第3章 淫神降臨

砂漠を渡る風が長衣(キラット)の裾を煽る。

その度に夜目にも鮮やかな白い脚が、太腿まで顕わになった。

だが、黒駒に横座りになった少年は気にする様子もなく、吹き付ける風に顔を向けている。

「寒くないか?」

鞍尻で手綱を取る騎士が尋ねた。

「ううん、気持ちいい…こんな自然の風に吹かれたのは何年ぶりだろう…」

騎士は前日に経験したばかりの、地下から吹き上がった生暖かい風の感触を思い出した。

あんなモノと比べたら、そりゃあ気持ちがいいだろう…

最も、その気色悪い風は地下迷宮ごと吹き飛ばされて二度と吹く事は無いのだが。

「あ!ねえ、ガイ、何か光ってるよ」

少年の指さす先に、星明かりを受けて白く光る物があった。

駱駝の骨だ。

だが、騎士には少年が指している物が、その骨に引っかかり僅かに砂から覗いている布切れだという事が判っていた。

互いに夜目が利く─黒駒が干涸らびた白骨に辿り着くのを待てずに少年は素足のまま昼の熱が僅かに残る砂に飛び降りた。

布切れを引っ張り上げる。

「何?これ…ベール?」

オレンジの遮光布が砂に埋まっていた。

「うわっ!おんな臭い!」

少年は顔をしかめた。

砂を篩(はら)うたびに馬上まで安物の香水が匂ってくる。

「大方、キャラバン相手の娼婦が営業の最中に商売に気を入れすぎて砂嵐にでも飛ばされたんだろう」

東の空が白み始めている。

「おい、そろそろお待ちかねの夜明けだ。その遮光布を被れ」

「え〜!嫌だ。こんな臭いの」

十年前と同じ口調で甘えてみる。

「贅沢言ってると、あっという間に身体中が火膨れになるぞ」

渋々被ってはみたが、裾丈がこむらの半ばまでしか届かない。

「小さいよ…」

女物だから当たり前だ。

その上、何故か裾が引き裂かれていて、その分もっと短くなっている。

「大きくなったな、お前…」

それでも兄は目を細めた。

兄の指示に従い、膝を抱え足を引っ込めて鞍に乗る。

不安定な姿勢でしがみつく弟の細腰に、背後から赤銅色に日焼けした腕(かいな)がしっかりと回された。

生まれた時から海賊──蛮人の子として育った兄は弟より頭一つ背が高い。

まだ若いが歴戦の勇士と比較しても、肩幅も胸板も腰も均整の取れた立派な体格だった。

“ガイ…”背を反らして身体を預けた。

懐深く、すっぽりと収まる。

目を閉じる…幼い頃こうして抱えられて初めて馬に乗った。

父上のようだ…ベンダーヤからアキロニアに私を伴ったあの時──

ベンダーヤ…あれほど帰りたかった故郷が、今はただ疎ましい。

「おい、十年ぶりの太陽を拝んだ感想はどうだ?」

ハッとして目を開いた。

正面から黄金の光が登ってくる。

風がベールから覘く髪を巻き上げた。

髪の下から顕れた左眼が太陽に呼応したかのように紅く輝いた。

後ろで手綱を取る兄に、その眸は見えない。

朝日を浴びて見えたのは、外套にしがみつく弟の指先…

左小指の爪が真紅に輝き、暁の光を反射している。

そういえばコーシェミッシュを発った時にチラッと目をかすめた─

微かな星明かりに光る小指の先に何となく違和感があった。

「おい、何塗ってんだ?この小指…」

「ああ、これ?」

シェラムは外套から指を外し、風になぶられる髪を押さえた。

「この爪の下にね、ヨトガの連れ仔が入ってるんだ」

「何だ、それ?」

「話したでしょ?ヨトガはこの星では種子(たね)が出来なかったって…旅発つ前にヤグからたった一つ持ってきた種子を私に預けたんだ」

「成る程、それで連れ仔か」

「もし、ヨトガが上手く彗星に乗ることが出来なかったら、この種子を私が孵化させるんだ…もう一億年先までこの星で待つためにね」

「乗れたかどうか、どうしたら判る?」

「この仔が爪を割って発芽したら失敗…爪が黒ずんで種子と共に落ちたら成功…」

親父だったら気色悪いと小指ごと叩き斬るかもな…

俺だって、あの妖樹が華の色を変え、俺達にシェラムを戻すという意志を伝えなかったら、こんな気持ちにはならなかっただろう。

あの時ラカモンの環(リング)を通して、俺は宇宙樹と確かに交信した。

─アナタニ・コノ方ヲ・預ケマス─

人間と樹の相思相愛の番(つがい)か。

皮肉なもんだな、あの忘我樹(ユーバス)がシェーラに欲望を教え、ヨトガという宇宙樹が愛情を呼び起こした。

ペリアスの言う人形が、なんとかヒトの精神(こころ)を取り戻して、ここにいる。

「でね、こっちの指輪はね…」

「しっ!」

「…な…に?」

「血の臭いがする…」

暁の風に乗って、微かに届くそれを嗅ぎ分けたのは蛮人の嗅覚だった。

「獣か…?」

「違う、死んでいるのは人間だよ。瘴気が立ってるもの…」

さらに、そう言い切ったのは西域随一の大魔道士ペリアスをして“冥界、魔界を合わせても、右に出る者無し”と言わしめた若き魔道士。

「行ってみるか…」

「いいけど…ねえ、ガイ、私達どこ目指してるの?」

「アルゴスだ。海を見せてやるって言ったろ?」

「そこに海があるの?」

「アルゴスのメッサンティアにあるのは南方一の盗人宿っていうか酒場だな」

「…あの…そこに誰か知っているヒトでもいるの?」

「いや!だが親父は有名人だから、もしかしたらまだガキだった俺の事を覚えている奴はいるかもな」

「海は…?」

拗ねた口調にガイは苦笑いした。

「海に出るには船が要るだろう?メッサンティアは港街だ。海賊共のたまり場さ」

「海賊?」

「怖いか?」

「ううん、早く会いたい!ガイの母上はアキロニアで一番強くて有名な海賊だったんでしょう?」

「そう言われてるな…」

「いいなぁ、ガイは生まれながらの海賊なんだね」

そんな事で羨望の眼差しを向けられても困る。

もう一度、騎士は苦笑した。


鞍座の揺れも気にせずに会話を交わす兄弟が、夜明けの風紋が広がる砂原に一列になって続く蹄の跡を見つけたのは、それから幾ばくかの後だった。

辿った先には血塗れの人間だけが残されていた。

轍の跡が伸びている。

駱駝ごと荷駄を奪っていったのだろう。

髭を蓄えた巨躯の男は叩き割られた眉間の刀傷で顔面が潰れていた。

傍らにも髭面の男と少年の屍が二体。

最後まで抵抗したのだろう、彼らの剣は半ばで折れていた。

“身体中深手だらけだ…庇い合ったな…”

互いに相手を逃がそうとしているうちに脱出する機会を失い、結局周りを取り囲まれ切り刻まれてしまう。

嬲り殺しだった。

“家族だな…”

こういった場面を物心ついた時から見ているガイは目を覆う惨状もいたって冷静に分析する。

乾いた砂に染み込んだ血と乱れた足跡が途切れた所に子供を庇って伏せた女がいた。

陵辱の痕はない。

遮光マントに外套、ベールといった砂漠民の必需品は剥ぎ取られていたが、下の衣服は乱れていなかった。

“まあ、血塗れのローブじゃあ、持ちさる気にはならないだろうな”

俯せになっていた女の死体を抱き起こす。

下になった子供は母親の身体ごと上から刺し貫かれ、腹部に穴が空いていた。

腰紐を外し、首周りを絞っているリボンを弛めると、女の肩から服を剥がした。

「シェーラ!」血塗れで背中が裂けたローブを弟に投げた。

シェラムは半眼のまま遺体の側に立ちつくしていた。

誰もが凄惨な光景に衝撃を受け、茫然自失しているのだと思うだろう。

だが只一人、兄だけは弟が食事を摂っている事を察していた。

食事─

魔道士は未だ死を受け入れられずに辺りを彷徨っている死霊を吸い取っているのだ。

身体を切り裂かれる激痛、死の恐怖、生への渇望、愛する者への執着、そして殺戮者への怨念…そういった強力な不浄の“気”がシェラムを中心にグルグルと渦巻いている。

そして、そのまま裡にある暗黒の窟へ流れ込んでいく。

ラカモンの環(リング)はそういった事まで主人に伝えた。

普段は自然界からの不可見のエネルギー…霊気といったモノを吸収して体内に取り入れている。

しかし魔法、呪詛、妖術といった類を操るには邪悪な禍々しきモノも取り込まなければならない。

魔道士とは、そういった者だ─

そして弟は好むと好まざるとに関わらず、魔道士になってしまった。

女の死体を抱き上げて、男達の隣に置く。

「今度オアシスに出たら、その血を洗い落として着ろ」

「また、おんなモノ?」

足下に投げられた衣服を広げる。

「手っ取り早く脱がすのは、女の方が楽なんだ。文句言うな」

ガイは女の下になっていた子供の死体へ戻った。

“暖かい!”

他の死体は血も乾きかけて死後硬直を起こしている。

“まさか?”

「シェーラ!」

「何?」

食事を終えた魔道士が近づいてきた。

「あれ?この子生きてるじゃない…」

「助かるか?」

「ええ?トドメを刺すんじゃないの?今は助かっても持ちこたえるかどうか、判らないよ」

「助かるか?」

兄の蒼瞳が烟る。

弟は深い溜息を漏らすと、両手を重ねて、子供の傷に置いた。

「はい、お終い」

「もう、終わったのか?」

「私を誰だと思ってるの?薬草や毒薬作りで生業立ててるそんじょそこらの魔法使いや魔女と一緒にしないでくれる!」

─あれの霊力は我ごとき老いぼれをとっくに凌駕しておったのじゃ─確かにペリアスの悔恨は“老い”からきたものだけではなさそうだ。

「ちゃんと内臓の傷も塞いでおいたけど、かなり血が失われてるから、持ち直すかどうか判らないよ。それに…」

「何だ?」

「運良く助かっても孤児(みなしご)じゃない」

「だが、こいつの命が消える前に俺達はここに来た。これも運だろう…」

魔道士は肩をすくめた。

「まあ、あとはこの子の心臓がヒトよりちょっと丈夫な事を祈るだけだね」

シェラムは父親とおぼしき死体の側へ行くと、血で強張った上着を脱がし出した。

さらに隣の兄らしき死体と叔父と思われる死体の上着を剥がした。

三つの上着の袖を結び合わせ大きな三角にする。

真ん中に手をかざすとふわりと浮き上がった。

魔道士は蒼白のまま、微かに息をしている子供をそっと抱き上げて、寝かせた。

「で、オアシスは遠いの?これ、あんまり早くは飛べないんだけど…」

子供の上に母親の形見のローブを広げ、日差しを遮ぎりながら案内人に尋ねる。

ガイは鼻で笑うと鞍袋から油壺を取り出し、重ねた死体の上に撒いた。

前に吊した小さなランプの灯心から火を移す。

折り重なった家族は朝まだきの砂漠に黒煙を立てて燃えた。


砂漠のオアシスは大概が一個の城砦都市となっている。

黒駒の轡を取って歩いてくるズアジル族の男の前に衛兵の槍が突きつけられた。

「止まれ!」

黒駒の背には、どこかで買われたらしい男娼が子供を横抱きにしている。

血塗れの上着を接ぎ合わせたモノで包まれた子供の顔に血の気はなく、唇は紫だった。

「お前の子か?」

「いや…」

「死んでいるのか?」

「いや…」

この辺りを荒らし回る盗賊団は日増しに勢力を増し、オアシスを行き交うキャラバンや放牧民を襲撃している。

先王ストラボヌスが死んだ後、疑心暗鬼の貴族達は領土に籠もり、それぞれの軍備拡張、兵力増強に勤しんだ。

オアシスごとの小競り合いが続き、治安は乱れる一方だ。

盗賊征伐もままならぬ軍隊にコスの終焉を見た外国(とつくに)の商人達は、この辺りまでやって来ることはなくなった。

このオアシスに居を構えて商売する者達が仕入れの為に砂漠を渡るか、付近に暮らす遊牧民が毛皮や毛織物、チーズにバター、干し肉などを売りにバザールへやって来るくらいだ。

今、盗賊は彼らに狙いを定めている。

当然、遊牧民も警戒し、商売相手を他国に変えはじめた。

盗賊にとっては獲物が減る一方だ。

さすがに城郭の中までは襲ってはこないが、獲物が途切れれば、そのうち狙いを変えるかもしれない。

賊の引き込み役ではあるまいか?

衛士はいぶかしげに三人の異邦人を見た。

「城壁内には入れることは出来ぬ」

「俺達には水と食い物が必要だ」

ズアジル族の男から聞いたことのない訛りのコス語が発せられた。

ますます怪しい…

「このまま城壁に沿って右へ行け。川がある。魚がいる。棗椰子も茂っている。それを食え!」

若い方の衛士が居丈高に叫び、槍を向けた。

「あったまきた…」

黒駒からステイジア語の呟きが漏れた。

オレンジの遮光布から甘い香りが漂った。

「うん、なんだ?酒かぁ…」

彼らは槍を投げ出して、崩れ落ちた。

石積みの城門にイビキがこだまする。

「行こう、ガイ」

ズアジル族の男は轡を握り直すと門を潜り、人々の喧噪が響き合う方向に黒駒を向けた。


街外れの薬屋…と言っても並んでいるのは怪しげなモノばかりなのだが、その店主が入り口に立つオレンジのベールを見とがめたのは、昼を少し過ぎた頃だった。

「いらっしゃい、売り物かね?買い物かね?」

この店には砂漠で暮らす世捨て人、つまり世間からはじかれた魔法使いや魔女達が薬草や木の実、干した蜥蜴やイモリ、時には生きたままの蝙蝠などを携え、小麦や衣類に替えて貰うために訪れる。

ここは、そういった類の店だった。

「タグス…ある?」

ベールの下から片言のコス語が洩れた。

「おいおい、お客さん。そりゃあザルケーバ河の川岸に生えてる草の実だろう。あそこの水には毒があるんだ、有害な爬虫類しか住めないと言われてる。どんなに効果がある薬でも、あんな死の川に近づく奴なんているもんか」

「タグス…無い?」

「そう、無いんだよ。強壮剤なら他に…」

「血を増やす…タグスが要る…」

「そんなら、処女の生き血でも絞って呑ませるんだな」

「それ…しても…いいこと?」

「ああ、やってみな。タグスよりよっぽど効果あるぜ」

店主は増血作用のある薬草の束を手にして振り返った。

「冗談はさておき、こいつは貧血に効く…」

オレンジのベールは忽然と消えていた。

「何だよ、ヒトがせっかく引っ張り出してやったのに…」


城郭内にはお決まりの貧民窟があった。

焼き煉瓦も崩れ、扉も傾いた建物からは下卑た笑い声と怒鳴り声、女の嬌声に悲鳴が響いてくる。

無法者、反逆者、無頼漢…が勝手に崩れた煉瓦を積み直し、住処を作り、酒を持ち込み、盗品を売買している。

その男達を目当てに酒場や売娼宿からも厄介払いされた年増や病気持ちの売春婦達が集まってくる。

周りには、さらにそのおこぼれに預かろうという乞食…戦で負傷し戦士どころかまともな仕事に就くことさえ出来なくなった男達や何らかの理由で放逐された奴隷上がりの黒い皮膚の人種達、そして警邏隊が血眼で探している盗賊団からの脱落者が巣くっていた。

街路に規則正しく置かれた大燭台の灯影もここまでは届かない。

その暗がりに黒毛の大駒が闇に溶けたかのように繋がれていた。

「良い馬じゃねえか」

「かっぱらって売り払おう」

早い者勝ちと轡に手を掛けようとした男達は、黒駒の隣に佇んでいたズアジル族の男にあっという間に斬り倒され、下水の溢れた街路に死骸を晒す事になった。

汚水から立ち上る悪臭に血の臭いが混じり合い、断末魔の悲鳴と呻き声が消えた後は建物内の悪漢達も手を出せずにちらちらと闇を盗み見るだけだ。

血の臭いに安物の香水の香りが漂った。

闇の中に鮮やかなオレンジが浮かび上がる。

「何だ、その娘は?薬を買いに行ったんじゃなかったのか?」

ズアジルの男は段平を二、三回振り降回し、血を飛ばすと鞘に収めた。

「うん、噂に聞いてた黒魔術の呪物を扱っている薬屋に行ったんだけど薬の実は置いて無くて、処女の生き血を薦められたんだ…コーラジャではペリアス先生に迷惑掛けたから、人攫いはダメだと思っていたんだけど、此処では問題ないみたい」

「攫ってきたのか?」

「慣れない街だから、けっこう時間罹っちゃった。身体が丈夫で体格が良くて、しかも処女っていう獲物がなかなか見つからなくて…で、その子の容態はどう?」

獲物か─お前が助けようとしている子供と攫ってきた娘は同じ人間だぞ…

苦笑する兄は、ついさっきまで同じ人間であった死体(モノ)を隅に蹴り飛ばした。

「ここに寝かせろ」

魔道士は眉をひそめた。

「ガイ、この建物の中で場所を借りられないかな」

「俺にもう一暴れさせるつもりか」

「子供を助けろって言ったのはガイだよ、私なんか休む間もなく街中歩き回って一人で働いてるじゃないか!重いんだよ、この娘」

威勢のいいキンメリア語でまくし立てられては堪らない。

「わかった、わかった…」

外套を脱いで黒馬の背に掛けると指の関節を鳴らしながら、壊れた扉を潜る。

中から怒号と悲鳴が上がり、物が壊れる派手な音が闇に響いた。

辺りに掘られた穴蔵から乞食や不具者が何事かと這い出してきた。

そのうち建物から話し声ひとつ聞こえなくなり…扉から姿を現し、手招きする男のシルエットを確認すると、彼らは慌てて穴蔵に逃げ込もうとした。

あのズアジル族の男は砂漠に巣くう悪魔が化けているに違いない…

朝までにみんな喰われちまうんじゃないか…

恐怖におののき足を引きずる男の前にオレンジのベールが立ち塞がった。

「この娘…中に…」

「ひえ!」

「中に…運べ…」

久しく場末の娼婦しか見ていない彼らの手に滑らかな肌が触れた。

泥と汚水が付いてはいるが、足先も細い手指も傷跡ひとつ無く、今まで労働とは無縁な世界に育った令嬢であることを示している。

微かに寝息を立てるあどけない顔は清楚な美しさに満ちていて、こんな状況でなければ後先も考えず、むしゃぶりついて犯すだろう。

三人の乞食は未練がましく肌を撫でさすりながら娘を建物の中に運んだ。

中は凄惨な有様だった。

頭を叩き割られた者、首が無い者、背骨毎身体がへし折られている者…所狭しと死体が転がっている。

壁には血と臓物と脳漿が飛び散って、その隙間に抵抗する意志の無くなった無法者達が幽鬼の形相で張り付いていた。

悪魔が化けた男が“奥まで来い”と手招きする。

只でさえ足が不自由なのに眠る少女を担がされた彼らは、まだ痙攣を起こす死体から流れ出る血で足が滑り、進むのに一苦労だ。

その後ろから何かの病にかかっているらしい子供を抱いたオレンジのベールが続く。

一旦身を潜めた乞食達が、逃げ遅れた仲間の様子を扉の外から窺っている。

「この机…戻して」

ベールの内から、たどたどしいコス語が洩れる。

壁に張り付いた男達は恐怖で指一本動かせない。

「ちっ!」──やりすぎだよ、ガイ──

いきなりオレンジのベールが扉まで戻ってきた。

「うわああああ!」

覗いていた連中は尻餅をつく。

「お前達…中…入る…机…立てなさい…」

人間の言葉が不自由ということは…こいつも悪魔の連れか?

ベールから漂う安香水の香りが鼻をくすぐる─だがその奥に潜んでいるのは人間だとは限らない。

逆らわない方が身のためだ…それに─いつも俺等は此処には入れて貰えねえ。

俺等と大して変わらねえ外道のくせして、でけえ面しやがって!

ヘン、堂々と中に入れるんだぜ!ざまあみろ!

俺等を虫けらみてえに扱う奴らがおっ死んでやがる、震え上がってやがる─例え悪魔だって奴らをぶちのめしてくれたのは気分が良い。

大乱闘で倒れた大机が引き起こされた。

「その皿…乗せて」

「へ、へえ」

何処かで盗んできた銅皿には床にぶちまけられた料理がまだこびり付いていた。

「ガイ、これ洗って。それから女をこの上に乗せるように言って」

子供を机に寝かせながら指示を出す。

「あ、同じ向きに…」

「自分で言え」

棚から葡萄酒の壺を取り、皿に注ぎ掛ける。

「コス語の細かい表現は判らないんだから、仕様がないだろう?」

「ちっ」

今度は兄が舌打ちする。

「何度も言うけど、子供を助けろって言ったのはガイだよ」

「判った!ほら、皿はこんなモンでいいのか?」

「そうだね…ホントはその辺に有る物で拭きたいんだけど、拭いたらまた汚れそうだし…いいや、そのままで。心臓乗っけるだけだから」

「心臓?この娘を殺すのか?」

「ううん…」

ベールが揺れる。

「多分、死なないでしょ。子供一人分の血を貰うだけだから…まあ、しばらく貧血が続くだろうけど、わざわざその為に体格の良い娘を探したんだから…」

無法者は息を潜めてキンメリア語で交わされる二人の意味不明な会話を聞いている。

「ぎゃあああああ〜!」

次の瞬間、水を打ったように静まりかえっていた彼らが、悲鳴を上げて我先に逃げ出した。

死体を蹴り飛ばし、倒れた不具者を踏みつけて扉に殺到する。

悪魔だ!やっぱり悪魔と魔物だった!

喰われちまう!

いや、あそこにいただけで呪われちまったかもしれない…

押し倒され逃げ遅れた数人の不運な乞食達は魔物の仕業の一部始終を見届ける羽目になる。

オレンジのベールから白い腕が伸びた─

白い指が子供の胸に突き刺さった─

引き上げた指には小さな心臓─

子供の胸にポッカリと穴が─

その心臓を皿の上に─

カチンと音がした─

心臓は白く凍り付いていた─

まるで氷神イミールが手を下したかのように─

指先には一滴の血も付いていない─

次ぎに娘の衣服を引き裂いて─

零れ出る豊かに張った白い乳房─

左の乳房を抉る─

今度は血が迸った─

机を伝って床までこぼれ落ちる─

だが娘は眠ったままピクリともしない─

血塗れの手がどくどくと波打つ心臓を掴んで─

そのまま心臓を子供の胸に空いた穴に押し込む─

心臓の入った穴の上にのった魔物の左手─

その小指が真紅に輝いて─

娘の顔から見る間に血の気が引き─

逆に子供の頬には、ほんのりと赤みが差してくる─

紫色だった小さな唇は桜色に、ぽってりと艶やかだった紅唇は青紫に─

耳には自分の上げる息づかいしか聞こえない─

長い長い時間、いや一瞬の出来事か?─

子供の胸が大きく上下した─

桜色にかわった唇から吐息が漏れた─

再び血の滴る心臓が子供から取り出された─

娘の胸に戻すと乳房を撫でる─

残った衣服も引き裂いて、血がついていない部分で肌を拭う─

血が拭い去られた乳房にはどこにも傷が無くて─

皿の上から小さな固まりを取り上げ、子供の胸に─

押さえた手が外れると、そこにも傷も穴も無い─

その間中、悪魔は壺に残った葡萄酒をラッパ飲みしながら魔物の仕事を見ていた。

「終わったか?」

「うん、すぐに気付くと思うよ、どっちも…」

素っ裸の娘を担ぎ上げる。

「騒ぎにならないうちに元に戻してくる…また城門で揉めたらやっかいでしょ。その子の方は頼んだよ」

「頼むって?」

「多分、気が付いて自分だけ助かったって知ったら正気じゃなくなるだろうからさ…」

ベールの下の声には微かな笑いがあった。

魔道士め…

そこには十年前には無かった弟の…もう一つの顔がある。

「助けるっていったのはガイなんだから…ちゃんと最後まで助けてあげなくちゃね…」

オレンジのベールと全裸の娘の姿が揺らいだ。

「好きな所に行ってしまって構わないよ…馬の鼓動を頼りに探すから…すぐに追いつく…」

すうーっと消えた。

香水の香だけを残して…

助けてくれ─

助けてくれ─

助けてくれ─

見届け人達は子供を抱えた悪魔が一言罵詈を吐いて立ち去るまで、震えながら血塗れの床に這い蹲っていた。


一昼夜が過ぎて燃え尽きた死体は黒く炭化していた。

腐臭が出る前に火葬にしたので砂漠を彷徨く鳥獣にも全く荒らされていない。

やがて照りつける太陽と吹き付ける風によって骨もろとも砂漠の一部と化していくだろう。

昨日までは家族であった黒いヒト型の前に、子供は項垂れたまま座り込んでいる。

血塗れの上着と裂けたローブをしっかりと抱え込んで…

子供の影が伸びた先に騎士を背にした黒駒が静かに立っていた。

戻ってきた白いキラットが陽光をはじく。

ふいに馬が嘶いた。

騎手が馬の警戒する方角に頭を向けた。

長く鬣(たてがみ)と尾を伸ばした灰色の馬が近づいてくる。

馬上に翻る鮮やかなオレンジ…。

ラカモンの環を嵌めた中指がピクリと動いた。

弟の操る馬がこの世のモノではないと教える。

「また、ここに戻ってきちゃったの?」

ぼうぼうと伸び放題の鬣を手綱代わりにして裸馬…とおぼしき灰色の獣に跨ってやってきた待ち人は不服の声を上げた。

「現実を納得させるには、これが一番手っ取り早い」

「衝撃が強すぎない?助けるんじゃなかったの?」

「命は助けた。あとはこいつ次第だ」

気短な蛮人はその答えが出るまで、この場所で見守るつもりだった。

殿下、ご辛抱なされよ──

今、しばらく待ちましょう──短気な王太子をなだめる事が第一の仕事だった軍師のシェバがこの場にいたら、その忍耐強さに目を丸くするだろう。

正気を保っていれば生まれた村へ送り届ける。

狂った時は、ここに置き去りにする。

やがて自然が親の後を追わせるだろう。

生半可な精神力では、どのみちこの先一人では生きていけない。

「また海が遠くなっちゃったよ、ヒドラ」

ぽんぽんと首を叩くと裸馬はゆっくり頭を上下させた。

「どう?馬に見える?」

「風が吹かなけりゃな…」

伸びた鬣が風に煽られ一瞬覘いた目は馬のモノではない…爬虫類(うろこつき)の金目がギロリと光っている。

「えー!そう?この後ろ足さえ隠せば大丈夫だと思ったんだけど…」

そういえば、手綱どころか鞍も鐙も無い馬の後ろ足…蹄の上に布が巻き付けてある。

かなり不自然だ。

「目立つ?後ろ足だけ鱗が隠れないんだよ、仕方ないからこれ破いて縛ったんだけど…」

少し安香水の薄れたベールの前を開く。

「目はなぁ…戦車用馬の目隠しでも探そうかな」

何時の間に手に入れたのか、キトン(麻織りの長いチュニック)を纏っている。

「どうしたんだ、上等のキトンじゃないか?」

盗賊生活の経験者は値踏みが早い。

「例の娘の部屋から一枚貰ってきた…一番裾が長いの選んだんだけど結局短くなっちゃった…」

「女物は嫌なんじゃなかったのか?」

「もう、この際何でもいいよ…」

後ろからごそごそとサンダルを取り出すと足先に突っかける。

「これも貰ってきたんだけど、砂の上歩いたらすぐ壊れそうだね…」

ベールを灰色獣の背に掛けると焼けた砂に飛び降り、黒こげの死体の前に立つ。

「いつまでここにいるつもり?いい加減踏ん切りつけろよって言っても言葉が通じないのか…」

いや、既に精神が崩壊したのかもしれない。

隣で項垂れていた子供がビクッと顔を上げた。

砂にまみれた赤毛、血で汚れた顔…だがこちらを見つめる菫色の瞳は大きく美しい。

神…様…?

白いキトンが砂漠の陽光に透けて華奢な身体の線を顕わにしている。

漆黒の長髪が風になびき、羽ばたく羽根のように見える。

煌めく太陽を浴びて輝く美貌は遙かなオアシスで見た神殿の女神像そっくりだった。

子供は平伏した。

父や母の魂を導きに現れた神だと思った。

砂漠に散った魂をその手に乗せて、今にも天空に舞い上がりそうだ。

平伏したまま這いずってサンダルから覘く指にキスをした。

「…………」─願いはひとつ─

涙が足の甲に落ちるのが分かる。

「こうされると、弱いんだよね…」

小さな信者を見下ろして溜息をつく。

乗りかかった船だ…仕方ないか…

神と紛う容姿の魔道士は右手を空に突き上げた。

薬指に嵌めた何の変哲もない鉛色の指輪が、太陽の光に虹色の膜を張って鈍く反射した。

まるで鱗の如く…

先端に対のルビーが輝いて、目のように見える。

と、指輪はしゅるりと動いてトグロを解き、指先に這い上がった。

鎌首を擡げ、血色の目を天に向ける。

蛇が呼ぶ中天に風が巻き上がった。

「ひっ?」

ひれ伏したまま子供は首をすくめた。

砂嵐?

急にゴウゴウという風が吹き付けた。

──お助けを!

目を閉じたまま神様の足にしがみついた。


「そういえば、その指輪の話が途中だったな」

砂嵐は一瞬で収まった。

というより魔道士が蛇の指輪で指し示した場所にしか嵐は吹かなかったのだ。

輝きを失なった鱗は再び三重にトグロを巻いて、鉛色の金属の環に戻っていた。

「ガイ知ってるじゃない。これサータだよ」

サータ?──あのコーシェミッシュの竪穴にいた大蛇か?

「サータは私に忠実だったからね…あの爆発で地底にいたモノは全部ヨトガに“気”を吸い取られて消えてしまったんだけど、この仔はこうして私が身につけて、この星に残したんだ」

また、この仔か─あの蜥蜴目の馬(?)といい小指の爪に挟んだ妖木の種子といい、一体こいつの周りには幾つ怪しげな“この仔”がいるのやら─

「以前、ペリアス先生から、私に命をくれた哲人エペミトレウスを目覚めさせたのは、セトの環(リング)を手にした魔道士がアキロニアを攻めたからだと聞いた事があるんだけど…」

「トート=アモンというステイジアの魔道士だ。奴は謀叛四王侯を操って親父の寝所に夜襲をかけた」

「…で、逆に返り討ちに遭ったんだね?」

「そうだ。トート=アモンは一旦は賊にセトの環(リング)を奪われアスカランテの手下─いや奴隷にまで成り下がったと聞いた…それほど力があるモノか?」

うん─と弟は頷いた。

「私の裡にあるエペミトレウスの知識によればステイジアの魔道士達は、太古にこの星を支配したセト神の力を封じたという蛇型の環(リング)を手に入れようと世界中を血眼で探し続けているんだって…馬っ鹿みたい!そんな大昔の代物、探してる暇があったら自分で錬成すればいいのにね」

「じゃあ、それがセトの環(リング)なのか?」

「…のひとつって言った方がいいかもね。セトの環と呼び称されるモノは、既に力を失ったモノも含めて、まだ何個か地上に存在するんだよ。あ、でもね、最強の猛毒を持つ大蛇だって環(リング)にできる訳じゃないんだよ。セト神の直系じゃなくちゃダメなんだ。サータはセト一族の末裔だったから環になれたんだ。で、こうして私が外に漏らす瘴気や害毒を吸い取って餌にしてる。お陰で私の毒気で倒れる人間はいない…」

「ああ、それで城砦の奴らは正気のまま無事に生き延びたのか…」

「納得した?もっと早くサータを指に嵌めてたらチァンリル達と近くで話せたのにね…」

「そうだな…」

兄はふっと遠い目をした。

どこまで行ったろう…二つに別れた旅の仲間は…

頭上で響くアキロニア語に子供はおずおずと顔を上げた。

「あっ!」

慌てて“神様”の足首を放す。

「お許し下さい、神よ」

弱冠イントネーションに違和感はあるが、アキロニア語だった。

「お前、アキロニア語が話せるのか?」

「はい“恩人様”…オイラの部落は“コナンの同志”なので、みんなアキロニア語を話せます」

こんな形で本物の“コナンの同志”に巡り会うとは──

“恩人様”は“神様”に向かってニヤリと笑った。

「お前のコス語より数段マシだな」

「いいんだよ!いざとなったら精神感応するから。言葉なんて必要ないんだ!」

さすがに兄弟二人に早口のキンメリア語でまくし立てられては意味が分からない。

きょとんとしている子供に“恩人様”が声を掛けた。

「お前の名は?」

「アイーシャと申します」

“恩人様”のアキロニア語に比べ上品で、どこか女性的な響きのある話し方をされる“神様”が子供の名を呼んだ。

「じゃあ、アイーシャ、お前が抱え込んでいる上着とローブを貸して…」

“神様”の命令では仕方がない…

そっと親の形見を差し出す。

シェラムは袖の結び目をもう一度硬く結わえ直して、砂の上に広げた。

後ろを振り返ったアイーシャは愕然とした。

“神様”が砂の上から何かを拾って上着の上に置いている…?…

炭化した遺骸は砂嵐に跡形もなく崩れて、其処此処に灰褐色の骨が散らばっている。

それを“神様”は集めて回っていた。

熱せられた砂にサンダルを摂られ瞬く間に白い素足が真っ赤に腫れていく。

遺骨の砂を払う細くしなやかな指も赤く染まる。

“恩人様”も炎天下にしたたり落ちる汗も拭わず、黙々と散らばった骨を集めていた。

“神様”…“恩人様”この御恩は生涯──アイーシャは孤児になってから初めて泣いた。

やがて、つなぎ合わした上着は遺骨で一杯になった。

丁寧に包み込み、口をローブで縛る。

それを“恩人様”は喪主の肩に背負わせた。

「お前の村まで送っていこう“コナンの同志”よ」

太陽は中天にあった。

「ガイの勝ちだね」

ヒドラに跨った“神様”は、腫れ上がった素足をさすりながら隣で馬を進める騎士に囁いた。

「うん?」

火膨れになりかけていた箇所から赤みが消え、見る間に腫れが引いていく。

あっという間に素足も指先も元の青白い肌に戻った。

「ちゃんと正気を保ったね、この子…」

兄の鞍前に乗せられ、泣き疲れて眠る子供に慈愛の眼差しを注ぐ。

そこには十年前の…心優しき弟が居た。

そう、俺の勝ちだ─親父!


太陽が二度沈んだ。

アイーシャの示すままに馬を進め、なだらかな砂丘を越えるうちに一面砂の風紋だった斜面に薄い緑が混じり初め、いつしか青々とした草原へと景色は変わった。

やがて辿り着いた村はかつて川筋であった場所に点在する櫓堀の井戸のひとつを中心にした典型的な牧畜の部落だった。

「あ〜、おいしい!汲んだばかりの水ってこんなにおいしいんだね」

旅慣れぬ弟に苦笑しながら自分も喉を鳴らして水を飲む。

一度旅発てば次の宿に着くまで、口に入る物といえば水筒に入れた生暖かい水と干し肉、棗やプルーン、マカ瓜などのドライフルーツぐらいなのは常識だ。

だがシェラムは貧相な乾き物など見向きもしない。

「不味い」──無理に薦めても吐き出してしまう。

海賊をかわきりに盗賊に傭兵…その日暮らしの父親と共にねぐらを持たない放浪生活をしてきたガイにしてみれば、それでも口に入るだけ十分だ。

特に砂漠の旅はどんなに布で巻いても水筒の水は湯に…時には熱湯になる。

砂嵐が続けばオアシスを目前にしながら何日も砂と戦う日々が続く。

そのうち食料も水も尽きる。

そうなれば夜に徘徊する獣を捕るか、その機会も体力も無ければ砂を掘って隠れている昆虫をそのままむさぼり食うしかない。

水筒がカラになれば朝露に湿った砂を布に入れ、力任せに絞って僅かにしみ出る濁った水滴で唇を湿らせる。

それが出来ない者は懐に金貨の袋を抱えたまま干涸らびて死ぬのだ。

だが、あの貧民窟の酒場で兄が叩き殺した者達の精気を存分に吸い取った弟は生ぬるい水以外口にしなかった。

勢いに任せて連れ出してはみたが…

この先、王宮育ちの魔道士様をどうやって人間らしい旅人に仕立て上げるか──海に出るまでの課題は山積みだ。

アィーシャの父は邑長(むらおさ)の弟だった。

伯父は家族の遺骨を背負い帰還した子供に一振りのザイバール刀を渡した。

皮鞘に収まった彎刀の刃渡りは子供の背丈と殆ど変わらない。

刃の厚みは小指一本分にもなる。

柄も大きく両手でも握りきらない。

アイーシャが足を踏ん張り両手を震わせ、渾身の力を込めても支えきれる代物ではなかった。

本来なら成人の証として一族総出の儀式で渡される物だ。

そこで一番に祝福してくれる親兄弟はもういない。

その仇を討つよう邑長は弟の遺児に命じたのだった。

「一人で?」

コス語で交わされるやり取りを焚火の隅で聞いていたシェラムが声を荒げた。

いや、正確にはガイの要約する会話を聞いた──というべきか。

二人は邑長の血縁に連なる子供を助けた恩人として、一族の手厚い持てなしを受けていた。

「ちょっと通訳してよ!こんな子供がアテも無く仇討ちの旅に出るなんて無謀な!死ネって言ってるようなもんだ!」

キンメリア語になると優雅な物腰であった弟の口調と態度は蛮族のそれに近くなる。

「それがこの部落の掟なら、仕方あるまい…」

「何を悠長な事言ってんだよ!あの子を助けるって言ったのはガイなんだよ!あんな子供が一人で砂漠を彷徨ったって仇を捜す事もできやしない。こんなに男達がいるんだ、みんなで仇を討ちに行けばいいじゃないか?」

「そうして、その間この部落は女子供と老人だけで放牧をするのか?」

「えっ?」

「それに男がいない部落だと知れたら、砂漠中の盗賊が襲いにやってくる。残った村人は皆殺しで略奪され放題だ」

「あ…じゃあ、せめて屈強な男達二、三人…」

「お前は牧草地を点々としながら暮らす生活を知らないから、そんな事が言えるんだ。男達はいつも武器を持って家畜を守らねばならん、襲ってくるのは盗賊ばかりではないからだ。飢えた獣の群れに囲まれたらどうする?あの子に付き添う間に自分の家族と家畜が襲われたら…どの家族にも屈強な男の手代わりはいないんだ」

王宮育ちの魔道士は唇を噛んだ。

アイーシャは彼の足に口吻けた。

そして一つの祈願をした。

事が成った時は、自分の命と引き替えに──

それをシェラムは聞き届けた。

彼は魔道士として初めてヒトと契約を結んだのだ。

「わかった、彼らをアテにしない。私が仇を見つけ出してあの子に討たせる…そう通訳して」

「俺達が─と変えていいか?あの子を助けると言ったのは俺だからな」

「そんなの当たり前じゃない、ガイが拾った子なんだからホントは全部ガイが面倒みるべきなんだよ」

十年ぶりに会った弟の小生意気な口調に辟易した。

だが嬉しかった。

何だかんだ言って、シェーラはアイーシャに愛情を向けているのだ。

地下洞にユーバスの林を創った魔道士はもういない。

張り付いた面のような表情をした弟も…

“恩人様”の申し出を邑長は丁重に断った。

理由は彼ら二人が“コナンの同志”ではないから──

成る程、そういう事か…

邑長は自らの血縁にある子供に決して無理難題を命じているのではなかったのだ。

部落毎にバラバラの生活を送っていた遊牧民の交流はここ十年の間に急激に親密さを増した。

彼らを結びつけたモノ──人呼んで“獅子の金”

それはアキロニアで鋳造されたものだ。

金貨には王冠を頂く獅子、銀貨には剣を持ち後ろ足で立つ右向きの獅子、そして銅貨には左向きの獅子、最後に鉛を煎った平銭には咆哮を上げる獅子の頭部のみが正面から描かれている。

裏にはタランティア王宮で刻まれたアキロニア帝国の刻印が入っている。

金、銀、銅それぞれの重さはいかなる時も一定で変わらない。

僅かな金で命の遣り取りをして暮らしてきたコナンは、国どころか年ごとに異なる貨幣価値の不安定さを、それ故いざと成れば物々交換しか交易の方法がない世の中の仕組みの不合理さを身を以て知っていた。

アキロニアの王位に就いた後、コナンは流浪の民を自らの元に統合する基盤を変動のない貨幣経済に置いた。

言語、文化、慣習の異なる彼らに統一の金銭感覚が生まれた。

今、西方で日が昇る勢いで国力を延ばしつつあるアキロニアの経済力は絶対であった。

富を蓄える喜びを知った彼らは、アキロニアの自由闊達な啓蒙思想にいち早く同調した。

金の切れ目が縁の切れ目─ならばその逆もまたしかり…

金の苦労を知らぬ愚鈍な統治者達が気にも留めずにいるうちに、アキロニアと同盟を結ぶ部族は瞬く間に広がってしまった。

そう、彼らは国王でも貴族でもない。

大地を流浪する民だった。

反アキロニア同盟国は自分らの領地に出現した強力なゲリラ部隊を壊滅させようと、遅ればせながら追撃の軍を差し向けたりしてはみたものの、彼らの結束は硬く容易に捕らえられるものではなかった。

コナンがその姑息さに激怒し自ら討伐に向かうと息巻いた偽者─“コナンの同志”を騙る無法者や守銭奴達を彷徨かせ、その結束にひびを入れようという策を弄する事ぐらいしか頭が回らないのだ。

一国の支配者としてアキロニアの周囲を取り巻いて隙を窺っている彼らの耳には足下が崩壊する音がまだ届かない。

“冷血”と称された王太子は王冠をかなぐり捨てて、いまにも飛び出さんとする血気盛んな父親に代わり、自ら人選した討伐部隊を率いて偽者狩りに旅発った。

何のことはない…ガイは苦笑した。

この旅の発端の一つは“コナンの同志”なのだから…

盗賊の情報は砂漠を行き来するキャラバンが掴んでいよう。

アィーシャは彼らの助力で敵を捜し、その護衛をする傭兵達の援護を受けて仇を討つ。

それぞれの得意分野で“コナンの同志”が組織として支え合う訳だ。

ガイは一つ溜息をつくと、段平を吊したベルトを外し、邑長の眼前にその柄頭を向けた。

獅子の紋章!

それはアキロニア正規軍のあかし。

細かな細工で形取られた王冠を頂き剣を構える黄金の獅子が対に向かい合っている。

これ程に見事な剣を手挟むとは…アキロニアの名門貴族の子息であろうか?

「あ…なたさまは…?」

「アキロニア国王直属部隊の者だ。“コナンの同志”の偽者を始末するため旅をしている」

「おおっ!」

邑長は地にひれ伏した。

周りの村人もそれに倣う。

「アイーシャを…何卒よろしくお願い致しまする」

アキロニア語だった。

ふーん…なんだかんだと揉めていたようだが、紋章を見せたらあっさり話が付いてしまった。

離れて成り行きを見守っていたシェラムは彎刀を抱え込むアイーシャの元に向かった。

兄の剣にアキロニア王家の紋章が刻まれていることは知っている。

だが十年前にアキロニアを…いや世間を捨てた皇子にとっては、“コナンの同志”もその偽者が暗躍している事件も知らない話であった。

ましてや今ハイボリア期の国々のなかでアキロニアがどのような位置にあるのかも…

「行こう。私はお前の願いを聞き届けた。必ず仇を取らせてやる」

「“神様”…」菫色の瞳に涙が溢れる。

魔道士は眉を寄せた。

確かに祭れば“神”、封じれば“魔”…時と所によって変わる身ではあるが、あからさまに“神様”呼ばわりされるのは気が引ける。

それに…

─お前は神か悪魔にでもなったつもりか?俺の弟は人間だ、魔道士になってもお前は人間なんだよ─

その呼び名は兄が嫌う。

「“神様”は止めてくれる。ついでにあの人を“恩人様”って呼ぶのも止めてね」

「では…あの、何とお呼びすればよろしいのでしょうか?」

「私はシェラム、あっちはガイ」

「そのような!尊いお方の御名前を呼び捨てになどできません」

「え〜!いいよ、呼び捨てで」

邑長はオレンジのベールを被った女装の少年をいぶかしそうに眺めた。

「アキロニアの騎士殿、あれは男娼で?」

そうとしか見えないだろうな…

しかし男娼か?─と聞かれ“弟である”とは言いにくい。

だがまともに暮らす朴訥の民にとって恐怖の対象である“魔道士”と知られるのは、もっとまずい。

「あれも拾い者だ」

コス語で答える。

「左様で…」

邑長はそれ以上の詮索はしなかった。


「青い旦那様、白い旦那様はオイラの剣をどうされるのですか?」

「お前が扱える寸法に錬成するそうだ。いいから眠れ、明日の朝には出来上がっているだろう」

シェラムは馬のように見えるヒドラという獣に乗って何処かへ行ってしまった。

胸にアイーシャの彎刀を抱いて。

「はい…」

それに朝になれば部落を発つ時に飛ばした鳩が“コナンの同志”からの情報を持って舞い戻ってくる。

岩場の影に身を丸めた子供はすぐに安らかな寝息を立て始めた。

二日間鞍の上で揺られながら眠った。

最もまともな寝床を与えられたとしても家族を惨殺された衝撃と動揺に、まともな睡眠など取れるわけがない。

部落で一夜を過ごし、明朝出発するように邑長達は薦めてくれた。

だが誰もいなくなった家で、一晩でも過ごす残された者の苦痛は如何ばかりであろう。

何を見ても楽しかった家族の思い出が染み込んだ物ばかり…

慣れ親しんだ寝台より星空が煌めく草原で眠った方が気持ちが休まるはずだ。

ガイはアイーシャが一時も早く故郷の景色から遠ざかるよう計らった。

辛い思いは日を追う毎にゆっくりとに薄まっていくだろう。

見事に親の仇を討った後、再びこの地に送って来よう。

早く一人前の男になれ─青い旦那様はアイーシャの柔らかな赤毛を撫でた。

ガイは気付いていただろうか?

シェラムに張り付いていた仮面が熔けたと同じように、冷血非情と称されたヴァイロン自身にも暖かな血が甦っているのを…

朝靄の中に灰色の影が現れた。

一晩のうちに、どこで打ち直して来たものやら…

彼が操る錬成術一つとっても半端な力でない事がわかる。

──我が言うのも憚られるが、冥界、魔界を合わせても、あれの右に出る者はおるまいよ──

西域最大の魔道士ペリアスをして“恐ろしい”と言わしめたシェラムの霊力。

戻ってきた錬金術師はアイーシャの背にすっぽり収まる大きさの半月の彎刀二振りを兄に見せた。

薄い刃だ。

相手に一打ちされれば簡単に砕けてしまいそうに見える。

だが古代文様が両面に描かれた彎刀は、普通の──つまりその辺の人間相手の打ち合いでは刃こぼれ一つ起こさないだろう。

ラカモンの環(リング)が鈍く光り、それが彎刀の形を借りた強力な呪物であると教える。

逆に極限まで薄く研がれた刃は、骨まで食い込みあっさりと生身の身体を切り裂くに違いない。

吸い込まれそうな輝きを見せる刃を指でなぞる。

「見事だ─」

歴戦の剣士の賞賛にオレンジのベールがぺこりとお辞儀をした。

「お褒めにあづかり光栄…軽いし小技が利く。女子供には打って付けだよ」

だが双刀にしつらえるとは─

両方の腕で左右同時に剣を操らねばならない。

かなり高尚な剣技が必要とされる。

「一日も早く扱えるように仕込んでね、青い旦那様」

何が青い旦那様だ。

変な呼び方させやがって─

「で、そっちの長刀は?アイーシャには長過ぎるだろう」

「あ、これ私の。刀身も柄も皮鞘まで余っちゃったから…残り物で錬成したんだ。旅には必要でしょ?」

「お前、剣を扱えるのか?」

勿論、並の錬成魔法でしつらえた長刀とは思っていない──

「何言ってるの?私を鍛えたのはガイと父上じゃない」

父上…今“あの人”ではなく“父上”と呼んだか─

「…十年経ってるんだぞ…お前の腕など…使いモノになるか…」

胸の奥からこみ上げるモノを無理に押さえると、くぐもった声になってしまう。

「俺が…アイーシャと一緒に、もう一度鍛えて直してやるよ」

ガイはシェラムに背を向け、アイーシャの眠る岩影に向かった。

「起きろ!お前の剣が出来上がったぞ。身体の一部に成るまで鍛錬するんだ」

シェラムは起きあがったアイーシャの背中に二鞘を交差させて縛り、残った革紐を胸の前でもう一度クロスさせた。

それぞれの手に彎刀を握らせる。

「似合うぞ、アイーシャ。俺が一端の剣士に育ててやる」

「まあ、こう見えてもガイは人を教えるのうまいから彼に習うと強くなるよ」

「旦那様〜」

「もうお前ね、そうやって一々感激して泣くのやめて…あっ」

朝靄を裂いて羽音が響く。

昨日放した鳩が戻ってきた。

ガイは慣れた手つきで鳩を捕まえると足環に結ばれた布切れ端を解いた。

「羊の敷物に毛糸編みの衣類、牛と山羊のチーズ、塩漬け肉をバザールに持ち込んだ奴らがいる」

「アイーシャ、奪われた荷駄は何だったか、覚えてる?」

「絨毯、羊毛のマント、毛糸のショール…干し肉と塩漬け肉…チーズと葡萄酒…」

感激の涙は悲哀の涙に変わる。

「間違いなさそうだね、自分らが要る物だけ取ってあとは換金したわけだ」

「取り敢えず、このバザールが催された街に行くぞ。そこから奴らの足取りを追う」

「けっこう遠いの?」

「俺一人なら昼夜ぶっ通しで走って明後日の昼には着くだろう。だがお前らが一緒だからな…」

「あっそ…じゃあ空飛んじゃおうか?この木札をガイの馬の脚に結べば夕方には着くよ」

けなげに涙を拭う子供を目で指し、声を潜める。

「子供の前で呪法を乱用するな」

「もう、散々目の前でやっちゃったよ。それに日を置けば盗賊は街から遠く逃げちゃうんじゃないの?」

アイーシャ達の荷駄が奪われてから明日で八日…日が経つにつれ賊の足取りを掴みにくくなる事は確かだ。

「……………」

言われるとおり今更である。

自分の命がどうやって助かったかは朧気で知らぬ部分も多かろうが、家族の遺体を一瞬の砂嵐で骨に変えてしまった行為はかなりの驚愕を与えたに違いない。

事実、アイーシャはシェラムを“神の御使い”として崇拝する信奉者になってしまった。

「気になるんなら飛んでる間、あの子の目を塞いでおけばいいじゃない?」

シェラムは兄の愛馬の轡を取ると、首をポンポンと叩き、その目をじっと覗き込んだ。

と、黒駒は大地に張り付いたように動きを止めた。

屈み込んで脚の一本一本に木札を結わく。

もう一度目を覗き込むと、黒駒は後ろ足で立ち嘶いた。

「終わったよ〜」


“寒くなるから…”白い旦那様は“ありったけの衣服を着込むように”とおっしゃった。

どこに行くのだろう?

仇は遠い北の果てにでも逃げ去ったのだろうか?

一番上に羊毛の外套を羽織る。

──アイーシャ、お前の花だよ

母が絨毯を織る合間に一年がかりで仕上げてくれた赤い外套にはスミレの花があしらわれていた。

“下が見えないように…”と青い旦那様がフードの上から布を巻いてくださった。

──下が?

そのまま逞しい腕に抱かれて騎乗する。

えっ?

ふわり─黒駒が浮き上がった。

ガイはシェラムの指示通り手綱を引き上空を向かせる。

鐙を打つ。

黒駒は雲を切り裂いて一気に上昇した。

馬首を東へ向ける。

大地を行くが如く大気を掻いて進む。

物凄い早さだ。

地上で様子を見ていたシェラムがヒドラに跨い追いついてきた。

二頭は主人の命ずるまま風を切って飛び始めた。

「だ、だんなさま〜っ!」

アイーシャの悲鳴もゴウゴウと吹き付ける風にかき消される。

「寝てろ」

ガイは自分の胸に小さなフードを押しつけた。

迂回せねば渡れぬ大河や湖、いくつもの峠を越え峰をつたわねばならぬ高山、切り立つ崖で囲われた岩盤、禽獣の潜む密林そして砂嵐の舞う砂漠…雲の切れ間から下界に展開する大パノラマを眺めながら一っ飛びに駆け抜ける。

成る程天馬とは便利な物だ──だが寒い。

吹き付ける風は冷気となって体温を奪う。

空の上がこれほど寒いとは…弟の薦めに従って手袋を嵌めて正解だった。

それでも手綱を持つ手がかじかむ。

しがみついたアイーシャもガタガタ震えている。

最もアイーシャの場合、震えの原因は寒さだけではないのだが─

やがて震えが止まった。

その事に気付いたのはしばらく経ってからだった。

ガイは生まれて初めて頭痛というものを経験していた。

酷く息苦しい…胸の圧迫感は尋常でない─希薄な空気のせいだった。

組み討ちで胸ぐらを掴まれ、喉を絞められた経験は数知れない。

最後は全て返り討ちにした─だから今生きてここにいるのだが…。

その何十倍の息苦しさだった。

それが頭痛を誘い、嘔吐感まで催す。

アイーシャ?─ぐったりと意識がない。

しまった!─屈強な自分がこれだけのダメージを受けているのだ。

病み上がりの小さな身体はひとたまりもない。

ガイは隣で轡を並べる弟に“下に降りる”と合図を送った。

──了解──

オレンジのベールが風をはらみ、先に立って急降下していく。

眼下にステップ地帯が広がる。

小さな泉のほとりにヒドラは舞い降りた。

一瞬の間をおいて隣に黒駒が降り立つ。

「バザールがたちそうな街は見えないけど?」

「目的地はもう少し先だ、あの丘の向こうにザモラの国境がある」

苦い唾が喉奥から上がってくる─嘔吐を押さえて吐き捨てるように言う。

「何だ、もうすぐじゃない。一気に行けばいいのに」

息一つ乱していない弟は兄があらゆる苦痛を顔に出さないよう鍛錬をつんだ事など知るよしもない。

ガイは首を振って外套の中で気を失った子供を指した。

唇が紫色になっている。

「意識がない。俺も頭が割れそうだ」

薄いキトンに遮光布のベールを被っただけの魔道士は慌ててヒドラから降りると兄の腕から子供を抱き取った。

一瞬にして察した。

懐から革袋を取り出す。

「ガイ、これ一粒飲んで!息苦しいのも頭痛も治まるから」

そういえば大手術から六日しか経っていない─無茶をさせすぎたか?

ぐったりした身体から赤い外套を脱がせ抱きしめる。

ほわっ…身体が急に温かくなった。

顔に当たる風もない。

息苦しさは消えていた。

灯種に抱かれたような気がしてアイーシャはきつく閉じていた眼をそっと開けた。

“あぁ、白い旦那様がオイラを暖めてくださっている…”

キトンを通してシェラムの肌から直に熱気が伝わってくる。

“そうか…旦那様は太陽の神様の化身なんだ…”

感覚が戻った指でキトンにしがみついた。

パリパリに凍り付いていた赤毛から氷が溶けて水滴が滴る。

太陽神は優しく濡れた髪を撫でた。

可愛いな─

唇にも頬にも血の気が戻った。

「ガイにもこの子にも木札を結んでおけばよかった。あせってたからうっかりしちゃって」


東部諸邦とはブリサニア・コリンシア・ザモラ・そして大帝国ツランがあったステップ地帯からヴィラエット海までの国々を指す。

四つの国境が接する地帯は小競り合いが多く、不安定な治安につけこんだ辺境の部族がそれぞれに都市国家を築き覇を唱えていた。

当然、その辺りは国を追われた無法者や犯罪者が群れをなして徒党を組むには打って付けの場所となる。

盗賊の溜まり場として最も名高い酒場─それがザモラの首都シャディザールからほど遠くない無法地帯にある“大鎚亭”だ

およそ悪党と名の付く人種なら、巾着切りから拐(かどわ)かし、盗賊に博打打ち、裏商売専門の顔役まで殆どの悪人が首を揃えている。

さらに彼らを目当てに娼婦や男娼が厚く塗った脂粉に卑猥な衣装で集まり、媚態の限りを尽くし歓楽の嬌声をあげる。

一座を仕切っているのは地元の悪役達─浅黒い肌に褐色の目、腹帯に懐剣を手挟み、悪知恵がたっぷりつまった頭に縞模様のターバンを巻いている。

彼らの周りに侍る娼婦達も安物の宝石で身を飾り、躯一つで商売をしている流れ者の売女とは一線を画しているつもりであった。

そんな彼女らの酌を受けながら、今日のザモラ人達は店の一隅を気にしている。

彼らがぎらつく目で眺める一角。

その辺りには鉤鼻に青髭をたくわえたシェム人の山師や傭兵部隊の脱走兵らしきクシュの黒人、茶色の乱れ髪と汚れた無精髭を半裸に剥いた娘の胸に擦りつける人攫いのガンデル人やそれを卑猥な言葉で煽りたてるブリサニアから流れてきた瞳の大きな娼婦といった異邦人がたむろしていた。

中に見かけぬ異邦人が麦酒(エール)を呷っている。

がっしりとした身体付と一目で業物とわかる段平─だが顔つきはまだまだ若造だ。

日に焼けた顔にかかる乱れた金髪の下に蒼い双眸が烟る。

北からの流れ者か─品定めをするザモラ人の目に淫靡な光が宿っていた。

その若造が連れている男娼─いかにも春を鬻(ひさ)いでいますといったオレンジのベールで顔を隠してはいるが、裾から覘く引き締まった足首と外を歩いた事もないような青白く華奢な足先…時折連れに麦酒を注ぐしなやかな指…ベールから零れる漆黒の髪…背は幾分高いがほっそりとした身体つきからみて、まだ少年の域を出ていないだろう。

好い躯だ…欲しい…

二人のキンメリア人は周囲から注がれる他所者(よそもの)に対する警戒と興味の視線のなかにいた。

兄の盃に麦酒を注ぐ振りをしてベールの隙間から白い粉末をまき散らす。

当の兄はその度に盃を置いてスカーフで顔を覆い息を止めねばならない。

盃を持ったり置いたり忙しいガイが盗品を先日のバザールに持ち込んできた男達の話を振る。

シェラムは読み取ったアイーシャの記憶─母親の背中越しに剣を振り上げた男の顔に符合する記憶を持つ者を探す。

といっても、ここで飲んだくれている者達にとっては一時(いっとき)すれ違っただけの人間だ。

朧気な記憶を辿り、記憶の底に埋もれた残像を見つけ出さねばならない。

一人一人の意識の中に入り込み記憶を読むのは時間がかかる。

“気”の力も夥しく消費される。

額に脂汗を浮かべ他人の記憶のあら探しをしたところで空振れば全くの徒労におわる。

例えばたった今、意識の中に潜行したばかりの傭兵崩れのクシュ人と腰布一枚のブリサニアの娼婦。

この二人は奴らに接触していない─深層意識の中まで晒した相手を探索リストから外す。

それでも最初にこの二人を選んだのは、やりやすかったから…。

特にクシュ人の脱走兵は一番近くで巻かれた白粉を最も多く吸い込んで完全に酩酊している。

これくらい理性を飛ばしてくれれば楽なんだけど…

ブリサニア女はしどけなくガイにもたれかかり、商売敵のシェラムにまで媚を送る。

ガイは盃を重ねる振りをしながら手元に段平を引き付けていた。

理性の箍(たが)が緩んだ者がどういう行動にでるか予測もつかない。

ましてやこいつらは人の皮を被った狼だ。

何かのきっかけで殺し合いを初めてもおかしくない。

だが、ガイの予想に反して、彼らの凶暴性が増幅される事はなかった。

その代わり彼らは欲情した─さかりのついた獣のように。

それもよりによって、仕掛け人のシェラムに劣情を催している。

何故だ?

ガイの脳裏をあの時の光景がちらとかすった。

妖木の這う牢獄でシェラムの裸身を見たユウラは粘つく視線を送っていた。

魔物の巣窟に身を置きながら、あいつは主人の弟に欲情したのか?

馬鹿な─少しは粉を吸ったらしい…頭を振って意識を変える。

その首にブリサニア女の褐色の腕が回された。

「抱いておくれよ、安くしとくから…」

はち切れそうな胸をガイの腕に押しつけ、大きく脚を開いて腰布の奥を晒す。

褐色の翳りから覘く肉襞から濃厚な“おんな”の匂いが漂ってくる。

「こっちの子でもいいわ…おいで…かわいがったげるよ…」

そのまま膝を擦ってベールの下を覗き込もうと身を屈め寄ってきた。

男なら誰でもいいのか!─シェラムは顔をしかめた。

それは彼が最も嫌悪するもの─女の子宮が発する匂い。

自らの快楽の結果出来た命を、この世にひり出す場所。

おぞましい─

カリニアの奴隷市で師の君ペリアスが購ってくれた者達は青年と乙女が五人づつだった。

噂に聞く魔道士の尖塔に連れてこられた彼らは恐怖で従順だった。

最も湯浴みをしろ─の、服を纏うな─の命令を伝えるのが闇から響く声のみ──得体の知れぬ使い魔なのだから仕方がない。

私の寝所に上がった時には怯えきっていた。

そして使い魔が最後の命令──性奴として私に仕えるよう命じた時、震えながらも青年のうちで男を相手にしたことの有る者三人と処女でない娘二人が、おずおずと私の夜着を脱がせ、遠慮がちに舌を這わせた。

当時の私の躯はまだ未成熟だったから一旦快楽を教えて手なずけてしまえば御(ぎょ)しやすいと思ったのかもしれない。

彼らは肉奴隷であった頃の技と経験を駆使して私に奉仕した。

だがいつまで待っても期待した快楽の波がこない。

つまらぬ──書物で読んだ性の快楽とはこの程度のモノか?

私の意を汲んだ姿なき使い魔が香炉に媚薬を炊いた。

ステイジアの沼地に生える黒睡蓮の香りが部屋中に溢れる。

香を吸った彼らの肌がしっとりと汗ばみ瞳が潤んだ。

息使いが荒くなる─この程度の物で興奮するとは…人間とは安上がりだ。

彼らの男根は私を愛撫することで興奮し、先走りの液を滴らせて勃っていた。

娘達の乳房も固くしこって乳首を勃起させ、羞恥ですりあわせる陰部から何ともいえぬ甘い香りが漂い始めた。

そっと触れてやると身をくねらせて悶える。

おもしろい─

媚を含んだ甘い声に掠れた喘ぎ声が寝室に満ちた。

金の巻き毛に端正な顔立ちをした青年が唇を重ねてきた。

されるがまま舌を与えてやると息を荒げて吸う。

私の指が青年の男根を擦った。

彼は身悶えながら私の手に精を放った。

愛い奴…この者は気に入った。

それが合図のように彼らは私の男根を吸い、陰嚢を口に含み、後ろの門を舐め、指を挿れて愛撫した。

ああっ!

裡に高まるモノがある。

熱い!溶ける!

私は初めて相手の口腔に精を放った。

これが絶頂の陶酔か…

だが一度射精してしまうと、その行為はひどく味気ない物に感じられて──何度射精しても、書物に書かれてある通り…それ以上の事はない。

再び私はつまらなくなった。

それを察した使い魔が部屋の隅で固まって震えていた残りの五人を威嚇した。

役立たずは喰い殺す──

彼らは弾かれたように私の側へ走り寄り寝台に仰臥した私にその肌を擦り寄せた。

性を知らぬ肌は、さらさらと…そう蛇のように乾いて冷たい。

天蓋に貼られた鏡に映る一部始終──自らの躯に加えられる愛撫を私は人ごとのように眺めていた。

私を背後から抱きしめ貫くあの金の巻き毛の青年、喉元まで男根を飲み込み上下に扱く黒髪の娘、胸に舌を這わせ乳首を吸い立てる褐色の肌の男、さらにもう一人の刈り込んだ茶髪の青年は私の臍から下腹を舐め回し、透ける銀髪の娘は股下に潜り込み豊かな乳房を揺らしながら抜き差しされる青年の男根とそれを受け入れている私の肛門を舌で舐(ねぶ)っている。

もう、よい──私は彼らの愛撫を一度止めて、後から侍った五人を犯すよう命じた。

三人の処女は当然、前も後ろも…女を知らぬ少年二人は黒髪と銀髪の娘の裡に放ったあと私自身が後ろを犯した。

媚香に酔って僅かな愛撫にも身悶えるようになった娘達だが破瓜の瞬間はその痛みに身を捩って抗した。

組み敷かれたまま涙で濡れた目で私を見つめる。

「お助けを…御主人様…」

すでに何度も男根を埋め込まれ、精を注がれたというのに、この娘は私に縋っている。

慈悲を仰いでいる。

ゾクゾクした。

一時(いっとき)助けてやる振りをするのもよい─

差し出した私の手にしがみついてきた。

しっかりと握りながら男に突き上げられている。

股間から淫靡な音が洩れている。

その手に私は口づけした。

唇を腕から脇の下、固い乳房へと這わす。

「ああっ…御主人様…」

私は彼女を抱いた短髪の青年に、その躯を対面座位に引き起こさせると、そのまま私の腰の上に…屹立した男根の上に娘の尻を降ろすよう命じた。

「ご、御主人様なにを?」

「お前は私に縋った…だから特別の慈悲だ。このまま犯しては初物ゆえきついだろう?」

──私ハ死ヌホドキツカッタ──

青年に子宮まで突き入れた男根を膣口まで抜かせた。

指で娘の陰門の辺りをまさぐる。

破瓜の血と精液と愛液が混ざったものをすくい取り、肛門になすりつける。

娘の脚は青年の腕によってしっかりと抱え込まれ、大きく割広げられ逃げることができない。

「お、お許しくださいませっ!」

そのまま娘の細腰を掴み、徐々に高まったモノを挿入していく。

「ヒイッ!お、おゆるし!」

「力を抜け、少しは楽だ」

「いやあああーっ!」

だが娘は狂ったように頭を打ち振り青年の胸にぶつけた。

「暴れるな!裂けるぞ」

使い物にならなくなれば喰い殺す──その耳元で姿無き声が囁いた。

「ひぅ、ぐっ…」

娘は恐怖で青年にしがみついた。

抱きつかれて我慢しきれなくなった青年は再び蜜壺深くおのれを進める。

「ぎゃあああーっ」

一枚の膜を隔てて青年の男根と私のモノが擦れる。

膣裡でさらに大きく硬く勃ち上がるのが分かる。

娘の肩越しに青年の視線が絡みつく。

抗しきれなくなって、一気に突き入れた。

たまらぬ…この悦楽はモノの本には書かれていなかった。

処女を散らされ肛門を犯され…あっという間に肌がしっとりと潤みを帯びてくる。

こうでなくては…美しい文言は描けない。

この娘も気に入った──私は身を起こし背後から娘を抱くと耳元に囁いた。

「泣くな、お前は私の物。もはや飢えることも戦に巻き込まれる事もない。生涯私に仕えよ…」

返事をせぬか──反対の耳元で使い魔が脅す。

「は、はい…御…主人様…うれしゅう…ございます…」息も絶え絶えに娘はやっと答えた。

そうだ…主人の寵愛を得ればどれ程素晴らしいかを教えてやろう。

私が刻む呪文を浴びれば不老不死となり夢の世界で暮らせる─と。

不老不死…それはどんな高位の神官、王侯貴族が求めても得られぬこの世の至宝。

あのような使い魔を操る御方なら、まこと不老不死の方を施してくださるやもしれぬ─

彼らのように売買される卑賤の身分の者達は生まれた時から飢餓と絶望に苛まれ、奴隷商人の気まぐれでいつ誅されるか分からぬ死の恐怖を植え付けられていたから、再び他者に売り払われまいと主の寵を得るために互いに争った。

いや、私の意に背けば使い魔の餌にされるとでも思ったのだろう。

事実、彼らの前で銀の髪の女を焼き殺し、処女を散らせたばかりの娘を一人引き裂いてしまったのだから。

あの銀髪の女はあろうことか膝裏を抱え脚を大きく割り広げて自らの指でくつろげた膣を奥まで晒し、私の男根を導こうとした。

私の子でも為せば女王に成れるとでも思ったか…

「お情けを…御主人様…子種をくださいませ」

ああ、おぞましい…赤子を産む穴が赤い魚卵のようにぬらぬらと濡れ光っている。

私の躯はあまりの気色悪さに凍り付いた。

「ああ、せつのうございます…これ、このように躯が燃えて…」

焦れた女の手にやんわりと握られた男根が赤黒いラビアに触れた。

その瞬間私の怒気が頂点に達した。

「無礼者!」手のひらに怒りの“気”が凝った。

その雷を握ると濡れそぼった女陰に拳を突き入れ子宮で爆発させた。

女は悲鳴を上げる暇もなく白い炎に包まれ焼けこげた死体となって転がった。

残った者達は恐慌を起こし我先に床に這い蹲り慈悲を乞うた。

これでよい─何時如何なる時でも、私は崇められねばならぬ。

もう一人の娘は情感の発達が早かった。

最初から破瓜の痛みより快楽の方が勝っていたようだ。

包皮を剥かれ花芯に加えられる愛撫を知ってからは誰にでもその強烈な刺激を求めた。

私が最も寵愛したのはあの金の巻き毛の青年だった。

私の腰を背後から抱いた青年が立ったままの娘のラビアを広げ舌で愛撫していた。

太腿をたらたらと愛液が滴る。

「ああ、いい!」立っていられなくなった娘は股を開いたまま座り込んだ。

「ご主人様、御嬲りを…」

あろう事か、登りつめて理性が麻痺した娘はその股間を私の口に押しつけてきた。

濃厚な臭気が顔に張り付いた。

汚らわしい!

私は指を女陰にかけ、バリバリと引き裂いた。

どろりと子宮が…腸がこぼれて垂れ下がる。

恐怖で引きつった彼らは何で二人の“おんな”が処刑されたのか、この時やっと理解した。

この御方は陰門が苦手─まともに“おんな”と交わる事ができない…

その通りだ。

まだ、ぐびぐびと痙攣を繰り返す娘の躯を床に蹴り落とした。

錆びた鉄臭に臭気が混じる。

ああ、生臭い…

あの女…ヤスミナと同じだ。

性奴であろうが女王であろうが…どの女も一度快楽を知れば、さらなる快楽を得るためにどのような淫らな行為でも受け入れる。

相手が流れ者の蛮人でも、忌まわしい魔王でも──淫乱な躯を満たしてくれるなら誰でもいいのだ。

そして快楽(けらく)の果てに出来た子供をこの世に産み捨てる。

昆虫を─動植物を見るがいい…生殖行為に快楽は要らない。

およそ“女王”が臣民に見せる慈愛の眼差しより勝ったモノを私は“母親”から注がれたことがない。

ヤスミナに“母性”は無い、有るのは“おんな”の権力欲と肉欲、容姿の誇示と周囲から注がれる羨望への執着…。

みだらな…“女王”とは名ばかり、なんと賎しい品性か。

“母と呼んで欲しい”などと──よくも言えたものだ。

だから私は子宮を持つ女という女を憎み蔑む。

逆鱗に触れた奴隷の末路を見た者達は一層従順になった。

彼らはどこにいても私の姿を見ると我先に衣を脱ぎ捨て淫らな姿態で躯を開いた。

私が飽きるまで相手を変えて何度も睦み合わせる。

黒睡蓮の香りを一層きつく濃くさせた──これで眠りも餓えも関係なく幾日でも幾晩でもひたすら性交を繰り返すようになる。

尖塔中に淫靡な気配が満ちても師の君は私に何もおっしゃらなかった。

やがて眼前で昼夜分かたず繰り広げられる陵辱の饗宴に飽きた私は、最初の目的である生きた蔵書作りを始めた。

私に抱かれ快楽(けらく)のうちに瘢痕を浮かせ、引くことのない絶頂の波にのたうち回る。

その様子を残りの者達に自慰をさせながら眺めさせる。

少しづつ肌を覆っていく瘢痕、繰り返される情交─余すところなく瘢痕が完成した者から約束通り地下窟で永遠の生命と安らぎを与えた。

そして最後にあの青年が完成した時には予定通り地下窟に忘我樹(ユーバス)の林が出来ていた。

彼をその中央に置いた。

私が最も愛した証として…

「シェーラ!」

ハッとした時にはブリサニア女の手でベールが剥ぎ取られていた。

“大鎚亭”がどよめいた。

なんという美しさ─

世の中にこれ程の美貌を持つ男がいるとは─

あのふっくらとした紅唇に逸物を突っ込んで、思い切り嬲ってやりたい…

ザモラの顔役達がにじり寄る。

普段同性には全く興味のない、むしろそれを嫌悪していた男達まで賞賛の眼差しを送る。

いや賞賛ではない、彼らは欲情していた──キトンを透いて浮かび上がる胸乳から引き締まった腰、ほっそりとした臀部─引き毟って押し倒したい衝動にかられる。

ああ、欲しい…あんな綺麗な顔の男の口づけを受けながら貫かれたら…女達は荒い息を吐きながら腰布の下に手を入れ指でまさぐっていた。

「どうした、ぼさっとして?」

キンメリア語で問いかけながら、眼前にある美の結晶に呆然となった娼婦の手からベールをひったくった。

シェラムがばらまいた麻薬が店中に充満し、吸い込んだ客達に淫靡な雰囲気を齎(もたら)していた。

謎の男娼の姿を見たことで性欲に火が点いてしまったのだ。

もし弟を腕尽くで強姦しようなどという“死にたい奴ら”が出てきたら、お望み通り一瞬であの世へ送ってやる。

段平の鐔を弛める。

だがここであまり騒ぎを大きくするのはまずい。

アイーシャの仇の足取りはまだ一つも得られていない。

シェラムは兄が差し出したベールを押し返した。

「一人づつ意識を探るなんて、埒が明かなくてイライラしてたんだけど、うまくいくかもね…」

「なんだと?」

「見てごらんよ、ガイ。こいつら、自分から私に意識を繋いできてるんだ。まとめて読み取る絶好の機会だよ」

シェラムは飲みかけの麦酒に指を浸すと兄の周りの床に“呪”を唱えながら記号とも文字ともつかぬモノを書いた。

麦酒の水滴は床板に染み込みも乾きもせずに、描かれた形のままそこにあった。

「何が起きてもその中から出ちゃだめだよ、それから…」

ラカモンの環を嵌めた中指を指す。

「その指輪、反対の手で覆っていて」

「何をする気だ?」

「淫魔を召還するのさ。こいつら私を欲してるから一人二人なら精気を吸いがてら相手してやってもいいんだけど──好みの容姿がいないんだよね。それに弟が男を咥え込んでる様なんて見たくないでしょ?」

「あたりまえだ!弟だろうが誰だろうが他人の情事を眺めるなんて願い下げだ。お前のその…」

痴態はあのコーシェミッシュの竪穴だけでお断りだ──と言いかけて続く言葉を呑み込んだ。

さっき思い出した淫靡な光景に続く記憶。

あの時揺らめく燭台を手に妖木の根方から起きあがった弟の下腹部と臀部には、はっきりと情交の跡があった。

だが、本人に自覚がある分、まだマシか…

シェラムは客達の粘り着く視線を浴びながら店の真ん中に立った。

顔役のうち最も力のある親分がこちらへ来いと手招きをする。

そのキトンを脱げと身振りで伝える。

シェラムは艶然と微笑んだ。

その顔に再び仮面が張り付いている。

肩で身頃を繋いでいたフィビュール(留め金)を外す。

はらりと左肩がはだけた。

桜色の乳首が屹立する胸乳からくびれた腰まで顕わになり、ドレープの重さに引かれてそのまま脚下にずり落ちる。

おお!

客達がどよめいた。

少年は恥ずかしそうに身を捩ると腰まで波打つ髪で陰部を覆った。

すると今度は背中から臀部にかけての線が顕わになった。

なんと艶めかしい…

一番近くに陣取っていたザモラ人がいきなり抱きついた。

「いいだろ?やらせろよ」

「嫌、放して!」

抗う相手を床に押し倒した。

胸の突起に舌を這わす──吸い付くような肌だ。

「や…めて…」

這って逃げようとした躯を押さえ込み腰を抱えた。

「生きてここから出たきゃ、言う事ききな!」

肛門に指を這わせて柔々と揉みほぐすと少年は自分から腰を高く掲げ、グラインドさせた。

「あ、あん…」

「た、たまらねえ!」

すでに先走りの液にまみれた男根を取り出すと一気に貫いた。

「し、閉まるぅ〜」

二、三度抽送を繰り返すと我慢できずに射精した。

親分より先に味見するなど、いつもの“大鎚亭”では絶対にありえない。

この男は今夜にも見せしめに店の前に首に縄を掛けられ吊されるだろう。

だがその親分はすでに自分の逸物を引きずってきた少年の口に押し込んでいた。

喉元まで突き立てられた美しい顔が苦しそうに歪んでいる。

「歯をたてるんじゃねえぞ」

黒髪を掴んで揺さぶる。

「おお!」

カリ首に舌が絡んだ。

髪を掴んだ手を放す。

恥じらって経験が浅いように見せているが、こいつはなかなかの手練れだ。

それにこの美貌…こいつの紅い唇が俺を咥えてると思うだけで達きそうになる。

腰が抜けるほど可愛がってやるぜ…

顔を隠す髪を掻き上げて自分のモノを深く咥え込みしゃぶる唇を見つめる。

「目ぇ開けて、俺を見ろ」

上目遣いをした少年は片手で陰嚢を揉みながら、もう片方の手で口から出した男根を捧げ持ち鈴口にちろちろと舌先を這わした。

「お、おめえは…」

ねっとりと舌を絡みつかせながら唇をすぼめ激しく上下に抜き差しする。

「うっ…ぐぅふう…」

堪らず親分は少年の口喉内に精を放った。

隣で親分の情婦は転がした少年の男根をしゃぶっていた。

身悶える躯を押し鬱ぎ舌と唇、指を使って屹立させる。

掴んだまま上に跨り、躯を繋ぐ。

「ああ、いい!」

のけぞって蠢く躯に覆い被さり、唇を奪う。

白皙の美貌が歪む。

こんな綺麗な子を、犯してる─

一度浮かせた腰をさらに深く落とす。

「硬い!大きい!」

裡で少年の男根が暴れている。

「ああ、突いてーっ!もっとぉ!」

腰を打ち振った。

その脳裏に何故かぼんやりと毛糸のショールが浮かんだ。

夫が仕切る盗品市でつい最近購ったものだ。

「この男はいた?」

いつしか正上位になった少年が目を覗き込んでいた。

…この男?

ぼやけていたバザールの情景が段々とはっきり見えてくる。

…この男…は…駱駝から…荷駄を…降ろしていた…

「一緒にいた男達の顔をもっとはっきり思い出して」

少年が腰を引いた。

「あ、いや…抜かないで…」

女はいやいやをしながら濡れそぼった陰部を擦りつける。

「思い出して…そしたら達かせてあげる…」

「ああ、ほんと…」

「うん、ほらこうしてほしいでしょ?」

少年の指が陰核を弾いた。

「あひいいい!」

「思い出してくれたら奥まで挿れてあげる…それとも後ろからの方がいい?」

「あなたの好きにして!思い出すから、ちゃんと思い出すからぁ」

と、言うことは─

酒場の真ん中で半眼のまま立ちつくすシェラムは隣でヌラヌラとした固まり相手に腰を踊らせている全裸の親分に目を移した。

脱いだはずのキトンは乱れもなく、さらに肩から返されたベールを羽織っている。

奴らの素性に一番詳しいのはバザールを仕切っているこの男のはずだ。

辺りでのたうち回っている連中を避けながら側に寄る。

親分は蛙の卵のようにぶよぶよと形を変える固まりに抱きついて喘いでいる。

床板に零れた夥しい精液がその情交のすさまじさを物語る。

シェラムは灯明を浴びてぎらつく油膜のような色をした固まりにあの紅の爪を入れた。

ぐにゅう─

固まりから触手が伸びると、涎を垂らして喘ぐ男の口に入った。

「ああ、ああ、ああ…」

男は再びかくかくと腰を揺らした。

男に組み敷かれて少年が泣き叫んでいた。

躯を折り曲げられ浮いた腰に男の男根が突き立っている。

もう何度射精したかわからない。

絶妙な締め付けだった。

放つたびに腰が抜けるかと思う。

甘美な痺れと陶酔が躯を支配していた。

少年が許しを請うように腕を伸ばし顔を引き付けた。

そのまま髭に隠れた唇に頬を擦り寄せ口づけをねだる仕草を繰り返す。

か、可愛いじゃねえか─

喘ぎながら自分の精で汚れきった唇を舐め回す。

焦れたように舌が差し込まれた。

口中をじっくりと這い回る。

「うっふ…」

達、達く!

男は少年の膝裏に手を掛け、裂けるまで広げて更に奥まで男根で穿った。

首に回された少年の腕がきつく締まった。

互いに舌は差し挿れたままだ。

男の血走った目に身悶えていたはずの少年の…漆黒の瞳が映った。

いや、その左眼は─

“この男達は盗品市の常連か?”

どの…男…?

バザールを仕切る自分に挨拶してくる盗賊はごまんといる。

入れ替わり立ち替わり現れる奴らを一々覚えてはいられない。

「思い出して…旦那様…」

少年の舌が唇をなぞる。

首筋を這い回る。

ああ、また蠢いて俺を締め付けやがる。

「可愛がってくださるんでしょう…もっと…思い出してくださったら…ずっとお側におりますからぁ…」

頭の中に何か入ってくる…

だが陶酔で麻痺した躯にはそれすらも快感となる。

ああ、思い出したぞ─こいつらはコリンシアからコスにかけての砂漠を縄張りにしている─

“塒(ねぐら)はどこだ?”

そこまでは──

“ちっ!”

シェラムは小指を抜いた。

「ガイ」

眼前に繰り広げられる狂態に眉根を寄せて耐えている兄の元へ戻った。

床板の隙間からどろどろと現れて人間に巻き付いていく半透明な固まり。

それらが狂ったように衣服をかなぐり捨てた人々を犯す様をずっと見ていた。

いや目を瞑っていても絶頂を告げる悲鳴、みだらな嬌声に喘ぎ声、躯を打ちつけるたびに上がる淫靡な水音、まき散らされる精液と滴る愛液と汗の混じり合った臭気が人一倍敏感な蛮人の聴覚と嗅覚を刺激した。

「吐き気がする…」

口元を押さえ弟を睨みつけた。

もう少しだから我慢して…左の中指をかして」

「いいのか押さえていなくて?」

「もう終わりだから、何とかなるよ」

鈍く光る青い指輪が現れた。

その指先にシェラムの紅の小指が触れる。

「う…」

ガイが呻いた。

頭の中に男達の姿が映し出される。

「こいつらだよ。バザールには不定期だけどちょくちょく顔を出すって。コリンシアからコスの砂漠を行き来してるんだって。でも塒(ねぐら)は何処かまでは分からないんだ」

「次ぎにこいつらが現れる可能性はあるのか?あるなら何時か聞いてみろ」

「わかった」

男の元へ戻ると再び油膜に小指を埋め込む。

「ぐうぇ」

男が白目を剥いた。

それでもまだ固まりに腰を打ち付けている。

「うう…」

男が放った僅かな精液には血が混じっていた。

「さてと聞きたいことは聞けたし、そろそろ終わりにしようかな。こいつら気が狂われてもやっかいだし、それに…」

壁の隅に黒々とした穴が空いている。

それは徐々に大きくなっていた。

「ラカモンの環ってホント凄いよね…一瞬でこれだもの」

─それを扱えるあの二人…父上とガイの精神力は半端じゃない。

ちらと向こうを見る。

そのガイもきれかけてるし…早く淫魔を退戻(たいれい)させなくちゃ…

床一杯に身悶える人々が一つずつ抱きつく半透明な固まり。

その油膜の固まりに念を送った。

十分に精を吸った淫魔は散々嬲った餌から巻き付いた触手を外し、ズルズルとシェラムの元へ集まり始めた。

見る間に一つの巨大な固まりに成って蠢く。

正体無く床に突っ伏した群れの中からあのブリサニアの娼婦を引っ張り出した。

「さあ、連れて行け。ラカモンの環で空いた地獄の穴への生贄だ」

女を固まりに向かって投げた。

ぶよぶよと沈み込んでいく。

女が目を覚ました。

だが悲鳴を上げる前に躯の全てが呑み込まれ…女を裡に入れたまま壁の穴に向かって這っていく。

「お前は私のガイを誘惑した、さらに私にも秋波を送った。絶対に許さない。淫獄の中で朽ち果てるがいい!それがお前にふさわしい」

呑まれたまま暴れる女と共に淫魔は闇に姿を消した。

一瞬の揺らめきのあと、そこには壁があるだけだった。


遠い昔に栄えたとされる淫祠は、その贄を供ずる儀式の残酷さから今でも畏怖の対象として時折、人々の会話にのぼる。

邪神ハヌマンを筆頭に生贄の血で彩られた神殿に置かれた異端の神々の像…その中に愛と生殖の神と呼ばれた雌雄同体のリンガ神像があった。

その“リンガ神の化身”が“大鎚亭”に現れたという噂は瞬く間に広まった。

噂に尾ひれはつきものだが、ザモラの暗黒街を支配する顔役達を一遍に籠絡した美貌の男娼だという。

少なくともシャディザール一帯はその噂で持ちきりだった。

“情婦達は妬っかむどころか、逆にベタ惚れで機嫌をとるのに必死だそうだ”

“と言うことは連中、自分の情婦が情夫に抱かれるのを許しているという事か?”

“あの悪党…悪党の中の悪党共が?”

“一度拝んでみてえもんだ、その男娼”

通りを行き交う小悪党達は声を潜めて“大鎚亭”を仰いだ。

“大鎚亭”の奥に急遽しつらえられた部屋でシェラムは溜息をかみ殺した。

急造りといっても盗賊の大親分の指揮のもとザモラ王の後宮なみの調度品で飾られている。

年代物の葡萄酒が甕ごと置かれ、顔役の情婦達が透ける腰布一枚でかいがいしく世話をやいている。

「何か食べたい物はある?」

「こんなキトンよりもっと織りの素晴らしい物をあげるわ」

そう言いながら彼女たちは香水にむせかえる躯を押しつけてくる。

ああ、もうこの“おんな臭さ”には耐えられない…

だが、厚化粧の女達に向かって“リンガの化身”は艶めかしく微笑む。

「…次のバザールがきたら何か買ってくださいますか?」

「何でも買ってあげるわ!」

「気に入った物がなかったら取り寄せる事だってできるのよ」

張り付いた笑顔に真っ赤に塗られた唇が寄せられる。

口づけを迫られた少年は黙ってその唇を吸った。

そうそう麻薬も淫魔も使えない。

いや使えるが──“これ以上騒ぎをおこすな!肝心の仇に逃げられたらどうする”

ガイに釘を刺されている。

その兄はアイーシャと一諸に町はずれの安宿で次のバザールを待っている。

そのバザールに仇が来るかどうか──探るためにこの役を引き受けた。

自分でも馬鹿だと思う。

ガイは“お前の力なら外からでも分かる、これ以上ここに居る必要はない”と言ってくれたのに。

何をムキになっていたのか?

分かっている。

あの淫魔を操る私を見る兄の──最も蔑まれたくない相手からの嫌悪に満ちた視線だ。

コーシェミッシュでは平気だったのに…

思い出すとヨトガとの情交の跡を残す裸体を晒した事まで疎ましい。

ガイ…助けて…

あの腐れた穴を舐めねばならない。

躯を交じえねばならない。

このままこの女達の相手をしたあと、今夜も別の男に抱かれねばならない。

朝方、男の腕の中で眠る自分…あまりの惨めさに涙が出る。

本当の男娼に墜ちた気がする。

だが私は契約したのだ。

魔道士としてアイーシャと。

魔道士─

そう、こいつらの精を吸い尽くしてやればいい──私は魔道士なのだから。

仇が現れるまでの我慢…そう言い聞かせて魔道士は今夜も、リンガ神のペルソナ(仮面)を被った。

第3章   完


あとがき

はいっ!と言うわけで♂×♀・♂×♂篇でございます。(どんな訳?)

しかも今回は途中で「ぶち切れか?」と言われても仕方有りません。

だって一つの章、これ以上長くできないもん。

だから続きます、第4章に(爆)

実はGacktサイトで知り合った方(もともとはオリジナルの方らしい)から「私はゲームから入ったので魔道士でなく魔導士です」と言われました。

ああ、そうなんだ。考えてもみませんでした。

言われてみれば確かにグァナ・ディールの二次創作ノベル(勿論RX指定)は“魔導士”ですねえ。

でも、これ突っ込まれると弱い。

だって創元推理版・宇野利泰氏訳では“魔道士”って表記ないんだもの。

魔術師、呪術師、魔法使と訳されていますので、あしからず。(でもなんか響きがかっこよくない?魔道士って!)

私はガイ&シェラム兄弟が活躍(?)する舞台には、なるべくコナンが訪れた場所を再訪するようにしています。(城壁とかオアシスとか)

で、今回も大槌亭を出したんですが、これも創元推理版では名もない只の悪党のたまり場になっています。

もう中核はハヤカワ版と決めて国名や人物の固有名詞は全部ハヤカワにしているんですが、少しは創元のテイストも入れたい(創元しか載っていない話もありますし)んですが、こういう感じだと無理かなあ〜。

あとコナンという単純明快・現実主義の野蛮人という設定(ホントはそれだけじゃありませんけど…)の息子二人がこんなに複雑・繊細・微弱なのはどうなんだ〜!って言われちゃうと、小さい声で「だって二次創作だもん」と言うしかありません。

まあ、そんなこんなで御意見ございましたらまたお送りくださいませ。

書・U・記/拝

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