第9章 蓬髪は太陽の波濤

「どうする、野郎共?このままメッサンティアに引き上げるか?」返り血を拭いもせずに甲板に群れる男達をヴァイロンは挑発する。

「食料も武器もしこたまあるんだぜ?イジュ!」

「そうともさ、バラカを縄張り(シマ)にするにゃあ、もってこいの機会だ」

「あそこはアムラとも因縁深い、どうだい親父さんに代わって喧嘩ふっかけてみちゃ」

「だけどよ、今はジンガラの海軍に仕切られてるぜ」

「ああ、バラカの海賊は殆ど生き残っちゃいねえよ」

「だったら昔の親父の喧嘩相手を助けてやるって手もあるな」イジュ・アムランは前髪に指を滑らせ、ぐいと上げた。

乱れた金髪が陽を弾いて輝く。

「それに俺の弟が、どうしても海賊稼業をやるってきかねぇんだ」

「こちとらもベリとアムラが揃って舳先に立つ姿が見てえよ」初代アムラを慕う連中はさっきから舳先で水平線を眺めている半裸の少年が気になって仕方がない。

“ベリねえ…”自分が生まれる前の話だ。

父のおんな…というより父親を情夫にした女の伝説は西部太洋から黒海湾にかけての海域で鳴り響いている。

「よーし、野郎ども!それじゃ一丁派手にぶちかますか!」

先頭を行く真紅の三角旗の船は舳先を右に向けた。

後の二艘も同じ航路をとる。

向かって右後方に二回り小型の雌狐号(ビクスン)、左に船腹幅の広い雌獅子号(レオノラ)――ゆったりと船体を迂回させた雌獅子号(レオノラ)の舳先に立って手を振る人影に向かってイジュは拳を突き上げて答えた。

“ハルロ、まだまだこれからだぜ”バラカの虐殺から逃れてきた海賊達を探しだし、引き合わせてくれた男だ。

ジンガラ一帯の海域に詳しい連中を雇うことができたのは、彼の人脈だった。

彼らの水先案内で、例の砦の裏にあった入り江にあっさりと進入できた。

洋上からは岸壁が被さって入り江があるとは分からない。

彼らはサンダー河流域の地形にも詳しかった。

簡単にシェラムを奪還できたのはバラカの残党の土地勘による寄るところが大きい。

ハルロを代表とする連中の尽力に応えねばならない。

ヴァイロンの侠気が燃えている。

もっともそんな大事を負わねばならなくなった原因を作ったのは“不肖の弟”なのだが…

その弟の立つ舳先に向かった。

潮風になびく黒髪と真っ白な肌、どす黒く変色した返り血を拭いもせずに水平線の彼方に目を凝らす弟の姿は、噂の女悪魔に重ねられても仕方がない程に残酷で妖艶だった。

「何処に行くの?」横に立った兄に訊ねる。

話し合いは終わったようだ。

船は航路を変えた。

「バラカ諸島だ。お前、海賊がやりたいんだろう?」

「うん!」目が輝く。

「思う存分暴れ回らしてやるよ、但し…」

「解ってる!絶対にガイの言う事をききます。一人で勝手な真似はしません。隠し事もしません。それから…えっと…」

「じゃあ、まず呪術はできるだけ使うな」といっても魔道士としての姿を砦で見ている水夫達がいるから、もう遅いといえばそれまでだが…

「うん、誓う。ガイがいいと言うまで使わない。サータにもヨトガにも…それからヒドラにも食事はさせない」

「お前もな」

「解ってるって。私ね、あの砦でちゃんと人間らしくご飯食べてたんだよ。躯と引き替えに食事を貰っていたんだ」

「……………」“人間らしく”ねぇ…複雑だ。

男娼と魔道士…正直、兄としてはどちらも好ましくない。

「あ、この船でも抱かれないと何も食べさせて貰えないの?」兄の沈黙を変に解する。

「馬鹿か!お前の躯目当ての奴なんぞ、俺が船から叩き落としてやる」メッサンティアからここまで大分気心が知れてきた乗組員だが…

“こいつの色香は半端じゃないからな”何と言ってもザモラでは邪教ハヌマンの淫神リンガの権化と呼ばれた姿態である。

…ましてやこの船には女は乗せていない。

カリスマ性で部下を率いたベリやヴァイロンの母、ヴァレリアのように腕っ節と気概でのし上がった女海賊もいるが、海賊船に乗っている女の殆どが情婦だった。

襲った船に乗っていた貴族や商人の令嬢、海岸の村々から掠ってきた生娘。

大概は揺れる船上での生活とならず者の慰み者になるという拷問に耐えきれず病にかかるか自ら海に身を投げた。

もっとも病にかかった娘も手当などされず、足手まといになれば鮫の餌にされたから掠われた時点で彼女たちの末路は同じともいえる。

だから女は常に不足していた。

見習い水夫の少年が性の捌け口になるのだが、いかんせん数が足りない。

航海の途中で若い船乗り達が有り余る性欲をもてあまし、乱暴になって喧嘩騒ぎを起こすのは日常茶飯事だった。

そこに、例の砦で男娼をやっていた美貌の…それもベリに姿を重ねられたシェラムが現れたらどうなるか…

“やっぱりこいつは疫病神だ”

「ね、ガイ。あっちの船にも乗ってみたいな。次ぎに停泊したら小舟(ボート)を出してもいい?」そんな兄の危惧など何処吹く風でシェラムは海賊船に興味津々だ。

「だめだ。お前は俺の側にいろ」言っているそばから、これだ。

「えーっ!何でよ?つまんない…ガイと違って私は海もガリー船も初めてなんだから、何も解らないし…ここにいたってやる事ないよ」

「言う事をきく約束だ」だったら向こうの船に行ったってやることはないだろう…と言えばまた何やかやと反論してくる。

相手にせずに船室に向かって歩き出した。

「ほら、まずこの船を覚えろ」着いてこいと顎で示す。

「一人前の海賊になりたかったら古参の水夫について習う事は山ほどあるんだ」潮の見方、天候の判断、水深の計り方、錨の扱い方、帆の上げ方、たたみ方、ロープの結び方、長櫂(オール)の漕ぎ方…ざっと思いつくだけでもこんなにある。

「そうだね…早く操縦を覚えなくちゃね」

「お前な…」操舵室に入るなんざ十年…いや二十年はかかるぞ――と諭しかけて止めた。

海賊船を操ってお宝を目指す…幼い頃から河畔に佇み、夢みていた童子の姿が重なる。

いつも自分の後ろにくっついていた…同じ足音が船室に降りる階段をついてくる。

海の話を聞かせ、海賊の歌を教え――その夢を膨らませる手伝いをしたのは他ならぬ自分だ。

責任を取ってという訳ではないが、弟の夢を叶えてやりたかった。

だから、ハルロ達の願いを次の目的にして一仕事終えた男達を先導しバラカ諸島に向かうように仕向けた。

船室を見回す少年に舌打ちする。

船内を引き回す前に、まず血塗れの腰布を着替えさせないと…

例の死体から剥ぎ取ったトゥニカはボロボロになっているし、色あせたオレンジのベールを被ればいかにも男娼という出で立ちになってしまうのだが…この際仕方がない、自分が目配りを怠らなければ済むことだ。

「ああ、それから、お前のことをベリと呼ぶ奴がいるかもしれない」

「ベリ?誰それ?」兄の前で素っ裸になって着替え始めた少年に水差しの水で濡らした小ぎれを渡し、身振りで血糊をぬぐえ…と示す。

「親父の昔の女…」

「おんな?冗談じゃないよ、私だってイジュ・アムランなんだから」いつもトゥニカ一枚、従者のヒューイが目のやり場に困ったように腰布や下履きは着けない。

細かく編まれた組紐を腰に廻しベルトにしている。ベールは被らなかった。

「伝説の女海賊だぞ。この船だってベリの愛船雌虎号(タイグリス)の設計図を元に造船されたんだ」

「ガイの母上とどっちが凄いの?」意外な質問だった。

言葉につまる――正直どちらにも逢った事はない…

「こっちは外洋、ヴィラエット海は内海だからな…海の規模からいったら比べものにならないさ」

母の属した血の友愛団を貶めているのではない。

その団員として育ち、その後父(コナン)と共にヴィラエット海を離れ、この外洋に辿りついて船に乗った経験から言っている。

ここで自分は鍛えられ、本当の海の男になれた――そう思っている。

「ふうん…じゃあ、まあ、いいか…」シェラムは“ベリ”というシェム人らしい名前を何度も繰り返して発音した。

砦でも偽名を名乗った。

正体がばれたら拙いことは十分承知しているから、何の名前で呼ばれようと別に構わない。

父(コナン)の跡継ぎはガイ…幼い頃から納得している。

それはアキロニア王の地位だけでなく、父が若い頃に辿った軌跡の全てを継承する者だ。

ましてや今初めて船に乗ったばかりの自分では同じ“イジュ・アムラン”と呼ばれるには力量不足…残念ながら認めざるを得ない。

それに“伝説の女海賊”という修飾が心をくすぐった。

おんなの名前は気に入らないが――海賊を束ねていた女首領となれば話は別だ。

憧れの海賊に関わるモノなら今のシェラムは何でもよかった。

イジュの立ち会いのもと、古参の水夫達の猛特訓が始まった。

昼夜を分かたず厳しい修行が続く。

彼らは姿形だけでなく中身もベリにしたいのだから熱心になるのは仕方がない。

だが周りの水夫達は冷ややかだった。

“所詮、男娼上がり。あの華奢な躯ではロープ一本扱えないだろう”

予想は外れた。

三歳からコナンとヴァイロンによって剣術、射的、馬術、投擲と鍛えられた少年は炎天下の甲板での作業も倒れる事無く、黙々とこなした。

「やはりベリじゃ、こんなに陽に照らされても日焼けしない」

「いや、ベリより白い肌だ」

彼らの記憶は正しい。

シェム人であったベリの肌は黒人達の中では白く際だっていたが実際は象牙色だった。

それに比べてシェラムの肌は雪花石膏(アラバスター)もしくは東洋の白磁に比喩された程の輝くばかりに透明な白さなのだ。

海と船の知識や専門用語の説明、指示の通訳は出来る限りヴァイロンがしてくれたので、背後霊に訊かなくともアルゴスの言葉とシェム語、それにクシュの黒人達の言葉も理解できるようになった。

単語の羅列でたどたどしいが、質問や会話も自発的に行う。

「言葉もなんとか通じるようになったし、そろそろ一人で大丈夫じゃろ?」老水夫のなかでも長老格の老人が皺だらけの顔をほころばせて提案する。

「うーん…」ヴァイロンは思案する。

「最初からこの船の長櫂(オール)では荷が重い、雌狐号(ビクスン)の短いヤツで練習したらいい」

「だがなあ…」一人にすれば、何をしでかすか解らない。

兄は弟の思考と素行がまともでない事を、アキロニアに連れ戻す旅の途中で何度も思い知らされている。

今は覚える事が山積みで余裕が無いから何も問題を起こさない――起こしている暇がない。

だがこの生活に慣れてくれば憧れの海賊生活を満喫するために、欲望の限りを尽くすだろう。

満足とか、我慢とか…そういった観念は欠如している。

しかも本人にはそれが解っていない――あれでも我慢して“普通の人間でいる”つもりなのだから始末が悪い。

「俺が雌狐号(ビクスン)についていこうか?」

古参水夫達が顔を見合わせた。

「なあ、イジュ。前から思っとったんだが、あんたのあの子へのガードは異常だぞ」

「いつもぴったりと張り付いて…あの子はジンガラ語が解るからお前さんが通訳せんでも、こっちで何とかなるのに…」

「いや、儂らだけじゃない。船底でももっぱらの噂だ。あれはお前の愛人なんじゃろ?」

「向こうの船の連中だって命が惜しい。だれもお前さんのコレを寝取ろうなんて思わんよ」小指を立てた男はアムラの子に睨まれ首をすくめた。

「弟だって言ってるだろ!腹違いだが荒獅子(アムラ)の子に間違いねえんだ」甲板に怒鳴り声が響き渡る。

「似ても似つかん」みな一様に首を振る。

ヴァイロンの肌は赤銅色に日焼けしている。

それはコナンも同じであった。

北方民族の証はその冴え冴えとした蒼眸でしか解らない。

「弟だったらなおのこと、手放しても構わんじゃろ?」二番目の年寄りが…潮目を見るにはこの男の右に出る者はいないという熟練の水夫が間を取り持った。

「え…いや…」愛人でも弟でも一人にしたら、とにかく拙い。

今の過保護ぶりをシェバが見たら“ようやくわたくしの苦悩がお判りになりましたか”と嫌味とも本音ともとれる一言があるだろう。

砂漠の地下陥穽から連れ出した時は正直これ程やっかいな代物だとは…いや、それなりの覚悟はしていたのだがシェラムの“人外の性格”は予想を遙かに上回っていた。

“この俺が振り回されるなんて”――それでも昔と変わらずに慕い寄る弟を何とか御してきた。

特に開かずの間の封印を解いてからのシェラムは明らかに一回り大きくなって、これなら自分の代わりを任せられる――と、そこまで思った。

それなのに…

理解していると思っていたのは独りよがりか?

大人になったと思っていたのは見込み違いか?

信頼されていると思っていたのは単なる思いこみだったのか?

『自分の居場所を創る旅にでます。今までありがとう、ガイ!』ハドラタスから渡された封書にはキンメリア語でただ一行の別れがしたためてあった。

シェラムの旅立ちを知り動揺する臣下達の前で封書を引き破いた。

王宮中がビリビリと震える雄叫びが響き渡った。

腰の段平を抜くと執務室の机を真っ二つにへし折った。

そしてそのまま愛馬の黒駒に跨り、弟を追う旅に出た。

――イーデッタ、お前はここからベンダーヤへ帰れ。シェラムが一人前の男になって帰還するまでツランの残党共から王国を死守しろ――
――シェラムはこれからアキロニアに戻る。こいつの気持ちが落ち着いたら必ずベンダーヤに行かせる。それでどうだ?チァンリル――

俺を信用してシェラムを預けてくれた――あの二人に合わせる顔がない。

故国が揺れている中、黙ってコナンの同志の偽者狩りにまで付き合ってくれた東洋の騎士と交わした約束が反故(ほご)になってしまう。

何のために苦労を承知で外の世界に連れ出したのか?

“勝手なことしやがって!”怒りが治まらない。

息せき切ってやってきたメッサンティアで弟の姿を見つけられず、探し回るうちに怒りは頂点に達した。

“今度捕まえたら目に物見せてやる”

だが、いざ捕まえてみると――

さすがに、こちらの怒気に気圧されて置き手紙一枚で家出した事は悪いと思ったようだが、その割には屈託が無く、変わらずにガイ、ガイ…とすり寄ってくる。

どこまで反省しているのか、見当がつかない。

絶対服従を誓い、しおらしい態度を示しているが、それもアキロニアに連れ戻されたくない一心からだと言う事は、はっきりしている。

とにかく憧れの海賊稼業を一度やってみなければ絶対に納得しないだろう――だが、あの世間知らずの疫病神がもめ事を起こさずに“船”という限られた社会で生活できるのか?

可愛い弟から、一方的に“兄離れ”されたヴァイロンは、自覚しながらも監視の目を弛めなかった。

…………という経緯(いきさつ)を話して聞かせる訳にもいかず、老水夫達に囲まれてイジュは言葉に窮している。

「大きな声。下まで聞こえる。何?」船底からシェラムが上ってきた。

「おお、終わったか?」

「油塗った。これでいい?」オールを挟む金具だ。

潮で錆びないように油を塗っておくのだが、塗りすぎるとオールに垂れて手が滑り漕げなくなる。

逆に足りないと金具と木が軋んで潤滑油の役をしない。

油を染み込ませた布で塗り込めるように磨くのだが“油の層のあんばいが船の速度を決める”と言っても過言ではなかった。

「うん…よしよし。この丸い辺りはもう少し厚くてもいいぞ」

「わかった。もう一度やる」松ヤニを混ぜた油は異様に臭い。

オールが並ぶ船底に籠もって、これを塗るのは辛い仕事だ。

一個も仕上げれば、目が刺激臭で犯され、涙が止まらなくなる。

悪臭に耐えられず吐き気でもどす水夫もいる。

漕ぎ手が自分のオールの金具だけを塗るのが決まりなのだが、修行の為に今、雌豹号(レパーデス)の金具磨きはシェラム一人の仕事になっていた。

おかげでみんな助かっている。

どうしたものか、この少年は油臭にも平気だった。

顔を背けず、嘔吐に苦しむこともなく淡々と塗り方を習った。

最初のうちは指に染み込んだ悪臭に悩まされ、食事をしても自分の手から発する匂いで食べ物を受け付けなくなるのだが…

こいつはなかなか大した奴だ――確かに荒獅子(アムラ)の息子かもしれん…長老はそう思っている。

「おい、ベリよ。お前あっちの船でそろそろオールを漕いでみないか?」

「いいの?」シェラムの顔が輝いた。

「これだけ出来りゃ自分のオールを持ってもいいだろう」

「お前の兄さんは反対してるがな…」

「なんで?」

ルール違反だ。こいつに直接聞くなんて――“行く”と言うに決まっている。

一人前の海の男を目指して修行中の弟に“お前の素行が心配だ”とは言えない。

だから――

「一人で大丈夫か?」としか訊けなかった。

「雌狐号(ビクスン)は黒人がおおいぞ」キンメリア語だ。

「うん平気。クシュの言葉は大体覚えたから。どっち?ああ、小さい方だね」声が弾んでいる。

苦労人の兄貴は腹を括った。

「行ってこい。但し絶対に男に靡くな、どんなに迫られても相手にするな」

「わかった。色目を遣ったり、力尽くで迫ったりされたら…」

つい…と紅い爪の左小指を立てた。

「殺しちゃう!」

「そうじゃなくて…」やっぱり心配だ。

「殺すなよ…大枚叩いて俺が募った仲間なんだから。お前が水夫として一人前だと証明すればいいんだ」キンメリア語の会話が続く。

「それは…頑張るけど。でもまだ自分で何をしたらいいかまでは解らないよ」そこまでの判断はできない…自覚している。

「そうだな…よし、喧嘩ふっかけろ」

「どうやってぇ?」シェラムの記憶では“喧嘩”をした経験がない。

「すぐにお前の躯に触れてくるヤツがいるだろう。取り敢えずそいつを伸しちまえ…ただしみんなのいる前でな。気絶させるだけでいいぞ。やっても肋骨の二三本にヒビが入るくらいまでだ。不具にはするなよ」

「細かいなあ…めんどくさいよ」

「使えねぇ水夫は処分しなきゃならん。お前これから海賊やりたんだろう?だったら水夫…特に漕ぎ手が欠けたらできねぇぞ」

「そうか…じゃあ精気吸っても駄目なんだ」やっと手加減の目的が理解できた。

「だから殺すな!精気を吸ったらあの砦にいた大将軍みたいになるんだろう?」

まあ程度の差はあれ、衰弱するのは同じだ――不具ではないが病人と変わらない。

「うん…ガイの真似してやってみる」

甲板での水夫達の争い事はヴァイロンが登場し、どちらも一撃で殴り倒した後、縛り上げて二人だけ船室の底の船倉に放置しておけば激情が治まって、いつの間にか関係が修復されてカタが付いていた――それを何度か見ている。

船の底板一枚下は地獄…互いに憎み合っていては、事が起きた時、足の引っ張り合いで自分の命を落としかねない。

だから揉め事を起こしても仲直りは早い――彼らは生粋の海の男であった。

「一発ガーンと顎の下を殴ればいいんだよね」“ガイと同じように…”

「できるか?」けしかけておきながら不安になる。

「ダイジョブ!あの船行く」クシュ語だった。

「イジュ、弟の方が兄離れしとるぞ」古老達が日焼けした顔に皺をよせて笑う。

指摘されるまでもなく十分解っている――“だから問題なんだ”

イジュは後甲板から右の軽装戦船を眺めた――“騒動が起きたらロープで飛び移って助けようか…”

いや、それではあいつの自尊心に傷が付く。

なにより一人前の海の男に…幼い頃から夢に見た理想の男になれない。

「一人でやってみな」兄も“弟離れ”せざるをえない。

弟は嬉しそうに頷いた。

こうしてシェラムは一人小舟を漕いで、後方の雌狐号(ビクスン)に移っていった。

あの銀灰色の蜥蜴も愛刀も兄に預けて…


「お前がベリか?」ジンガラ語なので解る。

「…………」でも勝手にそう呼ばれているだけで、自分からベリと名乗った事は一度もない――だから黙っていた。

ここの乗組員は皆若かった。

“黒海湾の女王”の伝説は聞き知っているが、その姿も活躍の様も見たことはない。

本当にこの少年が“ベリの再来”と言われるほど容姿が似かよっているのかは解らない。

確かに最初は“男装の麗人”か…と思った。

それ程にかいま見る容姿の美しさは半端ではない。

雌豹号(レパーデス)の船尾でロープを手繰る姿を見つけると、乗組員が左舷前甲板に殺到し、船首が左に傾ぐのは毎度の事であった。

早くこの汚いベールを剥ぎ取りたい…

「お前、イジュの何だ?」

この少年を捜し出す為にイジュ・アムランは海賊団を組織した。

雌虎号(タイグリス)の姉妹船、雌豹号(レパーデス)を買いとり、アムラとベリに馴染みのある海賊達を集めた。

さらに同じ設計士の造ったワタリの広い貯蔵船、雌獅子号(レオノラ)と浅瀬にも漕ぎ寄せられる偵察に適した軽装戦船の雌狐号(ビクスン)も買い入れた。

古参水夫達の伝手で雇った水夫達とアムラ二世の名前を聞いてやってきた海賊達からヴァイロン自身が人選して表向きは武装船団の乗組員…どこから見ても海賊団を作り上げた。

そして、真っ直ぐに――何でも蜥蜴が方向を教えるとか、変な事を言っていたが、あの入り江に錨を降ろし、原生林に隠れていた砦を襲わせ、お目当ての少年を連れ出した。

弟だと?どんな関係か…救い出された少年の容貌を見れば一目瞭然だ。

「弟…」即答したシェラムに甲板の男達がどっと笑った。

「まあ、そういう事にしとこうか。だが、お前が例の砦で上級士官専用の性奴だったって事は、この船だけじゃねえ、向こうの雌獅子号(レオノラ)の連中だって承知してるぜ」

“弟”と言うよう、イジュに命じられているに違いない――そんな小芝居はどうでもいい。

確かめたいのはイジュ専用の愛人かどうか…である。

特定の関係でなければ“抱ける”――

いや、もし特定の関係であったとしてもイジュにばれないように上手く手懐ければいい。

懐柔が駄目なら、力尽くで犯した後で、イジュにばらすと脅せばいい。

向こうの船に返す頃には“こっちがいい、戻らない”と言わせてみせる。

「こっちにきな」みんなで味見をするのは陽が落ちてから…前方を行く雌豹号(レパーデス)に悟られない為だ。

その前に船室に連れ込んで、犯すのはこの船を預かっている船長やその補佐達の役得だ。

預かっている相手はイジュなのだから、その愛人を手籠めにするのは立派な背信行為だが、所詮この航海だけの一時雇い、そこまでの仁義はない。

かつてこの辺りの海賊団を転々としたアムラが見れば、あまりの堕落に怒りの剣を見舞った事だろう。

ジンガラの海賊は真っ先に自国の海軍に殲滅させられた。

バラカ諸島もジンガラ軍の手に落ち、行き場を失った生き残りは、アルゴスの庇護にある海賊達にも縄張りを奪われて逃げ回るうちに、かつての結団力も誇りも失った。

コナンが暴れ回っていた頃は、自分達を略奪者と呼んで箔を付け、逆にバラカ人を海賊と呼び蔑んでいた男達だ。

略奪者の生き残りはバラカの残党と共に、アルゴスの海賊達の傘下に入り、なんとかジンガラ軍船の追撃を免れている。

一番小型な軽装戦船、雌狐号(ビクスン)の水夫の三分の二はジンガラ語を操るジンガラとバラカの出身者、そして残りがクシュの黒人であった。

船室に降りた船長達がシェラムの躯を眺め回した。

「脱いでみな」

「今?夜まで待てないの?」“う〜ん、ガイの読み通り…早々に来た”

「今俺達を相手にしときゃ、今晩少しは回数が減って楽だぜ。何たって水夫の殆どを相手しなきゃならねえんだから」

男達は下卑た笑いを上げた。

向こうの船にいるときから目を付けていた。

最初はその容姿の美しさ、あでやかさに見とれ、ぼんやりと眺めるだけだったが、日々が経つにつれ、欲望の対象に変わった。

下履きの中に手を突っ込み、勃ち上がった逸物を扱く男もいる。

“ガイ、一人じゃないよ。八人だよ…どうしよう?”

だが兄の言いつけは絶対だ――何でも言う事をききます…と誓ったのだから。

「私を抱きたいの?」――何かいい作戦はないか?

「ああ、もうウダウダと煩せえな、とっとと脱いでそこの寝台に寝ろ!」

「そんなにがっついてるとすぐに漏らしちゃうよ…」はらりとベールを落とす。

破れたトゥニカから覗く白い肌は、船上で太陽に照りつられていたとは思えない。

「ちゃんと抱きたいんでしょ?だったら順番を決めようよ」

嫣然と流し目を送られ、それだけでズボンの前が突っ張る。

男達は改めてこの少年の美しさに息を飲んだ。

長いまつげが影を落とす…エキゾティックな美貌は、見る者を魅了し簡単に虜にしてしまう。

ただ整った顔立ち…というだけではない。

躯から滲み出る艶やかさと、逆に一切を寄せ付けない玲瓏な雰囲気を兼ね揃えている。

欲しい――喉が鳴った。

「順番は決まっている。一番は俺だ」ジンガラ貴族の真似をして、きらびやかな衣服を着た男が進み出た。

「オイ、待て!話が違うぞ。俺達八人で楽しもうって言ったじゃねえか?」

「そうとも、一緒に犯(や)っちまえばイジュだって殊更に詮索しないだろうって、アンタが誘ったんじゃねえか!」

「俺は船長だ!あの腐れ外道の海軍共に襲われなきゃ、今頃は自分の船を操って海賊団の首領になってる男だぞ」

「へっ、一番先に船を放りだして逃げたのはどこのどいつだ!」

いい感じになってきたじゃない…シェラムはほくそ笑んだ。

「順番はこっちが決める。そうだな…素手で喧嘩して一番強いヒト…私は強くて逞しいヒトが好き…」ベルトを取った。

ゆっくりとトゥニカを肩先から外し、床に落とす。

白い肌に白桃の尖りが浮かぶ。

膝を組んで寝台に坐ると髪を束ねていた紐を解いた。

男達を見つめながらゆっくりと髪を梳く。

「はやくぅ…抱いてぇ…」半身をくねらせ、誘う。

「血の滲んだ唇で口づけして…そしたら腰が抜けるほどしてあげる…」低く艶めかしい声が男達を陶酔に導く。

“なんと淫靡な…”――天窓から差し込む僅かな陽光に真っ白な肌が輝いた。

艶やかな真紅の唇が…同じ色の爪を咥えている。

嫣然と微笑む――“あの唇が吸えたなら…それだけで…”

「一番先にここに戻ってきたヒトのモノになってあげる…」男達の理性の箍(たが)は吐息の誘いに簡単に外れた。

「さあ、殴り合ってきてよ…」煽情的な視線を投げかけたまま、指で戸口を指す。

「よし、甲板にでろ!」

「船長づらしやがって、ぶちのめしてやる!」

慌ただしく船室を出て行って、まもなく天井から物凄い振動と怒声と悲鳴が響いてきた。

「あ〜んがい簡単だったな…」毒婦の手管を披露した少年は、一度寝台の上で伸びをすると、最後に残った一人にトドメを刺すため、髪を縛り直し、トゥニカを着込んだ。


“始まったな…”船尾に立っていたイジュは、みるみる船速を落とした雌狐号(ビクスン)の甲板を凝視していた。

ジンガラ海賊の生き残りだというお尋ね者を船長に抜擢したのは、自分だ。

理由はジンガラの…つまり自国の海軍への恨み骨髄である事と、その軍備や情報に詳しい事だった。

権力を持たせないように、副船長にはアルゴス人を付け、補佐役の幹部は敵対していたバラカ出身の男達で固めてある。

シェラムに擦り寄ってくるのはこいつだろうと、見当は付いていたのだが、どうやら船上では乱闘になっているらしい。

「おい、イジュ!雌狐号(ビクスン)で暴動が起きとるぞい」望遠鏡で覘いていた長老格の水夫が愉快そうに笑う。

「みたいだな…」この船速の落ち方は異常だ…確かに乱闘ではなく暴動という方が正しいだろう。

“俺が思っていた以上に連中の仲は険悪だったという事か…”

「止まっちまったぞ〜」もう一人の老水夫が船縁を叩いて囃し立てた。

それは船底で櫂(オール)を握っていた漕ぎ手達まで乱闘に加わった事を意味している。

まさに乗り組員全員参加の大暴動だ。

「こっちも速度落とせ!このままじゃ離ればなれになっちまうぞ」

雌獅子号(レオノラ)も異変に気づいて速度を落とし、ゆっくりと旋回体制に入った。

「オーイ、来てみろ。雌狐号(ビクスン)が面白いことになっとるぞーっ」

どちらの船の甲板も黒山の人だかりだ。

「そこだー!行け!ベリ!」今までこの船で修行していた少年が男達の頭上を跳び回り、ひらひらと踊っている。

「いいぞーっ!ベリ!」相手のガードをかいくぐり、一瞬で中に飛び込んで一撃をあびせ、瞬時に遙か離れた場所に飛びのいて次の相手を床に叩きつけている。

それがこちらからは空を舞っているように見えるのだ。

みるみるうちに動く対象は減っていった。

「大したモンだな…お前さんの弟は…」長老は感嘆の声を漏らした。

「ふふん…」甲板を見つめる表情は変わらない。

東洋独特の…直刀での剣法と同じ手法だ。

打ち合わない――相手の攻撃を反らし、手元に飛び込んで一撃で決める。

時折ハドラタスが教えた、蹴りや手刀さらに相手の勢いを利用した投げを交えた技を繰り出す。

これも東域特有の闘術だが、“東洋”を知らぬ者達の目には変幻自在の技に映るだろう。

剣技といい――“そんなに錆び付かせちゃいねえな”

やがて…

「ガイーッ!おわったよーっ!」左右に分かれて旋回する船に向かい、船首からオレンジのベールが打ち振られた。

「だけど漕ぎ手まで伸しちゃったーっ!誰も動かないよーっ!どうしようー?」

どっと上がった喝采を手で制したイジュは、隣で望遠鏡を覘いたまま愉快そうに笑う老人の肩を叩いた。

「おい、爺さん。悪いが何人か連れてあっちに行って錨を降ろすのを手伝ってやってくれ、あいつ一人じゃまだ操船は無理だからな」

「おおよ、イジュ!お安いご用さ」

「さーて、こっちもグルグル回るのは止めだ。ここで停泊して、向こうが何とかなるまで休憩しようじゃねえか」

結局、一人じゃ済まない…どころか船団の足を止めてしまった。

“全く疫病神だからな。まあこれくらいで済んだだけマシか…”

ヴァイロンは苦笑いをしながら船尾を離れ、船室に降りていった。


「こっちは何処に合わせるの?」

ベリの問いに黒人の少年は黙ったまま指を3海里先の基準線の上に置いた。

「あ、そうか…」まだ潮の流れが読めないから、舳先の示準点が解らない。

本来ならば熟練の水夫しか入れない操舵室に、この船の中で最年少の二人が入って舵を取っている。

シェラムに伸された水夫達が回復するまで、雌豹号(レパーデス)から漕ぎ手が助っ人に来ているのだが、いかんせん数が少なく速度は上がらない。

一艘だけ置いていく訳にもいかず――お陰で船団自体の船速が落ちていた。

「次は?チャド?」

チャドと呼ばれた少年は溜息をついた。

「解らない…俺だってこんな高度な事、一人でやったことないんだから」

「え〜?チャドがわかんなかったら私なんてもっとわかんないよ」

“だったら手を出さずに雌豹号(レパーデス)から来た爺さん達に任せたらいいだろう”そう叫びたいのを我慢した。

“二人でやってみな”と基礎だけを教えて船室に引っ込んだのはその爺さんなのだ。

彼らは皆イジュの側近、父親(アムラ)の代からの仲間達であった。

この船団では別格の扱いを受けている。

少年はクシュ人であったが雌狐号(ビクスン)と抱き合わせの奴隷であったからジンガラの言葉もアルゴスの言葉も話せた。

イジュに買収された三艘の船に繋がれていた漕ぎ手は全員が船の備品と同じように売り買いされる奴隷であった。

ご多分に漏れず船の奴隷にはクシュやダーファー出身の黒人が多い。

仕事があると言葉巧みに誘われて故郷を出た彼らを待っているのは奴隷商人の罠だった。

大概の者が使い捨ての奴隷として酷使され故郷に戻ることなく死んでいく。

イジュはあっさり彼らを解放した。

繋いだ鎖を外し、足枷を取った彼らに故郷に帰れるだけの金を渡した。

「故郷に戻っても誰もいない者、もっと大きく稼ぎたい者、それからこの船ともう少し付き合いたい者…ただし今度は正規の水夫としてだがな――そういう物好きな奴は明日の晩ここに戻ってこい」

表情の無い黒い顔の集団がイジュを見つめた。

やがて彼らはメッサンティアの喧噪に消えていった。

彼らの殆どが戻ってきたのは昼過ぎだった。

結局ここで船を降りたのは、たったの四人だけだ。

夜を待つことなく、船を知り尽くした熟練の漕ぎ手が揃った。

チャドは生まれながらの奴隷だった。

クシュ人であっても故郷がどこかすら解らない。

物心着いたときから親しんだ雌狐号(ビクスン)を離れても生きる術を知らない。

だから当然船に戻った。

イジュは彼のような少年ですら、一人前の水夫として雇ってくれた。

もっとも自分は旧奴隷の漕ぎ手という十把一絡げの存在で間には何人も熟練の水夫がいるから、総支配のイジュが見知っているはずもないのだが…

イジュ・アムラン…荒獅子アムラの伝説を子守歌に聞いて育ったガリー船の奴隷にとって、その息子を名乗る偉丈夫は憧れの英雄であった。

だからイジュの弟だという少年が、乗り込んで来たときから気に入らなかった。

こいつがイジュ同様、段平を小枝のように振り回し、物凄い早さでマストをよじ登り、ロープを掴んで跳び回る…というベテラン水夫顔負けの妙技を披露してくれるなら同じように敬愛したと思う。

だが、弟とは名ばかりで愛人だとか、襲った砦で兵隊相手に躯を売っていたとかいう噂が耳に入ると嫌悪感が湧いた。

雌豹号(レパーデス)の艫にいる白い肌の少年が憧れのイジュと連れ立つ姿を見かけると忌々しくて唾を吐いた。

おまけにその男娼は自分と年齢(とし)が同じだという。

聞いた途端に嫉妬と激情に襲われた。

それでも荒ぶる事無く平静を保っていたのは雌豹号(レパーデス)の甲板にその姿さえ見なければ苛つく事はないと船底に引きこもっていたからだ。

それが…

よりにもよって本人が雌狐号(ビクスン)にやってきてしまった。

声も聞きたくなかったチャドはただ一人最下層の船板をずらして潜り込んだ。

膝をおって横になるのが精一杯の狭所だ。

だが、この僅かな隙間がチャドがくつろげる唯一の場所、辛いことがあった時に逃げ込む隠れ家だった。

幸か不幸か、その為に甲板を荒れ狂った大活劇を知ることもなかった。

ただ一人無傷な水夫が仲間の惨状を知ったのは雌豹号(レパーデス)からやってきた助っ人水夫に船底から発見され、甲板に出るよう即されてからだった。

そこにはオレンジのベールを肩から掛けた“あの少年”が立っていた。

乗組員を…あのジンガラの横柄な船長すら一撃で伸したというが、現場をみていないチャドは今でも信じていない。

もう一つ聞いた噂では魔術の心得があるとか…みんなをやっつけたとしたら、そっちの術でも使ったのではないか?

でも魔道士なら、風も波も自由に操れるはずだから、こんなに苦労して操船しないだろう。

今のベリを見ていると“魔術を使う”というのもただの風聞に過ぎないと思う。

イジュの弟だかベリの再来だか知らないが、みんなが注視して大騒ぎするから変な噂が立つんだ。

最長老の水夫に同じ年齢(とし)だと紹介されてから、ベリは馴れ馴れしく接してくる。

それも腹に据えかねていた。

あからさまに“嫌っている”と顔や態度に出しているのだが、鈍感なのか馬鹿なのか全く気にしない。

こいつを振り切って他の水夫の仲間に入りたいのだが、全員船底で枕を並べて唸っているので仕方なく操舵室にいる。

「ねえ、チャド。水深も計算に入れるの?」

鈍感というより最初から相手の思惑など眼中にないのだ。

別に今に始まった事ではない。

何から何まで自分が基準、世の出来事は全て己を中心に動いている…といっても過言ではない。

「聞いてくればいいだろう?船室の爺さん達に」ぶっきらぼうに言い捨てた。

会話にならないように打ち切る。

「うん、じゃあ後からまとめて質問しよう」

“今必要でない事なら一々聞いてくるな”…睨みつける。

「あのさ、チャド」

顔を上げたべりの顔を正面から見て、少年は慌てて視線を外した。

“なんて綺麗な…”と頭の隅に湧いた思いを打ち消す――“こいつはふしだらな男娼だ。まどわされちゃダメだ”

「お腹すいてるの?」

「はあ?」いきなりの会話の展開に再び眼を向けてしまう。

「さっきから苛ついてるでしょ?私は特に食べなくても…じゃない、あんまり食欲無いからこっちは気にしなくていいよ。好きな時に一人で食べてね」

「当たり前だ!誰がお前なんかと飯を食うか!」思わず本音が出てしまった。

「そうか…私の事嫌いなんだね…」やっと察したベリは眼を閉じた。

「仲間を伸しちゃってゴメンね。でも喧嘩売ってきたのはむこうだからさ」嗾(けしかけ)たのは自分だが、発端となる騒ぎを起こした奴らが回復しても真実は明かさないだろう…との確信がある。

「そうじゃない!」一旦、露呈した本音は堰を切ったように溢れた。

「逆に気分よかったよ、あいつらこの船の事知らないくせに威張りやがって」雌狐号(ビクスン)の奴隷であったチャドにはいきなり乗り込んできた船長以下、急募集の水夫達の荒っぽい操船が我慢できなかったし、自分を子供扱いして下働きばかりさせ、その割には力仕事や汚れ物掃除、徹夜のロープ巻きなど過酷な仕事ばかりに就かせる事も苦痛だった。

今までの奴隷仕事と変わらない。

イジュに雇われた事でなまじ希望を持ってしまっただけに一層辛かった。

でもここで我慢していれば、いつかはイジュと話す機会がくる――今までの地獄のような生活に比べればずっとマシなのだから…自分を慰めてじっと耐えてきた。

「俺がお前を嫌うのは…」唇が震えた。

「お前が淫売だからだ!」

「いんばい?」何ソレ?初めて言われた…

「お前イジュの所から逃げたんだってな?この船団はお前を捜すためにイジュが仕立てたんだぞ!それなのにお前はジンガラ野郎の砦で上級士官相手に躯売ってたんだろ?」

「だってそれしか売るモノないもん…最初は言葉だって解らないし、道に迷っちゃって。砦に行き着いたのは偶然なんだよ。別にガイ…あ、イジュだっけ…彼から逃げた訳じゃないんだ」ところがガイはそう思って怒ってたんだけどね…とまでは言わない。

「許せねぇ…」吐き捨てるように言って後ろを向いた。

「それって自分も犯されてきたから?」

「!」振り返った。

どこでそれを…この船の奴隷上がりから、もうそんな話を聞いたのだろうか?

「私もね…最初は力ずくだった。八つの時だからチャドより小さいよ…きつくて辛くて…」綺麗な顔が下を向いた。

長い髪がばさりと掛かる。

「チャドはお父さんと兄さんが守ってくれてたんだね…同じだな。私もアムラとイジュが守ってくれていたんだけど二人が戦いに出ている間に手籠めにされて…」

「どうしてそんな事まで…」強い父だった。

身分は奴隷でも、力を畏れて海賊達が酷い扱いをすることはなかったし、奴隷仲間からは頼りにされていた。

その父と兄が…四年前のジンガラ海軍との海戦で漕ぎ手だった二人は矢の標的にされ鎖に繋がれたまま射殺された。

奴隷の死体は海に捨てられる。

その夜から海賊達の慰み者になった。

他の奴隷達からも輪姦された。

既に精通を迎え、勃起する躯になっていたから、力尽くで叩き込まれる性の快楽に溺れてしまう。

まだ皮を被った陰茎を無理矢理に剥かれ、痛みで鳴き叫んだ。

引きも切らぬ陵辱で肛門が開いてしまい、大便を垂れるたびに苦痛で脂汗が滲む。

それでも船底に繋がれた身では抗えない。

寄港する度に隙を窺って逃げようとしたが、一度捕まって死ぬか生きるか…という見せしめの拷問にあってから逃げる気力も無くなった。

ロープで首を吊って死のうとした――“奴隷の分際でなんだ!お前は船の付属品だ。いくらでも代わりは買えるんだぞ”“女の代用品くらいにしか使えない役立たずのガキなどぶち殺しても構わない”…脅し文句ではなく本気で言っている。

自分の命すら自由にならない――悪し様に罵られて自殺する気概も失った。

嫌悪と絶望だけが募っていく――ただ嬲られるままに躯を開いて生きてきた。

だから奴隷の身分から解放してくれたイジュに心底から感謝した。

敬愛するアムラの息子――この人の為なら…と本気で思っている。

いつかイジュに顔と名前を覚えて貰いたいと…そんな小さな望みが今のチャドの支えだった。

だからこそイジュと特別な関係にある“こいつ”が男娼である事が許せない。

「男に抱かれてよがるなんて…それで金を稼ぐなんて…」自分も躯と引き替えに楽な仕事を得た…美味い物も食べた…

「私も最初は嫌だった…本当は今でも抱かれるのはおぞましいよ。でもさ…だからって自分を責めちゃダメだよ。感じる躯になっちゃったのは仕方ないじゃない。こっちだって何もかも忘れて溺れなきゃ…そうでもしなけりゃチャドだって気が狂っていたでしょ?」

「誰が自分を責めるって…」声が掠れる――俺がこいつを嫌ったのは自分も同じ躯だから…

「俺は感じてなんかいない!」意識の底から上がる声を封じる。

「うん…そうだね…達くたびに…射精するたびに自己嫌悪に苛まれて…でもそれが生きてるって証なんだよ」ベリの瞳がランプの明かりを受けてキラキラと輝いた。

「寝て食べて媾合う。苦しくて辛くて思い悩む。それが生きてるって事だよ…死んだら苦しみはないよ。生き返った途端に悪夢が襲う…何もかも捨てて地の底に逃げても苦悩は消えない。だけど死んだら楽しみもないんだ。希望も…人を好きになる事も…大切な人に再会する事も…」

こいつは何を言いたいのか?――死んだことがあるような台詞だ。

「イジュを慕ってくれてありがとうね。弟として嬉しいよ。そうだよ、チャドは生きていたからイジュに逢えたんだよ」

「お前なんか…お前なんか…」チャドは顔を覆って泣き出した。

その後ろで矢ぶすまになった大男も泣いていた。

今までチャドを守ってきたのは彼だ。

“わかった…チャドは引き受けた。必ずイジュの近くで暮らせるように計らおう”シェラムは父親の霊に約した。


「ベリ様、いいですかぃ?」船長室のドアがノックされた。

「うん…どうぞ…」別に部屋など欲しくなかったが、いつのまにか雌狐号(ビクスン)で一番広く良い部屋…つまり船長室を譲られてしまった。

前の部屋主であるジンガラ人のガンダルが顔を覗かせた。

元船長は水夫長となってからも貴族趣味のごてごてした服の趣味は変わらない。

変わったことはベリに心酔したことだ。

あの一件以来、ガンダル以下全乗組員がイジュの実弟、アムラの次子として遇するようになった。

彼らの傷が癒えて起きられるようになり、実務に復帰する頃には、風を読み潮目を見ながらの操舵術を会得したベリが力でも技術でも完全に船を支配していた。

手塩に掛けた教え子が雌狐号(ビクスン)の女王に君臨したのを確かめて老水夫達は雌豹号(レパーデス)に戻った。

「雌豹号(レパーデス)から手旗信号ですぜ、そろそろバラカの奴らの縄張りに入ります」

「そう…」バラカ諸島の海賊は島の洞窟や密林の中に隠れ住んでいるのだそうだ。

ここでガンダルがいう“バラカの奴らの縄張り”とはジンガラ海軍が布陣している海域を指す。

「チャド、甲板に出るよ」“女王”になってからも相変わらず襤褸のトゥニカを着ている。

「うん」チャドがベリに薄汚れたベールを手渡す。

部屋が広いから…とベリはチャドを同室にしていた。

ベリと寝起きを共にする――最初は抵抗があったのだが、船長室は幼い頃からこの船で育った自分にとって憧れの場所だった。

ベリに手を引っ張られて、おっかなびっくり初めて船長室に足を踏み入れ「こっちの寝台使っていいよ。私はソファでやすむから」と言われ、慌てて「いや、自分がソファに寝る!」と口走ってしまい、心ならずも同室を承知する形になった。

舳先に立つと雌豹号(レパーデス)の見慣れた顔がこちらに合図を送ってきた。

長老達の教育の成果で、手旗信号も反射鏡を使った交信も全て理解できる。

「イジュが呼んでる。作戦会議らしいよ」

「おい、小舟を用意しろ」ガンダルの命令で水夫達がきびきびと動く。

チャドは潮風に漆黒の髪をなびかせる少年の美貌を陶酔して見つめた。

正直、ここまで統率された雌狐号(ビクスン)を見るのは初めてだ。

“ベリは凄い”イジュが後ろ盾である分を割り引いても、僅かの期間で荒くれ水夫達を懐柔した手並みは大したものだと思う。

認めたくはないが、本音ではとっくにベリに従っていた。

自分のような奴隷上がりを相棒として遇してくれるベリがありがたかったし、皆から憧れの目で見られるベリが誇らしかった。

「じゃあ、ガンダルとジョッシュ一緒に来て。それにチャドも…」

「えっ?俺?」

ジョッシュはアルゴス人の元副船長、ガンダルと共に自分を手籠めにしかけた男だが、もともと二人の仲は良くない。

メッサンティアの貴族に太い繋がりを持つ海賊団の一員だったジョッシュは落ちぶれたバラカやジンガラの…かつての商売敵達を傘下に治めた海賊団の権威を笠に着て威張り散らしていた。

権力志向の強いガンダルと張り合わせるには、もってこいの相手だ。

最初はイジュから託された雌狐号(ビクスン)の雇われ船長の地位を巡って…今はべリの寵愛を競っている。

さっきのガンダルのように何かと理由をつけてはベリと接触したがった。

ベリは雌狐号(ビクスン)について図る時、必ず二人を同席させる。

時を違えたり、どちらか一方という事はしない。

それも甲板に出て、みんなの見ている前で…どんなに抜け駆けしたくても肝心のベリ自身がみんなを呼び集めてしまうのだから、仕方がない。

そして知らず知らずのうちに、いつも“女王”の傍らにいるチャドは船内の連絡係になってしまった。

“イジュに紹介して貰える”雌豹号(レパーデス)に向かってボートを漕ぐチャドの胸は高鳴った。


「ほう、友達ができたのか…」イジュは目を細めて一番最後に縄ばしごを上がってきた黒人少年を眺めた。

「とも…だ…ち?」シェラムは怪訝な顔をした。

「友達ってチャドが?」キンメリア語の質問は兄にしかわからない。

周りを取り巻く海賊達は口を挟むことなく黙って意味不明な会話を聞いている。

「違うのか?お前の従者でも部下でもないんだろう?」成る程、あの少年のおかげ…と言うわけか。

一人になってさぞや大きな騒動を起こすだろうと覚悟していたが拍子抜けするほど何も起きない。

おまけに見事に雌狐号(ビクスン)をまとめ上げた。

チャドという奴隷上がりの少年に心を開き満たされていたから、いつもは際限なく膨張する欲望が暴走しなかったのだ。

「そうだよ」案の定、即答が返ってきた。

「だったら友人じゃねえか」

「そう友人…チャドは友達なんだね…」自分を納得させるように反芻する。

“友”と呼べる相手が生まれて初めて出来たのだ…とは、さすがの兄も思いが及ばない。

ペリアスの元で、もしくはあまり想像したくはないがあの地下陥穽で、人外の輩と親交していたのではないか…と思っている。なにせ“妻”が宇宙から飛来した妖木だったのだから…

シェラムにとってカリニアの側女や愛姓はみな金で購った奴の類であり、コーシェミッシュに徘徊した異界のモノ達は力で屈服させた従僕、使い魔である。

ヨトガは初めて心から愛したモノだったがやはり自分には従順だった。

アィーシャは“信徒”――全てを捧げた契約によって、身も心も…死してのちの霊体(たましい)も未来永劫にわたって所有権を得た。

侍従に命じたヒューイもしかり…自分に従う者だ。

初めて同等の立場で接する相手に巡り会った。

「じゃあ、始めるぞ。こっちは雌獅子号(レオノラ)の船長グラディス、モルゥヤが補佐だ。こいつはシェラム、俺の弟で今は雌狐号(ビクスン)を任せてる…ああ、ここでの呼び名はベリだ」イジュの言葉が訛りのきついアルゴス語に変わった。

今やジンガラ人もクシュ人も海賊稼業を続けたいならアルゴスの言葉が理解できねば船に乗れない。

いつの間にか上級水夫はアルゴス語、奴隷上がりの漕ぎ手が中心の下級水夫がクシュ語…と船の中では二つの言葉が自然に飛び交っていた。

「この前はいいモノを見せて貰った。ガンダルとジョッシュが仲良く伸されるなんざ、滅多に拝めねえ」アルゴス人のグラディスがニヤリと笑った。

「うるせえ!」同じ海賊団でも上位にいたグラディスをジョッシュは毛嫌いしているし、ガンダルはもっと嫌悪している。

それぞれに睨み合う二組の間にオレンジのベールが、すっと立った。

ゆっくりとベールが外された。

「もう、仲間…関係ない」ベリがクシュ語で答え、兄の後を追って中甲板の一番広い船室に入っていった。

ガンダルとジョッシュは雌獅子号(レオノラ)から来た連中を睨みつけながら“女王”に従った。

ベリの素顔に慣れている雌豹号(レパーデス)の水夫達でさえ息を飲んで見送る。

遠目からしか見た事がないグラディスとモルゥヤが我に返るまで幾ばくかの間があった。

“なんてぇ綺麗なガキだ…奴らが流血騒ぎで奪い合ったのがよく分かるぜ”知らず知らずのうちに喉がひりつき、唇が乾く。

胴回りがゆったりしたハーレムパンツでなければ屹立しかけた股間が皆にわかっただろう。

“イジュの弟か愛人か…どっちにしても、ああ仲睦まじくされてちゃ色目は使えない”二人のキンメリア語のやり取りはイジュとベリの特別な関係、強固な結びつきを見せつけるのに十分な効果があった。

だが――“抱きてぇ”グラディスの目に淫靡な光が宿った。

「よお、大出世じゃねえか」後を追いかけようとしたチャドを、これまたベリに懸想したモルゥヤが呼び止めた。

彼も雌獅子号(レオノラ)の専用漕ぎ手、つまり奴隷だった身分をイジュによって自由民に昇格して貰った男だ。

奴隷時代にチャドの躯を慰み者にした数え切れない男の一人でもある。

「ベリのお気に入りだって?まったくお前みたいな、アソコがガバガバになっちまった丸太野郎なんぞのどこがいいんだろうなぁ?」

「うるさい!」チャドの目に怒りが燃えた。

それはガンダルやジョッシュなど比べものにならない程に強い眼光だった。

自分は馬鹿にされても構わない…だがこいつはベリを…俺とベリがそういう関係だとあからさまに吹聴している。

“ベリを蔑むヤツは許さない!”

レイプ専用の肉人形だったチャドに睨まれモルゥヤはたじろいだ。

周りの男達にも厳しい視線で一巡するとチャドも当然のように船室に入っていった。


グラディスとモルゥヤが遅れて入った船室は会合専用だった。

海図や羅針盤が常に大きな卓の上に貼り付けられている。

卓を囲む席順は特に決まっていない。

入室した順番というのが暗黙の了解だ。

但し卓の中央だけは当然、船団の長であるイジュが坐る。

今日は、そのまわりを古参の水夫達が占めている。

いつもは空いているイジュの向かいの席にベリが座っていた。

左隣にガンダル右にジョッシュ、チャドは椅子をずらしてベリの真後ろにいた。まるでガード気取りだ。

雌獅子号(レオノラ)の代表二人はしかたなく空いているジョッシュの隣に腰を下ろした。

「よし、始めるぞ」イジュが独特のイントネーションのジンガラ語で口を開いた。

ジンガラ、アルゴスそれにクシュ語が入り乱れる会合では何語で話そうと自由だ。

自国語しか解さない者は議論に加わるどころか何が話されているかもわからない。

自然と言葉を覚えようとする。

言葉の壁が消えると船員同士の交流がスムーズになって、結束が固くなる。

イジュはどの言葉も独特の訛りで話した。

さらにアキロニア語も流暢に話す。

皆が一目置く理由の一つだ。

「ハルロの話じゃ、バラカは要塞化してるらしい」

ハルロとはジンガラ軍に追われ、洞窟に潜んでいた海賊の生き残りだ。

嵐に紛れて決死の覚悟で鮫が群れなす西部太洋に漕ぎ出した。

嵐で櫂が流され、水も食料も尽きて死を待つだけで漂流していた小舟は運良くアルゴス籍の商船の護衛戦艦――勿論、裏稼業は海賊船だが…に拾われメッサンティアに着いた。

そこの酒場でイジュはバラカ諸島の水先案内にハルロを雇った。

正直、最初は家出少年を見つけ出したら、アキロニアに連れ帰るか…拝み倒されてペリアスがいるというステイジアに向かうことになるか…どちらにしても、さっさと航海を終えるつもりでいた。

だから愛馬も借金のカタにして、預けっぱなしになっている。

シェラム奪還の為に、海域のジンガラ海軍の陣容さえわかればよかった。

だが弟の家出の原因の一つが外洋に乗り出しての海賊修行にあったと知ると、幼い頃の約束を果たしてやろうという兄心が湧いた。

“弟御に甘すぎます”――シェバの小言が聞こえてくるようだ。

“仕方ねえよ、地下から連れ出した時海賊のいる港町に連れて行くって言っちまったんだから…”タランティアで留守を守る第一の側近に言い訳する。

“それにハルロからも仲間を救って欲しいと散々泣き付かれてるし…”

成り行きとはいえ、海賊船が一国の海軍の基地を襲おうとしている。

それも、たった三艘でだ。

仲間を救い出し、ジンガラ海軍への復讐をとげるのが夢だったハルロにとってイジュとの出会いはまさに“神のお導きによるもの”であった。

「ハルロ、弟だ」

日やけした顔をほころばせて会釈する。「知ってるよ、あんたは有名人だ、ベリ」

「こいつもジンガラの軍隊にはちょっとは詳しい」チラと弟をみやる。

砦では躯を餌に武器庫に出入りしていたから、奴らの軍備を知っている。

「どの程度の武具を揃えているかくらいはね」別段悪びれた様子もない。

「で、要塞とはどういうものじゃ?」長老がハルロに尋ねた。

「まず、それぞれの島に主要鑑が一隻ずつ、本島には旗艦も含めて三隻、それを中心に船団が組まれていて、ここと…」岬を指す。

「この海域には俺達が乗っていた船を沈没させて水深を浅くしているから一列でないと通れない。向かってくる船は必ず右舷を見せてすり抜ける事になる。そこをこことここの投石台から狙い撃ちして沈める。もし沈没を免れても崖の上には射手が潜んでいるから上陸する敵は片端から射殺される」

海賊達は息を飲んだ。

イジュに煽動されて襲う気にはなっていたが、そこまで軍港になっているとは…

“縄張りにしてやろう”などとはとんでもない、まさに要塞に喧嘩をふっかけに行くことになる。

冗談じゃない!このまま進んだらバラカに着く前に皆殺しだ。

コルダヴァ付近の港町の一つも襲い、ジンガラの奴らを慌てさせて引き上げる…くらいでちょうどいい。

居並ぶ男達に航路反転の気運が流れた。

“やっぱり本当の事を言わなければよかった”場の雰囲気を察知してハルロは唇を咬んだ。

だが、ありのままを…とイジュが望んだ。

恩人の指示には逆らえない。

「このままじゃ、見張りに見つかって総攻撃されるんだね?」ベリのジンガラ語は抑揚が平坦だ。

「巡視艇が彷徨いてるから…」ハルロの声は沈んでいる。

「じゃあ、ぐるっと回ってこっちから攻めれば?」シェラムの指は西部太洋の果てを指している。

確かにそちら側には大陸も島もないから、備えは薄い。

バラカの軍施設はすべてジンガラに面して布陣していた。

首都コルダヴァが襲われても、ここから出撃して本国の主力部隊と挟み撃ちにするためだ。

ジンガラがこの大小九つの島からなる群島を欲した最大の要因は防衛ラインの確保だった。

逆にこの地が反ジンガラの不穏分子の基地になっていては、おちおち艦隊が出動できない。

手薄になったところを襲われる危険があった。

だからただ奪うだけではなく、後腐れのないよう皆殺しにした。

今でも追跡の手を弛めていない。

西部太洋の制海権を掌握するための第一歩だ。

「でも、そっちにも見張りの船は出ている。そいつらが島の中に入り込んで残党狩りをやるんだ」散々に追われた男は吐き捨てるように言った。

「見張りは撒いたとしても、どっちにしろ襲いかかるには近づかなきゃならねぇ、それに後ろの島から攻めたとしても、すぐに隣の島々から援軍が飛んでくる」イジュは蒼い目を細めた。

「やるなら手分けをして九つの港を一斉に襲わないとダメって事だね」ベリも半眼のままハルロが書いた詳細な地図を眺めている。

「それもコルダヴァからの本隊がやってこないうちにだ」長老が口をはさんだ。

「シェーラ、潮の流れを変えられるか?」キンメリア語だった。

急にベリの表情が輝いた。

「いいの、魔術をつかって?」これもキンメリア語で応じる。

「緊急非常事態だ。アィーシャの時だってやったじゃねぇか」ちょっとバツが悪そうに兄は鼻をならした。

「じゃあ、アィーシャの時みたいに嵐もおまけにつけて…津波で流しちゃうって手もあるけど、これだとこっちにも余波がくるからダメかな?」逆に弟は嬉々として一人でしゃべり出した。

「向こうから援軍がきたら海峡に渦を起こして沈めちゃおう、鮫が喜ぶよ。あとは強風で北に流しちゃうのも面白いよね」やがて氷に閉ざされて凍え死ぬ…氷神イミールへの貢ぎ物にはもってこいだ。

「あの砦みたいに皆殺しにするんでしょ?だったら海底噴火を起こして島ごと海の底に沈めちゃうとか」

意味は分からないが、こんな饒舌なベリは初めてだ――みんな、あっけにとられて眺めている。

「ハルロの仲間がいるんだ、島は残しておけ。おまえに頼みたいのは、その逆だ。今、バラカを奪い取ってもジンガラがまた襲ってくるだろう、島を守る手だてを講じるんだ。例えば潮と風の流れを逆にするとか…」なんといってもシェラムの破壊レベルは尋常ではない。

度合いというモノを知らない。

屋敷を潰し、戦争を起こし…前科がありすぎる。

暴走魔道士の腕を頼んでよかったのか…不安がよぎる。

「なーるほど!じゃあ海峡に逆の潮流を通して、あとは強風が定まらないようにすればいいよね」そして本人には全くと言っていいほど前科への反省がない。

「海の難所にはするなよ」一つ一つ釘を刺しておかないと“船の墓場”をつくりかねない。

「お爺さん達の腕なら大丈夫だよ」当然と言った顔で頷いた。「沈むのは船乗りの腕が悪い船だけさ」

意味不明のやり取りを聞いていた“お爺さん達”の一人がベリに尋ねた。

「さあ、その楽しそうな作戦を俺達にも教えちゃくれないかね?」


この海域に海霧が湧いたのは初めてだった。

風はない。

九つの集団に別れた海賊達は小舟に乗って静かにバラカ諸島の西から漕ぎ寄せてきた。

母船三隻は巡視艇を避けるために迂回して、はるか西部太洋の沖合に錨を降ろしている。

そこから三時間、男達は櫂を握ってはいたが、今までには無かった北から流れ寄る潮流に乗って、殆ど漕ぐことなくバラカ諸島に向かって運ばれていた。

霧の中を…

小舟を降ろした時から急に海の色が濃くなった。

「あん?」古参の水夫が手を突っ込んでみると…

「ひゃあ、冷てえ!」海水の温度が異様に低い。

「こりゃあ落ちたら心臓が止まってオッ死んじまうぞ」この辺りまで北からの寒流が降りてきた事はなかった。

皆が乗り移り、武器を下ろすあたりで汗ばんだ肌がひんやりとしてきた。

北の海から流れてきた海水は大気を冷やし始めた。

「これだけ動いてんのに、肌寒くなってきやがった」海賊達は皮の胴衣や鎖帷子の上から裏付のジャケットを羽織ったり毛糸で編んだ中胴衣を着込んだりしたが、奴隷上がりの水夫にはそんな用意はない。

「ほら、寝台から毛布持ってきて被って。霧が晴れればすぐに暖かくなるから」ベリはチャドの肩から毛布を掛けてやった。

「霧?」チャドは怪訝な顔をした。

すると…

「おーい、霧じゃ」

海から白い靄が起ち上がってきた。

みるみる太陽が遮られる。

「舳先にカンテラを付けろ、それで互いの位置を確認しながら漕ぐんだ」イジュは先導役の水夫に次々にカンテラを渡す。

「こんなもの、いつの間に…」

彼らは顔を見合わせた。

確かに小舟で上陸して手薄な背後から襲撃するのは名案だとは思う。

今まで誰も思いつかなかった作戦だ。

だが、辿り着くまでに巡視艇に発見されては何にもならない。

正直、こんな真っ昼間に襲うなんて…と疑問と不安を抱いていた。

見つかれば終わり――こんな小舟では小魚と鮫の戦いだ。

自分から餌食になりに漕ぎ出すようなものである。

だが、老水夫達は盲目的にアムラを信奉していたし、もともと雇い主はイジュだ。

蒼い目の船主に異を唱える雰囲気はなかった。

“いざとなれば、さっさと逃げる”所詮自分らは一時雇いの水夫だという考えが根底にある。

そこに霧が湧き出した。

「アムラの子には海神がついている…」“澪つくしの爺”は感極まって小舟の先頭に立つ長身の黒影を拝んだ。

イジュは戦隊の中心基地である最大の島を六艘の船に乗り分けた海賊達と襲う。

寄港している軍船も兵士も一番多く、司令官がいる島だ。

ベリは一番コルダヴァに近い、狼煙台がある島を同じく六艘の船で任された。

いざとなればジンガラからの本隊がすぐに駆けつける位置にある。

本国から装備が運びやすい事もあって、一番軍備が整っているのがこの島だ。

あとの小島には三艘から四艘で、襲いかかる。

霧の中でもハルロの案内は誤りがなく、黒くバラカの島影が浮かび上がると、合図のカンテラが振られ、それぞれの敵地に向かって船団は九つに別れていった。

黒い長身の影が立つ舳先をオレンジのベールが立つ小舟が追い抜いていった。

すれ違う瞬間、兄は黙って右手を差し上げ、弟は優雅に腰を折って礼をした。

水夫達が上陸し、洞窟に潜んでいたバラカの海賊達を救い出し、これに武器を持たせたあたりで、向かい風が吹きはじめた。

一気に霧が流され、眼前にジンガラ海軍の軍港が広がった。

中天に上る太陽が、見張りの位置も、軍船を繋ぐ舫まではっきりと照らし出す。

ちゅうど昼時とあって、香ばしい匂いと笑いさざめく声が風に乗って聞こえてくる。

“勝てる!”グラディスは見張りに向かって弓を引き絞った。

“霧が晴れたら一番に見張りをね…風は正面から吹かせるから狙いはつけやすいと思うよ…”小舟に乗り込む時にベリが囁いた言葉が甦った。

“もしかしたら本当にアムラの子には海神がついているのかもしれない…”性の対象として見ていたベリに初めて畏怖が湧いた。

それは信仰に変わる。

“イジュとベリにしたがっていれば負けない!”

矢は過たずに歩兵の首筋を射抜いた。

「行くぞ!」剣を抜いたモルゥヤが一番先に港の停泊している軍船に向かって走り出した。

“兵士が乗り込まないうちに火を掛けて沈めちゃって”ベリの指示どおりの行動だ。

彼もいつの間にかアムラの次子に心酔していた。

もはや、誰もベリがイジュの実弟であることを疑わない。

油を撒いた上に松明を投げ込むと火の手を見つけた兵士達が慌てふためいて兵舎から飛び出してきた。

そこを伏せていた海賊の矢が一斉に襲う。

乗り込んでいた船員も燃え上がる火に煽られ、消火を断念して飛び降りるところを狙い撃ちにされる。

運良く矢玉を逃れた兵士だけが剣を引き抜いて待っていたモルゥヤ達の獲物になった。

次々に九つの煙が西にたなびく。

中央の指令基地からあがる火炎は一番火勢が激しい。

「みんな、うまくいったみたいだね」狼煙台を占拠したシェラムは初陣で興奮するチャドに声をかけた。

ここは展望台でもあった。

背後に位置する八つの軍施設、各々の港の様と、前方はるかに本国の海岸線までが見渡せる。

その声に振り返ることなく、かすかにうなり声で応じた。

黒く縮れた髪にも黒光りする皮膚にも飛び散った返り血を拭いもせずに狼煙台の階段に仁王立ちになっている。

階段を上がってくる敵兵を片っ端から斬り殺す為に。

ベリは強かった。

何度も気負った自分を敵兵の刃から救ってくれた。

救われたのは自分だけではない。

一番最初に抜刀し、雨のように振ってくる矢を打ち払いながら、斬り込み、射手を撫で斬りにして門を突破した。

見たこともない剣、見たこともない剣技だった。

正規に訓練され、分厚い鎧を着込み、業物を携えた兵士達が、破れたトゥニカ一枚のベリに討ち合う事なく倒されていく。

“こりゃあ、俺達ごときが適う相手じゃない”ガンダル、ジョッシュはじめ雌狐号(ビクスン)から従った乗組員達はベリの強さに改めて舌を巻いた。

それにあの黒い潮流と霧を操っているのがベリだと確信している。

砦でベリが不思議な術を使った…という噂は本当だった。

「そろそろ向こうが騒がしくなってきたぞ」望遠鏡でコルダヴァを眺めていた長老が傍らのベリに声を掛けた。

「待機組も煙を見て、こっちに向かってるぞ」反対側を見ていた“ロープ渡りの名人”が望遠鏡を叩いている。

待機組とは雌豹号(レパーデス)雌獅子号(レオノラ)雌狐号(ビクスン)の三艘だ。

「ねえ、ジンガラの海軍って操舵術は凄いの」

「そりゃあ、上手いのはおるわ、何と言っても“正規に訓練された海兵”じゃからなぁ」

「この辺りは奴らの庭じゃ。潮目から風向き、海底の様子まで分かってる」

「そう…じゃあ何艘抜けてくるか楽しみにしてようかな…」ベールを脱いだベリの長髪を東風がなぶる。

被さっていた髪の下…左眼の奥に紅い光が宿った。

「来たぞ!コルダヴァの本隊だ!」長老が緊迫した声を上げた。

「うん…」

「拙い、風が向かいで雌豹号(レパーデス)達の船足が遅い」

逆にコルダヴァからは追い風になる。

五本のマスト全ての帆を一杯に張って、風をはらませた軍船が次々にその姿を表した。

あっという間に大船団が海上を埋め尽くした。

「すげえ…」長老の声を聞いて上がってきたチャドが目を見張る。

肉眼で分かるまでに敵は迫っていた。

「ねえ爺さん、軍船の最後尾は見えた?」

「ちょっと待て」コルダヴァから全艦隊が出撃したか…それを確かめる。

「ふむ…コルダヴァ港の前に海が見える…こりゃあ残らず出張ってきてるな」

「それじゃ、そろそろいいかな…」ガイの希望に答えないと…“これからが腕の見せ所”と破壊王の魔道士は張り切っている。

右の拳を前方に突き出す。

薬指に嵌めた何の変哲もない鉛色の指輪が、太陽の光に虹色の膜を張って鈍く反射した。

先端に対の…ガラス玉かもしれないが紅いルビーが輝いて、目のように見える。

アイーシャの願いを叶えた砂嵐ではサータを小さいながらも蛇体にもどし、指先に這わせて嵐を呼んだが、今度はそんな小技では事が足りない。

「サータ、久しぶりに泳いでおいで」

チャドの目には鉛の指輪がシュルリと解けて遙か前方の海に飛び込んだように見えた。

長老は望遠鏡に目を当てているから見ていない。

慌ててベリの指を見る――そこには見慣れた指輪が無かった…

「すぐに戻ってくるから…知らん顔してて」ベリはチャドの頬に顔を擦り寄せて囁いた。

「そろそろ下は片づいたみたいだね。ガンダル達が上がってくるよ」

「おおっ!」望遠鏡を覘く長老の大声と、殆ど同時に階下から驚愕の叫びが上がった。

チャドも目を見開いたまま固まっている。

肉眼でもわかった。

そして、すぐにそれは耳でも…

ゴウゴウと耳をつんざく音が聞こえ、長老の叫びも“ロープ渡りの名人”の呼び掛けもかき消された。

渦が――巨大な渦が海上に白いすり鉢を作っていた。

一つ、二つ、三つ…ぶつかり合いながら一つが弱まると、隣にさらに強大な渦が出現する。

軍船がぶつかり合いながら巻き込まれていく。

帆を張りきっていたために速度が落ちない。

前方の船が真っ二つになって轟沈していくのを見ながら、どうする術もなく同じように渦に呑み込まれる。

傾いた軍船どうしがぶつかり合って互いに舳先を食い込ませたまま海中に落ちていく船もある。

あわててマストを斧で切りたおし、操舵しようとする船もあるが、前後左右に味方がひしめいているために動きが取れない。

逆に倒れたマストで傾いた船体を立て直せないまま巨大軍船に挟まれて潰される。

阿鼻叫喚――もし渦潮の音がこれほど大きくなければ、船の打ち割れる音や彼らの断末魔の絶叫が風に乗って聞こえるに違いない。

「おわったねえ…」ベリの声で茫然自失していたチャドはハッと気づいた。

いつの間にか渦は治まり、夥しい破船の木切れが浮かんでいる。

ベリは左側を覆っていた髪を掻き上げた。

チャドはその指になかったはずの指輪が戻っているのを見た。

その指輪が水に濡れてキラキラと光っているのも…

イジュが乗り込んだ雌豹号(レパーデス)が波しぶきも消えた海に滑らかに進んでいく。

あとに雌獅子号(レオノラ)雌狐号(ビクスン)それに夥しい小舟が続く。

木切れに捕まり漂っている敗残兵を見つけ次第撃ち殺しながら進む。

まさに血の海が拡がっていく。

そこに三角の影が集まり始めた。

渦で逃げていた鮫が血の臭いに惹かれて戻ってきたのだ。

チャドは思わず顔をそむけた。

「彼らはバラカの海賊達を虐殺した。復讐されて当然だ。逃げ回っていた生き残りにとっては、このままあっさりと引導を渡すなんて納得できないと思うよ、もっと残酷に殺したいだろうね…でも、ここで始末するのが後腐れ無くていいじゃない。これはイジュの指示なんだよ」

海賊は残酷だ。

だが軍隊はもっと酷い仕打ちを平気で行う。

自分の父も兄も…漕ぎ手の奴隷と分かっていて船足を停めるために真っ先に標的として射殺(いころ)された。

ジンガラの海軍は自分にとっても仇だ。

「お父さんと兄さんの仇を討ちに行きたかったら、ガンダル達と行けば?」

頭の中を覗かれているような気がして、後退(あとずさ)った。

「私が恐い?」ベリはイジュの船影から目を離すことなく、そう聞いた。

“きっと自分は怯えた目でベリを見ているのだろう…大切なベリを…”

必死で戦った…だから恐ろしくはなかった。

だけど…自分が手に掛けた敵兵の顔が断末魔の叫びが急に思い出されて頭を抱えて座り込んだ。

「お父さんやお兄さんを殺した敵が誰か知ってた?」ベリがその前に腰を落とした。

頭を抱えたまま首を横に振る。

「じゃあ、チャドだって知らない相手を殺しても仕方ないよね?」そういう…事になるのだろうか…

「泣かんでいい、若いの…こうした戦いの後は異様に気が高揚するんだ」長老がチャドを気遣った。

「初めて人を殺したのか?そうか…なら仕方ないさ」“ロープ渡りの名人”はチャドの頭をポンポンと叩いた。

「初陣にしては見事じゃった。十分に仇は討てたろう、もうここにおるがいい…」

顔が血糊だらけの手で挟まれた。

と…唇が重なった。

「もしかしたらチャドが殺した兵が仇だったかもしれない…違うかもしれない。でも確かめようがないよね?その仲間であることに変わりはないんだから…お爺さん達の言うとおり仇討ちってことでいいんじゃない?」

もう一度キスされた。

「落ち着いた?もう気にしちゃダメだよ」

燦々と輝く太陽の下で返り血を浴びた女王は嫣然と微笑んだ。

風はピタリと止み海は凪いでいた。

船を進めているのは遙か北から流れてきたあの寒流だ。

島で分かたれた潮流は九つの黒い帯となって、青い海原を進んでいく。

高みから見るソレはまるで九頭の蛇を思わせた。

黒い蛇体は青い暖流の下へ潜ろうと身をくねらせる。

やがて木切れも鮫も血の海も青黒いうねりに呑み込まれ消えていった。


「シェーラ、気が済んだか?」

「うん、大満足。船の事は覚えらえたし、海賊になれたし、大暴れしたし」“魔術も使えたし…”は心の中で付け加える。

「そうか…」海の男になる修行はこれで切り上げてよさそうだ。

幼い頃からの夢をかなえられて満足だろう…いや、ここまで協力したんだ満足してくれなければ困る。

「やっぱりチャドを連れてきた方がよかったかな?」

「いや…あいつこそ船で育った海の男だ。海原を離れて生きてはいけないさ」

「そうだね。残るって決めたのはチャド自身だものね」

ヴァイロンは櫂を握る腕に力を込めた。

三艘の船はバラカ諸島に置いてきた。

乗組員、いや海賊達と共に。

急に流れ込んだ寒流がジンガラへの防御となり、朝夕は風が変わり霧が湧くようになった。

バラカ諸島は自然の要害となった。

再び海賊の拠点として。

「しばらくジンガラは攻めてこないよね」

「永遠かもな。何せ軍船は殆ど海の底で、水兵もいないんだ。バラカに陣取った奴等は馬鹿じゃない、何せ海千山千の爺さん達がいるんだからな。軍船を造る材木を積んだ船が通りかかったらすぐに襲いかかるさ」

「そうか…じゃあ、お爺さんやチャドは心おきなく海賊稼業ができるんだね」

「ジンガラの港は片っ端から略奪されるだろうな」

シェラムは後ろを振り返った。

ここまで送ってきた雌狐号(ビクスン)の船影は、もう見えなかった。

夜空一杯の星が瞬き、白い波しぶきが輝き、さらに海中に光る海草や生物がかいま見えて夜の海は息を呑むほど美しい。

じっと眺めていると引きこまれそうだ。

「初めて出来た友達に別れは言ったのか?」

「ううん…みんないたし…」

最初は背後でチャドを守っていた父親の霊に約したとおり、兄の従者にしてアキロニアに連れて行こうと思っていた。

何より自分がチャドと別れがたい思いがあって…だからバラカを離れる前夜にチャドを誘った。

「一緒に行かない?これから私は南に行くんだ。どうしても逢わなきゃならない恩師がいて…イジュも一緒だよ」

「………………」

「それからアキロニアに行く…っていうか帰るんだ。タランティアにはアカデミアっていう学校がある。肌の色も身分も年齢も関係ないんだよ、そこで勉強したら?チャドのやりたいことがきっと見つかるよ」

「俺のやりたいことは…一人前の水夫になることだ」

「チャド…」

「そうなんだ…俺は奴隷あがりで、慰み者で…ただ船を漕ぐことしかさせて貰えなくて…だから船での生活がイヤだった。でもベリと一緒に長老達から色々と習って…俺はもっと知りたい、海のことも船のことも…潮目を読むのも帆を張るのも一番の水夫になりたいんだ」

「でも、イジュはいないよ?」

「うん…ベリもね。ホントはずっとイジュの下で働きたかったけど、諦める…アムラも海を離れていったんだろう?だったら二代目のあんた達が海を去っても仕方ないよ」

「そう…」

「でもイジュは俺にとって永遠の憧れだし、ベリも海の仲間に変わりはないよ」

「海の仲間?…私も…」

「俺よりよっぽど上手く操舵するじゃないか」

「そうか…私を“海の男”って認めてくれるんだ…」

「男っていうか…その辺は微妙だけど…でも仲間だ」

「友達でもあるの?」

「えっ?」

「ガイ…イジュがね、チャドは私の友達だって言うんだけど…そうなの?」

「いいの?俺みたいな黒人…奴隷だったんだよ、俺…」

「知ってるよ、だからなに?」

チャドは下を向いた。

「もう一回キスしてくれる?」

「いいよ…」

目を瞑った少年の分厚い唇に柔らかくそれが触れた。

シェラムが相手の唇に舌を差し入れ、絡めて、吸うという普段の…ヴァイロンとも行う濃厚な口づけをしなかったのはチャドだけだった。

抱きしめもしなかった。

「さよなら…元気でね…時々はお父さんと兄さんを思い出して海に花を投げて…二人がずっとチャドを守っているからね」

「わかった…」

それが二人きりで言葉を交わした最後だった。

爺さん達は、チャドを引き受けてくれて、それぞれ“跡継ぎに仕込む”とイジュに約した。

だから雌狐号(ビクスン)から降ろされた小舟に飛び乗る時も、決して後ろは振り返らなかった。

「ベリーッ!べリーッ!」背中にチャドの呼び声がずっと聞こえていたけれど…

「ガイ、あれなに?」

海中の海蛍の輝きの何千、いや何万もの煌めきが、行く手に見えた。

「あれがメッサンティアだ。全くお前のお陰で馬を預けっぱなしになっちまった。いったい利子がいくらになったのか…引き取りに行くのが恐いよ」

「ふうん、イジュ・アムランでも恐いことあるの?」

「お前のせいだろうが?」

「頼んでないもん」

「こいつ!」

キンメリア語が飛び交う小舟は夜の海を滑るように進む。

ベールの隙間から銀灰色の蜥蜴が頭を出した。

「ほら、ヒドラ。あれがメッサンティアだって。大回りしちゃったけど、やっと着いたよ」

こちらに背を向けて櫂を漕ぐ兄の髪が海風になぶられて、流れる。

金色の髪に遙か彼方の明かりが透けて輝いた。

太陽みたい…ふいにそう思った。

暗黒の海さえも照らす太陽――自分の抱える心の闇を照らしてくれるのはガイだけだと…

「ねえ、ヒドラ…私のガイ…綺麗だろう?」そっとささやく。

蜥蜴は小さな舌を出して主人の頬をぺろりとなめた。

第9章 完


あとがき

今回エロなし!って、たまにはねえ。
で、戦闘シーンも前章の二番煎じになりそうなので(表現力ありませんし…似たようなシーン書くと飽きちゃって、結局書いてる途中で止めちゃうんです)あえて削って書きました。だから短いです(笑)
というか意識して違えてます(だから飽きないように自分なりに工夫して〜)
だけどベリのファンからは総スカンくいそうな…何だよ、ベリが男って(謝〜)しかも正体は性格破壊のシェラムだし(爆)
でも書きたかったんです!ベリを。
まだステイジアには旅立ちません。てか旅費が無くて旅立てない(笑)
そんなこんなで変態兄弟、やっとメッサンティアまでやって参りました。
ああ、ホントにペリアスが出てくるまであと何章掛かるだろう…(泣)

変態兄弟漫遊記の感想・御意見をお待ちしております。 ←タイトル変えようかな…

書・U・記/拝

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