第6章 孤竜絶唱

六頭立ての馬車が石畳を駆け抜けて行く。

通りに面した店が道にまで大きく売り物を広げ、売り子が声をからして客を呼び込む。

品定めをする客の間を縫うように通り抜ける人々で大変な賑わいだが、広く舗装された通りは中央を馬車や騎馬が通っても何ら通行の邪魔にならない。

所々に植えられた街路樹がつくる木陰には一休みする人々が思い思いの格好で憩い、その間を物売りの子供が飲み物や煙草の入った篭を下げて練り歩く。

タランティア宮を中心に放射線状に伸びる大通りは帝王コナン自慢の一つであった。

さらに大通りを繋ぐ小路も整備され、そこにも露天が軒を連ね人々がひしめいていた。

行き交う人々は皆こざっぱりとした…時には豪奢な衣服を纏う者達もいるが、大半は木綿ではあるが清潔な身なりをしている。

時折くたびれた身なりの者が目に付くのは、異国からの旅人…行商人や傭兵くずれ、国を追われた流浪の民だ。

彼らと比較すれば、このアキロニアという国家がいかに繁栄し、高い生活水準にあるかがわかる。

これが西方第一の大国に急成長した大帝国の昼の姿なら、夜は夜で露天が店じまいした小路は別の繁華な顔を見せる。

酒場や食い物屋が一斉に灯りを点し、劇場や大浴場といった娯楽施設も扉を開ける。

通りから一歩入った辺りには賭博場や娼館といったヤクザな商館も立ち並んでいたが、これも他国にある色町とは違い極彩色な彩りに飾り立てた華美な店が多く、暗く人目を憚るような雰囲気はない。

どの建物も二階三階と高さも奥行きもある立派な造りで、華麗に飾り立てた楼閣が競ってそびえている。

そこから洩れる灯りが夜空を照らし不夜城の如き賑わいに一層華を添えていた。

時折酒の上でのいざこざが起きるが、市中警備の軽装兵がやってきてあっという間に収めてしまう。

これくらいの大都市になれば暗黒街と呼ばれる違法区域や貧民街の一つもありそうなものだがタランティアにはそれも無かった。

異邦人らは遙かタイボール河の向こう岸を転々と移り住んでいて、市街地の外れにも近づかない。

治安の良さでもアキロニアの首都は群を抜いている。

評議団言うところの“不健全な施設”がヤクザな稼業の者達を収容する捌け口となる事をコナンはかつての経験から熟知している。

揉め事は彼ら自身が組織の内部で解決する。

食い扶持さえあれば敢えて法を犯し、カタギの生活を脅かすことはない。

悪党も使いようで役に立つ──盗賊上がりの国王は彼らのような裏社会のアウトロー等にも人気があった。

それでも巾着切り…掏摸や置き引きの類は時々あったが、大概が他国から流れてきて食い詰めた者達だった。

匿う仲間も潜む場所も無いのだから、すぐに通報され捕らえられる。

だからほろ酔いの男達は戸口から半裸の躯をせり出す女達の品定めをしながら彷徨いていても、金を巻き上げられる心配はなかった。

その後ろを薄汚れたオレンジのベールが歩いている。

追い越したいのだが、道一杯に酔客や酌婦がごった返していて思うように進めない。

行き違う男女は、そのみすぼらしい態(なり)を一瞥し、汚れが移るのを嫌い大仰に避けて行く。

どこからみても砂漠からやってきたキャラバン相手の男娼だ。

だが裾がボロボロになったベールから覗く脛は青白く、足首がキュッと締まっている。

くたびれたサンダルが不釣り合いな桜色の指先も真っ白な踵も、今まで外路など歩いた事がない…まるで馬車か輿にしか乗らない王侯貴族の姫君のような佇まいを見せている。

店の横に蹲っていた男達は眼前を行き過ぎるその白い脛に眼を奪われた。

日暮れから博奕場に籠もっていたが、小銭を残してあらかた擦ってしまった。

晴れない気分のまま残りの金で安酒を喰らっていたが、いよいよ金が底を突いて叩き出されてしまった。

“むしゃくしゃする”

“なんでもいいから犯(や)りてえ…”

悪酔いが性欲を呷る。

捕まってもいいから強姦でもなんでもしてやりたい衝動にかられる。

だが、捕まってはつまらない。

コナンが定めた刑法は人々への見せしめと再犯を防ぐ目的でかなり厳しく過酷な刑罰が多かった。

“流れ者ならアシがつかないだろう…”

言葉が通じないから訴え出られる危険は少ない。

コナンは司法官に異国の者の訴状でも裁くよう命じてあったが、それでも訴状自体はアキロニア語なので裁判沙汰になる事件は少ない。

大概は官憲が間に入り示談で事は済む。

異邦人を物色する男達の目線が皆に避けられながら進むオレンジのベールに留まった。

“男娼か…女の方がいいんだが…”

この際贅沢は言えない。

“躯をひさぐ生業(なりわい)なら手っ取り早くていいだろう”

“こいつなら後腐れもなさそうだ”

男達は顔を寄せて話し合うと腰を上げた。

前に回り込み遮る。

仲間が周りを囲んだ。

「客引きかい?」

「こんなとこ流してたってお前みたいな小汚いの誰も買わないぜ」

「俺達が買ってやるよ」

「五人で…」指を三本立てる。

「いいだろ?」勿論払う金など無い。

寄って集って犯した後は逃げる算段だ。

背後に回り込んだ仲間が肩を押して店の隙間に追い込んだ。

そのまま店裏の路地に連れ出す。

背後にいた男が荒い息を吐いて抱きついた。

「我慢できんねえ」そのまま押し倒す。

ベールが外れて漆黒の髪と白い首筋が顕わになった。

こちらに振り返った顔に、男達が息を呑んだ。

ありきたりな表現だが絶世の美女…いや男なのだが、女でも男でもここまで美しい顔を見たことが無い。

上から降り注ぐ真紅の灯りに東洋人特有のエキゾチックな美貌が映え、さらに妖艶な雰囲気を見せる。

「すげ…綺麗な顔してるな」

「ああ、絶品だぜ」

「何だよ、お前女の方がいいって」

「こいつならしゃぶらせるさ」だって、あの唇…あんな艶っぽい口元をしたヤツは王の後宮(セラリオ)にだっていないだろう。

それにこの目つき…たまらねえ。

背中がゾクリとした。

影を落とすほど長い睫毛に彩られた黒目がちな瞳が潤みを帯び、震いつきたくなるような色気を醸し出す。

下履きの中で股間が痛いほど勃っている。

「が、我慢できねえ!」のし掛かろうとした男は美貌の男娼の…その瞳に違和感を覚えた。

左眼の奥が──紅…

そのまま、ひた…と視線が据えられた。

「うっ?」息が…できない?

指一本動かない。

だが男根は屹立したままだ。

下履きもずらさずに射精した。

「ちぇ、だらしねぇな」

「おら、代われよ、後がつかえてんだ」

仲間がのし掛かったままの男を引きはがす。

と──彼らの躯も硬直した。

次々に道ばたに倒れ込む。

腰がカクカクと上下し、股間にシミが広がった。

特有の匂いが辺りに漂う。

倒れていた男娼が起きあがり、ベールを被り直した。

左小指を咥える。

「どう?満足した?」独り言が洩れる。

「うん…久しぶりだからね」小指を外す。

今度は右の薬指を眼前に持ってきた。

「わかってるよ、今度はお前だよね。街の外に処刑場があるって書いてあったから、そこに行けば迷ってる死霊の一つや二つはいるだろう」鉛色の指輪にステイジア語で話しかける。

「あの子もうまく巻いたみたいだし…」そっと辺りを見回す。

指輪に埋め込まれた二つのルビーがキラキラと輝いた。


ヒューイは動転していた。

完璧に尾行していたはずだ。

最年少とはいえ、幼い頃からウィスカ隊長の下で訓練に励み、ボッソニア特殊部隊に入隊を許されている。

ボッソニア軍の中でも特殊部隊はゲリラ戦法と破壊工作専門の精鋭部隊だ。

その最も得意としているのが情報活動だった。

訓練された隊員の尾行を巻くなど、よほどの手練れでなければあり得ない。

自分が後を付けている事を承知の上で人混みに紛れた…

みくびっていた──十年もの間、留守にしたのだ、街は変貌していて土地勘も無いはず…と高を括っていた。

そのシェラム殿下に巻かれてしまった…

どうしよう!もう、これ以上の失態は許されないというのに…

ザモラ国境戦線から帰還してすぐにボッソニア軍の指揮官ジニアスと、部隊長ウィスカに伴われ、王太子付きの軍師シェバに拝謁した。

そこで正式にシェラム王子の小姓に任じられた。

だが実際に与えられた命令は諜報だ。

王子の宮殿…東宮を訪ねてきた者を書き留め、どのような用件であったのかも詳しく記す。

何処に行くにもシェラムに従い、行き先を報告する。

そこでどんな人物に会ったのか、何をしたのかも同様に知らせねばならない。

納得できない…あの岩場で数時間ではあったが主人として仕えた王子様は立派な方だった。

確かにいきなり現れた大蛇には魂消(たまげ)たが──

それでも自分とそれ程年は違わない…あの高貴な美貌に惹かれ羨望していた。

「王弟殿下に対し何故そのような?」高官のシェバに思わず質問をぶつけた。

「お守りしたいからだ」一兵卒の無礼を咎めもせずに軍師は眼を閉じた。

「十年前の悲劇を二度と起こしてはならぬ…」ジニアスとウィスカも深く頷いた。

「お前を小姓に…とはシェラム様からのお申し出なのだ」

もっとも帰国後、自分の為に集められた百人からの侍従、小姓から近衛兵まで全てに暇を与え東宮から追い出した後、広大な宮殿で一人暮らしを始めた第二王子に“何とか連絡係として一人”…となだめすかして導き出した名前がヒューイだった。

「我々を信じてくれ。お前にとっては間諜と変わらぬ務めに思えるやもしれぬが、これは、まさしくシェラム様をお守りしアキロニアを救う唯一の手だてなのだ」シェバは辺境地帯に暮らす山岳民の少年に向かい深々と頭を下げた。

ジニアスもそれに続いた。

実直な彼は“唯一の主と慕うヴァイロンを二度と傷つけたくない”という心情を朴訥な口調で語った。

「シェラム殿下の生い立ちはお前のそれに少し似ておられるのだそうな…」最後に育ての親と慕う部隊長は変な事を言った。

「俺はある事情からシェラム様という弟君がおいでになることすら知らなかった。先日シェバ殿より初めて詳しい話を打ち明けられた…それでもまだ心が定まらぬ。お前が嫌ならば役目は返上して構わない」怪訝な顔をする弟子をウィスカは優しく抱きしめた。

高貴な身分の方々に、こうまで処されては仕方がない。

今ひとつ事情を飲み込めぬまま、引き受けた。

こうして西の山岳育ちの少年は低いながらも官位を授かり、階級も昇進してタランティア宮へ自由に出入りできる身分となった。

シェラムの居城として建てられた東の宮殿は十年ぶりに主を迎えていた。

ロードタス河から引かれた水路を周囲に巡らした東洋風の離宮は水の中に浮き立つ白亜の殿堂だ。

しかし…

“なんと豪華で美しく…そして冷たいんだろう…”

深閑とした宮殿内に足を踏み入れた時、辺境からやってきた少年が抱いた第一印象は“高貴な死者の眠る霊廟”だった。

広大な宮殿には聞いていた通り侍女どころか奴隷も──いや人間だけではない、馬も犬も鳥もいない…

ひたひたと押しては返す水音だけが響いてくる。

その水面にも魚の姿は無い。

ただ植物だけは…

見たこともない極彩色の花々が咲き乱れている。

熟れた実を付けた果実がそこかしこに成っている。

“いつの間にこんな?”

王子が自分と共に帰国してから、まだ三日と経っていない。

だが不思議なことに甘い香りを放つ花々に群がるであろう蝶や昆虫の姿は無かった。

違和感が押し寄せた。

およそ生きて動いている物が何も…ない…

背筋が凍った。

自分はシェラム様に好印象を持っていた。

だから戦いの最中大蛇を操り、なんとも不気味な馬に跨られても恐ろしいとは感じなかった。

だって十年ぶりに帰国された殿下は居並ぶ大臣諸将、それに父王陛下の前で悪びれる事無くご自身から、ペリアス殿の導きにより魔道士となったと告白──いや、宣言されたと聞いていたから…

ペリアス殿は陛下の親友、そしてアキロニアの危機をその魔力で幾たびか救った御方と聞き及ぶ。

だから魔道士と言われても殿下を敬う気持ちに変わりはなかった。

だが──

ここにシェラム様の本性があるのだとしたら…

“やはり魔道士は魔道士…実は恐ろしい方なのではあるまいか…”

その密かな畏怖は一日、二日と日が経つにつれて大きくなっていった。

シェラムは食事を一切摂らなかった。

厨房はあるのだが料理人も給仕もいないし、貯蔵庫はからっぽで肉の一切れはおろかパンの欠片もワインの一杯も無い。

ヒューイの知る限りシェラムが口にするのは水だけだった。

いつの間にか池の水面をびっしりと覆い尽くした睡蓮──その葉や花弁に溜まった朝露を飲むだけだ。

その蓮すらも恐ろしい…ボッソニアの山村で古老が語った創世の物語には、必ず邪神セトとそれに仕える魔道士の忌むべき説話が盛り込まれていた。

黒睡蓮は遙か南──妖魔や魔道士が闊歩する禁断の地、セトを奉じるステイジアに源を発するスティックス河の畔に咲くと言われる伝説の妖花である。

その香りは陶酔をもたらし、蜜は媚薬となり、さらに実から滴る果汁から造られる薬は一度吸い込めば意識を失い、息をする事も忘れる程の深い眠りに誘う…と伝えられてきた。

睡蓮は夜明けと共に一斉にその花弁を開く。

ポン、ポンという開花の音で控えの間で寝起きするヒューイが目覚めると、きまって主(あるじ)は漆黒の花の間を縫うように全裸で水面を泳いでいた。

濡れた髪が朝日を受け黒睡蓮と競うように煌めく。

お美しい…

まさに魂が吸い込まれそうになりながら、じっと見入ってしまう。

黒睡蓮と戯れるが如き姿態のあでやかさに時が経つのも忘れ、とっくに王太子宮へ伺候する時間となっているのも気付かない。

初日から遅刻だった。

その初日にこの有様をどう伝えたものか…と思い悩んだ。

一、誰も訪ねて来ませんでした…二、殿下は終日書斎に籠もっておいでです…三…何も召し上がれません…四…宮殿に…誰もいないはずの殿下の部屋に…何かいます…でも花盛りの庭には虫一匹飛んでいないのです!── 十五の少年は叫びたい思いで王太子宮のシェバの執務室を訪ねた。

“もうこの任務は返上したい!”ウィスカ隊長は勤まらぬと思えば申し出よと言われた。

すぐに奥へ通され──

「!」

「よお…報告かい?ご苦労さん」

「王太子様!」慌てて膝を付く。

「おい、それじゃ話もできねえだろ?ここじゃその礼は無しだ。なあ、シェバ?」

「奥殿では拝礼はいらぬ、立ちなさい」軍師直々の言葉におずおずと立ち上がる。

「ジニアスから聞いた、お前に無理な役目を押しつけたそうだな?」

「いえ、あの…」

次期国王の気さくな態度に戸惑う。

ヒューイの知る王太子の人為(ひととな)りは冷徹非情というものであった。

先輩隊員から漏れ聞いた噂とは全然違う…

「シェラム様より市街路から東宮殿への道を封鎖するようご命令があった、勿論門も閉ざす。東宮への拝謁はここ王太子宮を通して行われる」

「え?」

「昨夜シェーラが来てな、当分誰にも会いたくないから謁見の申し込みは全部ここで断ってくれと言ってきたんだ」

「お前の任務は一部解除される。ただ殿下のお側に従うだけでよい」手の内を読まれた軍師は苦笑いをした。

ヒューイに与えた任務は当然ヴァイロンには黙していた。

だがどういう手段でか、すぐにシェラムは兄に連絡を取り、察したままに、こちらのもくろみをばらしてしまった。

即刻ヴァイロンはジニアスがタランティア城内で寝起きするボッソニア兵舎に出向き、事の真意を糺した。

実直な…命を王太子に預けている辺境生まれの騎士はひとたまりもなく事実を吐露した。

そして夜が明けるとすぐにシェバの元に現れたのだ。

たった一日で任務は変更を余儀なくされた。

「それでは、今後こういった報告は…」

「何か上告すべき事態が起きた時のみで構わぬ」シェバは新たな任命書を書いた。

「シェラム様がお前を侍従長にと…」

「ええ?」

「他に人がいないんだ、そりゃ当たり前だろう」愉快そうにヴァイロンは笑う。

「だが毎日ここに来ないとお前、飯も食えねえな…あいつ水しか飲まないだろう?」

「えっ?あの…御存知で?」

「ずっと旅してきたからな、あいつと…」ヴァイロンは遠い目をした。

「よし、朝と晩はここへ来い。飯だけ食って…いや、もしシェーラの近くが…東宮が気味が悪かったらウィスカ達の兵舎で寝泊まりしてもいいぞ」

この方は全てを御存知だ…あそこがどれ程恐ろしい所か…あの方が…

「殿下、それはなりません!」軍師がぴしゃりと押さえた。

「侍従長は何時如何なる時も王弟殿下のお側近くにあらねばなりません、例えば昨晩のように外出されるような場合も付き従わねばならぬのです」

“昨晩の外出…”ヒューイの顔に動揺が走った。

寝室の隣にいながら‥起きあがる気配すら察しなかった。

いや、開け放たれた扉から見える寝台の上にシェラム様はずっとやすんでおられた…

でも、気づかぬうちに黒睡蓮の中で泳ぎながら沐浴されておられたではないか…

気づかぬうちに──少年は項垂れた。

「たまたま会いに行かれた相手が王太子殿下であられたからよかったものの城外にお出ましになっていたら…何とするつもりであった?」表だって主人を責めるわけにはいかない詰問の切っ先は年少の部下に向かう。

「お許しを!」軍師の叱責に思わず床に膝を付きひれ伏す。

「だから、ここじゃ座り込まないでいいっての!」ヴァイロンがわざと明るい口調で取りなす。

「そりゃシェバの言うことは尤もだが、我が弟ながら大魔道士ペリアスに冥界、魔界を合わせても右に出る者はないと言わしめた霊力だからな、こいつに目眩ましをかけるなんざ朝飯前だろう」

西域最大の魔道士ペリアスをして“恐ろしい”と評されたシェラムの力。

だが、それを自分以外、アキロニアの誰が知るだろう。

一時共にあったユウラでさえ計ることはできない。

「まあ、出来る範囲でいいさ、あんまり根詰めると参っちまうぜ」王太子は執務室を出ていった。

「………」深々と頭を垂れて見送った司令官は、座り込んだままの少年に歩み寄った。

「王太子殿下のご厚情に感謝するように…表向きは報告という形で朝と晩は兵舎の食堂に行きなさい。ただそれ以外は必ずお側に…よいな」

「は、はいっ」

ヴァイロン様…この御恩はいつか必ず──任務返上など頭の中から消し飛んでいた。


東宮の主人は優しかった。

“あの岩山で初めてお会いした時と変わらない”──怪異な現象に遭遇しなければ自分の主人を崇める気持ちにも変化は無かった。

王子はアキロニアでただ一人の家臣に銀の針を渡した。

「朝晩しかご飯食べられないんでしょ?私に付き合うことはないんだけど…シェバに話すのもおっくうだしね。お腹減ったら好きな果実を食べていいよ」

甘い香りを漂わすオレンジを取る。

「ただし、実にこの針を刺して色が変わらなければね…」針を刺す。

「もし色が変わったら触ってもいけないよ、それは毒薬を造る為に育てている果樹なのだから…」針の色は変わらなかった。

「うん、これは大丈夫だね…お食べ」とヒューイに渡した。

シェラムは毎日を同じように過ごす。

特に報告する事はない…どうやって持ち込んだのか膨大な量の羊皮紙を次々と読破し、時折小さな水晶を覗き、そして睡蓮の池で泳ぐ主人を見守るだけだ。

ヒューイが読み書きを習ったのは入隊後だったから、アキロニアの古典文字で書かれた床に散らばった巻物を見ても所々しか解らない。

ただ蔵書場所をしめす押印には見覚えがあった。

宮殿内にある役所の書簡や評議会の議事録?何でこんなものを…言われるままに巻き戻しては書斎の隅に積み上げる。

積み上げたはずの羊皮紙は、翌朝には別の押印の物に変わっていた。

“何時の間に…”それは相変わらず自分に気づかれる事無く、監視の目が光る国家機密文書の保管所を行き来している事を示している。

宮殿内に怪しい気配が消える事はなく、夜ともなれば真っ暗な廊下の先から怪しい足音が追いかけてきたり、啜り泣く声が脇を通ったり、分厚いタペストリーが大きく揺れたり、時にはシェラムが誰もいない空間に話しかけ、その途端広間に嬌笑が響き渡った事もあった。

その度にちりちりと肌が総毛立ち、悪寒が奔る。

東宮の夜は人外の物が跳梁跋扈していた。

控えの間に置かれた長椅子の上で毛布を被り沸き起こる恐怖に耐えた。

逃げ出したかった──特殊部隊の厳しい訓練も戦場での経験も、ここでは何の役にも立たない。

そうして怯えたまま朝を迎えれば、いつ起き出したのか主人は白い姿態をくねらせ黒睡蓮に口づけしている。

静まりかえった宮殿で何もせずに過ごす昼、闇の恐怖と必死で戦う長い夜…朝晩の特殊部隊への伺候がなければとっくに正気を失っていただろう。

特に報告する事はない─報告しようにも報告できないのだ。

それでも少年のしなやかな感性は少しづつ新しい主人と職場になじんでいった。

僅かな物音にも飛び上がる少年をシェラムは寝室に招き入れた。

「言えばいいのに…恐ろしかったんだね」しばらく妖魔の類としか生活してこなかった。

だがみるみるやつれていくヒューイに気付いて、はっとした。

ペリアスと共に暮らしたカニリアでの日々を思い出した。

この肌を愛撫した奴隷達…攫ってきた子供達…皆心の底で自分を畏れ忌み嫌った──だから忘我樹(ユーバス)に変えた。

同じ人外のモノに成れば恐がる事はないだろう…永遠の時を共に過ごす仲間が欲しかった。

……短慮であった。

どんなに形を変えても人は人…ユーバスを外せば、また自分を見て怯える…

何度繰り返しても、違う子供を攫ってきても結果は同じ。

“人の生臭さは消えぬ”…求めていたのは古文書を書き写す皮膚や性愛の対象として愛でる相手ではなかった。

誰も我を解そうとはしない…

自責の念からカニリアの尖塔を後にした。

その時悟ったではないか、人間がどれ程奇異なるモノを畏怖するか…害を被る訳でも無いのに、気配一つにも怯えおののく。

ヒューイ、可哀想な事をした…

この感情が芽生えただけでヴァイロンが性格破綻者の弟を連れ帰った成果の、ほぼ半分は成就したと言っていいだろう。

「おいで」腕をとって寝台に引き寄せる。

主人の意志を悟って侍従長は腕を振り解こうともがいた。

「そ、そのような畏れ多い!」

「いいじゃない、こんなに広いんだもの…二人で寝ても充分だ、長椅子なんかで寝なくてもいいよ」

「なりません、自分はボッソニアの…」娼婦の子だ…と言いかけて口をつぐんだ。

西方諸国は女性の貞操観念が強かった。

裏町の酌婦であった母は誰とも分からぬ客の子を身ごもり、堕ろす事もできずに主人から追い出された。

ヒューイを産んだ後、生きるために従軍慰安婦となった母親は、逆に戦に巻き込まれて死んでしまった。

戦争孤児となったヒューイはボッソニア軍の将、ラーマン伯爵…ジニアスの祖父に拾われるまで乞食やかっぱらいをして流離っていた。

平民以下…いや籍の無い分、奴隷よりも賎しい出自である。

「あ、あなた様のような皇太子様と共にいるだけでも大それた事ですっ」

キラリと漆黒の瞳が光った。

腕を放す。

「無理にとは言わない…ではその隅にでも寝るがいい」

好きでベンダーヤの皇太子に生まれた訳ではない。

物心ついた時には“生神様よ”“クマリ神よ”と崇められていた。

挙げ句の果てはイムシャの魔王の子と罵られ…

もしも魔族の落胤だとしたら自分はこの国にはいられない──帝王コナンの息子はヴァイロン一人…それならそれでいい。

その思いは十年前と変わらない。

ガイは母親からアキロニアの血を継いでいる。

国民の誰もがガイを時期帝王にと望んでいる。

解っている、この国に自分は必要ない。

殿下と呼ばれなくても構わないし、こんな宮殿などいらない。

ただ…ガイの弟でなくなる事だけが怖かった。

どうしてもコナンの息子でいたかった…

だがいつか真実が暴かれる日がくるだろう──十年前の過ちはその恐怖心から起きた。

十年前…

自分の中でまだ決着は着いていない…

──誰が戻るって?アキロニアになんか行かないよ!──

それでも…兄は尤もな理屈を付けて忌まわしい過去から逃げていた自分を再びこの地へ戻してくれた。

──帰る場所は自分で創るんだよ──

“その為の第一歩を踏み出せ”と…あの岩山で兄の蒼眸は命じていた。

内政を司る評議、諸侯への帰国会見はその兄の視線と父コナンの威厳に味方されて何とか乗り切った。

だが次の一歩がなかなか踏み出せない。

肝心な──心の傷に触る事ができない。

ずるずると無為に日々を過ごしてしまった。

──俺も一緒に戦ってやる。だから逃げるな…遅かれ早かれ自分で撒いた種は自分で刈らなきゃならねえんだ──

ガイは黙って待っている…この池の向こうで…私が過去を乗り越えるのを…

「あ、あの殿下…」黙したまま背中を向け横になったシェラムに声をかける。

「殿下、ご無礼をお許しください、でも俺…自分は…」ご機嫌を損ねてしまったのだろうか…

クルリと背を向け夜具にくるまった主人に、どう謝罪していいかわからない。

「では…お言葉に甘えて寝台の下でやすませて頂きます」分厚い敷物のお陰で寝心地は悪くない。

天井から寝室の隅々まで眺める。

室内には、昼間も感じるあの怪しい気配が一切無かった。

「ありがとうございます、殿下…」

「………………」主人は何も答えなかった。

久方ぶりの安堵感に包まれて少年は熟睡した。

「ヒューイ…」

「ヒューイ…」揺り動かされて飛び起きた。

すでに陽は中天から西に傾いている。

“ど、どうして、こんなに寝過ごしてしまったのか…”

「よほど疲れていたんだね、熟睡していたから起こすのは可哀想かな…と思ったんだけど」

シェラムが遮光布のベールを持って佇んでいた。

旅先でずっと着ていた生成のローブを纏っている。

「所用でしばらく留守にする。いつものように身代わりを置いて行ってもよかったんだけど、今回はすぐには戻れないだろう。お前がまたシェバに咎められたらもっと可哀想だし…でも必ず戻ってくるから王太子宮には黙っていて構わないよ」

「お、お供つかまつります!」絶対に離れるなと命じられている。

「いいよ、ちょっと寄り道もしたいし…」

「いえ、何処までもお側に!」羊皮紙の片付けくらいしかできない侍従長にとって、唯一の仕事らしい仕事だ。

一本気な少年の熱意に押される。

“弱ったな…”以前のシェラムなら淫気を吸い取り、邪気を喰らう所を平気で見せた。

だがヴァイロンが示したあからさまな嫌悪に、これは人前では避けるべき所業なのだ…と気が付いた。

それ故、新しい侍従長にも見せてはならぬと気遣った。

「まあ、付いてくるのは勝手だけど、見失ったら諦めてここで留守番してるんだよ」

「はっ!」頭を垂れた。

十年アキロニアを離れておられた殿下は御存知ないのだ…ボッソニア特殊部隊が諜報活動を得意としている事を。

身を隠しての追跡は、間諜の基本である。

街中での尾行から戦場での追走まで、自分達の追跡を振り切った猛者はいない。

それが…

すれ違う薄汚れたベールを奇異の眼差しで見送る王太子宮内の人々に一瞥すら与える事なく足早に城外に向かう。

入城時には厳しく詮議されるが退出する者への警戒は緩やかだ。

誰からも呼び止められる事無く幾多の門を潜り最後の城門に着いた。

尤もベールの主が王弟殿下と知れたらみんな仰天し、城内は大騒動になるだろう。

タランティア城壁から大通りへ出た。

陽のある間は楽に追えた。

人混みに紛れてもあのオレンジのベールは目立つ。

すぐに見つかる。

行き交う人を避けてひたすら歩き続ける内に陽は傾き、夜となり主人はけばけばしい灯りに惹かれるように裏道へ入っていった。

何処に向かっておられるのか?

このままではタランティアを出てしまう。

疑問を感じ、どの辺りまで来たのか確かめようと灯火の燃える街路燈台の表示に目をやった隙に…

“見失った!

動転した。

慌てて探したがあれほど目立っていたはずのオレンジが見あたらない。

誰に聞いても知らぬと言う。

あっさりと巻かれてしまった。

シェバ様に報告しなくては…

足取り重く宮廷内に戻る少年の意気消沈した横顔を不夜城の灯りが極彩色に染めた。


歓楽街の裏を突き抜け街外れに向かって進む。

さすがに首都と言ってもこの辺りまで燈台は配されていない。

家並みがまばらになり、人影も減った。

それでも石畳は先に…漆黒の闇に伸びている。

こんなに大きな街だったのか?

この十年でめざましい発展を遂げ、急激に人口が膨らんだ首都の姿を初めて実感する。

岐路を示す敷石に冠を被った獅子の紋章が穿たれている。

アキロニア帝王コナンの紋章だ。

父上…

十年ぶりに甦った息子を北の蛮人は黙って抱きしめた。

そして宰相パブリウスを頭に居並ぶ評議らの前に帰国を果たしたシェラムを伴った。

総帥プロスペロとポイタイン騎士団を率いる盟友トロセロ伯爵が玄関で父子を出迎えた。

黒竜騎士団の長、パランティデス将軍が控えの間に導いた。

その間にも大臣諸侯がタランティア宮殿から次々と到着し定めらた席に座る。

俊敏な矛兵で名高いガンデル軍団の長、プュブリウス元帥もテラテラと光る坊主頭を頑強な鎧の上に乗せ神妙な顔つきで諸将の先頭席に着き、十年前に事切れたはずの第二王子の入場を待っている。

彼はコナンが傭兵隊長だった頃からの仲間でパランティデス将軍と共に軍備の要だった。

ボッソニア辺境地帯を治めるラーマン伯爵は統地にいたため代理として孫のジニアスが副将ウィスカを伴って列に加わっている。

評議場の扉近くには王太子ヴァイロンがシェバを筆頭に遠征から帰還した配下の諸将を従えて立った。

ミトラ神殿を統べる大神官デキシゼウスは緞帳で隔てらえた奥の間に王妃ゼノビアと共に控えている。

城内がどよめいた。

パランティデス将軍に先導され国王より一足先にシェラムが姿を現したのだ。

「幼い頃の面影が…大きゅうなられた…」ペリアスとも親交が深かったデキシゼウスに幼いシェラムは懐いていた。

確かに面影はある。

だが、どよめきを持って迎えられた王子の容姿は、その“生き返った”という奇怪な経緯と相まって独特な雰囲気を醸し出していた。

やがて、どよめきはざわめきに変わった。

評議の反対側にはコナンを支える政府、軍部の役職にある大臣、貴族諸侯、各部隊を預かる諸将らが居並んでいたが、彼らですらも主の次子に対し遠慮無い好奇の視線を浴びせ、互いに囁きあい肯いている。

プュブリウス元帥だけがじっと眼を瞑り黙したままだった。

第二王子に対する拝礼も讃辞の喝采も無い…気付いた宰相パブリウスのみがシェラムの前に進み頭を垂れると、健勝と帰国歓迎の形通りの祝辞を述べ、壇上へ上がるよう即した。

北方民族特有の透けるような白い肌に漆黒の髪が陽を受けて虹色に輝き、エキゾティックな東洋の眼差しは“アヨドーヤ王朝の宝玉”と讃えられた女王ヤスミナ譲りの美貌と相まって評議、大臣、将軍諸侯の眼を奪う。

前王ヌメディデスの圧政に抵抗し立ち上がった評議達はコナンを王に擁し国政の重責を担ってきた。

居並ぶ大臣、将軍はこの時人質となった妻子の危険も顧みずこの評議場に立て籠もり、追放されたコナンを再び城内に導き先陣を切った同志盟友だ。

苦難の時代を戦い抜いた良識の徒たる人々が白絹のキトンの上から真紅の天鵞絨のガウンを纏った少年に頬を染め、息を乱す。

熱くもないのに額の汗を拭う者もいる。

その美貌を飾る物は何もいらない。

装飾品は髪をまとめるために額に被った細い銀の輪(セルクル)だけだった。

デキシゼウスは身じろぎもせずに、じっと凝視していた。

なんと艶めかしい…妖艶…淫靡…聖職者の目から見ても十八歳の少年とは思えない魔的な“気”を漂わせる。

それでいて皇太子として養育され生き神として崇められた者だけが持つ玲瓏な表情、典雅な振る舞いは高貴に満ちている。

相反するモノが混ざり合った奇妙な違和感が余計に禍々しい印象を与えてしまう。

不思議な威圧感を漂わせながら、シェラムは壇上から遙か彼方に立つ兄をじっと見つめていた。

「ペリアス殿に連絡は?」黙したままシェラムを見つめる大神官に質問したのは王立アカデミアの学長アテミデスだ。

議場の雰囲気を察し不安に眉をひそめる王妃を気遣っての事だった。

年若いが学才に溢れ、アキロニア存亡の窮地を救った弁舌家をコナンは師と仰いでいた。

「我らが伝えなくとも手塩にかけた殿下の動向は知っておられるだろう…」デキシゼウスの答えにゼノビアは深く頷いた。

ヴァイロンもシェラムも自分の子と思い育ててきた。

亡きヴァレリアと遠く離れたヤスミナ──同じ男を愛した者として、最後に妻となった女の矜恃がある。

彼女たちが産んだ愛しい夫の子…いままで何人の女がコナンを愛し、彼を守るために命を捧げただろう?

幾多の女達の犠牲の上に自分の幸福がある。

ただ一人選ばれ側に暮らす幸福を噛み締め、全身全霊を傾けて二人を育てた。

ネメーディアのタラスクス王の後宮にいた奴隷女…運命の出会いがあったとはいえ賎しい身分から身を起こした自分がアキロニア王妃の王冠を頂いている。

十年前の大逆事件──いや反乱が起きた時、自らに誓った。

これ以上争乱の種…コナンの子を世に出すわけにはいかぬ──

母になる道は捨てようと子を孕む機会を自ら絶った。

デキシゼウスに月のモノを流す薬を調合させたのはゼノビア自身だった。

後宮でコナンに侍る側室達にもワインや水菓子に混ぜて密かに飲ませている。

後にこれを知ったコナンは激怒し、やがて真意を悟った王はゼノビアの胸で声を殺して泣いた。

「本当によくお帰りになられて…ヤスミナ女王陛下に合わす顔が出来ました」思わず涙が溢れた。

「殿下をお助け下されたうえ、今日まで養育いただいたペリアス様への御恩は決して忘れませぬ」

ペリアスが王子の亡骸を運び去った事は衆知の事実である。

成長したシェラムを目の当たりにしても死んだはずの人間が甦ったという事実がそう簡単に受け入れられる訳はない。

それに子供であったとはいえ、あの反乱の旗印は間違いなく第二王子であった。

“お戻りくださっただけで満足、多くは望むまい…糾弾の声が起きても仕方のない事”…そう自らに言い聞かせながらも胸が塞がれる。

コナンは配下の言動を権力で規制した事はない。

非難も諫言も圧する事無く自由に論争させ、それを聴いた。

その夫が次男の背後を守るように玉座に着いた。

トロセロ、プロスペロが両脇に侍する。

パブリウスが拝礼し評議会の開催を宣言した。

“ミトラ…シェラム殿下をお守りください…”王妃の頬を涙が伝う。

「ゼノビアさま…」小さな手が絹の小布を差し出した。

「ああ、アイーシャお前もここに…ほら隙間からお前の大好きな旦那様がよく見えますよ」

涙を拭ったゼノビアは菫色の瞳の童女を抱き上げ膝に乗せた。


背後に父の視線を感じる。

それは十八歳の息子を力強く励まし、前へ押し出した。

対局の扉の前には全てを委ねた兄が腕を組み、じっとこちらを見据えている。

大丈夫だ──半年の旅で培われた信頼の眼差しが正面から弟を支えていた。

自分の会見で評議や大臣諸侯が納得するかどうか──そんな事は解らない。

だが十年前に自害する瞬間に立ち会った者達も多数列席し、驚愕と好奇の眼差しで壇上を見ている。

さらにあの事件に興味を抱く者は“王太子位簒奪の張本人ではないか”という懐疑の念を持っている。

少なくとも反乱の密書にシェラム自筆の署名(サイン)があった事は事実なのだ。

彼らの動揺を抑えねばならない、疑いを晴らさねばならない。

だが真相は一部しか解らない。

いや当時八歳の子供であった自分に何が解っているというのだろう…

今更それを暴露したところで都合のいい言い訳にしかならない。

既に幼い自分を操った奸賊共は皆処刑されてしまったのだから…

だから解っている事だけを言おう。

本当の事だけをありのままに…

シェラムは大きく息を吸い込むと、女性的な抑揚のアキロニア語で語り始めた。

しっとりとした声だった。

柔らかな発音が聞き入る人々の耳に優しい。

それ程通る声ではない、声量も控えめだ。

しかし…それはしんと静まった満場の会堂に、はっきりと響いた。

まず、あの日までの事…十年前王太子妃とその従者達が自分に何をしたか、師ペリアスに…コナンに…ヴァイロンに…ゼノビアや後宮の女達に…そして運命の日が訪れる…

その後ゴラミラ山の霊廟で哲人エペミトレウスの霊力を授かり甦った経緯、ペリアスに薫陶を受けたカニリアの尖塔での修行の日々から兄が訪ねてくるまでコーシェミッシュの地下宮殿で宇宙から飛来した花木を妻に娶り、妖魔を従え君臨していた事まで…

誰も知らない──知ることのできなかった事実が明らかになる。

「こうして私は魔道士になりました」最後にくるりと振り向き父に伝えた。

その瞳が微かに潤んでいる。

父と兄にだけは認めて貰いたかった。

玉座に座る王はうなずき、黙って評議場を見渡した。

水を打ったように静まりかえっている。

息さえ潜めて立ちつくす国家中枢者達の耳に緞帳の向こうから啜り泣きが聞こえた。

今まで壇上のシェラムを食い入るように見つめていた者達が一瞬そちらを注視した。

緞帳が揺れ、下が捲れた。

小さな赤毛の子供が這い出してきた。

「白い旦那様!」

「アイーシャ!」壇上を駆け上がり抱きついた。

「ゼノビア様が泣いてます、俺どうしたらいいか…」

「俺じゃなくて“わたくし”…」小さな婚約者を抱き上げ頬摺りする。

柔らかな皮膚を傷つけぬよう、額に被っていた銀の輪(セルクル)を外す。

整えられた髪が崩れ、豊かに波打った。

陽を受けた漆黒の髪が光を発したかの如くキラキラと輝き、頭上に光輪が現れたかのように見える。

「イシュタルじゃ…」呟きが漏れた。

「まこと神殿の聖母子像そのままではないか…」

「イシュタル…」評議の一人が膝を折り拝礼すると一斉に皆がそれに倣った。

彼らは遠征部隊の報告で兵らがシェラムにイシュタルの歓呼を送ったと聞き及んでいた。

今の今まで半信半疑──何故王子が大地母神の名で祝福されたのか皆目見当が付かなかった。

だが…

大臣諸侯から評議員全てが納得した。

理由は無い──ただ子供を抱くシェラムの表情に崇高な慈愛と自然の神秘を感じた。

イシュタル女神の加護する御方に対し、立って眺めるなど不敬である──自然に頭を垂れ、膝を付いて祈りの形になった。

ひれ伏して感涙にむせぶ老議員もいる。

それはかつてベンダーヤで“生き神クマリ”と崇められた姿を彷彿とさせる。

宰相パブリウスは懐からミトラ神官が身につける銀環をそっと取り出すと壇上に向かって掲げ、深々と拝礼した。

シェバすらも膝を折る中で、ヴァイロンだけが玉座に対する位置で腕を組んだまま立っていた。

顎で緞帳を指す。

それに気づいたシェラムは玉座に会釈するとアイーシャを抱いたまま緞帳の奥に入っていった。


遙か遠くに不夜城の灯りが瞬いている。

時折ザワザワと不気味な音を立てて風が草の上を吹き渡る。

月も星もない。

夜目が利くので草の間に僅かに見える道らしきモノを辿り何の造作もなくここまでやってきた。

更に鉛色の指輪…蛇神セトの眷属サータが化した妖物が大気に漂う邪気を察し主人を闇の原野に導く。

それでも時に道は途絶え、草を薙ぎ、岩場に足を取られながら噂の処刑場にたどり着いた時には深夜を回っていた。

指輪のルビーが何の灯りも無い中でキラキラと輝き、それに呼応してシェラムの左の瞳の奥にちろちろと紅い点が燃えた。

点在する杭、錆びた鎖、磔柱は罪人に打ち付けられた大釘が刺さったまま朽ちかけている。

茶褐色に変色し割れた髑髏や腰骨が草に埋もれ打ち棄てられていた。

埋葬を許されぬまま太陽に焼かれ風雨に曝される屍──全てが土に還るのはいつの日か…

それにしても数が多い…盗賊団か?

オレンジのベールを脱いで硬い大地に敷き仰臥する。

切れかけたサンダルを放る。

下にはザモラ国境での戦闘時に身につけていた生成のローブだけを着ていた。

馬を駆り、剣を振るい、雨に打たれ、砂漠の熱射にやかれ…帰還の長旅の間ずっと身につけた木綿は、所々ほつれて穴が開き、裾は膝上まで大きく裂けていた。

襟ぐりも破れたままで右肩から背の半ばまでも剥き出しになっている。

ぼろぼろのローブを風があおる。

青白い肢体が闇に浮かんだ。

歩き続けて汗ばんだ肌に吹き付ける風がひんやりと心地よい。

だが、その風は泣いていた。

吹き付ける風音にヒィー…と泣き喚く死霊の泣き声が、ウウウ…と呻く低い唸り声が交じる。

天命の半ばで命を絶たれ刑場の露と消えた罪人達の慚愧の念が…断末魔の絶叫が…地底から沸き上がり、風に乗ってシェラムの周囲を取り巻きぐるぐると回っている。

アイーシャの仇討ちで盗賊達と戦って以来、死霊を喰らう機会は無かった。

ラメル率いるザモラ軍を相手にした時は兄やアキロニア軍の眼があって、あからさまに喰う事ができなかった。

主人と使い魔にとっては久方ぶりの“食事”である。

半眼のまま地底から湧く悪鬼怨霊を吸い取っていたシェラムの唇が開いた。

「うふう…」舌が上唇を舐める。

胸の上に組まれていた手が外れ、左手はそのまま裂けた脇から胸乳に伸びた。

二、三度さすると突起が敏感に反応し勃ち上がってくる。

指の腹で押しつぶし、転がし──

揃えた脚をゆっくりと開く。

右手が勃ちかけた男根に添えられた。

“たまらない…こいつら、まともに死んでない”

当時の状況が頭に流れ込んでくる。

よほどの罪状があったのだろう。

処刑というより拷問の延長…虐殺だ。

執行者の彼らに対する遺恨の深さが解る。

わざと急所を外した傷は延々と苦しみを引き延ばす。

さかさに吊られた者は鼻から血を流し、眼球が飛び出している。

血が逆流し頭部に溜まり、頭痛と嘔吐に苛まれ、舌を突き出し、むくれ上がった顔色は鬱血している。

際限なく続く激痛…でも一番先に死ぬのはこいつらだ。

逆さに吊られなかった者達も出血と餓えと乾きで一人づつこときれていく。

残った者は…その度に訪れる死の恐怖に苛まれと生への執着に身もだえし…

「あはあっ!」ぞくぞくする。

男根を握り擦る。

にちゃ…先走りの液を塗り込める。

執行者を罵り、命乞いを繰り返し…

ああ、その声を聞きつけてコンドルが飛んできた…眼球を抉られ髪ごと頭皮が剥がされる…

彼らは柔らかい臓物を好む…嘴でつつき出した腑がだらりと垂れ下がっているよ…

でも、死ねない…うふふ、ほらもっと苦しんで──その痛みを吸わせてよ…

血の臭いが獣を呼ぶ…

狼がやってきて、のど笛に噛みつく…

何だつまらない…一晩のうちに、半分が獣に喰われて骨になっちゃった…

でもまだ頑強な男達が残ってる…楽しませて…

胸をまさぐっていた左手を大きく開いた腰下に差し入れる。

尻の割れ目に小指を…

ズルリ…爪を割ってヨトガが触手を伸ばす。

「あんっ」腰が踊る。

じわじわと入り口をさすり、押し広げ…

「焦らすな…もう…」

泣き所を心得た攻めに味気なく登りつめる。

痛いかい?痛いだろうね?鎖で縛られて見えないだろうから教えてあげる…脇腹の傷に黒い甲虫が群がって、腐りかけた肉を喰ってるのさ…ほら、中までびっしりと張り付いて…ああ、奥に白い卵まで見えるよ…

あはは!そんなに暴れたって無駄だよ…いいじゃない、どうせすぐ死んじゃうんだから躯くらい虫にあげなよ…

ヨトガが快楽の壺を押している。

「あ、掻き回して…もっと…」

主人の興奮に敏感に反応した触手は先を幾重にも割広げ肉壁を掻きながら奥へ挿入る。

「気持ち…い…」

夕陽を遮るほどの烏の群れが空を覆い尽くし、やかましく鳴き交わしながら餌の衰弱を待っている。

中の一羽が待ちきれずに急降下した。

既に眼球は食い尽くしてしまった…残るご馳走は──真っ直ぐに柔らかな頬の肉を抉りに行く。

襲ってくる烏に頭を振って抗ってる…

そうでなくちゃ…あっさりやられたんじゃ、達けないじゃない…

肉壺の深淵で触手が捻れ、のたうつ。

「あひっ!」いい…して…もっと…

男根を擦る手が早くなる。

ああ、もっと泣き叫んで!のたうち回って!

こんなに…「こんなに…」感じてる…

「ああ!達く!達っちゃう!」

精が迸った。

のけぞって快感に震える。

主人を嬲り抜いたヨトガは再び小指の先に身を潜めた。

爪が真紅の色を濃くしている。

はあはあ…と肩で息をしながら起きあがった。

「何で?」淫楽の嵐が過ぎ去ると冷静な自分が戻ってくる。

確かにこの地に囚われているモノ達の邪気は凄まじい。

だが、こんなに欲情するなんておかしい。

さっき淫気も浴びた。

もっと激しい怨霊集団を狩った時もある。

その時ですらこれ程の性衝動は起きなかった。

エクスタシーは感じなかった。

「何故だ?」

“ヤー…”

「!」

何だこいつ等は?

小さな霊体が浮遊している。

子供?

恨みの言葉を吐き、苦痛に泣き喚き、止むことのない責めに悶える死霊を取り込んだ。

すると…彼らの影に隠れていた小さな死霊が其処此処に蠢めき始めた。

一体や二体ではない…

ごめんなさい…

ごめんなさい…

ごめんなさい…

許して…

痛いよ…

こわいよ…

助けて…

ヤーミャ…(お母さん)

か細い泣き声が無人の野に響く。

ヤーミャ…──ツラン語?

ごめんなさい…

許してください…

苦しいよ…

おうちに帰りたい…

ま…さか…ここで処刑されたのは?

当時の書類には“あの連中”が謀叛貴族等とともに反乱を企てた罪で処刑された──とだけ記されていた。

この刑場跡は地図に印(しる)されていただけで、彼らが断罪された場所だとは書かれていなかった。

そう、ここに辿りついた時疑問を感じた。

父コナンは先王ヌメディデスの一族さえ誅殺しなかった。

その後旧アキロニア王家に連なる血筋であったディオンが謀叛を企てた折にも、誅殺された彼に代わりアッタルス領と爵位を義弟ディモーネが継承することを許し、逆に才を見込んだその嫡子ディジャスを王太子付の小姓に取り立てるまでに優遇した。

その父がこんな年端もいかない子供らにまで残酷な処刑を行うだろうか?

確かに大罪人には見せしめのを兼ねて過酷な刑を科す。

だがそれは誰しもが納得するだけの極悪非道な凶悪犯に限られる。

為政者として断罪を望む遺族に代わり処刑を行うに過ぎない。

コナンは戦場でも敗者への扱いは寛大であった。

虜囚は連れ帰り奴隷にされるのが常であったハイボリア期において、敗残兵に傷の手当を受けさせた後はアキロニア語を教え、その文化に感化させ、親民に教育し直してから充分な水と食料、金を持たせ故国へ帰した。

これはアテミデスの進言で行われたのだが、実際の発案者はヴァイロンであった。

彼はすぐに故国へ送り返す父王の政策を目の当たりにし“このままでは反乱分子が増えこそすれ減ることはない”と杞憂を深めた。

奴らは虜囚とされた恨みを復讐心の糧にして何度でもアキロニアに戦いを挑んでくる。

ヴァイロンがアテミデスに託した教育の中身とは“洗脳”だった。

彼らをゲリラとして故国に帰し、内部から敵を崩壊させる。

カリキュラムの中枢はヴァイロンが作成した。

それは父と共に各地を流離いあらゆる文化宗教に触れた者だからこそ成し得る“洗脳”方法である。

金銭による結束…早い話が万事金次第。

“金の切れ目が縁の切れ目”である代わりに金ほど人を縛り、操るモノもない。

事実、奴隷商人に妻子を売り渡す男は多かったし、借金のカタに自分自身を身売りする者もいた。

戦争が起きると、人と物が動く、金銭の流通が急速に拡大する。

その下地の出来つつあった時代の先を読み、流れに乗ったのがアキロニア通貨だ。

“コナンの同志”──最初は名の如くコナンが若き日の放浪の日々の中で得た仲間や、伝説となった名前にあこがれた者達が個々に連絡を取り合う情報交換の伝達網だった。

それを“コナンを敬愛するゲリラ部隊”に昇華せしめたのはヴァイロンである。

彼らがアキロニア語を共通の語源としているのもアテミデスの教育の成果…実はヴァイロンの計画であった。

アキロニア貨幣を資金源に仲間を増やすよう教え込まれた捕虜達は故国でコナンをカリスマ化する組織を作った。

一人が10人仲間を勧誘すれば部隊長になれる──その部隊を10造れば師団長になれる。

師団を10統合させれば“将”になり、アキロニア正規軍の階級章と金獅子の軍旗が送られる。

報酬は地位によって支給される。

それで武器を購い馬を鍛え、鎧を調達する。

アキロニアは武具や馬具の製造職人を優遇し、専売のキャラバンを仕立て流通経路を開拓させた。

ヴァイロンの策は抜かりがない──彼らに支給された金は武器商人に落ち、回り回って税収となってアキロニアの国庫に戻ってくる。

働きに応じて報酬を支払うという、どの民族にも理解できる“洗脳”…それは貨幣経済の発達無しには考えられない。

コナンが作り上げた変動しない貨幣価値を基盤にして言語、文化、慣習の異なる異民族に統一の金銭感覚を持たせ、それをさらに発展させたシステムを考え出したのもヴァイロンであった。

この時、師であったアテミデスは若き王太子の知恵と手腕に正直畏怖を感じたという。

アテミデスの話だけではない。

帰国してから十日余り…僅かな期間に耳にした“ヴァイロン像”にシェラムは驚愕した。

宮廷内で囁かれる冷徹非情、果ては策士という兄の評価は信じられぬものであった。

十年前の兄は世間の荒波に揉まれた分、年齢の割に思慮分別に長けた苦労人ではあったが、策士などと言われる片鱗は全くなかった。

いや、むしろ父と同じく武人が策を弄する事を嫌った。

それに冷徹非情?

コーシェミッシュで再開したあの兄の…真っ直ぐに滾る熱情をぶつけてきた兄のどこに冷徹非情な部分がある?

旅をしている間もそうだった。

自分が見捨てたアイーシャを救ったのは兄だ。

──お前さん、戦士にしちゃあ小賢しい策を練りすぎたぜ。俺は成り上がり者の息子だから野望を持つ奴は嫌いじゃねえ。だがあんたは策士に成り過ぎた…策を弄する奴はロクな死に方しねえぜ──

ラメルを屠った折に言ったあの言葉は自身に対する揶揄か?

この十年の間に何があった?

そうだ、私は今のガイの事を何も知らない…

旅の途中、兄に甘え、全てをさらし、感情をぶつけた。

だが、ガイはこちらに何を見せたろう?

あれほど二人きりの時間を持ちながら自分は何をしていたのか──察する事の出来なかった不甲斐なさに憤る。

ツラン語──もしや、ガイ?

内に入れた死霊の記憶を辿る。

「あっ…あ…」そうだったのか…

欲情するわけだ──こいつら十年前によってたかってこの躯を…

「そうさ、私にとって初めての男、初めての女…」闇に向かってベンダーヤ語の罵詈が飛んだ。

躯が奴らの“性痕”を覚えていた…消したはずの忌まわしい記憶。

目を抉られ、鼻を潰され、耳を削がれ、手足の指を一本ずつ切り落とされる少女の姿が浮かび上がった。

鋭利な物で殴られたのか所々歯がへし折られ泣き叫ぶ口中は血塗れだった。

腰から下も真っ赤に染まっている。

「これはこれは義姉上(あねうえ)…王太子妃殿下ではありませぬか?何と無様な死に方をされたものよな…」

辺りに人がいればその馬鹿丁寧な宮廷言葉の冷たい響きにぞっとしたろう。

「すると、そこで眼を烏に抉られ腐れたはらわたをつつかれているのはハーディア殿か?私を貫いた逸物も腐っておるではないか?なんと愉快な…腹違いの妹御に殉じるとは、よほど懸想されていたのだな!」

大きく歪んだ唇から変色した舌が裂けて垂れ下がっている。

「何か言いたくても、それでは恨み言ひとつ言えぬなあ」荒野にシェラムの哄笑が響いた。

ツランは講和を申し入れてきた。

先代イェズディガード亡き後、中央での覇権に翳りが指したツランの新王イスマディアの一時しのぎの策であると誰もが感じていた。

しかしコナンはヒルカニア原野での決戦の後、敗走するツラン軍を追うことも国境を脅かすこともなくキタイの魔道士ヤー・チェンに攫われた王妃ゼノビアを奪還しただけで救援に駆けつけたトロセロ、プロスペロ僚友に率いられたポイタイン軍と共に領国に帰還し、かの企てがイェズディガードの暗躍であったにもかかわらず侵攻しなかった。

イェズディガードはコナン自身が首を飛ばし、毒婦タナーラはゼノビアの一矢に倒れた。

これで事件は終わったのだ──蛮人特有の潔さで幕を引いたのはコナンの方だった。

王太子妃の輿入れは和平交渉の一環だった。

何故なら妃殿下候補はイスマディア王の腹違いの妹マリキットであったのだから。

放蕩三昧で知られたイェズディガードの絢爛と咲き誇る愛妾達の中でも美貌を詠われたコリンシアの舞姫を母とする王女という触れ込みだった。

マリキット──ツラン語で“星の姫”という意味を持つ。

ベールを上げた花嫁はその名に違わぬ光り輝く美貌で、夫君の前に膝を折った。

黄金細工の髪飾りで結い上げられた漆黒の黒髪と、孔雀石を砕いた粉で彩られた黒目がちな大きな瞳、通った鼻筋、ふっくらとした唇に引かれた濃い紅が白い肌を余計に引き立てる。

時に王太子ヴァイロンは十五歳、マリキット王女は一つ下の十四歳。

後ろにツランからの従者、侍女等が千人ほど続く。

「いくら何でも…」宰相パブリウスは色を失った。

姫のお相手をする少女や童女…これはツランでも名だたる貴族の子女であるから人質としても有効であろう。

しかし馬の世話係という従僕や護衛兵は、間諜の疑いが濃い。

先々代のツラン王イルディズの頃から各国に放たれた間者は、その地に定住し伴侶を得て、平穏な民の仮面を被りながら情報を送り、一端戦火の口火が切って落とされると内から敵を崩壊させる。

虚弱な先代から受け継いだ領地を一代で二倍に拡大したイェズディガードはさらにその組織を強固なモノに作り替えた。

間諜はツランのお家芸だ。

城内の見取り図を書かれ、内通、手引きをされたのでは堪らない。

一団を率いる恰幅のよい男──アグラバルの太守となのった貴族に王女に付き従う者は子供らを除いて女達十名と言い渡す。

「それでは王女の身の回りの世話が充分にできない」眉を潜める太守に、至らぬ所はタランティア宮の者が助けるから…と引導を渡したのは王妃ゼノビアだった。

彼女も花嫁一行に一抹の疑心を感じていた。

アグラバル──コナンが捕らえられた場所が、ヴィラエット海を望むアグラバル宮殿であった。

そして夫を奸計に嵌めた張本人がイェズディガードから“王の耳眼”の大役を仰せつかったマイプールの貴婦人(イエドカ)タナーラである。

イェズディガードが各国に放った“王のお耳係”…つまり間諜の総元締めだ。

姑たるゼノビアに挨拶したマリキットの面差しがどことなく自分が誅したタナーラに似ているような気がして…

レースのベールを降ろす瞬間、こちらに向けた眼に怨嗟を感じたのは気のせいだろうか…

父イェズディガードを討った国へ人質同然に輿入れし、妃殿下と奉られながらも仇の息子に身を任せねばならない…少女は一人適地に送り込まれたと思っているのだろう、きつい視線も致し方ない…ツランとの争いは思い出したくない過去に繋がる。

悪夢となって襲うヤー・チェンの忌まわしい姿にうなされ飛び起きた夜が幾晩続いた事だろう。

一日も早くアキロニアの者となるよう導けばよい…ゼノビアはそう思うことで自分を納得させた。

マリキットの母方の従兄弟だというハーディアが手勢のみを率いて残ることになり、結局、押し問答の末侍女は二十名に増えた。

彼らのみが十余名の子供達と共にマリキットに付き従い王太子宮に入城し、残った者達はアグラバルの太守に渡されたコナンの親書と共にツランへ帰された。

輿入れの前から兄はペリアスの館に──シェラムの元に来なくなった。

花婿としては当然だ。

それにこの婚礼は特別なもの──敵国との政略結婚なのだから…解ってはいても淋しかった。

以前の兄はどんなに忙しくても馬を飛ばしてやってきた。

ほんの僅かの一時を兄と弟はむつまじく過ごした。

ヴァイロンは向こう岸が見えぬほどに広く、滔々と流れる大河に幼い頃を過ごした海の思い出を重ねていた。

河畔の館から広がる水面を眺め、懐かしんで歌を口ずさんだ。

シェラムもいつしか覚えて共に歌った。

「おーれたーちゃ、ふーなのーり、あらくれものさー」軽快で勇壮な節回しが好きだった。

「怒濤渦巻く大海原にー、こぎ出せ、こぎ出せ、お宝目指しー」自分も船に乗っている気がした。

「夜の嵐もなんのそのーっ、いつか夜明けはやってくるー」雨風に打たれながら舳先に立つ父…船長が見える。

「三本マストのてっぺんに、おてんとさんがのぼるのさー」水平線から昇り、波間に沈む太陽が見たかった。

──海賊の歌だ。

二番は捕虜の首をマストに吊せとか鮫の餌にするとか物騒な内容になり、三番は卑猥な歌詞だったので、兄はどこで歌われても困らぬよう無難な一番だけを幼い弟に教えた。

兄の腕に抱かれ川面を渡る風に吹かれながら、海賊船で航海しているという空想の世界に浸る。

「ガイの母上が首領をしていたのはどこの海?」

「血の友愛団が活躍したのはヴィラエット海だ、この歌の海とは違う」

「海っていっぱいあるの?」

「ある。ヴィラエット海は内海だ。海が荒れても外洋の嵐に比べりゃ揺り籠みてえなもんだ」黄金の長髪がサラサラと風になびく。

「海の男は外洋を渡って初めて一人前になる」烟る蒼瞳を遙か虚空に向ける兄は美しかった。

ガイと共に外洋を渡り、海の男になりたい…まだ見ぬ海への憧れは歌うたびに増した。

それなのに…

不安が募った。

王太子妃も外つ国から来た人間…自分と同じようにガイは暖かく迎えるだろう。

その分自分は軽視されるのではないか…

故国を捨てたシェラムにとって寄るべき者は父と兄のみである。

ツランの女など姉と呼べるか!

ツランこそ生まれ落ちた時からの宿敵である。

兄の慶事を心から祝福する気にはなれない…

わだかまりを抱えて祝典に出席した。

アキロニア王朝ゆかりの正装に身を包んだ兄は幼少時代に諸国を流離っていたとは思えぬほど立派な品格であった。

逆にその体験が大人びた風貌を造り、キンメリア人の血を顕す堂々とした体躯と相まって、とても十五には見えない。

隣に坐る純白のレースに金糸を縫い取ったベールを被った兄嫁を見る。

光沢のある絹繻子の長衣(ローブ)の裾を長く引き、腰にはダイアモンドを散りばめた帯を巻いている。

黄金の獅子が縫い取られた黒の胴着に黒革の脚通しを穿いた帝王コナンが自ら花嫁の頭に冠を戴せた。

「アキロニア万歳!」トロセロ、プロスペロはじめ諸将が剣を抜き天を指し、叫ぶ。

コナンとヴァイロンを讃する声が怒濤の如く広間に鳴り渡った。

宮殿の外でも広間に入りきれなかった貴族諸侯や軍の隊長幹部が大きな歓声を上げた。

その声を聞きつけて城外では国民や兵士が肩をたたき合い、乾杯を繰り返す。

国中が王太子の結婚を祝い、約された平和に酔った。

「今日は東宮にお泊まりくださいますよう…」シェバが後ろから耳打ちした。

宴の途中で退出されては困る…兄の片腕の言わんとすることはすぐに分かった。

だが…「居たくない」シェバは本心が吐露できる数少ない一人だった。

勿論シェバの大切なのはガイで、自分は二の次なのは知っている。

この進言も王太子と妃殿下への配慮からなされたものだ。

でもガイが花嫁の隣で賓客の祝辞を受けていては我が儘を言う相手がいない。

“お寂しいのだ”

「兄君のお側へ行かれますか?」感働きの優れた若者はすぐに察する。

「お祝いのお言葉を…」

「それはさっき言った」

苦笑する。

「では今度は王弟殿下ではなく弟として申し上げては如何ですか?」

項垂れていた子供の顔がこちらを向いた。

「なんて?」またさっきの台詞を繰り返すのか?

「それはシェラム様ご自身のお言葉でいいのです。決まり文句の祝辞などお忘れください」

王太子宮の総帥シェバに手を引かれた第二王子がヴァイロンの前に進むと、祝辞の順番を待っていた貴族達が道を空けた。

王妃の玉座からゼノビアが立ち上がり、薄紅色のローブをつまむと腰を屈め、深々と礼をした。

義理の息子でありながらもベンダーヤ皇太子、さらにアキロニア第二位の王位継承権を持つシェラムへの敬示であった。

各国からの賓客達に…そしてツランから嫁いできた少女に、この方が何者であるか教えねばならぬ。

八歳の童子は静かに会釈し、自然にその礼を受けた。

「シェーラ!」

兄の逞しい腕が弟を高く抱き上げた。

ずっしりと重い。

細かなビーズで火雲の中を飛ぶ黄金の竜が縫い取られたベンダーヤ王家の礼装を纏った弟は神々しいまでに美しく、“生き神クマリ”と称されるに値する。

「重くないか?辛かったら脱いでいいぞ、もう式典は終わったんだから」神妙な顔をしたシェラムが愛おしい。

戴冠の儀をもって式は滞りなく終了し、祝いの宴に移っている。

「ガイ、あのね…」チラと隣の席の王太子妃を見る。

彼女はベールで顔を覆ったまま真っ直ぐに正面を向いたきり微動駄もしない。

先ほどからの貴族諸侯から述べられる祝辞の返礼は全てヴァイロンが答えていた。

アキロニア語は解すると聞いていたが、それ程ではないのか──式部長官が気を利かせ通訳を配したが、それでも一切の返答は無かった。

賓客は玉座のコナンと花婿ヴァイロンを気遣い、気にせぬ振りで退出していく。

「よりによってツランから嫁取りとは…」

「講和の為とはいえ、難儀な事だな…」

「大事が起きねば良いが…」

各国の大使、辺境、近隣を問わず参じた貴族諸侯は大広間の壇上を見上げて囁きあった。

その壇上では弟が久方ぶりの兄の腕に抱かれ、甘えていた。

「明日は来てくれる?もう、ずうっと来てくれないんだもん…つまんない」

クスリ…その声を聞いた王太子妃が笑った。

初めて見せた反応だった。

それを合図にクスクスという笑い声が背後から起こった。

妃殿下のベールを献げ傅いていた少女…いや半分は子供…女児だ。

シェラムより幼い者も居るのではないか?

その子供らが一斉に遠慮のない嘲りの忍び笑いを上げた。

それが自分の言葉に対するモノだと気付き、シェラムの顔は真っ赤になった。

同年代の子供と接するのは初めてだった。

最初の出会いが侮蔑の笑いだ。

ましてや相手は子供とはいえ女、それもベンダーヤの宿敵ツラン人である。

出生の凶事も、亡命の切っ掛けも裏で首謀者を操っていたのはツランであった。

ツランの陰謀で故国を追われた…心の底に秘めていた憎悪が堰を切って溢れる。

兄の慶事を妨げてはならぬ──だが、我慢しようにも憤怒の感情は抑えきれない。

「降ろして、ガイ!」手足を突っ張る。

「どうした?」新妻の非礼も、諸侯の反応も気にしない兄は子供らの笑い声など何程の事もない。

だが、暴れる弟を力で制すると豪華な竜紋の礼服を傷つけてしまいそうで、言われるままに下へ降ろした。

「帰る!」くるりと兄に…いや兄嫁に背を向けると一気に壇を駆け下りた。

「シェラム殿下?」ヴァイロンに一礼したシェバが慌てて後を追う。

その後ろ姿を見送った王太子妃が脇を固める護衛長ハーディアにベールの下から思わせぶりな視線を送ったのを誰もが気付かなかった。

その後、祝典の途中であったが新郎新婦は退席した。

宴は翌日の昼を過ぎて、まだ続いていたのだから式部長官の判断は賢明だったと言える。

二人はそのまま初夜を迎える奥まった寝所に入った。

侍女らは沐浴をすませた女主人の髪を梳き、身体に香水を塗り込めると一人ずつ跪いて足の指に接吻し、寝室から出て行った。

燭台の灯が煌々と室内を照らしている。

若く張り切った肌が灯りを反射して一層白く輝く。

天蓋から降りたカーテンが豪奢な寝台を覆っている。

全裸の花嫁はそっとカーテンを開けた。

内から手が伸びた。

ぐいと引かれて気が付くと横たわる夫の腕に抱かれていた。

ヴィラエットの民の特徴か、それともコリンシアの母方の血か…もはや少女と呼ぶには相応しからぬ豊満な肉体が初めて花婿の目にさらされた。

ベールとローブで隠されていた早熟な姿態にヴァイロンの眼が一瞬輝いた。

触れ合う肌が熱い。

口づけようと肩に腕を回し、顔を仰向かせる。

マリキットは全くその表情を変えず、なすがままになっている。

唇を寄せかけたヴァイロンは鼻白んで止めた。

“高貴な生まれの女というものは恥じらいが無いのだろうか?”──蛮人の息子は新妻が果実のように丸く張り出した乳房も、ぬめるような下腹部に影を落とす密やかな葎も隠そうとせずに無表情なまま、じっとこちらを見上げているのが気になった。

父は王女だの貴族の令嬢だのに全く興味が無かったから、後宮には奴隷出身のゼノビアを筆頭に元踊り子や高級娼婦、はては盗賊の情婦だった女まで、華やかな性遍歴を持ち、それを隠しも悪びれもせずにコナンに傅く女傑がひしめいている。

そんな女達でさえ、初めての男に肌を見られれば羞恥で身を隠す。

いや、どんな生まれの女でも今まで接してきた女達は、こんなにふてぶてしくなかった。

「夜着は着ないのか?」躯を放した。

「寝所で夜着を纏うてはならぬ、髪も結ってはならぬと言いつかって参りました」視線はそらさない。

成る程、権謀術策が好きなイスマディアらしい心配りだ。

ツラン王は何の武器も隠し持っていないという確証を得なければ女は抱けないらしい。

「構わないから次は夜着を着ろ。女は素っ裸でも武器の隠し場所はいくらでもあるからな」

マリキットが美しい眉をひそめた。

「例えばこの中でも…」初めて表情を変えた妻の太腿に手を滑らせる。

葎の奥に見えるぴったりと合わさった陰裂に指を這わせる。

「毒は仕込める…」剣技や弓術で鍛えた逞しい指がずぶずぶと中に挿入(はい)った。

「あっ」愛撫も無しに押し入った指に十四の花嫁の躯が強張った。

寝化粧を施されたあでやかな顔が苦痛で歪む。

「やめて!」ツラン語で叫び、ヴァイロンの腕を掴んだ。

「毒は塗ってなさそうだな」新妻の膣から抜いた指をぺろりと舐める。

ヴァイロンは夜着を脱ぐと、初めて怯えの表情を見せ、躯を覆って突っ伏した花嫁の躯を再び引き寄せた。

「やめて、いやぁ」抗う新妻の顔を夜着で擦る。

やがて髪を振り乱した少女の素顔が現れた。

年齢相応…初めて見る素顔からはふてぶてしさが消えている。

十四歳の初々しい肌が、早熟な姿態とアンバランスになって逆にそそられる。

「素顔の方がずっと綺麗だ」震える新妻を優しく抱き寄せた。

強張ったままの唇を舌でこじ開け、そのまま強く吸う。

「あふ…」仰向けに寝かせても盛り上がり、張り切ったままの乳房を優しく揉むと重ねた唇の端から吐息が漏れた。

柔らかな乳輪を指の腹で擦り続けると淡紅色の乳首が勃ちあがる。

「ああん…」そっと摘むと喘ぎ声ははっきりとしたモノになった。

耳朶を甘く噛みそのまま唇を首筋に這わる。

舌先の愛撫はそのまま下に降りていく。

身をくねらせて悶え始めたマリキットは、早熟な躯に比例して性感も充分に発達していた。

しっとりと汗ばんだ躯から塗り込められた香水の香りがカーテンで仕切られた寝台に充満する。

「あああーっ」さらに硬くしこった乳首を舌で転がすとマリキットの躯がのけぞった。

腰が踊る。

緩んだ膝が持ち上げられ、花婿の肩にかけられた。

眼前でみると陰毛は薄く、まだ生えそろっていない事が解る。

先ほどいたぶられた陰裂が僅かにほころんでいる。

「あひっ」そこに指をかけて大きく広げた。

ニチャリ…内にとどまっていた愛液がじわりと湧き出した。

充血し厚ぼったく腫れた陰唇は開ききって、粘りを帯びた愛液も留めきれずに溢れさせてしまう。

細い陰毛をしとどに濡らし、会陰からセピア色の佇まいを見せる玉門まで滴っていく。

「あ…ああ…」濡れそぼった指で、口をやわやわと擦ると隠れていた花芯が一気に膨らんだ。

何もしないのに莢から真珠のような突起が僅かに顔を覗かせている。

「あひいい!」唇で咥え、莢ごとしごいた。

踊る腰を押さえつけ、空いた指で両の陰唇を弾きながら舌を肉壁に差し込む。

剥き上げた花芯を緩急をつけながら擦ってやるのも忘れない。

「ぎゃああああーっ!」マリキットは獣のような咆哮をあげ、自分で乳房をまさぐりながら悶え狂った。

ヴァイロンは抱えた脚を肩から外すと、小さなクッションの上に快楽にくねる腰を置いた。

膝裏を持ってこれ以上開かぬ所まで開脚させる。

喘ぐマリキットは成すがままだ。

だがその状態はさっきまでとは全く違う。

“思ったより楽だったな”ヴァイロンは自分の重みが相手に掛からぬよう腕で支えながら、開ききった膣口にゆっくりと男根を挿入した。

カリ首で、どぷどぷと蜜を溢れさす膣口を擦る。

「あは…あん…」焦らさせた新妻の腰が自然と浮き上がり、夫の逸物を求めるようにグラインドする。

淫靡な動きにヴァイロンの眼が細まった。

「それじゃあ、そろそろこっちも楽しませて貰おうかな」ヴァイロンは一気に押し込んだ。

「あああっ」さんざんに愛撫が施された躯は、ズブズブと全てを呑み込んでいく。

すぐに蜜壺が収縮し、口の部分が締め付ける。

“年の割に、結構使い込んでるな”それでも肉壁のざらつきはかなりなものだし、捲れ上がる内の部分も淫色焼けはしていない。

“まあまあ、いい女じゃねえか”揺れ動く乳房の先で汗に光る乳首をはじく。

「あんっ」肉壁の締め付けが一瞬緩む。

ヴァイロンの腰が踊った。

「ああ…」浅く深く…抽送の刺激で子宮が降りてくる。

子宮口が緩む。

誘うようにどっと愛液が湧き、大きく捲り上がり男根を呑み込む陰唇から噴きこぼれた。

グチュ、グチュと抜き差しされるたびに交わる音は大きく、さらにマリキットの喘ぎも辺りを憚らぬものになる。

「あ、もう…だめ…」何度めかの絶頂を告げる。

「冗談、もっと締めてくれよ、奥さん」突き上げながらマリキットの浮き上がった尻をぴしゃりと叩く。

「ああ!」たまらず突き出した腰に嵌っていた男根がさらに奥まで突き立てられた。

「だめーっ、ああ…そんなに…深く…」顔を激しく振る。

中で膨張し、硬度を増したモノが子宮口を押し広げ、柔らかな膜に覆われた所にまで進入している。

「ひぐぅ…」髪を掻きむしって悶えるマリキットの腋下をヴァイロンの舌がぺろりと舐めた。

「ひいっ!」小指の先ほどに肥大した花芯を指で押しつぶす。

容赦ない責めが高みに追い上げられた少女に最後の引導を渡す。

「あああーっ」腰を跳ね上げ、のけぞったまま硬直していたマリキットの躯が褥に落ちた。

「しょうがねえな」白目を剥いた花嫁の痙攣に合わせて射精する。

緩んだ肉壺から引き抜く。

ぽっかりと開ききった陰裂から、子宮に治まりきらなかった精が逆流してどろりと溢れてきた。

汗で濡れ光る胸を上下させ、脚を閉じることもせずに失神したままの少女には後の始末もできない。

ぐったりと正体を無くした妻の股間をさっきの夜着で拭ってやる。

王女は処女(むすめ)では無かった。

だがヴァイロンも散々街中で娼婦を買って遊んでいるのだから咎める気はない。

むしろ、最初からこれくらい乱れてくれれば、一から仕込む手間が省けて楽だ。

純潔、貞操は尊いかもしれないが、抱く方にしてみれば痛がる丸太では楽しみがない。

娼婦を買うには訳がある。

自慢ではないが父譲りのヴァイロンの逸物は、勃起するとかなり逞しくて普通の女…それこそ寡婦相手でも事に及べない場合があった。

豊富な経験と手練手管に精通した売春婦ならば、不首尾に終わる事はない。

正直ツランの王女様では、うまくいかないまま性の営みは立ち消えに成るだろう…と覚悟していた。

別にそれでも構わない、子を産む女は外にいくらでも居る。

それが──

初夜の晩からあっさり自分のモノを呑み込んだ妃に満足していた。

“これであの人形顔が消えればいいんだがな…”汗まみれの躯も拭いてやる。

“惚れたかな?こんな所をシェバ達に見られたら鼻の下を伸ばすなと文句を言われるだろうな”一人苦笑いをする。

こうして王太子夫妻はしばらくは仲むつまじく、朝も夜も共にあった。

シェラムはその間東宮に滞在した。

王城の中心から奥まった場所、それも間にロードタス河から引き入れた運河を巡らし参内する貴族諸侯といえども、勝手に入り込めぬよう設計された離宮である。

第二王子の居城であるのだから滞在という表現はおかしいのだが、他人と接する事を嫌うため、普段は人出入りの激しいタランティア宮殿には住んでいない。

いつもは師と慕うペリアスがアキロニアに設けた別荘にいた。

ペリアスの使い魔に傅かれて──そのシェラムがここに居るのは、兄の来訪を待つ以外の理由はない。

自分の気持ちは伝えてある。

翌日にも飛んできてくれると思った。

…いや、まだ宴は続いている、全ての賓客が引き上げねば新郎は自由にならないのかもしれない。

翌々日も来なかった。

…式後の始末があるのだ、明日はきっと…

一人“海賊の歌”を歌って待った…もうすぐガイが来てくれる──疑わなかった。

シェバの謁見も断った。

兄以外に合いたいとは思わない。

婚礼の日から三日…兄が訪れる気配はなかった。

シェラムは焦れた。

シェバだけが毎日ご機嫌伺いにやってきた。

多忙を極める王太子宮の総帥は、あの時シェラムをヴァイロンの元に導いた事に負い目を感じていた。

まさか無反応な王太子妃や供の者達が王弟殿下にあのような無礼を働くなど…繊細なシェラム様を傷つけてしまった。

問題は律すべきヴァイロンが…シェラムにとって拠り所である兄自身が、その無礼を気にも掛けず、弟が傷ついたと察してもいない事だ。

臣である自分の口からは言えない。

それに、今は妃殿下との時間を大切にし、ツランからやってきた者達に関心を向ける方が先決なのだ。

何せ今まで国交がなかった敵国だ。

探り出したい情報は山ほどある。

政略結婚した次期国王として、この判断は正しい。

シェラムが鍵を掛けて引きこもったドアの前で、シェバは声を張り上げた。

「今は御二人にとって大事な時、これはアキロニア、ツラン両国の今後にも関わる事ゆえ、何卒ご辛抱くだされたく…」

要はヴァイロンは来ないと言っている。

惨めだった。

兄はあのツラン女と共にいるのだ。

ずっと待っているのに…

ガイはあの女を選んだ…

カチャリ…鍵の外れる音がした。

「殿下!」扉が開いた。

「ガイに会いたい…」泣きはらした目をしている。

「はっ…すぐにでございますか?」シェバは困惑した。

「いいよ、私室でしょ?解っているから勝手に行く」

走り出そうとするシェラムを押しとどめた。

「お待ちを…只今あのお部屋には妃殿下とお付きの者達が居ります」

「なんで?」腕を振り払う。

「あそこに自由に入れるのは父上と私だけだ」睨みつけた。

「マリキット様はお妃なのです、ご理解くださいませ」膝を付いて躯を屈め、視線を合わせて説得する。

「わからない!わかりたくもない!なんでツランの犬共がガイの周りを固めているの?おかしいじゃないか!」

シェラムの声は甲高く悲鳴に近い。

「申し訳ございません…」ヴァイロンの軍師として返答できない…

ツラン人を周りに侍らせ油断させるようにと策を授けたのは自分なのだ。

思わず憤りで震える小さな身体を抱きしめた。

柔らかな絹地を通して泣くまいと力む様子が伝わってくる。

──キンメリアの男はな、親が死んでも涙流しちゃいけねぇんだ──兄の言葉を守って人前で涙をこらえる。

けなげな態度に一層憐憫の情が増す。

「明日、わたくしが謁見の順番の最初に殿下をお入れ致します、どうかもう一晩ご辛抱を…」

「謁見?」その声が子供とは思えぬほどに冷たく響いた。

「この私がガイに会うのに、謁見が必要なの?」

「今はツラン側の眼もあります故、手順だけは…」その徹底を諮詢したのも自分だ…特別の便宜は図れない。

つい…とシェラムは後ろへ下がり、シェバの腕から抜けた。

「殿下?」

「帰る」きつい眼だった。

「えっ?」

「謁見して退去の挨拶をしたいけど、どうしても今夜中に帰りたいから会わないで行くって伝えて」踵を返す。

「殿下、お待ちを…」

「忙しい中、ご苦労であった。下がりなさい」追いすがるシェバの前で扉が閉まった。

今まで甘えてきた兄の側近を、臣下と見なした初めての瞬間であった。

シェラムが東宮に留まろうと思ったもう一つの原因は恩師の不在にあった。

館に帰っても使い魔しかいない…もう三ヶ月になる。

旅に出ると言い残して出て行ったきり師からの連絡は無かった。

ペリアスはベンダーヤ語を解する関係から幼いシェラムの通訳とアキロニアとその同盟諸国の言語の指南役を務めた。

魔道士である自分が離宮とはいえタランティア宮殿内に暮らすのは不味かろうと、城を出て市街の外れ、ロードタス河の川縁に別荘を建てここから参内した。

最初はそうだったのだが予想外な事が起きた。

馬を自在に乗りこなせるようになったシェラムが足繁く訪れるようになり、ついには宮廷暮らしを嫌ってこちらに移り住んでしまったのだ。

館内にある古書や文献に目を輝かせたシェラムはペリアスの博識に深く傾倒した。

今まで通り異国の言語の他に医学、薬学、地理そして忘れ去られた太古の文言…あとは水晶球による連絡の取り方…古文書や薬物、呪物を探しに旅する自分の動向を伝える為に教えたのだが、ペリアスはこれ以外一切の呪術、妖術、魔法の類を伝授する事はなかった。

毎日水晶球を覗く。

勿論、東宮に来るときも天鵞絨でくるみ、象牙の箱に入れて持参した。

それだけを鞍に括り付け、ロードタス河の上流に向かい馬を飛ばす。

「師の君…何処におわすや?」

そうだ…旅発たれる数日目に来客があった。

一人はミトラ神官デキシゼウス…

それを待っていたのは館の主ペリアスとアシュラ教の神官ハドラタスであった。

デキシゼウスはその装束を見るや身を翻した。

「あいや、待たれよ、友よ」ペリアスが呼び止める。

「ペリアス殿、御身は国王の親友、魔道士という忌み嫌われる身分にありながら王室だけでなくアキロニアの命運自体を救われた経歴は我らミトラ神に仕える者だけでなく国民がすべからく知る所じゃ、しかし…」

見てはならぬ者を見るかのように視線の端をちらりと向ける。

「アシュラ教徒と同席はできぬ」

「ならば言おう。御身の元を放逐されたオラステスがあの忌まわしき宝石“アーリマンの心臓”を以て古王国アケロンからセトの高僧ザルトータンを復活させ、結託したネメーディア軍とコナン…いや失礼国王を罠に陥れアキロニアの占領を計った折、国王を助けアキロニア軍再起の切っ掛けを造ったのは誰あろうこのハドラタス率いる在家のアシュラ信徒じゃ」ペリアスは一気にまくし立てた。

「…これは密会…誰も知らぬ…」ハドラタスが押し殺した声で言った。

憮然とした面持ちでミトラの最高神官は示された椅子に座った。

ハイボリア期の国々でミトラ教は最も信者が多く、有力な宗教である。

教団の権威や勢力も強く、国教とする国も多かった。

それまでの異教には生贄を伴う残酷な儀式が日常茶飯事に繰り返されたり、おおっぴらな性典を催したり、神なのか魔なのか解らないおぞましい偶像が祭られていたりといった邪悪な雰囲気のモノが多かった。

啓蒙思想に目覚めた民衆は新たな神としてミトラを信仰した。

ミトラの信奉者によって以前からの宗教は異端視され、迫害され滅んでいった。

アキロニアの地下に隠蔽した神殿を造り、秘密裏に教団を長らえていたアシュラ教もその例外ではない。

同じ東方の淫靡で残酷な儀式を伝えるハヌマン信仰と混同され迫害、糾弾されたのだ。

しかしコナンは宗教に寛大であった。

言語はアキロニア語への統一を図ったが、所領内の諸侯貴族にも異民族の領民に対し、先祖伝来の生活習慣、文化や宗教、祭事といったものに統治者が介入し圧力を加える事を禁じた。

それを恩に感じたハドラタスは地下組織の全てをかけて敗残の将コナンを助け、落ち延びさせた。

その後ザルトータンを再び冥府へ送り返し、ネメーディア軍を打ち破り国王の座に返り咲いたコナンは当然の事としてアシュラ教団を地下から開放した。

ミトラ神殿も彼らの功績を認めざるを得ない。

さらに第二王子シェラムがベンダーヤからやって来るとアシュラ教団の力は増大した。

何故ならアシュラ教の最高神アースラ大神の意を汲む者と信じられている“生き神クマリ”こそがシェラム皇太子だったのだから…

それを表すようにハドラタスが椅子から立ち上がると扉に向かって平伏した。

「シェラム殿下…」デキシゼウスも膝を付く。

「ここは大人の話じゃ、そなたは奥で控えていなさい」ペリアスの声は優しいが、有無を言わさぬ強さがあった。

ここにやってくるペリアスの少ない友人、デキシゼウスもハドラタスも来れば教義の質問を受けたり、信徒からもたらされた世の中の情勢などを語ってきかせたりして、ひとしきりシェラムの相手をして過ごすのが通例となっていた。

それが…あの日は違った。

だいたい魔道士の館にミトラとアシュラの二大教団の最高神官がそろって現れるなど…あり得ない…

何があったのだろう?

そうだ、このままデキシゼウスかハドラタスの元へ行き、先生の行き先について何か知らないか訊ねてみよう。

近いのはミトラ神殿だ。

馬の轡を引くとタランティア市街の中央に向かって走り出す。

ミトラの大神殿は煌々と灯りがともる中に荘厳な姿で浮かび上がっている。

シェラムの馬影に気づいた神官達は他の参拝者に気取られぬよう裏門を開け、デキシゼウスの執務室まで案内した。

まるでシェラムが訪れる先触れがあったかの如く…

「じゃあ、先生と共にハドラタスまで旅に出たというの?」神殿内でも慣れ親しんだ口調は変わらない。

人払いした部屋で、デキシゼウスは厳格な最高神官の顔を捨て、いつもペリアスの館を訪れる時の物静かな宗教者の顔をしている。

「左様です、こちらにお越し下されたのは賢明でした」

「何があったの?」

「それは…」口ごもる。

「私に関わる事だよね?」でなければ先生が自ら動くなど…一言も無く旅に出たまま音信不通になるなどあり得ない。

「お察しの通りで御座います」子供とはいえ感のいいシェラムに下手なごまかしや嘘は通じない。

「殿下のお生命とベンダーヤ、アキロニア両国の存亡に関わる大事のために二人は戦いの旅に出たのです」

「まさか…?」シェラムの顔に動揺が走った。

「イムシャ?」

「しっ!その名を声に出してはなりませぬ。ここはミトラの御力に守られてはおりますが、魔王と名乗る奴輩の力は侮れませぬ」

「甦ったの?だって奴らは父上に敗れて逃げ去ったって…」

「お国のアシュラ教徒よりもたらされた知らせを、ハドラタスが伝えてきたのです。今日(こんにち)西方一の魔道士はペリアス殿、戦うにはハドラタスの東洋の魔に精通した知識とペリアス殿の呪術が必要なのです」

「そんな…父上は…トロセロ、プロスペロ、パブリウスは知っているの?」

「未だ御知らせしてはおりません」デキシゼウスはかぶりを振った。

「きゃつらの後ろにはツランの影が見え隠れ致しますので…」

「あ…」そうだ、あの三者会談とガイに縁談が持ち込まれた時期は殆ど同時…

「ペリアス殿は殿下の御為、決死の覚悟で東に向かわれました。それはアシュラ教徒たるハドラタスも同じ…その間アキロニアの鎮護と殿下をお守り致す事を二人からくれぐれもと頼まれました」

「負けないよね?」キッと顔を上げた。

「先生は強いもの、負けないよね…生きて帰って来られるよね?」

「お信じなされませ、殿下はアースラ大神の化身におわします。“生き神クマリ”が加護を賜らずに如何いたしましょうや?」

異教の最高神の名を呼ぶなどミトラ神官としてはあるまじき言動だが、この時のデキシゼウスはただこの幼気(いたいけ)ない童子が…運命に翻弄されながらも、それに立ち向かうけなげな意志が愛おしかった。

「うん…」素直に頷いた。

思い当たる…師は旅発つ前に使い魔を魔界からぞくぞくと召還した。

館を護るモノ、常に自分の傍らに居るモノ…イムシャの眷属がミトラの結界を破った時の備えだったのだ。

五年近くペリアスの元にいて呪文の一つも知らない…“生き神クマリ”なのに自分は守って貰うばかりで鎮護国家の役には立たない。

「王宮にいたらみんなを巻き込んでしまう…ペリアス先生の館に戻った方がいいよね?」

何と賢明な御方か…齢(よわい)八歳とは思えぬ先見だ。

デキシゼウスは舌を巻いた。

「お送り致しましょう…」

「いいよ、まだ敵は仕掛けてこない…水晶球が曇らないもの」そのくらいは見通せる。

一礼して身を翻した背にデキシゼウスは思わず呼び掛けた。

「貴方様はコナン王の御胤、決して疑うてはなりませぬぞ」

「シュカ…」見送る姿勢のままデキシゼウスは背後の闇に小声で呼び掛けた。

神官の僧衣を纏った青年が姿を現した。

白銀の髪がかかる風貌は知的で品がよい、いずれ名だたる名家の出身であることを匂わせる。

「この調子で頼む。我らはタランティアを邪悪な気から守ることで精一杯じゃ。殿下の周囲にまで手が回らぬ」

「はい、殿下には気づかれぬよう気配を絶っておりますが、もしもの時には身を挺してお守り致します」

師は深く頷いた。

「未だ修行の身であるそなた一人にこのような大役を負わせ、すまないと思っている」

「いいえ、私のような一旦俗世を離れた者がこのような形で国家の大事に関われますことは、世捨て人になってはならぬというミトラの思し召しと思っております」華奢な影がしなやかに腰を折った。

「そうじゃ、祈りは民衆の中から生まれる。決して神殿に籠もる神官だけのものではない」

そう言ってデキシゼウスは懐から親指の先ほどの小さな水晶球を取り出した。

「これを持っていくがよい、危急の際にはこれに事項を囁き宙に放れ」

「ありがたく…」推し頂いた青年は足早にデキシゼウスの元を去った。


処刑場に吹き付ける風は渦を巻きゴウゴウという叫びは耳を覆う程に大きくなった。

風に呷られるキトンの裂け目は更に広がり、もはや腰に巻き付いたままの様相を呈している。

半眼のまま、裡に取り込んだ死霊の意識を読んでいた少年の息が荒くなった。

その脳裏では、自分の記憶と相まって十年前の事件が生々しく再現されているのだ。

「だ…れが…」シェラムは声を絞り出した。

「誰がお前らを浄化する手伝いなどしてやるものか!」

鉛色の指輪を暗黒の空に突き上げる。

「未来永劫この地に縛られ、のたうち回るがいい!霊界になど行かせるか!」

呑み込まれた死霊が放たれる。

浄化目前だった霊達は再び死の苦痛に襲われ、泣き叫んで取りすがる。

“お助けを…”

“お慈悲を…”

“お許しください…”

「輪廻の輪から外れたまま、生まれ変わる事もできずに生前の苦痛を繰り返し味わうのだ、それがうぬ等に相応しい!」

風を睨みつけるシェラムの瞳が炯々と光った。

「うぬらの陰謀はアキロニア国民を裏切っただけでなく、自国ツランをも滅ぼした…あのまま講和が成っていたら…」

その目にうっすらと涙が浮かんだ。

まとわりつく死霊を打ち払い踵を返した。

彼が目指す目的地へ向かって歩み出す一歩は、心無しか力強かった。


“あのまま講和が成っていたら”…王宮内はもとより国中が祝典の余韻に酔いしれている。

いや、彼らが酔っているのは長い戦の末にやっと訪れた平和であった。

そのさなかに同盟国ベンダーヤからの密使が使わされたのは、シェラムが東宮を辞してから幾日か経って後であった。

表向きは王太子への結婚の祝いと例年の如く行われる皇太子への誕生日祝いの進物である。

使節団の団長はこれも毎年訪れるヴィダラーハ…アシュラ教の総本山たるアヨドーヤ神殿のバラモンを輩出する名門貴族ルジャ宗家の長にして、チァンリルの父である。

クシャトリア(ベンダーヤの貴族階級の総称だが特に武将を意味する)からマハ=ルジャの尊称で呼ばれる貴人から『イムシャの眷属、跳梁跋扈の兆候あり』との女王ヤスミナの密書が夫君コナン王に献じられたのはハドラタスがペリアスの元に同じ知らせをもたらして三月以上が経っての事であった。

アキロニアの出兵は迅速であった。

コナン自らが大獅子軍旗を押し立て東方遠征軍を率いた。

隣国はアキロニアの同盟国と化している。

問題はヴィラエット海に跨る超大国ツラン──講和が成ったとはいえ両国の国民感情は冷え切っている。

余計な摩擦は起こしたくない──迂回路を取るためアキロニア軍は南下した。

オフル、コス、コーラジャを抜け砂漠を横断しベンダーヤの隣国イラニスタンに入る道である。

しかしこの時分イラニスタンはツラン派の貴族が実権を握り、ベンダーヤとは臨戦態勢にあった。

アキロニア襲来となればツランからの援軍がやってくる。

二国が国境を接する距離で動けるだけにベンダーヤ・アキロニア同盟軍には不利な戦況であった。

しかも戦の目的地であるイムシャ山はベンダーヤ領といっても外れであり、地理的にはツランやヒルカニアに近い。

コナンは砂漠地帯の手前で進軍を止めた。

そこにアシュラ教徒が“コナンの同志”の伝手で密かに最新の情報をもたらした。

まだこの時の“コナンの同志”はヤーマド・アル=アフタの名で呼ばれたコナンを敬愛するズアジル族やコザク族が主体である。

諸国の内情を知らせる情報網としてはツランの“王のお耳係”といい勝負だが、まだきちんとした命令系統は構築されていないし、ゲリラ部隊も育っていない──真の“コナンの同志”の活躍はこれより五年のちとなる。

国王の野営幕舎にトロセロ、プロスペロ、プュブリウス、パランティデス、ラーマンといった盟友達が密かに集った。

配下の将達の目すら忍んで集結したこの夜の密議で何が決したのか?

誰も近づかぬよう見張れと命じられた衛兵の一人は明け方幕舎から出てくる一人の蓬髪の老婆と一匹の灰色狼を見たような気がした。

いや、確かに見たのだが、次の瞬間朝靄に溶けるように消えてしまったので、夜通しの警備の疲労が生んだ幻影であろうと思った。

この後“予定通りアキロニア軍は過酷な砂漠越えに突入した”──とタランティア宮殿に“コナンの同志”から連絡が入った。

留守を預かるヴァイロンと宰相パブリウス以下内政大臣はこの知らせを表面上は冷静に受け止め、国民にも告知した。

ロードタス河畔に一人…いや姿の見えない使い魔達と留守を守るシェラムの元にもその知らせはもたらされた。

その知らせを運んだ人物とは…

王太子妃の警備隊長…マリキットの従兄弟と称するハーディアであった。

「シェラム殿下はツランがお嫌いとか?」睨みつける幼い当主に悪びれもせず流ちょうなアキロニア語でお決まりの挨拶を述べた後、ヴァイロンより五歳上の青年貴族は薄い唇に笑みを浮かべ切り出した。

「婚礼式典以後、一度も王太子宮に伺候なさらぬのは妃殿下はじめ我らを嫌っての事でしょうかな?殿下…」

物言いは宮廷言葉で穏やかな抑揚なのだが、言葉の裏にある毒を容赦無くさらけ出す。

「何の用だ?」シェラムの目に憎悪が燃える。

目に見えぬ使い魔達が当主の意志を感じ取り、地下から次々に現れて周囲を囲んだ。

辺りに焦げ臭い匂いが漂い、ピシッという乾いた音が其処此処で響く。

青銅で鋳造された大灯籠がゆらりと揺れ、ギシギシと不気味な音を上げて招かざる客を威嚇する。

だが未だ魔が支配するという東方諸国に近いツラン生まれの騎士はそのような怪異に慣れているのか気にも解さない。

「聞けば王太子殿下はこちらに通われるのを日課としておられたとか…婚礼前から足が止まったと聞き及びましてな、いや御忙しいお身体、当然とは思いまするが王弟殿下にはさぞや御淋しかろうと…」上目遣いで見上げる一重の目がキラリと光る。

“星の姫”マリキットによく似た目鼻立ちのくっきりと整った顔立ちをしている。

ヴァイロンと比べれば劣るが武人として鍛えられた身体付きだ。

ヒルカニア民族らしく長身痩躯に褐色の肌、手入れされた黒髪はつややかに肩先で整えられている──だが貴族の生まれにしてはその目付は品性に乏しく酷薄な印象を受ける。

「我が従兄弟とはいえマリキットは女の魅力に満ちておりまする、若い兄君が虜となったとて、それは致し方なき事…ましてや二人は誰しもが認め祝福した夫婦なのですから」

「そんな事は解っている、兄の婚礼は私も祝った」答える声が掠れている。

お前は捨てられたのだ──マリキットに取って代わられたのだ──ハーディアは暗にそう言っている。

「お可愛そうに…王太子様が来られないとなると途端に誰も訪れなくなるのですね」

「なっ!」何を馬鹿な事を…普段からここにやって来るのはガイの他にはシェバとその父親である宰相パブリウスだけだ。

「このように賓客が無いとは…第二王子という御方にあるまじき事。やはり殿下の御血筋を猜疑されての事なのでしょうか?」

「なにい!」怒気が身体中を染めた。

「ははは、御懸念には及びませぬ、我はツランの生まれ故アヨドーヤの事情も聞き知っております。例えば五年前クマリ神が謀殺されかけたとか…皇太子がアキロニアに亡命中…おっと失礼留学中でしたな、それにイムシャ山はツランに近うございます…」

シェラムは愛刀の鞘を払った。

イムシャ──それは禁忌の言葉である。

誰にも知られてはならぬ…それをこの男は軽い口調でペラペラと──王太子妃の従兄弟であろうと講和中のツランの大貴族であろうと生かしてはおけない。

「ほほう?これは驚いた。殿下のような幼子がこれ程の腕をお持ちとは…」軽薄な語りは変わらないが、緊迫の気配が読み取れる。

“かなりつかえる…”騎士であるハーディアは東洋の長剣を構えたシェラムの腕前に驚いていた。

“隙が無い”…力で押せば、まだまだ及ばぬだろうが技はきれると判断した。

傷をつけては元も子もない──彼は小さな包みを手の内に隠しながら利き腕で腰の剣を抜いた。

シェラムは切っ先を相手の喉元に向けて呼吸を整え、相手との距離を測っていた。

怒りに身を任せたとはいえ、一気に打ち掛かるほど愚かではない。

組み討ちを警戒して、ジリジリと間合いを詰めながら移動して相手の隙を探す。

コナン自らが鍛え上げたキンメリアの子は初陣もまだというのに、実戦の駆け引きを体得していた。

押されるように後ろへ下がるハーディアの足が敷物の縁を踏んで僅かにバランスを崩した。

「はっ!」裂帛の気合いで斬り込んできた。

その打ち込みの鋭さに受け損じた──切っ先がかわしきれずに左の脇腹を擦った。

小柄な上に敏捷だ。

脇腹の痛みに顔をしかめる相手の攻撃範囲からすぐに飛び退く。

そして間髪を置かずに後ろに回り、次の攻撃に出る。

“かなりつかえる”どころではない、自分より遙かに勝っている。

打ち合うハーディアの額に汗が浮かんだ。

“くそっ!”傷を庇いながら何とか切り結び、手元に引き付けた。

「ガキのくせしやがって!」相手の柄頭目掛けて包みを投げつけると、鼻と口を覆い玄関から外に駆けだした。

はあはあと荒い息を吐く警備隊長の前に黒い人影が五体、大気からにじみ出るように姿を現した。

影は黒衣を纏った男女に変わる。

「だらしがない…それでも武人ですか?」ツラン語が冷たく響く。

「ガキだと思って油断した。それに大事な王子様に傷をつけちゃならないと、あしらうのが大変だったのさ」苦しい息の下で答える。

「あしらわれたのはどちら?」年若い女が揶揄する。

「うるさい!俺が引き付けておいたからペリアスの使い魔共を消せたんだろうが…さっさとこの傷をふさげ」

そう言いながらどっかりと地べたに座り込む。

小柄な黒衣がすうっと側に寄った。

「おい、お前ら、手練れの王子様が罠に掛かっているか確かめてこい」二人の男に命じる。

彼らは年長の女の方を見た。

女が鷹揚に頷くと、再び男達の姿は影となり屋敷の中に吸い込まれるように消えていった。

「チッ!今はこの俺が大将だ一々お前が指図するんじゃねえ。お前らの言う“名を呼んではいけないご主人様”はとっくにコナンに締め殺されてるんだぜ」

「ふん、その亡き御方(おんかた)のくださった黄蓮の花粉がなければ小童一人捕まらないのでは、我らの大将殿も先が思いやられますこと…」脇腹に手を翳していたもう一人の女…少女というべき年格好の者が見下した口調で言う。

「なんだと!」思わず睨みつけてはみるものの、手当されている身では迫力が無い。

いや年嵩の女に率いられた影の群れは、最初から不気味な威圧感でツラン貴族を圧倒していた。

「ふん、ヤー・チェンを失ってパイトン(キタイの首都:古代から続く東方諸国最美の都)を追われたお前らがまじない師タタールの手引きでツラン王を頼りマイプールに落ち延びてきたって事を忘れるなよ」

三人の女は憎々しげに若造を睨んだ──だが逆らえない。

未だ呪術の支配が色濃く残る東方諸国と違い、中央から西方は啓蒙思想が辺境まで行き渡り、手練れの魔道士と言えども迂闊に術の行使はできない。

民衆の迫害、逆襲の恐ろしさは主人ヤー・チェンがくびり殺された折、圧政に決起した民衆によって攻め立てられ、命からがら国を逃れた彼女達にとって身を以て知る事実であった。

「命令するのは俺だ、イスマディア王からマイプールの領主に任じられた俺様だ」

年嵩の女が膝を折った。「解っております…マイプール公」

「ふふん」マイプール公と呼ばれ、青年貴族は機嫌を直した。

そこへ黒い影が立ち戻ってきた。

「王子は気を失っております、屋敷内の使い魔も始末致しました…」

「よし、成功だな!」傷はすっかり塞がり、破れたチュニックと染みついた血の痕だけがそこに傷が在ったことを示す。

「全くアキロニア軍があんなに早く動くとは正直驚いたが、撒いた餌にペリアス、ハドラタスと同じようにヤスミナもコナンも喰い付きやがった」

勢いよく立ち上がり、土を払う。「さあて、この傷のお礼にあの夫婦の愛しい坊やをどう料理してやろうか…」

「待って…」長い黒髪を風になびかせながら吊り目がちな女がハーディアを制した。

川面に茂る葦原の辺りをじっと見つめる。

「ツァン様…ミトラ神の結界が…」キタイ語で囁く。

「何だって?」年嵩の女がじっと指し示された場所を睨んだ。

「おい、何だ?」意味の分からぬ会話にハーディアが焦れた。

「イェン、タム…ご苦労だが、もう一働きしておくれ」それには答えずツァンと呼ばれた女は黒い影を手招きした。

葦原の茂みに身を隠し、腰まで水につかりながらシュカは結界を弛めなかった。

「イムシャの眷属ではない…みんな騙されていたのだ、奴らはパイトンから逃げてきたヤー・チェンの残党だ」

デキシゼウスから託された水晶球に囁く。

ついでシェラムの身にせまる危機を告げようとしたところで結界が揺れた。

「うあ!」思わず、腕で顔を覆う。

凄まじい衝撃が襲いかかった。

“しまった、気付かれた!”一撃で結界は消滅した。

前後を屈強な東洋人に挟まれた。

川底の泥に足を取られ自由が利かない。

彼らから発する力量は計り知れない。

叶う相手ではないと直感した。

それでも最高神官の愛弟子は祈りの形に手を組んだ。

「ふん、ミトラの聖徒手か?我らには効かぬ」嘲りの言葉と共に再び衝撃が襲った。

「あっく…」胸を掻きむしった。

内から心臓を握り潰されるようなギリギリとした痛みが襲う。

喉にも締められたような痣が浮かんだ。

のけぞったシュカの身体が水に沈んだ。

水中でもがく。

僅かに水面に顔が出したのが最後だった。

「デキシ…ゼウス…さま…アキ…ロ…ニアを…」祈りの形のまま握っていた水晶球をそっと水中に放った。

それは水面の輝きに紛れ、意志がある如く上流に向かって流れていった。


頭が割れるように痛んだ。

気持ち悪い…喉が焼け付くように痛い…

うっすらと開けた目にハーディアの狡猾な顔が霞んで見えた。

「あ…?」思考が定まらない…自分はどうして…?

服が脱がされていた。

だが寝かされている寝台の感触も、寝具から立ち上る匂いも自分の物だし、ここが私室であるという事は解る。

ほっと安堵の息を吐きながら、頭の何処かで危険を知らせる警鐘が鳴っている。

「おや、もう気がついたのか?おい、大人でも三日三晩昏倒したまま悪くすりゃ死に至るほどの効き目じゃなかったのか?」

東洋人の女が覗き込む。

「おそらく危険を察知して飛び退いたのでしょう。余り吸い込んではいないのよ」この女は…婚礼の日に見た…

王太子妃付きの女官長?

「でも身体の自由も記憶も戻っていないから大丈夫…」

「そうかい…それじゃ早速…」シェラムの裸体を見下ろすハーディアの視線が淫靡な光を讃えている。

「カマラが王太子の嫁と決まってから全然してねえからな」

「カマラではありませぬ、マリキット様でございます」女官長がたしなめる。

「分かってるって、他の奴がいるところじゃ言わねえ」ハーディアは服を脱いで寝台に上がった。

「居るではありませんか…王弟殿下が…」若い女の声が欲情している。

「あれ?これから仲間になって頂くんだ、構わないだろう?なあ、シェラム様…」

何?何を言ってる?ああ…思い出せない…どうしてここに王太子妃の女官や警備兵がいるのか…

この警備隊長が訪ねて来て…何か…重大な事を言ったような気が…

頭が痛い!

何か思い出そうとする度に、脳に錐が打ち込まれたかのように痛む。

「ううっ」眉を寄せて苦しむシェラムの髪が優しく撫でられた。

「可哀想になぁ、きついか?」

思わずコクンと頷く。

「こんなに苦しいのにヴァイロン様は来てくれない…」いつの間にか他の者達も黒衣を脱ぎ捨て寝台を取り巻いていた。

「淋しいのに…呼んでいるのに…」

「ペリアス殿も殿下を置いて何処かへ行ってしまった…」

「可哀想に…国にも帰れずいつも独りぼっち」

「そんな貴方をみんな見捨てて…」

「置き去りにして…」

“違う…自分は捨てられてなどいない…”

“先生は私の為に戦いの旅に出たのだ…”

だがその時頭の隅で微かな疑問の声が聞こえた。

“本当に…?”

“信じられる?”

“イムシャの魔王の血を引いているかもしれない…呪われた子だと解ってもみんな今までのように付き合ってくれるの?”

“それが怖くて、みんなの視線から逃げていたんじゃないか?”

“深い親交を自ら避けてきたじゃないか?”

それは徐々に大きくなり…

サフラン色の肌に漆黒の髪を香油で固めた少女の顔が覆い被さってきた。

何かとろりとした物を口移しで飲まされた。

頭の痛みと喉の乾き、胃が転がるような嘔吐感が遠のいていく。

それと同時に腰の辺りにむず痒いような、経験したことのない甘い痺れを感じた。

「あっふ」躯の自由が利かない身でありながら、思わず腰を揺する。

「何も教え込まれていないようね」若い女も幼子の肌に指を伸ばし愛撫を始めた。

童子とはいえペリアスと長年暮らした身体にはなんらかの呪術魔法が仕込まれているのではないか…と警戒していたが、この薬の効き目の早さをみればそれが余計な危惧であったとわかる。

女の指が胸を這い桜色の小さな乳輪を擦った。

「あん…」小さな突起が勃ち上がる。

添い寝をしながら肌をまさぐっていたハーディアの目が細まった。

「なあ、シェラム様、今日からは俺達が一緒だ。もう淋しい思いはさせない」撫でさする手が幼い性器に触れた。

「あっ」すでに童子のモノは熱を帯びしこっている。

“ガキのくせに一丁前だな…こりゃ楽だ”ハーディアはほくそ笑んだ。

首筋に舌を這わせ耳元で囁く。

「例え魔王の子だとわかっても、俺達は裏切らない…最後まで王子の味方だ」

まだ皮に覆われた若竹の根元を締め付ける。

その先には少女の唇があった。

ゆっくりと唇が上下し、内では舌を滑らせている。

その口中には、まだ先程の薬が塗られている。

「あ…いや…なんか変…なんか変だよぉ」不自由な躯で精一杯に身悶える。

左右にいた男達が大きく足を広げた。

膝裏を持って腰を浮かせる。

小さな窄まりにまたトロリと薬が垂らされた。

柔々と塗り広げながら白い太腿に舌を這わせ、時折内髄を吸う。

自らも見ることの出来ない隠された場所に紅い華が転々と咲く。

くぷっ…薬にまみれた小指が桜色に染まった菊座にしずしずと挿入った。

「あひっ」持ち上げられた腰がぴくりと跳ねる。

奥まで薬が染み込むよう抜き差しされる。

「あんっ…あっ、止めて…痛い…」

その間にも男達の唇は小さな陰嚢を含み、舌で転がし、蟻の戸渡りをついばむ。

小さな躯が汗で濡れ光り、灯籠の灯りを映して赤く燃える。

いつしか苦痛の呻きがハアハアと艶めかしい吐息に変わっていた。

痛がって上に逃げていた腰が逆に落ちてきた。

抜き差しする指に合わせてグラインドを始める。

「指を抜け」枕辺で淫香を焚く女官長が命じた。

「あっ…あん、もっと…」シェラムの腰が指を追って突き出された。

「中…かゆい…擦って…掻いて」切なげに躯を擦り寄せる。

「ハーディア殿、そろそろ頃合いじゃ」女官長が即した。

男達が更に大きく割り開き、青年貴族を迎え入れる。

「どうして欲しいのですかな?殿下」喘ぐ顔を覗き込む。

「中が…かゆ…掻いて…何か入れて…ああ!」少女の頬が窄まった──含まれたまま、きつく吸われた事が解る。

のけぞるシェラムは八歳と思えぬほど淫靡なあでやかさに満ちていた。

ハーディアの喉がゴクリとなった。

ひくつく窄まりに屹立した男根をあてがう。

「俺達の言う通りすれば、いつでもこうして抱いてやるさ」その刺激に自分から腰を押しつけてくる。

「どうだ?俺達の仲間になるんだな」先走りの液をこすりつける。

嫌々をするようにシェラムの顔が緩く振られた。

「返事は!」ぴしゃりと尻を叩いた。

もう配下の言葉ではない…

「ああ、なります!だから…なんとかしてーっ」絶叫だった。

一気に貫かれた。

「ぎゃああああーっ!」シェラムの躯が踊った。

いくら薬でほぐされていても、武人の怒張した男根は八歳の子供の肛門と直腸に治まるモノではない。

「痛いーっ!抜いてーっ!」

不自由な身ながら渾身の力で暴れる。

結合部からポタポタと鮮血が滴る。

逆にそれが潤滑となり、一層激しく抽送される。

グチュッ、グチュッと音が響くたびに血の匂いが部屋に満ち、淫香と混じりあって凄まじい香りに変わる。

女官長が哀れな生贄の腰を支えていた男の一人を手招いた。

そのまま寝台の下にもつれ合って重なる。

もう一人の男もシェラムの足をハーディアの肩に預けると、若い女の腕を引いて押し倒した。

それを眺めるハーディアの腰使いは容赦のないものになった。

もうシェラムは抗わない。

見開いた目は見慣れた天井を映している。

突かれるままに躯を揺らしていたが、ぴくりと跳ねた。

少女が腰から頭を起こした。

口から透明な液をこぼすと、手の平で受け、それを腰を踊らせるハーディアに示した。

“まあガキだからな、こんなもんだろう”ニヤリと笑って組み敷く相手を見下ろす。

腕が抱きつくモノを探して空を泳いでいる。

ハーディアはゆっくりと躯を倒した。

その背にシェラムの腕が抱きついた。

「どうだ?感じるか?」

「はい…」

「今度は俺が出す番だ、しっかり受け止めろよ」

「はい…」

それは情人と性奴の会話を思わせた。

同じ頃タランティア後宮にある王妃の間にもう一人の王太子妃付の女官長フィーリアが伺候していた。

彼女はゼノビアの腹心であり、王太子宮内に派遣されアキロニア側の侍女達の総括を任じられていた。

女官長とはいえ年はマリキットと同じ十四である。

年齢の違わぬ者ならば気兼ねなく打ち解けるだろうというゼノビアの配慮は表向きの事で、幼い時より仕込まれた特殊な体術により“ツランの者達に怪しい動きが無いか探索せよ”とのコナン王直々の密命を帯びての女官長就任であった。

「懐妊?」ご無礼を…と断った後顔を寄せて囁かれた言葉に思わず王妃の声が大きくなった。

「しっ、声が大きゅうございます」人払いはされているが、それでも用心深く扉を開け次の間に人影が無いか確かめる。

耳を懲らし気配を探る。

少女は後にヴァイロンの抜擢でボッソニア特殊部隊の隊長となったウィスカの妹であった。

西の山岳民特有の褐色の肌に灯火で透ける髪は灰色というより銀に近い。

「大丈夫でございますね、以後はお声をお慎みください」扉を閉めると女主人の前に戻る。

ゼノビアは少女を前に、すっかり動揺していた。

「そんな、婚礼からまだ一月にもならぬのに…何か確たる証でもあるの?」

「まず悪阻(つわり)がございました」王立アカデミアでジニアスと共に学長アテミデスに学び医学薬学を嗜んでいる。

ラーマン伯爵は孫が故郷を遠く離れ、王太子宮に仕えながらヴァイロンの学友の一人としてアカデミアに入学する事が決まると乳母の娘であるフィーリアを養女として、タランティア宮へ送った。

幼い頃から聡明で勇敢な少女はゼノビア付きの近衛騎士となった。

いずれ孫に妻(め)合わせたい──将来、辺境地帯の所領を受け継ぐであろうジニアスの嫁にとラーマン伯爵が見込んだ娘だった。

その意を知ってか知らずか…実直で真面目一方のジニアスは宮廷内で同郷の少女を見かけても、話しかける事はなかった。

フィーリアは淋しそうに去っていく領主の孫を目で追う。

それに気付いたゼノビアがアテミデスに相談し、特別にフィーリアをアカデミアに入学させた。

山育ちの少女は王妃の心遣いに涙し、生涯忠誠を誓った。

「それは長旅と慣れぬ土地での生活で胃が荒れているのではないの?」

「薬師の調合した吐き気止めも受け付けなかった妃殿下が一昨日辺りから急にお食事を召し上がるように成りました、それも大量に…」

「だからそれは環境に慣れてこらえたからでは…」否定の言葉を探す王妃の前に絹の腰布と身体を拭く柔らかな綿布が示された。

「どちらも妃殿下がご使用になったものでございます」

ゼノビアは躊躇した。

いくら同性でも姑たる自分が嫁の下着や身体を拭ったモノを検分するなど…

フィーリアは女主人の狼狽など気にもかけぬといった事務的な口調で中を示した。

「こちらに下物(おりもの)が…」

「ええっ?」

絹地に白い粘液が乾きもせずにベッタリと付いていた。

「こちらはもっとはっきりと…」綿布から酸っぱい匂いが立ち上った。

「今まで、ツランから付いてきた女官達がすぐに始末してしまい、こちらの目には触れぬようにしておりました…何故にあのように我らを警戒するのか、ずっと疑問に思い密かに内偵しておりました、」

報告を受けるゼノビアの顔が引きつっている。

ネメーディアの後宮で女奴隷として酷使されてきた彼女は、妊婦の陰門から洩れたモノなど嫌と言うほど見知っている。

間違いなかった。

「今夜は何故か手薄で若い侍女等しかおりませぬ、隙を見てかねてから突き止めてあった隠し場所から盗んで参りました」

汚れ物を王妃の前から遠ざける。

「わたくしが沐浴の折に拝見致しますに、すでに三月…いえ四月は過ぎておるやもしれませぬ」

「では…身ごもっているのはヴァイロン殿下の御子ではないと…」

「当然でございます!」今まで冷静であったフィーリアが吐き捨てるように応じた。

「こ…れは内密に…王が帰還あそばすまで、決して表沙汰にならぬよう…」

「御意」フィーリアは静かに膝を折った。

「特にヴァイロン殿下には気取られてはならぬ」

頷くと足音を消した少女はそっと退出していった。

のちにこの温情が後宮の、そして王妃自らの危機になるとは…


ロードタス河畔に建つペリアスの館は十年後の今夜も、静かに夜陰にまぎれ沈んでいた。

魔道士が召還した魔物が巣くっているという噂が流れ、昼間でも訪れる者はいない。

葦が生い茂る中にデキシゼウスが建てた石碑がひっそりと隠れている。

ミトラの祈りが刻まれた石の中央には小さな水晶が埋め込まれていた。

シェラムはそっと水晶に手を置き、頭を垂れた。

主が去った館は葦原の最奥に辺りの木々に浸食されるまま打ち棄てられていた。

頭の中に昔歌ったあのメロディーが浮かんだ。

──俺達ゃ船乗り荒くれ者さ…怒濤渦巻く大海原に…──ヴァイロンが幼い弟を肩車して闊歩したのはこの辺りだ。

“もっと大きな館だと思っていたんだけど…”朽ちた門扉をくぐり腰まで伸びた草をなぎ倒しながら邸内に入る。

“私が成長したということか…”ボロボロになった敷物は一足踏むだけで崩れてしまう。

幼い日──アキロニアに来てから五年間ペリアスの薫陶を受けて暮らした懐かしい部屋であった。

荒れ果てた姿をさらす部屋の有様に胸が塞がれる。

“師の君…不肖の弟子でございました…”命を賭けて救ってくれた恩師でありながら、一方的に手元を離れた。

三年前にカニリアの尖塔を後にしてから水晶球での交信はおろか手紙一つ出していない。

私は…何と傲慢であったのか…あれほど慈しんでくださった師に…

この世にあるモノどれもこれもが疎ましく、汚らわしいモノに見えて…師の顔を見るのも声を聞くのも嫌になった。

反抗期?…そうなのかもしれない、普通の十五の少年ならば市井を徘徊し喧嘩沙汰を起こす程度で済んだろう。

だがエペミトレウスの力とペリアスの知識を吸収した自分がその苛つく心を、思うがままに解き放てばどうなるか?

事実、何度も世界の全てを焼き尽くし、滅却させたいという衝動にかられた。

だから私は尖塔から逃げた。

故国ベンダーヤも育ったアキロニアも…養いはぐくんでくれたカニリアさえも捨てたのだ。

あのツォタ=ランティの髑髏が教えたコーシェミッシュの陥穽に籠もった。

全てを捨て去り、この世から縁を切れば荒ぶる気持ちが治まるかと…甘かった。

あの危険な衝動は今も去っていない…だからラメルの館ではやりすぎてしまった。

結果、思いも寄らないほど大事になってしまって…

ガイ──ガイがいないと駄目なんだ…自分を制する事ができないんだ…

…ではガイは?

さっきの処刑場で見たモノは?

死霊の怨嗟は全てガイに向いていた。

私の“死”がガイの理性を消し去ったのだ。

全ての原因は私にある──処刑場でこみ上げた思いが、また胸を熱くする。

再び涙が頬を伝った。

舞い上がる埃に顔を覆い、奥の部屋に…かつて自分の寝室だった部屋に足を踏み入れた。

懐かしい館の中でただ一つ疎ましい部屋…

未だ大人になりきらぬ躯を、寄って集って犯された寝台は穴の開いた天井から吹き込む風雨に曝され、傾いたまま朽ちかけていた。

そして最も忌まわしい場所…隣室の書斎にあの時のまま置かれた机と椅子…

の時──私はこの椅子に腰かけたハーディアの上に抱えられていた。

大きく足を開かされ、あの男の太腿を跨ぐようにして…

背から覆い被さる男が狭いままの私を貫くのが、きつくて辛くて…必死で腰を揺すりあがいていた。

「そうそう、ちゃんと書かないと、また奥まで突っ込むぞ」

ハーディアは今書き上がったばかりの羊皮紙に小布を当て、濡れた墨を吸い取る。

傍らには犯されながら書いたシェラムの署名がもう十枚以上重ねてあった。

「せっかく東洋の魔法で裂けたココが塞がったんだ、もう痛いのは嫌だろう?」

「はい…」彼らの術で肛門と直腸に受けた裂傷はすぐに癒された。

狭いなりに童子の肛門は拡張され、屹立した男根の最も太い先のカリ首を呑み込んでいる。

動かれるたびに裂けそうな痛み…いや実際に裂かれた時の恐怖と苦痛が思い出されて悲鳴を上げる。

小さな手が真新しい羊皮紙の下に名前だけを書いていく。

名前だけを…

その上にどのような文章が付くのか…情人の慰み者と化した童子には問うすべもない。

机の下に少女が座り込み、シェラムの肛門と出入りする逸物を舐めていた。

膨らみかけた乳房がハーディアの精で汚れている。

その指はシェラムの皮に覆われた小さな肉茎をさすり、抽送の痛みで縮み上がった陰嚢を揉んでいる。

嬲られ続けた肉茎の先は爛れて赤く腫れていた。

淫薬が切れた今、快楽などは無かった。

ただ…これが終われば…言うことを聞けば優しく抱いて添い寝して貰える。

髪を撫でながら…私の話を聞いて貰える…

一人にされたくなかった…

それだけで…私は彼らに魂を売ってしまった。

「ミオ…」書斎に影が湧いた。

机の下から少女が這い出した。

「ツァン様がお呼びだ…」

「あれ、その娘は…」唇に付いたハーディアの残滓をぺろりと舐める。

影は二人の堂々とした体躯の男となった。

荒縄で後ろ手に縛った全裸の少女を担いでいる。

暴れた痕が痛々しい…西方生まれの褐色の肌に食い込んだ縄が擦れて赤くなっている。

小振りな乳房に引き絞るように回された縄が、柔らかな突起を歪ませて、そのまま開かれた膝に巻かれていた。

膝を閉じようとすれば乳房が引き締められ、後ろ手の縛めもきつくなる。

両足首は交差されたまま縛られ、縄の先は首に掛かっていた。

陰部が大きく開かれ、そこを自ら覗き込むような形になっている。

これも曲がったままの背筋や押しつぶされる腹部の苦しさに顔を上げると、足首が締まってもっと股間を広げる結果になるし、逆に羞恥に身を捩り、脚を閉じようとすれば首が絞まり屈曲の苦しさが増すように縛ってあった。

「なんだ?変わった格好じゃないか?」ハーディアの目が好色に光る。

東洋人には珍しくはない胡座座り…それを責めに変えた縄掛けだ。

鞭打ちや火炙り、爪抜きなどしなくとも縛って転がしておくだけで拷問になる。

絞まる首、圧迫される胸と腹、正気の女には羞恥責めにもなる。

だが本当の目的は逃亡の防止にあった。

足首、膝、股間、肩、肘、手首…縛めの結び目は全て関節に食い込んでいる。

単なる羞恥責めではない、これは関節を外し縄抜けする事のできない緊縛方法であった。

「いい格好ね、フィーリア女官長様」少女が敷物に降ろされた雁字搦めの捕虜に声を掛ける。

膝に抱かれたままシェラムは震えていた。

彼女は確か王妃付きの…王太子宮でも見たことがある。

少女ながら軽装の鎧を付けてゼノビアが市中のミトラ神殿に参詣する時にはいつも身辺警護に当たっていた。

あの折の毅然とした男装の騎士が何と痛々しく、淫靡な姿で曝されているのだろう…

少女は自分より僅かに年上の女官長の髪を掴み、顔を覗き込んだ。

「アタシも可愛がってあげたいんだけど、お呼び出しなの…後はこの二人にたっぷり虐めて貰って」

「ううっ…」顔を上げた事で首の縄が絞まり、口に突っ込まれた綿布の隙間からくぐもった呻きが洩れる。

それは彼女が盗みだした、あの下り物が付着した綿布だ。

気づかれぬうちに元に戻そうと再び忍び込んだ先で、舞い戻ったツァン達に捕獲された。

「安心してアンタが女の悦びに目覚める頃にはタランティア宮はこちらのモノだから…」

それでも睨みつける目線は王妃付き後宮近衛騎士のままだ。

「ふん!」その目線に苛ついた少女は髪を持って手前に引き倒した。

苦しさに躯がよじれる。

処女騎士の躯は横向きになった顔と開いた両膝の三点で床に支えられた。

割開かれた股間が曝され、肛門から陰部まで丸見えになっている。

延ばされた首に縄が食い込む。

思わず背中をへこませ、脚を開き、尻を高く掲げてしまう。

その姿勢を意識して羞恥で身悶える処女騎士に嘲りの視線を落としたまま、少女は影となり消えていった。

ハーディアは身悶える少女のなまめかしさに、シェラムを膝から降ろし椅子に座らせると、掲げられた女陰を覗き込んだ。

「へー、こいつは間違いなく処女みてえだな」

開脚されても、生えそろわぬ薄い灰褐色の恥毛の下で陰裂はぴっちりと閉じられたままだ。

赤みを帯びた菊座が締め付けられる下腹部の痛みでひくついている。

「こんな拷問なら代わりたいねぇ」黒衣を脱ぎ捨て股間を屹立させた二人の道士を見る。

ツァンの指示通り淫薬漬けにして、逃亡や自害の危険が無くなったところで“おんな責め”にして機密を聞き出す魂胆だった。

生娘がヤー・チェン直伝の悦楽の地獄を経験すれば、ひとたまりもなく正気を無くし、淫売に堕ちる。

処女騎士の誇りなどぼろぼろに崩れ去る。

籠絡したあげくタランティア中央宮への手引きに使おうと思っていた。

それなのに、またこの放蕩貴族が口を挟む。

自分より逞しい二人の道士に睨みつけられても動じない。

「俺が大将だ、捕虜の処女は俺のもんだ。お前らにはここと‥」指を肛門に突き入れた。

フィーリアの躯が激しく揺れる。

構わずハーディアは閉じた陰裂にも指を入れ左右にこじ開けた。

「綺麗なもんだな」

今までシェラムの裡にあった男根の先で、乾いた裡をこする。

そのままメリメリと膣口に押し込んだ。

「こっちの初物をやるよ…」股間を裂く痛みに顔を振って悶える少女の口から絹布を引き出す。

「あっ、待て!」イェンとタムが同時にキタイ語で叫んだ。

「ああ?」無理矢理膣口に突き立てたハーディアが二人の狼狽に気づいた時は遅かった。

いや彼は裂けた膣壁から溢れる鮮血で抽送が楽になった肉壺への責めに夢中で、俯せの尻を抱えた娘が破瓜の痛みの中で何をしたのか解らなかった。

フィーリアが痙攣した。

伏された顔の下が真っ赤に染まった。

みるみる皮膚に紫の斑点が浮き出る。

「しまった、やはり毒を仕込んでいたか…口中とは身体中探っても解らぬはずだ」

「舌を噛まれぬよう布を押し込んだのだが、裏目に出てしまった」

西の辺境に生を受けた少女は、朦朧とする意識と陰部を引き裂かれる痛みにも正気を失わず、一瞬の隙を突き自害して果てた。

「へっ、死んじまう事はないのによ、純潔なんざ価値が無いっての」ハーディアは構うことなく痙攣する死体を引き付けて腰を振っている。

「フィーリア…」椅子に座ったまま、シェラムは死にゆく少女を呆然と見ていた。

その頃、影は王太子宮殿の警備兵に気づかれる事無く、妃の私室に入り込んだ。

マリキットは壁一面に嵌め込まれた鏡の前で朝の仕度に余念が無かった。

髪を梳く侍女が二人、後ろには黄金のピン留めが何十本と並んだ盆や髪飾りを捧げ持った子供達が並んでいる。

鏡に映った影にちらりと目を向ける。

「お前の躯にこびり付いているのは兄さんのモノなの?」

「あ…はい…すぐに湯浴みを…」

「構わないわ、ミオ…こちらにお出で…その精を私に舐めさせて…」

腰布一つで妃殿下の前に進んだ少女はそのまま膝を付いて平伏した。

その顔にマリキット王女の指がかかる。

誘われるままに顔を寄せ、唇を重ねた。

差し込まれた舌が口中を蹂躙し、下あごまで舐め回す。

金地に朱赤のローブを身につけた王太子妃は、椅子に座ったままミオの腋下に手を差し入れ、上に引き上げた。

左右から女官が腕を押さえ、未だ張り切らぬ乳房が主人の目の前にくるように固定する。

マリキットの舌が乳房を這い、小さな乳首を吸った。

「あ…」先ほどまでハーディアの愛撫を受けていた躯はひとたまりもなく登りつめる。

その表情を見たマリキットの指が腰布の奥に差し込まれた。

「ああっ」のけぞる少女の力に思わず両側の女官が引かれた。

だがそれも一瞬、再び押さえつけらえた少女の褐色の太腿に一筋の愛液が伝う。

「うぐっ…」喘ぐ口に髪留めを包んでいた布が押し込まれた。

くちゅ、くちゃ、ぐしゅ…王女の責めは容赦ない。

「どう?兄さんの寵愛を受けた気分は?」

侍女達は髪を梳く手を休めて少女同士の淫行に見入っている。

女児達もじっと見つめる。

清爽な朝の光に包まれた王太子宮の中で、この妃の間だけが生臭い性臭に満ちていた。

「お止めなされ!」女官長の叱責が飛んだ。

扉の向こうで目をつり上げたあの東洋人が睨んでいる。

「ふん…」妃殿下は悶える少女の陰裂から指を引き抜くと、ペロリと舐めた。

ミオは鏡の前に突っ伏して荒い息を吐いている。

「あなたがそのような有様だから、フィーリアなどという小娘に尻尾を掴まれるのです」

「警戒しすぎじゃないの?ツァンのように周り中睨みつけてるとかえって疑われるわよ」

「ここは敵地、用心に越した事はありません。貴方の正体一つにしたってばれれば…」

「それよ、お前の指示で私はずっとベールを被ってるのよ。暑苦しいったら!アキロニアに本物のマリキットの顔を知っている者がいるかしら?用心しすぎなのよ」

「すでにフィーリアからゼノビアに何らかの知らせが入っているはず、言葉遣い一つにしても細心の注意で掛からねばなりません」

「昨日もお姑(かあ)様にお会いしたけれど何も変わった御様子はなくってよ…これでいい?言っとくけどコリンシアの舞姫の娘なんかより私の方がずっと母親の位は高いのよ、マイプールの貴婦人(イエドカ)タナーラはイェズディガード王最愛の寵姫だったんだから…私こそツラン王室を代表するに相応しい王女なの」

「その偉大なる御両親の仇を討って、なおかつお腹の子をアキロニアの後継者に娶らせる…気を緩めれば大望成就はおぼつかないと心なされませ、カマラ王女…」

「何よ、人の事ばっかり。あなた達だって大事なご主人様を殺された恨みを晴らしたいんじゃないの?」憎まれ口を叩きながらも、そっと下腹に手をやる。

腰のくびれがなだらかになり、胴回りがふくよかになった。

腹の子の父親はマイプール公ハーディア…もとより従兄弟ではない。

タナーラがイェズディガード王の寵愛を受ける以前に身を任せたカワーリズムの貴族との間に生まれた男子がハーディアであった。

すなわちマリキットに化けたカマラとハーディアとは父親違いの兄妹なのだ。

アキロニア王室を根絶やしにして二人の子を王に据える…その計画はツランからの輿入れの旅の途中で変更を余儀なくされた。

「腹の子は女…娘である」とツァンが断言したからだ。

一門の中で大いなるヤー・チェンの力を継いだ唯一の呪術者ツァンは腹の中を透視し、擁護者ツラン王に知らせを出した。

“ならば腹の子をシェラムと夫婦にしてしまえばいい…なにたかが八つの子供、傀儡の王に奉り上げ、操るにはもってこいだ。それに期せずしてベンダーヤまで手に入る”知らせを聞いたイスマディア王は動ずることなく義妹カマラに新たな命令を送った。

「兄さんはこの子の未来のご主人を旨く手なずけたの?」腹を撫でながら訊く。

「それはぬかりなく…今頃コナン追討、ヴァイロン誅殺の決起を促す密書が周辺諸国に向けて送られている頃でしょう」

「あんまり大きな戦争はまずいわね、長引くのもね…豊かな国が荒れちゃうもの。ねえせっかくお前達の父上、兄上がやって来るのに荒れ果てていたら嫌でしょう?」鏡に映る子供等が一斉に頷く。

子供達はすぐにコナン、ヴァイロンは殺されて、アキロニアを征服にツランから父や兄がやって来ると教えられていた。

事実計画はその通りだ。

占領軍の陣形も決まっている。

だから父母の元を離れるのも、ほんの一月か二月の辛抱だと我慢している。

子供らがシェラムを嘲り嗤った余裕はそこにあった。

カマラの饒舌に、ツァンは溜息をついた。

大きな戦にせず長引かせずに…あっさりとツランの支配下に治まるようにし向けるのは人ごとのように話す王太子妃殿下自身だ。

「兄さんもいいけど…ヴァイロンってあっちの方が凄いのよ…コナンの息子でなけりゃ私のセラムリック(男の後宮)に置いてやるんだけど…」

その言葉にツァンは眉をひそめカマラの前から離れた。

権謀術策に生きたイェズディガードと、その死すらも乗り越えて君臨しようとしたタナーラ…二人の血を引いたにしてはあまりにもこの娘はお粗末だ。

担ぐ神輿がこの軽薄で淫乱な妊婦では…こちらの大望は成るだろうか?

露呈しなければいいが…

鏡の前でへたり込んだミオを招く。

侍女達は再び化粧に取りかかった。

「“王のお耳係”から不穏な知らせが入った…」

「それは遠征軍の情報でございますか?」キタイ語の会話を解する者はいないが、二人の会話は微かな息と読唇術で行われた。

「そうじゃ、アキロニア軍三万が砂漠の途中で消え失せたそうな…」

「はぁ?」

「お耳係だけではないイラニスタンの間諜も八方手を尽くして探索しているが、ようとして行方が知れぬ…」

「砂嵐に巻き込まれたのでは?」

「三万の大軍が長蛇の隊列を組んで行進しているのじゃ、砂嵐にあたったとしても被害は一部…馬も駱駝も兵卒も全滅すると思うのか?」

「…イスマディア王は何と?」

「もうイラニスタンへの援軍は国境を越えているし、アキロニア占領軍もアキフに集結している…今更計画の変更はできない、このまま進めると申されておられる」

「何か情報を握っているかもしれない…あのフィーリアという娘の躯に訊いてみたのでしょう?」少女の残滓にまみれた唇が残酷に歪んだ。

「失敗した…あの娘には黄蓮が効かないんだよ、何か特別な鍛錬をしているとみえる」ツァンの目にも残忍な光が宿る。

「まあ、生娘のようだから薬以外にも訊きようはあるさ、こっちもじっくり責めることにしたよ。今頃はイェンとタムが第二王子様の前で裸に剥いていたぶってるだろうよ」

残忍な光に淫靡な影がさす。

「アタシもツァン様のお呼びがなければ拷問に加わりたかったですわ」腰布一つの躯をくねらせる。

「お前を入れ違いに呼び出したのは他でもない、あの小娘の姿が見えないことに後宮の妃共が気づく前に例の計画を実行に移すんだ」

「では子供達に菓子を持たせる用意を…」

「段取りはお前に任せる…こっちはいよいよヴァイロンとその近習達の始末にかかる」

「はい…」少女の黒い瞳がさらに残忍さを増した。


シェラムは黒い染みの残る敷物を見つめた。

「フィーリア…」記憶の底に眠っていた名が口をついて出た。

それは封印した記憶…その封印は緩やかに解けた。

衝撃で身動き一つ出来なかった。

心の迷いにつけこまれ、忌まわしき罠に落ちたまま、相手の思いのままに操られて…

何と無力で、愚かしい自分であったろう…

「助けられなくて…何も出来なくて…ごめんなさい…フィーリア…」

処女騎士の誇りが陥籠された意識を、麻痺した判断を呼び覚ました。

彼女の壮絶な死に様を目の当たりにしなければ、私は操られるままに、兄も父も…アキロニアを巻き込んで最悪の結末へと向かったに違いない。

「ありがとう…フィーリア…」

忌まわしい過去を一つ乗り超えた。

その時葦原がザワザワと鳴った。

崩れ落ちた壁の向こうから馬の嘶きが聞こえた。

茂る葦に前を遮られ、沈み込む泥濘に馬脚を捕らえながらも、真っ直ぐにこちらへ進んでくる。

東の空が白んできた。

薄明かりに騎手が浮かび上がる。

「ヒューイ!」

その声を聞きつけて騎手は馬の歩みを早めた。

「殿下ーっ」

崩れた穴を跨いで外に出る。

「よく解ったね、ここだって」

泥まみれの馬から飛び降りた侍従長は、主人の元に駆け寄った。

「王太子様がこっそり教えてくださいました、こうやって地図まで…」剣の手入れに使う油の染みた木綿に、城壁らしきものと目印の付いた道、河の流れ、それに大きな×が記してある。

簡潔だが良く描けている。

「上手いな、ガイ」自分の知らない兄の才能の片鱗をかいま見た気がする。

「殿下…俺…わたしは解らなくなりました…王太子様はツランの子供まで焼き殺した冷徹な方と聞いておりましたから」

「俺でいいよ…」そう言いながらも、疑問が湧く。

あの処刑場の子供達って焼き殺されていたっけ?

「それ、いつの事?」

「ツラン攻めです、シェラム様があの…」当人を前に言いよどむ。

超えなければならない最大の精神(こころ)の深手…

「…あの大広間での祝勝会の後?」声が固くなる。

「はい、国王様はオフルまで侵攻してきたイスマディア王率いる本隊を迎え討たれました。王太子様は捕虜も兵卒でない奴隷も全て討ち取られ、そのままツランの首都アキフをお攻めになりました。城内の兵も貴族も聖職者も、老いた者から女子供の区別も無く皆殺しにしたあと、市民を中に包囲したまま火をかけてアキフ全土を焼き払い、運良く街を逃げ出した者までも悉く捕らえて処刑されたと聞いております」

評議院に残されていた従軍記にはただ一行…『ヴァイロン王太子軍、アキフ陥落、市街城壁悉く瓦礫と化す』とのみ書かれてあった。

「………………」再会したガイは、私を捜しに…連れ戻しに来てくれたガイは十年前と変わらぬ暖かい兄であった。

だから自分は甘えられた。

十年間貯めた思いをぶつけ、全てをさらけ出した。

ではガイは?──処刑場から何度も自問自答を繰り返していた。

ガイは──十年の歳月の中であったことを何一つ言わなかった。

何も見せなかった。

いや…そうではない。

問題は私自身の心の有り様だった。

私は見ようともしなかった、聞こうともしなかった。

冷酷非情?そうかもしれない、アキフ滅尽を知らずとも、あの処刑を見た人々は人格が変わったと思った事だろう──阿鼻叫喚…確かにあの処刑場の惨状は凄まじいものだった。

兄を冷酷非情に変えたのは自分の愚行だ…あの心優しき蛮人に生涯消えぬ悔恨を負わせてしまった。

何故信じ切れなかった…慈しんでくれた兄を…

何故助けを求めなかった…育んでくれた父に…

エペミトレウスの力を借りて復活した時、すぐに此処に戻るべきだったのだ。

なのに私は…逃げた…自分だけが不幸な運命に生まれたと悲劇を気取っていた。

何もかもが疎ましくて…自暴自棄になって…

悔やんでも悔やみきれない…

それなのに…そんな自分を父は…この国の人々は再び迎え入れてくれた。

頭の中で海賊の歌が勇壮に鳴り響く。

──漕ぎ出せ 漕ぎ出せ お宝目指し──

「あ…殿下…」シェラムの頬を伝う涙に驚く。

「す…ま…ない…少し…泣かせ…て…」

主人が抱きついてきた。

硬直したヒューイの肩先に顔を伏せたまま、背の高い貴人は堪えることなく声を上げて泣いた。

葦原を銀色に染めて川向こうから朝日が昇った。


狼煙が国境の異変を知らせた。

コナンの遠征を知ったネメーディア軍が首都ベルヴェラスに兵を呼集しているという知らせだった。

先兵が領国ガンデルランドに向かって進軍を始めているという。

かつてタラスクス王はトーア領主アマルリックに唆(そそのか)されアキロニアに進軍し、復活した古代アケロンの高僧ザルトータンの力を借りてコナンを捕囚とした。

その危難を身を挺して救ったのが当時ネメーディア後宮の女奴隷であったゼノビアである。

アシュラ神官ハドラタスと魔女ゼラータの援護によりザルトータンを冥府に還したコナンは孤軍奮闘しネメーディア軍の猛攻を防いだトロセロ率いるポイタイン軍の力を借りて四散したアキロニア軍を再編成し、ネメーディア軍を粉砕した。

タラスクスは捕虜となったが、アキロニアからの撤退とネメーディア国内に連れ去られ奴隷とされたアキロニア人の開放を条件に、さらに莫大な賠償金を払ってベルヴェラスに戻ることを許された。

その折の身代金は自らの後宮奴隷一人をコナンに譲るという画期的なものだったのだが…

それでもハイボリア諸国の中でネメーディアは第二の強国であったし、兄の後を継いだタラスクス王は野心家でもあった。

戦のきっかけを作ったのは自分であるにもかかわらず、敗北の恨みを忘れず虎視眈々とアキロニアを…コナンの命を狙っていた。

斥候が矢継ぎ早に城内に駆け込む。

事態は緊迫している。

国王の裁可を仰いでいる暇はない。

非常呼集で集まった一万の兵を率いて王太子自らが出陣した。

従うは軍師シェバはじめ、コナン側近の子息達である。

評議達も腕に覚えのある者は次々に志願して戦列に加わった。

こうして留守を守る宰相パブリウスの元にはほんの僅かな手勢のみが残った。

事件はその四日後に起きた。

平和な日々から一転して不穏な空気に包まれた後宮に、王太子妃からご機嫌伺いの菓子が献上された。

コナンの寵姫達はあどけない女児達が捧げ持つ、美しく飾られたツランの菓子とたどたどしいアキロニア語で話す愛らしい姿に心和まされ、皆ありがたくその心遣いを受けた──そして、その夜には寵姫もお相伴にあずかった女官達も悉くが喉を掻きむしり血泡をふいて、のたうち回って死んだ。

戦勝祈願とフィーリアの行方を占って貰うためミトラ神殿のデキシゼウスの元を訪れていたゼノビアだけが厄災を免れた。

デキシゼウスは“既にフィーリアは死んでいる”と伝え、今タランティア宮殿には恐るべき陰謀が渦巻いていると予言した。

暗澹たる思いで帰還したゼノビアを迎えたのは、まなじりを決して治療に当たるアテミデス達と手当の甲斐もなく次々と事切れていく侍女達であった。

「ミトラ!」アテミデスの前でゼノビアは卒倒した。

「誰か、パブリウス殿とデキシゼウス神官の元に知らせを…そうじゃシェラム様は?第二王子はご無事か…王子をタランティア宮殿に…いや、ここもこの有様では危険だ、アカデミアへ引き取ろう」アテミデスがゼノビアを介護し、伝令を呼ぼうと大声を発した時、黒い影が現れた。

黄色の粉が宙を舞った。

慌ただしく治療に当たっていたアカデミアの医師や書生らがバタバタと倒れる。

アテミデスは咄嗟に水瓶に布を浸し、鼻と口に当てた。

だが、僅かに吸い込んだ毒素が足下をふらつかせ、視力を下げる。

影は屈強な男と長い黒髪を結い上げた吊り目がちな東洋の女に変わった。

「学士風情が余計な指図をするでない、お前の大切なシェラム殿下はこちらでお守りしておる」

敷物の上からゼノビアを担ぎ上げた。

「無礼者、王妃様を如何するつもりだ?」

「調べるのさ、子宮を…安心しな、殺しゃしないよ。こいつはネメーディア王がいたくご執心なんでね、大事な人質さ。わざわざこいつが後宮からいなくなる時を狙って子供らを行かせたんだよ」

「コナンの寵姫が一人残らず片づいた今、このゼノビア王妃が懐妊していなければ、間違いなく次の国王はシェラム殿下じゃ」

「なにい?」

「まあ、命は取らないけど、下から薬入れて子宮を爛れさせるんだから死んだ方がマシって思うかもね…気が狂った女でもタラスクス王は構わないそうだから」

傾いだ躯を怒りに振るわせる。

かつてツォタ=ランティの罠にはまり、敗北、失踪したコナンなきタランティアに一人踏みとどまり、傀儡王アルペロに反抗し、市民に決起を呼び掛ける大演説を行った熱血漢である。

「愚かな!この惨事を知らせる早馬はすでにコナン王、ヴァイロン王子それぞれに送ってある。すぐにご帰還されるぞ!」一歩も退かない。

高笑いが響いた。

「軍隊は戻るでしょうけど、国王様と王太子殿下はどうかしら?貴方の可愛い生徒達は二人の亡骸を守って帰還するんじゃなくて?」

「貴様!」女の言葉は暗殺者が動いている事を暗示している。

「ああ、この娘も貴方の生徒なんですってね、アテミデス学長?」

崩れ落ちそうになる身体を気力で支えるアテミデスの前に、もう一体影が湧いた。

どさりと生臭い塊が眼前に投げられる。

霞んだ目を見開いたアテミデスの視点が灰色に変色し、紫の斑点を浮かせたモノに据えられる。

「ま…さか…」

振り乱した髪の間から眼球が飛び出し、爛れた唇から血塗れの舌を突き出してはいるが──

「フィーリア!」

ジニアスが学ぶ教室で遠慮がちに隅の席で聴講していた美少女──

前方に坐るジニアスを時折目で追っていた可憐な姿──

「授業はわかるかね?」声をかけると嬉しそうに微笑を返した──

フィーリアは荒縄で縛られ陵辱の痕も痛々しい股間を曝したままの姿で事切れていた。

「こんな目に遭いたくないでしょ、先生様?余計な事はしなさんな、この女と東方領土を渡せばネメーディアは退くし、イムシャはツランに従う、アキロニアはシェラム殿下が即位して万々歳じゃないの?」

甲高い哄笑と共にゼノビアを担いだまま三人は影に変わった。

「待て、シェラム様に何をしたーっ?」絶叫するアテミデスの前に哀れな女生徒の亡骸を置いたまま…


葬列は人目を憚るように宮殿の北門からロードタス河を遡る船に乗った。

やがて上流にたどり着いた船団は、積んでいた棺を降ろし掛けられていた布を外した。

きらびやかな棺が夕陽を弾きながら王家の墓所へ担ぎ込まれていく。

“どうしてこんな事に…国中が祝った婚礼からまだ三月も経たぬではないか…”憔悴した式部長官に率いられた葬送の列は延々と続いた。

タランティアは大混乱に陥った。

後宮が襲われ、王妃が誘拐された。

どこから洩れたのか…治療に当たったアカデミアの医師達も意識を失い寝込んでいる。

近衛兵は貴族出身者で固められているから庶民と接する機会はない。

何者かが意識的に噂を流布している──宮殿内に箝口令を布いたパブリウスは臍を噛んだ。

混乱がアキロニア全土に拡大するのも時間の問題であろうと思われた。

倒れたアテミデスはミトラ信徒によってデキシゼウスの元へ運ばれ、その後行方知れずとなった。

王立アカデミアは閉鎖された。

ミトラ神殿には不安を訴え、神の加護を願う信者が押しかけたが最高神官デキシゼウスは奥に籠もったまま祭祀を行わなかった。

デキシゼウス、アテミデスという二大顧問を無くした宰相パブリウスはシェラムを擁して国家の安寧を計ろうと、タランティア宮殿の主人となったマリキット王太子妃に近隣諸侯を招集する詔勅を出すよう要請した。

嫁して三月にも満たぬマリキットは王太子宮から中央宮に移り、すでにタランティア宮殿内の全てを掌握していた。

王太子妃は謁見を求めた宰相に、シェラムの擁立は暫定ではなく正式な国王即位であるならば…と条件を出した。

妃殿下とはいえ、ツラン人──その真意を測りかね、眉をひそめる宰相にマリキットは思いもよらぬ提案をした。

「もし自分が懐妊していたら、その子はシェラム様に嫁がせましょう」

「はあ?」パブリウスは、しばらく会わぬ間に、ふっくらとしたマリキットの顔をしげしげと見つめた。

「さすればわたくしは義姉(あね)にして母太后(ぼたいこう)です。新国王には二心無く、共にアキロニアを支えますわ」自分はツラン人だが謀反の意志無しと言いたいらしい…が、妊娠とは唐突な話である。

出征前のヴァイロン様はそのような事は一言も申されなんだ…

「ご懐妊の兆候がおありなのですか?」

「ええ、ヴァイロン様の御胤ですわ」そんな事は言うまでもあるまい…当然の事ではないか。

「既に姫と決まったようなお言葉ですな?」

「ツランの星占いはよく当たります。この子は間違いなく…」

「妃殿下、宰相様はご多忙な身、あまり長いお話はご迷惑かと」マリキットの言葉を遮ったのはツァンという東洋人の女官長だった。

妃殿下の前を辞した宰相は大きな疑問を抱いた。

確かにコナンの帰還には長い月日が必要かもしれぬ、しかし夫であるヴァイロンが出向いているのは国境沿いとはいえアキロニア領内だ。

帰ろうと思えば、警護の兵のみですぐにでも帰城できる。

この場合夫を立てて自分が王妃となると言う方が自然だ。

どうして義姉や母太后など、より低い地位を望むのか?

何故マリキットはシェラムにこだわるのか?

シェラム殿下…

第二王子を思う時の気がかりはデキシゼウスの意を受けてシェラムの身辺を影から見守っている次男シュカの事であった。

自分が先王ヌメディデスに抗して評議場に立て籠もった折、見せしめに囚われた妻子…

妻も息子達も陵辱され、長子は斬首された。

もともと脆弱であった次男は慰み者にされながらの獄舎の生活で身体をこわし心に傷を負った。

その後、跡継ぎの座を弟シェバに譲り家族も捨てて俗世を絶ち、ミトラ神官としてデキシゼウスの元で修行している。

師の待つミトラ神殿にも自分の元にも連絡がない。

迂闊であった…

ベンダーヤからの使節団が到着しシェラムの元へ使いを出した──使いはいつものように文箱だけを持ち帰った。

“贈答品は持ち帰るように”という内容の手紙が、封も切らずに返されたヤスミナ女王の手紙に添えられている…これも例年の事だ。

やって来る使節団は“今年こそ”の思いが強いのだが、アキロニアでは父王も含め、既に誰もが咎めなくなっている。

だが今回はいつもと勝手が違う。

誕生祝いにかこつけイムシャ山の騒動を知らせてきたのだ。

それをうけてアキロニア正規軍は兵を参集した。

シェラム様をタランティアにお連れすべきである。

たとえ、どんなに嫌がられてもご自身の身の上に関わる大事ではないか…あの時シェラム殿下を説得し、王宮に伴うようにとしたためた書状を息子は読んだのか?

結局、コナン直々の急な出兵と共にベンダーヤ使節団もアキロニアを去り、シェラムとの対面はならなかった。

ついに返事はこなかった…思えば連絡を絶ったのはあの時からだ。

内政の多忙にまぎれていたが、国王の次子の身を案じる時、思い出しては気になっていた。

「シュカよ…シェラム殿下は如何されておられる?」

宰相は王太子妃の勅状を持って次々に城門を潜っていく騎士達を見下ろし呟いた。

パブリウスの気がかりはもう一つあった。

コナンに忠誠を誓う貴族諸侯はとっくにどちらかの遠征軍に加わり所領にはいない。

今アキロニアにいるのは前国王ヌメディデスの血縁かその当時優遇され権力を振るった貴族達である。

コナンは彼らや家族の命は奪わなかったが、処罰として所領を減らし、開拓が必要な荒野へと追いやった。

冷遇された者達が素直に勅命に従うだろうか?

だがそれは杞憂に終わった。

遙か遠方に封じられたはずの彼らが詔勅が発っせられた三日後にはぞくぞくと兵を率いてタランティアに集まってきたからである。

パブリウスは仰天して宮殿に通じる城門を閉ざした。

「詔勅に呼応してはせ参じた彼らを城内に入れないとは如何なる事か?」王太子妃の従兄弟だという青年が気色ばんで詰め寄る。

「ハーディア将軍…」彼はマリキットの意を受けて王宮近衛隊の最高指揮官、つまり将軍に昇格していた。

「勅状を受けた本人と付き人数名ならば問題はござらぬ、しかしあのように鎧を纏い兵を募って参集するとは即位式に参列する貴族にはあるまじき事」

「彼らは守りも手薄となったタランティア宮殿を守護するために来たのです、せっかくシェラム殿下が戴冠なさっても後宮の方々のように毒殺されたり、姑(ははうえ)様のように攫われでもしては一大事…」

「妃殿下!」豪奢な刺繍を施したローブの裾を長く引いたマリキットが現れた。

子供達が左右三人づつ裾を掲げて付き従う。

「構いません、宰相殿…城門を開きなさい」すでにベールは被っていない。

高く結い上げられた髪にはゼノビア王妃の冠が輝いている。

王妃不在を逆手にとって勝手に女城主として振る舞う。

その時、無念の思いで城壁を見つめる宰相の目がキラリと輝いた。

「かしこまりました…」

どうしたことだろう?あの裂帛の士パブリウスが黙って引き下がった。

後ろ姿を見送るハーディアがそっとマリキット…いやカマラの下腹を撫でた。

「しばらくしてねえな…」

「ふん、新国王と懇ろだったんだからいいじゃないの?」

「馬鹿いえ、あんなガキ。痛がるばっかりで役に立ちゃしねえ、あとあと操ろうって思ってるから機嫌取って抱いてただけじゃねえか」

「そお?まんざらでもなかったんでしょう?ずっと籠もりきりだったじゃないの…」

淫靡な視線を送り、近衛の隊服の下に手を入れる。

「じゃあミオは?」柔々と股間をまさぐる。

「ミオとは…」ハーディアの声が掠れている。

「そのような場合か!」戯れ合う二人の前に黒い影が湧いた。

「イェンとタムがシェラムを連れてきた、急いで式服の用意を」ツァンの恐ろしい声が響く。

「もう揃えてあるわ。後宮の生き残りに指図してあるから、あなたが直々仕度を調えればいいじゃない」楽しみを邪魔されたカマラはプイと横を向いた。

「それよりコナン王の行方は知れたの?」

「キャ…」影から実体に変わったツァンの姿に、従う子供達が怯えて顔を伏せた。

「それも気がかりだが…」思わず言いよどんだ女官長にハーディアがすり寄る。

「そういや、イスマディア王とのツナギも取れなくなったっていうじゃねえか?」

「どこでそれを?」

「ハーディアの好色も思わぬ利点があるのね…」気色ばんだツァンに王太子妃は唇の端をつり上げると、投げやりな口調で言った。

“ミオか!あの小娘、色気づいて…”ツァンは唇を噛んだ。

鉄の結束が緩んでいる──偉大なるヤー・チェンがいませば、このような失態はあるまいに…

象牙の喇叭(オリファント)がタランティア中央宮殿を揺るがした。

露台(バルコニー)に通じる通路には遠征に加わらなかった評議達がパブリウスの呼びかけで不承不承集まっていた。

アキロニアの同盟国から派遣されている各国の大使もこの所うち続く不穏な事態に眉をひそめ、本国に送る書状をどうしたためようかと思案顔で廊下付近に席を取っていた。

彼らから遠慮された大広間には貴族達が居並んでいた。

といっても、いつもは参列を許されず、爵位を剥奪された者もいるので並ぶ順番を決めるだけで大騒動だ。

皆かつての身分をひけらかして、少しでも玉座に近い上席に着こうとする。

小競り合いがあちこちで起きた。

仲裁に駆け回るハーディアは正直広間に詰めかけた人数の多さに驚いていた。

かねてからシェラムの名でコナンとヴァイロンの追討を呼び掛けてきたが、それも一月前からに過ぎない。

荒野で細々と暮らす彼らのどこにこれ程の兵を養える資金があったのか?

こう混乱していては何処に誰の手勢が控えているのかも解らないので、どの貴族が一番の軍備を持っているのかは不明だ。

尤も広間後方に蹲る彼らのマントは酷く汚れていて、身体からは悪臭さえ漂っている。

どうせその下に着込んでいる鎧も、腰の剣もたいしたモノではあるまい…

紅天鵞絨のマントを跳ね上げ、きらびやかな白銀の鎧を見せつけると、近衛隊の将軍は大声を張り上げた。

「静まられよ、新国王シェラム殿下のおなりである!」

一瞬の静寂が大広間を染めた。

宰相パブリウスに導かれ、アキロニア王家の正装に身を包んだ第二王子が姿を現した。

それは兄ヴァイロンが王太子の位に付いたとき仕立てられた衣服であった。

当時のヴァイロンは今のシェラムより幼かったが、その体躯は大きかった。

背丈は合うのだが、腕や腋にゆるみがあって、それが八歳の新王を華奢で儚げな姿に見せていた。

事実何度もふらつき、その度に後ろに付きそうツラン人…その風貌は東洋人に近いのだが、二人の偉丈夫に支えられながら広い大広間を歩んでいた。

彼らは鍛え上げた上半身を晒し、腰から膝まで黒のなめし革の腰穿(スカート)のみを身につけていた。

東洋の秘薬を塗り込んだ肌は油を塗ったようにてらてらと輝き、その盛り上がる筋肉を余計に強調して見せている。

逆に彼らに支えられ、即されながら歩む童子の風貌は哀れであった。

美しく整えられてはいるが髪の下から覗く眼は落ちくぼみ、かつてふっくらとしていた紅顔はげっそりとやつれ、青ざめている。

玉座の壇上に繋がる脇扉の前で膝を付き、畏まっていた一団の中程から“くっ”という歯噛みの声が漏れた。

「おお!」

だが貴族達はその後ろに姿を見せたマリキットのまばゆさに目を奪われ、何処の兵とも解らぬ者の不作法など気にも留めない。

豪華絢爛──おそらくは後宮で急死した寵姫達の衣装を奪い、仕立て直したに違いない。

高価な絹も、宝石を散りばめた帯も、金泊を張ったサンダルも…彼女が自分で被った王妃の冠も…

正面扉の裏で身を竦めていた巨漢が上げた低いうなり声は、謀叛貴族等の歓呼の声にかき消された。

ローブの裾を掲げた十人の女児がしずしずと進む。

その後ろには女官長だという、これも東洋人とおぼしき女が従っていた。

シェラムは王の玉座に上がる階(きざはし)に佇んだ。

「どうされた?陛下、はよう玉座へ…」二人の東洋人が即すが足を踏みしめて動かない。

「先にわたくしが坐ってもよろしいわね?」玉座の隣で一行を待っていた式部長官が慌てて止める。

しかし動じることなく王妃の玉座に着いたマリキット妃殿下は身辺警備のツラン兵を階の下に呼び寄せ、隣に来るようハーディアを手招きした。

「ハーディア将軍、陛下をお連れして…」

ハーディアは大胆にも新国王を抱き上げ階段を登ろうとした。

「放せ!」シェラムは抗う。

パブリウスの顔に怒気が湧いた。

思わずハーディアの腕から暴れる童子を奪い取ろうと上がりかけた階段を戻る。

と、大声が降ってきた。

「は、放されよ、殿下に対し何という無礼な!」最上段で王冠を掲げた式部長官の身体がぶるぶると震えていた。

「へっ…」ばつが悪そうに辺りを見回す。

周りを囲んだツラン兵、その先にアキロニアの貴族が押し合いへし合いしながら自分らが担ぐ傀儡王の所行を見守っている。

「あらあら、十分に懐かれているんじゃなかったの?」玉座からツラン語の揶揄が飛ぶ。

ハーディアの顔に血が上った。

「式部長官にも教えといてやろう、今度の王様は今までの王様とは扱いが違うって事をな!」

アキロニア語で言うが早いか、担いだ子供の式服をまくり上げ、対胴衣(タブレット)の下から覗く絹の長沓下(ホウス)に包まれた小さな尻をぴしゃりと叩いた。

「言うことを聞け、今夜またたっぷりと可愛がってやるから」

居並ぶ謀叛諸侯が一斉にどよめいた。

「あの尻が犯されているのか?」

「そりゃあ、いい…いずれこちらにも輪姦(まわ)して貰おう…」

「高貴な血と蛮人と魔王の混血ですからな、味見も悪くない」

「その蛮人に受けた恨みをたっぷりと晴らしてやるさ」

「しかしツラン人の“お下がり”というのは頂けませんな」

コナンの遺児が慰み者になるのは小気味いいが、国政がツラン人に委ねられるのは不服だ。

幼王を操るのは自分だ──皆がその思いで階段上で繰り広げられる醜態を眺めている。

だが下手に動けない…すぐにネメーディアのタラスクスとツランのイスマディアの先兵が押しかけ領土の切り取りを始めるだろう。

ツランとネメーディアどちらにつくか見極めねばならぬ…彼らはハーディアからの書状を半ば疑っていた。

しかし、どこからともなく現れた“ツラン王のお耳係”からもたらされた情報により疑いは徐々に軽くなり、マリキットから出された勅状が決定打となってここに集った。

“既にコナンとヴァイロンは密かに葬り去られている”──誰も疑っていない。

しかも東方遠征軍は壊滅的打撃を受け、コナン腹心の諸将も悉く討ち死にして果てたという。

ネメーディア国境に出向いた軍は若造だらけだし兵は寄せ集めだ、恐るるに足らぬ。

後宮からは王妃も消え、むずがる幼王は後ろ盾を無くした只の孤児(みなしご)だ。

「さっさと王冠を被せろ」アキロニア最後の放蕩王ヴァレリウスの遺臣が叫んだ。

「そうだ、玉座になど坐らせることはない、所詮民を欺く為の旗印だ」

「いや、王の署名は重要だ、このようにな」懐から決起の書状を取り出す。

その末尾には、はっきりとシェラムの正式名称であるアヨドーヤ王朝正嫡の署名が記されていた。

初めて貴族等は声を合わせて笑い合った。

「鞭で従わせろ」

「長沓下を剥いで尻を剥き出しにしてやれ」

「子供は甘やかすとろくな者にならんぞ」

下卑た野次が飛び交う。

その声に勢いづいたイェンが式部長官の腕から王冠をもぎ取った。

「な、何をする!」

「引っ込んでろ、爺!お前じゃ埒が明かん」

「ほらよ将軍閣下」投げ渡された王冠を片手で掴む。

押さえ込まれた腕に僅かな隙が出来た。

傍らに立つ宰相はその一瞬を見逃さなかった。

ハーディアに体当たりしシェラムを奪おうと身構えた。

間に女官長が立ち塞がった。

「お前もそろそろ邪魔だねえ…あの世で待ってる息子の元に送ってやるよ」

「な、なに?」

タムがにやつきながらミトラ神官が身につける銀環を取り出した。

「こいつはロードタス川に沈んだ屍体から頂いたもんだ」

「驚きましたわ、裏にシュカという名前と宰相殿と王太子宮総帥の名が刻んであるんですもの。調べさせましたら宰相殿にはミトラの神官をなさっておられるシュカという名のご子息がおいでとか…お悔やみ申しますわ」マリキットはにこにこと笑った。

「安心しな、お仲間の評議達も一人残らず引っ捕らえて、後を追わせてやるから…」ツァンが掲げた手のひらに紫の渦が巻いていた。

それは見る間にキタイ産の毒蜘蛛に変わりパブリウスに襲いかかった。

「もはやこれまで!」叫び声と共に蜘蛛は宙で炎に包まれた。

脇扉からミトラ神殿最高神官の僧衣を纏ったデキシゼウスが飛び込んできた。

呼応するかの如く正面扉の前から大広間の空気をビリビリと震わす雄叫びが上がった。

それは人の声とは思えぬ程凶暴な怒りに満ちていた。

いきなりのミトラ神官の乱入と獣の咆哮に階下にひしめいていた貴族達が凍り付いた。

それを合図に後方で蹲っていた薄汚れた男達が立ち上がった。

今までシェラムを嘲り笑っていた貴族達を押し包んで、斬り伏せていく。

「な、何事?」最上段の玉座から一瞬にして戦場と化した大広間を眺めていたカマラが立ち上がった。

「まさか…まさか、あれはコナン?」

中央で悪鬼の如く段平を振るい、向かってくる者も、逃げ出す者も当たるを幸いなぎ倒していく巨漢…

王太子妃の元に擦り寄り、震えていた子供達を突き飛ばし、裾が絡まるのも厭わず玉座の後ろにある控えの間に逃げ込もうとする。

「おっと、お前は動くな!」壇上の脇からデキシゼウスの背後を守るかのように現れた黒衣のマントの集団があっという間に壇上を駆け下り、下にいるツラン兵に襲いかかった。

「その声は…ヴァイロン?」カマラの顔が引きつった。

「ほう、暗殺団の首謀者でも夫の声は分かるんだな」マントを脱ぎ捨て、式部長官を奥へ逃がす。

「ガイ!」

「シェーラ、待ってろ」段平を抜き、ハーディアに迫る。

「てめえ、弟に何しやがった!」怒りで声が震える。

「ツァン!」怯えた近衛将軍は、兄の姿に力を得て一層暴れ回る子供を抱え直すと、王冠を放りだして女官長の背後に隠れた。

転がり落ちる王冠を追って、ツラン兵と黒衣の集団が切り結ぶ中にパブリウスが躍り込んだ。

白刃が落ちてくる。

王冠を身体で覆った。

「父上!」

「おお、シェバ!」ツランの鍔無し長剣(ヤタガン)を打ち払った青年が黒衣を跳ね上げてパブリウスの前に立った。

「パブリウス、友よ」デキシゼウスが駆け寄った。

「助かったぞ」肩止めを外しマントで王冠をくるむ。

「いや、段取りを無視して思わず飛び出してしまった…そなたまで失ってはシュカに合わす顔が無いのじゃ。アテミデスからの王妃救出の知らせはまだ届いていない」

「では、やはりシュカは…」

その問いに神官はうつむいた。

シェラムが辱めを受ける姿を彼らは涙を流し、歯がみしながら、ただじっと堪え忍んでいた。

それは人質となったゼノビアの安否が掴めなかったからだ。

「その通りよ、今頃ゼノビアは子宮を爛れさせて、のたうち回ってるわ」王太子妃の顔から怯えが消えた。

動ずる事はない、ゼノビアそしてシェラムがこちらの手の内にあるのだ。

こいつらを人質に脱出すればよい。

計画は頓挫してしまったがシェラムにコナンとヴァイロンの首を付けて土産にすれば義兄イスマディアもそれほど咎めはするまい…

「貴様!」怒号と共に巨漢の剣士が歩み寄ってくる。

血塗れの段平が壇上の妃殿下に向けられた。

「“コナンの同志”が知らせてきた。マリキットは先年流行病(はやりやまい)で死んでいる…お前は誰だ?」

唸るようなツラン語だ。

「ふふん…」滴る血にも動ずることなく少女は笑った。

「貴婦人(イエドカ)タナーラを覚えていて?まさか忘れやしないわよね、貴方に最愛のイェズディガード王を殺され手勢も討ち取られたマイプールの貴婦人(イエドカ)タナーラを!」

「まさか…お前は…」面影がある…どうして気付かなかった!

「ゼノビアに射殺されヒルカニアの草原に打ち棄てられたタナーラはね、イェズディガード王第一の寵姫だったのよ」

「お前はイェズディガードとタナーラの娘か?」剣を構えたままでヴァイロンは妻に問いかけた。

「お前ですって?私は王女カマラ、世が世なら蛮人と海賊の子など姿を見ることもできない高貴な女なのよ」

「何故寝首をかかなかった?」

「隙があれば縊り殺そうとしている男をどうして刺せるのよ?それに私の仕事は貴方や宮殿の目を引き付けて時間稼ぎをすること…見事に引っかかってくれたから、そこの坊やを手なずけられたわ」ケラケラと笑う少女に王女の品は無い。

「仇を討った後で、この子にアキロニアを上げようと思っていたんだけど、それは無理みたいね」下腹をさする。

「成る程。ついでにその腹の子の父親も聞いておこう」コナンの声が低くなる。

「紹介するわ、こちらはマイプール公…義兄イスマディア王から継承を許されたの。父こそ違え彼もタナーラの子なのよ」

コナンの視線に耐えきれずハーディアは更にツァンの背後に退いた。

ヴァイロンとにらみ合う女官長を盾にして、シェラムを抱えている限り自分は安泰だ。

「兄妹で媾合ったのか?」コナンは大理石の床を踏みならした。

“なにが貴族だ、どこが王女だ…こいつらは獣と同じだ”喉奥から苦い固まりがこみ上げてくる。

「どこがいけないの?ステイジアの王家では古代アケロンの昔から国王の正妻は姉妹から娶ると決まっているわ」

「だからあの暗黒の国は衰退の一途を辿っている」賢(さか)しら顔で平然と言い切る少女を睨む。

「仇討ちなら堂々と行え!ゼノビアはどこだ?」

「知るもんですか」カマラは壇上の中央に進み出た。

「いいの?早く助けないと今頃は子袋から血膿を出して悶絶してるかもしれないわ、いい気味…」甲高く笑う。

「コナン、ヴァイロン、兵を引くのよ。剣を置いて、黙って首を差し出しなさい。そうすればゼノビアだけは助けてやってもいいわ、もう気が狂ってるかもしれないけど」

国王は低いうなり声を上げた。

「貴方が死んだあとは、その“坊やちゃん”が継ぐんだからいいじゃないの。男として役に立つ年頃になったら私も可愛がってあげるわ…尤もその年までが“坊やちゃん”が生きていられるか分からないけど」

自分の子が王妃に立后されればそれでシェラムは用済みだ…あとはコナン派貴族への人質として生かしておくだけだ。

そいつらが一掃されれば、後は…

「さあ、どうするの?なんなら今すぐ“坊やちゃん”を血祭りにしましょうか?」居丈高に叫ぶ少女の声に押されていた反乱貴族とツラン兵が活気づいた。

歴戦の勇士であるトロセロ、プロスペロらも、その孫や息子であるユウラやホルストも一転押され始めた。

その時何かが割れる凄まじい音が大広間に響いた。

露台(バルコニー)に面したガラス扉が砕け散り、大きな灰色の影が躍り込んできた。

「お、狼?」

それは牛ほどもあろうかと思うほど巨躯な灰色狼であった。

「コナン!国王陛下!」灰色の背から声がした。

「ゼノビア!」

「間に合ったか、よかった…」ゼノビアを抱えていたアテミデスが大きく息を吐いた。

「陛下、王妃様はご無事ですぞ、こやつらの忌まわしき薬物には毒されておりませぬ」守り抜いたという自負で熱血学士の頬は紅潮している。

ゼノビアが返り血を浴びたコナンに抱きついた。

「アテミデス、ゼラータ…感謝する」コナンは灰色狼の向こうの人影に頭を垂れた。

「待たせたの、コナン王よ」その礼に応じて、狼の背後から綻びた粗衣をまとった小柄な老女が歩み出た。

百姓のような姿をしているが白髪の下から覗く褐色の目は炯々と輝き、声も力強く張りがある。

「アテミデス!」宰相が駆け寄った。

「おお、パブリウス!最後まで連絡が取れずに気を揉んだぞ」

「すまぬ、周り中間者だらけで身動きがとれなんだ、そのためシェラム様があのような事に…」

「今更悔やんでも致し方ない…確かに我らは後手に回ったが御子息の死は無駄ではない」

年の離れた親友はしっかりとパブリウスの肩を抱いた。

ハーディアの盾となっていた女官長は狼の口に咥えらえた血の塊を見て思わず前に出た。

狼の口から吊り上がった目を見開いたままの女の生首が転がり落ちた。

「もう一人も始末したぞ」玉座の真上の天窓からアシュラ僧が顔を覗かせた。

上空から舞い降りた大鷲が旋回しながらその鉤爪からもう一つ生首を放した。

ハドラタスが開けた天窓から、カマラが引きずる豪奢なローブの裾の上に落ちた。

「ミオ!」子供達は指揮官だった少女の生首を眼前にして失禁し、気を失った。

「キタイの魔女よ、そなたの配下はこの薬を使うことなく死んだぞ」ゼラータの手のひらに紅い玉が乗っていた。

「おのれ…」ツァンの目が細くなった。

「せっかくの堕胎薬じゃ。そこの偽王女で試してみるかの」

老婆の手からツイ…と玉が浮いた。

ふるふると震え── 一直線にカマラに向かって飛んだ。

「ぎゃーっ」口から血が飛び散った。

歯をへし折ってぶつかった。

意志が有る如く口中に入り込む。

「う゛わああああーっ」吐き出そうと、胸をかき毟るカマラの血塗れの唇からさっきの叫びの数倍の悲鳴が上がった。

金糸銀糸に宝石を縫い取った眩いローブが裾から真っ赤に染まっていく。

「お腹っ!お腹があーっ!」下腹を押さえて転がり回る。

「残念じゃったな、キタイの魔女よ。そなたの切り札は流れてしもうた、これでシェラム王子の使い道も消えたのう」

すたすたと階に歩み寄る。

「若いの…御子を放すのじゃ。そなた等の連絡が途切れ、焦れたイスマディア王はすでに進軍を開始しておる。そなた等もろともアキロニアを滅ぼすつもりじゃ。所詮そなた等は捨て駒よ」

ヴァイロンがゼラータの呼び掛けに呼応してズイと前へ出る。

「ガイ!」ハーディアは暴れる童子を下に降ろし、剣を抜いた。

「近づくなーっ!こいつを殺すぞ!」切っ先が押さえ込まれたシェラムの喉に当てられる。

ヴァイロンの顔が歪んだ。

追いつめては自暴自棄になって何をするか分からない。

一歩退(ひ)いたヴァイロンを見て女官長はほくそ笑んだ。

──シェラムを餌に脅しをかければ、こいつらは退く──

「黙れ!荒野に隠遁する三文手妻師め、最初(はな)からイスマディアなど当てにしてはおらぬわ」居丈高に叫ぶ。

「よいのか?我らの宗主はイムシャ山におわす御方じゃ、我が印を結べばこの童子の中の魔王の血が沸き立ち地獄の使い魔に姿を変えようぞ!」ツァンは前に出た。

「やってみよ、己等の正体はとっくにばれておる。先ほどからキタイの魔女と呼んでいるのが耳に入らぬか?」

ゼラータの声は落ち着いていた。

デキシゼウスは小さな水晶球を掲げた。

“イムシャの眷属ではない…みんな騙されていたのだ、奴らはパイトンから逃げてきたヤー・チェンの残党だ”はっきりとした声が響いた。

「シュカ…」パブリウスが呟いた。

「兄者…」シェバが一歩を踏み出した。

「これが我が愛弟子シュカの最後の言葉じゃ…」デキシゼウスの声は震えていた。

イェンとタムの頭上に文字とも記号ともつかぬモノが書かれた布片が降り注いだ。

「なんじゃこれは?」躯に触れると布片から文言が消え、二人の肌にそっくり同じ文様が浮かび上がる。

手で払えば手に、顔を避ければ肩に──光沢を放っていた肌は、みるみる文言に埋め尽くされた。

最後の布片と共に、天窓からふわりとハドラタスが舞い降りた。

背に羽根が有るように、すっくと壇上に降り立ち奥の間への退路を断つ。

「アースラ大神の化身におわします“生き神クマリ”を辱めた罪は重いぞ!」

「なんの、アシュラの破戒僧めが!ヤー・チェン直伝の秘術とくと味わうがよい」

怒りにぎらつくイェンとタムはそれぞれに違う形に手を組んだ。

と──

「があああああああーっ!」イェンの躯が奇妙に捻れた。

関節が軋み、ゴキゴキと骨の割れる音がする。

自慢の筋肉がへこんだ。

何者かに周囲から押しつぶされているようだ。

ぐしゃり──頭蓋骨の潰れる音と共に人の形をなさぬ肉塊がのたうつカマラの横に転がった。

「貴様、イェンに何をした?」あっという間の惨状にたじろいだタムがハドラタスに迫る。

「何もしておらぬ、お前らは自ら発した術によって葬られるのだ」

「なに?」

「先ほどそなた等が組んだ印は我に向かってはおらぬ…その皮膚に張られた文様によって外に出ることが適わず発した術者に還ってくるのだ。お前はこの者より呪(しゅ)が弱いゆえ、戻りが遅いだけじゃ…」

「ぐはっ!」ハドラタスの言葉が終わらぬうちにタムの躯に亀裂が入った。

「その肌に塗った秘薬もパイカンから送られる“念”がなければ只の香油じゃ」

血は一滴も出ない。

皮膚から筋肉、内臓までをすっぱりと切り分けられながら最後に喉を裂かれ、舌を突き出しながらどうっと倒れた。

「デキシゼウスよ、愛弟子の仇を討ちたい気持ちは分かる。しかしここで人の激情に戻れば再びミトラに仕えることは適わぬ。よって我が代わって成敗した…許されよ」痙攣するタムの手からミトラ神の刻まれた銀環を取ると、ハドラタスは階下に声をかけた。

「かたじけない…」デキシゼウスは声を詰まらせ、初めて異教徒の高僧に深く頭を垂れた。

壇上にアシュラ高僧ハドラタス、階下にミトラ大神官デキシゼウス──二人はツァンを挟んで対峙した。

「お前さんが親玉な事は分かっている、これで配下は消えたのう」さらに正面には灰色狼と共に階を登ったゼラータが立つ。

「ベンダーヤの総本山から“イムシャ山に気の乱れ無し”と連絡が入った時はペリアス殿と我はツラン国境を密かに越える最中であった…逆にヒルカニアからキタイ西部にかけて不穏な動きがあると、パイトンを追われたヤー・チェンの残党共がツランの間諜等と密かに会うているとアシュラ教徒が伝えてきた…ペリアス殿は我と別れ一人残党の足取りを追った、行き着いた先は…」ゆっくりとハドラタスが階段を下りてきた。

「ま、まさか…」ツァンの顔に初めて動揺がはしった。

「キタイの都パイトンの象徴、紫の塔が満月を浴びてその影を延ばすところ…影の切っ先が届く地下窟には、うぬらが冥界から呼び戻したヤー・チェンの亡霊がただうろうろと意志もなく彷徨いていたとペリアス殿から手紙が参ったわ!」ハドラタスは銀環を懐にしまうと、代わって巻かれた羊皮紙を取り出した。

「我はイムシャを隠れ蓑にした謀(はかりごと)と貴様等の正体を知らせんとヒルカニアより夜を日に継いで立ち帰ったが、行く先々でツラン兵の襲撃にあい、身を潜め山越えをしながら何とかアヨドーヤへ帰り着いた。しかし時は既に遅く、間諜が流布した偽りの情報を信じたヤスミナ陛下はアキロニアに使節団を送ってしまわれた後だった。イラニスタン国境にはツラン兵が集結し、出兵したアキロニア軍を挟み撃ちにせんと軍備を整えている。この上はかつてザルトータンに対し共に戦った荒野の魔女ゼラータの力を借りてアキロニアに巣喰う貴様等の目をかすめ、コナン王に直接連絡を取るしかない…」

「ネメーディアが動き出しておったのでな…言われぬでもコナン王の加勢をするつもりじゃったが、思いの外早うに呼び出され、砂漠からアキロニアまで二往復もしてしもうた」ゼラータは狼の巨大な頭をポンポンと叩いた。

「よくも俗神を崇める身で“名を呼んではいけない御方”の名を口にしたな」ツァンの目に怒りが燃えた。

「売僧(まいす)に異端僧に魔女か…西の魔道など我ら東方の呪術に比べれば赤子の技じゃ」

かざした手に炎が渦巻いた。

見る間に八匹の火竜となって襲いかかる。

荒れ狂う炎が大広間を駆け抜ける。

前列にいた謀叛貴族の躯が火を噴いた。

もはや敵も味方もない──いずれはツラン兵に消される連中だ。

デキシゼウスが跪いて“呪”を唱えた。

目に見えぬ防護壁がコナン達を包む。

ハドラタスが数珠を振るうと火竜は吹き飛ばされ、ちろちろと燃える火だけがツァンの手に残った。

「弱いのう、まだ分からぬのか?そなたに力を送っていたヤー・チェンの亡霊はとっくに消滅したのじゃ…西の魔道士を見くびっておったのう、ペリアス殿の術によりそなたの主人はあらゆる並び立つ世界より滅せられた。もはや冥界にも居らぬ故この世に迷い出る事も適わぬ」ゼラータはずいと進み出た。

「ツランと連絡が取れなくなった時におかしいとは思わなんだか?もはや星を見て占っても何ら示すモノは失せていたはず…」階下からデキシゼウスが登ってくる。

「ええい、寄るな!」ツァンは後方で蹲ってシェラムを抱き寄せているハーディアの後ろに下がった。

「城門を開けてツラン兵を入城させよ、国境の防備を解いてメネーディア軍を通せ!」シェラムの喉にキタイの小刀が押し当てられた。

「それ、術をかけてみよ。大事な王子に当たらぬようにな」ツァンの挑発にヴァイロンが唸った。

デキシゼウス、ハドラタス、ゼラータがシェラム救出の為にハーディアに送っていた“呪”は悉くツァンが盾となって跳ね返していたのだ。

シェラムが腕に抱えらえていては決定的な“呪”は使えない。

それに気づいたツァンが最後の手段に出たのだった。

背にはハーディアが剣を押し付けている。

シェラムは下に降ろされた時から抗わなくなっていた。

そして相手の隙を窺っていた。

それは助かるためのものではない。

父王がこちらを気遣い見上げるたびに、ゼノビアがハーディアの動きに泣き叫ぶたびに、その決意は固くなった。

ハドラタスから師ペリアスの命懸けの行脚を聞き、さらにアヨドーヤで自分をクマリ神と崇める者達の無事を知って気掛かりは無くなった。

そして…ガイがこんなにも自分を守らんとツラン兵の矢を浴びながら一歩も壇上を動かずに剣を構えている。

逢いたかったガイが…

もう、思い残す事はない…

すぐ其処にツラン軍が迫っている。

メネーディアは国境を北上している。

時間は無い──こんな所で父と兄が…歴戦の諸将が宰相が…自分のために動きを封じられている暇は無いのだ。

「ごめんなさい…キンメリアの男は何時如何なる時も諦めてはいけない…生き抜かねばならない…私は父上の教えを守れないの…」

「シェーラ?」

「だからね、キンメリアの子はガイ一人…」

小さく呟く声をガイの耳だけが聞き分けた。

「夜の嵐もなんのその…」何か口ずさむように唇が動いた。

「いつか夜明けはやってくる…」じっとガイを見つめながら…

シェラムの躯が前に傾いた。

ツァンが構えた切っ先に自ら喉を押しつけた。

後ろに退く事はあっても前には出ない──押さえつける力が逆に作用した。

真っ赤な血が散った。

喉に深々と刃を食い込ませた童子がゆっくりと階段を転げ落ちた。

それは周囲の者達には走馬燈を一つ一つ止めたかのように映る。

「しまった!自害したか」声を上げる間もなくツァンの上に狼の巨大な牙が降ってきた。

脇階段に逃げようとしたハーディアの背に白銀の鎧を貫いて矢が食い込み、近衛将軍はどうと倒れた。

「兄とフィーリアの仇!覚えたか」ウィスカのボッソニア弓を構えたシェバが叫んだ。

“王のお耳係”とタラスクスの斥候に知られることなく戦線を離脱し、ゼラータの秘術に守られながら密かにタランティアにとって返したヴァイロン達若手部隊──ウィスカはピクト族の侵攻に備えた辺境地帯の砦から他のボッソニア兵士と共に、はるばるネメーディア国境の戦場に駆けつけ、ジニアスの指揮のもと戦っていた。

シェバはゼラータから恩師アテミデスの手紙を渡されると、入り乱れて戦う戦士の中からウィスカを探した。

乳兄弟のジニアスに引き合わされた初対面の軍師は「訳は聞かないで愛用の弓矢を貸してくれ」と言った。

「今は打ち明けられぬ、いずれ…必ず全てを話す」ウィスカは軍師の頼みを黙ってきいた。

「ウィスカ、フィーリアの名誉は守るぞ…」倒れたハーディアに駆け寄ったシェバは、大声を上げてのたうち回る口中から舌を引き出し、鏃(やじり)で裂いた。

謀叛諸侯は憤ったコナンとヴァイロンの臣下によって一気に殲滅されていく。

「シェーラ?シェーラ?シェーラーッ!」みるみる瞳孔が開いていく弟の躯を抱いてヴァイロンは絶叫した。

引き抜いた小刀でざっくりと喉を切り裂かれた小さな身体から暖かみが消えていった。

黒衣で喉の傷を覆う。

溢れ出る血は止まらない。

抱きしめるヴァイロンの衣服を染め、階下に流れ落ちる。

この小さな身体に、こんなに多くの血があるのかと思うほどに…

「アテミデス、助けてくれ…」

傍らに駆け寄った大学士に救いを求める。

師はゆっくりと首を横に振り、光なく見開いた目を手のひらで閉じた。

ゼノビアの号泣が広間を覆った。

その時、噛み締めた唇から血を滴らせたコナンが天空から露台(バルコニー)に現れた人影を見て叫んだ。

「ペリアス!」

壊れたガラス扉から走り寄る魔道士の総髪の灰髪は乱れ、息も荒い。

「遅かったか…ヤー・チェンの“気”を辿り、残党を一掃するのに思いの外手間取ってしまった」ペリアスの声がくぐもった。

「愚かなことを…我は何のために命を賭けたのじゃ」顔を覆う。

「ペリアス…俺は息子の死を無駄にはせんぞ、イスマディアとタラスクスに地獄を見せてやる」コナンは階を駆け上がり玉座に座った。

トロセロ、プロスペロ、パランティデス…涙と返り血で汚れた顔を拭いもせず、盟友が玉座に集まってくる。

メネーディア国境に疾風の如くとって返し、残ったジニアスと合流して快進撃を続けるプュブリウス元帥とラーマン伯以外の貴族諸将が階下で国王の進軍開始の合図を待っている。

「いや…待て、コナン…」ペリアスは顔を上げ、壇上に呼び掛けた。

「以前おぬしは英霊エペミトレウスより授かった不死鳥の剣を見せたな?」それは友の口調であった。

“いきなり何を言い出すのか?”

“この魔道士は五年間手塩にかけて育んだ子を失い、気でも違ったのではあるまいか?”諸将は顔を見合わせる。

「我は東にてヤー・チェンを打ち負かす為に反魂(はんごん)の術を学んだ…このままシェラムを冥界に旅立たせてよいものか…」ぶつぶつと呟く。

「ペリアス、何を言っておるのだ?」コナンの声はビリビリと大広間を揺るがした。

「コナンよ、今一度、我にシェラムを預けてくれ。我はかねてから何度も星と太陽でこの子の宿命を占った。異様に不思議な卦が出るのじゃ…この子の命脈は、このように幼くして途切れるはずはない」

「ペリアス、もうよい。俺の子は自らを犠牲にしてアキロニアの危機を救ったのだ」

「いや、待たれよ、陛下…」ハドラタスが声をかけた。

「クマリ神の命はアースラ大神に委ねらえており申す…アヨドーヤでアキロニアを案じ大神の啓示を仰ぎましたるところ、殿下は両国の運命だけでなく、この地の万物を左右する運命を持つとの声がありました。クマリ神の身でありながらアキロニアに渡り、魔道士たるペリアス殿が育て、このような仕儀に相成った…これは決して偶然ではございません」

「運命だと申すのか?しかしシェラムは、俺の息子はここに事切れておる」コナンの声は慟哭の響きを含んでいた。

「それは運命にあらず、一つの運勢でしかない」デキシゼウスが王を制した。

「シュカと共に天空を占(み)て儂もそのように断じた。それに従って潔く我が弟子は命を散らせたのじゃ。この御子はいつか世を救う…救世の星を頂いておる」

コナンは一瞬目を伏せた。

「よし、ペリアス…ぬしに任せる」蛮人の決断は早かった。

階(きざはし)を降るとヴァイロンに何か告げた。

だが、しっかりと抱えた弟を放さない。

父は兄の腕を取り、弟を引きはがすと下で待つペリアスに渡した。

そして深々と頭を下げた。

大広間の露台(バルコニー)からシェーラを抱えたペリアスが黒い魔物に乗って、何処かへ飛び去っていくのを皆が呆けたように見つめていた。


さすがの大通りも、朝の早いこの時間に人は少ない。

ましてや中央宮殿に通じる大路を行く人影は無かった。

昼前には謁見や訴訟の為に混み合う通りも、今は朝未(あさまだ)きの中ひっそりと静まりかえっている。

門番もやがて来る混雑に備え、身を休めていた。

その耳に石畳を闊歩する蹄の音が近づいてきた。

時折田舎から出てきた貴族が謁見の開始時刻を知らずに早朝から押しかける事がある。

「やっかいな事だ」衛兵は腰を上げると、槍を持ち所定の位置に立った。

朝靄の中から泥だらけの馬が現れた。

オレンジの薄汚いベールを被った女を抱え、後ろで手綱を握っているのは少年だった。

ベールから覗く足も泥だらけ、少年も腰から下は泥だらけ、いや上半身も髪と言わず顔と言わずこびり付いた泥で汚れている。

少年の隊服はボッソニア軍の物であり、よく見れば泥にまみれた馬の轡にも鞍の横にもボッソニア部隊の軍旗と同じ双頭の鷲が刻印されている。

だが怪しい…なんだこの泥まみれの娼婦は?──仲間同士顔を見あわせる。

「下馬しろ」槍を突きつけた。

「俺…私は東宮侍従長だ。王太子様よりのご命令を果たし帰還した。門を開けよ」

「はあ?ガキ今なんて言った?」

「侍従長だと?そりゃあ残念だったなあ、泥んこ坊や。お前が盗んだ馬と隊服はボッソニア軍のもんだ、何が狙いで王宮に忍び込もうとするのか知らんが化けるなら、もっとそれらしい位を名乗れ」

「ボッソニア軍の兵舎に使いを出してくれ、私の身は証明できる。そうだ…王太子宮の衛兵は夜中にこの馬で門を出て行くのを見ているから証人になる、呼んでくれ」ヒューイは必死だった。

ここで騒ぎを起こせば、あられもない姿の第二王子を皆に見られてしまう。

「だったら何で王太子宮の門に戻らないんだ?おかしいじゃないか?」

「それは…」“開かずの間”に行くのだとは言えない。

「めんどくさいな…」ポツリと腕に抱えた王子様が呟いた。

馬上でオレンジのベールがゆらりと揺れた。

「待て、シェーラ!」脇の通用門が開いた。

「あっ、これは王太子殿下!」衛兵が槍を置いて平伏した。

「こいつは俺が使いに出したんだ、この…男娼を見つけて連れてくるようにとな」

「はあ…」

「門を開けてくれ」

「はあ…」曖昧な返事をしながら衛兵達は閂を上げた。

王太子はオレンジのベールに手を差し出した。

その手に支えられ鞍から降りる。

兄は弟をがっしりと抱き留めた。

「ねえ、ガイ覚えてる?この門で初めて私はガイに会ったんだよ」

「ああ、ちっこいガキがみんなを通行止めにしてグースカ寝てたな」

「ガイが起こしたんじゃない?」

「そうだったかな…」

そうだよ…初めて“ガイ”と呼んだ日だよ、初めて兄が出来た日だよ、そして…キンメリアの男は人前で泣いてはいけないと教えてくれた日だよ…私はあの日“キンメリアのシェラム”に為ろうと決めたんだ。

思い出と共に誓いが甦る──兄の胸に顔を埋めた。

こうしてこの人は、私が最後の封印を解く瞬間に立ち会うために、一晩中ここでずっと待っていたんだ。

いや…十年だ──自分は十年兄を待たせてしまった。

開かれた門の奥にはシェバを先頭に王太子の側近が並んでいた。

彼らもここで主人と共に一晩をあかした。

「ヒューイ!」

「ウィスカ隊長、ジニアス様!」馬から下りた少年は駆け寄ろうとして躊躇した。

馬も泥だらけだが、自分も泥だらけだ。

腰まで泥につかりながら葦原を進んだのだから仕方が無いのだが、一歩踏み出すたびに大理石の床が汚れてしまう。

「行くぞ、ヒューイ」その横を同じく…いやそれ以上に薄汚れた主が追い抜いた。

「あっ、お待ちを」だがこの格好で中央宮殿に入城してよいものか?

「構わん、シェーラの後に続け」ヴァイロンが即した。

一礼して慌てて後を追う。

「お前らも来い」泥まみれの二人を黙って通した臣下達に呼び掛けると、王太子も宮殿正面玄関から中に入る。

残された衛兵は乗り捨られた馬の轡を取った。

「いつから殿下は男もいける口になったんだ」ヴァイロンが城下の娼館に出入りしている事実は城内の者だけでなく民にも知られている。

どうした理由からか、彼は王太子宮内に後宮を持たなかったし、外にも特定の女を囲う事はなかった。

男娼に限って城内に招くというのは…男が相手では外で抱くのはまずいとでも思ったのだろうか?

「王太子宮内の目を憚って中央宮殿から引き入れたのか?」

「だったら何で側近までくっついて来るんだよ?なんにもならないじゃないか」

「知るか!」

「しかし殿下も物好きな…よりによってあんな汚いの…」

「いや、結構いい躯してたぞ、泥を落としたら見違えるんじゃないか?」

「お前、あの騒ぎの中で、よくそこまで見たな…」

「ふふん、この道に関しての目は利くんだ」

「自慢になるか」

「殿下がお気に召したら通ってくるかもしれんぞ。そしたら一度味見してみたいもんだ」

「いい加減にしろよ、それより交代前にこの馬をボッソニアの兵舎まで連れて行かないと…」

「ちぇ、やっかいなもん置いていったなぁ」

彼らは愚痴りながらも泥が付かないように馬を牽いて門内に入れると、改めて城門を閉めた。


白亜の大理石に──真紅の絨毯に──行く先々に泥の足跡をぺたぺたと残しながら、中央宮殿の回廊を進む。

ザモラ戦から穿いていたサンダルは昨夜の遠出で何処かになくした。

「殿下、どちらにいかれるのですか?」王宮内に参内が許されたばかりの侍従長にとって中央宮正面の謁見の間から奥は初めての場所である。

裸足の主人は勝手知ったる様で歩みを変えることなく進んでいく。

さすがに朝早くから宮殿内に置かれた各大臣の執務室や庁舎に伺候している者は少ない。

それでも朝餉の仕度に走り回る下働きや後宮に仕える侍女達が王妃、寵姫の湯浴みの準備に追われ行き来している。

彼らは急に現れた薄汚れたオレンジのベールと追いかける泥だらけの少年をあっけに取られて見送り、次ぎに現れた王太子一行が行き過ぎてもあまりの驚きに平伏は勿論、腰を折ることさえしなかった。

廊下の先に衝立がある。

この先に行ってはならないという事だろう。

廊下一杯に置かれた分厚い衝立の脇を壁に躯を押しつけて通り抜ける。

「で、殿下、ここは入ってはならぬ所なのではありませんか?」一瞥もせずに先に行ってしまう主人を追ってヒューイもタペストリーを泥で汚しながらおずおずと躯を通す。

「ヴァイロン様…」呼び掛けるシェバの声は緊張が満ちている。

続くユウラ、カルネ、ディジャスの表情は硬く強張っている。

こんな雰囲気が苦手で、いつも軽口を叩いては“緊張感がない”とシェバにたしなめられるホルストさえも神妙な顔で控えている。

その後ろのジニアスは更に悲壮だった。

眉を寄せ、半眼のまま唇をかんで、いつものいかつい顔がますます険しいものとなっていた。

「ここで待っていてもいいぞ」ヴァイロンは二人に言った。

二人…ジニアスの後ろにはウィスカがいた。

「いえ、ヒューイはかつては我が部下、それに幼少の頃より育んだ者にございますれば心配もひとしおで御座います。お許し頂けるなら、付き添ってやりとう存じます」ボッソニア特殊部隊長の声にはいささかの乱れもなく、その表情も変わらない。

“さすがは…”自分直属の諜報部隊を任せた男…見込んだだけの事はある。

「それじゃあ、この邪魔な衝立をどかそうか」巨木を組み立てた衝立は天井まで届き、幅は廊下一杯、奥行きは躯二抱えよりまだ厚い。

「これを…で…ございますか?」小姓のディジャスが見上げる。

「ここをすり抜けたら、こっちまで泥だらけになるじゃねえか」衝立のへこみに指をかける。

「動かすのは俺がやるから、ホルスト、ジニアスお前ら二人でそっち側を浮かせて手前に回せ」南の大河を泳ぎ回って鍛えられた上腕と西の山岳地帯を闊歩して育った二人を選び反対側を持たせるとヴァイロンは腰を落とし腕に力を込めた。


泥はあらかた乾いて落ちてしまった。

散々他になすりつけたからかもしれないが、この廊下は汚す心配はなさそうだ。

でも、こんなに埃だらけで黴臭いなら少しぐらい汚れても判らないだろう…ヒューイは辺りを見回した。

蜘蛛の巣も凄い。

ここ何年も誰も通っていないんだな…

こんな場所がタランティア中央宮殿にあったなんて──しかも決して奥まった場所ではない。

シェラムは躊躇なく進んでいた。

十年前に兄の式服に身を包み歩いた…いや歩かされた廊下を。

あの式服はゴラミラ山の地中深く燃え尽きて灰となった。

窓の全てに板が打ち付けられているが、隙間から朝の陽光が筋となって洩れている。

塞がれた衝立、板の張られた窓、埃を被った廊下…ここは禁忌の場所だ──後ろから従う少年は沸き上がる恐怖で一杯だった。

しかし前を歩む主人の躯に降り注ぐ白い陽光が次々と折り重なって、えも言われぬ美しさを見せている。

陶酔が恐怖に勝り、彼は必死で主人の後を追いかけた。

締め切られた大扉の前でシェラムは足を止めた。

左手をかざす。

薄暗い廊下の突き当たりで、小指の爪が真っ赤に輝いている。

ミシッ…

扉が軋んだ。

ギイイー…

僅かに開く。

「ひいいーっ」ヒューイは顔を覆った。

扉の向こうから凄まじい風、いや冷気といってもよい寒風が吹き付けてきた。

バーン!

轟音とともに扉は大きく開け放たれた。

床の埃が舞い上がり吹き飛ばされ板戸がベキベキと外れていく。

グラグラと床が揺れた。

「で、殿下ーっ」腕の隙間からかいま見た主人は…

くたびれたローブが風で裂け、きれたローブが腰にまとわりついている。

髪が羽根のように靡き、玲瓏な美貌が開かれた室内をじっと凝視していた。

風に逆らって一歩、また一歩…扉の内に足を踏み入れる。

少年は風圧に負けて後を追えない、飛ばされぬように両足で踏ん張るだけで精一杯だった。

建物の揺れはまだ続いている。

「ヒューイ!」後ろから部隊長の声がした。

「ウィスカ様!」顔を覆ったまま振り向く。

「こ…れは…」普段冷静沈着なシェバが開いた扉から吹き出す強風に煽られながら動揺している。

「ディジャス、すぐにミトラ神殿に使者に立て!デキシゼウス殿をお連れするのだ!」

「待て、シェバ…」ヴァイロンが制した。「中の様子を見てからだ」

「殿下、何を悠長な!この封印が…内からハドラタス殿、外からデキシゼウス殿が掛けられた封印が解かれたのですぞ!」

「落ち着け、シェバ…封じたモノはいつかは解かれるんだ」

「は?」

「いや、解かなくちゃならんのだ…今まで解けなかったのは、その役にある者が役目を怠っていたからだ。あいつはついにここへ来た。扉を開けた。過去と決着を付け、向き合い、かつて起きた事実をありのままに受け入れる為に…」

ヴァイロンは風に向かって進んだ。

「ご苦労だったな、ヒューイ」

「殿下にお教え頂いたペリアス殿の御館でシェラム様は泣いておられました…」

「そうか…」ヴァイロンはペリアスから渡されたラカモンの環(リング)を扉にかざした。

と──囂々と吹き荒れていた風がピタリと止んだ。

「行くぞ」ポンとヒューイの肩を叩いた。

露台(バルコニー)に出るガラス扉は壊れたままだった。

天窓も含め全ての窓が割れている。

大理石がくりぬかれた円柱はひびが入り、所々落剥していた。

壁が落ち、大理石の床も割れが目立つ。

引き裂かれたカーテン、緞帳に点々とついている黒いシミは血だろうか…

「ここは?」ヒューイはこわごわ室内を見回した。

「十年前に戦場だった所だ…」ヴァイロンが呟いた。

「は?」

「タランティア中央宮殿大広間…十年前まで全ての祭典、儀式がここで執り行われていた」

ヴァイロンは真っ直ぐに前方に広がる大階段に向かった。

「シェーラ…」

階(きざはし)の中段左の隅に半裸の少年が立っていた。

「最後まで歌えなかった…」

シェラムはゆっくりと腰を折り、大理石の継ぎ目に染み込んだ黒いシミを指でなぞった。

「うん?」

「聞こえた?あの時ガイに向かって私は歌を歌ってたんだよ」

「ああ、分かった…海賊の歌だった…」

「夜の嵐もなんのその…いつか夜明けはやってくる…」あの時と同じようにじっと兄を見つめる。

「三本マストのてっぺんに、おてんとさんがのぼるのさー」不意に響き渡った兄弟の合唱に、室内に入るのをためらっていたシェバ達が驚いて駆けつけた。

「ついでだから歌の前にお前が言った言葉の訂正をしておくぞ、キンメリアの子は俺一人じゃねえ」

「あ…」シェラムの目が潤んだ。

「キンメリアの男が人前で泣くんじゃねえ、ヒューイに聞いたぞ、みっともねえ」

「ヒューイったら口が軽い!」

「口止めしなかったお前が悪い」

「それは…」そうだけど…

階段の下にヴァイロンの側近達が揃ってこちらを仰ぎ見ている。

後ろにポツンとヒューイがいた。

乾いた泥が身体中にこびり付いている。

ひたすらに追い求め、なりふり構わず付いてきた少年に心を許した…人から慕われるのはアイーシャに次いで二度目だ。

弟の視線に気付いたように兄は語りかけた。

「主人には主人の責任がある。真心を尽くして仕えてくれる配下であればなおさらだ」ヴァイロンは階下に集う者達一人一人の目で追う。

「配下であり、仲間であり、友であり、兄弟だ」

「兄弟…」

「ヒューイのいい兄貴になるんだぞ」

ヴァイロンは先に階段を下りた。

「外が騒がしいな」

「当たり前です、中央宮殿の真ん中が揺れたのですから寝ていた者も飛び起きます」カルネが溜息混じりに答える。

「そうか、ここはど真ん中だったな…式部長官から小言を言われる前に引き上げるか」

「ガイ…」階段を降りながら弟が呼び止めた。

切れたベールを引き摺り、腰布一枚、太腿から下の乾ききらぬ泥が、差し込む陽光にぬめぬめと光ってひどく艶めかしい。

今まで裂けた緞帳の影で足先しか見えなかったシェラムの妖艶な姿態に視線が釘付けになる。

ぽかんと口を開けたまま降りてくる王弟殿下を眺める。

“これは…”シェバは正気に戻り、膝を折り頭を垂れた。

これしか視線を切り離す方法がなかった──それ程蠱惑の魅力に満ちていた。

「シェラム殿下の御前である、礼を!」

ユウラ、カルネ、ジニアス…一斉に我に返り、埃まみれの床にバタバタと片膝をつく。

「ガイには一々礼をしないんでしょ?だったら私にもいいよ」

それでも誰も顔を上げない。

「何か言いたいことがあったんじゃないのか?」降りてきた弟には何故みんなが這い蹲ったのかが分かっていない…苦笑しながら兄が尋ねる。

「コーシェミッシュを発った時何処か行きたい所があるかって聞いたでしょ?」

「特に無いとお前は答えたから、俺は海をみせてやろうと言った…ガキの頃からの約束だからな」

「海の途中で色々あって結局アキロニアに来ちゃったけど…」

「分かってる、男の約束だ。必ず外洋に連れていく、あの時だってアルゴスに向かってたんだぜ」

「それなんだけど…ちょっとこちらの事情で行く先を変更して貰えないかな?」

「どこに?」

「ステイジア…」

キンメリア語のやり取りを聞いていたシェバが思わず顔を上げた。「ステイジア…妖魔の闊歩する魔の封土にございます!」

「大袈裟だな、確かに怪しげな魔道士は多いが人は住んでいる」ヴァイロンはアキロニア語で軍師を諭した。

「ン?魔道士…まさか、お前?」

「うん、ペリアス先生に会いたい…カニリアの尖塔が燃えて無くなっちゃったから、先生何処かに行っちゃったんだ」

どういう次第かシェラムは兄たち一行がカニリアで行った所行と、そののちの推移を知っていた。

「ステイジアにいるのか?」

「はっきりとは言い切れない…でも南東に向けると水晶球が曇るんだ、あそこは先生が若い頃修行した地でもあるし一番可能性が高いんだよ…もう少し待って、使い魔を出して行く先を絞り込んでみるから」

「お許しを!」アキロニア語になった会話に耳を傾けていたユウラが平伏した。

「あの折、殿下が創られた地下窟の後宮(セラムリック)を伐り倒し、焼き払ったはわたくしでございます!」

「いや、俺が命じた。だが、まさかペリアスが燃えるに任せて尖塔ごと消し去るとは思いも寄らなかった…」すぐにヴァイロンが遮る。

「解っている、先生もああやって責任取ったんだよね…」微かにほほえむ。

「逢って先生にお礼とお詫びを言わなくちゃ…」慈しみ育まれた礼、不遜の弟子になってしまった詫び…

シェラムの…長い少年期の終わりであった。

ユウラの前に膝をついた。

「顔を上げて…ユウラといったっけ?カニリアからコーシェミッシュまでよく訪ねてきてくれたね。あれは私の臣下も共に行った事、咎めるつもりはない…チァンリルとイーデッタが世話になった、ありがとう…」

「シェラム殿下…」ユウラは感極まって泣いていた。

「これは言い訳に過ぎないけど、千年先か万年先か…ヨトガがヤグに還って私が一人になったら、彼らから忘我樹(ユーバス)を外して共に暮らそうと思っていたんだ…」

「そりゃあ、お前の我が儘だ」あっさりと兄が断を下す。

「うん…」素直に頷く。

「大丈夫、シェバ。ガイは私が守るから…」隣で話の成り行きを案じる軍師に声を掛ける。

「殿下…」驚いて顔を上げた。

「シェバよ、お前は正しい…アキロニアにとって王太子は唯一無二の存在、そなたが第一にガイの事を考えるのは当然だ」

「シェラム様…」シェバの目にみるみる涙が溢れた。

「長い間兄を支えてくれてありがとう…これからも王太子宮総帥として励んで欲しい」

「殿下…」シェバは顔を覆って嗚咽した。

「みんな十年、よくぞ兄に仕えてくれた…礼を言います」頭を垂れる。

「勿体ない!どうかお顔をお上げ下さいませ!」カルネ、ディジャス…シェバと苦楽を共にした者達が堰を切ったように泣き出した。

ホルストは子供のようにワアワアと声を上げて誰憚らず泣き喚いている。

「はっ、誰が!お前なんぞに守って貰わなくてもステイジアの腐れ魔道士なんぞ、みんなぶった切ってやる!」弟の変化が嬉しくて堪らない、つい顔がほころんでしまう──照れくさくて大声を張り上げる。

半裸の第二王子はベールを引き摺りながら、啜り泣きが洩れる間を縫って一番最後尾で平伏している侍従長の前まで進んだ。

「ヒューイ…私が不在の間は東宮を管理するのはお前だ、シェバを見習って一日も早く立派な侍従長となりなさい」

「は、はい!命に代えましても!」

にっこりと微笑む。

「ジニアス、ウィスカ…お前達の大事な仲間は確かに私が譲り受けた。もう二度と私の為に犠牲になる者を出してはならない…私も心して使うが至らぬところがあれば遠慮無く言ってくれ」

「うおおおお…」ジニアスが泣き崩れた。

帰還して十日余り…東宮に籠もられ、宮廷内に保管されていたあの事件と事後の関係書全てに目を通されたに違いない。

「で、殿下…」ウィスカの中で、わだかまっていた痼りが溶けていく。

「これからもヒューイを頼んだよ」涙で霞んだ目に柔らかな微笑がぼやけて見える。

「じゃあ、帰ろうか…ヒューイ」

「はい!」と勢いよく立ち上がった少年の腹がグウと鳴った。

「あ…」真っ赤になる。

「そうか、お前昨日は寝坊しちゃったし、夜は私をつけ回したし…丸一日何も食べてないんじゃないの?」

「い、いえ…その…あの…」

「食堂どこ?」

「は?」

「私も食べる!案内して」

「え?」

「私達も食事しそこねちゃって…さっきからサータに精気吸われっぱなしなんだ」

「私達?サータ?」

「あれ?ザモラの渓谷で遭ったでしょ?」指輪を見せる。

「あ…大蛇…」以前なら縮み上がったが、葦原で抱きつかれ泣かれてから、この年上の主人がどこか“可愛い”と思えるようになった。

「ご案内致します」先に立って出て行く。

見送るヴァイロンが大笑いした。

「全くあの二人、どっちもどっちだな。あんな汚い格好で行く気か!」

立ち上がった側近達の頬には、皆涙の跡が光っている。

「おい、式部長官に連絡だ。今日からこの大広間は使用可能だってな。大工呼び集めろ…だが、その前に俺達も飯にするか」

第六章 完


あとがき

長くなりました〜!ここまで読んで頂きましてありがとうございました。
感謝感激雨あられ!でございます。

何と言っても今までの章の倍頁ですから…(参考:印刷プレビュー)
書いてる方もかなり辛かったです。
何度も途中で前編・後編に分けようと思ったのですが、ややこしく為るのでやめました。
十年という歳月を行ったり来たりしなきゃならないし、場所もコロコロ変わるし、何と言っても登場人物が滅茶苦茶多い!
そんなに構成力ないもので…(泣)

長い名前はハワードと彼の死後、遺稿に手を加えたディ・キャンプ&ニューベリイのオリジナルキャラです。
ワタクシが新たに創作したキャラの名前はどれも短いです。

簡単に出自を──
奴隷女だったゼノビアとハドラタス、ゼラータ、ネメーディア王タラスクスは『ハヤカワ版征服王コナン』
プュブリウスとデキシゼウスは『ハヤカワ版大帝王コナン』“トラニコスの宝”
アテミデスは同巻“真紅の城砦”(ペリアス、ヨトガもここで出てきます、詳しくは第4章の“あとがき”を御覧ください〜)
ラーマン伯爵は『ハヤカワ版別巻1復讐鬼コナン』で、これがゼノビアを攫ったヤー・チェン、イェズディガード、タナーラとの死闘を描いたもの(別巻となっているのはディ・キャンプ&ニューベリイの著書だから)
ヤスミナからペリアスまで登場しオールスターキャスト!ここで宿敵イェズディガードをぶっ殺します(笑)

宰相パブリウス、パランティデスはトロセロ・プロスペロより登場回数は格段落ちますが、コナンが王位に就く前と即位後が書かれた各巻に出てきます。

じゃあ創元版は?──無いんですよね、国王になったコナンの話は翻訳されていません。
創元版はランサー・ブックス版を元に訳されています。
きちんとコナンの年代順に年を追って編纂されているので、彼の冒険・放浪遍歴が理解しやすいのですが、残念ながら最後まで翻訳・出版されませんでした。
ハヤカワはノーム・ブレス版を原本に訳していてハワードが死後に出版されたモノまで訳しています。
ディ・キャンプ&ニューベリイが勝手に作ったもの(つまりこれも二次創作です)『別巻1復讐鬼コナン』
ハワードの遺稿にディ・キャンプが加筆したものが『別巻2荒獅子コナン』
当然双方の話は重複していますが、片方にあって片方に無い作品もあってそれなりにどちらも楽しめます。

あとのキャストはワタクシの創作です。

ついでに中で二人が歌っている“海賊の歌”もワタクシの拙作です。
コナンシリーズで海賊の歌といえば、シリーズ一番の人気を誇るヒロイン黒海湾の女王(ベリ:ハヤカワ版冒険者コナン)黒い海岸の女王(ベーリト:創元版コナンと石碑の呪い)で各章の最初に書かれている詩が五編あるのですが、どれも海の荒くれ狼や雌虎が歌うにしては硬いんです、言い回しも古典的で…(笑)
で、今回は歌うのが子供だし、それらしいのを創ってしまいました(爆)あ〜あ!

最後にイシュタル神についてですが、ルーブル博物館蔵のイシュタール女神像が有名ですが『凶暴と愛と豊穣を併せ持った女神』との注釈がついています(どんな女神を想像します?)
コナンシリーズでは台詞の中で信仰する神々の名前を呼ぶことが多いのです。
たとえば全裸のペリアスが腰布一枚のコナンに助けられ十年間幽閉されていたのを知った時に叫ぶ台詞が「口惜しやイシュタル、はや十年とは…」(←前にも書きましたが、この辺りのシーン大好きなんですよ〜♪)
コナンの守護神はクロムですが、結構行く先々の神様の名前をクロムの次ぎに付けて叫んでいます。
この解説は創元版が詳しいので抜粋します。
『イシュタールとは愛と戦いの女神であり、セム族のアストレト(金星の神)と同一視される。
アッシリアとバビロニアではイシュタール(月の女神)、セム族はアストレト、フェニキアはアタラータ、シリアのアタルガティス(ギリシャ読みでデケルト)、ギリシャのアスタルテー(アフロディーテと同一視される)──』
抜粋しておいて文句つけるのも何なのですが、バビロニア神話(矢島文夫訳)を少し──
バビロニア神話の農耕神タンムズはイシュタル女神の愛人であったが、死んでしまう(これは農耕神の約束事で植物の冬の枯死、春の芽生え、夏の繁茂、秋の豊穣を顕しています)嘆き悲しんだイシュタルは冥界に降りてタンムズを探すのだが愛の女神が消えた地上では“牡牛は牝牛に挑み罹らず牡ロバは牝ロバを孕ませず街では男が女を孕ませる事も無く…”というあらゆる生殖行為が失われ、子孫絶滅の危機に瀕してしまった。イシュタルは冥界の女王とタンムズを争って戦い主神エアの助けを借りてタンムズを取り戻し地上に復活、めでたし、めでたし──
となります。お気づきかと思いますがこれはギリシャ神話のアドニスの原型です。(ギリシャ神話ではゼウスの裁きで一年の三分の一をアフロディテと暮らし、次の三分の一を地獄の女王ペルセポネーと、残りの三分の一は自由にしていい…という事に落ち着くのですが、強い女性に愛された美少年って大変ですね)エジプト神話のオシリス(弟セトに殺されバラバラにされて各地に捨てられる)の遺体を妻イシスが探し歩き集めて復活させる話もこれと起原は同一とされています。
アフロディテは(ローマ時代ヴィーナス)もともとオリエントの女神であるといわれています。ホメロスの大地讃歌に詠われる地母神信仰(マグナ・マーテル)の代表地母神である女神イナンナ…これがバビロニアのイシュタル神、フェニキアのアス(シュ)タルテ神に受け継がれます。エーゲ海キプロス島のアシュタルテ神殿=キプロスの女神を表す“キュプリス”はアフロデュテの数多い呼び名の一つでもあります。フェニキアのアスタルテ(またはアタルガティヌス)は最高神バール(太陽神)の配偶神で、土地と肥沃を顕すとされ祭典には“性”が加えられ自然の力の擬人化が図られました。しかし自然崇拝の原始宗教が儀式化すると神に捧げるという名目の売春やフリーセックス・乱交パーティーの部分のみが強調されて、かの有名な“フェニキアの夜”と呼ばれた祭典に変化します(恍惚となった信者は踊り狂い自らを鞭で叩き流血し、興奮のあまり男性信者達は男根を引きちぎって女神に供えたといわれています)アスタルテ女神は牛や羊の生贄を好まず“女の美しさと男の力を愛でた”とされ、人間の男女(勿論美男美女でしょう)が捧げられたそうです。
故石田英一郎氏著の『文化人類学ノート』によれば、「ユーラシア大陸には二つの信仰系統があって、一つは内陸遊牧民族から起こった一神教で非人格神を崇める父権的宗教であり、もう一つは農耕民族の大地母神による母権的宗教である。“エホバの他に神無き”とした上天神信仰の隆盛で地母信仰は一時衰退するが、庶民の間に根付いていた大地母神は勝利を収めたキリスト教の中から嬰児を抱いた聖母の形で復活を遂げる」のだそうで、ワタクシが書いたシェラム=イシュタルのイメージという下敷きは、これらの説や伝承、神話がごちゃ混ぜになっています。二次創作なんで好きに書かせて貰っております。女神様ごめんなさい。

さらに創元版からもう一つ、東の大国キタイについて。
これはどこから見ても中国です。首都パイトンは北京。(英語のキャセイ、ロシア語はそのままキタイだそうです)

はあ、本編長い上に“あとがき”まで長くなってしまいました。
でもこの第6章を分割しなかった最大の理由は「したくなかったから」です。
オフラインでは印刷所によって頁数に約束事がありますし、価格設定もあってそれ程長い話は書けません。
締め切りとの兼ね合いもありますし…続き物にせざるをえない事情があるのです。
せっかくオンラインを始めたのですから何ら制約無く“書きたい話を書きたいように書きたい長さだけ”書きかったんです。
どうか、ワタクシの我が儘をお許し下さい。

こんな事まで書いておいて追記も憚られますが「長い」以外の感想・書評お待ちしております。
では…

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