第2章 恋人は宇宙樹
コスとコーラジャの国境沿いを守る兵士達は砂塵を巻いて現れた四騎の姿に愕然とした。
先王ストラボヌス亡き後、コスは内部紛争に明け暮れ、以前のように領土を脅かす小競り合いなど何年も起きていない。
近年ではコーラジャ王国国境守備隊の兵の殆どが職業軍人ではなかった。
近隣の村から徴兵された男達が一月の軍事教練を受け、三年の兵役で国境を警備する。
生まれた時から砂漠の民である彼らは馬も駱駝も扱い慣れていたし、幾日も砂丘を越え、砂嵐に呑まれながらの巡回も大した苦ではない。
何も高い金を出して他部族の傭兵など雇うことはない。
確かに武器の扱いとなると心許ないが、戦らしい戦は無いのだから今のところ彼らで十分、事は足りている。
だから、普段から甲冑を付けて生活する心得の無い彼らが、急な越境者を迎え、大騒ぎで胴当てを付け、剣を持ち出した頃には、怪しからん一団は疾風怒濤で駆け抜けていて、遠く砂丘の果てに砂埃が舞うだけだった。
砂中の乗馬に長けた彼らでさえ、唖然とする早さだった。
「ズアジル族じゃねえか?あの長衣(キラット)は…」
見張りの一人が大きく息を吐きながら呟いた。
「生成の頭巾(カワイア)の奴もいたぞ」
「て、ことはヴィラエット海を越えてきた東洋人か?」
「なんで東洋人とズアジル人が一緒にいやがるんだ?」
「知るか!それより、どうすんだよ、あっさり通しちまって…」
「しかたねえだろ、あんなに足の速い馬見たことねえ」
「隊長さんに何て言おうか…」
「商人だと言ったから通しました…でいいんじゃねぇか?」
「そうだな、ズアジル族だったらありえるもんな」
「取り合えず晩飯にするか」
これより一夜の後に、そのズアジル族の四騎が再び彼らの前に現れるなど、純朴な兵士達には思いも寄らぬ事であった。
市場から続く西の大門の前で城壁警護の衛士達は、宮殿近くにある兵舎から部隊長が到着するのを、今や遅しと待っていた。
コーラジャ王国の首都カリニアは東西の文化が入り混じる合流点である。
様々な種族の商人が行き交い、物が運ばれ金が動く。
当然よほどの事が無ければ、いかなる異邦人も大門をくぐり城壁内へ入ることができた。
キラットを纏った男達はいつものように砂漠を抜けて北東へ向かうズアジル族の商人と思われた。
四騎というのは少ないが、何らかの理由で本隊に遅れた者達ではあるまいか。
砂漠を旅する者が、このような繁華な都を落ち合う場所にすることはよくある話だ。
国境警備の守備隊が黙って通したのだから問題はあるまい…商用の記述を取ったあと、いつものように城壁内へ招き入れるつもりだった。
それが、先頭にいた黒の駿馬に跨った男の、聞きなれない訛りで発せられた一言で騒然と為ってしまった。
「ぺリアスの塔へは、どう行けばいい?」
「ぺ、ペリアス?」
と、鸚鵡返しに聞き返した衛士は、慌てて口を押さえた。
“ペリアス”という名を決して声に出してはならない。
その名が洩れただけで地獄の扉が開き、妖魔が顕れると囁かれ、呼ぶ声を聞かれただけで子々孫々まで呪われると言い伝えられている。
恐れをしらぬ子供が戯れに口にしたために、地獄に連れ去られたという噂も聞いたことがある。
半人半魔と恐れられたコスの魔道士ツォタ=ランティをアキロニアのコナン王と協力して冥府の底へ叩き落とした稀代の大魔道士だ。
衛士が少年だった頃、カリニアの最北端に黄金の尖塔が建った。
夜が落ちるまでは何もなかった広大な広野に、美しい庭園に囲まれたそれは、夜明けの光と共にいきなり現れたのだ。
何故かは知らないが、この魔道士はしばらくアキロニアのタランティア宮殿にコナンの食客として暮らした後こうして、いきなりこのカリニアにやってきたのだ。
コーラジャ王とその臣下達が指示を仰ぎに王宮に招くため、決死の伝令が尖塔の入り口に立った時のみ魔道士は塔を出るという噂も誠しやかに伝わっていた。
恐怖の噂と王さえも脅かす権力…まともに暮らす者であれば、いや人間であれば決して近づかない…そこを行き交うのは魔の眷属のみ。
彼らが恐怖の魔道士を訪ねてきた異邦人の一団に仰天し、部隊長を呼びに走ったのは当然の事だった。
息を切らして駆けつけた部隊長は黒駒に跨る男を一瞥すると、すぐに閂を上げさせ、さらに自ら青銅の取っ手を引き異邦人達を入城させた。
「このまま、真っ直ぐ北へ行け!すぐに塔が見えてくる」
部隊長の言葉に黒駒の男が頷いた。
武器を構えたまま取り巻く衛士達を一瞥もせずに四騎の馬影は夕闇に消えていった。
「どうして、すぐに通してしまわれたのですか?隊長殿」
門番兵の問いに部隊長は少し遠い目をした。
「丁度俺がお前と同じ若造で、ここの門番だった頃、夕暮れのカリニアにやはりペリアスを訪ねて一人の蛮人がやってきた。当時の隊長はペリアスの名を聞くと、あっさり通した…そしてお前のように門を開いた訳を尋ねる俺達に、シェム南方の城塞都市の城門警備の将軍が北からやってきた蒼い目の蛮人を捕らえたが、そいつはあっさり逃亡したという話を語って聞かせた。やがて逃げた男はズアジルの無法者一隊を率いて都市を襲い、民を皆殺しにして略奪の限りをつくし、廃墟にして去っていったそうだ…俺は覚えている、その時の蛮人の眼が蒼かった事を…お前達は先頭を走る黒駒の背にあったキラットから覗く眼をみたか?」
「あ…」
「そういう事だ、それにあの魔道士めの事に関わるのは、避けた方が賢明だ。そのうちお前らも、これくらいの知恵は働くようになるだろう。そうでなくては武人と言えども命がいくつあっても足りぬ」
そこには壁も垣もなかった。
砂漠に落ちる日輪が投げた最後の光を受けて鈍黄色に輝く尖塔の周りには刈り込まれた芝苑と手入れの行き届いた花壇が広がっている。
芝と花園の間を抜けると馬に乗ったまま潜れる程の大きな金属の扉に行き着いた。
「これが王の言われた古代の金貨ですか…」
タランティアで王太子宮近衛隊長をしているユウラが感慨深げに塔の表面を眺めている。
黄色に輝く塔の正体は漆喰に隙間なく埋め込まれた金貨だった。
どの金貨にも何やら判らぬ文字や形が浮き出ているが、摩滅して殆どつるつるになっている物も多い。
ユウラは虚無の彼方に消えた古代王国で鋳造された金貨は一つでも魔術を施す際の呪物となるという幼い頃に聞いた伝説を思い出した。
あまたの処女の生き血で呪文を記し、何千という捕虜の首を生贄として秘儀を司った太古の神官や魔道士の残した恐怖の遺品…それこそが強力な補助祭具となる。
一枚でも強大な力を及ばすとされるそれが夕闇に消える尖塔の先まで、びっしりと貼り付いている。
この塔自体が“魔”そのものなのだ。
「殿下…ペリアス殿とはどういう…」
鉄門の取っ手に指をかけた主人に思わず尋ねる。
「そうか、お前はタランティア城壁の外れにあったペリアスの館を知らないんだな」
「はい、ロードタス川に面したあの場所は禁忌の方角ゆえ立ち入ってはならぬと祖父から厳しく言われておりました」
「トロセロ伯爵だけではない、アキロニアに住まう全ての住人が忌み嫌うところさ」
ヴァイロンは黙したまま付き従う二人の東洋人を振り返った。
「そこでお前らの皇子…俺の弟は育った」
「ペリアス様がシェラム様を御養育くださった事は存じております」
よどみのないアキロニア語がカワイアの下から発せられた。
「当時、アキロニアでベンダーヤの…いや東洋の言葉を解する方は、かの魔道士様しかおられませんでした」
「あとは親父だ…ベンダーヤ、イラニスタン、キタイ…俺は親父から東洋の言葉を習った。最もシェーラは頭の良い奴だったから、すぐにアキロニア語を覚えたしネメーディア語の読み書きもこなした、俺達兄弟は言葉に不自由はしなかった」
ああ、そういえば…とユウラは思い出した。
貰われて…いや亡命されて…いや…とにかくアキロニアに来られて少したった頃にはシェラム様は殿下に懐かれて、いつも後をついて回られて…自分ともよく何かしらの会話をされたっけ。
言葉も習慣も違う異国に、唯一人の従者もなく、連れてこられた三才の幼児。
どれほど心許なく思われた事か。
だからシェラム様は心の底から殿下を…兄君を慕っておられた。
父王様には子供ながらも遠慮なさっていたようだが、殿下には甘えて我が儘を言われる事もあった。
そのシェラム様が何故、王太子位簒奪などという大それた陰謀に加担されたのか?
タランティア宮大広間を染めた血潮は、後から後から小さな身体から溢れて…
「行くぞ、ユウラ!考え事ならこの塔を出てからにしろ。ここからは魔界の領域だ、どんな化け物が襲いかかってくるかわからんからな」
近衛隊長はハッとして剣を抜いた。
軋んだ音と共に扉は押し開かれた。
中から甘い香りが漂ってくる。
黴臭い空気を予想して息を詰めていたユウラが大きく息を吸い込んだ。
「これは?酒…」
「ペリアスの酒好きは有名だ、だが酒の香りに惑わされるな…微かだがユーバスの匂いが混じっている」
「!」
慌てて吸い込んだ息を吐き出す。
蛮人の息子は野生の嗅覚で、忘我樹─ユーバスの香りを嗅ぎわけたに違いない。
一度嗅げば三日三晩眠り続け天上に遊ぶ夢を見ると噂される秘香。
嗅ぎ続ければ生涯目覚める事なく悠久の時を夢の世界で過ごすことが出来ると言い伝えられている。
ユウラにとっては、このペリアスの尖塔にある物全てが怪奇な伝説の産物そのものだった。
殿下はどこでこのような魔の香木の香りを知ったのだろう?
ゴクリと唾を飲み込み剣の鐔を握り直す。
その時、殷々たる声が沸き上がった。
「よく参った。コナンの長子よ」
ユウラの肌が総毛立つ。
「久しいな、ペリアス殿」
すぐ傍らに相手が居るかの如くヴァイロンは応じた。
「案内致す、灯火のままに進まれよ」
外気を通していた扉が独りでに閉まり、辺りは漆黒の闇となった。
と、彼方から次々に壁に埋め込まれた燭台に火が点いた。
「行くぞ」
曲がりくねった石段の遙か上まで延々と灯火の列は続いている。
踊り場を繋ぐ回廊には所々闇が口を開け尖塔の内部は複雑な迷路になっている事を示している。
迷ったら終わりだ─
噂どおり闇の先の一方は地獄へ、またもう一方は魔界へ、反対の階段は冥土へ降っているのだろうか、闇の奥から漂ってくる空気は饐えた臭いがした。
昇り始めてどれ程時が経ったのかわからない。
何度となく守護神ミトラの名を胸の内で唱えたユウラの眼前に青銅の扉が現れた。
その先に灯火はない。
着いたのか?
ゆっくりと扉が開いた。
柔らかな光に覆われた 部屋に長身痩躯の男が立っていた。
学僧の着るような黒色のローブに総髪の灰髪、暗く瞑想的な瞳…。
「ペリアス殿」
「大きゅう成られたの、ヴァイロン王太子…あれから十年、いや十一年目か…」
文人を思わせる華奢な手が部屋の内に主従を招いた。
「ユウラ、剣をしまえ。我が弟の師に対し無礼であろう…お前らもカワイアを外せ」
キラットを脱ぎながらヴァイロンは立ちつくす従者達に声をかけた。
ハッとしてカワイアを取り去った二人は床に這うと、額をこすりつけて礼の姿勢をとった。
「よいよい、ここはコーラジャ。東洋の作法はいらぬ」
だが、二人はそのままの姿勢を取りながら、押し殺した声で言った。
「いえ、お願いの儀あって罷り越しましたる身ゆえ…まずは我らが皇子殿下の御生命、お救い下されましての御礼如何様にも代え難く…」
ペリアスの表情が曇った。
「されば、ベンダーヤに何か起きたか?」
「はい、あの忌まわしきイムシャ山の魔王めが息を吹き返したのです!」
「ツランの残党と共にタリム神の信者達を煽動し、朝な夕なに女王陛下の御位を脅かしております。何卒我らにシェラム殿下をお返し頂きとう存じまする」
「ここには…居らぬ…」
「えっ?」
「待て、ペリアス殿、十年前タランティアに届いた手紙にはシェーラの一命は取り留めたと…このまま混乱を避けるため世を捨て隠遁すると…そう書かれていた。親父は俺とトロセロ、プロスペロ、宰相パブリウス…そして義母上の前にその手紙を示した。貴殿は弟と共に暮らしていたのではなかったのか?」
稀代の大魔道士の顔が苦悩に歪んだ。
「許されよ…王太子。我は愛しき弟子を…手塩に掛けて育んだ子の命を救うため闇の術を施したのじゃ」
凍りついたように立ちすくんでいたユウラの頭に一つの疑問が湧いた。
いや、それはこの遠征に立つ前に抱いていた疑問だ。
それを誰もが胸の奥深く封じて旅をしてきた。
なぜなら主人であるヴァイロンが弟の存命を少しも疑っていなかったから…
十年前のあの日…宮殿大広間に集まった大臣、貴族、神官、将軍、そして各国の大使達…きらびやかな式典渦中の惨劇は、居並ぶ諸侯達の目前で起こった。
喉を深く抉り自害されたシェラム様…溢れる血の中で事切れた子供の死体を皆が見ている。
その死体をかき抱き、天に向かって呼んだ魔物の背に跨ると、はるか夕闇目指して飛びさったペリアスの姿も…
その後ペリアスからシェラム様が助かったという知らせが届いたと、祖父トロセロ伯爵から聞いた。
だが、あの時シェラム様は死んで…そうだ、既に息はなかった…
誰もがその疑問を持っている。
その修めた医学によって生き返ったのではなく、呪術によって死の国から逝き帰ったのではないか?と…
しばしの沈黙の後、意を決したかの如く尖塔の主は語り始めた。
「王太子よ、汝れはゴラミラ山が崩れ、地底湖に沈んだ事を聞き及んでおられるか?」
「覚えている。ミトラ神殿の高僧共が大騒ぎで右往左往したからな。アキロニアの守護聖霊たる哲人の墳墓が崩れたと泣き喚き、もはやこの世の終わりと絶望し自害する者まで現れた…だが一月経っても一年経っても変事も恐慌も起きなかった。あれから十年余、アキロニアは平穏無事とはいえぬが先王ヌメディデスの圧政時代より民は豊かになり国は栄えていよう、どの辺境の村からも何の凶事も報告されてはおらぬ」
ヴァイロンの答えに魔道士は深く頷いた。
「ゴラミラ山は千五百年にわたり哲人エペミトレウスが永眠する黒き地中の聖地…アキロニアの危機存亡の折には山中深く穿たれた洞より救国の亡霊が現れる…汝れの父コナンに不死鳥の剣を授けし時のように…」
「それは謀叛四王侯が親父を闇討ちにした事件だな?ツーヌの地を追われたアスカランテがアキロニアの王位を狙って権力欲に溺れたドブネズミどもと語らって王宮の寝所に押し入った。手引きをしたのはセトの環とかいう呪物を持つステイジア人の魔道士だとか聞いた。たしか名はトート=アモン…奴の発する邪悪な力を感知して目覚めたエペミトレウスがその墳墓に親父を招き、自ら不死鳥の剣を手渡した…夢かもしれぬが親父はそう言いきった。寝所の床に突如現れたあの魔物以外の何者でもない形のシミ、親父はかの魔道士めの屍が溶けたモノと信じているようだが、あれを見なければ息子の俺も親父が錯乱して幻を見たのだと思っただろう」
ユウラは主人の話を聞きながら、自分が十五の年に起きた聖地崩壊を思い出していた。
なんと忌まわしき年だったことか…
ゴラミラ山の崩落はシェラム様の事件の直後だった。
ミトラの神官達が騒いだのは、二つの凶事が立て続けに起こった所為もある。
それは民の不安にも繋がった。
この機に乗じて起きるやもしれぬ旧王家残党の反乱や宿敵ツランの侵攻を危惧した祖父トロセロ伯爵が領内のポイタインと首都のタランティアを忙しく行き来していたのを覚えている。
「ペリアス殿、御身が言わんとすることが解ってきた…シェーラが助かった事とエペミトレウスの墳墓が崩れた事は繋がっているのだな?」
「ええ?」
目を剥いたのはユウラだけではない。
礼の姿勢を取ることも忘れ、ヴァイロンとペリアスのやり取りに聞き入っていたベンダーヤの勇者二人も、あまりの話の展開の意外さに床にへたり込んでしまった。
「十年前の昔語りじゃ、こちらへ来られよ…」
ペリアスは主従を奥の間へ誘った。
どうやら魔道士の書斎らしい。
羊皮紙が所狭しと広げられた巨大な卓と夥しい書籍が並ぶ書棚、周りの戸棚には見たこともない奇妙な品々をはじめ、薬品らしき液体の入った瓶や壺が雑然と置かれている。
床の敷物から壁布、置かれた家具に盃…どれもこれも王宮か神殿の宝物庫でしか見ることの出来ないほどの豪奢な品々だった。
ペリアスは四人に絹張りの椅子を勧めると、壁にかかった天鵞絨の紅布を取り去った。
楕円形の大きな鏡が現れた。
その周囲には、贅を尽くした部屋にそぐわぬ質素な鉄枠が嵌め込まれている。
「キタイの魔道士ヤー・チェンの攻撃をかわすため、コナンに砕かれしラズベクライの鏡じゃ」
「ヤー・チェン…ツランの犬めらと謀り、義母ゼノビアを掠って魔術の生贄にせんとした東の魔道士だな?」
その名を聞くとベンダーヤ生まれの二人の若者は顔色を変えた。
コナン王に絞殺されたと噂されてはいるが、東国最大の魔道士の名は、その生前の魔力があまりにも強大であったが故、未だに畏怖の響きを含んでいるからだ。
「粉々に砕け、唯の硝子片と化した魔鏡を元通りに復元したのは、シェラムじゃ」
ヴァイロンの顔が曇った。
やはり弟は魔道士と呼ばれる類の輩となっていたのか…
魔鏡の威力を語るペリアスには、そんな兄の心は伝わらない。
「いや、元通りではないの…以前より強力な魔鏡じゃ。古より伝わる秘薬を供えずとも、今は忘れ去られた神々の祝詞を唱え続けずとも、これくらいの像を見せてくれる」
魔道士は長衣の袖をたくし上げると鏡の前に両手を差し出し奇妙な動作を始めた。
と、ペリアスを映していた姿見から、その像がかき消えた。
「シェーラ!」
そこに映し出されたのは十年前のあの日、最後に見た愛弟の姿だった。
喉に深々と刺さったままの剣…
玉座に上がる階段中央…白い大理石に広がる血潮の中で断末魔の痙攣を繰り返す小さな身体…
下から駆け寄る臣下達、上から駆け下りる自分の姿…
抱き上げた弟の目からは見る間に光が失われ、身体は急速に冷えていく…
「ペリアス?」
シェーラの名を呼び続ける俺の耳に玉座に立ちつくす親父の叫びが聞こえた。
そうだ、その時─いきなり空中にペリアスの姿が現れ、俺の横に飛び降りてきた…そして何言かを囁いて俺の手から弟を抱き取った。
いや、そうではない…鏡には首を打ち振ってシェーラを離さない俺が映っている。
その俺の腕を…階(きざはし)を降りてきた親父が掴んで引き離している…
ああ、シェーラをペリアスに託したのは親父だったのか…
親父が─キンメリアのコナンが深々と頭を下げた。
そして映像は天空から飛来する蝙蝠の翼をはやした馬とも鹿とも─鰐ともつかぬ獣の姿を捕らえた。
俺は親父に肩を掴まれたまま呆然と見ていた…
大広間のバルコニーからシェーラとペリアスが黒い魔物に乗って、何処かへ飛び去っていくのを…
「ヴァ、ヴァイロン様!」
瘧に罹ったように身体を震わせていたユウラが、耐えられずに主の名を叫んだ。
「黙って見ていろ、これはペリアス殿の記憶だ…全てはその目を通して見たあの日の出来事なのだ」
二人の東洋人も蒼白の顔のまま、息をすることさえ忘れて鏡に見入っている。
暮れなずむ空と目を見開いたまま、硬直していく弟の姿が交互に映る。
蒼白の顔を覆う真紅の血が風に吹かれて乾き、どす黒く変色していく。
やがてオレンジ色の雲間から頂きを突き出す山々が黒い姿を現した。
「ゴラミラ山…」
ヴァイロンは低く呟いた。
その聖なる山はネメーディアとの国境を分ける連峰の奥に一際高くそびえ、山裾はアキロニアを潤す大河タイボール川の源となっている。
今は山間に深く裂けた峡谷となってしまったゴラミラ山が在りし日の悠然たる姿を見せていた。
鏡は頂き近くにそびえ立つ大磐を映す。
と、見る間に大磐の根元が揺らいだ。
「え?」
磐盤の一部が溶けたように洞が口を開けた。
魔物から降りた騎者は、その腕に弟の遺骸を横抱きにしたまま漆黒の闇が待つ磐の中へと入って行った。
これがミトラの高僧デキシゼウスが言っていたエペミトレウスの聖堂への入り口なのか…
その場所は教主から選ばれし唯一人の弟子へと口伝されたミトラの教義最大の神秘のはず…何故魔道士であるペリアスが知っているのだ?
いや、知っているだけではない、彼はやすやすとその内部に足を踏み入れている。
その齢、幾歳かを知らず─
偉大なる力解き放つ時、魔界すらも震撼し、膨大なる知識と研鑚は人外の果てにも及ぶ者なし─
ペリアスこそ西方最大にして最強の魔道士─
ヴァイロンは乾いた唇を噛み締めた。
いかなる技か大回廊の両側の巨岩には伝説の神々や古の英雄の姿が見事な彫刻として刻まれていた。
火影は全くない─がペリアスの視界は鮮やかに、磨き上げられたレリーフや天井、床の鈍い輝きまでもを見せた。
やがて回廊は地下に伸びる広い階段に行き着いた。
その階段に刻まれた紋章を見た途端、ヴァイロンの父親譲りの蛮人の感性が危険を教え、肌がチリチリと総毛だった。
そこには太古の蛇神セトの呪うべき姿が、はるか階下まで一段、一段彫り込まれていた。
あまりに古く、あまりに恐ろしい聖紋…
ユウラは叫び声を封じるため口を押さえながら、椅子から滑り降りると額を床につけて伏した。
東洋の若者二人も、鏡の映像が目に入らぬようにきつく目を閉じ、顔を覆う。
これは十年前の出来事─畏れてはならぬ…
ヴァイロンだけが鏡を─蛇神の頭部を踏みつけながら地下に降りるペリアスの足先を見つめている。
かつてこの世界を掌握していた蛇神を封じながら歩むペリアスの足の映像が永遠に続くかと思われたその時、ヴァイロンの瞳に奇怪な地下堂が映った。
中央に安置された聖棺がひとつ。
神官の墓所に見られるような供犠を献げる台も、墓石を守護する聖戦士の彫刻も何も無い。
殺風景な空間にぽつんと置かれた墓石には、長い顎髭を延ばした老人の人物像が刻まれている。
その上に死後硬直もとけ、紫色に変色した子供の屍が置かれた。
「アキロニアの聖人、哲の英霊エペミトレウスよ…これなるは先に御身自らが不死鳥の剣を授けしコナンの息子なり…アキロニアと運命と共にする者と思し召せば、その不死鳥の御霊力(みちから)を持って死の淵より甦らしめ給え」
忘れ去られた太古の言葉であった…しかし聞いている者達にはその意味する所が全て理解できた。
師は愛弟子が陰謀に巻き込まれ、自ら命を絶った最大の原因─その真相を聖人の御魂に問うている。
その真偽こそが、国家最大の杞憂!
ベンダーヤの勇者二人は思わず顔を上げて鏡に見入った。
「我が弟子はアキロニアの運命なりや?啓蒙の時代開く者なりしか?」
そうだ、我らが皇子が…敬愛する女王陛下の一粒種が魔王の胤であるものか!
シェラム様はアキロニア王コナンとベンダーヤの女王ヤスミナの御子でおわさねばならぬ。
「答えられよ!聖なる守護の精霊よ」
鏡から聞こえるペリアスの叫びに二人は両の拳を握りした。
その瞬間天井から大音響と共に目もくらむ光が降ってきた。
息を殺し映像を見つめていた三人は思わず顔を覆った。
鏡を通して衝撃が部屋中に伝わってくる。
“遙か南洋に生を受けし魔道士よ、そなたの問いに答えよう…”
虚ろな声が聞こえた。
空中にキラキラ光る光球が顕れた。
珠はくるくると回転しながら虹色の光を放ち亡骸の頭上に下りてきた。
弟の遺骸を案じる兄は顔を覆った指の隙間から必死で光源を見た。
その光は遠い過去に海賊船のマストから見た夜明けの輝きを思い出させた。
海原と大空を包み込み、一気に放たれる幾万本の煌めきの矢。
「太陽…」
次の瞬間、珠は一際強く輝くと真っ直ぐに亡骸の窪んだ左のまなこに落ちた。
ヴァイロンの呟きは鏡から響き渡るペリアスとは思えぬ絶叫にかき消された。
血で強張り顔に張り付いていた黒髪が炎を噴いた。
「シェーラ!」
白熱の光の中で弟の身体が燐光を放ち燃えていた。
眩い光は次第に薄れ、蒼い炎だけが燃え続け…やがてそれもゆっくりと消えていく。
後には黒く炭化した小さな人形が残った。
“この者が暗黒の時代を切り開く先駆者を王に戴くアキロニアと運命を共にするさだめを負うか、その蛮王が打ち立てし啓蒙と理性の世に再び呪詛と妖術に満ちた魔界を顕現させるかは、この者次第…これが答えじゃ”
朗々と響く声に呼応するように炭に皹が入った。
と、黒い人形が動いた!
炭化した皮膚が見る間にパリパリと剥がれ落ちていく。
下から淡い燐光を放つ白桃色の肌が現れた。
肩まであった黒髪も愛らしい眉毛も長くカールした睫毛も全て焼け落ちてはいたが…石棺の上に立ち上がった裸身…その姿は紛れも無く弟だった。
「その身に帯びたる物無し、無髪にして生まれながらの沙門…現人神だ―バラモンの教えにあるクマリの誕生説話そのものだ!」
感極まったベンダーヤ語が書斎に響いた。
ベンダーヤの大貴族出身のチァンリル…一族からバラモンの高僧を輩出する名門の跡継ぎは、求め続けた皇子の復活を見て、滂沱の涙を流している。
その感動は同じ指命を負い、西への旅を続けてきた傍らのイーデッタも同じであった。
クシャトリア(ベンダーヤの支配者階級)第一の権力を持つワザム(宰相)の孫は親友の言葉にただ頷き、溢れる涙を拳で拭った。
「うわー!」
その隣で茫然自失していたユウラが、再び頭を覆って床に伏した。
鏡から地響きが伝わってくる。
「聖堂が!」
ベンダーヤ語の叫びは磐が崩れ落ちる大轟音に消された。
だがキンメリアの蛮族の血をひくヴァイロンの耳は、崩れる天井から降ってくる微かな声を聞き取っていた。
“これより授けし力は、かつてエペミトレウスと呼ばれし者が“大いなる尊者”より受け継ぎし力なり。これを全てそなたに譲る。吾子よ、運命はそなたの選びし答えの先にある。何故にこの時代にこの宿命を背負い、かの者の子としてこの世に生を受けたか…自分が何者であるのか、何をせねばならぬのか…自ら問い、自ら答えを導くのじゃ、そして其の先にあるモノを手に入れよ…それこそがそなたの真の使命、宇宙の真理なのだ…”
生まれ変わったばかりの幼子が乗る石棺が真っ二つに裂けると真紅の光がその裸身を包み込んだ。
“南洋の魔道士よ、受け取るがよい!この星の運命を背負し若き命を”
その途端、もう一度部屋を揺るがす衝撃が襲い、鏡が暗転した。
漆黒の画面が続く。
恐る恐る顔を上げたユウラの目に、朝靄のなかで、崩れ落ちた稜線を見せる無残な山の姿が映った。
「あっ!」
鏡の前でヴァイロンがぺリアスを抱き起こしていた。
二人のベンダーヤ人も鏡の前に這い寄った。
「許してくだされ、王太子…これがシェラムに施した闇の術の全てじゃ…」
ぺリアスは荒い息を吐いた。
「ペリアス殿…最後の…あのエペミトレウスと思しき声の言わんとする事はなんだ?」
「おお、御身はあの声を聞かれたのか…さすがはコナンの子…いや、エペミトレウスは汝れに聞かせるために我が元へ御身を招いたのかもしれぬ」
ヴァイロンの腕を借りて立ち上がったペリアスは鏡に向かうと何かしらの呪文を唱えた。
そこには崩れたゴミゴラ山はなく、青い顔をしたユウラの姿が映っている。
「お教えくだされ、ペリアス殿。シェラム様は何処におられるのです?」
皇子が聖なる復活を遂げたと信じるベンダーヤ人は魔道士の沓に額を当ててたずねた。
「顔を上げられよ、東洋の貴人よ」
「いいえ、まさに神として生まれ変わられた御姿を拝見いたし、これ以上の感動はございません。この感謝の念はどれ程尽くそうとも現しがたく…」
「その謝辞が、今から案内するこの塔の地下を見た後も言えるかどうか…」
「は?」
「シェラムはコーシェミッシュの城砦に住もうておる」
「コスのコーシェミッシュ?かつて真紅の城砦といわれたあの廃墟に?」
ペリアスの答えにユウラは首をかしげた。
「そうじゃ、宿敵ツォタがキンメリアのコナンに引き合わしてくれた場所…儂にとっては因縁の地下迷宮じゃ」
ベンダーヤ人はコス・オフルの連合軍がアキロニア軍とシャマール平原を血に染める戦いを繰り広げた歴史を知らない。
「コーシェミッシュとはここよりどれ程のところなのですか?」
アキロニア語に戻ったベンダーヤ人の問いにヴァイロンは苦笑した。
「シャマールの戦いで親父が自らの剣で兜ごと頭蓋骨を叩き割ったコスの先王ストラボヌス。奴が滅びて後、打ち捨てられた城砦だ。オフルとの国境沿いにある…俺達が通ってきた砂漠のはずれだ」
「正確にはその地下に張り巡らされた陥穽に籠っておるのだ」
「陥穽?どんな財宝を守る罠が仕掛けられているんだ?」
王太子の問いにはペリアスにしか通じない皮肉が込められている。
ヴァイロンは、かつてその竪穴に捕らえられた父から、そこがどのような呪われた場所なのかを聞いていた。
シャマールで捕らえた敵王を投獄し、稀代の魔道士ペリアスを十年も幽閉したツォタの魔窟に何故弟が住んでいるのか?──詰問したい感情を抑えた蛮族の若者は烟るような蒼瞳で魔道士を見つめる。
その眼光に即されたペリアスは禁断の秘事を明かす決意をした。
「コーシェミッシュに辿り着いても地下に穿たれた竪穴は迷路じゃ。案内させる者に引き合わせよう。こちらへ…」
ペリアスの指が天空の星位置を模して壁に埋め込まれた宝石の上をめまぐるしく行き来し、最後に拳ほどもある血色のルビーを押した。
何か外れる金属音が響くと、床の一部がずれてぽっかりと穴があいた。
いつの間にかペリアスの手に束ねた縄がある。
縄の先を柱に縛り付け、束のまま穴へ放り込む。
「地下へ降るゆえ、付いて参れ」
縄に手をかけるとペリアスは穴の中に飛び込んだ。
「近道って訳か」
のぞき込んだヴァイロンの髪が下から吹き上がってくる生暖かい風に煽られる。
「先に行くぞ!」
「あっ!殿下」
すぐに後を追おうとしたユウラは今一つ話が掴みきれない東洋からの客人に順番を譲った。
王太子宮近衛隊長として“しんがり”を勤めねばならないと思ったからだ。
だが、そのユウラも魔道士と主の交わす話は疑問だらけの内容なのだ。
余計な事を考えるのはやめよう。
魔道士が住まう尖塔の地下室だ。
どんな魔物が潜んでいるかわからない。
生まれながらの武人は剣の鐔口を弛めると、皆が消えた穴に身を投じた。
縄を掴んだまま漆黒の闇を滑り降りること如何ばかりか?
縄でこすれた革手袋が破けていくのが解る。
曲がりくねった隧道を必死で身体のバランスを保ちながら降りていくユウラの足先にポツンと灯りが見えた。
見る間に灯りは大きくなり真下に地面が迫った。
「はっ!」
飛び降りた床に先に降りたベンダーヤの二人が布で顔を覆い待っていた。
二人は手真似で首に巻いた砂避けのスカーフで鼻と口を塞げと示した。
?─その時ユウラの鼻を甘美な香りが襲った。
「先ほど尖塔の入り口でそなたが畏れたユーバスの香りじゃ、夢を見たければ嗅いでみるがよい…」
列柱の影から魔道士が姿を現した。
隣のヴァイロンの顔半分もスカーフで覆われている。
「噂ばかりではおもしろくなかろう…なに一晩で起こしてやるゆえに…嫌か?それは残念じゃ」
ペリアスは“ユーバスの噂”へのユウラの“恐怖心”…それを増幅させて吸い取っているのだ。
それは魔道士という輩にとっては食事と同じ─ヴァイロンは父コナンと共に流離った幼年期に、そういった類の者達と嫌と言うほど接してきた。
時には親父とペリアスのように力を貸し合い、だが大概の場合は殺し合い…
その魔道士に…シェーラは…
「王太子よ、その嫌悪わからぬではない…いや、すまぬ。この塔内では簡単に人の心が読めるのじゃ」
柔々と首を振って魔道士は洞窟の奥へ客達を誘った。
「じゃがな…魔道士とはいえ、その生まれは人間じゃ。一世紀に渡る齢を重ねようと、世界中の王侯貴族から傅かれようと、栄耀栄華の極みにあっても満足せぬ…欲望の枯渇することはない。所詮、人の業からは逃れられぬ。半人半魔と恐れられたツォタ=ランティですら“世界を征服し永遠の支配者となる”という馬鹿げた夢をみたのじゃ」
黙って後に従うヴァイロンが顔をしかめた。
忘我樹─ユーバスの香りがきつくなった。
「!」
磐が大きく穿たれ円形の広間となっていた。
その周囲にびっしりと樹木が茂っている。
壁から何本も幹が伸び、葉を茂らせている。
床には幾層も根が張り巡らされて…
地下洞窟に生い茂る緑。
列柱に掲げられた灯籠から洩れる灯りが濃い葉陰を作っている。
待て?その間に…あるのは何だ?
木々の重なり、生い茂る葉の間、絡まる根の隙間に…
「ひ、人の身体から樹が生えている!」
背後からユウラの悲鳴が湧いた。
「ユーバスだ!噂どおり人に寄生している!妖魔の樹木だ!」
ベンダーヤ語の罵詈が重なる。
「静かに…鼻から息を吸うてはならぬ。口から吸って口から吐いて…この部屋でユーバスに酔えば彼らの如くユーバスに取り込まれる。心されよ…」
その忌むべき香りの中で魔道士は話し続けた。
「さて、王太子よ。先ほどの話の先を聞いて欲しい…ゴミゴラ山より戻ったシェラムには人間らしさ…感情というものが無かった。何も欲っしない。泣きもせず笑いもせず怒ることもなく…いや姿形はあどけない子供じゃ。髪はすぐに生えた。喉を抉った傷も無い。優雅な物腰も生来のままに年を重ね…背丈は伸び、美しい少年に育った。どのように養育したものか…我に与えられるのは知識だけじゃ。長きにわたり蓄積した学術、研鑚、さらに魔道と呼ばれし術の全てをシェラムに教えた…魔道士として数多の弟子を育ててきたが、彼らは皆ツォタに捕らえられ処刑されてしまった。シェラムは我にとって最後の…そして最強の力を持つ弟子となった」
ペリアスは床に跪いた。
「許されよ、王太子…このユーバスに取り込まれし人間を創ったのはシェラムなのだ」
ヴァイロンは、深々と頭を垂れる魔道士の肩を掴んで引き起こした。
「どういう…」
「鼻から息を…鼻から息を吸うてはならぬ、落ち着かれよ」
魔道士は碧い視線から顔を遠ざけた。
「感情を置き忘れた人形…ただ我の言うままに水晶球を覗き、書物を紐解き、薬剤を調合し、呪文を覚え…そんな毎日を送っていても少年の身体は日増しに大人の姿態に成長していった。知識として知る『性の分化』が己の身体に実際に起こってきた。シェラムは初めて“興味”という感情を持った。知識欲という欲望が芽生えた。早い話が何もかも自ら体験してみたくて堪らなくなったのじゃ。習い覚えた呪術の実践も、性の交わりも…書物に記されたこの世のあらましの全てを身体で試そうとした。そしてシェラムはこの尖塔に来て以来…生まれ変わって以来…初めて我へ頼み事をした。勿論、即座に我は願いを聞き届けた。奴隷市の立つ日にシェラムを伴いカリニアの街へ出た。そしてシェラムの求めるままに十人の奴隷を購った。それがこの者達じゃ」
魔道士は根方に蹲る乙女を指差した。
その奥には子供─少年、少女というには幼い顔が眠っている。
皆、そろいの肌着を身に纏って…
?…!
違う…
彼らは全裸だ!
肌着と見えたのは鎖骨から手首、足首までびっしりと余すところ無く柔肌に彫り刻まれた文字や記号だった。
乙女の硬くしこった乳首も、まだふくらみきらない少女の乳輪も、浮き出た古代文様が引きつったケロイドとなっている。
それは正面を向いて立ったまま眠り続ける青年の屹立した男根の先にまで及んでいた。
浮き上がる“肌着の柄”の正体に気付いたベンダーヤの若者は茫然自失したままの親友の腕を掴んで、部屋から逃げようとした。
「聞け、東方より訪れし騎士よ。そなたらの求める皇子の所行をしかとその目で見よ!」
「チァンリル、イーデッタ!戻れ」
ヴァイロンが布越しに発したくぐもった声に二人は足を止めた。
それを見やると魔道士は穏やかな口調に戻った。
「古より羊皮紙と同じ要領で、魔道士や神官は泣き叫ぶ処女の生ま皮を剥ぎ、その生き血で教典や呪文を書き付けた…その人皮紙の幾ばくかを我は所有しておった。シェラムは其れを読んでこう言った。“嘆きと恐怖、苦痛と絶望…こんなモノでは大した力は出ませんね”と。“では、どうしたら誠の力を秘めた巻物が出来るか?”と我は試しに尋ねてみた。これがその答えじゃ」
ユウラはへたり込んだままスカーフを押さえ嗚咽を堪えている。
「正に人としてあるまじき行為じゃ。それでも我は嬉しかった。初めてシェラムが欲望を示したからじゃ。魔道士なれば当然の所行であろう?シェラムは青年とも乙女とも媾合った。交わりながら愛撫の手管で肌に呪文を刻んでいく…この年まで生きてきて、あのような文書が出来るのを見たのは初めてだった。生贄には恐怖も苦痛もない。逆に快楽と愉悦の中で文言に生命を吸い取られていく…あれの霊力は我ごとき老いぼれをとっくに凌駕しておったのじゃ。十人の奴隷の身体に見事な瘢痕が浮かび上がった時、シェラムはその口中に一粒づつユーバスの種子を含ませ時を止めた。そして、この地下洞に永遠の寝所をしつらえたのじゃ」
ペリアスは脇に眠る少女の柔らかな金髪を梳いた。
「だが…我が奴隷市場で買い与えた者達は皆成人だった。シェラムはこの者達の肌は硬く生臭いと言った。今にして思えばシェラムは“女”との正常な交わりは一度もできなんだ」
ベンダーヤの二人は顔を見合わせた。
それはどういう…お世継ぎは望めぬということか?
「世継ぎなど…それ以前の問題じゃ。今のあれはヒトと媾する事に嫌悪を抱いておる」
その疑問を読んだペリアスがすかさず答えた。
「この磐窟でシェラムは一人、日々を送った。おそらく知ったばかりの快楽に溺れているのであろうと…さらなる呪術の研鑚に励んでいるのであろうと放っておいた。我が気付いた時には、このような子供…年端もいかぬ少年、少女が眠っていた。その肌に赤い瘢痕を浮かせて…。夜陰に紛れて攫って来たのじゃ。大邸宅で従者に傅かれて眠る貴族の少女、その敷地の外れに住まう牛飼いの童子、やがて巫女となるべく神殿の奥で穢れなく育つ神官の娘、砂漠の彼方で駱駝番をする少年…これが三年前にコーラジャを騒がした大事件─神隠しの正体じゃ。我は事件を揉み消すため仕方なくコーラジャ国王の求めに応じ、幾ばくかの魔の力を貸し政敵…王の親族を手にかけた。こうして世を捨てた身は再び世俗と関わるようになった…」
ペリアスは長いため息をついた。
ヴァイロンの碧眸が潤んでいる。
「その様を知った後もシェラムは子供を攫う事を止めなんだ…拉致する先が遙か外つ国に変わっただけじゃ。シェラムが性交し文言を刻んだ子供らの数は増え続け、この壁を幾十にも覆い尽くした。だが、寝所がこのようにユーバスの林と成った頃シェラムは急にヒトとの媾合に飽いた。“どれ程幼くてもヒトはヒト、生臭い性は変わらない”あれはそう言ってこの地下洞に二度と足を踏み入れることは無かった。後に残ったのはシェラムによって時の狭間に堕とされたままユーバスの一部となって眠り続ける生きた書物の群れだけじゃ」
ユウラはスカーフから手を離した。
魔道士の話すシェラム様は、もはや自分の知るシェラム様ではないのか…
灯籠に浮かび上がるユーバスを眺め回す。
?─生きた書物は四体しか認められない。
では葉陰の裏にもシェラム様の愛した者達が眠っているのだろうか?
ユウラは傍らに伸びる枝先を恐る恐る上げ、中をのぞき込んだ。
「ぎゃあああー!」
ユウラが掴んだ枝は少年の口を突き破って伸びていた。
口だけではない鼻、目、耳そして生爪の隙間から伸びた小枝が呪文に覆われた裸体を覆い隠していたのだ。
さらにその奥には腕の毛穴から細かな葉が出て、赤い瘢痕を隠している少女が立っていた。
立って?いや違う…その下半身は陰部と肛門から突き出た根に支えられているのだ。
大きく開かれた陰門から突き出た根は傍らの少年の肛門から伸びた根と絡まり合って淫靡な光景を見せている。
さらにその根に奥から別の…突き出した腰から伸びる根が絡んで…
「ぐうえ…」
堪らずにユウラは吐いた。
ポイタインの世襲候トロセロ伯爵の孫として幼い頃から従軍し、残酷な戦場の有様を見続けてきた。
その勇猛果敢な性格と武勲により十五の年で王太子宮近衛隊長に抜擢された。
だが眼前に展開する光景は、歴戦の勇士の神経を冒した。
倒れ込んだユウラの鼻先に細かな根で覆われた眼球があった。
その先は少年のくぼんだ瞼に続いている。
少年の唇は口中から這い出した白い根を覗かせて微かに笑っていた。
叫び声を上げながら、弛めた鐔口から剣を引き抜き、その根方に斬りつけた。
「あっ!」
隣で親友に腕を掴まれたまま立っていたイーデッタが慌ててユウラを止めようとした。
「構わん、やらせろ!」
叫んだヴァイロンは自らも剣を抜き、少女の肛門を突き破って蔓延る太い根を叩き切った。
グワゥッ!
ユーバスの巨木が身悶えた。
見る間に葉が茶褐色に枯れ、バラバラと落ち始める。
顕わになった枝をへし折り、その奥の幹を一刀両断し、返す刃で絡まる根を切り刻んだ。
チァンリルとイーデッタもベンダーヤの長刀を抜き、手当たり次第に斬りつける。
ユウラは林の中へ分け入り、狂ったように大声を発し木々を根こそぎに倒していった。
林が揺らぎ、シュウシュウと黒い煙を吐いた。
それは洞窟一杯に立ち上り果実の腐敗したような臭気をばらまいた。
枯れていく枝、腐れていく根から介抱されたシェラムの愛妾、愛姓達は鮮やかな瘢痕からブスブスとどす黒い血膿とも樹液ともつかぬ汁を垂らしながらグビグビと蠢いた。
そのまま小さく縮んでいく。
骨も、筋肉もそのままに赤黒い固まりとなった生贄達は小さく干涸らび、まるで猿のミイラのように姿を変えた。
ペリアスは愛弟子が作り上げたユートピアの園の崩壊がその実兄の手によって行われるのを黙って見つめていたが、さらに洞窟の奥へと一人入って行った。
ヴァイロンは枯れた小枝を拾い、列柱に掲げられた灯籠から火を移すと、小さく変わり果てた“書物”に落とした。
もはやスカーフは必要ない。
口を覆う布を引き下げ、ヴァイロンは狂気に支配された三人に大声で命令を下した。
「このまま尖塔が焼け落ちてもかまわん、一本残らず焼き払え!」
聞き慣れた号令に三人の目に正気の光が戻った。
「お…おう!」
洞窟が火の手に包まれた。
「こちらの階段から外へ抜けられる、来られよ」
いつしか戻ったペリアスの手に黄ばんだ布包みがあった。
囂々たる炎に追われ鉄扉を押し上げた先に──眩しい朝日を浴びた花園が広がっていた。
早朝の澄んだ空気を肺一杯に吸い込み、胸に染み込んだ邪悪なモノを身体から押し出す。
ユウラは何度も深呼吸と伸びを繰り返した。
「あ、殿下…」
ペリアスはヴァイロンと対峙していた。
慌てて主の後ろに駆けつける。
と、ペリアスはユウラに礼をした。
「よくぞ、ユーバスの園を燃やしてくれた…我にはあの宝物にも等しき“書物”を灰燼に帰す決断は終ぞできなんだ」
「い、いや…あの」
どう返礼したらよいか分からぬ家臣に代わって、暁の光を背にヴァイロンは黙って弟を養ってくれた恩人に深々と頭を垂れた。
まるで十年前の…あの日のキンメリアのコナンのように。
ペリアスは眩しそうに目をしばたたいた。
「さて、これがコーシェミッシュの陥穽への案内人じゃ」
朝露に濡れる芝の上に包みを置くと結び目を解いた。
包みの中から人間の髑髏が転がり出た。
干涸らびた頭皮が所々張り付き、ミイラと化している。
いや唯の髑髏ではなかった──その白く剥き出しになった歯の奥には赤黒い舌が腐りもせずに生えていた。
「ひ、ひえ!」
ユウラが飛び退った。
やっと魔界の入り口から生還できたのに…清浄な空気に包まれたのに、再び禍々しいモノが眼前にある。
朝焼けを浴びた茶褐色の生首…そのアンバランスな光景に後方で控えていたベンダーヤ人達も近寄ってくる。
「ペリアス殿、これは?」
「いや、実はこのツォタ=ランティに会わせようと地下洞に案内したのじゃ、思わぬ次第になったがの…」
「ツォタ=ランティ?」
「そうじゃ、これはのシャマールの戦いの折、汝れの父コナンの段平によって切り落とされたツォタ=ランティの首じゃ」
ユウラは再び主の傍らに、おずおずと近寄った。
「祖父の話は誠であった…王によって斬られた首を鷲が攫い草原の彼方へ飛びさった。すると遠ざかる首を求めて切り離されたツォタの身体が首から血を吹き上げながらその鷲を追っていった。全ては王と我らポイタイン騎士団の眼前で起こった事実だ…と」
シャマールから凱旋帰国した日に僅かの兵で領国を守った溺愛の孫にトロセロ伯爵が唯、一度だけ語ったツォタ=ランティの最後…
「冥府へ送っても躯が付いてくるでの…これは現世(うつしよ)で身が朽ちるまで待った方が得策と自らの手元に置いたのじゃ。最も躯は腐る前に何処かの獣に食われての、最後は骨も砕かれて四散してしもうた。頭の方もあっさりと干涸らびてくれて、持ち運ぶにも便利になった」
ヴァイロンの碧い双眸が細まった。
「シェーラはこの髑髏からコーシェミッシュの陥穽の事を知ったのか?」
魔道士は頷いた。
「かつてツォタめが我の知識を惜しんで陥穽に幽閉したと同じく、我もこやつがコーシェミッシュの竪穴で得た知識を消し去りたくなかったのじゃ…汝れの言いたい事は分かっておる。あのユーバスの人肌文書といい、この髑髏といい魔道士という輩ほどおぞましい者はないと思うておろう?そうじゃ、この世にある魔道士とはの、シェラムが取り憑かれた知識欲の権化そのものなのじゃ」
「では、弟は生粋の魔道士になったというわけだな?」
静かにヴァイロンは問うた。
「我が言うのも憚られるが、冥界、魔界を合わせても、あれの右に出る者はおるまいよ」
「そうか…」
「殿下…」
主の顔は朝日の逆光となって見えなかった。
「それでは、イムシャの魔王にも対抗できると?」
チァンリルはベンダーヤ語で呟いた。
「魔王か…魔界を支配したというても、その出自は人間であろう?ヒトなれば齢幾年か…シェラムはの、あれほどの力を宿しながらまだ二十歳に満たぬ。生命の力の差は歴然じゃ。だがの…若い…強い…だからこそ我はあれが恐ろしいのじゃ」
ペリアスは髑髏を捧げ持ち、向かい合った。
「使い方はこうじゃ、よく見ておれ」
「コーシェミッシュの竪穴について語れ」
髑髏の歯がカタカタと鳴った。
舌が動いた。
「真紅の城砦か…あれは儂が穿ったモノではない…三千年前の創祖コッスス五世が丘陵に宮殿を築きし折、古代の邑跡に行き当たった。王の命令で地下の陥穽群に降りた太政官は見てはならぬモノを見、聞いてはならぬ言の葉を聞いた…報告を受けた王は地下堂を封鎖し、ついには丘の上の宮殿すら捨てて東に新たな新都市を築いた…廃墟と化したコーシェミッシュを復活させたのはアックト一世じゃ。だが、彼らもオフルとの国境警備の為に廃墟の上に城砦を築いたに過ぎぬ。地下の竪穴の真実の道を開いたのは、このツォタ=ランティじゃ…」
どこから声が漏れてくるのか…
舌は生々しく動いて生前の栄耀栄華を語り続ける。
「儂こそ世の理全てを知る者、世の力を掌握せし者…儂の母はシャディザールの名も無き踊り娘なれど父はダゴトの丘に在りし黒悪魔なり。儂は人知を越えたる者、故にコーシェミッシュの地下に眠りし太古の秘術を解する唯一の者たらん…」
「その半人半魔にしか手中に収められなかった太古の秘術ってやつに興味を持ってシェーラはコーシェミッシュに行ったんだな?」
ヴァイロンは延々と続くしわがれた声を遮った。
「そうじゃ、我も若き折、地下へ伸びる竪穴群を見たが、こやつの如くそこから何かの知識を得ようとは思わなんだ」
ペリアスは髑髏を黄ばんだ麻布の上に戻した。
「ツォタは竪穴に多くの使い魔を住まわせた。だが、その一部はすでに忘却の太古より地下堂に潜んでいた得体の知れぬモノ達じゃ。我はこやつを葬る際、使い魔共も地下に封じたのだが…どうやらシェラムはその呪縛を解いたようじゃ」
「では、このおぞましきツォタ=ランティの…かつてアキロニアを滅ぼさんとした悪魔の手下をシェラム様は支配下に治められたと?」
ユウラの問いにペリアスは頷き、髑髏を布で包むと、端を結わえた。
蒼白のベンダーヤ人の前に包みを差し出す。
「早まるでない。この事でシェラムがイムシャの魔王の血族と決まった訳ではない。この案内人を持ってコーシェミッシュに行き、シェラムに逢うてくるがよい」
「では…皇子の父君はやはりコナン王?」
「早まるなと申しておる。我にはシェラムがコナンの胤であるとも言い切れぬ。我は西方では並ぶ者なしと自負しておるが東の魔道士は途方もなく強大なのじゃ。ましてや奴は魔界を支配下に置いたと豪語しておるのであろう。魔王を名乗る者の過去を読む力など我にはないのじゃ」
チァンリルは唇を噛み、イーデッタは肩を震わせて涙を堪えている。
「シェラムの父が誰であろうと汝等が探す皇子が今、この世に生きていることに変わりは無かろう?」
ペリアスの声が優しくなった。
「はい…」
イーデッタは涙を拭くと、一礼して魔道士の手から包みを受け取った。
“この者が暗黒の時代を切り開く先駆者を王に戴くアキロニアと運命を共にするさだめを負うか、その蛮王が打ち立てし啓蒙と理性の世に再び呪詛と妖術に満ちた魔界を顕現させるかは、この者次第…これが答えじゃ”
ヴァイロンは鏡の中から聞こえた太古の英霊の言葉を思い出していた。
ペリアスの言わんとしている事はズバリこれなのだ。
シェーラが誰の子か…それを決めるのはシェーラ自身…それでよい。
最も唯々諾々と“運命”が決めてくれるのを待つほどキンメリア人は気が長くはないし、お人好しではないがな…
何が何でも俺の弟にしてみせるさ…
弟を連れ戻す─タランティア宮を発つ時誓った言葉は如何なる事があっても変わらない。
ペリアスがこちらを振り向いた。
「その意気じゃ、及ばずながら我も手をかすゆえ…」
ペリアスの手に小さな袋がのっていた。
中から奇怪な形をした環が現れた。
鈍い光沢を放つ青い指輪─そんな金属がこの世にあるだろうか?
ヴァイロンは上下に尖った角を延ばす菱形の外にびっしりと刻み込まれた古代の象形文字と、環の内側に彫られた魔境ステイジアでのみ崇拝される異神…その秘された禁忌の象徴を朝日に透かした。
「それは、汝れの父が東方キタイの魔道士ヤー・チェンより寵后を奪還する冒険に発つ折に我が与えし環じゃ。名をラカモンの環〈リング〉という」
「ラカモン?一世紀半も前に滅んだと言われる妖術師だな」
「殿下!そのようにはっきりとかの妖術師の名を口にしてはなりません。どのような災いが起きるか…」
ユウラの声からは畏怖と警戒が伝わってくる。
「これこそ四散せしラカモンの遺品の中でも最もその威力があったという伝説の環じゃ。闇の濃い領域から召還した魔物に中には一度喚び出せば、なまじの防護呪詛では支配できぬモノもいた。それ故ラカモンは長き旅の果てに辿り着きし凍てつく凍土から発見した隕石の欠片から未曾有の金属を錬成し、この環を創った。さらに秘儀を尽くして計り知れぬ魔力を注ぎ込んだ。この指輪を帯びた者は邪悪なる妖魔すべてに対抗できるのじゃ。コナンはこの指輪に守られ見事ヤー・チェンを打ち負かし后ゼノビアを取り返した。汝れならば、この環を使うことができよう」
入るのか?──物心ついた時からあらゆる武器を持ってきた指は節くれ立っていてユビワなどという装飾品がすんなり通るようには見えない。
飛び出した角に手を傷つけないように、そっと左の中指に通す。
──生きている!
環〈リング〉は誂えたかの如く指に収まった。
「やはり環〈リング〉は汝れを主と認めたの…それでよい。数多の妖魔、邪悪なる術、古の呪詛…そしてシェラムの霊力から汝れを守るであろう」
国境警備隊は早めの昼餉のあと、休憩をとっていた。
砂漠の最も暑い時間に外を彷徨く馬鹿はいない。
密入国を企てる不届き者は深夜に徘徊する。
昼から太陽が傾きかける夕方までは見張りの当番に当たった者達も寛げる憩いの一時だった。
その油断をあざ笑うかの如く、北方から砂塵を上げて近づく馬影があった。
四騎は堂々と警備兵が午睡にまどろむ幕舎の横を通り過ぎて行く。
坐ったまま居眠りしていた見張り兵が、轟く蹄の音に目を覚ました時には遙かコスの領内を駆け去っていく騎手の羽織った純白のキラットが真昼の太陽を反射して煌めくだけだった。
「昨日の連中じゃねえか?」
「そうだな、商いが終わったんだろ。よかったな、さっさと出て行ってくれて」
「起こされちまったな」
「ああ、もう一眠りしようぜ」
彼らは再び見張り位置に戻ると腰を下ろし、居眠りを始めた。
打ち棄てられた城砦は砂漠を拠点とする盗賊達によって徹底的に打ち壊されていた。
壁や天井に埋め込まれた宝玉は悉く奪い去られ、雷紋様の拱門(アーチ)が金箔を剥がし盗られた傷も生々しくかつての栄花を偲ばせている。
あらかた盗り尽くされ、奪う物の消えた城砦に遅れてやってきた一団が欲に任せて地下への扉を開けた。
数人の物見はいくら待っても戻ってこなかった。
地下道に消えた仲間を待って夜になった。
焚き火の明かりだけが頼りの廃墟で、地下から響く女の嬌声と啜り泣きを耳にした盗賊達は浮き足だった。
生身の女など、居るわけがない…
だが頭領は“仲間を見捨てて逃げるなど出来ぬ”と突っぱねた。
ここで逃げたと盗賊仲間の噂になっては沽券に関わる。
だが、その時大木を引きずるような音が地下道を抜けてこちらの方に近づいてきた。
ギイイイイイーッ──真鍮の扉が軋んだ。
扉の向こうに何かしらの…生き物の気配を感じ彼らは身体を寄せ合い剣を構えて闇の向こうを睨んだ。
ドサッ…そこに扉の向こうから何かが降ってきた。
焚き火に照らされたそれは─
待ちかねた仲間の…人体の形を留めぬまでに押しつぶされ、血を搾り取られた仲間の死体だった。
「ギャアー!」
頭領が真っ先に駱駝に向かって走った。
後も見ずに砂漠へと逃げていく。
こうして夕闇を迎えて以降、ツォタ=ランティの呪われし城砦を訪れる者はいなくなった。
どんなにコスの警備兵と遭遇する危険があったとしても略奪盗掘は真っ昼間、それも地上の建物だけだ。
そんな風聞を知らぬのか、太陽が砂漠の端を残照でカーマインに染め上げる頃、真鍮の扉の前に四人の男が立っていた。
扉の向こうには地下へ降りる数本のトンネル──噂の陥穽群がぽっかりと口を開けている。
「イーデッタ」
包みを受け取ったヴァイロンは中から、この城砦の先代主人を取り出した。
「さて狂気の詩人(うたよみ)リナルドが親父の手で誠の冥土に送られる前に訪れたこの洞窟で、見聞きした幾多の妖魅を詠った“地底の歌”の通りだとすれば、ヒトと獣と地獄より召還した悪鬼を掛け合わして創られた呪うべき生命体を閉じこめた地下坑と地下牢があるはずだ。ツォタよ、汝が数多の実験を行いし部屋、もしくはそれらの記述をしたためた書籍を置いた部屋はどこだ?」
リナルドとは謀叛四王侯の一人である。
彼は北の蛮人がアキロニアの王位にある事に反発し、文人特有の反権力の虚偽意識に突き動かされるまま宮殿奥に忍び込み、王の寝所に夜襲をかけて、逆に蛮王に頭蓋骨を叩き割られ絶命した。
コナンは反逆者の詩集を禁書にしなかった。
為政者がいくら禁じようと、民の心に残った詩は永遠に歌い継がれていく──それがコナンの意見であった。
それ故に王太子も自由に閲覧できるタランティア宮内の書斎の棚に彼の遺作は並んでいる。
ヴァイロンはこの詩人が狂った頭で描いた妄想の産物と信じられている怪奇詩の内容を覚えていたのだった。
ツォタの言うままに幅の狭い階段をくだると分厚い鉄扉が行く手を塞いだ。
ユウラが満身の力を両腕に込めて引き開けた。
「何という頑丈な…投石機か大鎚で攻められる場所とも思えませんが」
「それに匹敵するモノが潜んでいるのだろう、気を抜くな」
次ぎに現れた内扉は長大な鉄棒で作られた鉄格子だった。
チァンリルの掲げる炬火(たいまつ)を頼りにイーデッタが閂を奥へ滑らせる。
重々しい音を発して牢の扉が開いた。
大回廊が姿を現した。
炬火の灯りが届く範囲は僅かである。
ヴァイロンは道案内の髑髏を抱えながら用心深く歩を進めた。
不意に足下の敷石の感触が変わった。
それはキンメリアの蛮族特有の危機に対する感性であるのかもしれない。
常人ならば気付かぬ乗馬沓を通しての違和感に足を止めた。
「チァンリル、俺の足先を照らせ」
近づいた灯りの先にぽっかりと竪穴が空いていた。
足先のかかる縁石から下は垂直に落下している。
向こう側は見えない。
まさに落とし穴──陥穽である。
「どうすれば抜けられる?」
「儂なれば、ここよりは宙を飛ぶ」
髑髏の答えに舌打ちすると迂回路を探し、そろそろと縁石に沿って進む。
と、急に竪穴の下から風が沸き起こった。
炬火(たいまつ)が消えかけた。
慌てて熾火となった炬火に息を吹きかける。
艱難辛苦の長旅をしてきたチァンリルも、これほどの恐慌は初めてだった。
ここは丘陵内部に穿たれた竪穴ではないか?
上からならばともかく何故下から風が吹いてくるのか?
この竪穴の下には一体…
「動くな!」
ヴァイロンは風と共に闇の中から現れた只ならぬ気配を感じていた。
こちらを警戒して辺りを回っている。
明らかに意志のある目に見えぬ物体…
髑髏を下に置き、左手の甲を左右に振った。
ラカモンの環(リング)が再び燃え上がった炬火に青く輝いた。
スウーッと気配が消えた。
回廊の左端に石畳が延びている。
「こっちでいいんだな?」
「大回廊を真っ直ぐじゃ、三股の分かれ道でも中央の廊下を歩め」
髑髏の記憶では、この先に分岐点があるらしい。
当っているのか間違っているのか確かめようもない。
かつてツォタであった者の記憶を頼りに奥へ進む。
何度か竪穴の陥穽に遭遇しながら罠を回避して、幾つかの分岐と辻を通り抜け指示通り五番目の角を曲がった──正面に紅い点が二つ並んでいる。
「!」
チァンリルは炬火を頭上高く掲げ、片手で長剣を引き抜いた。
篝火にテラテラとした鱗が鈍く反射している。
天井に届くまで鎌首を擡げた大蛇がゆっくり近づいてきた。
「成る程、頑丈な扉の原因はこいつか…」
環(リング)の輝きにも動じる気配を見せない。
どうやら魔界から召還された妖魔の類ではなさそうだ。
それならば──ユウラは剣を抜いた。
「イーデッタ」
ヴァイロンも髑髏を渡すと剣を抜いた。
「ユウラ、セトの眷属の倒し方を知っているか?」
「腹を狙えと、祖父から聞いております!」
「これ程でかい奴は初めてだ、おそらく腹の皮も硬いだろう」
「では、どうすれば?」
「顎の下だ。切り裂こうとするな、剣先を突き立てるんだ」
と言われても、あの太い胴に巻き付かれて絞め殺されずに、顎下に潜り込むにはどうすればいいのか…
二人の話が分かるように頭を上下に振りながら迫ってきた大蛇は、瞬間、その巨体からは考えられない早さで身を捻ると漆黒の横穴に消えていった。
ずるずるという音を響かせながら。
二人は拍子抜けして顔を見合わせた。
「サータは儂を見て怯えたのじゃ」
イーデッタの腕の中で髑髏が自慢げに語った。
「サータ?」
「儂の使い魔の中でも最も古くから仕えているモノじゃ」
「昔の主人の気配に怯えるとは…ろくな飼い主じゃなかったようだな」
「何を言う、サータは今でも忠実に儂の私室を守っているのじゃ」
炬火の先にセト神の姿を浮き彫りにした扉が姿を現した。
髑髏の指示に従って、とぐろを巻いた蛇神の頭部を回すと軋みながら扉が開いた。
「シェラム様!」
炬火を掲げたチァンリルが部屋に飛び込んだ。
そこにはヒトがいた気配があった。
おそらくツォタのコレクションと思われる羊皮紙もしくは人皮紙の束も埃が払われている。
「シェラム様!」
炬火の火を燭台に移したイーデッタが部屋の奥へ進む。
引き抜いた剣を収めぬままユウラは辺りを見回した。
人影は無い。
─ここで無ければ、どこだ?
髑髏にも尋ねようがない。
顔に…微かに風が当たった。
「?」
左右に絡まる蛇文様の柱と爬虫類(うろこつき)の皮が張られた壁の間に隙間が空いている。
風はそこから吹いていた。
「殿下、ここに抜け道らしきものが…」
ユウラの押し開けた壁に髑髏を向ける。
「あの通路はどこに続いている?」
「かつてペリアスを幽閉せし牢獄じゃ」
成る程、ペリアスの知識を必要とした時だけ何らかの方法で、その術を吐露させた訳か。
「行くぞ!」
地下坑には腐敗臭が満ちていた。
先に進むほど、それは強くなる。
顔をしかめて進む主従の行く手を上下の石材に深々と埋め込まれた鉄棒が阻んだ。
捕らえた虜囚の何を畏れているのか鉄格子の間隔は異様に狭い。
閂が降りてはいたが錠は掛かっていなかった。
鉄製の格子戸を開ける衝撃が重々しい音をたて、空気を揺らす。
ペリアスが去ったあと、この独房に何が潜んでいるのか?──辺りを見回すヴァイロンが髑髏に問いただそうとした時、奥に広がる暗い空間の奥からシュルシュルと音がした。
「?」
それは薄緑の蔓だった。
ヌラヌラした輝きは粘着質の液で表面が覆われている事を示している。
巻き付くモノを探すかのようにヒゲの先を上下に揺らしながら近づいてきた蔓の動きがヴァイロンの正面にきた所でピタリと停まった。
その腕に抱えられたかつての城主の首か、または首を掲げた左中指の輝きか…それとも…
今し方遭遇した大蛇ほどの機敏さはなかったが、何かしらに威圧された蔓はあっさりと暗闇の奥へ後退した。
「イーデッタ、燭台を貸せ」
ヴァイロンは蔓の消えた先へ足を踏み出した。
「殿下!」
「ここが親父とペリアスの出会った独房なら、もう怪しいモノは潜んではいまい。そうだな、ツォタ?」
「おお、この場所じゃ…忌々しき蛮人めが、生贄の分際で我が使徒ヨトガを切り倒し、ペリアスめを助けおった…きゃつめを贄に選びしは我が生涯に於いて最大の不覚…」
それでもユウラは剣を構え直した。
尋常でない臭気と共に人の呻き声とおぼしき音が微かに聞こえたからだ。
だが、それは人語を真似た魑魅魍魎共の声かもしれぬ…柄を握る指が汗ですべる。
破れた手袋でもあればましだったろうに──砂漠に革手袋を捨ててきた事を後悔したその時、その汗まみれの手首に蔦葛が巻き付いた。
「うわ!」
「ユウラ殿!」
チャンリルは咄嗟に葛の根本とおぼしき辺りめがけて炬火を投げつけた。
石畳に油のしみた松明が飛び散って、独房の奥を天井まで赤々と照らし出した。
壁際に整然と立てかけられた干涸らびた死体─夥しい木乃伊が並んでいた──そして─
「おお、ヨトガ──再び蘇りしか…」
乾いた眼球でそれが見えたというのか?─髑髏が嬉しそうに呟いた。
天井まで生い茂った蔦葛は、鈍く異様な赤色をした花を一面に付けていた。
真紅の大花輪─それは百合の花弁に似ていたが、人間の顔を覆い隠す程の大きさだ。
実際に蔦葛のそこここに触手に巻かれた人間が捕らえられ、その顔を花弁に塞がれて、苦痛の呻きを上げていた。
葛に巻かれた四肢はあらぬ方向にねじ曲げられている。
おそらく関節は外れ、骨の二三本は折れて、筋肉も裂けているのだろう、内出血しパンパンに腫れ上がった太髄がビクビクと痙攣している。
大きく広げられた太腿の付け根にも赤色の花弁が覆い被さり、まるで愛撫するかのように虜囚の男根を花びらで包み込んでいた。
別の生贄の尻には蔦の先が入り込んでいる。
はたして動かしているのは蔦なのか、贄にされた男自身なのか──肛門を犯された男の腰が淫猥に上下した。
正面の花弁が満足したかの如く、虜囚の顔から離れた。
彼らの成れの果て─木乃伊達が声もなく取り巻く牢獄で、耐え難い腐臭を発しながら淫靡な強姦劇が散らばった松明に照らし出されている。
唇から泡を吹いた男は、この廃墟に眠る財宝を狙いやってきた砂漠の盗賊であろう。
新たな侵入者に焦点が合わぬ視線を向ける。
助けを乞うわけでもない──その表情は痴呆そのものであった。
男根に張り付いた花弁がうねった。
男の干涸らびた唇が耳を塞ぎたくなるような淫らな喘ぎ声を上げた。
うなり声を上げたヴァイロンは笑い声をたてる髑髏を床に叩きつけ、剣を引き抜き蔦葛に突進した。
その声が聞こえるのか?─大輪の花は一斉に土気色に変わり、コブラの胸幕の如く萼を張ると触手を伸ばした。
葛が上方に舞い上がり、首を振り威嚇しながら襲撃の隙を狙う。
別の葛は床を這い進み、硬い先房を石畳に叩きつけてカスタネットのような攻撃音を出している。
動物の雄叫びと同じであった。
この樹木は、はっきりと侵入者に対して憎悪の感情と攻撃の意志をぶつけている。
そして獲物─何の目的かは不明だが触手を巻き付けて精を吸い取り、捕らえておく人間を欲している。
ヴァイロンの目は一点にあった。
石畳を捲り上げて根を張る妖木の茎本──
ジリジリと回り込むヴァイロンの動きを察知して正面を守る花弁がこちらを向いた。
瞬間、開いた隙間に燭台を投げつけ茎根に向かって飛び込む。
根こそぎ叩き斬ろうと振り上げた剣の先に──
「待って…ガイ…」
「シェーラ?」
長椅子に寝そべるかのように、茎の根元に抱かれて全裸の少年が微笑んでいた。
「ようこそ、我が居城へ…でも、会いたくはなかった…」
腰まで伸びた艶やかな黒髪を翻して幹から立ち上がった少年は茎に食い込んだ燭台を抜き、転がった蝋燭を再び灯した。
「あの人に切り倒されてから枯れてしまって…やっとここまで育ってくれた。もう傷つけないで…」
「あの人とは、親父のことか…」
ヴァイロンは幼き日の面影を残す少年の顔を見つめた。
ゆっくりと頷いた少年の黒目がちな瞳─
?
その左眼に一瞬違和感を覚える。
褐色の虹彩に彩られた漆黒の瞳─その奥に紅い点が見えなかったか?
烟る蒼眸に見つめられ、人形のように張り付いた微笑を浮かべていた少年に、初めて動揺の表情が現れた。
豊かにうねる髪で左眼を覆う。
「それ、ペリアス先生がくれたの?」
左指に鈍く光る環(リング)を見やる。
「そうだ、親父が東方へ遠征した時に嵌めていたらしい」
「うん、あの人は何度も東へ旅したんだってね…」
再び張りついた面のような顔に戻ったシェラムは、牢獄の入り口に立ちつくすカワイアを被った二人の東洋人に声を掛けた。
「チァンリル、イーデッタよう参った…アヨドーヤ(ベンダーヤ王国の首都)神殿以来よな…」
燭台に照らされた白皙の美貌、ふっくらと整った唇から囁くように洩れる故国ベンダーヤの言葉…
間違いない、探し求めた皇子様だ!
覚えておられた、我らを…熱い涙がこみ上げる。
幼き折に国を出でてから十五年を越す年月を経たというのに…我らの苦難の旅も報われた。
「シェラム様」
「皇太子殿下!」
二人は剣を置いてひれ伏した。
その頭上に葛が襲いかかる。
「おやめ、ヨトガ…この者らは贄ではない…」
妖木は再び花色を紅く変え、触手を巻き戻した。
「この仔は、人間の害意に反応するだけなんだ…この人間達だってサータに追われて逃げてきて、私を傷つけようとしたからヨトガを怒らせてしまって…逆に餌になっちゃったんだよ」
にっこりと微笑かけられてユウラの頬が紅潮した。
主の弟君の裸身を直視するなど不敬きわまりない…にも関わらずユウラは真紅の花弁に囲まれて怪しく輝く少年の肢体から目を離すことができなかった。
身体の中心が淫らに疼く。
本当にシェラム様なのか?物の怪が化けているのではないのか─
だが、アキロニアの王太子を“ガイ”と呼ぶ者など、他に誰がいるだろう。
それは何も分からぬうちにアキロニアに連れ去られた幼児が慣れぬ言語を真似て呼び掛けた名前。
“ヴァイロン”という発音ができなかった幼子は最初に懐いた少年を“兄上”ではなく“ガイ”と呼んだ。
兄はキラットを脱いで弟に着せ掛けた。
「連れ戻しにきた。一度タランティアに戻って、それからベンダーヤに発て」
平伏する二人を手招く。
その手をシェラムが押さえた。
「ダメだよ、ガイ…彼らにはラカモンの環がない。私の側には近寄れない…」
キラットに包まれた、しなやかな裸体をもたせかけて耳元に囁く。
幸い、平伏していた二人はヴァイロンの手招きに気付かなかった。
それでも、その呼び掛けに応じて頭を上げると、意を決して前ににじり寄った。
「シェラム様、只今ベンダーヤは興国の危機にあります」
「どうか、女王陛下を…母君ヤスミナ様をお助けください!」
ヤスミナの名を聞いた少年の顔が曇った。
「嫌…私はどこにも行かない」
少年はキラットを返した。
「お前は、ここで…このまま妖魔の一味となって生涯を終えるつもりか?」
「なんで?ダメ?」
少年は小首を傾げて兄を見た。
「ずうっと、ここにいるつもりは無いけど…でも、世の中の事に関わる気はないよ」
本当に兄の言葉を解し兼ねているようだ。
「あ…」
思い当たる事が見つかったとばかり少年は花弁に口づけすると兄の手を取って花びらに触れさせた。
「紹介するね、ガイ…このヨトガはね、私の恋人なんだ…」
「はあ?」
“今のあれはヒトと媾する事に嫌悪を抱いておる”──ペリアスの言葉が甦った。
「本当はね、妻にしてずっと一緒に暮らそうと思っていたんだけど…あ、でもこの仔は牡でも牝でもないんだよ」
「おい、ベンダーヤの皇太子妃はこの葛だそうだ」
良人の兄に花びらを愛撫された花弁は恥じらうように真紅の色を薄く─桃色に変えた。
「ごっ、ご冗談を!」
二人の背を冷たい汗が滴り落ちる。
だが、あの尖塔で見た皇子の所行、今まさに眼前で人間を組み敷いた妖花に頬を寄せる姿…とても冗談とは思えない。
「そうか、皇太子妃か。その手もあったね…年に一回神殿から神輿に乗って担ぎ出されて、女王陛下の麗しきご尊顔を拝し、国と民の平和と安泰を祈祷して、また神殿の奥院に戻される…昔の私のように…そのくらいの間なら目眩ましの術で神殿に集まった臣民全てにヨトガを美女に…ヒトの姿に見せかける事もできる…」
「シェラム様!」
もはや悲鳴であった。
「冗談だよ…この仔をベンダーヤ王室の虜囚にしてなるものか。犠牲者は私一人で十分だ!」
仮面が再び剥がれた。
その目に怒気が燃える。
シェラム様はまだ母君を─ヤスミナ女王を怨んでおられるのか…
チァンリルは唇を噛んだ。
全ての忌まわしき事件の発端は、これなのだ…最初、女王はシェラム様の父を明らかにしなかった。
皇子は“神より女王が祭祀と政事を託された証”に授かった子と国の内外に伝えられた。
母君譲りの黒髪と黒曜石の瞳…だが、透き通るような白い肌はベンダーヤ族の、いや東洋人の肌色ではなかった。
それ故、人々の目を避けて神殿の奥院で数人の高位のバラモン(神官)のみによって育てられた。
ただ年に一度クマリ(現人神)として託宣を行い、祈祷する祭事のみ神殿を出て女王に…人々に会えた。
皇子がクマリとなって三度目の祭の日、悲劇は起こった。
ツランの手先となった女王の従姉妹…チェンギルが東国統一なる野望に身を焦がし、女王暗殺を企てたのだ。
それを阻止したのは、かつてアフグウリの族長として丘陵地帯を闊歩していたコナンと呼ばれる蛮人だった。
コナンの長剣に貫かれた叛逆者は最後の力で神輿への階段を駆け上がると、御簾の奥から皇子を引きずり出し、クマリの仮面をはぎ取り、断末魔の叫びを上げた
「見よ、この肌を!セト神の子の中でも最も呪われた白蛇の肌そのものではないか?この童子は神の子にあらず、かつてヤスミナがデビ(王女・国王の姉妹の尊称)と呼ばれし頃にイムシャの魔王に攫われ、犯されて身ごもりし悪魔の子じゃ、この童子とヤスミナが王位にある限りベンダーヤはイムシャの呪いを受けるのだ!」
愛する一粒種を人質に取られ女王は半狂乱だった。
「シェラムを取り戻して…あの痴れ者を殺せ!」
血反吐を吐きながら、叫び続けるチェンギルの指は小さなクマリの喉に食い込んでいる。
クシャトリアからなる宮廷騎士達も遠巻きにしたまま打ち込めない。
射手も矢をつがえたまま、手を出せない。
その弓兵の一人が肩を叩かれた。
王座の横で女王を支えていたはずのコナンがいつの間にか背後に立っていた。
「弓を貸せ」
「や、止めろ!皇子様に当たったらどうするのだ」
きりきりと弦を引き絞った蛮族はニヤリと笑った。
「俺の息子が─キンメリアのコナンの倅がこんな事でくたばるわけがない!」
一本の矢に喉を貫かれた男の手からクマリを取り戻した族長は女王に向かい言った。
「俺の倅は、当分アキロニアで預かる。その間に臣民によく言ってやれ。この子はイムシャの魔王から救ってくれたアフグウリの族長との子であると。最も、今の族長はアキロニア王なんて仕様もない者になっちまったがな。ついでにお前は俺にぞっこんだと言っておけ!」
北の蛮族特有の白い肌─そうであったのかとワザム(宰相)はじめクシャトリアもバラモンも皆、胸をなで下ろした。
蛮人コナンの胤になる御子…当時、反王室の立場で草原に覇を唱えた自由民の頭領と契ったのだと─デビであった女王が言い出せなかったのも無理はない。
だが、シェラム様は二転三転した己の生い立ちと、血塗られた祭からいきなり西域に伴われた流転の運命に衝撃を受けられたに違いない。
ヤスミナ女王は年に一度、皇子の誕生日にアキロニアに使節を派遣した。
夥しい金銀財宝と心を込めしたためた封書を携えて…
贈り物はコナン王への貢物のみ、受け取られた。
シェラム様への贈答品は箱すら開けられず、手紙は封も切られずに送り返された。
アキロニア使節団の団長を毎年務めたチァンリルの父は、やがてシェラム皇太子が国王に戴冠した時には、近臣として侍るであろう愛倅に帰国するたびに溜息混じりに語った。
“神の子が受けた心の傷は母君への恨み、憎しみとなって澱のように凝り固まっている”
“ベンダーヤの前途は多難であろう…こころして皇子にお仕えせよ、チァンリル”
イムシャの魔王とツランの残党による侵攻を告げれば、さらに傷が深くなり心を閉ざしてしまわれるだろう──
いや、むしろこの方はベンダーヤが滅びる事を望んでおられるのかもしれない。
どうやって故国へお連れしたら─
十年前の事件など無かった事のように平然とシェラムに向き合うヴァイロンに救いの視線を送る。
どうか皇子様を御説得ください─と。
その視線に気付いているのか、いないのか─
「では、ここから出る気はあるんだな?」
シェラムに問いただす。
少年は頷いた。
「ねえ、ガイ。ヤグという星を知ってる?」
「ヤグ?呪われた星…か?待てよ、親父がお前より若かった頃、ザモラの都で“巨象の塔”と呼ばれた場所に隠された宝石を狙って忍び込んだ時、象の頭を持つ人間と出会った…という話を聞いた事がある。そいつは自分の星で争いに敗れ宇宙を旅して俺達の世界にやってきたんだと…その星の名がヤグ、象人間最後の生き残りがヤグ・コシャ…忘れられない名だと酔っぱらった親父は言った。象人間は尾なし猿から人間が発生する様を長い年月を掛けて見ていたと語ったそうだ…信じられるか?人間が地上に誕生する以前から居たなんて!」
そんな事があったの─と弟はしばし目を閉じた。
コナン…父上─何の疑念もなく貴方の息子である事を誇れたら…傍らの兄のように…十年前の自分のように。
父と同じ蒼い瞳が自分に注がれている。
「その時にね、この仔も一緒に連れてこられたんだよ。ヨトガは夢の中で私に大宇宙の涯の軌道を回る緑の惑星ヤグの姿を何度も見せてくれた。ねえガイ、私達のいる世界は蒼い星なんだよ、知ってた?」
父上と貴方の眸のように…
これがペリアスの言う知識欲か─シェラムの目が急に生き生きと輝きだした。
「この仔はヤグに帰りたがっている。この星の地底に根を張り、育ちはしたけどこの地では種子ができないんだ。大地に変動が起きてヤグ人の伝えた文明を受け継いだ部族も海底に沈んだ…逃げ延びた一族によってこの丘に最初の神殿が建てられた五千年前にヨトガは地下の守り神として植え替えられた。でも彼らの文明も滅んで崇める者の無くなったヨトガは折々に出現する闇の力を求める輩に都合良く利用されてきた。心ならずも彼らの加護のもとに力を蓄え、宇宙に飛び出す日を待っていたんだ」
ヴァイロンの腕の中から白い裸身がゆらりと起きた。
「最後に支配したのが、お前だ…ツォタ=タンティ…大地から精を吸っていたこの仔にヒトの精を吸うことを教えた…そうしてこの仔は、お前が支配した三百年の間にヒトの精しか吸えぬ妖木になってしまった」
床に転がったままの髑髏がカタカタと震えた。
「儂はお前に闇の理を見せてやったではないか!暗黒の知識を授けてやったではないか!」
「誰が頼んだ?お前が勝手にしたことだ…私に媚びて消えた躯を復活させようと目論んだ…齢千年にしては浅はかだったな、私が師の敵を許すと思ったか?ツォタ=タンティ、並び立つ全ての世界から消え去るがよい!」
髑髏は悲鳴一つ上げるまもなく灰燼に帰した。
「安心して、今のコーシェミッシュの主は私だから。ちゃんと地上まで案内してあげるよ」
少年はヨトガから離れ、二人の従者が控える格子戸に向かった。
「つまり、お前は恋人が無事宇宙に旅立つまで、ここで暮らすというんだな?」
後にヴァイロンが従う。
「うん…一億年前にね、乗ってきた彗星が、もう少ししたら、またこの星の近くを通るんだって…」
「もう少しとは、何年先の事だ?」
「さあ…十年か、百年か、千年か。一万年は罹らないと思うけど…」
ヴァイロンの節くれ立った指が後ろから白い肩を捕らえた。
パン!
振り返った顔がはり倒された。
憤った戦士の平手打ちをもろに受けて少年の華奢な身体が鉄格子に向かって吹っ飛んだ。
「一万年だあ?さっきから聞いてりゃ勝手な事ぬかしやがって!お前は神か悪魔にでもなったつもりか?俺の弟は人間だ、魔道士になってもお前は人間なんだよ!」
「で、殿下!」
横からユウラが押さえる。
「シェラム様!」
倒れた少年にチァンリルとイーデッタが駆け寄った。
「来るな!瘴気に当たる。私に近づいてはならぬ!」
唇の端が切れて血が滴る。
それを手の甲で拭いながら、少年は懐かしそうに微笑んだ。
張り付いた仮面が熔けていく…
─ああ、ガイ…私を本気で叱ってくれるのは今も昔もガイだけだね─
長い長い旅の末に辿り着いた異国…
アキロニア国境で私は獅子の紋章を縫い取った大旗を掲げる騎士団に迎えられた…
象牙の喇叭(オリファント)の轟く中、隊列を閲兵する父の鞍前に抱えられた私は初めて観るアキロニア軍の勇姿と父の威厳に胸が高鳴った。
でも、旅の間傍らに付き添っていた父は、帰国と同時に側近に私を預けると王の勤めに戻っていった。
異国の言葉が飛び交い、種々雑多な人種が行き交うタランティア宮殿の巨大さに圧倒されて、一人残された私は入城門から中に足を踏み入れる事ができなかった。
私の周りにはアヨドーヤ神殿のバラモンより多くの侍従や侍女が傅いて、菓子や玩具を持ってきては、あれこれと機嫌を取ってなだめてくれたけれど、寂しくて心細くて…ずっと顔を上げずに門の前で泣いていた。
「おい、こんな所で寝るな。お前のお陰でこの門は通行禁止だ、みんな困ってるだろう」
泣き疲れて寝てしまった私の頭上から聞き慣れない訛りのベンダーヤ語が降ってきた。
私を取り巻いていた人々は、もう誰もいなかった。
乱れた金髪に浅黒く日焼けした少年が蒼い目で見下ろしている。
「宮殿に入るのが嫌なら、ベンダーヤへ帰れ」
咄嗟に私はかぶりを振った。
帰れない─私は捨てられた子なのだ。
また、涙が溢れてきた。
でも、帰りたい─帰りたいよ…
パン!
何が起きたか分からなかった。
ゆっくりと左頬が熱くなって、ジンジンする痛みが広がっていく。
涙は引っ込んだ。
きょとんと叩いた相手を見上げていた。
それまで私は誰からも手を挙げられた事などなかったから…
「キンメリアの男はな、親が死んでも涙流しちゃいけねぇんだ、覚えとけ」
「キンメリア…?」
「お前はキンメリアのコナンの息子だろう?ベンダーヤの血が混じっちゃいるが、俺だって母親はアキロニア人だからな、お互い様だ。まあ、この西域でキンメリアの血を引く野蛮人は俺達親子三人だけってことさ」
俺達、親子?あ─
「あ、兄上様ですか?」
フン─と少年は蓬髪を掻き上げた。
「よせよ、気色悪い。俺は親父だって陛下だの父上だの呼んだ事ないんだぜ」
逞しい腕が私を抱き上げた。
「俺はヴァイロン。海賊の女将だった母親、ヴァレリアの頭文字とクロム(キンメリアの最高神)の加護する者という意味を掛け合わして親父が付けた。言ってみな、ヴァイロン…」
「グィ…」
必死で真似る私の喉を優しく指が撫でた。
「可哀想に…つらいめに会ったな。まあ、傷が残っても戦士にとっちゃ勲章みたいなもんだ、気にするな」
「ガ…ィ」
「ああ、ガイでいい」
紅くなった頬に、そっと唇が触れた。
「よろしくな、弟…」
あれから十五年…こんな化け物に成り果てた私を─その位を奪おうとした私を─あなたはまだ弟として愛してくれるのか…
身体の奥底から、十年間忘れていた熱い滾りがこみ上げてきた。
胸が痛い、喉が詰まる…泣いてはいけない…キンメリアの男は人前で涙を見せてはならない。
キンメリアの?
私はコナンの息子なのだろうか?
“運命はそなたの選びし答えの先にある。何故にこの時代にこの宿命を背負い、かの者の子としてこの世に生を受けたか…自分が何者であるのか、何をせねばならぬのか…自ら問い、自ら答えを導くのじゃ、そして其の先にあるモノを手に入れよ…それこそがそなたの真の使命、宇宙の真理なのだ…”
偉大なるエペミトレウス─貴方が授けた予言は…今、この時を指しているのですか?
うつむいた頬に節くれ立った指が触れた。
あの時と同じように─
「ガイ…」
溢れる涙を抑えきれずに少年は兄に縋り付いた。
「分からないんだ…何をしたらいいのか、どこに行ったらいいのか…そして私は何者なのか…」
「何と!殿下のなさらねばならぬ事は明白ではありませんか?ベンダーヤへ戻り即位されてイムシャの魔王から国と民を守らねばなりません」
イーデッタは一気にまくし立てた。
「こうしている間にも女王陛下のお心は蝕まれ、ベンダーヤの平和は脅かされているのです」
兄の胸に顔を埋めたまま、シェラムは呟いた。
「どうして、今の私に国や民を救う事ができようか…」
その時、兄の背後から小さな蕾が伸びてきた。
嗚咽する良人の前でユラユラと揺れる─と、ポンと小さな音を立てて花が開いた。
花の色は真紅ではなかった。
薄紅から淡い紫へ、そして青に色を変えた。
「何で?」
シェラムは花に問いかけた。
「どうして?まだ彗星は来ない、今宇宙へ飛び出しても仕方ないじゃない!」
「どうしたんだ、シェーラ?」
「この仔が…ヨトガが旅立つっていうんだ、私と別れると…」
「!」
グラリと石畳が揺らいだ。
ヨトガの根が次々と石畳を割って這い出てきた。
「馬鹿な、馬鹿な、せっかく蓄えた力なのに…宇宙を回っている間に力尽きたら、彗星が現れても付着できないじゃないか!ヤグに帰れなくてもいいのか?」
シェラムの怒号が崩れゆく牢獄に反響した。
「それでも、こいつはお前を俺達の元へ、地上の世界へ返そうと決心したんだ」
ヴァイロンの指輪が青い花弁に呼応して煌めいた。
ピシッ!
磐壁に亀裂が入った。
「サータ!」
回廊の奥からズルズルという音が近づいてくる。
暗闇から見下ろす二つの赤色灯に向かい、シェラムはステイジア語で命令した。
「私の兄と友人だ。丁重に外までお見送り申せ」
「うわ!」
回廊を埋めるほどの太さの胴体があっという間に四人の騎士に巻き付いた。
「シェーラ!」
「シェラム様ーっ!」
もがいている間にも大蛇は物凄い早さで竪穴を登り、大回廊を這い進む。
顔に風が当たった。
岩盤の亀裂から四人は外に投げ出された。
──夕焼け?
ユウラは立ち上がると砂を払った。
城砦に入ったのは夕暮れ時だった…どうやら丸一日あの陥穽窟にいたらしい。
そのコーシェミッシュの城砦は残照に照らされ、彼方に黒々とした影を見せている。
どのような主人の指示があったものか──城砦より遙かに離れた場所に大蛇は客人を送り届け、去っていった。
「シェラム様…」茫然自失したベンダーヤの勇者二人は立ち上がる事もできずに廃墟のシルエットを眺めていた。
「チァンリル、イーデッタ…シェーラをしばらく俺に預けてはくれまいか?」
仁王立ちのまま落日を見つめていたヴァイロンが口を開いた。
「しかし、皇子は未だあの廃墟に…」
「あの妖木が戻すと言ってくれた」
「はあ?」
その時、地面の下で鈍い音がした。
地響きが伝わってくる。
「うわっ」
急に襲ってきた地震の揺れに倒され、再びユウラは砂漠に尻餅を着いた。
ヴァイロンが何か叫んでいる──だがその声は地の底から次々と沸き起こる轟音にかき消され、仲間の耳には届かなかった。
彼は“見ろ!”─と叫んでいたのだ。
指さす先には砂埃を巻き上げながら倒壊し、地中に沈んでいく城砦があった。
そこから真っ直ぐに天空に向かい真紅の光の柱が立った。
丘陵が陥没し始め、再び大きく大地が揺らいだ。
グワァッ!
衝撃が襲ってきた。
四人は凄まじい爆風で地表に押さえつけられた。
周囲が閃光で真っ白に変わり、鼓膜が破れたかと思うほどの大音響が炸裂した。
どれ程の時間が経ったろう?
自分に覆い被さっていた人の動く気配でユウラは正気に戻った。
「殿下?」
「おう、無事か?」
その身体の下には、まだ気絶したままのチァンリルがいた。
腕には放心状態のイーデッタを抱えている。
辺りはすっかり夜のとばりに包まれていた。
「殿下が庇って下さったのですね」
「まあな」
「もったいのう御座います…」
ユウラの目に涙が溢れた。
「弟の嫁が為出した事だからな。お前らに怪我でもされちゃ、こっちが寝覚めが悪いんだよ」
ヴァイロンはイーデッタの手を引いて照れくさそうに立ち上がった。
「先に行く。チァンリルが気付いたら追って来い」
砂漠の砂が大きく裂けた地底に向かいサラサラと落ちていく。
微かな星明かりを受けて、黒い口を開けたすり鉢の─火口のような巨大な穴が出来ていた。
所々に吹き飛ばされた岩盤が突き刺さっている。
「イーデッタ、シェーラを探せ」
そう言われても、貴族の息子は蛮人のように夜目が利かない。
黒い影を落とす磐の周囲を一つ一つ見て回るしかない。
辺りを見回したヴァイロンは砂まみれになったキラットを脱いだ。
真っ直ぐに一つの磐柱に向かう。
「砂漠は夜になると冷える。素っ裸じゃ風邪をひくぞ。お前は俺と違って育ちがいいんだからよ」
シェラムは柱の天辺に坐り、満点の星を仰いでいた。
「いいなあ、ヨトガは帰る場所があって…」
「そうやって待ってたって帰る場所はできねえぞ」
兄の差し出したキラットを今度は自分で羽織った。
「…うん」
「故郷ばかりが帰る場所じゃねえだろ?親父を見てみろ、ガキの頃キンメリアから旅に出たまま一度も戻っちゃいねえ」
「そうなの?」
「帰る場所は自分で創るんだよ」
「創る?」
「そうさ、創るんだ。一から自分だけの力で…だからこそ出来上がった場所を命懸けで守れるんじゃねえか」
「私にもできるかな…」
「その気になりさえすりゃ、誰にでもできる…俺もまだ創作途中で偉そうなことは言えねえが…」
ヴァイロンは顔をしかめると気恥ずかしげに笑った。
「…あの…付き合っていい?ガイの創作に…そのうち私も創り方覚えるから…」
承諾の代わりにヴァイロンはキラットごと弟を抱きしめると砂の上に飛び降りた。
三人が駆け寄ってくる。
「おい、ユウラ!お前はタランティアに戻れ。当分俺は帰らないからと親父に報告しろ」
「は?」
「イーデッタ、お前はここからベンダーヤへ帰れ。シェラムが一人前の男になって帰還するまでツランの残党共から王国を死守しろ」
「わ、分かりました…」
「チァンリルはユウラと共に一時アキロニアに行け。そして親父が編成した援軍を率いてヴィラエット海からイラニスタンにかけての国境沿いに陣を張れ」
「御意!」
「さて、お前は…」
腕の中の弟を眺める。
「取り敢えず着る物を買って旅支度しないとな」
肩を抱いたまま、砂丘を越えた水場に向かって歩き出す。
大地震にも動じることなく馬は無事に繋がれていた。
彼らはそれぞれの馬に跨った。
「ああ、ユウラ、言い忘れた。グレットと例の女─オフルの…さっさと結婚していいと伝えろ」
「は、はい」
「但し、生まれた子供に俺の名前なんぞ付けるな…とも言っとけ」
鞍尻に坐るヴァイロンは楽しげに前に横座りするシェラムに笑いかけた。
「おい、お前の指に光ってるのはなんだ?その小指の爪もおかしいじゃないか?」
「朝日が登ったらよく見せてあげる…でも、もう十年太陽を浴びていないから、どの位明るいのか忘れちゃったけど…」
ヴァイロンは声を上げて笑うと、腕を星空に向かって突き上げた。
「それじゃあ、お互い旅先で素晴らしい朝日が拝めるよう声援を送ろうか」
第2章 完
後書き
オフラインで『ANOTHER WORLD』書いてから、なんか純愛路線に落ち着いたような…
鬼畜なんて何処に行ったの?
今回エロも全然無いし…色っぽいお姐さんも出てこない…(やっぱり樹じゃ、色気ありませんよね?)
この御都合主義の展開と愛こそ全ての熱血ぶりは“はーれくいんろまんす”顔負けじゃん!
どうしようねぇ?と一人突っ込みしても始まりません。
コナンシリーズにはいろんなタイプの魔道士・妖術使が登場します。
欧米のファンタジーや冒険英雄譚に出てくる魔法使いってイメージがワンパターンなんですが(代表的なのはトールキンの指輪物語ね,欧州物は魔術師とか予言者が白と黒に二分されるケースが殆どでしょ?)
ハワードの魔道士はバリエーションにとんでいます。
ただし、負け方はコナンに斬り殺される&絞め殺される…ツーパターンなんだけどね(笑)
コナン・シリーズは魔道士好きな方にはお薦めですよ。
取り敢えず予定通り主役二人が揃ったので、今回は“よし”としたいんですが…
成り行き任せの作者に感想などお送り頂ければ嬉しいです。
書・U・記/拝