンティアに入港する前に何十回と言われ続けた。

“どんな時に騒動が起きたか思い出して見ろ”――で、一番に思い当たるのが“素顔を見られた”だった。

あとは淫気を吸いたくなった時…次ぎに精気を吸いたくなった時…それから迷ってる霊に頼み事された時――こんなとこかな?あっ、一番ブチキレちゃった時は違う…人間と契約した時だ。

“アイーシャでしょ、エキドナ…なんとなく歯止めが効かなくなっちゃうんだよね”

また何かちょっかいを出されては適わない――亭主の前から足早に去った。

“ガイ、何処?”店の奥に消えた兄の姿を探して混み合う客の間をすり抜ける。

いきなりベールが掴まれた。

「小銭があるんなら遊んでいきなよ」釣り銭をしまうのを盗み見ていた男達だ。

「さっきの釣り銭が倍、いや十倍に増えるぜ」

“金が増える”というアルゴス語に惹かれた。

さっき亭主が誘ってきた稼ぎ話とは違うようだ。

「ほら、こいつの数と印がぴったり合えば大当たりで、ここにある金は全部お前さんのもんだ」

シェラムの前に2つの賽子(サイコロ)が置かれた。

ベールを握った男が、説明しながら実際にやってみせる。

自分がコレと思った数字とマークが書かれた上に金を置く。

そこで賽子が同時に振られる。

それぞれ一致した場所に賭けた者達が掛け金に応じて、外れた場所に置かれた金を貰える…という賭博だった。

二個の賽子が合致するのは一二分の一の確立だから的中率は高い。

ボッソニア兵舎で毎日のように双六に興じていたから賽子の扱いはよく知っている。

自分の為に愛馬を質草にした…少しでも借金の返済を手伝いたい――そんな思いが募っている。

“じゃあ、せっかくの誘いだし、稼がせて貰おうかな”

「ココ…」今貰った釣り銭全部を誰も賭けていない場所に置いた。

「よーし、じゃあいくぜ」賽の振り手に目配せする。

久しぶりに“いいカモ”が引っかかった。

残りの金も巻き上げて、あとは躯で払わせよう。

で、散々抱いた後でここの店主に叩き売る。

さっきからのやり取りで亭主がこの男娼に岡惚れしている事は明白だ。

言い値…とまでは行くまいが、結構な値段で引き取るだろう。

「ほい!」2つの賽子が止まった。

「ざん…」“ねんだったな”というお決まりの台詞を呑み込んだ。

“いいカモ”が賭けた数字と印が賽子の上にあった。

“何やってんでぇ?”と振り手を睨みながらも、少年の方に金を押しやる。

「ついてるじゃねえか、若いの。この調子で稼いでいきな」

まあ最初から毟るのも考え物だ。イカサマだとバレたら他の客が引いてしまう。

勝ち逃げさせないように勝ったり負けたりさせながら、最後はすってんてんにしちまえばいい。

ヴァイロンは酔いつぶれる寸前の傭兵達と杯を重ねていた。

彼らは目先の欲で動くから金の流れに敏感だ。

売り物は自分の腕しかないのだから多くの情報を得て、一番自分を高く売り込める相手を見つける。

判断を誤れば報酬どころか自分の命が消える…土地や民族、ましてや主従など持たない彼らは一切の思い入れも、しがらみも無く情報を判断する。

傭兵の耳と目は信用できる…幼い頃、傭兵だった父と共にあらゆる国々の戦場から戦場を転々と流離ったヴァイロンはそれが身に染みて解っていた。

どうやらアルゴスの内情が分かってきた。

船を見繕った時は勢い込んでシェラムを探していたから世情などにかまけている暇がなかった。

自分が借財した相手は、久方ぶりに再開した元雌虎号(タイグリス)の乗組員、早い話がアムラの昔の仲間達から紹介された金融業者で、メッサンティア一の大富豪だ。

それこそ父親にくっついてメッサンティアを徘徊していた時、裏で海賊の強奪品を引き取り、金に換えてやっていたのがバシリスだった。

今では金の力で王宮を牛耳り大臣になっているそうだ。

どうやら、バシリスも王位を巡る権力争いに一枚咬んでいるらしい。

だったら、まともに金を返すより楽に愛馬を捕り戻す算段がつきそうだ。

店の入り口付近がさっきから騒がしい。

そういえば…自分を探して追ってくるはずのシェラムがいつまでたっても現れない。

この辺りでは一番大きな店だが、それでも行き違う程の奥行きはない。

“まさか…あの疫病神”舌打ちして残っていた酒を一気に飲み干した。

そこに怒号が聞こえた。

席を立った長身の男の目にオレンジのベールが翻るのが見えた。

「この野郎!イカサマ仕掛けやがったな」

「違う!私賽子さわれない…誤魔化す事できない」たどたどしいが確かに男娼の言う通りだ。

振り手なら賽子に細工も出来ようが、この男娼は他の客にすら遠慮してみんなの背後から賭け金を乗せるだけなのだからイカサマ呼ばわりは明らかに言いがかりだ。

だがこの男娼の勝ちっぷりは見事過ぎた。

成り行きを見ている者達ですら異様に感じる。

賭け事に加わってから一度も外すことなく当て続けた。

掛け金は増え続け、今は客の一人から譲られた革袋一杯に銭が膨らんでいる。

“憑きがある”と見た他の客も男娼に便乗して賭け始め、一気に胴元の負けが込んだ。

そこで賽の振り手や盤を仕切っていた男達がキレて難癖を付けた…と言うわけだ。

イカサマ扱いして勝った金を横取りしようという魂胆なのは見え見えなのだが、土地の顔役の息が掛かっている奴らなので、男娼の味方になる者はいなかった。

最初に欲情を催した亭主ですら、関わりを畏れて顔を引っ込めた。

「おい、淫売野郎!今日は見逃してやるから黙って金を置いていきな」

「いや、それだけじゃ許さねぇ…俺の盤をコケにしやがった。落とし前つけて貰わねぇとな」

「そいつはいいや、その躯にきっちり仕置きしてやろう」

「兄貴のアレは真珠入りだ。仕置きにならねえでしょ?」

「そうともよがりまくって天国行きだぜ」

「そりゃ、とんだご褒美だ」

「そしたらずっと俺のイロにして可愛がってやるさ、稼ぎがよけりゃの話だがな」

小銭でずっしりと重くなった袋を抱えたまま、オレンジのベールは壁際に追いつめられた。

一瞬ベールの下に背負った愛刀に指をのばしたが“揉め事”になる…と判断して止めた。

当然、素手で争うのも駄目だろう。

――かといって言いなりに躯を差し出しても…『躯は売るなよ』とも釘を刺されている。

おまけに魔術は厳禁なのだ。

“アレも駄目、コレも駄目…どうしたらいいの?ガイ!”途方に暮れる。

「お前のイロには譲れねぇな」独特の響きのアルゴス語が気負った胴元達の背後から降ってきた。

「ガイ!」

ヤクザ達は息を呑んだ。

頭一つ飛びぬけた…どこから見ても海賊風体の男が日に焼けた肌を黒革の胴衣に包んで立っている。

腰から吊した段平は刃渡りといい幅といい尋常の大きさではない。

これを振り回すとなると…納得できる――腕から胸板、肩胛骨から背中…盛り上がった筋肉が灯火を弾く。

逆に引き締しまった腰から太腿はしなやかで豹を思わせる。

肩まで伸びた金の蓬髪が乱れるままに額を覆い、間から覗く蒼眸が冷たく光った。

その眼差しに射すくめられ、後ろで成り行きを見守っていた客達も酔いが吹き飛び、身動き一つ取れずに固まっている。

気圧されたまま唖然として見上げる破落戸(ゴロツキ)を無視して、聞いたことも無い言葉で話し始めた。

「全く、ちょっと一人にするとこの騒ぎだ。温和しくってのはな…」とキンメリア語で説教しかけてニンマリと笑った。

「まあ、よく我慢した…お前にしちゃ上出来だ」と一応褒めておく。

ベールの下で顔が輝いたのが分かった。

今までは放任していたのに、再会して以来やたらと説教臭くなった兄に久方ぶりに褒められて舞い上がった。

「お金儲かったよーっ!」革袋を持ち上げる。

「それをよこせ!」兄貴分がすごんで見せるが大男から発する威圧感に押され、せっかく追いつめた“カモ”に近づくことさえできない。

「まあ、宿代のタシにはなるだろう。ありがたく貰って行こうか」再びアルゴスの言葉に戻る。

シェラムにとっては初めて稼いだ金だ…手法は賭博だが。

イカサマ賽子を操って自在に目を出したのは分かっている。

術を使ったのだから働いて稼いだ事には変わりがないだろう――

もっとも西域最強の魔道士ペリアス曰く“類い希なき力を秘めた弟子”にとっては、賽子の操作などほんの遊びに過ぎない。

亭主以下凍り付いた店中の人間の視線を一身に集めて店を出た二人は、夜のとばりの中に消えていった。


「へえ、借金した相手ってそんなにエライ貴族だったの?」革袋一杯の小銭を数えながらシェラムは兄が仕込んだ情報を聞いていた。

「ああ、八人いる選帝候の中でも一番か二番…今でも裏で高利貸しやってるぐらいだから経済の実権を握ってる奴だろう」

ヴァイロンは壺ごと買った葡萄酒に角盃を突っ込んではガブガブと一気飲みを繰り返している。

「選帝候って?」

「アルゴスの王権は世襲じゃない。商人や外国勢力と結託しないように…いや結託はしてるんだが、それぞれの勢力が均衡を保つように長期の政権維持が起きないようにしてる」

「ふうん…珍しいね」

「ああ、お前の隣国…イラニスタンみたいにツラン派とベンダーヤ派に分かれて闘争してると国力が衰退するからな。それに一方に権力が集中すると必ず反対勢力が内紛を起こす。これも外国に付け入られる隙になる。貿易で成り立ってる国らしい上手いやり方だと思うよ」

「それなのに権力闘争が起きてるの?」

「どんなによくできた組織だろうが法律だろうが、扱うのは欲にまみれた人間だ。完璧なんて事はありえない」

「成る程ね…じゃあ、アルゴスの王様は自分で何も決められないで憤慨してるんだ」屈み込んだ少年は初めて稼いだ金を嬉しそうに仕分けしている。

「そういうこと。ラスカリス帝なんぞ見向きもされてなかった。権力を争ってるのは軍事を握ってるゼノンと国庫相のバシリスだ」

「そのバシリスって人からお金借りてるの?」

「正確に言うと、そいつの執事の配下のそのまた手下って感じだな。船の斡旋から食料や水の調達まで全部やってくれたよ…仲介料を取られた分借金が増したがアルゴス船籍を取って船主の登録をするまでやってくれたんだから文句は言えんさ」自分が昔アムラと共に世話になった事を告げればバシリス自身が出向き、優遇してくれただろう。

黒駒をカタに取られる事もなかっただろうが、それだけは嫌だった。

「で、ここに来て急に王様が王様らしくなっちゃったんで、敵対してた二大勢力のバランスが崩れてきてるんだね?」

「おまけにもう一つ勢力を伸ばしてきた奴がいるらしい」

「ふうん…四分割か。これから裏工作で手を組んだりとかありそうだね」他所様の揉め事は面白い。

綺麗に小銭を柄分けし、積み上げたシェラムが伸びをした。

「いくらあった?」

「わかんない。初めて見るお金が多いからどれがいくらなのか。アキロニア銅貨は分かるけど、これだってアルゴスの貨幣に換算したら、どのくらいになるのか見当つかないよ」不服そうな声だ。

初収入がいくらになったのか知りたかったに違いない。

「それがアルゴスだ。人種も文化も宗教も貨幣も雑多に混じってる。基盤にあるモノが不確定だ。繁栄してる間は上手くいくが、一つ躓くと危うい。国家が瓦解しかねない」

「そうか…アキロニアもどこの国からの民族も受け入れてるけど、言葉と貨幣は統一されてるよね」コナンはどこの街にも換金を行う役所を置いた。

外貨の換金だけでなく、納税も貯蓄もできたし、債券を買う事もできる。

金庫を守るために守備兵兼警邏隊の駐屯地にもなっていたから警察機構も備わっていた。

「ガイって頭いいんだねぇ」改めて施政者としての兄の手腕に舌を巻く。

父の名で発布されてはいるが殆どの政策はヴァイロンが起案したモノだ。

藁敷きのベッドに葡萄酒をこぼしながら大の字で伸びている大男が、こんな機知に富んだ頭脳と辣腕を持っているとは…人は見掛けによらない。

その隣にうつぶせで倒れ込んだ。

「あー、揺れてない寝床なんて久しぶりーっ!」大きく手足を伸ばして突っ張る。

「チャドやお爺さん達、どうしてるかな?」彼らも占領した基地に寝泊まりしているから揺れない睡眠を享受している事だろう。

「またいつかバラカに行ってみたい」兄の胸板に頬を乗せる。

兄は承諾の証にポンポンと頭を叩いた。

「まず戻るべき所に行ってやるべき事を為せ…後は自由だ。何処にだって行ける。海の男は自分のけじめは自分で着けるもんだ」」

「ガイ…」頭を起こした。

兄がこちらに顔を向けている。

「やりたいことをやるんじゃない。やらねばならぬ事をやるんだ。お前にしかできない、ただ一つの事を」

「そしたら自分の場所ができるの?」

「そうだ」

シェラムは一度顔を伏せた。

「…わかった。ペリアス先生に会ったら、ベンダーヤに行きます」再び顔を上げると兄の目を見据えた。

「うん…」もう一度、兄の大きな手が頭に乗った。

「一人でな…」

「一緒に来てくれないの?」敷居が高い。ヴァイロンが一緒なら…と依頼心が起きる。

「置き手紙をして出て行ったのは誰だ?」

「あれは…」其所をつかれると返答に詰まる

「仕方ねえな、国境までは付き添ってやるよ。あとは自分一人でやるんだぞ」我ながら甘いと思うがチァンリル、イーデッタへの絡みもある…確かに返したという実感も欲しい。

「ありがと、ガイ」上から抱きついてきた。

見慣れた顔ながら、間近に迫ると思わず見とれてしまう。

シェラムの風貌は父に似ていない。

北方キンメリア人の証は透けるような白い肌だ。

黒髪は父親だけでなくアヨドーヤ王朝の直系である母親からも受け継いでいる。

“こいつにそっくりなら…”

逢ったことはないがヤスミナ女王とは噂通り“ベンダーヤの至宝”“東方随一の名花”であろう。

亡きイェズディガードがベンダーヤ侵攻を謀った要因の一つは当時王女(デビ)だったヤスミナを己の後宮に侍らさんが為と言われている。

国王ブンダチャンドを屠ってまでも手に入れたかった稀代の美女はアフグウリ族に身を寄せていた蛮人に奪われてしまった。

二人の愛の結晶がシェラムである。

ヤスミナを側室にし、ベンダーヤを属領に…というツランの陰謀はついえた。

「お前、また綺麗になったな」正直な感想だ。

「なんだよ、それ!せっかく海賊修行して海の男になったんだから、逞しくなったとか、男らしさが増したとか、他に言いようがあるんじゃないの?」

「いや、そっちは…」見掛けはちっとも変わらない。

あれだけの太陽に照りつけられ、海風になぶられた肌は荒れもなく、日やけもしていない。

もっとも散々砂漠を連れ回しても変わらなかったのだから、分かっていた事ではあるのだが…

「今日の要領を忘れるな。絶対にこの素顔を見せるなよ」だがら、もう一度釘をさしておく。

ああ、いつの間にこんな過保護な付き添い人になったのか…自分でも情けない。

ヴァイロンはカラになった盃に壺を傾けた。

もう僅かしか残っていない。

「ちっ、お前の金でもう一壺買っておけばよかった」

ふいに――こちらを覗き込む白皙の美貌が、ぼやけた気がした。

その時…急に嫌悪が湧いた。

“疫病神め”――その容姿が俄に苛つく存在に変わった。

“欲しい”――そして同時に欲望を覚えた。

“まさか…これくらいで酔うとは…俺も久しぶりの陸地で躯が鈍ったか”残った酒を呷った。

いきなり沸き起こった奇妙な感覚に戸惑い、抱きつく弟から無意識に顔を背けた。

シェラムは首筋に兄の指を感じた。

「わかったよ、街に出る時はアレを顔に巻いて包帯にするから…」水差しの脇に置かれた布を指で指す。

「ほんとに心配性なんだから。急にうるさくなったよね…シェバが乗り移ったみたいだよ」口を尖らす。

“えっ?”グイと力が加わった。

左手だけだが凄い圧迫感だ。

兄が敵の頸骨をへし折るのは毎度の事だし、旅の途中では野牛の角を掴んで、首をねじ切ったのを見ている。

恐怖が湧いた。

「あ、だから…言うこと聞くから…変なこと言って…ごめんなさい…」太い手首を左手で押さえ右手で指を引きはがそうとした。

ジリッ!「つぅ!」其所に痛みが襲った。

“ラカモンの…”中指に嵌った蒼い鋼輪が鈍く輝く。

「あふっ!」喉に食い込む指に更に力が入った。

「ガイ!止めて!」

チリッ…手の甲に火が燃えた。

「うわっ!」ヴァイロンはいきなり感じた熱さに慌てて手を退いた。

手の上に小さな銀灰蜥蜴が乗っていた。

寝床から転がり落ちたシェラムが首を押さえ激しく咳き込んでいる。

「大丈夫か?」

駆け寄って抱き起こした首には、くっきりと五指の後が付いていた。

「すまん…」俺は…どうしたんだ…

ゼエゼエと息を荒げながらシェラムは喉の周りに指を這わせた。

それは忘れ去られた太古の呪印である。

すうーっと痣が消えていった。

だが一箇所だけ赤みが取れない。

“ラカモンの環(リング)が直接触れた処だ”ふう…と大きく息を吐いたシェラムがその痕を撫でた。

「俺は…こんな事するつもりじゃ…」

「大丈夫だよ……別に…ガイがキレて…訳がわかんなくなるの…初めてじゃないから…ラカモンの環(リング)は辛いけど…時間が経てば…治るでしょ…」まだ息の荒いその肩にノソノソと蜥蜴が這い登ってきた。

「初めてじゃないって?」

「うん、ほら…砦で…再開した時。あの時の方が…いきなり…だから…面食らったよ……ホントに殺される…と思ったもん…」

そういえば…怒りにまかせて剣を振り上げ――気が付いたら振り上げた段平の先に、頭を抱えて蹲っている弟がいた。

あの時もこの蜥蜴が胸元から這いだして刃の上に飛び乗った…

久しぶりに段平を振り回し、殺戮の限りを尽くしていたから、頭に血が上り怒りにまかせて我を忘れたのだろうと――それ以上は気にもせずに、やっと捜し出したシェラムが抱きついてくるままに抱き返し、クスリが効き過ぎた弟を許してやった。

だがあの時の周りの状況は――シェラムの着ていたモノは裂けてボロボロだったし、一抱えもある丸太の柱が真ん中から叩き折られていた。

床板もボコボコに削り取られて――

明らかに馴染んだ段平の切り口だ。

“俺はあの時もシェーラの命を奪おうとしたのか?”愕然となった。

「ガイさあ、すっごく優しくなって、恐くなったよ。何でかなぁ?あ、もしかして私が開かずの間の封印破ったから?」

「なんだと?」

「じつは…漠然となんだけど…あの後から時々ガイに違和感を感じちゃって…。ほら…このトゥニカを取りに行って…下水口から帰ってきて大騒ぎになった時、私ガイにキスしたでしょ?そしたらガイ、すっごく濃厚な…舌絡めて吸ったでしょ…ヒューイとウィスカと、あとホルストだっけ…驚いてたよね?あの時ちょっとガイじゃないみたいな…キスされて達きそうになったから…」

不感症は自覚している。

だから自分から意識してのめり込まない限り何も感じない。

それなのに、あの時は…キスだけで躯の芯が熱くなった。

馴染んだはずの兄の唇…なのに何故?――それが違和感の原因だった。

ヴァイロンはあの時の即近達の表情や態度を思い出そうと記憶の糸を手繰る。

そう言えば…ウィスカは自分の顔をまともに見なかった。

――なんだ、お前ら…シェーラの毒気に当てられたのか?――側近達が硬直した原因は、シェーラではなく俺だったのか?

呆然としたままの兄を気遣うようにシェラムは苦しい息を整えながら話し続ける。

「多分気のせいだから心配しないで…魔道士はね、自分に関わる事は占(み)えないんだよ。だからペリアス先生に会ったらあの広間に封印されてたモノは何なのか…一つや二つじゃ無いはずだから全部問いただそうと思ってるんだ…」

ヴァイロンは起ち上がると隅に置いたベルトを締め、段平を鞘に収めた。

「ガイ?」

「しばらく離れよう。馬を取り戻したら迎えに来る。お前はその金でここに泊まり続ければいい。飲み食いしないんだから部屋から出る事もあるまい」

「えっ?ちょっと!待ってよ、ガイ!」叫んだつもりの声は掠れていた。

まだ喉が…傷が痛み、息が苦しい。

よろめきながら起ち上がった時には開け放たれた扉の向こうに兄の姿は無かった。

「なんでぇ?探しに来てくれたんじゃないの…何で置いていくんだよーっ!」安宿中に聞き慣れぬ怒声が響いた

やがてそれは長いすすり泣きとなった。


ザモラで大槌亭に残ったときは、十年ぶりに再会した兄が見せた“魔道士を嫌う視線”への意地があった。

置き手紙をしてタランティアを出たときは、一人で世間を旅してみたいという好奇心と冒険心に燃えていた。

でも今、一人なのは自分の意思ではない。

初めて相手から距離を置かれた少年は途方に暮れていた。

「捨てられたんじゃないよね…」そっと蜥蜴の鬣を撫でた。

兄は“愛馬を取り返したら迎えに来る”と言った。

信じて待つより他はない。

だがいつになるのか?

明日?明後日?いつまでこうして待てばいいのか?

確か“駱駝百頭の背に一杯の金貨”…と聞いた。

行き当たりばったりで入った酒場で情報を得るくらいだから、どこかに金策の当てがあるとも思えない。

「どうして置いていかれたんだろう?」尋ねられた蜥蜴は金色の眼をギョロリと向けてパタパタと尾を振った。

――兄の様子はおかしかった。

“お前も手伝え”って言ったくせに…そっと喉の痣に触れた。

あれから三日、ラカモンの環(リング)によって傷ついた喉の痛みは消えていた。

それとも非は自分にあるのか?――よかれと思ってやったことが大騒動を引き起こし、その度に散々シェバに諭されてきたから、世間の一般常識というモノが自分とはかけ離れている…と朧気に気付き始めている。

鏡に映る痣は色あせ赤みが薄れていた。

「やっぱり私がいけないの?どこが悪いのかわかんないよ、ヒドラ…」落ちてきた涙に銀色の影が慌てて避けた。

ノックの音がした。

「お客さん?」宿の女将(おかみ)の声がした。

「あんた、食事もしないでここにずっと閉じこもってるけど病気持ちじゃなかろうね?」

病に伏した男娼を捨てていったのではないか――ここで死なれちゃ客商売に差し障る。

最初に金貨を一枚前金で貰っていたが、野垂れ死にした死体の始末には足りない。

歩ける内に出て行ってもらわないと――女将は“もう一日様子を見よう”と言う亭主を蹴り飛ばしてやってきた。

“様子を見よう、明日は出て行くかもしれない、もしあの大男が戻ってきて追い出したと知れたら面倒だ”…気の弱い亭主の言うことを聞いて三日待った。

もう十分だ。

いつ訪ねても寝床に伏し、上掛けを被ったまま、顔も見せない。

そう言えば大男が出て行った時、訳の分からない言葉を叫んでいた。

言葉が不自由なのかもしれない。

身寄りも無い異邦人…だったら余計にやっかいだ。

追い出すに限る。

言葉も分からないなら金勘定も出来ないだろう…。

「悪いんだけど、あんたのお連れさんから預かったお金、もう無いのよ。出て行ってくれないかしら?」

ゆっくりと寝床の上掛けが起き上がった。

「ひっ!」女将はこちらに向いた顔を見て、やっぱりと確信した。

眼と口だけ出して白い布が巻かれている。

“皮膚病かな?いや、男娼だもの性病かもしれない…参ったね、急いで寝床を焼き払わないと…他の客に見られないように店の裏に運ばせて…ウチの亭主じゃ段取りが悪いからアタシがやらないと駄目かしら。とにかく早く出て行って貰わないと…”

前金が尽きたらしい。

革袋から小銭を取り出そうとして止めた。

ここで待っていても…

もう飽きた。

一日中、ヒドラを相手に繰り言を訴えながら過ごすのはもうたくさんだ。

女が“出て行け”と言っているのは分かる。

だったらここにいる必要はない。

揉め事を起こしたくないから宿を出ました――薄情なガイと再会したらそう言ってやろう。


「バシリスって人の家はどこ?」気弱そうな宿の主人は前金の釣りを渡そうとして女将に脇腹をこづかれた。

バシリス――兄が借金のカタに黒駒を預けた相手の名をシェラムは覚えていた。

「バシリスってお大臣のバシリス様?アンタ一体何の用?」女将は眉を寄せる。

オレンジのベールに包まれた客の顔は見えない。

「どこ?遠い?」たどたどしいアルゴス語は心なしか掠れている。

関わり合いになっては面倒だ――女将は問いを無視してさっさと奥に引っ込んだ。

横目で眺めていた主人がそっと銅貨を三枚出した。

そして言葉が不慣れな旅人にゆっくりと語り始めた。

「ここを広場に出るまで真っ直ぐに…そこで待ってると赤い幌を掛けた馬車か荷駄が通るだろう。それがバシリス様の家の目印だから付いていけば辿り着ける」

「ありがと…」愛刀は背に負い、革袋は腰紐(ベルト)に縛った。他に荷物はない。

懐に蜥蜴を隠してオレンジのベールを翻す。

「早くお連れさんに逢えるといいね」扉を出たシェラムの背に主人は別れの挨拶をした。


「おい、腹が減ってんのか?好きなモノ食わしてやるぜ」

「俺の家に来ないか?ふかふかの綿が入った布団で寝かせてやるよ」

炎天下の石畳にぺったりと腰を下ろし、じっと赤い幌馬車を待っている。

シェラムは目深にベールを被り一言も口をきかなかった。

慰み者にしようか、騙して奴隷商人の処に連れて行こうか…ベールから覗く白い脛に誘われ、下心が見え見えの男達が最初のうちはなんやかやと声を掛けてきた。

「何だ、汚ねえな。商売の邪魔だ、あっちいけ!」

「病気持ちの男娼かい?奴隷商人でも買わねえだろうな」

だがベールの下の包帯だらけの顔を見るとギョッとして飛び退く。

途端に邪険になる。

「この熱さで水も飲まないのか?」

「死んでんじゃねえか?」

辺りの空気に流行病(はやりやまい)が漂っていそうで、誰も寄りつかなくなった。

夜の間に警邏隊が死体を片付けるだろう。

やがて日が傾き掛けた頃、赤い幌を掛けた集団が現れた。

港からの帰りだ。

商船から積み下ろした荷駄で溢れている。

死にかけていたはずの男娼はいきなり飛び起きると、唖然とする男達を尻目に荷駄を追って走り去った。

赤い幌馬車隊が走り込んだ屋敷の周りは多くの人が…それも屈強な男達が群れていた。

“ガイがいるかも”まだ本調子でないシェラムは息を切らしながら屋敷に入る順番を待って押し合いへし合いしている男達の顔を見て歩く。

その腕がグイと掴まれた。

「なんだ、お前は?ここで客を取ろうってのか?」

「今は選考会の最中だ。商売にはならんからさっさと失せろ!」

肩に赤い布を掛けた兵士に捕まった。

「ここには闘技会にバシリス家の格闘士として出場する者しか入れんのだ」

「それともお前も参加希望か?」

「そりゃいい、首が落ちる前に寝技に持ち込んだら床技で堕とせるかもしれんぞ」

単語を知らない上に、周りからワアワアと一度に怒鳴られて、言われている意味は半分も分からない。

それでも門前に張ってある紙には貿易国家らしく、ジンガラやクシュの言葉でも“皇帝陛下主宰の闘技会のあらまし”が書いてあったので、大体は理解できた。

貴族達が自慢のお抱え格闘士を披露して競わせる。

勝ち抜けば莫大な賞金と、アルゴス傭兵部隊の隊長に取り立てられ、領地が貰える。

実は今の軍事を牛耳るゼノン将軍自体が二代前の皇帝が主宰した闘技会の優勝者なのだ。

富と名誉が手に入る――腕自慢の男達にとっては絶好の出世の機会だ。

だが勝ち抜けば…である。

負ければ殺される。

例え傷を負って戦意を喪失してもトドメを刺すのがルールだったから“敗北”は即“死”になる。

それでもどの家も後援者の名誉を賭けて契約金を奮発し、闘技会までの生活は贅沢三昧だったから希望者は、このように引きも切らずに群れている。

“じゃあ、ガイはここに雇われたのかな?”ちょっと剣闘に長けた者が見ればヴァイロンの腕前が尋常でない様はすぐに分かる。

“それとも、もっと高く買ってくれる処に行ったのか?”勢力闘争が起こっている…という情報を聞かせたのは当の兄だ。

下に参加する貴族の名前が細かな字で載っている。

アルゴス人の名前の綴りはややこしい。

“見づらい”眼に被さるベールと包帯が邪魔で、ずらした。

「ほう!」腕を掴んでいた兵士が驚きの声を上げた。

「お前の顔は主人から焼きごてでも当てられたか、戦に巻き込まれた傷でもあるのかと思っていたが…そうか、荒くれ共に拐かされないようにわざと顔を隠してたんだな?」

「?」ややこしい言葉は苦手だ。それよりジンガラ語だって読み書きは不得手なのだから何度も目を通さないと張り紙の中身が把握しきれない。

無視して張り紙を振り仰いだ。

単語の綴りと意味を懸命に思い出す。

その拍子にベールがさらにずれて、肩まで剥き出しになった。

やはり皮膚病ではない。

「おい、お前。ちょっとそれを取ってみな」

兵士が包帯の端を握って引っ張った。

「あっ!」張り紙に夢中になっていたシェラムは慌てて顔を背けたが、両腕を掴まれ、前後左右に男達がひしめいているために逃げられなかった。

漆黒の髪に透き通る肌が夕陽を弾いた。

影を落とすまつげの下に黒曜石の瞳が輝いている。

うっすらと紅潮した頬は桃花を思わせ、通った鼻梁の下にはふっくらとした唇が紅く濡れていた。

「すげえ…」男達が息を飲んだ。

腕を押さえていた兵士は間近に現れた美貌に呑まれ、一瞬力を緩めた。

その肩を掴んで、上空に飛び上がった。

塀の窪みに指をかけてよじ登る。

その足が掴まれた。

「降りてきな、べっぴんさん」

「順番がくるまで可愛がってやるよ」

「おい、待て!こいつは屋敷で預かる。お前らは手を退け」

「何言ってやがる。中に連れ込んで抱こうたってそうはいかないぞ」

「そうとも、ここはまだ屋敷の外だ。何をしようと俺達の勝手だ」

「お前らはウチの屋敷に応募してきてんだろう?だったら温和しくそいつを渡たせ」

“ガイーッ!揉め事になりそうだよ!どうしよう?”引きずり下ろされまいと塀に縋っている指が外れそうだ。

ベールが引っ張られた。

「あっ、それはガイが!」外に連れ出してくれた兄が“被れ”と言った――初めて得た大事なモノだ。

塀を飛び退きざまにベールを握った男の首筋に蹴りを入れた。

倒れる腕からベールを奪い取る。

「温和しくしろ!」繰り出された腕をかいくぐり、みぞおちを肘で抉った。

覆い被さってくる男達を片っ端から地に叩きつけた。

襟が破れて肩先から背の半ばまで白い肌が露わになっている。

その胸乳が大きく波打って息が整わぬ事を示していた。

拳をかわしてのけぞった首筋に一つ、緋色の痣が浮かぶ。

それは昨夜の男からの愛撫の痕に違いない。

気負っていた男達を欲望の頂点に押し上げるには十分過ぎるなまめかしさだった。

“抱きてぇ!”股間が突っ張る。

こいつを倒した者が奪える――戦場で略奪を繰り返して生きてきた格闘士達には暗黙の了解があった。

我先にと拳を繰り出す。

蹴りが襲う。

クルリクルリと避けながら、相手の内に飛び込んで一撃で仕留める。

何と淫靡で艶やかな戦いだろう。

乱れた髪の間から睨む目つきすら淫蕩に見える。

蹴り上げる瞬間にチラリとのぞく股間も上下する胸乳も煽情的で目がクラクラする。

“どうせ、揉めるんならこれくらい”適当に切り上げて逃げるつもりだったから広場の方に向かって乱闘を進めていく。

そういう“つもり”だった。

だが相手は格闘技を生業にしている奴らだ。

いきなり現れた極上の獲物に我を忘れて飛びかかってみたが、かなり手強い。

彼らは輪を縮め、男娼の動きを封じようとした。

足下には倒された男達が倒れている。

足場がどんどん狭くなる。

影の如く跳び回っていた男娼の動きが徐々に見切れる程になった。

「おい、何の騒ぎだ」騒ぎを聞きつけてバシリスの私兵達も武器を携えて門から繰り出してきた。

「これからお客様が来られるんだぞ、さっさと門の前を開けろ」騒動の中に自分達の同輩も加わっているのに気づく。

「何だ、あのガキは?」

「おお、捕まえてくれ。今夜は楽しめるぞ」

「なるほど…」長槍を持った兵士を先頭に新手の…それも武装した兵士達が最前列に出てきた。

“冗談!これじゃキリがない!”再び息が乱れ始めた。

背中に負った愛刀に指を伸ばす。

“仕方ない、兵士は剣を持ってるし…”素手には素手が幼い頃からの父の教えだ。

長槍は鞘が被っているし、どの兵士も剣を抜いてはいない。

“やっぱり卑怯かな”一瞬、躊躇したがこのままでは包囲されて逃げ場を失う。

“やむを得ない”長刀の柄を握った。

「退け!」その時低い声がした。

「母太后(ぼたいこいう)陛下の行幸である。門を開き道を空けよ」

「ああ、いかん!」あとから現れた兵士達に動揺が走った。

主人を訪ねてくる客が思いの外に早く着いてしまった。

「さあ、どけ」

「ほら、そっちの伸びている男を脇にやれ」

今までモノにしようと舌なめずりをしていた男娼はそっちのけで大慌てで場を取り繕う。

その兵士達と背が違わぬほどに長身の女…多分女だと思うが革のスカートに幅広のベルトを締め素肌に直接甲冑を付けた戦士が辺りを睥睨しながら行列の先頭を行く。

筋肉が盛り上がり黒光りする肌に短く刈り込んだ髪、肘から手首までを鉄の手っ甲で覆っている。

彼女はクシュ人であった。

後に続くのはみな男の戦士だからアマゾンなのは彼女一人らしい。

「あれが死神デリラだ」

「クモント随一の戦士」

一列の壁となって格闘士達を外に押しやる兵の間から囁きが起こる。

「お待ち…」その時遙か後方にあった輿の中から声がした。

“死神デリラ”と噂された女戦士が駆け戻った。

「陛下、何事で御座いましょう?」

「気が変わりました。今日の訪問は取りやめます」

「は?」

「その代わりあの少年を召し連れなさい」

「あ、あの陛下…」

「輿を戻すように…」隣に付き従う女官が女主人の意を受けて、輿を担ぐ八人の男達に指示を伝えた。

彼らもクシュ人だ。筋骨隆々と逞しい躯に生成の腰布が黒光りする肌を際だたせる。

デリラは去っていく輿に深々と頭を垂れた。

これも輿に乗っていた女官長が、バシリスに訪問の断りを入れるためにしずしずと門の内に入っていく。

デリラは舌打ちすると、壁際で油断無く身構えた少年に歩み寄った。

「おい、お前。陛下がお召しだ。付いて…」

夕陽が照らし出す美貌に息を呑んだ。

白い肌がカーマインに染まり、うねる髪が陽を弾く。

あんぐりと口を開けたまま見惚れる。

どこの国の…?初め見る人種だった。

ただ美しいだけではない。

女を捨てた自分ですらゾクリとするほどの艶やかさを持ちながら、触れる者一切を拒む高潔な美だ。

「貴女、クシュの人?」少年は警戒を解かぬままクシュ語で訊ねた。

魂を抜かれたように見入っていた女隊長は、その相手からいきなり問いかけられて慌てた。

「お前はクシュ語が話せるのか?」デリラもクシュ語になる。

「少し…アルゴスの言葉よりは解る」チャドとの会話は全てクシュ語だった。

「貴女、今なんて言った?もう一度教えて」いきなり現れたこの一団がかなり高位の偉い人である…という事は見ていて分かった。

「主人が招いている。お前を連れて行く」

「……………」他にここを脱する手段はなさそうだ。

偶然とはいえ救いの神だ。

あともう少し彼らが来るのが遅かったら兵士を斬り殺して逃げただろう。

そうしたらお尋ね者になってメッサンティアにはいられない。

「わかった、行く」小脇に手挟んだベールを被った。

デリラはホッとした顔で手を挙げた。

配下の戦士達が眦(まなじり)を決した男達を追い立て、道を空ける。

男達の欲情と怨嗟の視線を浴びながら、デリラと共にバシリスの屋敷を去った。


「ふん、年増の気まぐれには付き合いきれん」

執事から“クモントの御館(おやかた)様が急に門前でとって返し、訪問の約束を反故にしてきた”…という報告を受けたバシリスは忌々しげに机を叩いた。

広間には金銀の盆に山海の珍味が並べられ、東洋から運ばれた白磁の皿を大切そうに抱えた給仕達が居並んでいる。

楽士達は楽器の音合わせを終えて所在なげに椅子に座り、厨房から漂ってくる美味そうな匂いに気もそぞろだった。

格闘士を選抜していた兵士からは塀の外で起きた乱闘は報告されなかった。

集まった男達と男娼を争って騒ぎを起こしたなどと…揉み消すために今日応募してきた格闘士は全員採用し、身銭をきって大盤振る舞いをしている。

だからクモントの領主が門前で引き返したのは女特有の心変わりと思っていた。

「あの色惚け女、ちょっと前なら尼僧院にでも送ってやるところだ」

「だが、今はゼノンだけじゃなくラスカリス帝とのゴタゴタもあるから母親であるイルマに手出しはできない」独特の抑揚のアルゴス語だった。

食べ手がいなくなったご馳走を、片端から口に運び、葡萄酒を壺ごと飲んでいる。

バシリスは咎めもせずに、別の壺から葡萄酒を注がせた。

「そうともイジュ。イルマ母太后(ぼたいこう)陛下と威張りくさってクモントの領主に治まっちゃいるが、一度だってまともな結婚はしていない。王妃の冠なんぞ被った事のない女なのだよ」

「確か前の前の王様の妾だと聞いたが…」厨房から運ばれてきた暖かいスープを取り分けるように給仕に指で指図する。

主人の手前この傍若無人で不作法な若者の態度に眉をひそめる事もできずに、素直に従う。

「お前の父親…アムラがアルゴス海軍の傭兵部隊にいた頃の話だ。美貌を詠われたイルマが後宮に召された当時、私は貴族といっても地位が低く、宮廷の奥まで入ることはできないし、領地も荒れ野で貧しい生活を送っていた。アムラと組んで海賊に渡りを付け密貿易を初めてからとんとん拍子に出世したのだが、アムラはさっさとアルゴスを去ってしまった」

「覚えてるさ、俺もその密貿易船に乗ってたんだから」

「そうだったな。あの時このくらいの子供だったイジュ・アムランがこんなに立派な男になってウチに借金をしてまで船を買ったとは…あれから二十年、いやもっと経つのか…まさにベルの神のご加護だ。ところでアムラはどうしている?」

「アンタの知ってるアムラはとうの昔にくたばったよ」グイと葡萄酒の壺を差し上げ口を付けて飲み干した。

ふん…と老獪な大臣は鼻を鳴らした。

「……イルマの話の途中だったな。今のラスカリス帝は先々代のゴペル帝との子だ。そして次子のロマリオ公は先王ティクネス帝の子…と言っている」バシリスは声をひそめてヴァイロンの傍らに寄った。

「確かに現国王はゴペル帝の庶子かもしれんがロマリオは本当かどうか…髪と目の色、顔つきが前王と似ている性奴を複数購って“種付け”したという噂がある。イルマはゴペル帝が亡きあとも後宮に残って新たに王に選帝されたティクネス陛下を籠絡した。十四で後宮に入って十五でラスカリスを産み、十六で後家になったイルマにすれば幼子の後見が欲しかったのかもしれんが、さすがに王妃側室がこぞって騒ぎ立て、選帝候も糾弾したので、クモントに所領を与えて後宮を放逐した。それからしばらくして懐妊の知らせが届いた…というわけだ。転んでもただでは起きない…若いに似合わず策士だろう?母太后といってもまだ三十半ばの女盛りだ。クモント城にはイルマ陛下が囲われた美男の噂が絶えない。ラスカリス帝は母君の醜聞を嫌い、弟君のロマリオ公とも不仲だ。そしてやっかいな事にロマリオ公は次期皇帝の地位を狙っておられる」

「世襲じゃないんだろう?兄から弟に王冠が行かないようにすればいいじゃないか?」

「そうとも世襲ではない。だから継げる。あの二人は父親が違う。ゴペル帝の血筋の次はティクネス帝の血脈…実に理に適っている。それに年齢からいって他に候補がいない。選帝されるのは成人男子に限られている。まあこれも噂の域を出ないのだがイルマは凄腕の奴隷戦士を暗殺者に仕立てて正嫡、庶流を問わず対抗馬になりそうな子供を殺させた」

「そうか…」

富み栄えていると思っていたアルゴスでは父親違いの兄弟が皇位を巡って反目していた。

「今はラスカリス帝もロマリオ公も疑心暗鬼。互いに暗殺者を送りあっている。イルマは現帝の母として母太后を名乗っているから嫌われていてもラスカリス帝が大事だし、ロマリオ公は傀儡として必要だ。全くしたたかな女だよ」

兄弟で命のやり取りをしているのか…

じっと左手を見た。

自分とシェラムは母が違う。

それでも争った事は一度もない。

シェラムが全てをこちらに譲っているからだ。

ラカモンの環(リング)が灯火を弾いて蒼く光っている。

“俺はどうしてシェラムの首を…”

指輪を抜こうとした。

ずらすこともできない。

いつからか、指輪は皮膚に張り付いたようになっていた。


大理石の湯殿に並々と湯が溢れていた。

一度に数十人が入れる湯船から湯に混ざった香水が甘く香り、広い浴室に漂う。

真っ白な大理石だけで建てられた浴室は立ちこめる湯気のせいだけでなく、その広さで遠くが霞んでいた。

そこに十人ほどの全裸の少女が跪いて“客人”が上がるのを待っている。

女主人が伴った“客人”の姿に始めはたじろいだ。

貴族としての身分は低いが、深窓の令嬢である彼女たちにはオレンジのベールを被った少年は“男娼”ではなく“乞食”に見えた。

だがボロボロのベールから現れた容姿の美しさにその場に凍り付いてしまった。

「何をしている。お客様に湯浴みの用意を」女隊長のデリラに一喝されて恥じらいながら衣服を脱いで浴場にいざなった。

「揃いも揃ってグズばかりだ」奴隷…それも性奴から剣闘奴、さらに兵卒として戦地にかり出され、敵だけではなく味方の兵士からも陵辱されながら幾多の戦いに手柄を立て、遂に自由民となり、私兵とはいえ皇帝の実母の兵隊長にまで成り上がってきた黒人女はこのウブな少女達が吐き気がするほど嫌いだった。

貴族出身というちっぽけなプライドと潔癖な処女性で奴隷上がりのデリラに蔑んだ視線を浴びせる。

それは女官長初め、即近の侍女達と同じ…自分達は彼女等と同じく支配する側だと思っている。

ちゃんちゃらおかしい。

行儀見習いの、侍女の…といったところで売られてきた事に変わりはない。

いずれ女主人…イルマ母太后の利権拡張の道具として権力者の慰み者に興じられる。

だから屋敷に上がった時から浴室と寝室では衣服を纏うことは禁止なのだ。

最初は抵抗して恥じらうが、周りは女達しかいないので、段々に羞恥が薄れ、大胆な…年端もいかぬ令嬢とは思えぬほどに破廉恥な媚態を女官長から直々に仕込まれる。

他の女官達も張方を使って指技から舌の這わし方まで…肝心な事は教えぬままに手管だけは市井の娼婦に仕立て上げる。

尊敬する母太后陛下の意図で、同じ側にいると思っていた女官長がその橋渡しをしていると知ったら…

母太后も女官長も女の醜さに満ちている。

あいつらもそんな女の仲間入りをするのだ。

ざまを見ろ!女の地獄を存分に味わうがいい。

意に染まぬ男に力尽くで処女を奪われ、毎夜違う男の精を注がれる。

逆らえば私兵の慰み者に堕とされる。

やがて誰とも分からぬ相手の子を孕む。

堕胎した躯がみずみずしさを失えば、奴隷商人に下げ渡され何処とも知れぬ地へ売られていく。

イルマ母太后の資金と人脈は女衒まがいの手法で出来上がった。

自分はもう“女”を捨てた。

好むと好まざるとに関わらず、剣と腕力で出世する道を選ぶしかなかった。

剣闘奴に買われた時、胸は邪魔だと抉られた。

従軍中に敵の捕虜になった時、いたぶり目的の拷問を受けて子宮が破裂した。

“女”を捨てたのではない…無理矢理に奪われたのだ。

奴隷でも好きな男と添い遂げ、子を産み育てる女は大勢いる。

表向きはそんな女を憎み、心の底では羨んでいた。

だが今夜のデリラは違った。

あの少年は眼前で恥じ入ることなくベールとトゥニカを脱ぎ、剣闘士の自分も見たことがない細身の長刀と共にこちらに差し出した。

「これ大事…預かって」なめらかではないが少年のクシュ語は暖かい響きに満ちていた。

自分が女主人に命じられたのはここまでだ。

長剣と襤褸を胸に抱いて自室に下がった。

今、組紐のベルトに結ばれた革袋と共に自分の腕の中にある。

少年の姿態は少女達が我を忘れても仕方ない程に美しく艶めかしかったし、周囲を睥睨する品と威圧感があった。

自分が自我を保てたのは、間近で素顔と半分露出した肌を見ていたからだ。

そっと長刀の鞘をはらう。

「おおっ!」片刃の剣であった。

吸い込まれそうな銀の波紋の上に紫銀の絵とも文字ともつかぬ文様が浮き上がっている。

そこに身をくねらせる白い肌を見たような気がした。

「あ…」いきなり股間に熱い感触があった。

“馬鹿な…”狼狽して片手をスカートの中に入れる。

引き抜いた指には白濁した愛液がねっとりとからみつき、灯火の明かりに光っていた。

堪らなかった。

寝台に倒れ込んだ。

顔をベールやトゥニカに押しつけ、胸一杯に匂いを嗅いだ。

大きく足を開き、左指を三本潤んだ中に突っ込んだ。

右手で抜き身の剣を差し上げ、銀の刃に自分の痴態を映す。

「お前の名は…何と?…」聞いておけばよかった。

メッサンティアのバシリス邸からクモントの城まで母太后の行列の最後尾を歩きながら、彼は一言も口をきかなかった。

少年は湯浴みの後で母太后陛下の寝室に上がるだろう。

旅役者に行商人…イルマが引きこむ男達は見目よいだけでなくこの国に身寄りも知人もいない異邦人に限られていた。

貿易国家のアルゴスには眉目秀麗な旅人など探せばいくらでもいる。

イルマの傍らに侍り、寵愛を受け、その秘め事さえも知った愛人達は女主人が飽きると共に葬り去られた。

あの少年も…だがアイツは強い。

折り重なって地に伏した格闘士達の姿を思い出す。

構えに隙が無かった。

それに今までの男達とは若さと美しさの度合いが違う。

艶やかな裸体…息を飲む美貌…骨抜きになるのは母太后の方ではないか?

今ごろは陛下の寝台で…そう思っただけで指に絡む股間の粘りは一層増した。

ヌチャッ…クチャ…淫靡な音が“死神”と異名をとるアマゾネスの私室に響く。

膣から腕を突っ込まれ子宮を握り潰され悶絶した。

いずれ死ぬと推測した敵兵は散々に嬲り、いたぶった後で全裸の捕虜を放りだした。

やがて意識を取り戻したデリラは強靭な体力と不屈の精神で激痛と出血に耐え、奇跡的に敵陣を脱出した。

それ以来性欲など一切起きなかった。

躯目当てに這い寄ってくる男達は味方でも上官でも殺した。

金だけが心の支えになった。

いくら身分を保障されても、黒人の奴隷上がりが自由民として生きて行くには金が要る。

だから…

母太后に誘われるままに私兵隊の隊長を引き受け、身辺警護で付き従った。

そして命じられるままに報酬さえ貰えば子供だろうが老人だろうが暗殺した。

それなのに…

あの男娼がデリラの“女”を呼び覚ました。

性欲の封印を解いた。

熱いほとばしりが止まらない。

何度達しても治まらない――逆に淫欲は爛れたように酷くなるばかりだ。

ああ、指ではもどかしい!

長刀の鞘を握って突っ込んだ。

少年が使っている刀…アタシに預けた刀…そう思った途端、デリラの躯は弓なりに反り返り、大きく広げた股間から熱いしぶきを吹き上げた。


“悪趣味だな…”出来上がった仕度に鏡を眺めて溜息をつく。

少女達が恥じらっていたのは最初だけだった。

躯を洗い終えた“客人”が湯煙の中から現れると酒に酔ったようにフラフラと立ち上がり、女主人が見立てた装いを着せ掛け、髪を結った。

そのままいつものようにイルマが待つ寝室に案内する。

いや、いつものようにではない。

浴室から出たのだからせめて肌を隠す衣は身に着けねば…しかし少女達は衣服を纏う事を忘れていた。

全裸の少女の一団が夢遊病者のように中庭を歩いていく。

警邏の兵達が夜陰に白く浮かび上がる裸体を見つけ、好色な視線を送る。

視線は宙をさまよい、悲鳴どころか一言も言葉を発っしない。

舐めるような目つきや囁かれる猥雑なヤジにも恥じらうことなく兵隊の間を漂っていく。

中庭に満ちた淫風は最後尾に現れた少年の肢体で爆発寸前にまで高まった。

透ける金糸のトーガ――だがその布は腰に一巻きされただけであとは片方の胸を隠すだけだ。

本来なら首下から膝上までを覆うはずの幅広の布は肘にかけられて、あとは後ろになびいている。

普段なら垂涎の少女達の裸体が急に貧相なモノに見えた。

なまじ一部の肌が隠され、篝火に近づく度に透ける姿態はよけいに淫らに見える。

髪は生花の花輪で留められ白い肩から背中までが露わに剥き出しになっていた。

少年が動くたびに灯火がつくる陰影が肌に微妙なうねりを見せる。

それが異様に艶めかしかった。

容姿だけではない、際だっているのはその美貌だ。

灯火の煌めきを映す瞳に長い睫毛が陰影を刻み、唇も濡れたように紅く輝いている。

気を引く仕草をするわけでも、媚を売るわけでもない…それでも妖艶で淫靡な気配は常軌を逸している。

一列に並んだまま、魅入られて立ちつくす兵の間を衣擦れの音が通り過ぎていく。

だが股間を起立させて迎えた男達はすれ違いざまにその瞳に気圧された。

玲瓏典雅…人を寄せつけぬ気高さと威圧感――だがそれすらも凄絶なまでに美しい。

もしも淫気に犯されていなかったら、あまりの神々しさに平伏したかもしれない。

彼らは一様に、相反する魅力を秘めた“客人”…いや、今夜から母太后陛下の“愛人”となる少年の後ろ姿を呆けたように見送った。

呆けたのは兵だけではない。

全裸のまま現れた少女達を叱責しようとした女官達が、金糸に浮かび上がった少年を見た途端ポカンと口を開けたまま見送ってしまい、扉の奥で待つ女主人に来訪を知らせることが出来なかった。

長い廊下の突き当たりで少女達は振り返った。

シェラムは一瞥すると扉を開けた。

金の布端がひらめいて扉の奥に消えた途端に少女達は瘧に罹ったように震えだし、分厚い敷物の上に倒れ込んだ。

廊下の入り口では本来は寝室で女主人と“愛人”の世話をしなければならない女官達が裾をまくり上げ、陰部をまさぐり、胸元から差し入れた指で自らの乳房(ちぶさ)を攻めている。

中庭の兵士はとっくに得物を放りだし、下履きをずらして逸物を扱いていた。

城の最奥は至る所で淫靡な喘ぎ声に彩られた。

そして最も激しい嬌声を上げたのは寝台で組み敷かれたクモント城の主、その人だった。

長子ラスカリスが念願叶って帝位に就くと、母太后陛下とまつりあげられ、再び夢に見た表舞台に甦った。

だが世間の注目が集まると、今までのような退廃の生活は送れない。

もてあました性欲は、通りかかる旅人に向いた。

かつて後宮第一の美姫であったプライドからか、審眼にかなった美形しか召さない。

常に側に侍らし奉仕させる。

本来なら見てはならぬ物、聞いてはならぬ事まで知るようになるがイルマは気にも掛けなかった。

飽きれば、後腐れ無く殺せばいい。

クモント城に男のハレムがあるという噂は起きたが、囲われた者の末路までは誰も知らなかった。

だから世間ではイルマのハレムには何十人という男が侍っていると思われている。

実際は愛人は常に一人…

新参の少年の代わりに、朝まで褥を共にした青年はとっくに斬り殺され、城壁の隅に埋まっている。

象牙の乳房が汗を弾いて踊った。

両の手でも片方の乳房が抱えきれない程の豊満な胸乳だ。

腰は細く締まっているが、臀部から太腿にはたっぷりと脂がのっている。

メッサンティア後宮でゴペル帝の寵愛を一身に受け、老齢の皇帝から子胤を得たのはのは遙か二十年以上も前の事だ…しかしイルマの美貌は衰えることなく、逆に年を経て増した色香の分、さらに輝きを増していた。

青年皇帝ティクネスを一夜で籠絡した手練手管はその後の政争を乗り切るために抱かれた大貴族相手に、より磨きが掛かっている。

いわば性技と躯で支配階級を手玉に取ってきたイルマが、この少年にいいようにあしらわれていた。

バシリス邸の塀外で舞うように戦っていた。

屈強な格闘士をバタバタと斃し、突きつけられた槍先にも怯えず…なにより心を奪われたのはその美貌だ。

一目惚れ…といってしまえばそれまでだが、彼女はその瞬間、すでに身も心も捧げて信奉したといっていい。

少年は冴え冴えとした眼で見下ろすだけだ。

それだけで背筋が震える。

「ああ…お願い…こちらに…」母太后陛下が自ら絹をかなぐり捨てて誘う。

寝台に腰掛け、その顔を間近に見た時から立場は逆転している。

主人は少年だった。

自分は情けを掛けて頂く…抱いて貰う身なのだ。

何事も“お願い”するのが当たり前だと――それでも拒否されれば我慢して耐えるしかないのだと。

「口を吸っても構いませぬか?」声が震える。

少年は黙って頷いた。

そっと少年の胸乳に手を這わせ、唇を重ねた。

恐る恐る差し入れた舌が絡んだ。

息が出来ぬほどに吸われる。

少年の舌先が口腔の内を自在に動き回り、唇が噛まれた。

その真紅の唇が首筋を這い、耳朶を甘く咬んだ…までは覚えている。

あとは夢うつつだった。

勃ち上がったままの乳首が吸われると、遠い日に赤子に乳を吸われたと同じ疼痛が襲った。

いや、子に乳を含ませた事はない。

身分の高い貴族は自分で授乳や子育てをするものではなかったから、ラスカリスもロマリオも生まれてすぐに乳母に預けてしまった。

飲む子を失った乳を侍女に搾乳されながら、疼きに耐えた。

組み敷かれても張りを失わず巨大な球となった乳房から、その疼きがじわじわと広がっていく。

疼きは主人の指の這い進むままに――臍の窪みから高く盛り上がった葎…やがて広げきった陰唇の奥に集まっていった。

寝台の四隅に灯火が置かれている。

いつもなら新たに囲った男の隅々まで眺め、味見する――その為寝室の明かりは煌々と照らされ、寝台の帳の内にも四隅に燭台が置かれていた。

明かりを受けて太腿から膝裏までもヌメヌメと輝いている。

溢れかえる蜜液は少年の肌も汚していった。


既に陽は高く昇り、差し込む光で帳の中も明るい。

だが、寝室は延々と続いた情交のために、独特の濃厚な匂いに満ちていた。

後宮の時から付き従っている女官長のリシュアですら洩れ聞こえる啜り泣きと意味をなさぬ喚(わめ)き声に気圧されて室内に入れない。

まさに前代未聞なのだが、あの少年が相手では…頭の何処かで“特別な事態”であると認識している。

「お声が掛かるまで奥の間へ参じてはならぬ」朝食の仕度に余念がない係の者達にそう命じて様子をうかがっている。

その女主は性の下僕と化していた。

朝の光に浮き上がる象牙の肌には薄赤い痣が転々と付いている。

身を起こすのさえ怠い。

腰が立たなかった。

だがその紅く爛れてはみ出した陰唇から精が洩れる事はない。

少年は一度も洩らさなかった。

舐め咥え、扱いて、せがんで懇願してやっと挿入はしてくれた。

でも達するのは自分ばかり…ありとあらゆる体位で刺し貫かれながら、半狂乱になった。

何度も失神を繰り返し、殆どの記憶がない。

ただ躯は快楽を覚えている。

“わたくしの奉仕では足りないのだろうか?この躯では満足頂けないのだろうか?”

豊満な乳房をゆすり、少年の胸乳に唇を這わせた。

「お名前を…お教えください…」絶叫の果てに枯れてしまった声でイルマは尋ねた。

質問してから、まだ一度もその声を聞いていない事に気づいた。

アルゴスの言葉が不自由なのではないか――声を掛けさせたデリラはそう報告した。

「クシュ語ならば話せます」あのアマゾネスだけがこの方の声を聞き、言葉を交わしている。

胸の奥に嫉妬の火が点った。

何がクシュ語だ、汚らわしい。奴隷の言葉ではないか!

ゴペル帝の寵愛を受けていた時、東洋から大海を渡ってきた商人達に謁見した。

この瞳…見つめられるだけで躯の裡から溶けていく…エキゾティックな容貌は東洋の香りがするが、その肌は神殿に籠もる巫女も適わないほどに白く透き通っている。

北方民族の暮らす高山にはこのような肌をした者がいると聞く。

東洋からの異邦人か、北からの流離人か…できればクシュ語ではなくアルゴスの言葉で話したい。

少年は沈黙したままだ。

「言葉は解りますか?」通じないのだろうか?だが通訳を置けば密言が洩れてしまう。

二人だけの愛の語らいを誰にも聞かれたくない。

イルマは縋る思いで答えを待っている。

シェラムは思考中だった。

あの砦では“リンガ”と名乗ったから、また同じ呼び名でも構わないが、もしサンダー河で解放されたアルゴス人が何処かで名前を聞きつけたら…砂漠の果てにあるザモラの淫神の名など名乗る者は二人といまい。同一人物だとすぐにばれてしまう。

だったら――「ベリ…」

「ベリ様…」陶然とイルマは繰り返した。

女の名前だがアルゴスの南に広がる黒海湾に鳴り響いた伝説の名だ。今まで船で呼ばれていたから抵抗がない。

「どこからお出でになったの?」今度は少し砕けた口調だ。

「バラカ諸島…」ああ、アルゴスの言葉が通じる!イルマは満面の笑みで頷いた。

そうだ…バラカならば、ジンガラ語が堪能なのでは?

「バシリスの館に何のご用?」今度はジンガラ語で尋ねてみる。

「借金のカタに取られた馬を請け出しに行った兄が戻らない…探しに行って騒ぎに巻き込まれた」シェラムのジンガラ語は独学で平坦な抑揚だが、違和感はない。

“なんだ、ジンガラの言葉で話せばいいんだわ”――貴婦人の嗜みとしてジンガラ語にアキロニア語は読み書きも習ったし、オフルとコスの言葉も日常会話程度ならこなせる。

これでこの方はわたくしだけのモノ――そんな優越感が湧く。

城に囲った愛人が所有物であるのは当たり前なのに…

以前寵愛した青年が侍女と逢い引きして駆け落ちを謀り、共に拷問死させた事があったが、それは城内の誰もがイルマのモノである証だった。

この少年にはどんな侍女も接する事は許さない…いや男娼ならば男も危ない。

誰であろうと…言葉を掛けるはおろか、一瞥すら許さない。

「わたくしと共に朝の湯浴みを…お身体を洗ってさしあげます」よろめく躯を少年が支えてくれた。

「おお、ベリ様…」抱きついた母太后の頬は少女のように赤らんでいた。


イルマがバシリス邸を訪れた目的は張り紙にあった例の『皇帝陛下主宰の闘技会』だった。

“デリラをリーダーに一団を組んで参加したいのだ”…とイルマは注がれるものを次々と飲み干しながら話し続ける。

薬草や果実から摂った薬湯で、殆どが若さと美を保つためのものだ。

二人の前の卓には厨房がひっくり返る騒ぎで整えられた豪奢な料理が並んでいる。

女主人の気まぐれは珍しくないが、朝から…しかも迎え入れた愛人の為に贅を尽くした皿を並べるなど――

今までなら薬湯を注ぐのは愛人の仕事だ。

運ばれる料理を皿にとりわけイルマの口に運ぶのも…今度の“愛人”の場合は全く逆であった。

女官長はじめ女官達は呆然と眺めていた。

愛人に何もさせない。

させないどころか…

食欲を示さない愛人に「少しでも召し上がれ」と自ら口に運んでやる。

イルマにすれば、そうしないと少年は食べないのだから仕方がない。

確かに稀代の美少年だとは思う。

夜中聞こえていた寝室の嬌声から女主人が骨向きにされたのも、認めざるを得ない。

だが、侍女や給仕の前で、このていたらくは…情けない程の有様だ。

「そのお役目はこちらで…」少年の口に食事を運ぶのを止めようとしたリシュアは、仕えて二十年目にして初めてイルマの逆鱗に触れた。

「下がりゃ!ベリ様のお世話は全てわたくしがするのじゃ!」

もはや、誰も口を挟めない。

少年が尋ねるままに、闘技会の詳細をジンガラ語で得々としゃべる。

専門の格闘士を雇わないと、私兵だけでは予選突破もおぼつかない。

その為応募者が殺到しているバシリス邸から“格闘士を譲って貰えないか…”と交渉するつもりだった。

勿論、デリラの審眼に適った者を…だ。

バシリスにすれば自分が報奨金で集めた猛者達を何故横から掠われねばならぬのか…と臍をかむ思いだったが、そこは低い身分から成り上がってきた老獪さで、訪問を快諾した。

皇帝の実母に恩を売っておくのもいい…最高の強者は屋敷の奥に隠した。

かの蛮人の子を将に据えれば、敗れることはない。

だがその打算はイルマが格闘士の山を築いて奮戦する美貌の少年を見つけた事で無駄になってしまった。

「勝ち残れば褒美が貰えるの?」

「もちろん…賞金に傭兵隊長の地位、それに領地…奴隷は自由民に、自由民は貴族に…何でも望みほうだいよ」イルマは身をくねらせた。

「わたくしは貴方を闘技会に出そうと思ったのだけれど、やめます」

「なぜ?」

「綺麗な肌に傷が付いたら…想像しただけで躯が震えるわ。皇帝が下される褒美なんてその程度…わたくしだったら、もっとたくさん…いいえ、わたくしの持っている物全てを差し上げてもいいわ」一人ぶつぶつと呟く。

「でもそれじゃ選帝候になれないんでしょう?」

あの張り紙にはそんな事も書いてあった。

この国の政治(まつりごと)の制度についてはヴァイロンから大体のあらましを聞いていた。

闘技会で優勝した者の雇用主は次期帝王を選出する権力者の一人になれる。

強い格闘士は権力の中枢に集まり、自分を少しでも高く売り込む。

権力者も自分の名前を売る媒体を破格の報酬で雇う。

いわば権力と財力がなければ勝ち残る格闘士のパトロンにはなれない。

故に、おのずと選帝候の資格になってしまった。

「わたくしは皇帝と次期皇帝…いえ下の息子はまだ候補の一人だけど…でも二人の実母でありながら選帝候ではないの。理不尽だと思わなくて?みんなで寄って集ってわたくしの力を削ごうとしている。母太后陛下と呼ぶ者が何人いるか御存知?殆どの大臣貴族がクモントの御館様と呼ぶのよ、無礼な!でも闘技会で優勝して権利を獲得すれば誰にも文句は言わせないわ」

憤懣やるかたなく檄高しているうちに新たな権力欲に目覚めたイルマは、改めて隣に坐る愛人の美貌を間近で鑑賞した。

「でも今のままじゃ負けるんだよね…」深い陰影を落とす睫毛に彩られた蠱惑の眼差し…

「デリラを呼んで…私が出て勝てるのならば出てもいい…」紅を引いたように濡れて光る真紅の唇…

「いえ、よろしいのです。格闘士は別途探させますから…」愛しい人の口から自分以外の女の…デリラの名が出た事に軽い嫉妬を覚えたイルマは頑なに拒んだ。

「デリラを呼んで…イルマ…預けた物を持ってこさせて…」

リシュア女官長が眼を剥いた。

“イルマ――母太后陛下を呼び捨てにして…”彼女は後宮に入ったイルマを第一の寵姫に仕立て上げ、母とも師ともなって裏表の別なく支えてきた。

息子達の乳母の選択から、果てはそのライバルとなる子供を暗殺する刺客の手配まで…

“この少年…いや男は危険だ。イルマ様は自分を無くしておられる。このまま好きにさせては…”リシュアは少年を睨んだ。

「ベリ様の命です。誰かデリラを呼んでお出で…その預けた物も忘れぬように…」しかも呼び捨てされた当の主人は名を呼ばれて嬉しそうだ。

逆に相手を“様付け”している。

これでは城の…いや皇帝の母なのだから国中の者がこの男娼を“様付け”で呼ばねばならない。

一介の“おんな”になってしまった女主人には内外への影響など、どうでもいい事だ。

ただただ少年の愛を独占したい――それは十四で後宮に入り、祖父ほども年が違う皇帝によって恥毛も生えそろわぬ躯を貫かれ処女を散らせた時から、リシュアの薫陶の元にひたすら権力におもねって生きてきたイルマの初恋だったのかもしれない。


イルマは「闘技会についてならデリラだけでは心許ない」――との理由で呼びに行きかけた女官を止め「私兵の兵舎に自らが出向こう」と言い出した。

今朝の装いは東洋から送られてきた絹で仕立てたキトンだ。

胸元は真紅――豊かな白い胸をギリギリに覆う絹地は裾に向かってぼかしになっている。

結い上げた濃い金髪に薄紅のベールを掛け、長く引きずったそれを侍女達が捧げて付き従う。

傍らで腕を組む“ベリ様”はイルマが見立てた黒い紗であった。

昨夜の金地より裾は長く、上半身もきっちり覆われている。

それでも透ける生地は天空から降り注ぐ光に躯の隅々までもさらけ出してしまう。

目のやり場に困る。

女主人と…この美貌の愛人が歩き回るだけで城内は大騒ぎになる。

リシュアが腰に巻く物を…と黒天鵞絨の上掛けを出してきた。

せめて股間の辺りは隠したい。

少年は恥じらう風も無かったが、あっさりと天鵞絨で広めのサッシュベルトを結んだ。

螺鈿の縫い取りが入った高価な布を臆することなく締める。

最初は自分が眺めたくて薄物を誂えたのだが、こうまで透けると、周りに見せるのが惜しくなっていたイルマも、こういった高級品をさりげなく着こなし、上品な立ち振る舞いをする“ベリ様”に満足して女官長の機転を咎めなかった。

本当に兵舎は大騒動になった。

まだ昨夜の深酒が残っている兵士も多く――その原因は夜半に中庭を通った半裸の少年に当てられたからなのだが、腕が怠くなり腰が重くなるほど自慰しても精が溢れて、何度射精しても萎えることがなかった。

眠れぬままに、最後は浴びるほど酒を煽って意識がなくなった。

だが訪れたイルマ以下女官長すらも驚いたのは隊長のデリラの変わりようだった。

いつもは素肌に革の胴衣か鎧を直接着込んでいる。

それが男物とはいえ、生成のトゥニカを着て、真紅のマントを羽織っていた。

リシュアは近くに寄って、足の先から頭の天辺までをしげしげと眺めた。

女官長の並はずれた人脈は、あらゆる職種に及んでいたから、先の戦で戦功を立てた女戦士が、逆に受けた傷の痛手を理由に軍を除隊になるかもしれないという情報をいち早く掴んでいた。

すぐに軍の人事に手を回し、デリラを引き取った。

アキロニアから呼び寄せた名医に治療させた。

生まれながらの尋常ではない体力と回復力も手伝って、すぐにデリラは元の…いや以前を上回る程の戦力を示した。

それを恩義と思い、イルマの素行に嫌悪を抱きながらも命じられるままに暗殺にも手を染めてきた。

国の内外を跳び回って腕利きの傭兵を集めた。

私兵ながらも城を守る軍隊を組織して、その指揮に当たっている。

付き合いは長い…そんなデリラから初めて“女”を感じリシュアはまたしても眉をひそめた。

無造作に刈り上げられたままの髪も、今日は香油を塗って梳いてある。

“この男女(おとこおんな)もあの少年の毒気に当たったというの?”リシュアはデリラから“生臭い”気配を感じ、足早に広間の隅に退いた。

手塩に掛けて育てたイルマの後ろには戻りたくない…何故なら一番に“生臭い”のは当の女主人だからだ。

「ベリ様がお前に預けたというのは何?」イルマの口調はいつもにも増して高飛車だ。

「ベリ様?」デリラは少年を直視できずに顔を伏せたままだ。

「浴室に案内して貰った時、剣と服と革袋を預けたよね?」しっとりとした声…このクシュ語は、あの少年だ。

「剣とベールとトゥニカだけ返して欲しい」

「持っておいで」女主人は愛人がクシュ語で語りかけた事で、ますます険呑になった。

「…………」顔を上げぬままに自室に下がり、オレンジのベールとボロボロのトゥニカを持った。

そして――白木の鞘に治まった剣を見て頬を赤らめた。

水差しの水で小布を濡らし、鞘の先を拭く。

それでも自分の恥ずかしい匂いが付いているような気がして、直接水を掛けて洗った。

白木が水を吸って木目を浮き立たせる。

そっと胸に抱いて、女主人の待つ広間に向かった。

「ありがと」鞘の半分が濡れていることなど気にも止めずに少年は、襤褸の衣装ごと自分の手に引き取った。

「見せてあげる」イルマに向かってにっこりと…いつもの張り付いた笑みを見せるとサッと鞘をはらって刀身をかざした。

「まあ、美しい!」イルマはじめ女官達は当然とその白銀の抜き身を眺める。

「これは?」無反り、片刃の直刀に驚異の目を見張ったのは副将のウォルゼフである。

「おお、どこの剣だ?」

「初めて見るぞ」

「あの文様は…もしや神剣、魔剣の類ではないか?」だが太陽の反射で文様は刃に呑まれ、はっきりとは見えない。

周りを埋め尽くした兵士達が、もっと見ようと距離を詰める。

「ね、これなら大概の相手はやっつけられるよ」刃を鞘に戻す――例外がいるとすれば…チラリと最愛の兄の顔が脳裏をかすめた。

この剣を振るって戦う私が見たくない?」耳元で囁かれ、躯が震える。

「見たい…」譫言のように呟いた。

「じゃあ、デリラと話を詰めなきゃね…彼女が責任者なんでしょ?」

「ええ…ええ…貴方のお好きなように…」周りにひしめく兵士や女官の存在など気にも留めず…いや誰一人見えていない女主人は愛人の胸に顔を埋め、火照る躯を押しつけた。

耳元に息が掛かっただけで…低い囁きが躯に染み込んで、腰が痺れたように重くなる。

少年の首に腕を巻き付けた。

「もう駄目…我慢できないわ…」爪先立って唇を求めた。

クチュリ…と貪る舌が糸を引く――「…抱いて…早く…」今にも少年のトーガをむしり取って、その股間にあるモノにむしゃぶりつきたくなる。

家来の目など無いも同然の女主人の淫欲を止まらせているのは、誰あろう欲情した相手その人の視線だった。

はしたないと思われる――すでに一晩中、散々醜態をさらし、恥語を叫んでいる。

後宮仕込みの性技を駆使できたのもはじめだけで、あとは欲望の赴くままに少年の陰茎を咥え、舐め、しゃぶり尽くし…裡に治めて一時も離す事は無かった。

今更なのだが、その時は理性が吹き飛んで狂う寸前の高みにまで押し上げられるのだから、意識が朦朧として記憶が無いも同然なのだ。

「わたくしを満足させて…そうしたら後は貴方の随意になさって構わないわ…」頬を赤らめて訴える。

“なんていやらしい事を…わたくしったら…この方に…”だが一度滾った血は出口を求めて荒れ狂うばかりだ。

“仕方ないな”シェラムはチラと前を見た。

躯を硬直させたデリラが、頭を垂れもせずにこちらを仰視している。

「…じゃあ、することしたら、戻ってくるから…デリラ…待っててね」クシュ語で言い終えると、悶えるイルマの背と膝裏に腕を回し横抱きにした。

あまりの淫気にあっけにとられ見送るだけの兵士、女官が正気に戻り、天をつく股間を隠し、膝まで滴る蜜を太腿を擦り合わせて堪える頃には女主人と愛人は再び奥の間に籠もっていた。

デリラも例外ではない。

頬を羞恥で赤らめている。

それが気取られずにいるのは、黒光りする皮膚のお陰だった。

デリラが戦闘奴隷から自由民の勲章を得た記念すべき戦いは“女”を奪われた忌むべき戦いでもあった。

それ以来、いや性奴として陵辱された5才の時から男を受け挿れても一度たりと欲情したことは無かった。

無理やりでも股間を押し広げられ、指や男根を押し挿(い)られると痛みで泣きながらも自然と躯の奥から潤滑の液が湧くようになっていた。

相手によっては舌で愛撫し、花芯の莢を剥き、唾液をなすりつけて、その気にさせようとする男もいた…が気持ちが悪いばかりだ。

痛い方がまだマシだ――余計な事はせずに早く挿入して出すモノを出し一刻も早く去って欲しかった。

ましてや、頬を挟まれて唇を奪われ、舌を吸われた時は…嫌悪で鳥肌がたった。

格闘奴隷として乳房を抉られてからも、客のひしめく闘技場で身の丈が倍近い荒くれ男や、時には飢えた獅子や豹を相手に戦い疲労困憊した躯に、仲間の奴隷達の性欲が襲いかかった。

皮肉なことに女でなくなった忌まわしき事実は、女であるが故に加えられる陵辱からの解放をも意味した。

“ベリ…というのか、あの少年は…”出会っていきなり欲情した相手…

心より先に躯が“女”に戻った…いや、心がそれを求めたのかもしれない。

何故なら少年の顔を…声を思い出すと、胸が詰まって苦しくて仕方がなかったのだから…


南に向いた窓から差し込む陽光はこの部屋を後にした時よりもさらに深く差し込んで、隅々までも…それは全裸で絡み合う二人の躯も隠すところなく照らし出す。

アキロニア製の大鏡に掛かっていた布が下ろされていた。

そこには両腕を反らし、思い切り突き出した豊満な乳房から汗を滴らせたイルマの艶然たる姿が映っている。

反らした腕は背後の少年の首を押さえ、指で長く伸びた漆黒の髪を掴んでいる。

腰は退き気味で…というのは立ったまま後ろから貫かれて、緩慢な抽送を受けているからだ。

グチュリ…と膣肉ともに引き出される時は、離すまいと腰が追いかける。

引き付けたところで、一気に押し込まれ息が止まる。

意識があったのはキトンをかなぐり捨てて、寝台に倒れ込んだ時までだ。

誘うままに少年の白い裸身が輝きながら迫ってきた。

どうやってこの大鏡の前まで来たのか…腰を高く突き出し、床に手を着いて獣のような姿態で犯されながら…挿入した少年が歩くままに深々と突かれ、一歩踏み出すたびに快楽に悶え、ギャアギャアと喚きながら大鏡の掛かる次の間まで四つん這いで這ってきた。

少年の右手が抜き差しする度にまくれ上がる陰唇と裡壁に触れる。

「あっんんーっ」腰を揺すって身悶えたイルマの躯が更にのけぞり、喉をひくつかせる。

「ぎゃあああーっ」莢を押しのけて大きく肥大した花芯の先を人差し指の爪がコリコリ…と掻いていた。

と、のけぞった躯が逆に前に倒れた。

「おっおっおっ…」肛門に左の小指が入っている…あの真紅の爪が…

もう一本指を突き入れ、腸壁を擦る。

周りの指が二本の指を咥え、膨れた菊座の周りと会陰を這い回る。

すでに滴る蜜でどこも触れる度にグシュッ…グチュッ…と音をたて、何より打ち付けられる腰がジュッ…ジュボッ…と淫靡なリズムを響かせている。

「あうあうあう…」鏡には視点の合わない顔に汗で髪を張り付かせたイルマが涎と鼻水と涙が混ざったモノで化粧をグシャグシャにしながら喘いでいた。

“結構慣れるの早いな…昨日はこれくらいで寝てくれたのに…”――寝てくれた…とは絶頂で失神したという意味だ。

淫神リンガの化身と崇められた少年を呆れさせるほどにイルマの情欲には限りがなかった。

まるでさかりのついた獣だ。

“それじゃあ、そろそろ、こっちも本気になろうかな…”――デリラが待っている。

彼女とクシュ語で話したい…そう思った。

指を抜いた。

前屈みになったイルマの膝裏に手を入れて一気に持ち上げた。

「うげぇ!」蛙の潰れたような声を上げ、イルマの顔がガクガクと揺れた。

鏡には大きく股間を割り広げられ、陰茎を咥え込みグロテスクなまでに腫れた真っ赤な陰唇とそれよりもなお充血して肥大しきった花芯がヌメヌメと光っている。

羞恥の姿を映しながら、既に白目を剥いたイルマには何も見えていない。

彼女はあまりの衝撃に呼吸困難に陥っていた。

口をパクパクさせるだけで喘ぎ声一つ洩らさない。

ただ、膣壁だけは異様な締まりをみせた。

それに答えて垂直に突き立てられた陰茎が、裡で膨れあがり、堅さを増した。

イルマを支えているのは、その堅物と膝裏の手だけだ。

白い腹が剛直に押し上げられて、臍下がぽっこりと膨らんでいる。

そこに涎が滴る。

開かれたままの口から長い涎が一筋…

少年が一度躯を揺すっただけで、最後の壁に縋り付いていたイルマは息を止め、がっくりと力を失った。

木偶人形と化した女の裡にまだ収めたまま、少年は寝室まで戻ると、寝台の上にイルマの躯を投げ出した。

“浴室にお湯あるかな?”デリラに逢うのにこのままでは…と気になった。

今まで性交の途中だろうが後だろうが、太腿に相手の精を垂らしたままでも平気で外に出ていたシェラムが…である。

そんな自分の変化に気づいていない。

寝台の傍らに置いた愛刀を見た。

そっと白鞘に触れる。

さすがにもう乾いている。

“これを彼女が自分の裡に…”その情景が眼に浮かんだ。

“抱きたい!”少年の陰茎は未だ猛ったままだ。

今まで精を洩らすことの無かったその先端にキラリと先走りの液が湧いた。

“デリラが欲しい”少年はコーシェミッシュの地下を出て以来、初めて自分から欲情した。


まさか昼間から気を遣る訳にはいかない。

皆、与えられた仕事がある。

真っ昼間から愛人と戯れる事ができるのは、雇用主である城主様だけだ。

気怠いままに、持ち場に去っていった女官や兵士を見送って、一人広場に佇んでいた。

ここで待っていても仕方がない…あの女主人が新しく囲った愛人を簡単に自由にするとは思えない。

女官や侍女達から漏れ聞いた話では、イルマはぞっこんどころか、下僕のように尽くしているという。

確かに稀に見る美貌だとは思う。

東洋の血だろうか?エキゾティックな容姿は自分ですらも一目で虜になってしまった。

さらに歴戦の格闘士をバタバタと斃した躯の動き――そしてあの携えた刃の鋭さ、美しさといったら…

“今、イルマとベリは抱き合って寝室にいる…”知らずにギリリと唇を噛んでいた。

「待った?」不意にクシュ語が…あの少年の変わった訛りのあるクシュ語が聞こえた。

そこには自分が預かっていたボロボロのトゥニカにオレンジのベールを肩にショールのように掛けた“ベリ”と呼ばれた少年が立っていた。

髪から滴が滴っている。

大浴場の浴槽に入っている香水の香りが漂った。

デリラは言葉もなく、首を横に振った。

「早速だけど、私は闘技会に出たいんだ。それで責任者の意見を聞きたくて…」

「何も話すことはない…母太后陛下がお決めになったのなら、アタシが意見を言える立場じゃない」声が掠れるのが自分で判る。

少年を直視出来なかった。

「じゃあ、教えてくれない?格闘士とか剣闘士とかいうのはどんなコトして戦うの?規則ってあるんでしょ?大体その大会自体が私には何も判らないんだから…」

デリラは近づいてくる香水の香りに気圧されて、一歩後に下がった。

「教えることなど…最初からアタシはお前に出て欲しくないんだ」

「どうして?」

「それは…」

「私に惚れた?」

「ばっ…」馬鹿な――と言いかけた躯がいきなり抱きすくめられ、唇が奪われた。

いくら隙を見せたとはいえ百戦錬磨のデリラにあるまじき失態だった。

「デリラが欲しい…」クシュ語の甘い囁きが心の芯を溶かす。

「そ…んな…ベリ…」抗う腕に自分でも歯がゆい程に力が入らない。

逆に唇が刈り上げたうなじから首筋に這わされ、耳朶を軽く咬んで、息を吹きかけられると全身の力が抜けて一人で立っていられない。

「ああ…クシュ語で“ベリ”って呼ばれたの久しぶりだ…もっと呼んで」低い囁きが脳をとろかす。

「や…め…ろ」息を吸うたびに甘い香りが胸に入る。

それは陶酔となって躯の隅々に広がっていく。

“ここでは…駄目”最後の理性が頭の隅で叫んだ。

“ここは兵舎の広間だ。衆人の眼がある場所で、主人の愛人と抱き合うなど許されない”と…

「じゃあ、デリラの部屋へ行こうよ…昨日私の刀で一人で慰めてたでしょ?」

「どうして、それを?」一気に陶酔が吹き払われ、理性が呼び覚まされた。

だが頭の中で思ったことを、どうして少年が察するのか…そこまでは疑問に思わない。

それどころでは無かった。

誰にも知られてはならぬ醜態を…一番知られてはいけない人物が知っているのだ。

「咎めてるんじゃないよ…預かってくれて感謝してる。好きに使ってくれて構わないって思っていたから…」

「おお…」甘いクシュ語も耳に入らない。

あまりのショックに顔を覆って床に崩れ落ちた。

「何で?悪い事でも恥ずかしい事でもないよ。それとも子宮も乳房も無いって事を気にしてるの?」

「!」顔を上げた。

胸は昨日出会ったときに鎧の隙間から見えたのかもしれない。

だが子宮は…この城内でも自分に月の障りが来ない事を知る者はいないはずだ。

「子宮が無くても女なんだよ。だからしたくなって…一人でしちゃったんでしょ?だから私もデリラを抱きたい」

無茶苦茶な理論だが、自分の秘め事を…心の底に封印したモノを次々に表に引き出されて、動転していた。

「デリラの部屋に行こう?」肩を抱いて起こされた

こざっぱりとした部屋には水差しと洗面具、それに藁に綿入りの布団を敷いた寝台があるだけだ。

鏡も衣装箪笥も無い。

着古したトゥニカが粗末な台の上に畳んであった。

壁には手入れされた武具と鎧が掛けられていた。

「すごい…ピカピカだね」シェラムは油で磨かれ使い手の肌と同じように黒光りする鋼鉄に指を滑らせた。

逆にこの部屋には脂粉の香りも、女特有の甘い体臭もしない。

「その…本気なのか?」自分の部屋なのに、壁に張り付いたままデリラは壁を眺める少年に上ずった声を掛けた。

「何が…」

「アタシを…抱きたいって…」

「うん」少年は寝台に腰掛け、肩からベールを外した。

「ちょっとまだ髪が濡れているから、布団が湿っちゃうかな…」襟ぐりが裂けているトゥニカは片袖を外すと簡単に下に落ちてしまう。

デリラは陶然と少年が肌を晒し自分の寝台に横たわるのを眺めていた。

「デリラ…」白い腕が招く…

自分で脱いだのか、それとも少年の手で脱がされたのか…気づいたときは真っ白な肌に抱きついていた。

舌が歯の裏をくすぐる。

次の瞬間には絡め取られてきつく吸われる。

「あ…ふう…うっ」艶めかしい吐息と共に溢れた唾液が唇の端から下に落ちた。

“ああ…いけない…綺麗な顔…汚してしまう”唇を離し霞の掛かった頭でぼんやりとそう思った。

下に仰臥する少年を見る。

少年はついと顔を起こし、右脇から胸に広がる傷に唇をつけた。

左の傷には、左の小指が…真紅の爪が盛り上がった傷を微かに掻いていく。

「感じる?ほら…無くなってないよ…ここにはデリラの乳房が確かにある…ね?」

感じる…ゾクゾクする。

しなやかな指が柔々と乳房を揉んでいる。

濡れた紅い唇が乳首を吸っている。

甘やかな疼痛が背筋を貫いて下腹部を熱くした。

「ああ、べり!」少年の頭を掴んで胸に押しつけた。

「感じる!感じる…ああ、もっと…もっと噛んで!舐めて!吸って!」

クチュリ…摺り合わせた太腿に蜜が溢れ淫質な音を立てた。

「欲しい?」胸元を責めながらベリが訊く。

「欲しい…ああ…」腰を蠢かせる…とそこに指が掛かった。

「そう…もっと広げて…」ゆっくりと屹立したモノで下から擦り上げる。

中から溢れ出す蜜で淫らに口が開いた処を擦られると、それだけで纏い付く愛液は白濁したモノに変わっていく。

“あ…大き…”目を閉じて官能に身を委ねていたデリラの気持ちが急に乱れた。

“駄目…こんなに大きいの入らない…だってアタシの中は…”掴み出された子宮――膣奥が短い。

普通に子宮のある女だって、これでは膣だけでは治まりきれずに頸部を割開き、閉じた肉嘴をこじり開けて子宮内にまで達するだろう。

「自分で入れて…いいよ…跨って。指を添えて…こっちの指で自分を開いて…ほら私が支えるから大丈夫、躯を起こして…」耳元の囁きに酔う。

言われるままにのろのろと躯を起こし、大きく足を広げ膝立ちで腰を跨いだ。

そっと右手で脈打つモノを掴む。

“ああ…先から…”洩れてる…本当にアタシの躯で欲情してるんだ。こんなボロボロの女に…

堪らなくなって唇で含んだ。

舌で舐め上げた。

愛撫に応えて、堅さが増した。

“欲しい…”口の中で際限なく喉元を抉るモノに恐怖も不安も消えていた。

濡れそぼった膣口に指を二本滑らせた。

「うっ…くう…」根本まで差し入れて広げる。

そこに愛撫でベタベタになったモノを押し当てた。

グチュ…先が触れただけで十分な質感がある。

ゆっくりと腰を落とす。

約束通りその脇にはベリの手が添えられた。

「あふっ…あん!」カリ首を半分ほど呑み込んだところで、すぐに腰は止まってしまった。

「あ…駄目…やっぱり…」哀しかった…今更ながらに…“女”ではないと思い知らされて…

「いいよ…これで…」少年の瞳には黒い頬を伝う涙が映っている。

「あっ?ひっ…」中を!膣壁を擦って何かが…中に入っていく!

「あはっ…いいな…このやり方久しぶりだ…ねえ、出していい?」

“出して…?…何?”何も考えられない。

声も出ないほどの快楽が裡を責めている。

それは男根のように押し広げ貫くのではなくて、クネクネと震えながら這い登ってくる。

捻れたり、巻き戻ったり…中で自在に形を変えて翻弄する。

飛ばされそうな意識が正気に戻るのは、次々と与えられる快楽の刺激によってだった。

呼び戻された意識も、立て続けに達する頂点ですぐに消えそうになる。

めまぐるしく繰り返される失神と覚醒にデリラは無意識に絶叫していた。

「ああ!イク!イクゥ…ああん!」

狭くなった裡壁一杯に押し入った何かが蔓延っていた。

触れたところがジンジンと…ああっ!何?根が生える?

飛ばされた意識の底で身体の中に蔦が這うのが見えた。

次々に肉壁に小さな穴をあけ、そこから白く細い根を這わす…そうして醜く癒着した処を広げていく。

「デリラ!」腰を掴む指が食い込む。

“ああ!”意識がスパークした。

広がった其所に…蔦葛を伝って透明なしぶきが流れ込んで来る。

ぐったりと意識を失ったデリラをそっと横たえ、股間から男根を抜いた。

ジュルッ…白濁した蜜と注がれた精にまみれた緑の触手がうねりながら這い出てきた。

そのまま男根の先端…鈴口の中に消えていく。

「あ…これも感じるな…また出ちゃいそう…」左小指の爪を咥えながら甘い声を漏らす。

「出来過ぎた妻だよ、お前は…夫の浮気の手伝いするんだから…」もっとも樹…それも宇宙から飛来した雌雄も無い植物なのだから世間で言う夫婦の、浮気の…という認識はないのだ。

ただ宿り主である…夫の快楽が増せば自分も淫の気が補給できるから介助したに過ぎない。

それでも彼女…か彼かは判らないが、ヨトガにははっきりとした意思がある。

自分を愛し、慕っている――それはこうして小指に封じてみて、コーシェミッシュで仲睦まじく夫婦水入らずで暮らしていた時より強く感じる。

「ありがとうね…ヨトガ。ここにいる限り淫の気は吸い放題だね。サータもお腹一杯食べても後から後から湧いてくるからね」言っているそばから床から手が這いだしてきた。

「サータ」指輪のルビーがキラリと輝いた。

「もうちょっとデリラを休ませてやりたいからね…死霊は消えて貰おうか」シェラムの左眼の奥にも同じような真紅の点が燃えた。


デリラの体臭がする。

自分の精も匂う。

このままでは拙い――再び大浴場に赴いた。

今までイルマを相手にしては一度も洩らしてはいないのだから…いつもならばこんな事は気にも掛けない。

だが“もしいらぬ詮索をされてデリラが責められては可哀想だから”と思った。

大きな大理石の湯船に浸り手足を伸ばす。

やっと一人になれた。

イルマを筆頭にこの城の女達には辟易していた。

血塗れの男達が恨みの声を上げてまとわりついているのだ。

下半身が血塗れの…堕胎に失敗したらしい少女も痛みで泣き叫んで悲惨な最期を繰り返し見せつける。

煩いったら…サンダー河の砦といい、この辺りの国は怨霊だらけだ。

だがこの城を徘徊する奴らには砦の時のように憐憫の情は湧かなかった。

逆に苛ついて消し去ってしまう…この大浴場にも巣くっていたのだが一掃してやった。

城に入った時からまとわりつかれて迷惑していた。

彼らはトーガに執着し『それは自分のモノだ…返せ…』と迫ってくるのだ。

特に昨晩着せられた金地の布は愛人が“初夜”で身に着ける物らしく、顔が潰れていようが、首が無かろうが、おかまいなく所有権を主張してくる

壁から床から腕が伸びて引っ張る。

歩きづらいったら!

もっとむかついたのは、彼らの嫉妬だ。

自分を殺せと命じた女を未だに思い切れずに抱きに現れる。

イルマが異常な性欲を見せるのは彼らが色情霊となって十重二十重に取り巻き、憑依しているからだ。

奴らが寝台のあちらこちらから現れて躯をまさぐるのはイルマだけではない。

シェラムの躯にまで愛撫の手を伸ばし、のし掛かってくる。

おちおち寝てなどいられない。

ホントに邪魔くさい!

だからさっきは寝室を出て次の間で媾合し、黒羅紗のトーガも黒天鵞絨も早々に脱ぎ捨てた。

恨みを晴らしたいから彷徨っているというなら理解もするが、肉欲や金銭欲だけを引きずって現世に固執しているのだから自業自得だ。

シェラムに言わせれば、所詮同じ穴の狢…殺した側のイルマや女官、兵士達と変わらない。

お前らなんぞ誰が助けてやるものか!

「ヒドラ」

大理石の円柱に掲げられた燭台の灯火から小さな蜥蜴が現れた。

既に陽は落ちて薄暗くなった廷内には召使いが灯火や松明を点けるために種火を消さぬよう身を屈めながら小走りで動き回っている。

円柱を伝って湯船の縁まで降り、こちらに向かって小首を傾げる。

「どう?ガイは見つかった?」湯を分けて近づく。

黄金の瞳にバシリスの館が映し出された。

「やっぱりここにいたんだね」

黒光りする新調の鎧…物凄く分厚い鋼の胸板だ。

台車から降ろすだけで屈強な奴隷達が六人がかりだ。

彼らの会話はヒドラの記憶を通して直接頭の中に響いてくる。

「こんな重い物を着て動けるのか?」中肉中背の男…灰褐色の髪は薄くなりかけているが、恰幅がよく、身なりも立派だ。

「俺ならな」傍らに胸が詰まるほどに慕った人間が立っていた。

“ガイ…”知らずに涙が溢れた。

蜥蜴は落ちてくる水滴に身を翻して消え去った。

“ガイは闘技会に出る気だ”

それで借金が帳消しになるのだろう。

“じゃあ、私も勝ち抜かなくちゃ…ガイと逢えないもの”

成り行きとはいえ待っているはずの宿屋を出奔してしまった。

この城の者達をまいて逃げるのもやっかいだ。

それこそ追っ手がかかって騒動になり再会の機会を逸してしまう。

互いに格闘士として闘技場で行き合うしか方法がない。

それには勝ち進まねばならぬ…兄が将となるからにはバシリスのチームは最有力の優勝候補だろう。

こちらはデリラが将となる。

将は仲間がやられた時、一番最後に戦うからイルマはデリラを副将に…つまり盾にして“ベリ様”を温存したがった。

それはデリラ自身も同じで“将を降りる”と言ってきかない。

闘技会など出場はおろか見たこともないのだから、自分のような初心者には勤まらないと断った。

それに――出来ることならこの大会を最後にデリラを格闘士から解放してやりたいという思いがあった。

こんな感情は初めてだ。

自分に帰依したわけでもない相手を救ってやりたいと思う。

何の見返りも求めない――無償の奉仕だ。

最初に出会った時から、その瞳に宿る強靭な生命力に惹かれた。

それは敬愛する父と、離れてしまった兄に共通するものだったから。

確かに彼女には乳房も子宮も無い…背後で嘆く母親の霊が見せた過去の経緯に同情した訳ではない。

逆に抉られて引きつった無惨な傷痕さえも愛しい。

人間以下の境遇に生まれ育った彼女に、人並みの…普通の人間としての幸せを与えてやりたかった。

ヨトガと暮らした日々…甘い思い出が蘇った。

女相手に海千山千のヴァイロンがいたら“また惚れたのか?”と苦笑いしただろう。

浴槽から上がったシェラムは躯を拭いもせずに愛刀の鞘をはらった。

大浴場の周囲にはまだ松明が灯されていなかった。

差し込む月明かりに銀紫の文様が浮かび上がる。

“闘技会に勝ってデリラを本当の自由民にしてやる!”

所詮、どんな猛者でも人間だ。

この剣にかなう相手がいるものか…ただ一人、ラカモンの環(リング)を嵌めた剣士は別格だ。

チリリ…薄くなった喉の痣が微かに痛んだ。


“うっわ、趣味わる…”イルマの坐る後ろに緞帳がかかっている。

そこから大会用の鎧が燭台の明かりにキラキラと輝いている。

初夜用に透ける金地に花の冠を用意するのだから、これも仕方ないのかもしれないが…

白銀の鎧に百合が透かし彫りになって、留め具に嵌め込まれたダイヤが眩く光を弾いている。

兜の天辺には真っ赤に染めたダチョウの羽がフサフサと…

“なんで、鎧にダイヤなんか…”確かに実戦経験はこの前のザモラ国境戦しかないが、父やその戦友…いや大臣、将軍らから防具・武具の手ほどきを幼い時から受けている。

“いやだよ、こんなの着て出るの。恥ずかしい…”防具というより鎧の形をした美術品だ。

「如何?ベリ様にと急いで誂えましたの」背後に向かってイルマが声をかける。

確かにせかされて不眠不休で頑張ったのだろう、目の下にクマができた男が頭を垂れている。

「御試着を…細かい分を調整いたします」しゃがれ声だ。

職人達を怒鳴り過ぎて枯れてしまったのだろう。

後ろには怒鳴られ続けた職人達が疲労困憊の土気色の顔で蹲っていた。

「おお、こちらの殿方がお召しに…」親方はイルマの背後から現れた少年の美貌に息を呑む。

“母太后陛下の新しい愛人か…それにしてもこんな華奢な躯で闘技会に出るのか?”

蹲っていた職人達も慌てて起ち上がり、留め金を外して試着の用意をする。

「待て」デリラが声を掛けた。

「このように薄いモノでは防具の役はしない。剣や槍でなくても…拳でも凹む」

キッとイルマが睨んだ。

「わたくしがそうしろと命じたのです。もっと薄くてもいいくらいだわ。構いません試着を…」

「へい」親方は頭を下げた。

「こんな華奢な御躯のベリ様に、重装備の鎧など…着ているだけで暑さで参ってしまうではありませんか。それに重ければ立ち居振る舞いも大変でしょう」生成のトゥニカを着た少年の躯が綺羅びやかに飾り立てられる。

「戦う為の鎧ではないのですね?」デリラは美々しいベリに見とれた。

「戦うのはお前まで…将であるベリ様は座っているだけ。そのつもりで腕利きを集めておくれ、デリラ」

「はあ…」そのつもりではあったが女官長の人脈を駆使しても、時期が時期である。

名のある格闘士は既に破格の待遇で契約先が決まっている。

補強のアテが無くてバシリスの所までイルマ直々に出向いたのではなかったのか?

そこでベリに出会った。

彼は強い。

勿論、傷は付けたくない。だが彼の戦う姿を…あの不思議な格闘術を、もう一度見てみたいと思う。

「何とお美しい…」感嘆の叫びを上げたのは女官長のリシュアだった。

幼い日にミトラ神殿を守る巫女達が白い鎧に真紅の天鵞絨のマントを翻し、白馬に乗って行進するのを見たことがある。

勿論、巫女が着ていた鎧は祭り用の飾り物だが…

いや、ダイヤが煌めく白百合の鎧も少年が纏うまでは華美な飾り物だった。

だが今は荘厳にして華麗…造った職人や親方までもが、あんぐりと口を開けて眺めている。

職人の一人がひれ伏した。

「おお、アシュタレス」シェムの血を引く男は戦いの女神の名を呼んだ。

「いや、カドューケ神じゃ」十枚の羽根を持つというカドューケは軍神ゴールの伝令といわれ少年の姿で描かれる。

職人達だけではなく親方も跪いていた。

「素晴らしいわ…約束通り、お前達には言い値の金貨を支払いましょう」イルマの声も震えている。

――“この姿のままで抱いて欲しい”股間が疼いて仕方がない。

今腰を上げれば、薔薇の花の刺繍を施した豪奢な長衣が溢れる蜜で色が変わっているのが判ってしまう。

「リシュア、この者達に褒美を…もてなしてから帰すがよい」

女官長は恭しく礼をし、這い蹲った男達を促して退室した。

「デリラ、何をぼさっとしているの。さっき言ったように腕利きの戦士を早く募っておくれ」言い様は穏やかだが、一刻も早くベリと二人きりになりたい…下心は周りにいる侍女達にも見え見えだ。

「待って、イルマ。この前言った。将はデリラ。私は大会の事なにも知らない。将にはなれない」白銀の戦士が口を開いた。

「ベリ様…」近寄ってくる白い輝きに陶然となる。

「デリラ、私の戦い方思い出せ。絶対に討ち合わない。防具いらない…だから薄い鎧でも平気」たどたどしい片言のアルゴス語で話す。

それは…言われればその通りなのだが…デリラの顔に困惑が浮かぶ。

「イルマ、これ綺麗。気に入った。これ着て貴女のために戦う。だから将はイルマ、副将はウォルゼフ、今更変えてはいけない」

“貴女のために戦う”…頭の中にその言葉だけが反復して響く。

「では、あとは術士…魔道士の類で御座いますが、ステイジアや黒海湾あたりから流れてきた海賊上がりに心当たりがありますので…」力と技の戦いであるはずなのに、中には薬や秘術を使う怪しげな者を付き人や世話係として混ぜている一団もいて、毒を盛ったり幻術をかけたり…結構これがやっかいだったりする。

万が一を考えて、こちらも防御ができる程度の術者を雇っておこうと考えていた。

「いいわ、お前に任せます…お退がり、デリラ…」もうイルマの目はトロンとして視線が合っていない。

「それは私がやろう」あと数歩――もう少しで指が触れる所まで近づいていた少年の足が止まった。

「えっ?何を…魔道士だぞ」肌を許した相手に思わずぞんざいな口調になる。

幸いにもイルマはクシュ語を解さない。

奴隷言葉と蔑んで、耳にするのも嫌う。

秘め事とはいえ、愛し合った…躯の底には淫らな熾火がまだチロチロと燃えている。

イルマだけのモノではない。ベリは自分の男でもあるのだ。

肝心のイルマだけが気づいていない…雇い主、それも恩人として仕えてきた女主人に、優越感が湧く。

それは今までのデリラには無かった“女”特有のどす黒い感情だった。

「私は術が使える。呪文も薬草も知ってる。魔道士はいらない。余計な人捜しなどに時間を費やさずに、出場する仲間を鍛えたらいい」クシュ語で証した事実は半ば自分の正体を暴いてしまう。

だがデリラにならば証しても構わないと思った。

どこの土地でも魔道士は畏怖の対象であり、まともな生活を送る者達からは忌み嫌われている。

「まさか…その若さで?」デリラの声が掠れている。

彼女だけではない世間一般の人間が抱く魔道士や魔女のイメージは羊皮紙のような皮膚をした…ミイラのような白髪の老人だ。

「年は関係ない。いや、もしかしたら私は老人で術で若く見せているのかもしれないよ」にっこりと面当ての下で微笑まれてデリラの瞳が潤んだ。

“ああ、抱いて…”イルマとは違う。交合したいのではない。ただ力強く抱きしめて欲しかった。

魔道士であろうがなかろうが、彼は自分の愛しい男に他ならない。

「いつまで奴隷言葉で話しておるのじゃ、汚らわしい!早う退がりゃ!」怒気を含んだ声が降ってきた。

様子をうかがっていた侍女達も、めったにない母太后の叱責に首をすくめて逃げ出す。

一旦、甘い言葉に酔っていたイルマを、クシュ語で会話するアマゾネスが嫉妬の海に投げ入れた。

デリラの表情や態度に、ベリへの恋心を感じ取った

後宮上がりの女の勘でこのアマゾネスが恋敵であると直感したのだ。

「怒らない、イルマ。大切な話」アルゴスの言葉でたしなめたシェラムは椅子に近寄ると怒りで目を吊り上げた城主(パトロネス)を横抱きにして担ぎ上げた。

「私もデリラも貴女を選定候にしたい。だから戦う。そして勝つ。勝たなきゃせっかくの鎧だって意味が無いものね」耳元で囁くのはジンガラ語だ。

デリラは顔を背けると足音を響かせて出ていった。

その瞳には今までイルマにあった嫉妬の炎が燃えていた。

チクリと胸が痛む。

でもこれでデリラが余計な人集めに悩殺される事無く武技の教練に励むことができる。

そのままイルマの唇を吸った。

「この鎧のままで抱かれたいんでしょ?じゃあ膝の上に乗って…すごくイヤらしい体位だけど気が済むまで抱いてあげる」控えの間の長椅子に荒い息のパトロネスを下ろした。

「貴女もそのままでいいよ…ほら胸当てをずらしただけで溢れてくる…もうここが勃ってるよ。いやらしいね、イルマは…」

「あひい!」胸元をはだけ、豊かな乳房を揺らすイルマの乳首が摘まれる。

薔薇模様の長衣が大きくまくり上げられ、下履きが下ろされた。

鋼の指当てで肌が擦られる度に嬌声が上がる。

「ああ、早く…早く…」

「挿れて欲しい?」甘い囁きはどこから響いてくるのか…

「ええ、ええ…何でもいいから…中に…」ガクガクと躯が震える。

「じゃあ、大会の事にはこれ以上首を突っ込まないで…デリラとウォルゼフの好きにさせる事、判った?」それは頭の中に直接…

「判ったわ、何でも貴方の言う通りに…だから早く満足させて…」膝を大きく開いた。

むせかえる艶臭が立ち上った。

カーテンを引き、椅子を元に戻し…謁見の間に残っていた侍女達は控えの間から突如響いてきた絶叫に躯を硬直させた。

それは人の…というより獣の咆哮に近い。

だがその声が女主人のモノであることはすぐに判る。

“陛下がまたベリ様と…”女官達から無理矢理に性技の手ほどきを授けられた幼い躯は、漂ってくる淫風に欲情していた。

「あっん…」モジモジとスカートの下で太腿を摺り合わす。

だが、次第に嬌声と喘ぎ声が激しくなり、我慢できなくなった少女達は、自らのスカートをたくし上げて、指で濡れた秘所をまさぐり始めた。

そして燭台の蝋燭が半分になる頃には、互いに相手の股間を押し開き、舐めまわし、指を抜き差しする淫靡な光景が繰り広げられた。

「ああんっ…」まだあどけない顔の少女達が、未だ無毛の恥丘を揺すり上げ、微かにふくらみかけた乳房を自分の指で揉みしだく。

「ん…くぅ…」かぼそい声を上げながら、赤黒く染め上げられた幼い躯をくねらせて悶える姿態は、ひどく淫らだった。


初日に噂になった二人の格闘士を見ようと詰めかけた聴衆で、闘技場は朝から大騒ぎだ。

円形の闘技場を三巻きして広大な敷地をウネウネと曲がり、港に向かう道にまで延々と列が続く。

中にはバシリスのように天蓋付きの輿に召使いを引きつれて並んでいる貴族や大商人もいるので、とにかく見物人の列は伸びる一方だった。

このままでは例え開場しても押し合いへし合いしながら、柱によじ登ったり、塀の上に登ったりしながら観戦することになるだろう。

もっともバシリスは出場チームの持ち主だから、自分のチームの試合は特等席で見ることができる。

周りの貴族が愛想笑いを仕掛けてくる。

鷹揚に返しながら気分がいい。

噂の格闘士――その内の一人は将に据えたイジュ・アムランだ。

既に街では“黒鉄(くろがね)の剣士”と呼び名がついてもてはやされている。

初日で“バシリス大臣の所が優勝だ”と噂が流れる要因がかの大男であった。

何と言っても昨日の試合――石柱の後ろに回り込んだ相手を石柱ごと叩き斬ったのだから…

大人が二人手を廻しても余る太さの石柱だ。

それを段平で…

飛び散る破片…といっても石の塊なのだが…を避けきれずに、順番を待っていた相手の将が傷つき、勝負が付いてしまうという前代未聞のおまけまでついた衝撃の格闘士デビューだ。

しかも将でありながら一番先に登場し、一人で連破してしまった。

“あれは何者だ?”“どこの格闘士だ?”貴族達はダークホースに騒然となった。

その黒鉄の雇い主として、鼻高々で並んでいる。

“だが、もう一人…よりによってウチにやって来るほど出場者に困っていた母太后の所にあんな手練れがいたとは…”天蓋の奥でふむ…と考え込む。

夜の試合に登場したもう一人は昼間の試合で噂になった“黒鉄の剣士”とは逆に“白銀(しろがね)の騎士”と呼ばれた。

もう一人の正体が自分の屋敷の門前で大暴れした少年だと判ったら、雇い損ねた事を歯がみして悔しがるだろう。

もっとも、残念ながらその事実すら報告を受けていないのだから仕方ないのだが…

彼が登場した瞬間、夫や主人に連れられて見に来ていた女達がその美々しい白銀の鎧と華麗な身のこなしに目を奪われて騒然となった。

これで兜の面当てを上げれば、その奥の美貌に酔いしれ、狂気乱舞の末に収拾がつかなくなっただろう。

だが彼は控え室でも赤い羽根をなびかせた兜を脱がなかった。

面当てすら上げない。

それは昼間登場した“黒鉄”も同じだったのだが、二人は試合時間が隔たっていたため、顔を合わす事がなかった。

そして大会の主宰者は、当然の事としていきなり登場した二大ヒーローを最後まで合わせることなく試合を組んだ。

「今日は俺達が先に出る」ウォルゼフが宣言した。

「なんで…」異を唱えかけた少年のアルゴス語をデリラが遮った。

「母太后陛下の御指示だ。ベリは控えていなさい」将としての顔だった。

躯の関係ができた事など一切匂わせない。

勝ち抜き戦ではないから、勝っても負けても戦士は一試合ごとに交代できる。

勿論、勝った戦士がそのまま残って戦う事もある…今日は夜の試合となっている“黒鉄”のように。

但し、負けた時点で交代せざるを得ない。

敗者=死なのだから当たり前だ。

運がよくても重傷…時間の問題で死ぬか、助かっても五体満足な者はいない。

昨日は初戦は黙って様子を見ていたベリが、二戦目の仲間を…これはウォルゼフの実弟なのだが…を差し置いて「出る」と言って静止する間もなく勝手に試合場に降りてしまった。

そして一人で最後まで…相手の将まで斃して、貴婦人、令嬢の黄色い悲鳴と喝采を浴びて意気揚々と引き上げてきた。

来賓席で見ていた女主人、母太后陛下は複雑だ。

倍もある躯の…むくつけき戦士に飛びかかられると悲鳴を上げて顔を覆い、勝利を宣言されて、高々と腕を上げれば誇らしくて堪らずにリシュアの止めるのも聞かず、バルコニー席に掛かる紗幕を上げさせ、観客の前に姿を見せて白銀の騎士が自らの所有であると誇示する。

一晩で人気者になってしまった愛人――見せびらかしたいのは山々だが、出し惜しみも…

デリラとウォルゼフを呼びつけて「今日はお前達だけで…ベリ様は最後に…」と命じた。

“お前達だけで”とは“ベリまで廻さずに決着を付けろ”という事だ。

もっとも最後は勝利チームが全員登場し、観客の歓呼に応えるのだから“白銀の騎士”目当てで集まったご婦人方も短い間だが姿は拝める。

“次は真ん中くらいに登場させて、その次はまた最後”…何の事はない、やんごとなき母太后陛下は人気役者を抱える芝居小屋の座主のように、あれこれと見せ場を図って楽しんでいる。

“つまんないの”――兜の奥で憮然とした表情のまま控え室に坐っている。

「どうせなら試合場で見ている」と言っても、観客に姿を見られるから…と訳の判らない事を言われ、なだめすかされて一人この部屋に残された。

観客に見せたいから、こんな悪趣味な…目立つ鎧を造らせたのではないか。

試合に出れると思えばこそ、文句も言わず、役にも立たぬ甲冑を着込んだのではないか。

まったく、あの色惚けのオバサン、何を考えているだか…

その時、ふいに右の薬指がポウ…と暖かくなった。

「サータ?」何処からか…と言っても近くなのは判っているが、力を請われているのだ。

手っ甲に覆われた右手を前にかざしてみる。

勿論、下に嵌めた指輪は誰からも見えない。

「こっちか…」熱が強くなる方向に向かって歩く。

「おい、試合中は控え室にとの母太后陛下の御命令だ」世話係の兵士が慌てて止めるが、走り出した白銀の騎士の健脚には太刀打ちできない。

辿り着いた先は、試合場、それも何と相手側の控席だった。

階下への降り口には警備兵もいるのだが、みんな眼前の試合に熱中していて背後の気配に誰も気づかない。

そっと忍び寄る。

「あいつか…」世話係の徽章を付けた痩せぎすの男が、半眼のまま一心不乱に何かを唱えている。

試合場では一番最初の試合が始まっていて、ウォルゼフの弟ウェルヘが押され気味だった。

相手は背も低く、鍛えた体躯の者ではない。

それなのに、構えは大きく、一人で大振りして、剣は空を斬るばかり…一人相撲で疲れ切り、息を荒げている。

疲労の色を見た敵は、笠に掛かって攻撃してくる。

このままでは自滅してしまう…

“そうか、こいつがデリラの言っていた魔道士か”

暗黒の蛇神セトに呪詛を願う呪文が続く。

よく聞けばステイジアの呪文だ。

もっとも意味も分からずに丸暗記したのだろう。

変な所で途切れたり、間が抜け落ちたり、不出来なモノだ。

だが召還した“セト神”という最大最強の力は、この程度でも威力を発揮する。

シェラムはそっと身を翻すと、反対側の…デリラ達が唇を噛み締めている控え席に走った。

「ベリ!お前は上の控え室に…」

「今、そんな事言ってる暇ない。むこう魔道士いる。ウォルゼフ、弟やられる前に退かせる。いい?」

場内が歓声に包まれた。

あの白銀の騎士が、倒れた味方の前にいきなり現れたからだ。

一気に興奮のるつぼと化した場内の様子に、不承不承デリラが交代を告げた。

「サータよ、セトの御子たる力を見せつけてやれ。信者でもない者が、汚き人間の分際でセトの力を借りようなどと…身の程知らずを思い知らせてやるんだ」シェラムの完璧なステイジア語は交代を宣する審判の声も聞こえないほどに騒然となった観衆の声にかき消されて誰にも聞こえなかった。

右の拳を前に突き出した。

抜こう側の控え席が大騒ぎになっている。

世話係の男が、いきなり血反吐を吐いて倒れたからだ。

男の胸から胴は、万力で締め上げたようにグシャリと潰れていた。

動揺した小男は、一瞬のうちに眼前に走り寄った白銀の騎士の蹴りを首筋に受けて、そのまま昏倒した。

嫌な形に頭が垂れている。

「首の骨が折れた。よってクモントの第二士の勝利と見なす」審判が高々と白銀の騎士の手を差し上げた。

ウォルゼフとデリラに担がれて戻るウェルヘに代わって第三の戦士テグンが起ち上がった。

彼はデリラと同じ、クシュ人で奴隷上がりだ。

黒光りする肌が筋骨逞しい躯を強調している。

「今日はこれで引っ込むね。でも上じゃなくてここに居ていいでしょ」クシュ語でデリラに囁く。

「今更だからな。魔道士を斃すためだったと陛下には申し上げよう…」デリラは溜息混じりだがクシュ語では返さなかった。

「うむ…おぬしのお陰で弟が助かった。恩に着る」副将のウォルゼフの言葉が改まった。

しかし、アルゴス語の細かいニュアンスの違いなど白銀の騎士には判らない。

「俺が相手にしてたのは、あの小男じゃなしに、魔道士だったっけ訳か…」ようやっと息が整い始めたウェルヘが呟いた。

前の試合で、出番を横取りされてからベリに対して反感を抱いていた。

イルマの寵愛を笠に着てと苛ついているうえに、初出場で噂のヒーローになったのだから腹立たしい事この上ない。

「お前、魔道士か?」

「ウェルヘ!」デリラがたしなめた。

ベリの告白は自分と…心外だがイルマとの秘密にしておきたかった。

「構わねえだろ?テグンは試合中でいねえんだから。俺は正面から、向こうの控え席が見えたんだぜ。この綺麗な百合の花が上がった途端に、痩せた男の胴がグシャリと潰れた。そしたら同時に躯の重しが取れたんだ。こいつの他に誰がいる?」

「大したことしてない。あの術士、弱かった」

「という事は自分が助けられたって事は判っているんだろう?」ウォルゼフはウェルヘの額の傷に濡らした布を当てた。

「だったら潔く礼を言え。くだくだと世迷い言抜かしてんじゃねえ!」

結局、魔道士の力に頼っていた相手チームは二人目が斬られた時点で試合を放棄したため、クモントの勝利となった。

「ベリ様の魔術はそんなに凄かったの?」

試合場の階下で何やら騒ぎが起きているのは判ったが貴賓席からでは当然舞台裏はのぞけない。

詳細を知りたい女主人に再び呼び付けられたデリラとウォルゼフは隠す訳にもいかず、ウェルヘが救われた顛末を申し述べた。

「そう…じゃあ、次はベリ様に剣を持たずに魔術で出て頂こうかしら…」暗黒の地ステイジアから続く黒海湾に接してきたアルゴスの貴婦人らしく、魔道士には他国の民より恐怖感はない。

むしろどんな相手でもその気にさせる媚薬の類や、いつまでも若くみずみずしい躯を保つ不老薬などを調合させる為に魔道士を雇う貴族も多く、そのお国柄がこの大会にも現れていた。

「冗談ではございません。大会は剣と拳のみ。魔術は規定違反でございます」それでも暗黙の了解で裏でひっそりと行われている。

だから明らかに呪詛を打ち返されたと判る世話人の遺体も氏素性も探索される事はなかった。

墓はおろか、埋葬すらされず、帰りの道すがら獣の徘徊する荒野に荷馬車から投げ捨てられた。

一晩で骨に…いや骨もくわえて持ち去られ、何も残らないだろう。

「もしベリが…あ、ベリ様が魔道士として出場するなら人知れず、影に隠れてという事になりますが、よろしいので?」

「それは、駄目よ!」即座にイルマは答えた。

大注目の白銀の騎士の雇い主として羨望の視線を浴びている。

この立場を自分から去るなど言語道断だ。

「ではベリ様には…影で魔術を使って頂きますから…」一礼して下がった。

「全く、あの女は次から次へと勝手な事を言ってくるな」ウォルゼフは嘆息した。

ウェルヘの他にもう一人、腕の方はからっきしの虚弱な弟と幼い頃に患った熱病で顔があばただらけになってしまった妹がいる。

嫁に行けない妹も、躯の弱い弟も、そして未だ修行中で大した腕でもないウェルヘも言い値で雇って貰っているのだから文句は言えない…言えない立場ながら、ここの女達の厚顔無恥には辟易している。

知識と教養に溢れているはずの母太后に至っては、羞恥という感情も、惨殺してきた愛人達への懺悔もない。

金は惜しみなく出すが、口はその倍も出す。

「ウォルゼフ、ウェルヘは明日の試合に出られるのか」副長の愚痴には取り合わずデリラは明日の順番を考えている。

「本人は大丈夫だと言ってる」兜に一撃をくらって脳震盪を起こした。

見えるのは額の傷だけだが衝撃で首や肩の筋肉までやられているだろう。

「明日は休ませよう。初戦はアタシが出て、次はベリ…それで片づくだろう」

「初戦にお前が出るのは相手の力量をベリに教えるためか?」ウォルゼフはアマゾネスの力量を知っている。

その戦歴も経験も見事なものだ。

自分よりも上と思えばこそ副隊長に甘んじている。

「お前ほどの戦士があんな愛人風情にどうしてそこまで…」言いかけてハッとした。

出会ってから一度たりと“女”と思った事はなかった。

デリラ自身が見事に“女”を消していた。

「お前まさか…あのベリって奴に惚れてるんじゃ…」この前の生成のトゥニカと香油を塗った頭髪の姿を思い出した。

「いい加減にしろ!」デリラは一喝した。

だがそこには“女”がいた。

狼狽している。黒い肌が上気するのが判る。

「お前は将だ。試合の判断だけは誤ってくれるなよ」言い置いてウォルゼフは足早に去っていった。

“ああ…ベリ…”皮の胴衣に包んだ躯を抱いた。

今頃はイルマの寝室に…そして二人で抱き合って、ジンガラの言葉で睦言を囁きあっているだろう…

“大会が終わったら、この城を去ろう”

イルマのベリへの寵愛は異常だ。

余程の事が無い限り新たな愛人を迎えるとは思えないし、もし心変わりしたとしても、あの手練れのベリが易々と死体になって庭に埋められるとは思えない。

“もう、いい…もう十分に尽くした。あの二人の側で嫉妬に狂うのは嫌だ。二人が並んで歩いているだけで胸が痛む。人目を盗んでベリに抱かれるのも…惨めだ”

アマゾネスの矜恃が甦った。

デリラは同郷のテグンに明日の作戦を伝えるために兵舎に向かって歩き出した。


次の日のクモント城は大騒動となった。

試合が問題だった訳ではない。

当然のように死神デリラと白銀の騎士は相手を血祭りに上げて喝采を浴び、意気揚々と引き上げてきた。

それを観覧にロマリオ公が現れ、噂の白銀の騎士と誼(よしみ)を通じたいと母のイルマの席まで押しかけてきた。

彼が今まで大会に来なかった理由は実にその性格を表している。

最初から兄…皇帝陛下主宰の大会など見る気はなかった。

しかし母が抱えた格闘士が初戦でメッサンティア中の人気を得た者となれば…これは逢ってみたいと興味が湧く。

しかし、先帝の庶子である自分が試合会場に赴くとなれば、それなりの仕度と体裁が必要になる。

その準備に初日から今まで掛かってしまった。

逆に四日で行列を整えた侍従達の苦労は大変なものであったろう。

まあ、彼らにすれば主人の唐突な思いつき…気まぐれと我が儘は母太后譲りであったから今更嘆く程の事ではない。

それに今回のロマリオの命令は単なる気まぐれではなかった。

“大会参加の祝い物”…勿論形だけの物だが、それをクモントまで届けに行った使者が“噂の騎士は母太后陛下の愛人、それも何処からか拾ってきた男娼上がり”だという報を聞きつけた。

秘め事を知った使者は忠義面で主人の耳に入れた。

ロマリオは穏やかでいられなくなった。

兄のラスカリス帝ほどではないが、息子として母親が愛人を囲い、好き放題しているというのは嫌だった。

ただでさえ自分は先帝の落胤では無い…という風評がある。

自分の皇位継承に仇となるモノは全て排除したい。

後ろ盾となっている“ゼノン軍相の助言”を理由に母とは距離を置いた。

一方その母はもう一方の雄、バシリス蔵相と仲がよい。

もっとも地位と財力という互いに貸し借りしあうだけの間柄なのだが…

ロマリオは大行列で、母と共に会場からクモントまでやってきてしまった。

「ベリというのですか?白銀の騎士は?」久方ぶりに逢った次男は屈託のない笑顔を向けた。

「ええ…」逆に母親の顔は浮かない。

イルマとすれば、息子であってもベリに逢わせたくはない。

それに以前とは異なりロマリオは自分の意に従わず、ゼノンと近しくなっている。

“ゼノンの娘と婚約するのは時間の問題だ”とリシュア女官長も言っている。

そうなればゼノンは舅…自分と同じ地位に立つ事になる。

ラスカリスに次いでロマリオまでも自分の手駒から外れようとしている…イルマが性愛に耽溺したのは、その焦燥を忘れる為でもあった。

「リシュア、構わないよ。もう戻って来ているだろう?そのベリという男を呼んでくれ」

そちらはよくても、こちらが構う…チラとイルマを見る。

「ベリさ…いえベリに例のトーガで来るように言って」イルマは仕方ない…という顔で頷いた。

行列の中にはゼノンの配下が紛れ込んでいる。

余計な詮索をされてゼノンに痛くない腹を探られるのも癪だ。

例のトーガ…とは、大会前日に登録に行くために誂えさせた物だ。

白地の麻布だが、青糸で細かな花が織り込んである。

勿論透けてはいないし、襟ぐりも浅く袖丈も長い。

裾も脛の半ばまである。

中産階級の男性が着る普通のトーガであった。

「これは…」その普通のトーガを着たベリを一目見たロマリオは言葉を失った。

左右に控えていた侍従や付き人達もどよめく。

イルマは“してやったり”と胸のウチで小躍りした。

「彼が噂の白銀の騎士です」鷹揚に言い放つ。

「ベリ、今日もご苦労でした。素晴らしい試合でしたよ」

「ありがとう…」

「彼はアルゴスの言葉が不得手なのです。敬語は話せませんから、そのつもりで…」さりげなく庇う。

「ここにいるのはわたくしの息子のロマリオ公です。是非あなた…いえ、お前に逢いたいと言われてね」

そう紹介されても…いや逆にその紹介で少年がこちらを向いてしまった事で、余計に動揺する。

こざっぱりとしたトーガから覗く白い肌といぶし銀の組紐でまとめられた漆黒の長髪…何より心を奪ったのはそのエキゾティックな美貌だった。

けぶる睫毛に彩られた蠱惑の瞳…

半開きの唇は紅く濡れ光っている。

首筋から肩の線、驚くほどの細腰、華奢な手先…

稀に見る美女…男とは思えない。

だがその上背は自分より高く、たどたどしいアルゴス語を話す声は低い。

“欲しい!”ロマリオの目に情欲が湧いた。

それは居並ぶ側近も同じだ。

シェラムが金糸のトーガで寝所に向かった初めての夜…中庭の兵士や奥の間の侍女、女官が襲われたと同じ性欲が彼らを捉えている。

「母上、今宵一晩、この少年を私に貸してください」視線は少年を捉えたままだ。

「ば、馬鹿な事を!」イルマの顔が怒りで上気した。

息子がいきなり恋敵になってしまった。

「一度で構いません…」だが一度抱けば、際限なく求めるだろう…判ってはいてもそう言うしか無い。

「何が一度なの!冗談じゃないわ!」イルマは母太后の尊厳をかなぐり捨てて叫んだ。

「ベリ様はわたくしのモノ!どこの誰であろうと指一本出すことは許しませんっ!」ロマリオを睨みつけたその顔は嫉妬に狂った女の表情だった。

「母太后陛下、ベリは明日も試合があります。今宵はこれで引き取らせましょう」リシュアがすかさず割って入った。

「そうね…退がりなさい、べリ」まだ目が吊り上がってはいるが、そこは年配者らしく押さえて事を収めにかかる。

だがロマリオは引き下がらない。

「彼が白銀の騎士として戦うのは、貴女を選帝候にするためでしょう?ならばそれは私を次期皇帝にするために他ならない。私が礼を尽くすのは当然です」

「そのような詭弁を…

「よろしいのですか?母上…私の願いを無下に断って。もし選帝候になっても私が帝位を拒めば貴女は二代続いて母太后の地位にはいられないのですよ」ロマリオの声は掠れている。

それはゼノンが囁いた“知恵”の一つだ。

“皇帝となっても母太后に操られたくなければ今から言いなりにならぬ事です”――逆にイルマを操って無難に帝位を手に入れる…その策を色々と老練な武人は女婿となる若者に授けた。

「我が城に伴いたいのですが、明日の試合に支障がでては困る。この城で歓談しましょう。なに今宵一晩二人だけにして頂けるなら、何処でも構いませんよ」

「おのれ…」かつては溺愛した息子をキッと睨みつける。

「リシュア、私達は今夜はこの城に逗留する。部屋の用意をしてくれ」

「は…あ…しかし…」

「急だから無理は言わないよ。空いている部屋を割り当ててくれ。私は自分の部屋で眠るから」ロマリオにとってこの城は生まれてから物心つくまで育った…いわば実家だ。

引きつった顔の母の顔を見ることなく、壇を降りた。

下に立っている少年に近づく。

「ベリ…私が皇帝となった暁にはお前を貴族に取り立てアルゴスの領地をやろう」

「それ、大会勝っても貰える。デリラそう言った」

「欲がないな、大会などで賜される地位や領土など物の数では無い。私の寵臣として栄耀栄華は思いのままだ」

「……………」寵臣…聞こえはいいが結局愛人だ。

別に言葉の分からない国で愛人生活を送らなくとも国境を越えればアキロニア領ポイタインだ。

第二王子として凱旋し、タランティア宮殿に君臨できる。

ヴァイロンなら殴って半殺し…で幕を引くところだが、二人のやり取りを聞いてみると逆らっては拙そうだ。

所々判らないが、今こいつの機嫌を損ねては大会で勝ち進んでも意味がないらしい…

“馬鹿馬鹿しい!まったく誰の為に戦ってんだよ!”親が親なら子も子だ。救いようのない奴らだ。

沈黙を了解と受け取ったロマリオは少年の肩に腕を回した。

だが頭半分背が高い相手では上手くいかない。

サッシュベルトで締めた腰から尻の丸みに目を移すと、今度は腰に手を回した。

麻布を通して肌をまさぐる。

「ベリ様!」去っていこうとする男二人に、壇の上から悲鳴が聞こえた。

「イルマ、可哀想…貴方私を抱きたい?」

「ああ抱きたい…どうせ母とは毎日乳繰りあっているんだろう?今夜くらい独り寝で構わないさ」キラキラと輝く瞳に見据えらえると日頃の上品な言葉使いなど何処かに吹き飛んでしまう。

「じゃあイルマも一緒に…」

「な、なに?」

「大丈夫…私男も女も同時に相手できる…貴方一晩で私諦める?」

「いや…離したくない…」紅い唇が誘う…

「だったらイルマと…それならずっと一緒にいられる…」

そうなのか?――そうなのかもしれない…それでベリをずっと抱けるのなら…

「判った…母上の寝所に行こう…」目が血走っている。

“母と共にこの少年を犯す”――これから起こる淫靡な様を想像するだけで歩けない程に股間が屹立してくる。

「イルマ、この人と一緒にしよう…ねっ?」甘いジンガラ語の呼び掛けに駆け寄る。

「ああ、貴方の好きなように…」母太后は言いなりだ。

手を差し伸べ招いてくれた腕に抱き取られて息を荒げている。

その晩リシュアも他の女官達も…ロマリオの側近達も奥の間の扉の前から離れる事ができなかった。

ひっきりなしに響く親子の嬌声を聞きながら、金縛りにあったように床にへたり込み、自慰に耽る。

何度達しても満足できない…

煌々と照らされた寝所が帳の間から見える。

そこには禁断の光景が展開していた。

ロマリオの男根に背後から貫かれた少年の腰が怪しく上下している。

そこに、巻き付いているのはイルマの太腿だ。

「ああーっ!」少年の男根を収めて身悶える躯…上から覆い被さる息子の体重を支えながら豊かに揺れる乳房を愛撫する。

深々と呑み込んだ少年の裡が小刻みに蠕動している。

「ううっ…」耐えきれずにロマリオは射精した。

ゆっくりと腰を引く。

ズルリと萎えた男根が落ちた。

そこに紅い唇が這い寄った。

絶頂の波の中で急に膣奥から男根が引き抜かれ、イルマは身悶えている。

自分の指でまさぐり始める。

そこに少年の指が加わった。

舐め、吸われ、擦られ…絶妙の舌技に翻弄されて萎えたロマリオの肉塊はすぐに隆々としなり、天をつく。

「あふ…」このままではまた口中に洩らしてしまう…

それを察知した少年はズルリ…と抜いた。

「ほら、貴方の生まれた穴…いやらしいね…こんなに紅く濡れて…ほら…」

「あひいいいーっ!」グイと手首まで突っ込んだ少年はそのまま膣裡で手を開いた。

「ここ…こんなに大きくなって…真っ赤になってる…」この所、毎夜少年から加えられる爛れた愛撫によってイルマの陰核は肥大して普段でも莢から頭を覗かせている。

「舐めてみたら?」ロマリオの首に腕を回し引き付けた。

「ね?…ほら」そっと少年の舌が真っ赤な花芯に触れる。

「ぎゃああ!」少年の顔を押し上げてイルマの腰が踊った。

「しゃぶって…吸って…そしたら今度は貴方のコレ…この穴に入れてみようか?」

ロマリオの血走った目からは理性が吹き飛んでいた。

既に一度洩らしている。

寝室に入った瞬間、少年の左眼が紅く輝いた。

華奢な指が母と息子の衣服を交互に脱がしながら、肌に触れる。

肝心の部分には触らずに絶妙の技で欲望を煽る。

イルマの陰部に差し込まれた右手がクチャリ…ニチャリ…淫靡な水音を立てる。

ロマリオの唇に差し込まれた舌が同じ音を立てている。

さらに左手で柔々と握られた男根の先からも…そこを紅い爪が掻いている。

「ああ、ベリ様!お願い…もう…」

「おお、出る!ああっ…」

二人の口から同時に絶頂に達した叫びが上がった。

寝台に投げ出されたイルマは眉根を寄せ、きつく目を閉じたまま、紅く塗った唇の端から涎を流していた。

荒い息で盛り上がった乳房が上下し、すでに乳首は硬く尖っている。

臍下から太腿まで濡らしたまま、左右に割り開かれた股間を閉じることもせずに快楽の余韻に浸っていた。

口を開いた淫唇からは新たな蜜液が溢れ続けている。

寝台の傍らでは立ったままのロマリオが跪いた少年に男根を含まれていた。

チロチロと舌先が鈴口をつつき、陰嚢を揉む。

萎れた男根がすぐに回復してきた。

喉元まで呑み込み、ゆっくりと上下に扱く。

髪を掻き上げた少年が上目遣いで見上げた。

「おおっ!」紅い唇に自分のモノが出入りするのを見た瞬間、一気に膨張した。

“出るっ!”スイ…と少年は咥えていた男根を離す。

掌にこびり付いた精を唇で拭いながら、寝台に上がり、気を失ったイルマの股間の間に膝立ちした。

イルマにのし掛かる。

正気を逸しながらもイルマは少年の背に片手を回し、もう片方の手で股間に押しつけられた男根を掴むと自らの淫唇に導いた。

「あああ…」挿入されて身悶えが大きくなった。

その淫らな蠢きを押さえ付けるように、乳房を潰しながら上半身を倒す。

少年の腰が高く掲げられた。

「きて…」両の手で左右に尻肉を開きながら誘う。

屹立した股間を揺らしながら寝台に上がるロマリオは夢遊病者のようだった。

東の空が白んできた。

それでも凄艶な宴は終わらない。

もう何度射精しているのか…寝台の敷布に飛び散った精には血が混じり、薄赤く染まっている。

それでも少年から愛撫されると勃起する。

射精する。

イルマは最初から達きっぱなしだった。

正体なくひたすら快楽を貪り、失神と絶頂を繰り返し、白目を剥いたまま獣のように暴れ回り、最後には息が出来なくなって舌を突きだし胸を掻きむしって悶絶してしまった。

イルマの膣口はポッカリと穴が空いたまま、閉じなくなっていた。

そこから洩れる愛液と精液…少年のモノではない。

ロマリオは腰を抱えられ喘いでいた。

肛門には少年の男根が緩慢に抜き差しされている。

循環になっているのは母親の蜜だ。

真っ赤に腫れ上がったカリ首の先に突き刺さる紅の爪…だがロマリオの中に“女”を生じさせたのは、そこから挿入された緑の触手だった。

今も鈴口から中に入った触手は樹液を滴らせながら、幾重にも枝分かれして這い回り、グニグニと拡がりながら管という管を犯していく。

「ベリ…さ…ま…ああ…」ロマリオはいつしか母と同じように少年に屈し、隷属していた。

「くくっ…達きたい?」少年は含み笑いを洩らすと母と息子の淫蜜にまみれた躯を離した。

「悪いけど夕方から試合なんだ…少しは休んでおかないとね…あとは二人でやりなよ」下卑たジンガラ語で囁く。

「あっ…ひぃ…」ズルリと触手が引き抜かれた。

触手を収めた紅い爪は朝の陽光を浴びて一層輝きを増した。

「ひぃ…」絶叫したいのだが、喉がひりつき、声が掠れる。

「うう…」達く寸前で止められた快楽を求めて悶えるが、根こそぎ奪われた体力は僅かな身じろぎしかできない。

「しょうがないな…」少年は舌打ちするとロマリオの躯を抱え、大股開きのまま仰臥するイルマに重ねた。

血膿を洩らす男根を白濁しきった液で溢れかえる蜜壺に挿れてやる。

「お…お…」立てないほどに疲弊していたロマリオの腰がカクカクと動き出した。

「あふう…ん…」気を失っていたイルマが甘い吐息を漏らす。

「じゃね。今夜の試合、見に来てよね。なんてったってアンタ達のために毎日人を殺してるんだからさ」張り付いた微笑…淫神リンガの化身は煌めく朝日の中を去っていった。

「べ…リ…様…」見送るロマリオの顔はどす黒く腫れ上がり、真っ黒なクマができた両眼は血走って虚ろだ。

「あん、あん、あん、あん…」母はそんな息子から精を搾り取ろうと、さらに腰を揺すり上げ、乳房を押しつけた。


「ヘッ、昨日は次期皇帝陛下直々のおなりで城まで押しかけてきたと思ったら今日は女官長様もお出ましにならないってか」ウェルヘは意味ありげに白銀の騎士を見る。

「よせ、ウェルヘ。毎日観覧されてこっちも重圧だった。一日くらい居ない方がありがたい」副将のウォルゼフはベリに気を遣う。

「俺は嬉しかった。昨日褒美たくさん貰った。またロマリオ様が来ればいい」テグンは屈託無く笑った。

生まれついてか、それとも奴隷時代に頭でも強打されたのか、この屈強な黒人戦士は知恵遅れだった。

母国のクシュ語もはっきりとしないのだからアルゴスの言葉などちんぷんかんぷんだ。

だからデリラとしか話せなかった…そこへクシュ語を解する少年が現れた。

彼はそれだけで“ベリ”に心を開いた。

それにデリラは“ベリ”を大切に扱っている。

格闘奴隷から拾い上げ、自由民にしてくれたデリラはテグンにとって恩人であり主人であり母を思わせる存在だった。

デリラが“ベリ”を大事にするなら自分も“ベリ”を大事にする――それだけの事だ。

「大丈夫か?今日は…」奥の間で昨晩何が起きたか――私兵の隊長として城内に自由に入れる。

だから見てしまった――女官、侍女、給仕から下働き…ロマリオに付いてきた家来達…散々に乱交が繰り広げられた後だった。

自分もベリと一線を越えた仲だ――問いただしたくはないが将として、尋ねない訳にはいかない。

デリラはやはり戦士…女である前に戦う闘将であった。

が――

「何が大丈夫なの?」逆に切り返されて言葉に詰まった。

白銀の面当てに覆われ表情は見えない。

「お楽しみだったんだろう?俺達が知らないとでも思ってんのか?お前さん、ロマリオ公まで色惚けにしたそうじゃねえか」ウェルヘはクシュ語で言った。

さすがにイルマとロマリオ…二人同時に抱かれ、最後には母子相姦まで手引きしたとまでは思いつかないだろうが…

デリラの顔に一瞬狼狽が走った。

クシュ語で話せば通じないと思っていたからだ。

「へん、俺だってクシュ語くらい解らぁ。残念だったな、隊長さんよ」

「よせ、デリラ隊長馬鹿にする奴許さない!」テグンが声を荒げた。

「私は大丈夫…順番決まったら教えて…」争いごとに背を向けて控え室の外に出る。

テグンと同じだ。デリラに批難が及ぶのを避けたかった。

もしデリラと躯の関係を結んだ事を気づかれたら…自分がいれば余計な詮索をされかねない。

何故ならデリラの態度はよそよそしい。

傍目で見ていても、違和感を感じる程に…

おそらく副将のウォルゼフは感づいているのではないか…と思う。

“なんであんな親子のために…”石壁を拳で打った。

“ガイに逢うならこんな事しなくたって…”だが今はもう一つの目標が出来てしまった。

デリラをイルマの元から連れ出すという目標だ。それには近くにいてデリラを守らねばならない。

「うぐう…」柱と石壁の隙間から微かな呻き声が聞こえた。

“血の臭い…”そして…独特の気配が漂っている。

独特の…それはカニリアの尖塔に…コーシュミッシュの地下陥穽にあったモノと同様だ。

タランティア宮殿の東離宮に満ちていた…ヒューイが畏れた人外の気もこれと変わらない。

上から岩盤にでも押しつぶされたのか――胸から下がへしゃげた男…何とかヒトの形を為す血の塊が蠢いていた。

内臓が破裂し骨もバラバラだ。

口から血反吐を吐いている。

傷ついた肺では息ができないのだろう、かぼそい息も時折止まる。

昼間の試合で敗れた魔道士の成れの果てだった。

登録した格闘士ではないから、引き取っていかない。

魔道士を雇ったとばれてしまう。

傷の手当てなどもっての他だ。

もっともこの傷ではどう手当をしても助からない。

“術が敗れ役に立たなくなった者は打ち棄てられる”――白銀の騎士は死神デリラから聞いたあらましを思い出していた。

シェラムの興味は魔道士の首から上にあった。

“どうして頭が潰されなかったんだろう?”明らかに自分が繰り出した術をそのまま打ち返されている。

これだけ躯がグシャグシャならば、頭もろとも一瞬で圧死するはずだ。

“うん?”土気色になった男の額から血で固まった髪を掻き上げる。

“これか!”――額の真ん中に水晶が埋め込まれていた。

“…この水晶どこかで…”――“そうだ…先生の館…廃屋になったロードタス河の館の前に立っていた石碑だ”

葦が生い茂る中にデキシゼウスが建てた石柱は幼いシェラムを敵から守って命を散らしたシュカの追悼碑だった。

シュカはタランティア王太子宮の総帥シェバの兄である。

宰相パブリウスの次子に生まれながら世俗を捨てて信仰の道に入った。

そのシュカが最高神官デキシゼウスの命によりシェラムの陰供(かげとも)となった。

ミトラの祈りが刻まれた石の中央には小さな水晶が埋め込まれていた。

あの水晶と同じ…

“まさか…”同じ水晶があるとすれば、十年前に共闘を組んだアシュラ神官ハドラタスと…恩師ペリアス!

水晶に手をかざした。

こんなはずではなかったどうして打ち返されたんだ…”

あの方はアイツは最強のはずだどうして…”

脳裏に直接響いてくる。

あいつとは誰だ?お前にこの水晶を嵌め込んだ…見せろ…その姿を…

シェラムの脳裏に一人の痩身痩躯の男が浮かび上がった。

風に絹の黒衣と灰色の髪をなびかせたその顔は…「師の君!」

「何処で逢った?この灰色の髪の男はどうしてお前ごときに水晶を渡したのだ?」

声を荒げた。

たのんだどうしても力が欲しくて何でもいいから力の源をくれと…”

アイツは自分はもう何もいらないからと言ってこれをくれた…”

会ったのはステイジア死の河スティックスのほとりだ…”

「身の程知らずな…お前程度の霊力でこの水晶が使いこなせるものか」

そんなことはない上手くいっていたのだ敵をバタバタとたおして強くなったそれなのにあの大男には効かなかった…”

「大男?…そうか、お前の術を返したのはガイか…」

当然だ。あのラカモンの環(リング)には自分だって刃が立たない。

「なまじこんなモノを嵌めたお陰で楽に死ねなくなった…愚かな奴だ」シェラムの呟きは兜に阻まれてくぐもった。

もっとも瀕死の魔道士には耳慣れたステイジア語さえも届いてはいないだろう。

「恩師の居場所を教えて貰った礼に、一息に殺してやろう」シェラムは白銀の指貫でグイ…と水晶を抉った。

その瞬間頭蓋骨から胸までも一気に潰れてぺしゃんこになった。

辺りに脳漿と肉片が飛び散り破裂した眼球からドロリ…と水晶体が溢れた。

「やっぱり先生はステイジアにいたんだ」水晶を握りしめた。

“ガイにも知らせなくちゃ…ってあと何日すれば決勝戦なんだろう…”


決勝戦の日取りは意外にも早くやってきた。

バシリスのチームとクモントのチームが突出して強すぎた為だ。

確かにルールによれば『負ければ死』である。

だが今までは各チームの実力が拮抗していたから、殺し合いの途中で両者とも力尽きて、敗者が命を奪われるケースは少なかった。

『負ければ死』は格闘士の覚悟を強固にさせ、観覧の客を煽る立前に過ぎない。

しかし黒鉄の剣士と白銀の騎士、そして将である死神デリラは違った。

圧倒的な強さであっという間に血祭りに上げる。

命あっての物種だ。

契約を破棄して逃げ出す格闘士が続出した。

こうなると出場を辞退するしかない。

選帝候のチャンスをみすみす逃がした大臣諸侯は歯がみをしたが今更どうしょうもない。

ただ軍相であるゼノンのチームだけは辞退しなかった。

そんなことをすれば主人の沽券に関わる。

従って決勝は3チームの三つ巴戦という事になった。

「ゼノンって貴方の後見人なんでしょう?あちらに出向かなくていいの?」決勝を前日に控え、ベリはイルマの寝室にいた。

愛人に私室はない。

常に女主人と共にいるのが当たり前だったから、ここしか居場所がないのだ。

寝台から投げ出された足の指を口に含んだままロマリオは嫌々をした。

床に膝を着き両手で“ベリ様の足”を捧げ持っている。

寝室の主は全裸の躯に香油を塗りたくり、そのまま仰臥したベリの躯に覆い被さる。

クネクネと躯をのたうたせ、二チュニチュと音を響かせながら密着した肌でマッサージを繰り返す。

市井の娼婦が上客を歓待する手管と変わらない。

こんな事でマッサージになるとも思えないが本人は奉仕の喜びにうち震え、何より肌を押しつける度に沸き上がる快感に酔っている。

脇にこれも全裸のリシュアが香油壺を掻き回し、女主人が身を起こす度に、筆で香油を塗りつける。

リシュアの膝立ちした股間から滴る精はロマリオのものだ。

もちろん少年の男根も呑んだ…唇でも蜜壺でも…でも彼は相手が誰でも射精しない…

もはやイルマはベリが誰彼無しに寝室に引っ張り込むのを止めなかった。

それはロマリオに従ってきたゼノンの臣下にも及んだ。

自分から跪いて口に含み屹立させては、後ろの穴に呑み込む。

香油が滴る双丘の窪みから洩れ出す精は幾人のモノともしれない。

それ程ベリはどん欲に淫気を貪った。

ロマリオが濡れ光る逸物を自分の指で扱きだした。

「したいの?」ベリ様の問いに必死で首を縦に振る。

「自分で拡げて…」慌てて後ろを向き腰を掲げて両手で尻タブを押し広げる。

「降りろ」抱きついて喘ぐイルマの躯を横に押しやった。

「お前達は二人でやってな」リシュアの手を取って香油まみれの乳房の上に乗せた。

少年は寝台に身を起こし、ロマリオの尻に香油が滴る男根を押しつけた。

それはイルマが乳房の谷間に挟んで塗り込めたモノだ。

「ああ、ベリ様!」ロマリオはのけぞった。

散々に犯された穴は、あっさりと屹立したモノを受け入れた。

「チッ、締まりがないな…ほら、自分で動かしてみなよ」少年の指が前に回されてロマリオの男根を擦る。

「ああーっ!」ロマリオは床に顔を押しつけて喘いだ。

「また、達っちゃったの?しょうがないな…」少年は腰を持って引き付けた。

パンパンと腰を叩きつけ、手荒な抽送が繰り返される。

「あひ、あひ、あひ…」喘ぎ声に合わせて開いた穴を抜き差しされる男根を見ながら、イルマとリシュアは逆向きで抱き合い、互いの膣肉を舐め合っている。

“これで当分淫気を吸わなくても大丈夫…ていうか食傷気味だよね”左の小指を唇に咥え、鉛色の指輪にロマリオの精を塗りつける。

今日でこの城を出る。

いやメッサンティアを発つつもりだった。

何故なら、もう少しでガイと再会できるのだから…

「うぐうぅ…」ロマリオの男根から精が床に飛び散った。

それでも萎えない。

白目を剥いて達き続ける青年の尻を抱えたままでシェラムは兄にどう算段を伝えようかと考えている。

算段――デリラの解放だ。

テグンはデリラを慕っているから彼も着いてくるかもしれない…デリラにも連れがいれば寂しくないかも。

どちらにしろ、自分はここで袂を分かつ。

ペリアスの行方が知れた今、一時芽生えたデリラへの恋慕の情は薄くなった。

“好きだけど…一緒にはいられない…”住む世界が違う…と頭の何処かで声がする。

デリラがベンダーヤ王妃になれぬという訳ではない。

シェラムが望めば後宮に迎え入れる側室は何人でも構わない。

側室と正后は違う。

そういう意味でいうならアィーシャの出自の方がずっと問題だ。

いくらアキロニア王妃の養女として輿入れしても遊牧民の童女を后宮(きさいのみや)に据える方がバラモンやクシャトリアの反対が大きいだろう。

デリラはアィーシャとは違う…自分と同格の存在だった。

だからこそ自分の運命に巻き込みたくない。

彼女には彼女の人生がある。

では、自分と共に常にあるのは…

“ガイ”――兄しか思い浮かばなかった。

「ヒドラ!」蝋燭の炎から小さな銀塊が躍り出た。

「ガイの所に行って…逢いたいって伝えて…」

サラマンダーは少し躊躇した。

「お前は“魔”じゃないからラカモンの環(リング)は平気でしょ?」

金色の瞳がこちらをじっと見ている。

「何?…」何か伝えたいことがあるのか?

聞き質そうとした瞬間、小さな蜥蜴は銀色の鬣を翻し再び炎の中に消えた。


三つ巴の決勝戦は総当たりで、味方以外の相手を手当たり次第に倒していく。

そして、残った…もしくは生きている格闘士の多いチームが優勝という、前代未聞のルールとなった。

使いに出した蜥蜴は戻ってこない。

“このままガイとデリラが当たったら…”シェラムの危惧はそれだけだった。

剣を持てば“死神”になる。ましてや彼女は将だ。

一対一のルールでないのなら、常時庇って戦うのは無理だろう。

「ねえ、デリラ…この試合に勝ったら格闘士を辞めない?それからイルマの所にもいて欲しくないんだ」辺りを気にしながらクシュ語で囁く。

「フフン、じゃあアンタが面倒みてくれるっての?」年下の恋人が今度は男まで引き入れて、昼夜問わず乱行に耽っている…見ていて面白いはずがない。

デリラの女の部分が言わせたイヤミだったが、少年はその問いをまともに受けた。

「それはできない。私は逢わねばならぬ人と逢って為さねばならぬ事がある。その人を探す旅の途中なんだ。デリラと共に生きてはいけない…」

「解ってるさ、アタシだってアンタと添い遂げようなんて最初から…」思っちゃいない…と言いかけてデリラは愕然とした。

“添い遂げる?何を言ってるんだ、アタシは!こんな淫乱な男娼と…夫婦になろうなどと…”

だが心の底ではそれを望んでいた。

自分自身でも気づいていない、密かな願いだった。

「イルマもリシュアもデリラの事は引き留めない…今、あの二人はデリラどころか私以外の人間には興味がないから」

「ああ…そうらしいな…」毎日呼びつけてあれこれと指示を出していた――その呼び出しがぱったりと止んだ。

ベリに耽溺している。認めたくはないが…見たくなくとも城のあちこちで目にしてしまう乱交の有様で解る。

さすがに決勝戦ともなれば抱え主として観戦に訪れぬわけにはいかない。

腰が抜けた女主人と、その次男は係の者達に支えられながら貴賓席に姿を表した。

隣に坐るバシリスとゼノンは、二人の…いやクモントからやってきた一行のあまりの変わりように驚愕した。

凝脂をたっぷりと纏わせた豊満な躯、瑞々しかった肌が、すっかり艶を失い、目の周りはクマで真っ黒だ。

女官長の皮膚に至っては羊皮紙のように黄ばんで、かさついている。

「ロマリオ殿下…如何なさったのです…」ゼノンが側に寄った。

母親の城に押しかけてから近侍に送り込んだ家来達からの報告がぱったりと途絶えた。

クモントに送った使者は門前払いで戻ってきている。

次期皇帝の第一候補…その後見として名乗りを上げ、他の貴族も認め始めていた。

娘の一人を嫁がせて女婿にしてしまえば、その地位はさらに盤石となる。

この大会が終われば、婚約…という矢先に――

「ロマリ…」こちらを仰いだ表情は白痴だった。

焦点の合わない目、頬が緩み半開きの唇からは涎が垂れている。

“これは…何としたこと!”大切な手駒が崩壊しかかっている!――軍を総括する大臣の頭は真っ白になった。

「ゼノン軍相閣下、そろそろ皇帝陛下のおなりです。席に戻られよ…」バシリスが声を掛けた。

「ああ…」動揺を隠せないまま、ゼノンは鍛え上げた躯をヨロヨロと椅子に沈めた。

二人の姿を見て、驚いたのは歓呼の声を浴びて登場したラスカリス帝も同じだ。

仲を違えているとはいえ、母と弟が、半病人のようになっている。

リシュアはじめ女官や近従に聞き質そうとしても、誰一人まともな状態に見えない。

「バ、バシリス…母上とロマリオは如何したのじゃ?」実質の最高権力者であるゼノンが弟に接近してから皇帝は大臣の長…首相としてバシリスを重んじている。

「わたくしにも図りかねます」屋敷の前まで来たのに帰ってしまった…それっきりだ。

「ゼノン、そちの娘と婚約するのだろう?ロマリオはどうしたのだ?」

「は、はぁ…このところ母太后陛下の城に御逗留になさっておられまして…」ゼノンも歯切れが悪い。

象牙の喇叭(オリファント)が鳴り響いた。

観客が上げる歓声で円形の会場が揺れた。

格闘士が階下から闘技場に上がって来た。

“参ったな…ここでガイに話しかけたら八百長だって思われるし”頼りのサラマンダーは何処へ行ったのか…白銀の騎士は観衆の喝采にも答えずに思いを巡らす。

“どうやってデリラを庇おうか”…取り敢えずガイにまず自分がここにいるという事を知らせなくては――

兜の面当てを外そうと顔を上に向けた。

「あれ?」ヒドラの目に映っていた黒光りする肉厚の鎧に身を包んだ大男――ガイの後ろに銀灰色の長髪が見える。

「うそ…」銀灰色の髪を地に引きずるまで垂らした黒い長衣の女が世話役の腕章を付けて佇んでいた。

目には布が巻かれている。

盲(めし)いた女中が人の嫌がる死体の始末を押しつけられて同行しているように見える。

だが――「ヒドラ…何やってるの…」確かにタランティアからサンダー河で出会うまでガイはヒドラを懐に自分を探していたのだから、懐いても当然だとは思うが…

では、こちらの情報は全て伝わっていると思っていいだろう。

「そういう事なら心おきなく」上げかけた面当てを元に戻す。

「デリラ、あの大男は私に任せて…」

「馬鹿を言うな。一人では無理だ。アイツがどんな戦い方で勝ちあがってきたか聞いてるのか?」

「聞いてはいないけど、想像はつくよ」その戦い方で潰された魔道士を看取ったばかりだ。

「ベリ魔法使う?」クシュ語のやり取りを聞いたテグンが割り込んできた。

「使ってもいいけど、あの大男には効かない」

「お前…あの大男を知っているのか?」デリラの声が険しくなる。

「知ってる…だから任せて欲しい」

「聞き捨てならねえな、お前との関係はなんだよ?」ウェルヘはクシュ語を解する。

「情夫(イロ)じゃねぇのか?痴話喧嘩でもして別れたのか?」

「よせ、もう試合開始までに時間が無い。こんな時にいざこざを起こすな」副将のウォルゼフは弟をたしなめた。

「あの大男がいる限りバシリスの奴らには適わん。ベリに策があるのなら任せてみてはどうだ?少なくとも俺達には対抗策は無いんだから」弟を後ろに下がらせるとデリラに意見する。

「……………」実際デリラは捨て身の戦法しか考えていなかった。

いくら考え、迷ったところで死地回生の名案が浮かぶはずはなく…

運がよければ勝てる。

だから――

“死を畏れるな!”――それは戦士として戦場を渡り歩き、格闘士として生き残ってきた経験がもたらした答えだった。

「解った…好きにしろ。その代わりアイツ以外の奴らはこっちで始末するんだ」

「おう!」テグンが答えた。

「うむ!」ウォルゼフも頷く。

ウェルヘだけが鼻白んで、プイと横を向いた。

喇叭(オリファント)の調子が変わった。

皇帝はじめ貴賓席に坐る貴族達の前に銅鑼を掲げた審判が重々しい足取りで登場し一礼した。

ラスカリス帝が頷いた。

銅鑼が鳴った。

銅鑼の響きが鳴り終わらないうちに――

将を除くバシリスの一団は一斉にゼノンのチームに襲いかかった。

そして、それよりも早く黒い影と化した大男はクモントの陣地に駆け寄ると、一撃でデリラを打ち倒した。

「ガイ!止めてーっ!」白銀の騎士の悲鳴にも似た絶叫は顔を覆う兜と周囲で巻き起こった剣戟の響き、そして観客の歓声に遮られた。

防ぐ暇もなく将のデリラを討ち取られ副将のウォルゼフは浮き足だった。

「うおおおおーっ!」親とも慕うデリラが地に伏した姿を見たテグンがうなり声を上げて黒鉄の剣士に突進した。

血走った目から黒い鎧が消えた。

「へ?」敵を見失って辺りを探す。

「テグン、上だ!」ベリが体当たりした。

テグンは白銀の騎士と共に横へ転がった。

そこへ真上から黒い塊が落ちてきて、鼻先を段平の切っ先がかすめた。

「あう、あう…」テグンは尻餅をついたまま後ずさった。

圧倒的な威圧感に躯が動かない。

デリラをやられた怒りも、沸き起こった畏怖の前にかき消えた。

その前に白い鎧が立ち塞がっている。

「許さない…」聞いた事の無い言葉だった。

だがその一言に一杯の怒気と殺気が込められているのが解る。

ゼノンのチームを血祭りに上げて大男の後ろにバシリスの一団が勢揃いした。

「こいつは俺が仕留める…手を出すなよ」アルゴス語の命令に皆頷くと、固まったままのウォルゼフ、ウェルへ兄弟の周囲を囲む。

「許さない!ガイ!」絶叫と共に紅いマントが空に舞った。

白銀の光が飛翔した。

弧を描いて真っ直ぐに黒鉄の剣士に撃ちかかる。

黒い影が地を蹴った。

「シェーラ!聞け、お前の…」兄が囁くキンメリア語は無反りの長剣が空を斬る音にかき消された。

夕陽を弾く白刃に銀紫の文様が不気味に浮かび上がる。

観客は皆空を見上げていた。

それは腰を抜かしたテグンも、囲まれたウォルゼフとウェルへも、そして今にも二人に撃ちかかろうとしていたバシリスの四士も同じだった。

暮れなずむあかね色の空を背景に黒い影と白い線がぶつかり合い、離れ、またぶつかり合う。

誰もが凍り付いたままだった。

咳き一つたてず、息を呑んで、ただ黒白の争いを見ている。

彼らは闘技場を斡旋する殺気に気圧されていた。

空から降ってくる剣戟の響きだけが闘技場に響く。

どれくらいの時間が経ったのか…辺りはすっかり夜の闇に閉ざされて、二人の争いは音でしか解らなくなっていた。

それでも観客の金縛りは解けず、試合場の奴卑達も松明や燭台に火を灯すこともできずに呆然と突っ立っている。

闇の中で白い塊が降ってきた。

「ぐっ…」それが地に落ちて白銀の鎧に見えた途端に、観客達は一斉に大きな息を吐き、倒れ込んだ。

正気に返った奴卑達が慌てて灯した松明の光に白銀の騎士が浮かび上がった。

乱れた黒髪、その額から一筋の血が滴っている。

彼は兜を割られていた。

鎧の胸当ても切り裂かれ、肩を覆う鎖帷子が露出している。

透かし彫りを施した美術品は、黒鉄の剣士が繰り出す剣技と圧倒する力の前にはあまりにも無力だった。

この程度の被害で済んでいるのは白銀の騎士が持つ並はずれた反射神経のたまものだ。

初めて見せる素顔に観客がどよめいた。

怒りに燃えた瞳は遙か前方に間合いを取った黒鉄の剣士を睨んでいる。

凄絶な美しさだった。

「おお、ベリ様…」フラフラとイルマが起ち上がり欄干に近づいた。

「わたくしのベリ様…」大きく腕を拡げると長男たる皇帝の眼前で母太后は露台(バルコニー)から真っ逆さまに落ちていった。

デリラを失った怒りが実力を倍加させ、何とか五分の戦いを繰り広げてきた。

だが体力の差は歴然としている。

長期の戦いに疲労が募り、隙が生まれた。

歴戦の勇者はそこを見逃さなかった。

何度か受けそこね、関節が軋んだ。

足がふらついている。

“このままではやられる”実力の違いを思い知らされた。

だが退く気はない。

せめて一太刀でも浴びせなければ気が済まない。

「くそっ!」血糊が眼に入る。

頭を振って血を飛ばした。

と――

“ヒドラ?”視界の片隅に銀色の輝きが見えた。

銀色の輝きの隣にはデリラが…

“えっ?”

デリラがこちらを食い入るように見つめている。

“まさか…ガイ…じゃあ、一番最初にデリラをやったように見せかけて?”

腹に凄まじい衝撃が襲った。

あの段平が横になぎ払われた。

間一髪、直撃を避けた。

完全に鎧は裂けている。

鎖帷子が無ければ骨まで斬られていただろう。

それでも息が出来ないほどの打撲を受けてシェラムは倒れた。

「待って…ガイ…わかった…もう止めよ…ごめんね…私の願いをきいてくれたのに…私ったら早とちりして…」荒い息の下で言葉を繋ぐ。

そうだ、兄は何のためにヒドラをヒト型にして召し連れて来たのか…こちらの話は通っていると察したではないか…

信用すべきだったのだ。兄を…

彼はいち早くデリラを仮死状態にすることで誰からも怪しまれず戦いの渦の外に出す策を取ってくれた。

そうだ…私が撃ちかかった時、兄はそれを伝えようと…

「ね、ガイ…」

段平が打ち下ろされた。

「うわっ!」切っ先を転げ回って避ける。

これっていつかの…サンダー河の砦で再会した時と同じ…

消えたはずの喉の痣がチリリ…と痛んだ。

“どうしよう、また訳が解らなくなるまでキレちゃってるよ!”直刀を構えた。

ラカモンの環(リング)を嵌めた腕から繰り出される段平を何とか受けて防いできた。

ガイが右手だけで打ってきたら…その機会を狙うシェラムは左へ左へと逃げる。

だが腹に受けた痛手は一番の武器であった俊敏な動きを削いでいた。

“まずい…足にきてる”膝が震え、僅かな地面の窪みによろける。

その隙を見逃すはずのない段平の一撃が振り下ろされる。

「ベリ!」デリラの彎刀が投げつけられた。

咄嗟に振り向きざま打ち落とした段平は右手一本で握られていた。

“よし!”下から長刀で段平を擦り上げた。

鈍い音を響かせ、肉厚の段平はデリラの愛刀と共に遙か後ろに飛んだ。

「ガイ!」これで正気に…

「うわ?」鎧の上にのしかかられた。

鋼鉄の指貫を施した左手がメリメリと薄い鎧に食い込む。

「ぐぅ…」ラカモンの環(リング)が手っ甲と指貫の間で蒼く光っている…

「や…め…ガ…」兄は弟の心臓を握り潰そうと力を込めた。

シェラムの頭の中で白い閃光が爆発した。

ズン…一瞬下から何かが突き上げた。

“えっ?”皇帝も観客も息をひそめて見守っていた試合から一瞬意識が戻る。

次の瞬間ドン!と大地が揺らいだ。

グラッ!松明が次々と倒れ火の粉を散らす。

「な、なんじゃ?」海と砂漠に挟まれた広大な台地…アルゴスに地震は無かった。

ビシッ…石柱に亀裂が走り、壁が落ち始めた。

最上階に着きだした貴賓席の露台(バルコニー)が大きく傾いだ。

「うん?」大きな力に跳ね飛ばされたヴァイロンは兜の面当てを擦り抜けて頬に触れる固い銀毛に気づいた。

「ヒドラ?」眼に巻いた布を取り去った女が金色に輝く爬虫類の眼で面当ての中を覗き込んでいる。

「シェーラは?」銀髪の下から襤褸襤褸になった鎧が現れた。

「シェーラ!」

「!」抱き上げた弟の胸が青黒く指の痕を見せて鬱血していた。

「この指の痕は…まさか…俺が?」菱形の台の上下に尖った角を延ばすラカモンの環(リング)――その角に食い込んでいるのは明らかに白銀の鎧の一部だった。

周囲は落下してくる石材を避けて逃げまどう観客の行く手を、あちこちで広がる火の手が阻み阿鼻叫喚の様を呈していた。

家族が下敷きになって助けてくれと泣き叫んでいる者もいたが、大半は呻き声を上げていても、そのまま捨て置かれた。

皇帝も貴族も大臣も…奴卑すらも関係なく崩れる競技場から一刻も早く脱出しようと押し合いへし合い、前を行く者を突き飛ばし、倒れた者を踏みつけしながら門に殺到していく。

試合場の石畳にも亀裂が入り始めた。

「起きろ!シェーラ!この揺れを止めろ!お前が助けたがってたデリラって女まで死んじまうぞ!」

ぐったりと伸びた躯を揺する。

銀の光が眼を射た。

世話係の腕章を付けた黒い長衣が地響きを立てる地にふわりと落ちた。

銀灰色の蜥蜴に戻ったサラマンダーはシェラムの顔に駆け上がると、鬣の生えた尾の先で閉じた左の瞼を打った。

「う…」

「シェーラ!」

「あ…ガイ…わ…たし…あう!」左胸を押さえた。

「痛むか?」その傷を付けたのは自分なのだ…

身を震わせて痛みに堪える弟が不憫とは思うが…

「まずこの揺れを止めろ」

「あ…うん…」伏したままで顔を上げる。

左眼の奥が紅く輝いた。

ズ…ピタリと揺れが治まった。

落ちかけた露台(バルコニー)にしがみついていたバシリスはヨロヨロとひび割れた床に降りた。

「ほら、お前から頼まれたアマゾネスは無事だぞ」

黒鉄の剣士に抱きかかえられた白銀の騎士は腰まで垂れる漆黒の髪を掻き上げた。

「ありがと…ガイ…あと…あの宿屋で…待って…なくて…ごめんなさい…」苦しい息が続いている。

「病気…持ちじゃ…ないかって…追い出されちゃって…ガイを…探して…バシリスって人の…屋敷まで…行ったん…だけど…」

「もういい、しゃべるな」

「ベリ!」デリラが走り寄ってきた。

「紹…介するね…私の…兄…なんだ…」

「ええ!?」


試合場は落ちた石材の下敷きになった人々もろとも一昼夜に渡って燃え続け、火が収まった時には黒々とした瓦礫の山に変わっていた。

クモント城の関係者はイルマはじめリシュア以下全員が露台(バルコニー)から落ちて死んだ。

次期皇帝と言われたロマリオ公も…倒れてきた石柱によって圧死した。

そのロマリオの後見だったゼノン軍相は行方不明――潰され、焼かれて殆どの遺体がヒトの姿を留めていない。

身元が判明する者は僅かだった。

皇帝はただ一人場外に脱出して無事だった。

側近は誰も助からなかったけれど…

アルメイン河の畔に黒駒と銀の鬣と尾を長くなびかせた灰色の馬…らしきモノが並んで繋がれている。

「じゃあ、これ…ポイタインに行ったらすぐ城に…」オレンジのベールから差し出された羊皮紙は丸められ油紙に包まれている。

「すまない…ベリ…」

「ポイタインはアキロニア領でも一番の自由都市だ。肌の色がどうのといった人種差別はない。クシュ人も国の一角に集落を造って住んでいる。お前達が暮らすにはもってこいの場所だ」ベリの兄だという大男が頷いた――ガイという尋ね人が“黒鉄の剣士”だと言われた時には驚愕したが、鎧を脱いで酒を酌み交わしてみれば冴え冴えとした蒼い瞳が際だつ実に侠気に溢れた戦士だった。

ポイタインの世襲公トロセロ伯爵に当てたアキロニア王太子自筆の手紙には“そこで街を守る仕事に就けるよう何らかの役職を宛がってくれ”と書いてある。

「解った?トロセロだよ?もしトロセロがタランティアに出向いて不在だったら…誰だっけ?」兄を振り向く。

「エルンストだ」トロセロ伯の嫡男でポイタインを実質統治しているのは彼だ。

息子のユウラによく似た風貌と大らかな性格をコナンは勿論、ヴァイロンも愛でていた。

「だけど、城主様がアタシ達みたいな者に逢ってくれるのかい?」デリラは半信半疑だ。

ベリを信じない訳ではないが…あまりに話が上手すぎる。

自分一人なら何があってもはね除ける自信はあるが、今は連れがいる。

傍らには神妙な顔をしたテグンと…主を失ったクモント城を飛び出したウォルゼフ三兄妹が並んでいた。

ゼノンの格闘士にやられたウェルへの遺髪はウォルゼフの懐に収められている。

「このまま川沿いを遡ればポイタインとの国境に出る。更に進めば城からの警備兵に出会うだろう。油紙から出してこの署名を見せるんだ」

ウォルゼフの病弱だという弟はアキロニア語ができた。

「そこから先は、弟に通訳して貰え」

「じゃあ…私達は南に下るから…」シェラムは懐に手紙をしまうデリラをチラと見て踵を返した。

「達者でな!」片手を上げて、ヴァイロンも黒駒の元へ足を踏み出す。

「ベリ!」デリラが呼び止めた。

「また…逢える?」クシュ語で訊ねる。

「また逢えたら抱いてくれる?」ゆっくりと振り向いた少年は小首を傾げて微笑んだ。

「ば…」デリラの顔が紅くなった――黒色の肌からも上気した頬がわかる。

五人は黒駒と灰色の馬…らしきモノが走り去るのをじっと見送った。

オレンジのベールがたなびいている。

「ベリ…」頬を染めたまま呟くデリラの声は甘かった。


「大丈夫か?」

「うん…痣はまだ消えてない…押さえたら痛いけど普通にしてたら大丈夫」そっと手綱を握りながら左胸に触れる。

「そうじゃなくて…」

「えっ?」

「俺と一緒にいて大丈夫なのか?また訳が解らなくなってお前を襲うかもしれんぞ」

「だってガイ、離れるなって言ったじゃない?」

「それは…」

「何でも言う事きくんでしょ?だったら離れられないよね」

「シェーラ…」

「そのラカモンの環(リング)が外れてくれるとこっちも楽だけど」

「外れないんだ…」これが原因かもしれない…バシリスの屋敷で何度も外そうとした。

やっとこで引きちぎろうとしたが、どんな刃も傷一つ付かなかった。

「でしょ?だからガイも私と一緒にペリアス先生を見つけないとね」

「結局お前のお守りか」

「いいじゃない…あ、どっかで布見つけないと」

「布?」

「だって顔を出したら拙いんでしょ」また顔に巻くつもりらしい。

「いや、もうそのままでいい」巻いても巻かなくても…どっちにしろ何かしらの騒ぎを起こす。

「で、ステイジアってどっち?」

ヴァイロンは黙って川面の先を指さした。

掲げた左の中指に奇怪な形の指輪が青く鈍い光沢を放っている。

それを見つめるオレンジのベールの奥で、呼応したかのようにシェラムの左眼が紅く輝いていた。

第10章 完


あとがき

ラスカリスにゼノン・バシリスって何処かで聞いたような…と思われた方――ビザンツ帝国の皇帝の名前を借りております。(ビザンツ帝国はローマ帝国の中世の頃を古代ローマ帝国と区別する為に呼ばれているだけでこういう帝国があった訳じゃありません)アンゲロス朝のコンスタンティノス11世ラスカリスはくじ引きで皇帝になったそうなのでこの辺りからパクリました(爆)

コロシアムの、格闘士の…というとリドリー・スコット監督の映画『GLADIATOR』が有名ですが、あまりローマ色は出したくなくて…どちらかといえばスコットランドあたりに点在するケルト民族の石造遺跡のイメージで書きました。

イルマはエカテリーナ・スフォルツァ を目指していたのですが似ても似つかない、ただの色情狂になってしまいました〜(大泣!)
エカテリーナ・スフォルツァ――逸話が大変インパクトある女伯爵でしょ?
子供を人質に出しておいて平然と裏切るという――♀を越えた女傑か、母性を捨てた冷徹な♀か…。
で「子供を殺すぞ」と脅かされると城壁の上でパッとスカートを捲り上げて「バーカ!子供なんぞ、この先いくらでも産めらぁ!」と啖呵を切ったとか…この時エカテリーナは25才の未亡人(爆)極妻みたいですね。
かの悪名高きチョーザレ・ボルジアにも膝を屈っする事無く自ら甲冑を着て戦い、当時“イタリア第一の女性”という讃辞を受けたんだから、男好きで残酷で権力闘争を起こすだけじゃなくてやっぱり凄い女領主だったんだよね。←残ってる肖像画ってホワッとしてて逸話とは全然雰囲気が違うけど。
大好きなキャラなんですが…何故かワタクシが書くとレディコミです(T_T)

デリラのモデルはRed Sonja。
ハワードのヒロイック・ファンタジーのヒーローはコナンの他にソロモン・ケインとかキング・カルも人気がありますがヒロインといえばレッド・ソニアでしょう。アーノルド・シュワルツネッガーが演じた映画のコナン(賛否はいろいろですが)にもハワードのキャラクターと言うことでレッド・ソニアを思わせるアマゾネスが登場しますしTV版ではコナンの相方がずばりRed Sonjaです。
アメリカン・コミックで人気が出たヒロインなのですが、この人気が出た話は実はハワードの原作ではないそうです。名前だけ拝借したんだとか…但しハワード版のスペルはRed Sonya(ハワードのRed Sonyaって人気が無かったんでしょうか?どんな話なんだろう?)Red Sonjaもアメコミ・映画・小説ともに全部作家が違うそうです。特に小説は殆どオリジナルだとか…
ずっとハワードのコミック化だと思ってました。だってハイボリア時代だよ!舞台を創ったのハワードでしょう?
正直、真実を知った時はショックでしたが、他にレッド・ソニアの話を知らないもので、やっぱりイメージはアメ・コミのRed Sonjaです。

8章・9章、そして今回の10章と100%オリジナル・キャラで書きました。
これでシェラムの自立編(家出道中&海賊修行話ですけど)は一応終わりです。
また製本して下さる方、感想を下さる方……これまた長い話になってしまいましたが宜しくお願い致します〜(^^;)

書・U・記/拝

邪学館お品書きへ 邪学館お品書きへ

ハイボリアン戦記9章へ ハイボリアン戦記第9章へ

ハイボリアン戦記11章へ ハイボリアン戦記第11章へ