第5章 武神覚醒

月の輝く砂漠に蹄の跡が続いている。

銀の砂を巻き上げて二頭の馬は全力で北に向かっていた。

「まったく…やっかいな事を」鞍前に抱いたアイーシャに引いた手綱が当たらぬよう気にしながらガイは隣を見た。

「ごめん、やりすぎちゃったね…なんかエキドナの記憶を読んでいたら腹が立ってきちゃって…」

再び馬…に近い姿に戻ったヒドラの背でシェラムは肩を落とした。

何であんなに苛ついていたのか――破壊の衝動を抑えることができなかった。

“狂え!みんな狂って滅びてしまえ”…残酷なモノが支配していた。

ガイが…いなかったから?

まさか、それならこの十年は?…彼とはずっと離れ離れだったではないか。

――ダカラ狂ッテイタ――

ラメルと衛士達から得た情報は“大槌亭”の連中のそれより増大で詳細だった。

実際に盗賊達と遣り合っている軍人の記憶を直接読みとったのだから当然と言えば当然だ。

盗品市しか交流のない親分達とでは比べるべくもない。

「目の付け所はよかったさ」ガイの慰めにシェラムの顔が輝いた。

「そうでしょ?だって相手が三十人以上いるなんて知らずにアイーシャを連れて突っ込んだら、さすがのガイでも大変だよね?」立ち直りが早い…。

「さ、三十人以上もいるのですか?」

アイーシャが顔を向けた。

「えっ?お前…キンメリア語が解るの?」

「…時間があったから教えた…」今度はガイが肩をすくめた。

「ふうん…」シェラムの声が華やいだ。

「大丈夫だよ、ガイが責任もって仇討ちさせてくれるから」にっこりと笑いかける。

くそっ、調子に乗りやがって!俺が助けなきゃどうなっていたか、こいつ判ってんのか?

やっかいな事は全部こっちに押しつける。

…子供の面倒を見ている姿をシェバ達が見たら卒倒するだろうな。

だが──

アキロニアで待つ人々の顔が胸をよぎる。

仕方ないさ、シェーラをこの世に引き戻したのは俺だ。

タランティア宮を発つ時、自らに誓ったのだから。

弟を連れ戻す…と。

「とにかく急げ、奴らより先に討ち取らないと…それに例の酒場の連中も皆殺しにされちまうぞ」

ガイは愛馬に鞭を当てた。

みるみる引き離される。

「“大槌亭”か…まあ、みんな殺られても私は構わないんだけど、大親分はエキドナの店の後見だからね。一応助けに行こうかな…そういう訳で、ご苦労だけど急いでくれる」

銀の鬣(たてがみ)を軽く引いて尖った耳に囁く。

ヒドラは首を上げると一息で黒駒に追いついた。


ザモラの警邏隊が砂漠地帯を取り締まっている間、盗賊団はコスに逃げてオフルやアルゴス国境付近を行き来するキャラバンや遊牧民を襲撃した。

そして警邏隊が領内に引き上げると、その情報を齎(もたら)してくれた元締めが仕切るバザールで盗品を金に換えるためザモラ国境まで戻ってくる。

次の満月まで後三日…満月の夜が明けた朝から市がたつ。

国境沿いの北のオアシス近くに警邏隊を逃れていた盗賊達が次々に戦利品を抱え集っていた。

「ああ、アイーシャを刺した男がいる…間違いないね」

腹這いになったシェラムは前で蹲るガイに向かって囁いた。

重なり合う木陰が月の光を遮る。

そこからは逆に煌々とした月明かりに照らされて動き回る男達の姿がよく見えた。

茂みの後方にアイーシャを待機させ二人は敵前視察に出ている。

「おい、どこが三十人だ…あの後ろの砂丘まで天幕の灯りが続いてる…百人近いじゃねえか」

「あそこにいた衛士の記憶だと三十人位だったんだよ…まさか警邏隊全員の頭の中を探る訳にもいかないでしょ」

「…アイーシャには悟られるな、三十人だと思わせておけ」

それに何と言っても敵は砂漠の戦いを得意とする連中だ。

どう作戦を立ててのぞむか…ガイの蒼瞳が光る。

「どうするの、仇以外はまとめて殺(や)っちゃうのが早いよね?ヒドラに焼き殺させようか?」

アイーシャに本懐を遂げさせるには、それが最上の方法だ。

だが…シェラムを太陽神の化身と崇めているアイーシャに陰惨な魔術を駆使する姿を見せたくない。

「お前、魔道士じゃなくて剣士として助太刀してやれないか?」

「この格好で?」

一応アイーシャの彎刀を錬成した折に余った鋼でしつらえた長刀を背に負ってはいるが…剣士として参戦するつもりは毛頭無い。

オレンジのベールの下は生成の木綿ローブ一枚だ。

足もとは銀のサンダルを脱げないように革紐で膝下まで縛ってはいるが、素足に近い。

戦うなど問題外、およそ砂漠を行くスタイルとしても異様な軽装だ。

一方のガイは遮光布の頭巾の下には鉢鋼を被り、全身にしっかりと鎖帷子を着込んでいる。

その上から鞣し革の胴衣と脚通しを履き、鋼鉄の手っ甲と膝上まで鋲撲ちされた長革沓で四肢を固めていた。

「少しでも早く決着つけないとまずいんじゃないの?だったら術を使うのが一番手っ取り早いよ」

「確かにそうだが…この戦いの目的はなんだ?」

「アイーシャの仇討ち」即座に魔道士は答える。

「術で仇を討っても仕方ない」剣の師匠として弟子には武術で戦ってほしい。

「えー?何で?皆殺しにするんだから同じでしょ」

「それは…」ガイも彼らを逃がすつもりはなかった。

直接アイーシャの親殺しに関わっていない奴らでも仲間である以上、一人も生かしておく気はない。

兄がこう言い出すであろう事は、今は瓦礫と化した隊長本邸の広間に忍んでいた時から予想していた。

「前に空を飛んだ時、子供の前で呪法を乱用するな…って注意したよね。あの時も言ったけど今更じゃないの?」

確かに同じ問答が繰り返されている。

「どっちにしてもアイーシャは初めて人を殺す。目の前に死人の山ができる…残酷な体験は術を使おうが剣を振るおうが同じなんだよ」

そして再び押し切られる。

だが、どうしても人外の技を振るう弟を見たくない。

コーシェミッシュの地下牢で再会した姿に戻ってほしくない。

目を閉じた兄の背にしなやかな躯が押しつけられた。

「この間ガイが助けに来てくれた時にわかったんだ…呪術や使い魔を操る私を仕方がないっていう顔で見てるけど心の底では納得していない…ガイは私が魔道士になったのを自分の所為だって思ってる、そして十年前の自分を責めている」

「シェーラ、お前…」

振り向いた。

「淫魔を召還した時はガイの視線が痛くて…嫌悪感で軽蔑されたのかと思って自暴自棄になったけど…」

弟の顔はベールに隠れて見えない。

「じゃあ“大槌亭”に残ったのは?」

「御免、ガイを信じられなくて…ガイはこんなに気遣ってくれているのにね…私は甘えすぎてた。だからね私は強くなる。弟は自分から魔道士の道を選んだって納得させてみせる」

心なしかベールの下からの声が震えている。

全く、この野郎…またこっちの胸を熱くさせやがって…キンメリアの男は人前で泣けねえんだ…

「弟なんだから甘えていいじゃねえか」

兄はまた背を向けた。

「ガイの言う通りにするよ。防御の魔法陣しか使わない…アイーシャも守ってやれるし」

シェラムはベールを脱いで兄の横に膝立ちのままにじり寄った。

月に手をかざす──偉大なるエペミトレウスよ、あなたの御言葉が少し解った気がします──

「いや、砂嵐くらいは起こしてくれ」ガイは段平を抜き柄に革紐を巻いた。

「アイーシャを連れてこい、あいつの双刀にも巻いてやるから」

「何、それ?」

「柄が血で滑るのを防ぐんだ」

「私のは?」

「自分でやれ」

「えーっ、何だよアイーシャばっかり…」

「お前、もう甘えないんじゃなかったのか?」

「甘えていいって言ったじゃない」

「……………」

睨まれてシェラムは躯を返し葉陰の奥へ入っていった。

再び月を仰ぐ。

強くなりたい…自分の出自を揶揄されるたびに理性を失いエペミトレウスから授かった力を放出してしまうような…あんな情けない様には二度と陥りたくない。

あの時は偶然にもアシュラ僧の懐にアースラ大神の御力を宿すものがあった…クマリの霊体がそれに反応したからあの程度の破壊で治まった。

そうでなければ…シャディザールの都の一つくらい吹き飛ばしていたかもしれない。

そして…またガイの平手打ちが“この世”に引き戻してくれた。

ヨトガの去った夜空に私は誓った、この世のどこかに帰る場所を自分の手で創る…と。

──その為にも…強くなろう。

「白い旦那様!」

足音を聞きつけてアイーシャが茂みから這い出してきた。

顔が引きつっている。

「うん、覚悟は出来てるね」

「はい…」

だが身体の震えは止まらない。

戦いの恐怖が幼い心を支配している。

「アイーシャ、両手を出して…」

差し出された小さな手をシェラムの手が包んだ。

「きゃあ!」

砂漠に散った父、母、叔父、兄の意識が流れ込んでくる。

「うっ…うっ…うえ!」

強烈な嘔吐感に襲われてアイーシャは吐いた

それは魔道士が吸い取った死霊の断末魔の記憶。

「やっ、やだっ…いやだぁ…」

「想いだせ…家族の最後を…お前を庇って倒れた母の顔を…背中に負った遺骨の重さを…」

「ひっ…ぐっ…うう…」

見開いた目から滂沱の涙が落ちる。

「憎め…仇を…家族を殺した者を…お前の躯に刃を突き立てた者を…忘れない痛みを…そうだ…殺らなれば殺やられる…全ての敵を殺すんだ…」

手を離した。

これで初めての殺人は憎悪が手助けしてくれるだろう。

あとは無我夢中…意識が戻った時、戦いは終わっているはずだ。

アイーシャの震えはピタリと止んでいた。


風が起こった。

月が雲間に隠れる。

朝方ヴィラエット海から吹きつける湿った風が雲を作り少しの間、霧の立ちこめる事がある。

だが、真夜中にこんな生暖かい風が吹いてくる事はない。

生まれた時から砂漠で暮らしてきた初老の見張りは訝しげに辺りを見回した。

ポツリ…その顔に雨粒が当たった。

「へ?」旧ツラン国境かオフル辺りまで出向かねば雨など降ることはない。

オアシスの木陰で雨宿りをしようと、見張りの男達は次々に持ち場を離れた。

乾いた砂が水を吸って重くなり思うように歩けない。

雨でカンテラの灯が消えた。

彼らが寝泊まりする天幕は砂を避ける為だけにある。

荒い麻織りで風を通しやすく編まれている。

吹き付ける風に抗して立てれば天幕ごと吹き飛ばされてしまうからだ。

みるみる空を覆い尽くした黒雲から、その天幕めがけて大粒の雨が降ってきた。

「うああ」麻織りから水が染み込み、眠っていた者達が慌てて起き出した。

深夜の嵐、外は真っ暗だ。

見張りは誰もいない。

松明も篝火も消え、びゅうびゅうと吹き付ける風が顔面に雨を叩きつける。

砂漠の狼と異名をとった盗賊団も生まれて初めての事態に恐慌に陥った。

すぐそこのオアシスへ辿り着こうと誰もが思う。

だがその位置が解らない。

横殴りの雨から両腕で顔を庇い、何とか闇を透かして見る。

黒い葉陰が揺れて、ザワザワと鳴っている。

“あっちだ”…何人かの男達がオアシスに向かい足を踏み出す。

辺りを窺っていた者達がそれに続く。

葉陰の音が大きくなった。

もう少しだ──

先に逃げた見張りの男達が座り込んでいる。

「おい、お前ら」

邪魔だ…と肩に手をかけると彼らの躯はぐらりと傾いで黒い砂に沈んだ。

雨の匂いに交じって血の臭いが辺りに満ちた。

「うわ!死んでる!」

その途端目指すオアシスから一際強い風が吹きつけた。

バタバタと男達が倒れる。

その身体には何本もの矢が刺さっていた。

「に、逃げろ!オアシスの中に敵がいる!」

咄嗟に腰に手挟んだ短刀(ナイフ)を抜いた。

だがこれは武器ではない。

枝を削いだり、縄を切ったり、獣をばらしたり…それでも無いよりましだ。

天幕に置き忘れた得物を取りに戻りたい──が、彼らが着ている遮光布で作った長衣や外套は雨を弾かない、逆に水を吸うとずっしりと重くなる。

勝手知ったる砂漠で全く身動きが取れない。

その時、風に乗って馬の嘶きが聞こえた。

「そうだ、馬だ…馬で逃げよう」

よろよろと馬と駱駝を繋いだ方へ歩き出す。

稲妻が光った。

閃光に灰色の馬影が浮かび上がる。

馬上にぐっしょりと水が滴るオレンジの布が見えた。

キラリと光る長刀が一閃した。

暴風雨と雷で怯えきった馬と駱駝は縄が斬られたのがわかると全速力で勝手な方向へ逃げ去った。

「て、めえ!」

眼前で砂漠の命綱を逃がされて盗賊達は猛り狂った。

得物は持っていても若造一人だ。

いや、女かもしれない。

馬から引きずり降ろして長刀を奪い、絞め殺してやる。

「おい、周りを囲め!」

仲間に合図を送る。

再び稲妻がバリバリと黒雲を裂く。

掴み掛かろうとした馬の濡れそぼった鬣の間から金色の眼がギロリと光る。

こちらを睨む爬虫類(うろこつき)の目…

「ば、化けモンだ!」

浮き足だった男達の背後に雷鳴と共に聞き慣れぬ言葉が響いた。

「ヒドラ!踏み殺せ!」ステイジア語の命令が奇妙な馬の耳に届く。

後ろ脚の鱗を雨に輝かせて立ち上がった火竜(サラマンダー)は振り上げた前脚で逃げる男の背骨を叩き折った。

ヒラリとオレンジの人影が地に降りた。

コリンシアの方向に逃げ出した一団を追う。

逃げ出す奴らは大した使い手ではない。
“腕に自信がある者は踏みとどまって戦うだろう、雑魚はお前に任せる──だから一人も逃がすな!”

ガイから何度も念を押された。

理屈はそうだが襲われれば雑魚でも必死で刃向かってくる。

砂漠の外に逃げる連中の全てを自分だけ…とヒドラに任せるなんて…しかも魔を召還して喰わせたり、煉獄に吹き飛ばしたりといった呪法は自ら封印してしまった。

ガイの方は“腕に自信の連中”を一手に引き受けて、しかもアイーシャを庇いながら戦っている。

仲間の元に戻られるとガイの負担が増す──こいつらは此処で始末しないと。

ガイの期待に応えたい。

ベールを跳ね上げ長刀の鞘を払いながら走る。

追っ手は一人──それも男娼まがいの身なりをした優男とふんだ男達は逃げるのを止めた。

短刀を抜いた相手に前後を挟まれた。

腰を鎮め、長刀を下段に構える。

「うわああああ」気配は先に背後から襲ってきた。

下から上に薙ぎ払う。

胴が二つに切れた。

隙を突いて前の男が突進してきた。

飛びのきざまに振り下ろす。

脳天から頭骨を割って長刀の刃が真っ直ぐに吸い込まれる。

青く光る刃に滴る血はすぐに雨で洗われる。

「ぎゃあああ」

叫び声に振り返った男達の眼に仲間の生首を咥えた馬が別の仲間の頭を踏みつぶす光景が映った。

「た、助けてくれ!」

シェラムを取り囲んでいた男達が我先に逃げ出した。

その背後で長刀が唸る。

雨で張り付いたベールの下で滾る血が躍動している。

タランティア宮で叩き込まれた剣技は十年たっても躯が覚えていた。

毎年アヨドーヤから送られてくる進物の中で唯一送り返さずに手元に置いたもの…それが東国独特の片刃の長刀だった。

“お前は東の民だから長刀が使えなければ駄目だ”──ベンダーヤの北でアフグウリの族長ゴールのコナンとしてならした父はあらゆる武器に長けていた。

政務に忙しい間を縫って息子を鍛えた。

蛮族コナンは幼児とて手を抜かない。

いや、自らの血を継ぐキンメリアの子と見なしているから一層厳しく鍛え上げる。

毎日休みなく続く剣の修行は辛く苦しかった。

“長刀を自在に扱う剣士は西にはいない、これだけ仕えればお前ちょっとした手練れになれるぜ”

ガイは身体中痣だらけで痛がる私の腕を褒めて、やる気を起こしてくれた。

だから何度叩き伏せられても気を失うまで掛かっていった。

──お前、魔道士じゃなくて剣士として助太刀してやれないか?──

ガイは解っていたんだ…私の腕がまだ剣士として鈍っていない事を。


続けざまに矢を放ち、キラットを脱ぎ捨てた。

鞣し革が雨を弾く。

「アイーシャ!」傍らで双刀を抜いた子供は赤い外套を脱ぎ木綿の服の上から油紙を巻いている。

忘我樹(ユーバス)の林の根本に横たわっていた稚児達と年の頃は変わらない…アイーシャの身支度を調えたのは地下洞の創造主シェラム自身だった。

「行くぞ、離れるな!」

オアシスを飛び出し一気に駆け下る。

目晦(めくらま)しの暴風雨で敵が二人――それも一人は年端も行かぬ子供だと悟られる前に手誰と思しき体躯の者達をできる限り始末しておく。

シェラムが警邏隊から読み取った情報では彼らは三つの派に分かれていて、それぞれに頭目がいるという事だった。

こうしてバザール前に合流した時は合議で物事を決めている。

もし一人がやられてもあとの二人が盗賊団を率いていく。

なかなか合理的だ。

最も今のような不慮の災難に見舞われなければ…だが。

誰も経験した事の無い悪天候の中で夜襲を受け、彼らの統率は混乱した。

三方から出る命令はバラバラで盗賊団は完全に指示系統を麻痺させている。

雨で倒れた天幕の前で、ゴウゴウという嵐に声をかき消されながら怒鳴っている男がいた。

“まず一人はあいつだろう”

倒した敵から奪ったナイフを投げる。

「ぐうあ!」右の太腿に突き立ったナイフを引き抜こうともがく男の正面から段平が振り下ろされた。

「うおお!」剣の鞘を払う間もなく、咄嗟に受ける。

鞘ごとへし折られた剣が横に吹っ飛び、頭の砕かれた頭目の躯が崩れ落ちた。

「ひえええー」

その後ろで、吹き出る血を浴びて悲鳴を上げる男──!

「アイーシャ!見つけたぞ、仇だ!」

紅の小指とラカモンの環を嵌めた指を繋ぐ事により弟の読み取ったアイーシャの記憶を共有できる。

その恐怖に引きつった男の顔は倒れた母親の肩越しに迫る映像と一致した。

「背後(うしろ)は俺が守ってやる、絶対に逃がすな」

小さな影が頷いた。

“ガ、ガキじゃねえか?”

迫ってくる影はあまりに小さい。

頭目を一撃で倒した男は天幕の周りにいた仲間に囲まれ段平を振るっている。

“ちっ、生意気に双刀なんぞ構えやがって、返り討ちにしてやらあ!”

小振りの薙刀を手挟み、間を詰める。

小さな彎刀は一撃で吹っ飛びそうだ。

柄を浅く握り遠心力をつけるため振り回す。

“このまま叩きつけてやる!”

振り下ろした先に相手はいなかった。

“え?”

薙刀をかいくぐり手先に飛び込んできた。

“やべえ!”思った時には手首に強烈な痛みが走った。

薙刀を握った手が砂漠に落ちた。

「ぎゃあああー!」

手首から吹き上がる血で周囲の雨が赤く染まる。

ザクッ!

仰け反った首にアイーシャの彎刀が打ち込まれた。

グシャ…

頭の潰れた頭目の上に男の死体が折り重なって倒れた。

「このガキー!」

得物を手にした男が返り血で染まったアイーシャに飛びかかった。

バクッ!

だが一歩を踏み出す前にその首は無い。

天幕の前で暴れていたはずの男が背後にいた。

「ガキを捕まえろ!人質にするんだ!」

アイーシャの前から怒鳴り声がした。

二人目の頭目か…

「やってみな!そう簡単に俺の弟子は捕まらないぜ!」

独特な訛りのザモラ語で怒鳴り返す。

案の定、挑発に乗った頭目が自ら正面に躍り出てきた。

「アイーシャ、こいつもお前を襲った中にいたぞ」

“そうだ、父さんを倒したのは…この顔だ!”

ザイバール山刀が振り下ろされる。

十字に構えた双刀で受けたアイーシャの顔に何かが投げつけられた。

さらに頭目の片手から背後に立つガイに向かって、もう一発投げられる。

雨が勢いを奪い威力はない。

あっさりとかわす。

だが、まともに受けたアイーシャは地に転がった。

「へっ、ざまぁみろ!捕まえたぜ」

喉に切っ先を──当てたはずの山刀が跳ね返され彎刀が一閃した。

慌てて飛び退る。

砂漠でなら細かく飛び散り、相手の目を潰し、呼吸を妨げる毒粉も雨によって流されてまともに効いていない。

「畜生、ガキだと思って油断したぜ…構わねえ、こいつから先にぶっ殺しちまえ」

ガイとの間を断たれた。

粉の入った右目が開けられない。

皮膚が焼け付くように痛んだ。

それでも左眼で敵を追って彎刀を振り回す。

だが切っ先はむなしく空を斬った。

「アイーシャ!目に頼るな、思い出せ!」

師の声が響いた。

そうだ…目を閉じて耳に神経を集中させた。

だが風雨と雷鳴が聴力の邪魔をする。

どうしよう?気配が掴めない!

その時──えっ?…

耳の奥で…微かな…

詩とも歌とも思しき…聞いた事の無い言葉が独特の抑揚にのって聞こえてくる。

だが…この声は…

“白い旦那様!”

構えた双刀の刃が蒼く光った。

描かれていた文字とも記号ともつかないモノが銀色に浮かび上がる。

ぐいっと右腕が引かれた。

「あっ!」後ろから打ち込まれた刃を打ち返す。

今度は左の彎刀が引っ張る。

バランスを崩した相手の腹に刃が吸い込まれた。

次ぎに振り下ろされた剣を十字の構えではね上げ、胸元に飛び込んで左右から脇下を抉った。

アイーシャの躯は光る双刀に振り回されていた。

だが頭目達には油紙を巻いた小さな人影が暴れ回っているようにしか見えない。

ガキだと思ったが…小人(ポルクス)か?それとも人形に魔物が乗り移っているのか?

あの毒を浴びてこれだけ動けるとは…どちらにしても人間じゃない。

だがもっと人間じゃないのは、あっちの鞣し革を着込んだ男の方だ。

最も好戦的な一団があっという間に切り伏せられた。

足もとに積み上げられた仲間の死体は十人…いや二十を超えている。

皆、大頭目(おかしら)に従っていた者達だ。

その大頭目は最後の一人となって“人間じゃない男”と対峙していた。

その巨躯を誇示し、大斧を振り上げて身構える。

仲間を悉く斬った男とは躯二回りも大きい。

丸太のごとき腕から振り下ろす厚手の大斧は砂漠一の破壊力だ。

「うおおおおお!」

雄叫びとともに振り下ろされた大斧は雨を含んだ砂に打ち込まれた。

飛び上がった男の段平が一閃する。

「ぎゃあああ」

肩から切り落とされた腕が大斧を握ったまま落ちた。

肩先を掴んで膝を着く。

その首筋に段平が降ろされた。

落ちた腕の上に頭が転がった。

「うああ、大頭目(おかしら)がやられたー!」

逃げまどう人影はまばら…あとは砂漠の砂に伏してピクリとも動かない。

アイーシャに毒粉を投げた頭目も逃げ出していた。

その前に長刀を構えたオレンジのベールが立ち塞がる。

「どけーっ!」

振り回した刃を長刀の柄で軽くいなし、背後へ回り込む。

頭目は前につんのめった。

「ぐわっ」

その背が割られた。

砂漠に倒れた頭目の目に逃げる仲間を背後から切り伏せるオレンジの布が映った。

“化けモンだ…あれだけいた仲間が…もう…誰も…”

事切れる目に最後に映ったのは、生首の髪を咥えた灰色の馬の姿だった。


雷鳴が遠く去った。

雨風がおさまり、雲の切れ間から砂漠特有の朝日が昇る。

砂漠に動くモノは舞い戻った数頭の馬と──オアシスにいる一頭の馬と二人の人影のみ。

「アイーシャ、顔を見せてごらん」

柔らかい子供の皮膚は水泡が潰れ、中の肉まで爛れ引きつれている。

腫れ上がった瞼を奪ったナイフで切開し膿を出した。

傷口を押さえながら瞼を裏返す。

「うう…」

爛れた瞼の下から白濁した眼球が現れた。

血膿で襟に張り付いた油紙を取り去りながらシェラムは呟いた。

「お前…ホントに凄い子だね…」

頭部に受けた傷の痛みは半端なものではない。

脳に近いから、ほんの少し傷ついても神経は数倍の痛みを伝える。

こんな小さな子供が崩れる顔面の痛みに耐えながら戦い抜いたのだ。

ましてや眼まで潰れている。

シェラムは改めてアイーシャの精神力の強さに舌を巻いた。

親、兄弟の死体を前にして正気を保った子供は、オアシスの湧き水で眼を洗われる痛みにも歯を食いしばって耐えている。

「ヒドラ、お前の鬣(たてがみ)少し貰うよ」

長刀で一掴み切り取った銀の鬣を手の中で丸め、そっと糜爛した傷に置いた。

「ヒドラ、念を送れ」

銀の一房がキラキラと輝く。

痛みで強張るアイーシャの躯からすうっと力が抜けた。

食いしばった唇が緩む──そこへぽとりと緑の滴が落ちた。

──ヨトガ 頼んだよ──

シェラムの紅の爪から滴るそれを飲んだアイーシャの唇から微かな寝息が洩れた。

“夫”の意を受けたヨトガがすぐに痛みを取り去り、解毒を始めた。

「じゃあ、ヒドラ…この子が起きるまで念を送っていてね」

火竜(サラマンダー)の波動は再生力を煽る。

消耗した体力を活性化させる。

シェラムは立ち上がるとオレンジのベールを脱いで絞った。

ブッシュに掛けると、次ぎに木綿のローブを脱いで絞る。

両足のサンダルは紐が切れてどこかに吹き飛んでいる。

雲間から時折差す陽を浴びて全裸の少年はぐっしょりと濡れそぼった髪に手をやった。

“こういう時、長いとやっかいだな…旅をしてるんだし、そろそろ髪、切ろうかな”

小指の爪がちりりと痛んだ。

“ああ、ヨトガは私の長い髪が好きなんだよね…わかった、切らないよ…伸ばせばいいんでしょ”

腰まで伸びた髪を束ねて雨を拭う。

このまま砂漠の太陽の下にいれば髪も服もすぐに乾くだろう。

“あっ、ガイ”砂丘の向こうから黒駒に跨った騎士が駆け寄ってくる。

慌てて茂みの上からベールを取って肩から羽織る。

ラメルの屋敷から逃げる時、着崩れたペプロスから覗く肌を兄の目に曝す事がたまらなく嫌だった。

馬車に乗り込むとすぐに、置いていったベールを頭から被った。

おかしい──コーシェミッシュの竪穴では全裸を見られても全く平気だったのに…

いや、今でも平気だ…陰部を見られても媾合う姿を晒しても、どうという事はない。

むしろ、思い切り淫らな様を見せつけて、眺めている者達を欲情させ猥褻なエナジーの放出を誘うのだ。

喘ぐ獲物と抱き合いながら、凝視する者達から溢れる淫気を吸い取る瞬間が堪らない…

それなのに…ガイだけには陽に透ける肢体すら見られたくない。

多感な少年期を人外のモノ達と過ごしてきたシェラムは、それが羞恥という人間だけが持つ感情であるとは知るよしもなかった。

近づいてくる鎖帷子の騎士の姿がはっきり見えた。

その片手に握られた段平には新たな血が滴っていた。

逃げた盗賊を追っていったのだ。

文字通り、皆殺し──ヴァイロンが将として軍を率いる時、必ず敵は全滅させる。

捕虜はあり得ない──戦意を喪失した怪我人までも全て殺させる。

シェバが色を成して止めても聞かない。

刃向かった者は悉く抹殺する…父王コナンと最も異なる点だ。

「どうだ?アイーシャは」

黒駒から飛び降りたガイは段平を一振りして血を飛ばすと鞘に収めた。

「今、毒を吸い出してる。今日一日休めば、よくなるよ」

「そうか…今夜には安全な場所に移してやれ」

「来たの?警邏隊…」黒曜石の瞳がキラリと光る。

「ザモラ領内は道が整っている。あれだけの軍勢でも進軍を始めれば国境までなら二日もあれば着くだろう」

「ああ、ガイがこの馬で一日で来れた距離だものね」

ガイは黒駒から離れアイーシャの側に寄った。

微かに寝息を立てる子供に赤い外套を掛けてやる。

「こいつの仇討ちはこれで済んだ。あとの戦いには連れて行かない」

「そうだね…体調が回復したらヒドラに邑まで送らせるよ」

胸元で湿ったベールをかき合わせる。

「で、どうするの?“大槌亭”の方は」

「“コナンの同志”に警邏隊の進軍経路を知らせるように鳩を飛ばした。さっき一羽が返ってきた。どうやら“大槌亭”を素通りして先に砂漠へ向かったようだ」

「ふうん、先に盗賊の口封じをしようって魂胆か…もっとも“大槌亭”の親分達は自分らが標的になってるなんて知らないから逃げる心配ないしね…帰りがけに街ごと焼き払って殺しちゃうつもりなんだね」

ガイは頷いた。

身内の口封じをあっさりとやった男だ──シェラムの読み通り自国民の街でも難なく壊滅させるだろう。

「奴らは訓練された正規の軍隊だ。甲冑も武器も整っている。寄せ集めの盗賊相手のような訳にはいかない」

その一国の軍隊にたった二人で挑もうとしている。

しかもそれは至極当然といった口調だ。

ゾクリと躯が震えた。

兄のキンメリア語は躯の中の荒ぶる血を滾らせる。

自分も一緒に戦える…それが嬉しい、わくわくする。

「まず将を倒す。旗の下にいる奴が大抵そうだ。そのラメルとかいう隊長を少しでも早く始末するのが先決だ」

「わかった、顔は覚えてるから…」

「あれだけ葬式を出した後だ。小隊の長まで補充していないだろう…命令体系は隊長一本に絞られているはずだから親玉を潰せば烏合の衆になる可能性が高い…あとはお前の術で翻弄できるだろう」

「いいの?…術を使って…」シェラムの顔が輝いた。

「ああ…昨日の雨風より、もうちっと派手なやつでもいいぜ」視線を外す。

「ガイー!」

「抱きつくな!うわっお前、濡れてるじゃねえか」


「どう思う?ビゼハッタよ」

斥候がもたらした情報は俄に信じられぬものだった。

砂漠を暴風雨が襲い、その期に乗じて盗賊団が皆殺しにされるなど…

昨夜一晩…たった一晩の凶行であった。

人知の及ばぬ者を敵にしている…ラメルはそう判断した。

あの折──屋敷を破壊され野望が潰えんとした切っ掛けを作った少年…その白く浮き上がる半裸体…

邪神封殺のため自宅内に保護するアシュラ僧を従軍させていた。

もともとはアシュラ教徒ではなかったが嫁いできた妻の影響で信仰を始めた。

アシュラ教はベンダーヤの国教である。

貴族院の中にはベンダーヤと太い絆を持つ敬虔なアシュラ教徒が多い。

ツランという大国があっという間に滅亡するなど…当時、誰が思っただろう。

狡猾で残忍な戦略家イェズディガード王に恫喝されたザモラ王ミトリダデスは国境線を大きく譲った。

ツラン領に出向き王自ら膝を屈した時から、ザモラは心ならずも長きにわたりツランと同盟を結び友好関係にあった。

それが…アキロニアとベンダーヤに東西から同時に攻め込まれ、次々と砦を陥落され首都アキフも炎上し…父王にも増して好戦家と言われた帝王イスマディアはアキロニア王太子の手に掛かって果てた。

先代イェズディガード王がズラジ・アルチベラル群島の海戦でコナン王に首を落とされてからわずか十年後の事である。

ミトリダデスはそれまで冷遇していたベンダーヤ派の貴族達を急に重用し、親交を求めた。

ツラン派は失脚し、有力貴族の殆どがベンダーヤ派に取って代わった。

期を読むのに敏感なラメルは、夫婦睦まじくアシュラ教の寺院に詣で、彼らに顔を売った。

さらに彼らに取り入るための手段としてベンダーヤからやってきた高位の僧──バラモン神官を屋敷に招き小さいながら寺院を建立した。

彼からは教義の他にベンダーヤ語を学び、風俗習慣を聴いた。

そして先の事件で命の恩人となってしまったアシュラ僧への信頼は絶対なものとなっていた。

「おそらく、かの邪神の仕業でありましょう」

バラモンの袈裟衣をまとった僧が半眼のまま答えた。

「ご案じめさるな、此度こそ必ず調伏して御覧にいれる」

「うむ、頼んだぞ」

だが斥候の話では盗賊達は皆、矢で射抜かれ、斬り殺されている。

邪神の生贄となった死体──例えば生皮を剥がされているとか、火に焙られているとか、内臓がすっぽりと喰われているといった無惨な死体は見られないという。

別の盗賊に襲われたか、仲間割れを起こしたか…どの斥候も一様にそう報告する。

このまま進んでよいものか?

もし仲間割れならば、そいつらも始末をしないと口を封じた事にはならない。

生き残った奴らもいるだろう。

やはり、自分の目で砂漠の状況を見るまでは安心できない。

そのイムシャ山の魔族とやらが絡んでいようが、いまいが後腐れの無いようせねばならぬ。

こんな事で大臣、将軍の椅子が遠のいては一大事…身内の口まで塞いだというのに。

「どのような有様か、儂が自ら確かめる。予定通り北のオアシスまで進むのじゃ」

「はっ」下士官は礼をして天幕を出て行った。


太陽は中天にある。

ザモラ王国の紋章をかたどった黄金の飾りが二対、煌めきながら軍列の先頭を行く。

その後ろに時折光るのは下士官達が付けている鎧飾りだろう。

はるか遠くに輝く光の列を見据える人影が小高い丘に佇んでいた。

彼は腰に下げた篭から鳩を出すと脚輪に羊皮紙を結び空に放った。

さらにもう一羽…もし一方が砂嵐か猛禽類に襲われても片方が意を伝えるだろう。

人影は辺りを見回すとあっという間に丘から消えた。


オアシスの木陰で伝書鳩からの文を開く。

「まずいな、奴ら真っ直ぐにこっちにやって来る」

ガイは昏睡するアイーシャに付き添う弟に声をかけた。

「ヒドラに任せれば逃がすことはできるけど、この暑さだもの、衰弱している身体に無理はさせたくない。なるべくならこのオアシスに隠しておきたい」

うん…頷いてガイは鎖帷子の上にキラットを纏った。

「取り敢えず、ここから奴らの目をそらす」

黒駒の轡を取る。

最初から奇襲するつもりだったのが少し早まっただけだ。

できれば夜を待ちたかったが、相手の進軍速度が思ったより速い。この際、贅沢は言っていられない。

「ヒドラ、アイーシャを頼んだよ」

まだ右目が腫れているものの、引きつれていた顔はすっかり元のふっくらとした表情に戻っている。

火竜(サラマンダー)の化した獣はゆっくりと首を上下させた。

傍らの長刀を手挟む。

「ガイ、前に乗せて」黒駒の鞍に手を掛け、跨る兄に向かい反対の手を差し出す。

「あっちにいくらでもいるだろう?」

目で示す先には逃げ戻った盗賊達の馬がかつて厩であったろう崩れた木枠の傍らに立って、風で吹き飛ばされた馬草の残りを引きずり出して食んでいる。

「ケチ!」オレンジのベールを翻し砂丘を駆け下る。

盗賊の死体から奪った皮沓がカパカパと音を立てる。

今までサンダルしか履いたことのない足は中で擦れて痛いが、熱砂が入らないだけ歩きやすい。

鞍付の馬──本当の馬に一人で乗るのは十年ぶりだ。

普通に乗馬ならなんとかなりそうだが、これから馬上で剣を抜いて戦うとなると…

右の薬指から鉛色の指輪を外し、一番大きな栗毛の耳に入れた。

栗毛の牡馬が激しく嘶いて後ろ足で立ち上がった。

周りの馬が驚いて逃げ出す。

「サータ、馬の躯じゃ慣れないだろうけど我慢して…」

ひたとシェラムを見つめ鼻息荒く、前足で砂をかく。

後ろ足を蹴り上げる。

「初めて手足ができたんだから、しょうがないか…」

栗毛の手綱を取って目を覗き込む。

「うん、大丈夫そうだね」ポンポンと馬の首筋を叩き、鐙に手を掛けて鞍に跨る。

「頼んだよ、サータ!」指輪を入れた方の耳がピクリと動いた。

一気に黒駒に向かって駆け寄る。

「おい、お前が乗る馬はみんな目がおかしな事になるんだな」

黒駒の隣で首を振る栗毛の目はルビーのように真っ赤に輝いている。

「東の砂丘の入り口に向かう。両壁は岩場だ。今の行軍隊形では進めない。隊列は一列か二列…どちらにしても細く伸びる。そこを突く。お前は右へ、俺は左から回りこむ、狙う先は…」

「警邏隊の旗の下だね」

「そうだ…」

「で、その後は?また全滅させるんでしょう」

こいつ…たった二人で一国の軍隊に戦いを挑み勝つ気でいやがる。

ニヤリと口の端が歪んだ。「俺が退けと言ったらすぐに退くんだぞ」

「じゃあな、旗の下で会おう」ガイは黒駒の腹を蹴った。

「どんな術を使おうか?何でもいいなら、ほんと楽なんだけど…」

遠ざかる馬影を見送りながら、馬の耳元に口を寄せて囁く。

警邏隊を敵に回したのは自分の失態だ。

肝心のアイーシャの身まで危険にさらす羽目になってしまった。

だが、兄は“やっかいな事を”と一言漏らしただけだった。

逆に“目の付け所はよかった”などと慰めてくれた。

アイーシャがいたから落ち込んでいない振りをしていたが、本当は自己嫌悪に陥る寸前だった。

咎め立てされない分、余計に責任を感じてしまう。

だから…警邏隊は自分一人の力で始末したい。

例えば砂に沈めて生き埋めにしてしまうとか…熱風竜巻を起こして焼き殺すとか…どうせ砂漠の熱を集めるなら空気を燃やして窒息させた方が早いな…

アイーシャの目を気にしなくていいから思い切り施術できるはずなのだが…強力な呪術はガイが嫌う。

さすがに軍隊相手だから剣士の腕だけを当てにしてはいないようだが、目の前で魔道士然とした姿をされるのは嫌な事はわかっている。

「ガイの言う“もうちょっと派手なやつ”ってどれくらいならいいのかな?」

独り言のように呟きながら兄とは反対の方角へ馬首を向ける。

「どうしようねえ、サータ…せっかくだからお前にも久しぶりに獲物を捕らせてやりたいし…」

栗毛は一声嘶くと脚を早めた。


国境に接する街を囲む城壁から真っ直ぐに北西に進むと切り立った岩盤がそびえ立ち、行く手を塞ぐ。

ザモラ王国にとって、西からの侵略に対する天然の要塞となっていた。

ただ一カ所、岩壁に裂け目がある。

かつては河であったろう峡谷の底に、行く手に広がる砂漠から吹き寄せられた砂が長い年月の間に堆積して自然とそこに道ができた。

砂漠からザモラへの道はこれ一本だ。

商隊も、それを守る軍隊も、逆にその目を盗んでは襲いかかる盗賊団も皆この道を通る。

この道を死守すれば外敵に脅かされる心配はない。

岩の窪みの要所要所に国境警備の兵が配されている。

一列に並んだ兵士達からの栄誉礼を受けながら警邏隊は通い慣れた砂漠への一本道を進んでいた。

はるか岩盤の上からそれを見下ろす馬影が在ることに誰も気付かない。

砂漠からも切り立った崖が遙か彼方まで連なっている。

そんな岩壁をよじ登る者がいるなどとは予想だにしない。

ましてや騎馬が登るなど…

シェラムの目に一列縦隊で行進する警邏隊の姿が小さく映っている。

“ほんとだ…凄い、ガイの言う通りだ”

盗賊を全滅させた奇襲作戦といい、兄の軍略は素晴らしい。

“雨を降らせる事ができるか?できれば風も吹かせろ”──事前にガイが命じたのはこれだけだった。

それを隠れ蓑にして敵に切り込み分断させる…アイーシャの負傷というアクシデントはあったが戦いは作戦通りになった。

それはキンメリアの蛮族の血がなせる事なのか──私にもその血が流れているのなら…

馬鹿な!こんな時に何をくだらない事を考えているのだ!

かぶりを振って余計な考えを打ち消す。

向こうの崖に合図の狼煙が上がることになっている。

警邏隊旗が通るその時だ。

一気に駆け下って斬り込む──と兄は指示した。

本当はその前に一人で決着を着けたい…だが、どうしたら──

下手をすると兄を巻き添えにしてしまう。

その時、左眼がキラリと光った。

ずっと後方に──アースラ大神の霊波を感じる。

まさか…いや、考えられる。

「サータ」

シェラムは栗毛を駆ってさらにザモラ寄りに進む。

真下から、はっきりと大きな霊波動が伝わってきた。

目を閉じて腹式の呼吸を整え頭頂部から額の中心に意識を絞り、第三の眼…天目(てんもく)を開眼する。

バラモン僧の袈裟衣の懐深く、真っ白なオーラを放つ翡翠の面が見える。

ふん、やはり奴がいたか…

『クマリ神を貶めた…この報いは必ず…』あの折の呪詛はまだ生きている。

さっきは崖崩れを起こし、岩で潰してやろうかともと思っていたが…それではあの面まで割れてしまうかもしれない。

悔しいが面を奪う…いや取り返すまでは大きな術は使えない。

兄の言いつけ通り斬り込むしかなさそうだ。

さっきの位置まで戻らねば…

馬首を返そうとしたシェラムの開かれた天目に夥しい人の気配が見えた。

なに?

百…千…いや数万を超える命動が岩壁の向こうに広がる。

攻め掛かる気迫、高揚する戦意──それが一体化して砂漠の彼方から迫ってくる。

巨大な塊になった殺気がひたひたと押し寄せてくる。

国境警備の兵を加えても三千に満たぬ警邏隊など物の数ではない。

これ程に見事に統率された集団とは何者であろうか?

“ガイに知らせなければ…”木札を取り出す。

待てよ、今術を使えば自分の存在をあのアシュラ僧に悟られてしまう。

駄目だ、天空を飛ぶ事ができな…いや、飛べる。

もし十年前にかの蛮族に仕込まれた馬術を躯が覚えているなら…

遙か彼方に峡谷の向こう側が見える。

危急を告げるには、この谷を飛び越えるしかない…

後ろに下がり助走を付ける。

「サータ!行け!」そのまま一気に兄のいる対岸に向かって馬体を踊らせた。

カラカラと小石が底に落ちていく。

直立のまま、ひたすら隊列の通り過ぎるのを待っていた国境警備の兵卒は兜越しに嫌な音を聞いた。

一日二回…朝と夕、気温の変わる時に峡谷を風が吹き抜け、その度に落石がある。

大概は小石だが、時折岩盤に亀裂が入り落盤が起こる。

押しつぶされた同輩を何度も見ている。

大岩落下の予兆として小石が落ちる。

その音が頭上で鳴った。

ハッとして上を仰ぐ。

その目に──「う、馬?」

真っ青な空に逆光となった馬影が空を飛んでいる。

馬影はみるみる小さくなり、崖の向こうに消えて行った。

炎天下に立ち続けて幻影を見たのか──だってこの崖を飛んで渡るなんて…そんな馬鹿な事が…

彼は消えた馬影に魅入られたまま、一言も発する事なく立ちつくしていた。

「ガイ!」

眼前に飛び込んできた栗毛に兄は目を見張った。

大概の事には動じない、しかし荒い息を吐く馬を見れば弟が自らの力で崖を飛び越えてきた事がわかる。

「馬鹿野郎!無茶しやがって」その無茶の訳は何だ?

「何が起きた?」

兄の問いに砂漠を指さす。

「凄い数の軍隊がこっちに向かって押し寄せてる」

「軍隊?」

シェラムは黒駒の横に並びラカモンの環を嵌めた兄の指に自分の左小指の紅爪を絡ませた。

弟の天目に写る情景がそのまま兄の脳裏にスライドされる。

「わかった?」

「う…うーむ」

ガイは唸った。

確かに“軍隊”だ。

夥しい兵士…にも関わらず統制された動きと精神…思い当たる軍団が一つだけ有る。

「おい、もっとはっきり…旗印が見えないか?」

「あまり天眼通を使うと例のアシュラ僧に気取られるんだけど…」

「あいつ、従軍してるのか?」

兄の問いに小さく頷くと、大きく息を吸い込んだ。

額の奥に念を集中させる。

ガイの頭に煌めく槍の穂先が見える。

幾層にも後方に連なる銀の壁となって進む槍部隊の後ろには長弓の先が見え隠れしながら延々と続いていた。

その遙か後方…二頭立ての二輪戦車にたなびく紅の旗…千にも及ぶ戦車と続く騎馬隊に掲げられた旗が真っ赤に砂漠を被っている。

その旗の中央には…黄金のポイタイン豹斑がくっきりと縫い取られていた。

“やっぱりな…”ヴァイロンはニヤリと笑った。

この敵を囲み込んで一網打尽にする隊形は王太子補佐官シェバの得意とする陣容の一つだ。

考えられる事は一つ…コナンの同志を巡った手紙がアキロニア正規軍の元へもたらされた。

だが、それにしてもこの行軍は早すぎる。

“ザモラ辺境警邏隊の情報が欲しい”という手紙を付けた鳩を飛ばしてから、まだ一日しか過ぎていない。

「ねえ、ガイ…チァンリルがいるよ…」

眼を閉じたままシェラムが呟いた。

「それからコーシェミッシュの竪穴にいたもう一人の…ガイの従者も…」

ユウラ…紅旗と同じ紋章の鎧に身を包み騎士団の先頭を行くのはまぎれもなくポイタインの世襲候トロセロ伯爵の孫でヴァイロンの右腕を任じる王太子宮近衛隊長だ。

その横に同じポイタイン豹斑の鎧姿のホルストが副官として付いている。

中央の四輪戦車では白銀総髪の軍師にして親友シェバが矢継ぎ早に指示を出し、戻ってくる斥候、伝令からの情報をまとめるディジャスは砂漠の強風に負けまいと声を嗄らして叫んでいる。

小指を繋いだまま、いつしか兄も眼を閉じていた。

“そういう事か…“ コーシェミッシュで別れる折、自分が下した命令を思い出した。

“チァンリルはユウラと共に一時アキロニアに行け。そして親父が編成した援軍を率いてヴィラエット海からイラニスタンにかけての国境沿いに陣を張れ”

だがその編成した援軍にシェバが加わり、その後方にひしめく金縁の黒旗まで見えてしまってはどういう次第になっているのか疑問も生じてくる。

金縁の黒旗の下では寡黙な青年騎士カルネが、黒竜騎士団の長パランティデス将軍の嫡男として一軍を率いているに違いない。

彼らの狙いは明らかにザモラ警邏隊だ。

「そろそろ…いい?これ以上は…」シェラムの額に汗が滴る。

“気”を押さえながらの念力の放出は精神の消耗が激しい。

「ああ…十分だ」ガイは指を解いた。

「シェバを覚えているか?ホルスト、ディジャス、ジニアス、カルネ…」

「シェバは覚えてる…よく宰相パブリウスと一緒にペリアス先生の館に私を訪ねて来た白銀の髪をした…」

ガイは大きく頷き手綱を引いた。

「“軍隊”の正体は彼らだ。そうと解れば作戦変更だ」

「どうするの?」

「彼らと合流する」馬首をもと来た道に向ける。

「シェバはこいつらが砂漠に出てきたところを狙って待ち伏せする策を立てている。遠路はるばるアキロニアから遠征してきたんだ、邪魔しちゃ悪いだろう?」

「アキロニア…正規軍…だったんだね」

ベールの下で表情が曇る。

怖い…彼らは私をどのような目で見るだろう?

よりによってヴァイロンの…王太子位の簒奪に失敗して、自ら命を絶った私を──

ガイに甘えて遠い過去の罪は既に消えたように振る舞っていたけれど…

生涯掛けても償えぬ大罪を負った我が身、一日足りとて安らいだ事はない…

何故にあのまま死なせてくれなかったのか…と師を責めた事もある。

自分の運命を呪った。

だから欲望のままに振る舞った、だから世を捨てた。

恐ろしかった…兄の腕の中に安住を見いだしても、心の何処かで凍てつく想いが自らを責め苛んでいる。

私は今でも…

「俺も一緒に戦ってやる」

「ガイ…」

「だから逃げるな…遅かれ早かれ自分で撒いた種は自分で刈らなきゃならねえんだ、それにチァンリルもいるじゃねえか…」

「うん…」

「最もこの下を行進してる奴らが自分が撒いた種から出たって事は、俺を出し抜く算段を講じる程わかってるらしいがな」

黒駒の腹を一蹴りすると砂漠に向かって駆けていく。

「あ…」なんだ…ガイには私の心情、みんなばれてたんだね…

委ねてみよう、ガイに…そう、私はその覚悟で再び人の世に戻った。

強くなる──ガイが共に戦ってくれるなら私はもっともっと強くなれる。

「サータ!」

栗毛は黒駒の後を追って駆け出した。


ボッソニア辺境地帯を領地とするラーマン伯爵の手勢にはハイボリアの国々に知れ渡った強弓の弓隊と山岳部族からなる軽装の特殊部隊があった。

少数精鋭をもって鳴る特殊部隊は敵の陣営に忍び込んで情報活動と破壊工作を行うのが主な任務だ。

実際に戦になれば城内に忍び込み、中から城門を開け手引きをしたり、兵舎の井戸に毒を投げ込んだり、領内に流言飛語をばらまいて民を混乱させたり、まさに裏の戦を仕掛ける諜報員だった。

部隊長はウィスカ。ラーマン伯爵の孫ジニアスの乳兄弟である。

ボッソニア人特有の長い手足をしなやかに伸ばして岩壁の僅かな窪みに手足をかけて崖を登っていく。

身を屈めたまま用心深く崖の頂上を見回すと一気に身体を引き上げた。

突き出した岩に鉤の付いた縄をしっかりと留めて下に降ろす。

次々に部下達が這い上がってきた。

最後に縄を手繰りながら登ってきた男に手を貸す。

「ジニアス様」

厳つい顔の男は灰色の髪を風になぶらせながら縄を乳兄弟に渡した。

崖下を睨む。

「まだ、ここまではやって来ていないな」

彼らはシェバの指示により斥候と奇襲を兼ねて崖の上にやってきた。

崖上を進み、後方に回り込んでザモラ側に逃げようとする兵を押さえる働きも任されている。

その為には少しでも早く、敵本隊を見つけねばならぬ。

「風がきついが走ります」

ウィスカの言葉にジニアスは頷いた。

強風吹きすさぶ岩だらけの頂上を彼らは平坦な地上の如く疾走していく。

ウィスカが足を止めた。

「どうした?」

「馬の…蹄の音が…向こうから」

「馬鹿な!ここは崖上だぞ、どうして馬が走れるんだ?」

「しかしジニアス様、私も聞こえます…馬の蹄です」他の兵士もそう言った。

次の瞬間──

「うん、馬だ…」ジニアスの耳にもそれは届いた。

その時彼方に全速で近づく馬影が見えた。

ウィスカの手が上がると兵達は四方に飛び散って岩陰に身を伏せた。

ジニアスの身体を抱えウィスカも岩の後ろに飛び退く。

息を殺して蹄の音に聞き耳を立てる。

と、彼らの潜む手前で急に馬が止まった。

“気付かれたか?”ウィスカの手に手刀が光った。

「ウィスカは来ているか?」

頭上から声が降ってきた。

“え?”この声は…

「殿下!」ジニアスが岩から飛び出した。

「おお、ジニアス!お前もいたのか?いいのか、弓隊の指揮は?」

膝を折って頭を垂れたジニアスは厳つい顔を綻ばせて久方ぶりに再会した主(あるじ)を見上げた。

「はあ、こちらで奇襲作戦を指揮するようシェバ殿に言われまして…」

「あいつも人使いが荒いな…おお、ウィスカ久しいな」

ジニアスの隣にウィスカも同じように身を屈める。

特殊部隊がバラバラと現れジニアスとウィスカの後ろに並び平伏した。

彼らの身体がピクリと動いた。

前からもう一頭蹄の音がする。

栗毛の馬に跨ったオレンジのベール…ヴァイロン殿下が何処かで連れにした女か?

「ああ、ジニアス、ウィスカ…引き合わせよう、シェラムだ」

「ひえ?」ジニアスは目を剥いた。

シェラム皇子…国王、大臣、諸将、評議の居並ぶ前で戻ったユウラとチァンリルは英霊エペミトレウスの導きによりシェラムが蘇生しペリアスに育まれ無事に長じていた事、ヴァイロンがコーシェミッシュの竪穴からシェラムを連れ出し何処かへ旅だった事などの顛末を報告した。

その後ユウラはシェバを筆頭とするヴァイロン親衛隊の仲間五人を呼び、特に事細かく別れてからの出来事とシェラムの印象を伝えた。

この…方が…子供を攫ってユーバスを生やし、蔦葛を妻と呼び、大蛇を下僕として使う…大魔道士ペリアスの愛弟子…実直なジニアスはベールの下に隠された顔を見るのが恐ろしかった。

しかし何ということか?馬上の少年から目が離せない。

乳兄弟の唯ならぬ様子を察知したウィスカが、いぶかしげにヴァイロンを見上げた。

「ああ、ウィスカは知らないのか…弟だ」

ウィスカはじめ特殊部隊の兵は一斉にオレンジのベールに平伏した。

ジニアスの私兵であったボッソニア特殊部隊を戦に重用したのは父コナンに代わって一部の国軍を指揮するようになったヴァイロンだった。

当然、彼らが王宮や国軍幕舎に参内できるようになったのはそれ以後の事だ。

故にボッソニア辺境地帯で暮らしていた彼らはアキロニアの王都で十年前に起きた政変を知らなかった。

当時、シェラム皇子の名をタランティア宮で口にする者は誰一人いなかったのだから仕方がない。

いや、存在そのものが禁忌とされていた。

チァンリル、イーデッタがベンダーヤからシェラムを訪ねて現れた時、その対応を巡って評議場は大混乱に陥った。

東方随一の超大国にしてアキロニア最大の同盟国である。

どのような返答をしたものか──肝心の皇子の行方が定かでないのだから議論は空回りをするばかりだ。

ペリアスが引き取って育てていると聞いていたが真偽の程は明かではない。

確かにあの日ペリアスの腕に抱かれてシェラム皇子は天空に消えた…だがその時皇子は既に事切れていたのだ。

誰もが見ている。

本当に復活…いや蘇生されたのか?

それはまさしくシェラム様なのか?

紛糾の度は増すばかりで何日経っても結論は出ない。

だからこそヴァイロンが“弟を探し出し連れ戻す”と言い切った時、王の側近から大臣、評議員の誰一人として表だって反対はできなかった。

いや、一時は宰相パブリウス以下評議達は血相を変えて慰留した。

総帥プロスペロはヴァイロンの肩を抱きかかえ説得した。

“何も王太子殿下みずからが動かれる事はありませぬ”

それでもヴァイロンの決意は変わらない。

誰よりも心に深い傷を負い、最も打ちのめされたであろう息子の申し出を受けるよう彼らを説き伏せたのはコナンだった。

王はいち早くそれを認め“コナンの同志を名乗る偽者を成敗する”という表向きの遠征理由をつけてくれた。

“致し方ない…”

“もはや是非に及ばず…”

評議達は満場一致で推奨した。

従ってウィスカ達は主人ジニアスがヴァイロンの供をして旅立った本当の理由を知らなかった。

“王太子殿下に弟君がおわしたのか”ウィスカは頭を垂れたまま驚いていた。

“しかし日頃剛胆なジニアス様が何故、不敬にも弟君を見上げたまま、呆けたようになっておられるのか?”

「ウィスカ、シェバの作戦はお前一人で指揮できないか?」

「ご命令とあれば…」

「うん、これから本隊…シェバ軍師の元へ行くんでな、道案内にジニアスを借りたいんだ」

「崖下に我らの馬が繋いでありまする、ご自由にお使いくださいませ」

当然、彼らは王太子兄弟がここで馬を下りて崖を下ると思っている。

「いや、この馬で登ってきた崖だ、降りるのも大丈夫だろう…シェーラできるな?」

ベールが頷いた。

「先に行け、ジニアス。俺達が降りると岩が落ちて岩盤が脆くなるからな。そのかわり下に降りたら気をつけろよ、大岩が降ってくるかもしれないぜ」


斥候が駆け戻ってきた。

唯ならぬ気配だ。

「どうした?」ディジャスは身を乗り出した。

「ボッソニア特殊部隊の登った崖を馬が駆け下りてきます!」

「崖…を?馬が?」ディジャスは意味を解せずに聞き返した。

「ザモラ兵か?」

後部席からシェバの声がした。

「わかりません、旗印はありませんし鎧も付けていません、軍の兵士には見えません」

だがあの崖を駆け下りるなど、半端な技量の騎手ではない。

降りるという事は登ったという事…いったい何処の山岳部族か…この辺り一帯にそれ程馬術に長けた山賊の類がいるとは聞いたことがない。

「ご報告!」

別の斥候が息を荒げて走り寄った。

「ジニアス様が馬でこちらに参られます、崖を馬で下った騎士二名を先導しておられます」

「二名?」軍師は座席に深々と身体を沈め、目を閉じた。

ディジャスは振り返ったまま考えあぐねる軍師の姿を心配そうに見つめる。

こんな時ヴァイロン殿下がいらしたら…考えるより動くだろう──我々も動きたいが、どう動いてよいのかが解らない…

「おーい!」

馬の嘶きと甲冑の擦れる音、軍靴の踏みならす音に交じって親友ジニアスの声が響いた。

林立する軍旗と二輪戦車の間からその姿が見えた。

後ろに黒駒に跨った白いキラットのズアジル族の男…って──見慣れたその姿は!

「で、殿下?」

ディジャスの叫びにシェバが跳ね起きた。

戦車を飛び降り、走り出す。

慌ててディジャスが後を追う。

「伝令!」シェバが走りながら命令を出す。

「ユウラ、ホルスト、カルネを呼び集めろ!ああ、それとユウラと共にいるチァンリル殿もだ!」

白銀の甲冑に真紅のマントを羽織った軍師に騎馬隊が道を譲った。

正面から頬を紅潮させ灰色の髪をなびかせたジニアスを先頭に三騎が駆け寄ってくる。

「ヴァイロン様!」日頃、冷静沈着な軍師の…これ程高揚した声を聞いたことがない。

「ご苦労、シェバ」キラットの頭巾をはね上げる。

「うおおおおお!」その姿に周囲の兵卒が一斉に雄叫びを上げた。

「ヴァイロン様じゃ!」

「王太子殿下、万歳!」

剣を空に突き上げ、弓の弦を鳴らし、盾を打ち付け合う。

「相変わらず見事な陣形だな。奴ら峡谷の半分まで来ているぞ」ヴァイロンは息を乱す軍師の前にとび降りた。

「だが、ベンダーヤへの援軍がこれ程早くここまで進軍してくるとは思ってもみなかった…それにお前らまで揃って参戦しているとは…一体どういう事だ?」

幼なじみにして半身とも思うシェバに対して砕けた口調で尋ねる。

「“コナンの同志”でございます。コスの外れで子供を救われましたでしょう?その者の邑長から連絡が入りました。その後子供の仇を追ってザモラに向かわれたとの事…これはと思い進軍致しますと今度は別の同志から盗賊団の消息を追っていると情報がもたらされました。それからザモラ辺境警備隊の足取りを御尋ねになられた…」

「うん、だがその鳩を飛ばしたのは昨日だぞ」

「あの鳩は元々わたくしのモノでございますよ。空からこちらの姿を見たのでしょう、わたくしの鳥籠に舞い降りてきました」

「かなわねえなぁ、ウチの軍師殿は天才だよ」決してお世辞でも身内の贔屓でもない。

それだけの情報であれだけの距離をこの軍勢で行軍してくる──僅かな休憩すらも惜しんで昼夜を問わず駆け続け、しかも彼らには少しも疲労の色が見えない、逆に戦意ははちきれる寸前まで高揚している。

「一つ質問がございます」

「あ?」

「どのような次第でザモラ軍を敵にまわされたのですか?」

「う〜ん…正確にいうと辺境警備隊の隊長とその一味だけなんだが…」ちらりと後ろの栗毛に視線が泳いだ。

「天才軍師に頼みがある、この戦を私闘って事でかたづけてほしい」

「はあ?」

「これだけの軍旗を押し立てて行進してきたんだ、ツランの残党共には十分脅しが効いただろう」

“さすがによくお判りだ”シェバの口元に微笑みが浮かんだ。

国王にも講じていないが、シェバの画した本来の遠征目的はそこにあった。

従ってすでに目標の大部分は達成している。

「だがあっちもザモラ王家の紋章を掲げて行軍している、このままぶつかればアキロニアとザモラの戦争になる」

「それは…覚悟の上で進軍して参りました。本国の陛下並びに大臣、諸将にも依存はございません」

「それじゃ戦になっちまう」ヴァイロンは首を振った。

「流れ者の兄弟がザモラ警備隊の隊長と私闘に及んだって事にしたい。おい、何ていったっけ?あの隊長…」

「ラメル…」

オレンジのベールからしっとりと滑らかな声がした。

“シェラム様か…”相変わらず騒動の原因はこの方のようだ…

「ジャス…」傍らに補佐官を務める王太子付小姓を呼ぶと軍師は栗毛の騎手に向かい深々と礼をした。

ディジャスもそれに倣う。

「唯今、チァンリル殿はじめ主立った将を呼びに行かせております、皇子にはそれまであちらの戦車にて御寛ぎくださいますよう…」

「嫌…」

「は?」ディジャスは頭を上げた。

オレンジのベールはヴァイロンに向いた。

「決着つけるんでしょ?戻ろうよ、崖の入り口へ」

「だ、そうだ…」ヴァイロン…ガイは再び黒駒の轡を取った。

「ザモラのミトリダデス王にはアキロニア、ベンダーヤともに貴国には遺恨これ無く…と早速に使者を立てましょう」

頭を垂れるシェバの声が震えている。

何という表情で弟君を見られるのか…ああ、思い出す、十年前のヴァイロン様の眼差しだ。

「出来ることなら包囲するだけでいい、ザモラに逃げ帰る兵は追うな、逃がせ」

「い…ま…何と?」馬上の人となった主を見る。

「決着をつける相手はこちらで始末する、刃向かって来る奴も叩き斬る…だが逃げる奴は放っておけ」

ガイは栗毛の騎手を振り返った。

「わかったな?」

「…嫌だと言ったら?」

「シェーラ、俺の言うことが聞けないか?例の奴らさえ消せばエキドナもその仲間も無事だろう?害がでかくなるとシェバが進める和平交渉がややこしくなる。殺された兵の身内はアキロニアへの報復を叫ぶだろう、ミトリダデスがそれを押さえられなければ交渉は決裂する。それともお前はザモラと戦がしたいのか?そうなればエキドナも戦禍に巻き込まれるぞ」

「私達がここから去った後で、逃げ帰った兵から報告を受けた王にエキドナ達が報復されたら?」

「もう脅しは十分効いているさ、アキロニア軍に適う兵力がザモラにあるか?」

オレンジのベールが、しばらく沈黙した。

“俺も一緒に戦ってやる”──全てを兄に委ねると決めていた。

「…わかった…」栗毛は先に走り去った。

「という訳だ、カルネ達にも伝えろ。じゃあな」黒駒も馬首を戻した。

「お、お供仕ります」ジニアスが横に轡を並べる。

「ああ、ウィスカ達を放ってきたからな。ジニアスお前の特殊部隊にも深追いしないよう指示を出せよ」

「はあ…」

ジニアスだけではない。

シェバもディジャスも驚愕していた。

敵は最後の一人まで追いかけて殲滅させるのがヴァイロンだったから…

「どうされたのでしょう?殿下は…ザモラなど力で屈服させればよいではありませんか?」ディジャスは軍師に尋ねる。

「変わられた…と思うか?」シェバは顔を上げない。

「はい…あの…まさか弟君のせいなのでしょうか?」

「そうだ…」

“変わられたのではない…十年前に…戻られたのだ”不覚にも零れた涙を兵達に見せるわけにはいかない。

兜を深く被り直し目を覆う。

「兄君に向かい対等に口をきかれるのですね、あの方は…」

ディジャスの口調には困惑と…微かな嫌悪が交じっている。

「ジャス、お前が感じた通り殿下を変えたのはあの方だ。だからこそ我らは殿下にお仕えすると同じくあの方にもお仕えせねばならぬ」シェバの声は元の重厚で穏やかなものに戻っていた。

「あ、はい。承知しております」それはヴァイロンがシェラムをタランティア宮に連れ戻すという当ての無い旅に同道した時から覚悟している。

「ならば人前で弟君の評など口にするな。アキロニアに戻れば我らをはじめ一部の者しかシェラム様と接する機会はない。弟君はしばらくは国中の注目を集めるだろう。我らの言葉が人づてに伝わりそれが噂となってあらぬ疑心を招く…十年前を思い出せ」

「あ…心に刻みまする」声を震わせ、ディジャスは頭を垂れた。

「あの折の真相は一部の者しか知らない。シェラム様は大逆を犯した張本人とされたままなのだ。タランティア宮に戻られし時は我ら一丸となってヴァイロン様をお助けしシェラム様をお守りせねばならぬ」

「はっ!」

「おお、黒龍騎師団の旗だ。カルネが着いたな…ジャス、行って殿下の命令を伝えよ」

軍師に一礼し補佐官はやって来た仲間の元に駆け去った。

そうでなくても…先のユウラとチァンリルの報告で、王宮内には既にあれこれと憶測が飛び交っている。

お二人を支えねばならぬ…失敗すれば二度と再びヴァイロン様のあのような御顔を見ることはできまい。

シェラム様…父君、兄君が揃って遠征され一人王都で留守を守ったのは…あの方がアキロニアに来られて二年目の冬だった。

タランティアの外れにあったペリアス殿の館で幼い弟君は我々が訪れるのを待っておられた。

“シェバ、ガイはまだ戻らないの?”

“は、すでに帰路につかれておられます、月の終わりにはお帰りです”

“ねえ、パブリウス、父上にお願いして…次の遠征には私もガイと一緒に行きたい”

“皇子はまだ初陣には早ようございます”

“そんな事ないよ、ガイは私の年には、もう海賊船に乗って父上と一緒に戦ったって言ってたもの”

“さ…それは…”国益を賭けた戦争と海賊の略奪行為を一緒には語れない。

さすがの知恵袋、名宰相と詠われた父パブリウスも幼い子供相手では勝手が違う。

言葉に窮して傍らの息子を見る。

“お手紙でございます、兄君からの…”

伝令がもたらした手紙を涙目になった幼な子の前に腰を折って差し出す。

“わあ!”小さな身体が抱き付いてきた。“ありがとう!シェバ!”

喜色満面の笑みに変わった子供は手紙に頬ずりをした。

“皇子、お気が塞がれるならわたくしと王宮へお出でください。王妃様も気になさっておいでです。皇子の御館は王宮内にあるのですから…”

“ガイが戻ったら行くよ”即座に答えが返る。

“いつもガイは王宮に戻って来ると、真っ直ぐここへ迎えに来てくれるもの”あどけない微笑み。

抱き付いた腕を解く。

“我が儘言ってごめんなさい、宰相殿…知らせてくれてありがとう”頭を垂れて礼を述べる。

“シェバ、今度王宮に行ったら後宮にも回るからゼノビア様にそう伝えて…”手紙をしっかりと胸に抱きしめてペリアスの待つ奥へ去った。

一文字一文字を暗誦するまで読み返し、ひたすらに月の終わりを…兄君の迎えを待つ…

どれ程孤独であったろう…

あの幼い年で自分を律する事を知っておられた。

兄君だけが心の支えであると解っていながらわたくしは…お助けすることができなかった…

「軍師!」

ハッとして顔を上げる。

マントの端で顔を擦った。

「殿下が来たってホントかよ?」ホルストの屈託のない声がした。

「ああ、そうだ」

「シェ、シェラム様も御一緒というのは誠ですか?」ベンダーヤの勇者の声が上ずっている。

「おお、チァンリル殿。シェラム皇子も先ほどまでここにおられた」

「シェバ殿、今ジャスから聞いたが周りを固めるだけだの深追いはするなの、本当に殿下の御指示なのか?」いつもは意見などした事のないカルネが勢い込んで尋ねる。

「あり得るかもしれんぞ」ユウラが後ろから遮る。

「コーシェミッシュからシェラム様と旅立たれた時殿下は穏やかな…優しい目をされていた…俺はあんな殿下を見たのは十年ぶりだ」

「お前、帰還した時そんな事俺達に伝えなかったじゃないか?」カルネとホルストに咎められユウラは小さな溜息をついた。

「言っても信じないだろう?あの殿下が弟君を抱きかかえて、星空を眺めながら笑いかけているなんて…」


崖の中腹の窪みに二頭の馬影があった。

「成る程、矢を射かけれるには絶好の場所ですな」ジニアスは嘆息した。

こちらから標的は丸見えだが、敵からは重なり合う岩が邪魔をして天然の盾となっている。

「さっき馬で下った時見つけた」ヴァイロンは淡々と愛弓の持ち手に蔓を巻き騎射の準備をしている。

「弟君をお一人であちら側に回されて大丈夫なのですか?」謹厳実直なジニアスはいつでも誰にでも思ったままを口にする。

「うん、最初からそういう作戦だったんだ」だからヴァイロンも構えることなく気さくに答える。

禁忌(タブー)とされていた少年をすぐに“弟君”と呼び、仲間として案じてくれる…この厳つい顔の幼なじみが好きだった。

「あっちにはウィスカが付き添ってくれたしな…いや、正直お前らに遇えてよかった。あいつは自分で判断できないと崖を飛び越えてこっちにやって来てしまうんだ」

「は?この峡谷を?」

「うん、俺でも飛ぶとなったら幅が狭い所を探す。なのにあいつは迷わず俺の正面から飛んできた」

「……………」

「ああ、呪術じゃないぞ。敵に変な坊主がいてな、そいつに気取られぬようシェーラは術を使ってないんだ」

嬉しげに語る主人に思わず目頭が熱くなった。

「よろしゅう…ございましたな…シェラム様が…武勇優れた御方で…」

「まだまださ、下の敵に見つかったら大事(おおごと)だった。ホントに無鉄砲で困った奴だ」言葉とは裏腹な満面の笑み…

ああ、少年時代の…共に剣の腕を磨き、遠乗り早駆けで馬攻めしたあの頃の殿下が戻ってこられた。

「ジニアス様?」ボッソニアの部下達が顔を覆った主に駆け寄る。

「大事ない、目に砂が入った」差し出された布を目に押し当てジニアスは泣き声を殺した。


「来ました!」特殊部隊一の足の速さを自慢する少年兵が駆け戻った。

「よし、狼煙を上げろ、後の者は持ち場に就け」ウィスカは落ち着いた声で指示を出すと傍らの馬上を仰いだ。

主人からくれぐれもと託された弟君は馬に乗ったまま斬り込むつもりだ。

敵は度肝を抜かれるだろう。

最初、自分達が呆然と見送ったように…眼前で崖を下り、先ほどまた難なく登ってきた。

どこから見ても普通の蹄鉄を打った栗毛にしか見えない。

王太子殿下といい…このご兄弟はいかなる鍛錬を積んでこられたのか…辺境地帯で生まれ育った持ち前の敏捷な身体に厳しい訓練で習得した体術、特殊な格闘技をこなしてきた自分達ですら思いもつかない。

「ヒューイ!」ウィスカは駆け戻った少年を呼んだ。

「シェラム様のお側につけ」

「はい!」

オレンジのベールがこちらを見下ろしている。

慌てて跪いた。

「いいよ、いちいちそんな事しなくて…」柔らかな声がベールの奥から響く。

「このまま降りるけど付いてこれる?」スラリと長剣の鞘が払われた。

「はい!脚にも体術にも自信があります」初めてみる片刃の剣は砂漠の太陽を反射して真っ白に輝いている。

東洋の御方なのか?未知なる土地への憧れが湧く。

「シェラム様!」ウィスカの指が下を指した。

眼下を黄金の飾りが二対前後しながら進んでいく。

警邏隊の軍旗はまだ後方だ。

対岸の中腹から狼煙が上がった。

「崖の途中まで降りろ!」ウィスカの命令で一斉に崖を駆け下りていく。


もうすぐ峡谷を抜ける。

此処までは駐屯兵は配されていない。

警邏隊は見送る兵もいなくなった谷底の道をしずしずと進む。

「隊長!」斥候が戻ってきた。

「獅子の紋章を付けた軍隊がこの先の砂漠に布陣しております」

「獅子の紋章?」咄嗟に浮かぶのはアキロニア…

「いかほどの軍勢か?」

「見回しただけで三万から五万…砂漠を覆い尽くしております。数は定かではございません」

アキロニアだ…間違いない。

それだけの軍勢で遠征できる国などハイボリア広しと言えども他にない。

しかし…“コナンの同志”が手引きしたとしても数時間で布陣するなど…

「お前達は今まで何を見てきたのか?それだけの軍がいきなり砂漠に現れたというのか?」

斥候達は顔を見合わす。

「その通りでございます。いきなり現れました」

「多分ヴィラエット海から迂回して来たのでしょう。東方の道に詳しい者が先導すれば、数時間でここまで来れましょう」ビゼハッタが後ろの輿から天蓋に掛かる御簾を上げて声を掛けた。

「目的は何か?」ザモラはベンダーヤを通してアキロニアと交渉している。

かつて長い間ツランと同盟を結んでいた事情から直接の国交はいまだ開けていない。

親密とは言えぬまでも特に外交問題は起きてはいないはずだ。

いきなり軍を派遣されるなど…考えられぬ。

待てよ…ビゼハッタが以前何か言っていたな…我が屋敷を壊滅させた賊はクマリ神だと。

馬鹿な…今のクマリ神はベンダーヤ皇太子ではないか…確か皇子は何かの陰謀に巻き込まれてアキロニアに亡命された──

アキロニア?そうだ皇子の父はコナン王だったと公表されて──あの悪名高きアウフグリの族長ゴールのコナンがアキロニア王その人であったとは…聞いた当時は自分の耳を疑った。

その陰謀とは、確かツランが糸を引いた…イムシャの魔王に操られた…

「ビゼハッタよ、お前はイムシャの魔王の眷属がクマリ神の仮面を被ってアシュラ教徒を誑かしていると言ったな?」

「左様、恐ろしい邪神、淫神にござる。それ故エキドナを籠絡し敬虔なるアシュラ教徒であるラメル様はじめ奥方様を亡き者にせんと企んだのじゃ」ビゼハッタは首にかけた数珠を取ると前にかざした。

その水晶に何かがキラリと光った。

ドスッ!ドスッ!

天蓋を矢が貫いた。

「うあああ」バラモン僧は数珠を放りだして輿にしがみついた。

「敵襲!」

「騒ぐな!」

岩陰から躍り出た人影が急斜面を駆け下って斬り込んできた。

「防げ!たいした数ではないぞ!」小隊の下士官が声を嗄らす。

だが彼らは奇襲に慣れていた。

まず騎馬隊と戦車を引く馬に襲いかかる。

革紐を絶たれた軍馬がパニックを起こし狭路を駆け戻る。

逃げまどう馬の嘶きと踏みつぶされる歩兵の悲鳴が峡谷に響いた。

「ええい、退くな!馬を繋げ!」ラメルは馬上で怒鳴った。

アキロニア兵か?いや違う、どこにも紋章は無い。

それどころか、こいつらまともに鎧も付けていない。

盗賊団か?おのれ!訓練した軍隊の恐ろしさを見せてくれる!

「第一小隊は右を守れ、第二小隊は左に展開しろ、後続の歩兵隊は逃げた馬を追え」ラメルは剣を抜き号令した。

と、その頭上を巨大な黒い影が横切った。

“!”

崖を駆け下りた馬がラメルの周りを固める兵卒をなぎ倒し、その正面に立ち塞がった。

「ば…馬鹿な…馬でこの崖を下るなど…」

ラメルはじめ兵達に動揺が起きた。

「何かの呪法じゃ、騙されてはなりませぬぞ」ビゼハッタの声に我に返る。

「この者のオーラはあの時の邪神のもの、忘れるものではないぞ!」アシュラ僧は輿にしがみついたまま行く手を塞ぐオレンジのベールを睨んだ。

その時、蹄の音が頭上に響くと、ラメルとビゼハッタの輿の間に黒駒が駆け降りてきた。

「残念だな、呪法じゃなくて。お前さんバラモンだったら術かどうか位の区別は付くだろう?」

変わった抑揚のベンダーヤ語で揶揄されバラモンの袈裟衣を纏った僧は激怒した。

「無礼な!貴様など我が法力で…」きっと睨みつけたズアジルの男には見覚えがあった。

「お、お前は御屋敷を襲撃した曲者だな!」

「シェーラ、こいつはお前に任せるぞ」黒駒は馬体を返しラメルに向き直った。

その後ろを栗毛がすり抜ける。

両側に岩の突き出た、この狭い道を…あっという間の出来事だった。

“凄い…お二人の息がぴったりと合っている”ヒューイは身体が震えた。

「ヒューイ、チァンリルを知っているか?」僧の輿に迫りながらオレンジのベールが訊いた。

「はい、ベンダーヤからの御使者でございますね。存じております」少年は初めて名を呼ばれ瞳を輝かせた。

「ここへ呼んできてくれ」

「はい」自慢の脚が切り結ぶ仲間の間を抜けて、あっという間に砂漠の出口に消えた。

「おのれ、魔王の子の分際でまだベンダーヤの皇太子面をするか?」バラモン僧は落とした数珠を拾い、印を結んだ。

“ふん、この私に呪術を掛けるつもりか?”シェラムの左眼が赤く光った。

「今こそクマリ神を辱めた報いを受けよ…」栗毛の耳の中から鉛色の指輪を取り出す。

馬が後ろ足で立ち上がり激しく嘶いた。

指輪が中天に放られた。

「サータ、この盗人から翡翠の面を取り返せ!」ステイジア語の呪文を唱える。

「うわあああああ!」輿を担いでいた奴隷が一斉に逃げ出した。

いや周りで戦おうと剣を抜き、矢をつがえて身構えた兵士達も堪らずに逃げ出した。

「セトだーっ!」

「蛇神セトだ!」

空中に現れた大蛇は岩を押し塞ぎ、道一杯に胴体をうねらせ、下に敷いた兵や馬を押し潰して進む。

逃げまどう兵を片端から呑んでいく。

大蛇の出現にラメルの馬が驚いて暴れた。

主人を振り落として逃げる。

その馬を鞍ごと一呑みにしたあと、サータは鎌首を擡げ辺りを見回した。

その胴にオレンジのベールが跨った。

「あそこだ、サータ!逃がすな!」

「シャーッ!」威嚇の声を上げ輿から投げ出された僧に迫る。

「お、おのれセトの手先だったのか?」

「邪神の次は魔王の眷属、その次はセトの手先か?お前の目では私の正体など一生修行しても解らないだろうな…」

再び印を結ぼうとした僧の手が止まった。

手首が何者かに押さえられたように動かない。

大蛇の赤く光る目の上でベールの奥からもう一つ赤い眼が…三つの紅玉(ルビー)が正三角形に輝いている。

僧の額から脂汗が滴る。

「シェラム様ーっ」

彼方からチァンリルの声がした。

落馬した隊長を追い立てた黒駒が、駆けつけた騎士に道を譲るため僅かに下がった。

そこをラメルは見逃さなかった。

黒駒の脚を狙い斬りつけた──はずの刃が打ち返された。

衝撃で腕がしびれる。

何という腕力…若い、だがそれだけではない。

戦場を渡り歩き数々の武勲を立ててきたが、これ程の使い手と相まみえたのは初めてだ。

この力で馬上からあの段平が振り降ろされたら…盾をかざして威嚇するラメル准将の心に恐怖が湧いた。

くそ、こんな所でズアジルの流れ者風情にやられてたまるか!

「おい、こいつを討ち取れ!」後ろで一塊になり戦意を喪失した部下達を手当たり次第に掴んで前に押し出す。

「その馬を貸せ」しがみつく下士官を馬から引きずり降ろした。

「みっともねえな、ザモラ軍の准将様にしちゃ往生際が悪いぜ」独特の抑揚のザモラ語が背中に飛んだ。

「だ、黙れ!若造!お前のような下卑な輩に戦士の気骨が解るか!」

「お前さん、戦士にしちゃあ小賢しい策を練りすぎたぜ。俺は成り上がり者の息子だから野望を持つ奴は嫌いじゃねえ。だがあんたは策士に成り過ぎた…策を弄する奴はロクな死に方しねえぜ」

「う、煩い!」鐙を蹴った。

前に押し出した兵達を蹴り飛ばして疾走しズアジルの男に襲いかかった。

ラメルが馬をぶつけながら躍り込む。

相手が手綱を引きながら段平を打ち下ろす。

そこを盾で防ぎ、さらに横から脇腹を抉る──勝負は一瞬でついた。

盾は段平の一撃を防ぎきれなかった。

ラメルの目に鋼鉄の盾ごと打ち落とされた腕が下に落ちていくのがスローモーションで写った。

そのまま敵の段平が眼前に迫り、兜に吸い込まれ…

鼻下まで切り裂かれてザモラ王国辺境警邏隊の隊長は絶命した。

そこにヒューイを従え、東洋の武具で身を固めた騎士が駆けつけた。

「う、うわっ!」眼前でトグロを巻く大蛇に手綱を引き絞る。

「おお、チァンリル!久しいな」ズアジルの騎士が呼び掛けた。

「あ、そのお声はヴァイロン殿下…」

「その蛇は俺達の命の恩人だぞ、忘れたか?コーシェミッシュの竪穴が陥落する前に助け出してくれただろう?」

「おお、あの折の…これ程巨大だったのですか…」太陽の下で見る大蛇は身体を伸ばせば崖上まで届きそうな図体をしている。

「お前の大事な皇子は、ほら…大蛇の上に乗っている」血塗れの段平で指された先にオレンジのベールが見えた。

不在の間にいきなり現れた大蛇にヒューイも目を剥いたまま立ちすくんでいたが、ヴァイロンの背後を守っていたウィスカ隊長に注意され自分の任務を遂行するべくチァンリルの側に走り寄る。

馬の轡を取った。

大蛇に怯える馬をなだめながら、真っ直ぐにオレンジのベールに向かって進む。

「シェラム様、チァンリル様をお連れしました」

「へえ、早かったね…ホントに君、脚が早いんだね」恐ろしい大蛇に跨る人に褒められるのは何か変な気分だ。

ステイジアの蛇神セトへの畏怖心は当時ハイボリア世界の末端まで染み込んでいた。

民族も宗教も身分も越えた恐怖の対象…だからこそ暗き闇の世に関わる者達はその姿を崇め、力を欲するのだ。

ボッソニアの辺境に育ったヒューイとて例外ではない。

それは東の果てベンダーヤも変わらない。

「殿下…お召しにより参上仕りました」恐る恐るベンダーヤ語で呼び掛ける。

「ああ、チァンリル…ホントにお前がいてくれて助かった…私がこの坊さん押さえてるから懐に入ってる包みを取って」

「は?」視線の先に故国ベンダーヤでも滅多に見ることのない最高僧バラモンの正装に身を包んだ僧侶が腕を震わせ腰を落としている。

「早く!もうサータが我慢できないんだよ、やっと押さえてるんだから!」ベンダーヤ語の激に即され慌てて馬を下りる。

額に脂汗を浮かせた僧の懐を探ると──

「これで…ございますか?」天鵞絨の包みを大蛇に向ける。

「開けてごらん、びっくりするよ」

「こ、これは!ガジューラ大師の…」翡翠面は砂漠の陽を受けてキラキラと輝いた。

チァンリルは腰を抜かしたかのようにびくともしない僧体の男を睨みつけた。

「お、お前はビゼハティだな?よくもガダの霊廟からこの宝玉面を盗んで逐電しおったな!」怒りで身体が震える。

「やっぱりね…アヨドーヤ大神殿奥の院の“気”を持つ祭祀具なんて普通にあるもんじゃないからね」

「シェラム殿下が大神殿を去られたあと第26代大バラモンたるガジューラ大師が身罷られました。この翡翠面はその御遺骸と共に埋葬された宝玉にございます」睨みつける僧─いや男と目が合う事すらおぞましい。

「うん、解っていた。ガジューラ御師の“気”だもの…全てを癒す…優しい方だったから」

「ベンダーヤの逆賊、アシュラ教徒の恥─よくぞこの地で巡り会えた、これもアースラ大神のお導きであろう。ルジャ宗家の嫡男として成敗してくれる!」長剣を抜く。

「待った!」抜き身を握ったままオレンジのベールが大蛇からヒラリと飛び降りた。

「下がりなさい、チァンリル。この者を誅するのは私だ」そのまま恐怖で引きつった顔の男に近づく。

「これでやっとお前の首を撥ねる事ができる。穢れた血でガジューラ御師の埋葬品を汚す訳にはいかないからね」左眼の輝きはパサリと落ちた前髪に隠れた。

「この者はクマリ神を貶めた…報いを受けねばならぬ…」長剣に描かれた文様がキラリと光った。

「ひい!」金縛りが解けたアシュラ僧は逃げようと手足をばたつかせた。

「アースラ大神の憑坐たるクマリ神を辱めたる罪は汝の命と因果にて償え!」白刃が一閃した。

どうした技か、何かの術か…落とされた首だけが真っ直ぐに前方に飛んだ。

そこに大口を開いて待ちかまえる大蛇の口中に向かって…

見る間に首を無くした身体がグズグズと崩れ、生臭い匂いを吐きながら溶けた。

敵も味方も…誰もが見守る中で、あっという間に骨も残さず黒いシミとなった。

バラモン僧の袈裟が風に舞い上がり峡谷の何処かに吹き飛ばされていった。

「チァンリル」長剣を鞘に収める。

「は、はい!」茫然自失していてはクマリ神の側近は勤まらない。

彼もまた幼少より武術の鍛錬と共にアシュラ神官となるべく修行に励んだ人物だった。

「その翡翠面を持ってアヨドーヤに帰りなさい」

「は…しかし…わたくしはシェラム様をお連れするまで帰国できませぬ」丁寧に面を包み直す。

「急ぎベンダーヤより使者を呼び、託しまする」

「あの女の命令?」ぞっとするほど冷たい声がベールから響いた。

砂漠の太陽の真下…二人の間に冷気が流れる。

顔を見せない主にもかかわらず正面に向いていられない…頭を垂れ膝を折った。

「その面がどれ程の霊力を帯びたモノか…一族からバラモンの高僧を輩出するルジャ家に生まれたお前ならば、それをガダ霊廟に戻す事がいかに重要か、解るであろう?」

「それは…」確かに滅多な者に預ける訳にはいかない。

しかし…イーデッタがベンダーヤに帰国した今、自分までもがおめおめと一人故国の土を踏む事はできない。

「シェラムはこれからアキロニアに戻る。こいつの気持ちが落ち着いたら必ずベンダーヤに行かせる。それでどうだ?チァンリル」

「ガイ!」黒駒が立っていた。

「コーシェミッシュで一度はこいつを俺に預けてくれたじゃねえか?」

「は…はあ」そのおかげでにイーデッタに託す女王への手紙に何と記すか…二人でどれ程悩んだ事か。

二人の間にオレンジのベールが割り込んだ。

「何言ってんのさ?誰が戻るって?アキロニアになんか行かないよ!」

ヴァイロンは段平を一閃し血を飛ばした。

「お前は何者だ?」

「えっ?」

「そして俺は何者だ?」鞘に収める。

「アキロニア王太子とベンダーヤ皇太子がザモラ軍と戦を起こした…この和平交渉を期にミトリダデスはアキロニアと五分で国交を結ぶ案を出してくるだろう。一切構いだてしない代わりにベンダーヤにも何かしらの恩を売ってくるはずだ。何せ権謀術策が大好きな王様だからな」

オレンジのベールが項垂れた。

「その覚悟でシェバ達は…チァンリルもやってきた。俺達は王位を継ぐ者としてそれに答えなきゃならねえ」

「チァンリル…」膝を折ったまま幼い時に別れた従者は泣いていた。

「当事者の俺達がタランティアに居なくてどうする?」

確かに最初はガイが始めたことだったけど…

結局、砂漠で拾った子供の仇討ちを、これだけ大きな揉め事にしたのは自分なのだ。

だからこそ最初は一人で決着を着けようと思いつめ、勢い込んだ。

「思う存分、やりたいようにやったろう?責任取らなきゃならねえんだよ」

「ガイは…関係ないよ。やったのは私一人なんだから…」

「馬鹿野郎、なに良い子気取ってんだ。さっき言ったろう?種を撒いたのはお前だけじゃねえ。俺だって好き放題に勝手をしたさ」

「ガイ…」

「戻るな?アキロニアに…俺と一緒に」

ガイと一緒に…

こっくりと頷く弟に苦笑する。──大分、分別が出来てきたな…

「そうと決まったら、この道を塞いでるサータを元に戻せ。これじゃ邪魔くさくてかなわん」


将を打たれたザモラ兵は総崩れとなって逃げ帰り結局、戦らしい戦をすることなくアキロニア軍は帰国の途についた。

「なんだよ、全く。まともに戦ったのはジニアスの部隊だけじゃねえか」ホルストは傍らのユウラに愚痴をこぼす。

「こっちに何の損害もなく終わったんだ。いいじゃないか」ユウラは事もなげに言う。

確かに遠征に費やした費用はなみなみならぬ金額である。

動かした兵士の数も尋常ではない。

しかしヴァイロンが命じたヴィラエット海からイラニスタンにかけて陣を張りツランの残党を威嚇する…という命令は達せられたのだから何も文句はない。

シェバの策は見事にイラニスタンに復活の兆しを見せたツラン一派を駆逐した。

チァンリルとイーデッタという高位のクシャトリアがたった二人だけで国を抜け、極秘のうちにアキロニアにやって来たのは唯ならぬ事情があった。

ツランの残党がイラニスタンのツラン派貴族と結託しベンダーヤ派の貴族を暗殺し、ヴィラエット海の利権を取り戻すべく暗躍し始めたのだ。

暗殺の魔手はベンダーヤに及び、すでに女王の側近たるアシュラの高僧が二人、厳しい警護の甲斐無く屠られている。

暗殺の危機はヤスミナ女王にもおよび、アヨドーヤ王宮内での危機はワザム(宰相)らの機転によって間一髪の所で回避されたが、軍を率いるクシャトリア(貴族階級)の動揺は大きかった。

もし今国家の柱たる女王陛下に万が一の事があれば…

国中の民がアシュラ教徒を統べる生神クマリ…王位継承者たるシェラム皇太子の帰国を望んでいた。

だが当の本人が母親への嫌悪で固まっているのだから仕方がない。

それを察したヴァイロンの指示を見事にシェバが果たしてみせた。

“アキロニア軍がヴィラエット海に侵攻”の報はコナンの同志によって瞬く間に伝わった。

五万の大軍に恐れをなしたイラニスタンのアルシャク王はツラン派貴族を粛正した。

アルシャクは父王コーバッド・シャー(王の意味)存命時に軽騎兵として身辺を警護していた若き日のコナンが諍いを起こしてイラニスタンを後にした事を知っていたから(彼は王位に就いてすぐにコナンを許し軍務復帰を命じたが)お互い昔の古傷を晒すのは得策ではないと密使を立て、今までどおりツランの残党狩りに精を出すとの約束で領土も削られず、賠償金も取られず、人質を差し出さずに事なきを得た。

暗殺騒ぎはぱったりと止み、ヴィラエット海沿岸に出没していたツラン船は影を潜めた。

ユウラの声が弾んでいるのは、シェバの軍略が成功したからばかりではない。

シェラム皇子がアキロニアに帰還される…コーシェミッシュでヴァイロンと別れた折の状況を知っているユウラには奇跡とさえ思われた。

それが、こんなに早く実現するとは。

更に喜ばしい事がある。

三ヶ月ぶりに再びまみえた弟君は、その様子を一変させていた。

北のオアシスに立ち寄った軍隊の前に小さな人影を乗せた灰色の痩せた馬が走り寄った。

「アイーシャ!」夥しい軍勢に、一瞬ひるんだ子供に向かいヴァイロンが呼び掛けた。

「青い旦那様!」その顔はすっかり元に戻っている。

鞍前に赤い外套ごと抱き取って、その柔らかな頬を撫でる。

子供を抱えるヴァイロンの様子をシェバやディジャスはじめ周囲に居並ぶ兵が口を開けて眺めている。

こんな王太子は見たことがない──

「治ってよかったな」

「はい、白い旦那様のおかげです」

「やるじゃねえか、魔道士」振り返った先にオレンジのベールを目深に被った弟の乗る栗毛が少し離れて佇んでいた。

「アイーシャは生命力と精神力が人並み外れて強いからね、私とヒドラは少し力を貸しただけだよ」

ベールがするりと外れた。「おいで、アイーシャ」

「おおーっ!」砂漠を埋め尽くす軍勢が声を上げた。

小高い丘に立つ栗毛は遙か彼方からでも見て取れた。

これが弟君か!

なんと美しい…

風に黒髪をなびかせた白皙の少年──凛として近寄りがたい美貌ながら、その醸し出す色香は艶めいて…更に東洋のエキゾチックなイメージが重なり少年の姿態に酷くアンバランスな風情を与えている。

どことなく恐ろしい…おどろおどろした違和感を感じてしまう。

神と魔、聖者と男娼が一体を成しているかのような…それが“シェラム様万歳”“王弟殿下万歳”という上がるべき歓呼の叫びを消していた。

万を超える歴戦の猛者達が声を殺して、ただ見入る。

異様な雰囲気にシェバは唇を噛んだ。

アキロニア救世の英霊エペミトレウスよ…お救いください──“今のシェラム様はエペミトレウスの意志の下で生かされている”

ユウラとチァンリルの報告を信じるしかない。

ヴァイロンが“白い旦那様”の呼び掛けに腕を伸ばす子供を栗毛の側に降ろした。

駆け寄ったアイーシャをシェラムは抱き上げた。

「うん、もう大丈夫」にっこりと微笑む。

そこに張り付いたペルソナ(仮面)の笑みはない。

その途端だった。

「イシュタル…」というざわめきが兵に広がった。

「イシュタル!」

「イシュタル!」

それは怒濤の叫びとなる。

アイーシャに頬擦りをするシェラムの顔は慈愛に満ちていた。

彼らはその姿に大地母神、豊穣と繁栄の女神イシュタルを見た。

「イシュタルのご加護を!」ポイタイン騎士団の先頭でユウラも声を上げた。

「イシュタル万歳!」補佐官のホルストが馬で駆け回り、声を煽る。

「聖母イシュタルを讃えよ!」寡黙な団長カルネが滅多に上げない大声に黒竜騎士団も和して叫び続けている。

丘の下でシェラムの素顔を初めて見たまま硬直していたジニアスもそれに続く。

その背後でウィスカも剣を突き上げ叫んだ。「イシュタル聖母神の御子に幸あれ!」

「シェバ殿…」ディシャスが絹の布切れを差し出した。

「まったく情けないな、ヴァイロン様と久しぶりにお会いしたら涙腺が緩んでしまった」この日シェバは西の聖地ゴラミラ山に向かいエペミトレウスに感謝の祈りを捧げた。

その涙腺が緩んだ軍師は後方の戦車でヴァイロン、シェラム両殿下と共に進んでいる。

「ねえ、アイーシャをアキロニアに連れて行ったら駄目かな?」今はヒドラに乗るシェラムが半馬身先を行く兄に問いかける。

「俺は構わんが…」仇を討ったとはいえ今は亡き家族の思い出が残る邑で、この先一人生きていくのも辛いように思われる。

「どうする?俺達と一緒に来るか?」鞍前に坐る子供に声をかける。

「はい、旦那様」アイーシャは躊躇しなかった。

「よかった、そうじゃないと困るんだよね」再びオレンジのベールを目深に被った少年が安堵の声を出す。

「何故?」キンメリア語を解する者はシェバくらいだから気軽にやり取りできる。

「契約したんだもん。仇を討たせてあげる代わりに一生涯私に仕えるって。身体と心と命…未来永劫私のモノ──命の遣り取りしたんだからエキドナとは代償の重さが違うんだよ」

「殿下!」聞きとがめたシェバが脇を行く戦車からヴァイロンに声をかける。

解る─とはいってもキンメリア語に堪能している訳ではない、しかも蹄と甲冑の音にかき消され言葉の端々が理解できない。

それでもシェラムの言葉は聞き捨てならなかった。

“魔道士である”と宣言しているようなものだ。

ジニアス配下の一部の兵は大蛇を操るシェラムを見ている。

だがその兵達もがイシュタルと見まがう慈愛の姿に感動し王弟殿下を受け入れた矢先だというのに─

「仕様がねえよ、シェバ。こいつは魔道士なんだから」アキロニア語だった。

「殿下!」戦車の手綱を取っていたディジャスが驚いて振り返る。

「隠したってそのうちばれるさ。小指の爪が紅くて、乗ってる馬の目が蜥蜴なのはごまかせるとしても、本人が平気で呪術を使うんだから。お前らもそのうちタランティアで“使い魔”って奴にお目にかかれるぜ」後ろを振り返る。

「で、アイーシャを連れ帰ってどうしたいんだ?仕えさせるたって王宮には侍従も侍女も奴隷も腐るほどいるんだ。こんな子供の出番はないぞ」キンメリア語に戻る。

「ゼノビア様に預けようかなって。あの人…子供を生めない身体にしてるんでしょ?だから親代わりになって貰えたらいいなって…」

それはゼノビアだけではない。

十年前の政変以来、後宮でコナンの寵愛を受ける女達は全てミトラ神官デキシゼウスの秘薬によって懐妊できぬ身体となっている。

正妃ゼノビアが率先してその薬を呑んだ。

それを知るのは当のゼノビアとコナン、そして王太子とデキシゼウスのみ。

しかし、水晶球を操る魔道士はその事実を知っていた。

「セラリオ(後宮)に?そいつは駄目だ。あそこはガキでも男は入れねえ」

「……………」一瞬の沈黙があった。

「兄上様、畏れ多い事ながら、この童子(わらわ)を男の子(おのこ)と思し召さるのか?」

「なんだ?いきなりネメーディア語で…お前のネメーディア語はゼノビア仕込みだから後宮言葉で気色悪いんだよ…って、オイ?それってまさか…」

「そういう事、この子のアキロニア語はコナンの同志に習ったから男言葉なんだよ。大体、スミレの花を織り込んだ赤い外套なんて“女の子です”って言ってるようなもんだと思うけど…」

「殿下、わたくしもこの子の邑長から“姪”をくれぐれも宜しくとの手紙を貰っておりますが…」シェバがたどたどしいキンメリア語で口を挟む。

「お前、女だったのか?」懐の子供ははっきりと答えた。

「はい、旦那様」

「どうしたいんだって質問だったよね?生涯仕えるんだからゆくゆくは私の子供を産んで貰おうかなって…」

「お前…こんな子供が孕めるか?」一瞬ペリアスの尖塔の地下で眠っていた子供達の姿が頭をよぎった。

だがヨトガに逢って変わったとシェラムは言っていた…

「十年もたったら立派な大人だよ。ヒューイくらいな年格好じゃないかな」

傍らでおっかなびっくり妖馬の轡を取る少年を見る。

「信じられないけど、ヨトガが気に入ったって…目を治すのにヨトガの樹液を使ったんだけど、この子の身体の中に入った樹液が見事に同化したんだよ。さっき言ったでしょ?半端な生命力じゃないって」

小指の爪が紅く光る。

「アイーシャの危機はヨトガを通じて感じるし、その逆もある…ってそんな事起こるわけないけどね」

十年か…そうしたら俺は幾つになっている…?

首を振って頭に浮かんだ数を消した。

馬鹿くせえ、十年先まで生きてられるかわかんねえ。

それでも十年先、菫色の瞳の少女が婚礼衣装に身を包み微笑む姿を見たいと思った。

「お前、こいつが亭主で俺が義兄(アニキ)ってことでいいのか?」ついキンメリア語のまま尋ねる。

「はい、旦那様」キンメリア語の答えが返ってきた。

ああ、しまった…キンメリア語を教えたのを忘れていた。

今までのやり取りは全部…

砂漠の砂が柔らかになった。

所々に緑が交じる。

彼方に水の煌めきが見えた。

あの大河を渡ればアキロニア領内に入る。

「アイーシャ、お前の新しい母さんはな…」

第5章 完


あとがき

仇討ち話やっと完結いたしました。

今回は全くエロ無し…でも戦闘シーンが書けて楽しかったです。

どうせならコナンシリーズとは趣の違う戦闘シーンにしたかった←書き上がってみると意識しすぎた感がありますが…

(コナンぽい戦闘シーンは、まだまだこれから書く機会があるはずなので)

今回オリジナル・キャラばかりになってしまいましたが、イラニスタンでの傭兵時代のエピソード(諍いなんて生やさしいもんじゃありません)はハヤカワ版=『荒獅子コナン』の“火炎剣の魔境”、創元版=『コナンと焔の短剣』に載っています。

宿敵ツラン王イェズディガードとの死闘はハヤカワ版の『復讐鬼コナン』の“血の海”にあります。

ちなみにヴィラエット海とは現在のカスピ海で、内海という設定です。
つまり外洋ではありません。シェラムがこだわる海とは外洋の事です。

ついでにコナンと王妃ゼノビアとの出会いはハヤカワ版の『征服王コナン』に、シェラムの母デビ・ヤスミナとの出会いはハヤカワ版=『風雲児コナン』、創元版=『コナンと黒い予言者』に載っています。

ヴァイロンの母親、アキロニアの女海賊ヴァレリアとの出会いはハヤカワ版=『不死鳥コナン』の“紅い封土”、創元版=『コナンと古代王国の秘宝』の“血の爪”です。

もし古本屋などで見かけたらチェックしてみてください。

同じ話でもテイストが全然違いますから(笑)勿論二次創作ではありません、あくまで訳者の感性の差違です。

だから私もここまで自由勝手に書けるんですよ(笑)

如何だったでしょうか?

また感想・御意見を楽しみにしております。

書・U・記/拝

icon362.gif 邪学館お品書きへ

icon364.gif  ハイボリアン戦記第4章へ

icon365.gif ハイボリアン戦記第6章へ