第7章 祝典鐘の鳴るとき

「ヒューイ…」

「……………」顔に水滴が落ちてきた。

「ヒューイ…」

「!」ハッとして目覚めた。

躯から水を滴らせた主人がぺったりと座り込み、上から覗き込んでいる。

「で、殿下!」

慌てて飛び起きた。

二日続きで主人に起こされるなど、あるまじき醜態だ。

「お腹すいた!」

「あ…はい…」

こんな間近に水浴後の主を見たのは初めてだった。

いつもは知らぬうちに池に入り、ひとしきり黒睡蓮と戯れた後、いつの間にか奥の縁台から室内に戻っている。

ヒューイが目にするのは部屋着に袖を通しただけで腰までの長髪を梳きながら羊皮紙を開げている姿だ。

それが──今日はどうされた事か?

濡れそぼった長い髪がベッタリ張り付き躯の其処此処を隠してはいるものの、胸乳も息づく腹部も…そして肝心の股間も目に入ってしまう。

「今日こそ食堂に行こうね」

「はあ…」

あの後──殿下が開かずの大広間を開いたあと、引き上げる自分達をディジャス様が物凄い勢いで追ってきた。

シェバ様が後宮(セラリオ)に連絡を取っているからしばらく待てという。

「後宮でございますか?」

「そうだ、今湯が沸いているのは後宮の大浴場しかない」

早朝、王妃、寵姫の方々が湯浴みされて朝の身支度を調えられる。

「男が後宮に入れるの?」黙って聞いていたシェラムが尋ねた。

「勿論でございます、王太子様も御自由に出入りされているではございませんか」

「私じゃないよ、ヒューイも入れるのかって…」

「えっ?ヒューイは…」考えてもいない。

大浴場の使用後、衣服と食事が用意されているのは第二王子のみである。

当然であろう…不可解な顔をする兄の小姓にシェラムは釘を刺した。

「ヒューイも一緒じゃなければ入浴はしないし、朝食の招待も受けない。ゼノビア様にそう伝えて!」

「し、しばしお待ちを!」ディジャスは再び走り戻る。

「で、殿下、俺…じゃないわたしはよろしいのです、兵舎の裏で水を被れば…」

「丸一日、必死で付いてきたのに?」

「そ、それは…」

「側を離れるなとシェバから言われてるんじゃないの?」

それとこれとは別だと言いたいのだが、気遣ってくれる主人の心持ちが嬉しくて黙っていた。

結局、特例と言うことで大浴場を使わせて貰い──殿下は一緒に入ろうと誘ってくださったがさすがにそれだけは固辞した。

二人が出た後の泥が沈んだ浴場の掃除はさぞや大変だったろう。

大変と言えば湯浴みの最中に後宮の仕立物専任の侍女が全て集められ、ゼノビアの命令で急遽キトンとチュニックが仕立てられた。

さらに式部長官に一揃えの侍従長の制服を用意させた。

唯一、外部の男性が入れる謁見の間に急遽しつらえた食卓テーブル。

そこに暖かな朝食が次々と並べられた。

ゼノビアは両脇を義理の息子達に挟まれている。

感極まって、食事の途中で何度も涙を拭う。

シェラムはゼノビアから送られた薄紫のキトンの裾を長く引き、上から藍色のチュニックを重ね着していた。

広がるドレープが、テラスから差し込む朝の光を弾いて美しいシルクの光沢を見せる。

シェラムの右隣にはアイーシャが、キトンと同じ菫色の瞳を輝かせて坐っていた。

久方ぶりに逢った青い旦那様と白い旦那様にいいところを見せようと、緊張しながらも教えられた作法通り、しとやかに食事をしている。

「うん、だいぶ覚えたね、食事の作法が様になってきてるよ」マナーを思い出しながら懸命に口に運ぶ様が愛らしい。

「そんなに畏まらなくていいぞ、子供らしく好きに食え」青い旦那様自ら、手づかみで骨付きハムを囓る。

「ダメだよ、ガイ…せっかくアイーシャがやる気になってるのに…」

だが、緊張しながら食事をする童女を見ると、いとおしさが増す。

「じゃあ、食後のデザートは好きにお食べ」アイーシャの口を優しく拭いてやる。

「この調子で宜しくお願いしますね」シェラムはゼノビアに微笑んだ。

「そのことですが…」ゼノビアは小布で口を押さえた。

「殿下はアイーシャを娶るおつもりとか?」

「はい」即答する。

「では、いずれベンダーヤにお連れになるという事ですわね?」遠慮がちに訊く。

「そのような事は決めておりません」これも即答であった。

帰るか帰らぬか…いや、帰れるのか、迎えて貰えるのか…そんな事はわからない。

「しかし…殿下の妻になるということはベンダーヤ皇太子妃となること…となればアキロニアでは、教えきれぬ事も出て参ります…」考え考え言葉を紡ぐ。

「何がいいたんだ、ゼノビア?」ヴァイロンは父の正妻…王妃にも言葉を改めない。

「今年の殿下のお誕生日には使節団が再開されましょう」

「チァンリルとイーデッタが戻って報告しているから、当然来るだろうな」

「その折にアヨドーヤ宮殿からアイーシャの皇太子妃教育ができる女官に同行して頂けないかと…」

「なるほど…」ヴァイロンはちらと弟を見た。

「いい案だと思うが?アヨドーヤにもアイーシャという存在を主張する絶好の機会だ」

「……………」シェラムは無邪気に果実をほおばるアイーシャをじっと見ている。

以前のシェラムなら断固ことわるはずだ…だが…

「この子の事は全てゼノビア様にお任せしたのですから、随意になさってください」

「では…では、よろしいのですね?」ゼノビアの声が歓喜に震える。

まさか、この王子がこれほどすんなりとアヨドーヤからの侍女を受け入れるなど思いも寄らぬ事であった。

「おい、アイーシャ。お前に先生が来るぞ」

青い旦那様はボールで指を洗う童女に笑いかけた。

脇のテーブルでお相伴に預かっていたシェバ達は食事の手を止めて三人のやり取りに聞き入っていた。

「シェバ様…」デジャスが絹の小布(こぎれ)をそっと差し出した。

「ダメだな、朝の騒ぎで涙腺が緩みっぱなしだ」

ユウラ、カルネ、ジニアス…彼らも早朝からの感動が続いている、胸が一杯で食事が喉を通らない。

普段、こういった席で場を盛り上げるホルストでさえも、赤い目をして鼻をすすり上げている。

一日絶食していたヒューイのみが、黙したウィスカの隣で初めて味わう豪華な朝食をかき込んでいた。

中央宮殿の侍従長とお揃いの制服一式を身に纏って──


その制服を慌てて着込んだ。

だが、どうして主人が素っ裸なのかが解せない。

「あの、殿下…お召し物は?」なぜ、今日に限って何も着ないのか?

「だって、兵舎って宮殿の外にあるんでしょ?」

「はあ、城内ではございますがたしかに…」併設されているのだが、外といえば外だ。

「だったら、シルクの服なんて着れないじゃない?」

そういえば、一昨日城外に出るときは、ザモラで着ていた襤褸を纏っていた。

あのベールに至ってはコスの砂漠で拾った物だという。

「もしや、外では宮廷内でのお召し物ではまずいとお思いなので?」

「そうだよ、普段絹物を着ているのは、後宮の女達と私だけじゃないか」

確かにコナン王もヴァイロン王太子も公の席以外は、木綿やなめし革で作られた吸湿性に優れ、身動きのしやすい服を着ている。

正直、一見しただけでは市井(しせい)の庶民と見分けが付かない。

それは従うシェバ達も同様であった。

カルネは黒竜騎士団の、ジニアスはボッソニア軍の軍服を着ているが、鎧や階級章が無ければ年若い一兵士にしか見えない。

ホルストは堅苦しいと軍服すらも嫌う。

ポイタイン軍の軍服を着るのは式典の時のみで、宮廷内でも普段はもっぱらゆったりとした南方の民族衣装を着ていた。

近衛隊の隊服を着ているユウラと小姓の制服のディジャスが一番華美である。

一見して王宮出入りの貴族とわかるのは彼ら二人だけだった。

「ザモラの“大槌亭”の連中に貰ったキトンは泥だらけでボロボロになっちゃったし、ベールはちぎれちゃった…着る物が無いよ」それでもベールだけは捨てずに後宮から持ち帰った。

――その遮光布を被れ――兄と旅だった日、一番始めに見つけた記念品だ。

「はあ…では、至急シェバ様に連絡を」

「シェバって服をたくさん持ってるの?」

「いえ、服屋を呼ぶ許可を頂くのでございます」

「めんどくさ!」父の故国語で吐き捨てる。

「は?」キンメリア語は解らないが、主人の気に染まぬ事を言ったと気づく。

「申し訳御座いません、では、ええっと…市場で購って参りますので、昼過ぎまでお待ち下さいませ」

そんなことしてたら、今日も食堂に行けないじゃない?自分はいいけど、この子はまた食事抜きになってしまう…

「いいよ、自分で取ってくるから。お前は一人で食堂にお行き」辺りに水を滴らせながら、再び池に向かう。

「あ、それではお供を…」追いかけた目の前で、水しぶきを上げて頭から池に飛び込んでしまった。

浮かんでこない…

“取ってくる”って…まさか、この池から?

慌てて今着たばかりの制服を脱ぎ捨てると、腰布一枚の少年は主の後を追って池に入った。

山岳育ちの少年は水泳が苦手だ。

それでも浮かんでこない主人を追って、大きく息を吸い込むと一気に潜った。

張り巡らされた黒睡蓮の地下茎を避けながら潜水すると、隙間からチラリと白い肢体がかいま見えた。

主人の前には鉄柵が…深々と水底の泥に突き刺さった水門があった。

ロードタス川から引かれた運河に設けられた水門には巻き上げる鎖が無かった。

閉まったままの水門――十年前の事件以来、東宮は封鎖されていた…もっとも先日、中央宮殿からつながる門の錠は開いたがシェラムの意志で再び閉じられた。

鉄柵の間は狭く、水棲の獣や大魚の類は進入できない――当然、ここから攻め込める敵もいない。

なのに…

主人はするりと鉄柵を抜けた。

“ええっ?”

大急ぎで、抜き手を掻いて泳ぎ寄る。

城壁の岩と水門の端の鉄杭との間が僅かに広かった。

それでも何とか頭部が突き出る程で、全身は出ない。

“まさか?”

『頭さえ入れば何処にでも進入できる』――関節外しを仕込まれた時にウィスカ隊長に言われた言葉だ。

殿下も関節を外せるのか?――そうとしか思えない…

どちらにしろ、このままでは息が続かない。

右肩の関節を外し、左も同じように外しながら、上半身を抜く。

次ぎに腰骨から股関節を外したり、入れたりを繰り返し、躯を歪ませて何とか全身が鉄柵をすり抜けた。

“息が苦しい!”

肩関節を入れながら一気に浮かび上がる。

朝の太陽を受けて煌めく水面に、ポッカリと浮かび上がった。

大きく呼吸する。

「付いてきたのー?」

不意に前から声がした。

“はい”――と答えようとしたが、息が上がって言葉がでない。

漆黒の髪が川面に広がり、流れにたゆたう。

「向こう岸までかなりあるよ、大丈夫?」幼い頃から川縁に建てられたペリアスの別荘で育ち、海賊上がりの兄に仕込まれたシェラムは余裕で立ち泳ぎをしている。

逆に流されまいと必死で手を掻く侍従長は頷くだけで精一杯だ。

哀れな少年を気遣ってか、ゆっくりと泳ぎ出す。

虹色の黒髪を必死で追う。

股関節が上手く入っていない。

右肩の調子もおかしい。

水中での関節入れは至難の業だ…初めて挑戦したにしてはうまくいった方である。

しかし、手足はいつものように満足に動かなかった。

躯が重い…何度も流されて主人との距離が開く。

泳いでも泳いでも対岸は見えない。

水もしたたかに飲んでいる。

きつい…水面の煌めきに目がくらんだ。

先を行く主人の頭が揺らぐ。

ふっと目の前が暗くなった。

“……………”

肺に空気が送り込まれてくる。

顔の上に…鼻をつままれ、唇が押し当てられていた。

空気はその唇から吹き込まれている。

“殿下…”うっすらと開いた目に主人の上気した横顔が映った。

次の瞬間…「ぐえっ!」

腹が強く押された。

飲み込んだ水を吐き出す。

そんな事が何度か繰り返され――

“殿下が助けてくださったのだ”…ぼんやりとそう思った。

起きようとしても頭が割れるように痛い。

躯に力が入らない。

呻く従者を横目に、シェラムは左の小指を咥え、吸った。

再び唇が塞がれた。

「うえっ」口中に苦い味が広がる。

「吐き出さないで、飲み込みなさい、躯が楽になる」言われるままに必死で嚥下する。

あっという間に頭痛も吐き気が遠のいた――すると躯の下に痛みを感じた。

自分が岩や石のゴロゴロと転がる岸に寝かされているのに気づく。

起きあがる――脱力感は消えていた、関節の違和感もない。

殿下が治してくださったのか?足も右肩も自由に動く。

「ここは?」

「ロードタス川の向こう岸だよ」

前に切り立つ崖がそびえている。

上に城壁が見えた。

「ここは?」ぼやけた頭では同じような質問しかできない。

「エルモダじゃなかったっけ?」それでも主人は質問の意味を汲んで答えてくれた。

確かにそれは首都タランティアと川を挟んで建つ都市の城壁だった。

もっともロードタス川の川幅は広く上流域でも対岸は見えない。

よって中流にあるタランティアとエルモダの城壁は互いに眺めることなど出来ないのだが…

下流から出る渡し船で行き来するしか交通手段はない。

船着き場では大小の船が舳先を並べ、船頭が声高に客引きをしている。

市場に通う商人達だけではない。

首都に点在するいろいろな宗教の…大体はミトラ神だが…寺院に詣でる信心深い貴族の令嬢と従者一行や、タランティアのあか抜けた衣類を買い求める豪商の夫人達の一団、また王立アカデミアに通学する学生達で船着き場はいつもごった返していた。

まだ息の荒い従者は辺りを見回した。

ここは渡し船どころか漁師もこない河岸らしい。

「あの殿下…」

「何?」主人は何かを探すように岩場の影を見て回っている。

「なぜ、このような岩場に?もう少し降れば葦の茂る肥沃な岸辺がございますし、さらに先には繁華な船着き場もございます」

「知ってるよ、向こう岸のペリアス先生の別宅からよく泳いできたもの。まあ十年経っちゃたけど、この上流から合流する地点までならヒューイより詳しいと思うよ」

ならば、主人は何を探しているのか?…雑穀どころか葦も生えない場所に住まう者がいるのだろうか?

流れも急で魚を捕るにも網が仕掛けられないだろう…下流に釣り場を持っている漁師が、わざわざ川を遡ってくるとも思えない。

見上げた崖の途中に浸食された窪みが入っている。

水嵩が増せば、あの線まで…あっという間にこの岩場は川底に沈む。

こんな所に人がいるはずはない…主人は服を得るつもりではなかったのか?

意図がさっぱり読めない。

「ああ、見つけた」背丈ほどもある巨岩の後ろから、その主の声がした。

まだ角の荒い石に足を取られながら近づく――何やら異臭が漂ってきた。

回り込んだ先には――

「うわっ」

水死体が浮かんでいた。

一つや二つではない…沈み掛けたものも入れて八体はある。

シェラムはそのうちまだ、腐敗が進んでいない…といっても腹はガスで膨れてパンパンになっているが…溺死体から衣服を剥ぎ取っていた。

「ここは?」

「お前“ここは?”しか質問出来ないんだね」そう言いながらも、死体から手際よく脱がせていく。

どす黒い紫に変色し、さらに白くふやけた肌にズブズブと指が食い込み、汚臭が立ち上るのを気にも留めない。

「水嵩が増して逃げ遅れたんだろう、この辺りにはこういう死体の寄りつく溜まりがあるんだ」

「そのような屍の…それも異邦人などの服を剥ぎ取らなくとも…」

「何で?ガイだってアイーシャの死んだ母親からローブを剥がして私に着せたよ。背中から刺されてたんで後ろに穴が空いてて…しかも固まった血で、板みたいに強張ってて着づらくて…やっぱり服を剥がす死体は傷が無い方がいいよ」

「王太子様が?」

シェラムは手を止めた。

「抵抗ある?お前の言うように…いや、街で暮らす者達と同じように普通に店で服を購うべきだと思う?」

「それは…」その通りだ。

だが…

“試しておられるのか?従者としてどこまで付き従えるかを…”

「お手伝い致します」

一番近くの死体から、ふやけて脱げそうになっている皮沓を脱がす。

“へえ…”シェラムは少し小首を傾げた。

「ヒューイ、こういう経験あるんだね…」

もう片方を脱がしながら、少年ははっきりと頷いた。

「ラーマン伯爵様に拾われるまで、物乞いと盗みと…こうして死体…といっても戦死した兵士ですが、身ぐるみ剥いで盗賊市の親方に渡し、小銭を貰って生きておりました」

「ふうん…一人で?」

「はい、俺…わたしには殿下のように…親も兄弟もおりません…」

「そう…」侍従長の生い立ち話に興味はなさそうだ。

脱がした麻の貫頭衣(トゥニカ)をザブザブと洗い、絞る。

付着した皮膚や肉片は落ちたがこびり付いた腐敗臭までは取れない。

吐きそうに臭いのだが、気にもせず濡れたまま被る。

「こんなもんかな?ね、男物って初めて着るんだけど、どう似合う?」

「はあ?あの殿下はずっとあのようなキトンを召されていたのですか?」漂ってくる悪臭に思わず顔を背ける。

「ん〜、どうなのかな?八歳まではガイのお下がりだったから…子供服でも男物ってあるのかな」

「お下がり…あの…それは古着という事で?」

「うん、私はガイに憧れていたから“ここまで背が伸びたら、その服を頂戴”と強引に譲って貰っていたから…でも何とか着れるようになると横がブカブカで、ちっとも格好良くなくて…で、また今度は“今着てるのが欲しい”と言ってまたねだるんだ」

「お小さい頃から王太子様と仲がよろしかったんですね」

「うん…で、ペリアス先生の所に引き取られてからは、もっぱらローブ…先生とおそろいの…一応魔道士だからさ、それらしい服装をしていた。先生の所を出た日から服は着なくなった」

「一日中裸で…?」だったら朝の水浴時にしか裸にならないだけ、今はマシなのかもしれない。

「そうだよ、コーシェミッシュにガイやユウラが来た時も、私は全裸で迎えたんだもの」

会話しながらもシェラムの手は女の…いやグズグズと崩れて性別すら定かでないが…遺体から色とりどりの紐で編まれた腰紐(ベルト)を取った。

「これで腰を縛れば、腰布を穿かなくても分からないよね」

「いえ、それは…穿かれた方がよろしいかと…」本当に目のやり場に困るのだ。

戦場で命のやり取りをする兵士達は少年でも先輩の手ほどきと斡旋で“おんな”を知っている。

いわば大人として認めたという証である。

はなむけとして、初体験の花代は先輩兵士が出し合うのが習わしとなっている。

だが、ヒューイはこれを頑なに拒んできた。

実際に娼館まで、連れて行かれた事は何度もあった。

全て不首尾に終わった。

酒に酔って寝てしまうか、女が湯浴みをし化粧を整えている間に逃げ出してしまう。

部隊でも噂になり、とうとう隊長であるウィスカが、タランティアでも一、二を争う評判の娼婦を自腹で買い、ヒューイにあてがった。

美貌だけではなく、歌舞音曲に優れ、気だても良く、何より躯と床技が絶品──の女からの誘いもはねのけて、兵舎に戻ってきてしまった。

あいつは不能なんじゃないか──いや、女は駄目なのかもしれんぞ──それ以降ヒューイの童貞破りに荷担する者はいなくなった。

少年はむせかえる脂粉に…けばけばしい灯火の元で微笑む女の顔に…身をくねらせて誘う肢体に…“母”を見ていた。

勿論、生まれてすぐに死んだ母親をはっきりと覚えているわけではない。

しかし自分を育ててくれた同業者達の生業が“母”と重なり思い出として記憶されていた。

“あんたの母親は酒場の酌婦だったんだって”

“でも、お前を孕んだから故郷を追われたのよ”

“何人もの客から手籠めにされてね…でも世間から後ろ指を指されるのが怖くて酒場の主人は知らんぷりして放逐したのさ”

“姦淫すれば地獄に堕ちると説く神官が怖くて、堕胎もできなくて…誰も助けてくれないし…”

“ふしだらな女だと蔑まれ、親兄弟にも見放され、さすらい続けて身重の躯でここへ流れ着いたんだ”

“あたしらの仲間になって、兵士に躯を売りながら、戦場であんたを産んだんだよ”

“雨のように降ってくる矢からあんたを守って…躯で庇って死んだのさ”

“だから、お前はあたし達みんなの子なんだよ”

そう言って養い育ててくれた娼婦達は、ヒューイが一人立ちする頃には誰も残っていなかった。

戦場慰安婦…ただの娼婦ではない。

それぞれ事情を抱え、国を追われた女達は、街頭に立って客をひく事もできない。

戦場だけが、流れ者となった彼女たちの最後の稼ぎ場所だった。

敵も味方もない…高く買ってくれた兵士の天幕で一夜を共にする。

だが戦が始まれば、どちらの兵士も守ってくれない──まさに命掛けの商売だった。

女達の涙も怒りも…恨み辛みの全てを知っている。

そして命乞いしながら、のたうち回り死んでいく断末魔の絶叫も…

ヒューイにとって“娼婦”は全て“母”であった。

性愛について、そんなトラウマを抱えた少年でさえシェラムの美貌と艶めかしさに幾度となく欲情を覚えた。

なんと不敬な!──勃ちかけた男根に狼狽し、己を戒める。

…だが…熱に浮かされた視線を送るのは自分だけではない。

事実、昨日の後宮でも並み居る侍女や女官達は勿論のこと、ミトラ神殿の巫女となるべく集められた地方貴族の息女という、異性を間近で見たこともない処女姫達までが、頬を染め、胸に手を当て、潤んだ瞳を向けていた。

シェラム殿下はご自分の容姿に気付いて…いや、周りの人々の視線に、反応に…気付いておられないのだろうか?

大地母神イシュタルの権化の如くに噂されているが、その眼差しに満ちているのは慈愛だけではない。

豊穣の女神として生殖を司る力――性愛の魅力に溢れている。

いや、そんな上品なものではない。

どうした弾みか一瞬で淫蕩な雰囲気に変わる…“ヒューイ”と名を呼ばれるだけで、その艶めく声にどぎまぎしてしまう。

ただ立っておられるだけで媚態に思える…際どい色気を湛える視線に蠱惑される…股間が硬くなり、口中が干涸らびる。

羞恥心が欠落した主人…高貴な方は生まれた時から、沐浴の世話から排泄の後始末まで召使いが行うと聞いた事がある。

だが、そういう育ちをしたにしては、第二王子は身の回りの事は全て自分で為した。

寝台の始末から、部屋の清掃まで…書物の所在が分からなくなるからと言ってヒューイに触らせない。

衣服も――こうやって自分で調達しようとなさる。

わからない方だ…それでも葦原で大泣きされてから親近感は増している。

「こういう紐、もう少しないかな」その親近感が増したはずの主人は、沈んでいる死体まで引きずり上げている。

“やはりこの方は魔道士なのだ…”そう実感する。

幼い頃から戦場(いくさば)荒らしをしていた。

特殊部隊の隊員として戦場での経験を積んでいる。

殺した敵兵の数は覚えていない程だし、戦場に重なり合う死体も見慣れている。

それでも、腐りかけた溺死体から身ぐるみを剥ぐという行為は異常に思えた。

シェラムの手に極彩色の組紐が三本握られている。

それを見るヒューイの顔が曇った。

「あの…殿下、その紐は…」意を決して進言する。

「その紐は彼ら民族の…特有の衣装で御座います。代々母から娘へと伝えられた…」

「うん、そうみたいだね。物凄く念が濃い…こういうのが欲しかったんだよ」

「は?」

「敗れたオレンジの遮光布をこの紐を解いて繕おうかと思って…あのベールもかなり念が籠もった代物なんだ、丁度いいでしょ?」

「それを奪われれば、彼らの出自を明かすモノが…民族から完全に離れてしまいます」

「もう死んでるって。それに民族から離れたから、ここまで流れてきたんじゃないの?」

「好きで離れたとは思えません!」

「……………」一瞬、シェラムの目が…左眼の奥がキラリと光った気がした。

「あ、ご無礼を…」どうしたというのだろう?この主人の前では簡単に自分がさらけ出せてしまう…欲情も怒りも戸惑いも…

「お前も異民族だよね、ヒューイ?」

「…はい…もし俺が王宮からのお召しでなく、故郷を捨てたあげく流離って辿り着いたのなら、彼らと同じ異邦人として城壁の外に追いやられ、物乞いをしながら彷徨い、小さな嵐にも逃げ場はなく、水嵩の増した川で溺れ死ぬのです」少年は激したまま堰を切ったように話した。

「異民族に厳しいのはガイの政策だと思う。父上は誰にでも…それこそ奴隷や盗賊にもすこぶる寛大な方だ」

「はい、存じております。ですから俺は王太子様は恐ろしい方だと…情け容赦無い方だと思っておりました」

「コナン王はよく言えば寛大…悪く言えばツメが甘い。その甘さが原因で、起きなくてもよい戦いが繰り返され犠牲者を出した。アキロニアの領土は拡大し続けている、領民の数も増大する一方だ。さらにポイタイン、ボッソニア、ガンデルランド、トーランといった領国の異民族だけでも大変な数になる。その全てを統治せねばならない…ガイは冷酷な為政者に徹する覚悟をしたんだ」

そうだったのか──でも西の辺境地帯には未だにアキロニアに敵対する部族もいる。

自分と同じボッソニア人だ──彼らはアキロニアの国境警備隊に攻めたてられ不毛の荒野に追いやられたあげく、凶暴野蛮な原住民(ピクト)と争い互いに滅びていく。

複雑だった──ピクトが滅びた土地に入植してくるのはアキロニア人か、その傘下に入ったボッソニア人…つまり自分のような奴らだ。

でも、領主のラーマン伯爵様はボッソニア人とアキロニア人を分け隔てなさらなかっし、逆にウィスカ隊長のように能力に優れた人材を育成し、私財を掛けてタランティアに派遣された。

自分が今あるのも伯爵様やジニアス様のお陰だ。

そのジニアス様やウィスカ隊長が忠誠を誓う王太子殿下──タランティアに招聘されてから、故郷で抱いていた畏怖と微かな憎悪が揺らいでいたのは事実だ。

この十日の間に起きた出来事で、それは完全に払拭された。

「シェバ様やジニアス様と共に居られる王太子様を見て俺は…あんなに気さくで優しい方だとは」今はウィスカ隊長と同じく命を賭けてお仕えしようと思っている。

「ガイは仲間には優しい。ボッソニアの民も、ガンデルランドの民もガイに従うならば、自分の庇護すべき領民としてアキロニア人と変わりなく護りぬくだろう。その代わり逆らう部族や裏切る者は例えアキロニア自国民であっても許さない。見せしめを兼ねて惨殺する…皆が畏れる冷徹な王太子として」各省庁から拝借してきた機密文書には近年、公布された条令が網羅されていた。

そして、各地で起こった争乱、事変とその処理がいかに為されたかという記録も…

兄が施した政策の全てを読んだ。

“みんな十年、よくぞ兄に仕えてくれた…礼を言います”昨日、開かずの間で頭を下げた――心からの行為だった。

冷酷非情、人格が急変した次期国王にみな黙って付き従ってくれた。

十年という長い年月の間、鬱積した思いの丈を吐き出すこともなく大きくなるジレンマを抱え、それぞれに悩み苦しんだ事だろう…

――ヒューイのいい兄貴になるんだぞ――

わかってるよ、ガイ…この唯一の側近に、そんな途方もない我慢を課す気は無かった。

「私も異民族だよ」

「あ…?」それは、そうだ…一目で東洋の血を引いているとわかる。

「確かに政策で異邦人はタランティアに入れない…だから川を渡って此処まで来た。ならば、そのままエルモダで生計を立てればいいではないか?言葉が不自由なら奴隷に身を売り、食と寝床を確保してから言語を覚えればよい。父上は奴隷の家畜扱いを禁じている。アキロニアの奴隷は他国の者とは待遇が違う、働くうちに手に職もつくだろう。それなのにこの者達は船着き場で物乞いをしていた。当然役人に追われる…だがこの岩場までは監視の目が届かない。だから危険とわかっていてもこの川岸に寝起きし、船着き場に通っていた。この者達は死すべくして死んだのだ」

「彼らを御存知だったのですか?」

シェラムは頷いた。

もしかしたら毎朝、黒睡蓮の池からここへ通っていたのかもしれない…彼らが生きている間に。

言葉が通じぬ彼らの元を毎日訪れ、此処を離れるよう説得されたのかも…だからこれ程内情に詳しいのだ。

こちらの意が通じる事無く最悪の…しかし予想していた通りの結果となってしまった。

その悔恨と怒りが人知の及ばぬ魔道士を、誰が見ても驚愕するであろうこの異常な行動に走らせていたとしたら…

「お前も、ウィスカをはじめボッソニアの兵達も慣れないアキロニアで立派に生きている。傭兵だけではない、アキロニアはやって来る異民族にあらゆる職を提供しているではないか?定住できない者は再びアキロニアを離れればよい。この者達はどの道も拒み乞食となった…弔う者とて無い道を選んだ」

「乞食しかできない者もおります」躯を売るしかできない女がいたように…

「物乞いが悪いと責めているのではない。その選択をしたのは自分だ。そしてこの危険な岩場での暮らしを選んだのも…」

「だから死んでも仕方がないと?葬ってもやらず死体から民族衣装を剥いでも構わないというのですか?」

少年の目に涙が浮かんだ。

「…私は魔道士だ。少しでも念や気の籠もったモノが欲しい。更にこうして哀れな異国の乞食達の…死しても彷徨っている霊体を吸い取っている。そしてもう一つ…私は冷酷非情な王太子の弟だ」

彼らへの怒りが激情となってシェラムの裡を突き動かした。

自ら秘め事を明かしていく。

只の秘密ではない…心の奥深く封印した忌み事だ。

「お前が娼婦から生まれた誰ともわからぬ男の子供であるように、わたしも自分の血の根源がわからない」

コナンの息子でありたいと願う…ガイの弟でいたいと…

ヒューイの顔が険しくなった。

「俺の出自が書かれたモノを読まれたのですね?」

「いや、違う…」シェラムは濡れた髪を奪った紐で縛った。

「お前の書類には確かに目を通した。だが出自については辺境領のラーマン伯爵の手元で育ったとしか記されていなかった。大体出生の秘密をラーマンもジニアスも知っているのか?」

「あ…?…」そうだ、誰にも明かした事はない。

――“シェラム殿下の生い立ちはお前のそれに少し似ておられるのだそうな…”――

唯一人、親とも慕うウィスカにだけは…いつも露営の合間に隊員同士で交わされる家族や故郷の話に入れずに、そっとその場を離れていた自分を気遣い後を追ってきた隊長にだけは、生い立ちを打ち明けた。

もっとも涙と嗚咽でまともな会話にはならなかったと思うのだが…

――“決して口外するな…今までどおり苦しくとも胸の内に秘めておけ”――全てを聞いた後、そう言った隊長が例え王弟殿下の誰何であっても打ち明けるとは思えない。

「お前の後ろに幾人もの女達がいる…皆お前を頼むと手を合わせている…真ん中で泣いている女はお前にそっくりだ、彼女が最も強くお前の心の裡を…脳裏に浮かぶ過去の情景を伝えてくる」

「ええ?」後ろに?それはどういう意味なのか…

「いま、お前は心おきなく本心を吐露できたろう?ずっと胸の底にしまっていたボッソニアへの思いを、アキロニアへのわだかまりを…異邦人への同情を…彼女達が聞いてやって欲しいと願ってきたから、お前の理性を弛めた」

「そんなことが…」できるのか?

「彼女たちは、このままではお前に嫁がこないと案じているぞ、心当たりがあるだろう?」シェラムがフッと笑った。

「まあ、私に欲情しても構まないが、今のお前では私の交合の相手は到底無理だ」

「で、殿下!俺はそのような…」当の本人から図星され、ヒューイの声は悲鳴に近い。

「焦らなくとも時間が解決する…わたしはさっきからそう説いているのだが、お前の母はなかなか納得してくれない」

「殿下!」耳まで真っ赤になって狼狽する少年を見て、亡き母親と会話する魔道士はもう一度笑った。

「思った事は我慢しないでいつでも言いなさい。例えば使い魔が怖くて眠れないとか、お腹が減ったとか、泳ぎが得意でないとか…小さな事、たわいない話でも構わない。お互い隠し立てはよそう。私はお前に全てをさらす…魔道士として妖魔を操る事も、霊魂と会話できる事も、こうやって死体から念の入ったモノを奪い呪物として使う事も、彷徨っている死霊を取り込み“喰”としている事も。お前も今のように心にわだかまるものを全て吐き出すように。わかったね?」

「殿下…」頬に涙が伝っていた。

「昨日、私は立派な侍従長となるよう命じた、私が不在の折は東宮の全てを委ねると言った…お前は命に代えても守ると約してくれた」ゆっくりと女神(イシュタル)と讃えられた慈愛の微笑みが近づいてきた。

「では、どこまでも私を信じてついてきなさい…私の命に従いなさい、如何なる事が起きようとも…」

左眼の奥が――ヒタッと視線を据えられ身の裡が震えた。

「私達の間には秘め事も我慢も必要ない…いいね」背中に腕が回され…

「そして…決して私を裏切るな」強く抱きしめられた。


穀物や野菜の麻袋が船底に積まれている。

その横に同じような泥だらけの麻袋が二つ放置されている。

これも上に積めば、場所が空く――手を伸ばした乗客達が慌ててとび下がった。

麻袋には違いないが、中身は人間…袋を切り裂き頭からフードのように被っているのだ。

船着き場周辺には穴が空いて使い物にならなくなった麻袋が捨てられている。

それを拾ったのだろう。

髪の長い…女だろうか?異臭を放つ者は、鼻を覆って足早に通り過ぎる客達の嫌悪の視線も気にせずに編まれた紐を解いている。

隣で言葉もなく蹲っている少年は弟だろうか…

一目で異邦人とわかる二人を、渡し守は黙って船に乗せてくれた。

ただし船が着くまで船底から出てはならない――と命じられたのだが…

異邦人でも奴隷でも差別しない、金さえ持ってくれば分け隔てなく乗船できる――コナン王の命令である。

もっともその船賃をどうして得たのか…蹲る少年は未だに釈然としないのだが…

サータに跨って川を渡ろうと誘われたが、それだけは嫌だと訴えた。

幼い頃からラーマン伯爵の館に仕える古老に蛇神セトの暗黒神話を繰り返し聞かされて育った。

太古に滅びし世界で祀られていたという蛇神セト…その邪悪な伝説は今も現実の恐怖を伴って語り継がれている。

サータとはセトの眷属なのだ。

あのザモラ国境で、谷底いっぱいに身をくねらせ鎌首を擡げていた大蛇の姿が記憶に甦る。

“蛇に乗るくらいなら木切れにでも捕まって何日かかっても泳いで戻る”…とまで言うのでこの案は撤回した。

何事も我慢するなと言ったばかり…“そんなにセト神って怖いかな?”物わかりのいい主人ではないが、そうまで抗されては仕方がない。

最初は船頭に術で目眩ましをかけて無賃乗船しようと思ったのだが、なにせこの格好である。

自分は追放された異邦人にしか見えないだろうし、連れは腰布一枚――他の客に詮索されてはやっかいだ。

黒睡蓮の粉でもあれば別だが、全ての客に術を掛けて回るのも面倒だ。

ではこの衣服を頂戴した者達に倣い、乞食をしよう…蛮人として流離っていたコナンやヴァイロンならば、裕福そうな奴から腕尽くで奪う…いや期限無しで借りるのだろうが、この次男にはそういった経験は無いから“恐喝”という考えは浮かばない。

落ちていた麻袋を被り、髪をわざとぐしゃぐしゃに乱す。

死臭が染み込んだトゥニカが人混みをかき分けると皆、顔を背けて行き過ぎる。

立派な身なりの婦人に金を恵んで貰おうと近づくと悲鳴を上げて逃げてしまった。

ふーん、物乞いも楽じゃないな…金を稼いだことの無い王子様は敗因が自分の服から立ち上る悪臭にあるとは気づかない。

荷馬車置き場が目についた。

馬を繋ぐ金具が照りつける陽に鈍く光っている。

“ヒューイを待たせてることだし、手っ取り早くいこうかな…”

幸い辺りに人影は無い…次々に金具を外して回る。

手のひら一杯の鉄輪――それが陽の光に揺らめくと…一瞬で小さな銅貨に変わった。

“船賃っていくらだっけ?まあ十枚あったら足りるだろう”

ヒューイは船底を上にして陸に上げられた小舟の脇に隠れていた。

“お金を恵んでくださいって言えばいいんでしょ?”あっけらかんとした主人を侍従長として一応は止めたのだが、蛇に跨って川を渡るのだけは絶対に嫌だったので、強く言えなかった…

我慢をするなの、信じろのと言われたばかりだが、やはりシェラム様は度し難い…野菜くずの浮かぶ川面を見ながら溜息をつく。

それにしても物乞いなんてあの方にできるのだろうか?案ずる侍従長の前に、あっさりと二人分の船賃を持って戻ってきた。

「こんなモンで足りる?」

「十分でございます…」あっという間に銅貨が十枚…唖然として乞食姿の主を見る。

「じゃ、行こうか」砕けた口調に変わった主人に戸惑いながら後に従う。

――そんなやり取りがあって、無事に乗船できた。

船頭にすれば、異邦人がタランティアに入ればすぐに捕まって、またこちら側に戻される事は百も承知だったが、黙って船賃を受け取った。

それはヒューイもわかっている。

タランティアに着いたら、警邏兵の目を盗んで宮廷まで…ってどうやって?

宮殿に近づけば近づくほど警備は厳重になる。

「あ、あの殿下…」

「しっ…殿下って呼んじゃだめだよ。ほら、異邦人に興味津々で聞き耳立ててるんだから」

!――そういえば、遠巻きにしているが…滅多に接する事のない異邦人というか乞食に好奇の目を向けている。

船内でこの調子なら首都の城壁を潜れば、どうなるか?――周り中人だかりになるだろう。

で、警邏隊に通報されて捕縛される。

勿論、捕縛されても審査官による身分照会や本人の申告があってからの強制退去となるから、その間に身分は知れようが…

逆だ!第二王子とわかれば大騒動になる!

何としても捕縛を阻止しなければ…穏便に東宮へ帰り着かねばならない。

ああ、服を調達に出ただけで、どうしてこんな大事(おおごと)になってしまうんだろう…

シェバが頭を抱え、ウィスカが平謝りする様が頭に浮かぶ。

いや、人前で捕縛されれば、うやむやにできない…そんな程度では済まない。

「あの…もうすぐタランティアに到着致します…」

「うん…ああ、もう昼近いね、兵舎の食堂って昼もあるの?私はさっきアレを喰べちゃったからいいけど、お前はまたご飯抜きだね」岩陰に彷徨っていた水死体の死霊はサータと山分けにして全部吸い取ってしまった。

「城内に入れば、すぐに異邦人狩りにあいます、どうやって東宮に戻られるおつもりですか?」何を暢気な!食事なんてもう、どうでもいい…

「見つからなければいいじゃない」再びあっけらかんと言い放つ。

「それは、その…魔法かなにかでございますか?」まさかサータを?そんなことをすれば死人、怪我人で船着き場は大混乱になる。

「嫌だよ、公衆の面前で使い魔呼ぶなんて、みっともない」紐を解く手は休めない。

「はあ…」少し安心する。

「怖がられちゃうじゃない?只でさえ、生き返ったの魔道士になったのって国中で噂になってるのに」

よく…御存知だ…

「知ってる?言うこと聞かない子供にね“シェラム殿下が城から攫いに来るぞ”って脅かすんだって。失礼だよね、子供攫うなんて、もう何年前の話さ、とっくに止めたんだから!」

それは…攫った経験があるということか?

「黒睡蓮の粉も、忘我樹(ユーバス)の花粉も無いから大勢を相手にはできないし、第一この格好で“魔道士です”ってやってみなよ、大騒動になるよ。全く魔道士ってだけで勝手に怖がって騒ぎ立てるんだから迷惑な話だよ」

シェラムのアキロニア語は女性的な抑揚で、上品な宮廷言葉そのものだった――しかし興奮するとヴァイロンに感化された下卑た口調が交じる。

「お前の後をついていくから、頼むね」

「え?」

「特殊部隊なんでしょ?自慢してたじゃない、人を巻くのや極秘に侵入するのが得意だって。お前の得意技を駆使して民衆の目をかすめ、警邏隊に見つからないで兵舎に辿り着けばいいんだよ。ボッソニア軍の兵舎に行けばお前の身分は保証されるでしょ?そしたらご飯食べてから堂々と宮廷に戻ればいいじゃない?」

確かに…それなら宮殿城壁を十重二十重に取り巻く警備兵と争う事はない――当然、シェバからの叱責はあるだろうが…

大変な事を押しつけられ…いや、任された。

特殊部隊から派遣された従者として失敗は許されない。

思わず武者震いする。

「それでは…」と少年は顔を寄せた。


関節を外し鉄格子を抜けた。

東宮の水門の鉄柵よりいくらか幅が広い、あそこを抜けられたのだから殿下も大丈夫だろう。

後ろを振り返る――ええっ?

シェラムの躯が歪んでいる。

骨が溶けたように、ぐにゃりと…そのままズルズルと格子から這い出してきた。

蛇!――少年の躯が総毛だった。

こういう主人の姿を見せつけられると、何処までも従うと忠誠を誓った身でありながら悲鳴を上げて逃げ出したくなる。

ヒューイの先導で辿り着いたのはタランティア市街からロードタス川に放流する下水の排水口だった。

荷を降ろすために船底の板戸が開いた時、積まれた麻袋の蔭に身を潜めていた二人は開閉用の縄を伝って船外に出た。

一旦は川に沈み、潜水したまま人目の無い所まで城壁づたいに移動する。

そして頭から流れ落ちてくる汚水に逆らい、べったりと付着した汚物に指を滑らせながら、なんとか排水口の下までよじ登った。

膝まで汚水に浸かりながら暗渠の壁づたいに手探りで進む。

間で幾つも枝分かれしているが、ヒューイに迷っている気配は無い。

“凄いな…まるで地下迷路じゃないか…”後に続くシェラムの目は漆黒の闇の中ではっきりと前を行く従者の背中を捕らえていた。

先に立つヒューイは悲惨だった。

耳も澄ませていないと…規則的に空いた天井の穴から汚水が降ってくる。

なんで、こんな目に…自分で立てた帰宮計画だったが、あまりの悪臭に何度か吐いた。

勿論朝から絶食状態で胃の中に何もないので、すぐに胃痛がしてきた。

訓練で夜目が利く――最初は暗黒の闇も気にならなかったが、腐敗発酵したガスが目を刺して涙が止まらなくなった。

そのぼんやりした目で天井の穴を確認する。

あ――大きな下水管が見えた。

タランティア宮殿の真下に到着した…ほっと息を吐く。

後ろの人影に向かって天井を指した。

滑る石積みの隙間に指を入れ、天井に這い上がる…そのまま太い下水管に躯を滑り込ませた。

指を掛けては上に上がる…を繰り返し、幸いにも上から汚水が流れ込まない内に汚水槽に這い出せた。

石段を上がって上に被さっている鉄格子を押し上げた。

周りで豚の鳴き声がする。

タランティア宮殿の外れにある家畜小屋だった。

見知った場所に出た――助かった…脱力して敷き藁に倒れ込んだ。

「ヒューイ、この蓋戻すよ」後ろから声がした。

ああ!しまった殿下の事を忘れていた!

「ここどこ?」板戸から洩れる光に辺りを見回す主人が見えた。

もう声を出すのもおっくうだ…

蛇のような御方だから、下水管を這い登るなんて朝飯前なのかもしれないな…

一気に気が緩み、疲労と安堵から泥のような眠りに落ちていった。


苦労して穏便に帰宮したつもりだったのだが、結局大騒ぎになった。

家畜小屋の井戸で頭から水を被っているところを城内警備の兵士に見とがめられた。

兵の中にザモラ遠征に加わった者がいた。

当然イシュタルの歓声を送った第二王子を見知っている――いや、そんなレベルではない。

その美貌から受けた強烈なインパクトで“シェラム殿下の容姿”が頭から離れなかった。

降って湧いた騒動が中央宮殿を駆け抜け、王太子宮にもたらされるまで、幾ばくの時間も要しなかった。

予想通り頭を抱えるシェバと、ひたすら部下への寛大な処置を乞うウィスカ…そして笑いをかみ殺す王太子の前に二人は立っていた。

二人の周りには鼻から下をスカーフで覆い、それでも漂ってくる強烈な悪臭に顔を背けながら小姓のディジャスが香油を撒いている。

「おい、ジャス…匂いが混ざってかえって気持ちが悪い…もう止せよ」鼻をつまみながらフガフガとホルストが文句を言う。

「では、どうしろと?」ディジャスの声は悲鳴に近い。

「このままでは部屋中に匂いが染み込んでしまいますよっ」

あんなに苦労して手に入れた服はとっくに脱がされてしまった。

それでも髪から肌から…もう躯全体から悪臭が染み出してくる。

「あの…シェバ、ヒューイを処罰なんてしないよね?この子はただ私に従っただけなんだから…」歩み寄ろうと一歩踏み出す。

「どうか!どうか…そのまま…動かないで頂きたい…」普段は冷静沈着な軍師の狼狽に、ついに王太子は机に突っ伏して大笑いした。

まあ、砂漠で拾った女児の助太刀で邸宅一つを丸々破壊した上、ザモラ軍と開戦するような大事(おおごと)にしてしまう奴なのだから服一枚でも、これくらいの騒動になるのは当然かもしれない…昨日やけに大人びた事を言い出して、一皮むけたかと思ったが、本質はちっとも変わっていない――それが兄には無性に嬉しかった。

疫病神の面目躍如である。

「ヒューイは東宮の…シェラム様の管轄下におりますから、こちらに裁可を下す権はございません」鼻を小布で覆いながら王太子宮の総帥は後ずさりした。

「その代わり、当分東宮からの外出はご遠慮願います」これ以上、悪臭をばらまかれては堪らない。

「ええっ、明日こそ食堂に行こうと思っていたのに…」

「…………朝夕の食事は届けさせます」論点がズレている、いやこの方はモノの考え方自体がおかしいのだ。

昨日の今日である――第二王子が帰国されて半月も経っていないというのに、後から後から事件が起きる――いや起こす!

ペリアス殿は一体どういう教育を施されたのか…思わず行方知れずとなった大魔道士を非難する。

「あの服捨ててないよね?」

「匂いが抜けるまで洗うよう申しつけてあります。ああ、ヒューイお前の腰布は捨てるぞ」軍師は隣で涙を流しながら笑い続ける主人を睨んだ。

「はい…」顔を真っ赤にした侍従長は、下を向いたままだ。

ジニアスから借りたガウンを握りしめて項垂れた少年が処罰どころか、実は“被害者”であると皆知っている。

「ガイ、これくれる?」シェラムが着ているのは兄のガウンだ。

「返すと言っても断る」一応シルクだ、匂いが抜けるまで洗えば縮んでしまう。

「じゃあ、服が戻ってきたら食堂に行こうね、ヒューイ」

「はあ…」答えるのも辛い…“もう食堂なんて忘れてください”本当は大声で怒鳴りたい。

「なんで食堂に興味があるんだ?」王太子は弟の“人とは異なる感性”に興味がある。

「人が食べるところを見たい」悪臭の塊がこちらにやって来る…

ホルストは悲鳴を上げて部屋の隅に逃げた。

シェバもユウラも、ジニアス、カルネ…先を争って開け放った露台(バルコニー)に殺到する。

「ふうん、それなら昨日の朝だって後宮でみんなで食事したじゃねえか?」キンメリア語で気さくに話す蛮人の兄は、これくらいの悪臭など気にも留めない。

「昨日は十人もいないじゃない?食べてる人間より給仕の方が多いし周りに楽士までいるし…あんなのじゃないんだよ!あのね、食堂って食事するためだけにあるんだよ、大槌亭みたいに酒も出ないし女達もいないんだって。何百人も一遍に食べるなんて凄くない?入りきらない兵士が食器を持って席が空くのを待ってるんだって…そう言ったよね、ヒューイ?」いきなりアキロニア語で尋ねられ、慌てて頷く少年は何とも哀れである。

「それが見たいのか?」カニリアの尖塔やコーシェミッシュの竪穴で社会から隔絶して生きていた弟には、魔道士となった事で決別した“人間の食事”に何か惹かれるモノがあるのだろう。

「あのさ、エキドナって覚えてる?」キンメリア語の会話が弾む。

「ああ…」褐色の肌の――

「お前の第一号の信者だな」

“信者じゃないんだけど…それに契約者の第一号はアイーシャだし…まあ祈願成就させたのはエキドナが先だからそういう事になるのかな”反論するのも面倒なので…というより兄に逆らうのが嫌で訂正しない。

「エキドナが小さな飯屋を始めたんだって…大槌亭を去る時、大親分から聞いていたんだけど結局訪ねてやれなかった…」

気にしていたのか――そうか自分なりに飯屋のイメージに一番近いモノが兵舎の食堂だった訳だ。

それなら一昨日、色街に出たんだから飯屋なんていくらでも覗けたろうに…

「お前、やっぱり変わってるな!」再び笑い声で王太子は自分のガウンを引きずった悪臭の塊を抱きしめた。

「殿下、そろそろグレットの謁見の時間でございますが…」スカーフのままディジャスが声を掛けた。

「ああ、そうだったな。大体話の中身は想像がつくんだが…」

王太子は露台(バルコニー)に逃げた側近達に振り向いた。

「ユウラ、コーシェミッシュで別れる時に“グレットに例のオフルの女とさっさと結婚していいと伝えろ”と言っただろう?」

「伝えました!」露台から大声で怒鳴る。

「それでも殿下が戻られるまで待つと申しまして…それに公女の籍の問題も有りましたから!」

「ああ?どうもあそこからじゃ話が遠いな」ヴァイロンは眉を寄せる。

「私、そんなに臭い?」腕の中でガウン一枚の弟が髪を掬って鼻に近づけた。

「…まあ、臭いな…」既に匂いが移っているであろう兄は苦笑する。

「じゃあ、みんなに悪いから帰るね」逃げ遅れた…いや一番近くにいたホルストがほっとした顔を見せた。

「そうか…」その唇にシェラムの唇が重なった。

「ひえ…」真正面にいたディジャスがスカーフの下からくぐもった悲鳴を上げた。

ヒューイと、その隣にいたウィスカは呆然と凝視している。

逆にホルストは目を瞑った。

挨拶代わりのキスではない――舌を絡めて吸って……クチュクチュと微かな音が…

あでやかな吐息を漏らすシェラムの唇から一筋滴るものが、露台から差し込む柔らかな光を弾いている。

周りの動揺を尻目に二人は抱き合ったまま長い接吻を交わした。

「ねえ、息も臭い?」ほんの少し唇を離し弟は上目遣いで兄を見る。

「うん…」あっさりと肯定する。

「じゃあ、匂いが消えるまで外に出たら拙いね」――さっきからシェバが散々そう言っている。

「ヒューイ、いつまでウィスカに甘えてるの?帰るよ!」身を翻した王弟殿下に固まっていたディジャスとウィスカが慌てて礼をする。

ガウンの裾が捲れ、白い肢体が剥き出しになるのも気にせずに大股で部屋から出ていくシェラムの後を、しっかりとガウンを押さえたヒューイが追う。

「なあ、ウィスカ…どう思うあの主従?」二人の後ろ姿を面白そうにヴァイロンが見送る。

「まだまだ…これからでございましょうな…」厳格な西方育ちの戦士は眼前で繰り広げられた男同士の…いや血を分けた兄弟の濃厚な抱擁を直視した衝撃から立ち直っていない――唇を拭う主人から目を反らしながら掠れた声で答えた。

「うん、先が楽しみだ」その時になって硬直した側近達に、やっと気が付いた。

「なんだ、お前ら…シェーラの毒気に当てられたのか?」


王立アカデミアでアテミデス学長が自ら育成した精鋭達――各分野に渡る専門の学者集団はまさにアキロニアのシンクタンクであった。

王立アカデミア設立に際し、出資者コナンは“学舎の門を叩く者達を人種や身分で隔てる事はするな”という唯一つの要望を出した。

学ぶに見合う学力と特技があれば――つまり入学試験に合格さえすれば皆学生となる。

年一回の選考時にはきらびやかな衣装を纏う者から、鎧の下に鎖帷子だけを着込んだ者、一見して砂漠から来たとわかるズアジル族の若者や、手足に枷の痕が残る奴隷とおぼしき青年まで――コナンの意志どおり、ありとあらゆる人種の坩堝と化しアカデミア構内はごった返す。

もっとも入試に合格するには学識、教養、希望する分野の専門知識も必須であったから当然合格できるのは中央や地方の貴族、軍の指揮官クラスの関係者、それに豪商の子息といった勉学のできる環境に育った者達が殆どだ。

それでも稀に瞬時の選考であるにもかかわらず、その才をかいま見せる者がいて、それはアテミデスの権限で特待生として合格になった。

金の無い者には奨学金が支給され、学生はすべからく親元を離れて寄宿舎で寮生活をする事が義務づけられていた。

従者に傅かれて育った者も、傅く側であった者も皆身の回りの事は自ら為して、定められた規則の中で、同じ飲食を分け合い勉学に勤しむ。

こうして変わることの無い学則の中、創立から二十年余を迎え排出した卒業生はアキロニアを中心に各国に散らばった。

身分や民族を超えた友情が育まれ、開化の嵐、吹き荒れる啓蒙思想の原動力となってハイボリア時代初頭の迷信と邪教に彩られた黎明期を終焉させた。

後世に『賢聖』と賞賛されたアテミデスが今最も目を掛けているのが、ヴァイロンの小姓ディジャスの実弟ディグレットであった。

兄弟の存在は現在のアキロニアにおいて大変に微妙だ。

謀叛四王侯という不名誉な名で呼ばれる、前アッタルス男爵ディオンを伯父とする血から旧アキロニア王家に連なる血統を継いでいたからである。

異母兄ディオンの刺客から逃れたディモーネが我が子二人をタランティアに…コナンの元に送ったのはアッタルス領と引き替えの人質であるという者もいて…特にヴァイロンが発布する専制君主然とした施政や敵国一帯を焦土と化す戦の仕様に疑問や反感を抱く評議の中に、王太子付き小姓兄弟の血筋を杞憂する声が多かったのは否めない事実であった。

そのディグレットが思い詰めた顔で待っていた。

ヴァイロンは湯浴みと着替えで遅くなるという。

なんと言えばいいのだろう――恩師アテミデスから“王太子様に隠すことなく全てを打ち明け温情にお縋りするように…”と助言を受けた。

その通りだと思う。

故郷で気を揉む両親もそれを望んでいる…いやそれに賭けている。

十二の頃から目を掛けて下さった王太子様に何もかも打ち明けよう…

だが…

自分だけの事ではない。

自分一人の問題なら謁見の間になど伺候しない、兄に相談すれば済むことだ。

『温情にお縋りする』――問題はそこまで大きくなっている。

「アッタルスのディグレット殿、王太子殿下がお出ましになられる」

じっと考え込んでいたディグレットは慌てて頭を垂れた。


後宮にヴァイロンがやってきたのはその夜のことだった。

前日の朝、朝食を共にしたばかりだ。

正直これ程頻繁に王太子が後宮を訪れた事はかつてなかった。

シェラム殿下ご帰還から明らかに何かが変わってきている――中央宮から後宮に至るまで…タランティア宮殿に住まい、職に従事する全ての者達が唯ならぬ変化を感じ取っていた。

「もう休もうと思っておりましたので」王妃は透ける夜着の上から真紅の天鵞絨のガウンを纏い、なさぬ仲の息子の待つ部屋へ現れた。

後ろに二十人ばかりの女官が従っている。

「お前達は下がれ」ヴァイロンの言葉に女官長が前に出た。

「畏れ多いことでございますが、時間も時間…王妃様をお一人には…」

後宮正面玄関から続く謁見室までは誰もが――といってもあらかじめの審査に通った者だけだが――出入りできる。

だがその奥は男子禁制――唯一入れるのは帝王だけだ。

それはコナンが王位を奪う以前からの後宮の仕来りである。

何といってもタランティア宮殿の前の主、ヌメディデス王のアキロニア王朝は三千年にわたってこの国を支配してきたのだから。

だがヴァイロンは幼い時から…まだゼノビアがネメーディアから王妃として迎えらえる以前から父が囲った女達に可愛がられ、気にすることもなく父と共に後宮に出入りしていた。

生まれながらに母を亡くしたヴァイロンは、流離う先々で父が愛した女を“母親代わり”としてきた。

それが後宮の女に変わっただけで扱く自然な成り行きだった。

母親“代わり”は掃いて捨てるほどいた。

だからこそ彼はプライドを持って弟に語って聞かせた――自らの“母”は血の友愛団の女将ヴァレリアであると…

それが現在も続いているのだが十年前の事件以来ヴァイロン自身の足が遠のいた事もあって、再び以前の…国王以外の男子禁制という仕来りが復活していた。

ましてや今は夜も更けて、王妃、寵姫をはじめ女官、侍女、さらには貴族の娘からなるミトラの乙女達…神殿に仕える処女巫女までもが安らかな眠りに落ちている時間だ。

外の護りは完全でも、ここまで中に入られては全くの無防備なのだ。

「今夜は陛下のお渡りもございません。王妃様とお二人だけで…という訳には参りません」

女官長はきっと顔を上げた。

「ここは後宮でございます。殿下も成人の男子であるからには誠であればこの部屋までもお通りになれぬところ…」

「安心しろ、俺は親父とは女の趣味が違うんだ。ここの女共には指一本ださねぇよ」

女官長の言葉を遮ったヴァイロンは、ギラリと目を光らせた。

「下がれ…」

女官達がたじろいだ。

コナンと同じ蒼眸でありながら、なんと冴え冴えと凍てつく事か…

冷徹非情の王太子は決して感情では動かない…しかし…

女官長の顔色が青ざめた。

躯の震えを止める事ができない。

ゼノビアは庇うように女官長の前に…ヴァイロンとの間に立ち塞がった。

「アルビオナ夫人、殿下のお言葉です。下がってください」

「は、はいっ」女ながらも伯爵位と領地を持ち、ゼノビア王妃の介添えとしてタランティア宮全ての女達の頂点に――コナンの寵愛を受ける側室でさえも膝を折る女官長として君臨しているという矜持も、凍る瞳から発する脅威には何の意味も成さない。

そう彼女は唯の女官長ではなかった。

どんな側室も彼女の美しさと気品、そして知識、教養には適わない。

ゼノビアは彼女を敬愛していたから、王妃であっても一切命令口調では話さなかった。

かつてザルトータンという悪魔を甦らせたミトラの破戒僧オラステス――彼に担ぎ出された旧アキロニア帝国の末裔ヴァレリウスに婚姻を迫られながらも断固拒否し、領地を奪われ断頭台の露と消えんとした…今も誇り高き女性の代名詞として語られている程の人物である。

女ながらもネメーディア軍との戦で戦死したと言われた国王コナンに最後まで忠誠を尽くし、女ゆえに死の恐怖よりも意に染まぬ男の腕に抱かれる事を拒絶した。

“アキロニアで最も美しい”と言われた首が落とされんとした時、当時奴隷女であったゼノビアの手引きによりネメーディア王国宮殿の地下牢から脱出したコナン王自らにより救い出された。

その後アシュラ教徒の長、ハドラタスに助けられたコナンは姦計を打ち砕き、再び王位に就く。

ネメーディア後宮の奴隷房から王妃としてゼノビアを迎えるにあたり、彼女の指南役としてまた相談相手として選ばれたのがアルビオナ伯爵夫人であった。

彼女は熱心なミトラ信者であったが、ハドラタスに恩を受けてからアシュラ教にも縁を持った。

それ故アシュラ教徒から生き神と崇められるシェラムがベンダーヤから連れてこられると、ハドラタスに請われて後宮での後見人ともなった。

十年前の惨劇のさなか領地に戻っていたアルビオナが、「御役に立たなかった」とどれ程悔やんだ事か…

シェラムの最後を聞くに付け、どれ程嘆き悲しんだ事か…

以来アルビオナは一度も領地に帰らず、タランティア後宮を支え続けている。

その女伯爵がヴァイロンの威圧感にたじろいだ。

後宮の第一人者である女官長が顔色を変えた畏怖は、瞬く間に後ろに続く女達に広がった。

王妃と王太子への礼もそこそこに、我先にと扉から退出する。

それはアルビオナ伯爵夫人も同じであった。

「何事でしょう、殿下?」彼らを見送り自ら扉を閉めたゼノビアの声も震えている。

理の息子が自分に意見を言いに来た…それも怒りの感情を持って…

僅かの言葉遣い、眼光の煌めきから、それと悟ることができるのは少年時代から手塩に掛けて育ててきた“母親”ゆえの事と密かに自負している。

「エイメに堕胎手術を薦めたそうだな?」

「!」

「あの二人の仲を許したのは俺だ。親父も承認している。今更なぜ彼女の…いや彼ら二人の子供を葬らねばならないのか?」

「……………」

「エイメはオフル大公の姪という地位を捨てた。もうエルメティア公女ではない」

「いいえ、彼女が故国を捨てようとエルメティア・リーン…かつての敵オフルの前王アマルラスの血を引くリーン一族の娘であることに変わりはないのです」

「だが今のオフル大公アルゾートは…彼女の伯父は傭兵時代からの親父の友人だぞ」

「勿論公女には何の問題はございません。オフルの男と添われるならば…いえ、アキロニアの男でも宜しいのです。旧アキロニア王家の血縁でさえなければ」

「ゼノビア…」

「わたくしとてあの二人を…従兄弟同士とはいえ好き合っている二人を夫婦にしてやりたい。祝福してやりたい…但しその為には二人の子供を世に送り出す術を絶たねばなりませぬ」

「去年、コスから送り届けた女達に例の薬を飲ませろと命じたのは俺だ」ヴァイロンは引きつった顔で訴えるゼノビアの言葉を遮った。

――帰国したらアテミデスに図って娘達を治療しろ、手に余るならデキシゼウスにも協力を仰げ――コナンの同志を名乗る人攫いに拐かされた女達、いや殆どが少女、もしくはまだ子供であったのだが彼女たちが受けた陵辱の傷を癒し、もし妊娠していれば堕ろさねばならない…その命令をシェバに遂行させた。

そして戦争捕虜と同じようにアキロニア語を教え、文化になじませ、洗脳教育を施してから故国に送り返す。

攫って来られたのは、やんごとない王侯貴族の令嬢が殆どであったから、アキロニア親派に仕立て上げて実家に帰せば大いなる戦力となる。

もっとも教育途中で王宮に伺候している貴族の子息や騎士と親密になってしまい、そのまま正夫人として迎えらえた姫も何人かいたのだが…

ともかくもコスの砂漠から、その指示を受け中心になって動いたのが皮肉にもディグレット…エイメことエルメティア公女の腹の子の父親であった。

ヴァイロンはゼノビアの依頼でデキシゼウスが避妊薬を造り、タランティア宮殿内にあるミトラ神の礼拝所に訪れるコナンの寵姫達に神よりの賜り物と称してこれを飲ませていた事を知っていた――故に“デキシゼウスにも協力を仰げ”と指示したのだ。

強制的に子宮を収縮させ膜壁を剥がし、月のモノを流す薬である。

もし懐妊していても流産してしまう。

そしてそれは月のモノと見分けがつかない…

しかし子宮収縮の痛みはかなり激しい。

その度に医薬に研鑚を積んだアテミデスが医師団や医学生と共に治療に当たった。

そして…アテミデスは秘密裡に薬で流れなかった側室の胎児を器具を使って体内に掻き出した。

デキシゼウスの秘薬で意識を失い昏倒していた側室寵姫は、貧血と下腹部の痛み、そして夥しい出血に恐れながらも、愛する国王コナンが敬愛するアカデミアの学長の治療を、偉大なるミトラの大神官から下される神の酒を、疑いもせずに受けた。

閉ざされた後宮という世界で、誰一人として疑念を持つ者はいなかった。

何故なら率先してミトラの神酒をあおり、アテミデスの診察を受けるのは王妃ゼノビア自身であったから…

全ては十年前の忌まわしき惨劇に起由していた。

ゼノビアは共にコナンを愛していた仲間達をむごたらしくも毒殺された。

デキシゼウスもアテミデスも彼女達を救うことはできなかった。

皆殺しにさえた後宮で、ゼノビアただ一人が生き長らえたのには訳がある。

残党によるヤー・チャンの復讐であった。

そう、ゼノビアはヤー・チャンの残党に拐かされ辱めを受けた。

子飼いの侍女フィーリアさえも…辺境育ちの年端もいかぬ少女ですらも処女を犯された身を恥じて潔く自害し果てたというのに、自分はおめおめと生き長らえ、救いだされてしまった。

誰も…夫であるコナンすらも知らない事実…

躯の裡に忌まわしき妖術を施される前に、慰み者にされた。

“いずれ呆けた痴女としてネメーディア王の足下でメス犬同然の暮らしを送るのだ、せいぜい今のうちに楽しんでおけ”

男達は笑いながら必死で抗う躯を繰り返し嬲った。

何度自害しようと思ったことか…奴隷上がりの賎しい身だからではない。

死ねない――必ず夫が、コナンが助けに来てくれる。

キンメリアのコナンの妻が自ら命を絶つなど――それは夫の生き様に反する事だ。

何という因縁であろう。

思えばヤー・チェン一味から最初に陵辱を受けたのは王妃としてタランティア宮殿に迎えられたその日であった。

舞踏会のさなかに夫コナンの眼前でヤー・チェンの操る化け物に拉致された。

そして救い出されるまで――長きにわたり幽閉されていた間ずっと言語に絶する辱めを与えられた。

四つん這いに拘束された窟牢でのし掛かってくるのは大きな黒犬であった。

いや姿形は犬でも中身は妖魔であったかもしれない。

豊かな臀部を晒したまま後ろが振り向けないゼノビアは見ることが出来なかったのだが、その眼は犬の目ではなかった。

それでも犬の荒い息遣いに悲鳴を上げ、枷の下の皮膚から血が滲んでも身を捩って抗った。

しかし…

恐怖と嫌悪で鳥肌立つ躯を長い舌で舐め回されると、いきなり肌が火照った。

唾液というより粘液に近いモノが震える背中から白く浮き上がる尻…そして大きく割り開かれた股間を汚していく。

ざらつく長い舌が膣壁を擦り、奥へ奥へと忌まわしい液体を塗りつける。

舐められるたびに敏感な柔肉に細かな擦り傷が出来て…そこから染み込む粘液がゼノビアの理性を麻痺させた。

さらにセピア色の窄まりを見せる肛門にも差し込まれる。

排泄の穴を嬲られ苦悶したのは一瞬であった。

沸き上がる愉悦に震えた。

愛撫を施され、淫らに口を開けた陰唇から熱い液がどぷどぷと噴き出す。

甘酸っぱい独特のアノ匂いが満ちた。

手枷がなければ自らの指を使っている。

「して…入れて…」腰を振ってせがむ。

幼いときから男の欲望に仕え、あらゆる淫蕩な技を仕込まれてきた躯…

王妃に即位したとき封印したはずの奴隷女の血が燃えさかった。

散々に焦らされた黒犬に長く巨大な陰茎で貫かれた瞬間、ゼノビアは顔をのけぞらせ絶叫した。

「いいーっ」

腰を打ち振るたびに子壺が愛液を溢れさせながら降りてくる。

子宮口が緩む。

こりこりと固い感触の肉壁に当たっていた陰茎がぐっと突きこまれ、先が膨張した。

「ひいいいいーっ」

下腹部がいきなり圧迫感が襲われた。

犬は交尾の最中メスを逃がさないように、子宮口に入れた陰茎のカリ首を大きく張らせる。

これでメスが暴れても、別の犬が仕掛けてきても射精するまで抜ける事がない。

妖魔の眼をした犬の傘は射精してもしぼむ事無くゼノビアの子宮を蹂躙し続けた。

臍の下が…子宮がジンジンする…

初めて味わう快感に溺れる。

枷を外されても犬の陰茎を挟み込んだまま腰を振った。

“もっと舐めて”と仰向けになり自ら膝裏を持って陰部を丸出しにした。

嬌声が窟牢に止むことなく響き渡り、それに触発されたヤー・チェンの下使共が群がった。

日がな一日輪姦され、気を失っても責めは止まなかった。

萎えた男達は張り方を突っ込んだまま縛り上げたゼノビアの肛門に媚薬を溶いた湯を入れ、栓をして悶え苦しむ様を見て笑った。

そして皆の前で排泄させた。

その度に羞恥の欠片も無くしたかのように大きく股を開き大小便を垂れ流した。

別の日はヤギだった。

豚にのし掛かられ潰されそうになった。

大蛇のグロテスクな双叉のペニスに跨り、巻き付かれながら悶絶した。

ロバに巨大な逸物を挿入されて膣門が裂け、血塗れのまま抽送された事もある。

夥しい数の小さな虫を陰部に入れられ発狂寸前まで追い込まれた。

どんな相手でも肌を触られれば一瞬で欲情した。

もっと深く、奥まで呑み込もうと自分から腰を振った。

「入れて…なんでもいいから突っ込んで」自分から縋り付き、腫れ上がった陰唇を指で開いて誘った。

「こっちも…」滴る愛液を肛門に塗りひろげ尻たぶを拡げて見せた。

嬌態を繰り広げるゼノビア…だがヤー・チェンが彼女に施した真の責めは、このような色責めではなかった。

それは常に頭のどこかにゼノビアの理性を覚醒させておく事。

自分が何をやったか、何を言ったのか…全て記憶しているのだ。

自らの理性がコナンへの思慕、王妃としての誇り、妻としての貞節、そして人間の女であるという最後の自負心までも責め苛む。

そして一日のうちのほんの僅かな時間、ヤー・チェンの前に引き出された時、羞恥で身を捩り悔恨の涙を流す本来のゼノビアに戻された。

奴隷として暮らしてきたゼノビアにとっても耐えられぬ程の恥辱であり、躯に加えられる残虐な愛撫はまさに拷問であった。

その“傷だらけの気”を使い魔共に吸わせ、さらにヤー・チェンは魔力を増す。

狂えれば楽だったかもしれない。

しかし奴隷として生きてきた強靭な躯と精神は崩れない。

彼女は嫌悪に打ちひしがれながらも絶望しなかった。

いずれ“気”が弱まれば妖魔の生贄にされる…下使達からそう脅されてもコナンが…良人が救い出してくれると信じてひたすら耐えた。

そして夫はやってきた――ヤー・チェンの邪な刃が自らの露わな乳房に振り降ろされようとした瞬間、思いあまってミトラに身を委ねたその時に。

今度も同じ、生きてさえあれば必ずコナンが来てくれる。

だから信じて――コナンを信じて辱めに耐えた。

その健気な決心は報われた。

夫の使者としてゼラータと名乗る老婆が大狼を従えて現れ、ヤー・チェンの残党共を残らず屠った。

そしてゼラータは言った。

「誰にも言わぬ。お前様も誰にも打ち明けてはならぬ。苦しかろうが死ぬまで胸に秘めておくがよい」と…

かつてヤー・チェンを屠った折、ツラン王イェズディガードすら撃ち殺しながらもあっさりと兵を引いたアキロニア王コナン。

それは王妃ゼノビアが受けた辱めを…心の傷を思いやっての英断であった。

全てがあの時と同じ…我が身に封じて生きねばならない。

そうして一人生き残った王妃は誓ったのだ。

この先けっしてコナンの血を増やすまいと。

二度とこのような悲劇を招く因子を世に送り出すまいと。

母となる道を自ら絶ち、惨劇後にコナンが新たに迎え入れた側室達にもこれを強いた。

何も知らせずに…当然であろう、その事件の真相を知らぬ女達は誰もが愛する男の子を産みたいと願う。

ましてやその子は王子か王女として遇され、自分は生母として君臨できるのだから…

同志としてデキシゼウスとアテミデスはゼノビアに荷担した。共に動いた。

最初アテミデスはデキシゼウスを止めた。

「おぬしはミトラに仕える身ではないか、これは私一人で行う」ましてや友は最高神官の地位にある。

「ゼノビア王妃一人を地獄には落とせぬ。あの方は後宮で一人生き残った自分を責めておられる。我もまた自らの指示に従い動いてくれた若者を救えなんだ…我らは同じ境遇、まさに同志なのじゃ。どうして御身一人に責を負わすことができようや?」

こうして三人の謀略は誰にも悟られることなく…あの敏腕の女官長すらも知らずにしばらく続いた。

この異常に気づいたのは皮肉にもコナン王その人だった。

正妃寵姫に子が産まれぬ事を訝った訳ではない。

皆が一斉に月の障りを催して、同衾できない日が全く同じ…おかしいと思って当然だ。

新しい側妻を何人娶っても、皆次の月からは同じように“本日より御褥辞退”の使いが来る。

そして“月の障りも去りました故、皆でお待ち申しております”…という使者は王妃が代表で送ってくる。

コナンは熱血学士であったアテミデスを学問の師と仰ぎ重用している。

その彼が後宮の女達を治療し始めてから、そしてゼノビアの願いであの惨劇で毒殺された寵姫達の霊を弔うためにミトラ神の礼拝堂が設けられてから貧血と発熱で次々と新たな側室が床に伏した。

コナンは夜陰に乗じアカデミアの学長室を訪ねた。

膨れあがる疑問をそのままぶつけた。

アテミデスは真っ直ぐなコナンの視線に…疑うことなく自分を信じ敬愛の情を示す王に秘密を隠しておくことができなかった。

思えばコナンもあの悲劇の被害者なのだ。

衝撃で身を震わす蛮王にアテミデスは決死の覚悟で縋った。

「決して王妃様とデキシゼウス神官を責めてはなりませぬ。堕胎の罪業は全て私が負います」

しかし怒りで身を染めたキンメリア人はその躯を引きはがすと大股で去っていった。

「おお、ゼノビア様が危ない…早くヴァイロン殿下に知らせなければ…」

壁に叩きつけられた学長は、激痛に顔を歪ませながら厩に急いだ。

「ゼノビア、そなた何という事を!」かつて命を救われ、そして命懸けで助け出した最愛の女。

「アテミデスが申すには側室はもはや誰も懐妊できぬそうだ」度重なる避妊薬の服用と堕胎手術は若く健康な側室達の子宮や卵巣を破壊していた。

「デキシゼウスにも投薬を止めるよう…礼拝には真の神酒を持参するよう密書を送った」コナンの声は乾いている。

「アテミデスはお前がワインや水菓子に混ぜて側室はおろか後宮中の女達に薬を飲ませているとも言った…まことか」

もし万が一…側室全てが一斉に床に侍れぬ時にコナンが身近な侍女に手を掛けでもしたら…そこまでゼノビアは危惧していた。

王の落し胤は決して許さない…王のお子はヴァイロン殿下おひとりでよい。

もはや病的なまでの一途な重いがゼノビアを突き動かしていた。

王妃は激昂する夫にキッと顔を上げた。

「おっしゃる通りでございます。デキシゼウス様、アテミデス殿はわたくしの意を受けての事、全てはわたくし一人が仕組んだ事でございます」

「なにゆえか?子を成せぬ躯となったはお前もなのだぞ!」

「罰はわたくしに!お二方は関係ございません!」

「そのような事はどうでもよい、本心を申してみよ。まだ年若い娘達の躯を…同じ女として恐ろしいとも哀れとも思わなんだか?自らの胎内まで壊すとはそなたはあの事件で狂ったとしか思えぬ」

「狂った…そうなのかもしれません…いいえ、狂えればどれ程楽だったでしょう…お言葉の通り、地獄に堕ちようと決意しても、うら若き寵姫や侍女らが腹を押さえ脂汗を浮かべてのたうち回る様を見るたび罪業の恐ろしさに震えました、股間から流れ出す血が止まらず、このまま死んでしまうのではないかと案じました…」

「そして堕胎薬の量を増やし、自分の躯を痛めつけてきたのか?」いきなり扉が開いた。

「ヴァイロン!」

「殿下!」

「アテミデスが打撲症の躯を引きずって俺の寝所にやってきた。親父、少しは手加減しろ」十六になった息子に睨まれて父は気色ばんだ。

「これは大人の話だ。お前のような子供に何がわかる、さっさと帰って寝ろ!」

「勝手な事いうな、去年嫁まで取らせておいて…ゼノビア」こういう時の…頭に血が上っている父とは、まともに相手をしない。

「もう罰は自分で下してるじゃねえか?お前が地獄に堕ちるなら親父だって俺だって…シェーラだって同罪だぜ」

「そのような!」

「アテミデス、デキシゼウスそしてゼノビア…すでに散々地獄を見てきたお前達にこんな悲壮な決意をさせた、その原因は全て俺達三人の親子にある…今シェーラは消息不明だから俺と親父で責任を取るしかない」ヴァイロンは怒気を削がれポカンとしたままの父親の傍らに寄った。

そして耳元に口を寄せると静かなキンメリア語で語り始めた。

見る間にコナンの蒼い瞳に涙が溢れた。

押し殺した声で息子に何かを話す。

「ゼノビア、もう親父は新しい女を娶らないそうだ…勿論侍女や女官にも手を付けない…えっ?」

改めて囁く父の言葉に苦笑する。

「手は付けるかもしれないが精は注がないんだと…自分で言えよ。何でキンメリア語なんだよ」この父子はいつもこうだった。

ヴァイロンの初体験は父が抱いた女である。

隠し事がない。

そして父は才気溢れる長男を頼り、幼くして孤高の道を歩む次男を溺愛していた。

うっすらと潤んだ青眸を隠し、照れくさくてまともに話せぬ父に代わって言葉を伝える。

“自分の親ながら世話がやける”糸が切れたように泣き崩れたゼノビアの手を取って父親の側へ導いた。

「あとは夫婦で話し合え、邪魔な連れ子は退散するから」

その後、王は朝までゼノビアの胸で声を殺して泣いていた――と後宮の侍女から聞いた。

こうして側室が月の障りで苦しむ事はなくなり、アテミデスが毎月後宮に呼ばれる事もなくなった。

誰にも気づかれぬままに産まず女となった側室達は仲むつまじくコナンに侍り、ゼノビアに従った。

この経緯を知るヴァイロンがコスで救った女達に堕胎薬を施そうとしたのは当然の成り行きだった。

但し、一度限り…健康を損ねては元も子もない。

処方するアテミデスもそれは熟知している。

あれから、もうすぐ一年になる。

処置はうまくいった。

娘達は健康なままで、故国に戻り、あるいは恋に落ちてアキロニア籍を得て嫁いでいった。

エルメティアもアキロニアに残った一人であった。

もっとも彼女はオフル大公の姪でもあったがアキロニア領ナンタイン伯爵の孫でもありアキロニア語も堪能だったので身分はそのままに、ディグレットの婚約者として遇された。

しかしエルメティアの素性を知ったゼノビアは驚愕した。

コナンを…アキロニアを攻めた逆賊王の血を引く娘ではないか。

夫であるディグレットも全く同様の…いや前王朝の家系だけにもっと危険な血筋だ。

二人の子さえ産まれねばよい…と投薬の延長をアテミデスに依頼した。

愛弟子の婚約者にそれはできぬ――きっぱりとアテミデスは拒絶した。

孕んでもいない娘の躯を冒す薬は使えぬと。

“生まれ出るはずの命を医師である自分がつみ取った”――彼は信念に基づいての事とはいえ、医術を納めた身があのような惨たらしい秘事に関わった事を深く後悔していた。

そのかわり彼は公女に知恵を授けた――アテミデスの進言でエルメティアはオフル公女の地位を捨てると宣言書を出し、名もアキロニア風にエイメと改めた。

オフル公国にアテミデス自身が出向きアルゾート大公とナンタイン伯を説得し“公女籍離脱”の了承を取り付けた。

アテミデスの積極的な行動に一旦は温和しく引いたゼノビアであったが、彼女はアッタルスの城に間者を潜り込ませた。

もし、万が一懐妊の兆候があれば…

そして危惧は現実となった。

ゼノビアの書簡が秘密裡にアッタルス男爵夫人…ディジャス、ディグレットの母にしてエルメティアの伯母でもあるオリリアの元に届いた。

『現国王に叛心なくば公女の胎児を堕胎させよ』

妻が見せた書状に驚愕したアッタルス領主ディモーネは当事者のディグレットに王太子に縋るよう早馬を出した。

全てを聞いたヴァイロンは九年前の夜と同じように後宮に現れ、ゼノビアに迫った。

「わたくしだってあの二人を添い遂げさせたい。立派に式も挙げてやりたいのです…」もう一度ゼノビアは同じように…しかし力無く呟いた。

「十年前の過ちを二度と犯してはなりません。わたくしの甘い判断がフィーリアの命を奪い、シェラム殿下を悪漢共から救い出す手だてを失わせたのです」

マリキット王太子妃、いやイエドカ・タナーラの娘カマラ…彼女が不義の子を宿していると知りながら騒動を恐れ、自分の胸に納めてしまった…あの時宰相に謀りカマラを糾弾し、幽閉してしまえば後宮の女達が毒牙に掛かる事はなかったのだ。

コナンとヴァイロン不在であったあの時、それができたのは王妃の自分だけだったというのに…

「お前の理屈だと前王朝に繋がる人間は一人残らず殺さねばならない、だが奴らは三千年の間に子孫を増やし続けている。どうやって探し出して皆殺しにする気だ?」

「そのような…わたくしはただ…」ヴァイロンの言うことが正論だ。

心を鬼にしてまで貫かんとした正義感が脆くも崩れていく。

「何のために十年前に公開処刑をしたと思っている?」

「え?」

「俺が弟の仇を討つためだけに、謀叛した貴族どもを誅したと思っているのか?ツラン人を皆殺しにしたと思っているのか?」

「殿下…」

「シェーラの復讐心だけで誅した貴族共の領地を没収し、一族郎党全て捕らえて刑場に晒したと思っているのか?」

「二度と叛逆させないためだ。親父のように寛大な処置を繰り返せば反乱分子は何度でも陰謀を企てアキロニアを危うくする…俺はあんな思いを…愛する弟が自らの命を絶つ姿などもう二度と見たくない」

「それはわたくしとて同じ…だからこそ…」十年前の惨劇を再び起こさぬ為に心を砕いてきたのだ。

「アッタルスのディモーネは親父に忠誠を誓っている。彼自身が先代のディオンに命を狙われていたのだ」

「……………」

「それにお前が言ったようにエイメは名を変えようが籍を抜こうがオフルの公女に違いはない。今堕胎などさせればオフルとの同盟関係が揺らぐ。アッタルス男爵夫人はオフルの摂政ナンタイン伯の実姉だ。腕づくで腹の子を流産などさせてみろ、彼女が騒げばどうなると思う?」

「わたくしが浅はかでした。一途な思いに囚われて国政の大事が見えなかったのです。オリリア夫人に手紙を送ってしまいました…どうすればよいのでしょう…」

ゼノビアは泣き崩れた。

「ここにある」

「えっ?」

ゼノビアの筆跡と印章が押された手紙は燭台の炎で灰になった。

「グレットとエイメの結婚にこれ以上首を突っ込むな…お前が騒がなくても事が公になれば同じように騒ぐ輩が現れる」

「は、はい…」

「その時は親父も俺も…そしてあんたもあいつらの味方になってやろうぜ」

「はい…」さめざめとゼノビアは泣いた。

その時――

「蒼い旦那様!ゼノビア様を泣かせちゃダメだっ!」

小さな影が扉を開けて飛び込んできた。

ヴァイロンの唯ならぬ気配を案じたアルビオナ夫人の機転であった。

王女の間に眠る“王妃の養女”を起こして事の次第を告げた。

この幼い子供がどこまで理解したか不安であったが話を聞き終える間もなく、アイーシャは脱兎の如く飛び起きて裸足のまま王妃の私室めざして真夜中の回廊を走った。

「アイーシャ…」

“母上と呼びなさい”と言われても、ゼノビアは死んだ母親とは似ても似つかぬほどに若く美しく、たおやかだった。

養女となってからも“王妃様”と呼んできた…その度にアルビオナ夫人から注意されて…それでもまだ“ゼノビア様”としか呼べない。

でも心優しい王妃様に懐いていたアイーシャは必死で前に立ち塞がった。

何故ならゼノビアがこの世で一番愛しているのは二人の息子達、アイーシャの大事な蒼い旦那様と白い旦那様であると子供心に直感していたから…

両手を拡げて泣き崩れるゼノビアを庇う。

唇をきつく噛んでヴァイロンを睨んだ。

命を救ってくれた人であり、剣の師であり、両親兄弟の仇を討たせてくれた大恩人である。

ダメ…旦那様にも逆らえない…

飛び込んだ瞬間、泣いているゼノビアが目に入り、咄嗟に立ち塞がってはみたものの…

グズッと顔が崩れた。

見る間に涙が溢れる。

「アイーシャの大好きな母上と大事な旦那様が喧嘩したらオイラ困るんだーっ!」

「おい、みんなが起きる…大声出すな」いきなり泣き出した子供にヴァイロンが浮き足だった。

「アイーシャ…今“母上”と呼んでくれたのですか?」ゼノビアは思わずアイーシャを背後から抱きしめた。

気がゆるみ、しゃくり上げるアィーシャの頭を蒼い旦那様の厳つい手が優しく撫でた。

「おやすみ…」

晴れて親子になった二人を置いてヴァイロンはそっと深夜の後宮を後にした。


表面上は穏やかに日々が過ぎた。

いや穏やか…でもない。

大騒ぎにはなったのだが、凶事(まがごと)ではなかった…という事だ。

それは王妃自らがアッタルスに出向き、二人の結婚とエイメの懐妊を祝うという前代未聞の事態だった。

ゼノビアにすればオリリアとエルメティアに陳謝したいという一途な思いからである。

だが彼女は王妃だ。

勝手に一人で馬を飛ばし訪問する訳にはいかない。

内々の事といえども、付き従う侍従や警護の兵で一団を為す。

皮肉な事に、これが一部の評議や貴族達に旧アキロニア王家の血筋とオフル前王アマルラスの血縁が結びついたと知らせる結果となってしまった。

“アッタルス男爵は次男の嫁にオフルのリーン王家の娘を迎えたそうな”

“男爵夫人はオフル大公の摂政ナンタイン伯爵の姉じゃ、身内同士の婚姻に不思議はあるまい”

“それはそうだが…ディモーネ男爵とアルゾート大公か…お互い嫡流でありながら兄弟に追われ、その兄弟が我が国王陛下に成敗されたのち世に出たという処まで同じじゃな”

“公女はすでに懐妊しておるそうではないか…腹の子が男子(おのこ)でなければよいが”

“女児(おなご)とて拙かろう。それこそ攫って子でも孕ませれば、産まれた子供を反乱の旗印に担ぎ出せる”

それは亡国のツラン王イスマディアが、おぞましきヤー・たチェンの残党共に指示した秘策であった。

義妹カマラの不義の子を、名目上はヴァイロンの子としてシェラムと娶(めあわ)せ女王に据えるという…

幼いシェラムは自らの命を投げ出して、この陰謀を砕いた。

あの惨劇から十年経った…いや、十年しか経っていない。

大国ツランはヴァイロンの怒りによって灰燼に帰した。

シェラム殿下は無事な姿で帰還された。

しかし皆の心の裡に刻まれた傷は癒えていない。

やっかいな――ゼノビアが感じたと同じ感情がタランティア城内に広がった。

ヴァイロンが危惧した“騒ぐ輩”の不安は城内から近隣の都市にも、そしてハイボリア諸国に散らばる“コナンの同志”にまで波及していった。

それを一掃するかのようにコナンはディモーネに結婚祝いとして領地を加増した。

期を同じくして東の同盟国から使者が来た。

ヴァイロンと共に皇太子捜しの旅にでたチァンリルである。

ベンダーヤ王国から、自国皇太子への誕生祝いの貢献団入国を申請しに三度(みたび)砂漠を越えてやってきた。。

シェラムの帰還によって十年ぶりに復活した祝事であった。

中央宮でコナンに拝謁し女王ヤスミナからの親書を献じた。

次ぎに王太子宮に出向き、長旅で親友となったユウラと再会を喜び合い、ヴァイロンに伺候の挨拶を述べる。

「で、只今皇太子殿下にはお健やかにておられましょうや?」

「挨拶もそこそこだな」ヴァイロンは苦笑いする。

「行ってみたらいいじゃねぇか、自分で…」

「はあ…」敷居が高い。

コーシェミッシュで遭遇した皇太子は違和感で一杯だったが、それから数ヶ月…ザモラ国境でのシェラムは立派だった。

大蛇を操り、聖人の神具を奪った破戒僧を溶かすという魔道士ぶりを発揮したのだが…それでも一旦は自害して果てたと聞いていた生き神クマリが甦り、その美貌にアキロニア兵が歓呼の声を上げる様を目の当たりにして嬉しさにうちふるえた。

だが…ベンダーヤへの帰国を請う自分に向けられた冷たい態度…

――あの女の命令?――ベールから響いた声に背筋が凍り付いた。

逢って下さるだろうか?――自分が皇太子に逢って言う事は一つしかない。

“いつお戻り頂けますか?”――それは言われる方も十分に解っている。

「シェバ、シェーラとヒューイは相変わらずボッソニア軍の兵舎にいるのか?」

「そのようでございます」シェバの眉がピクリと上がった。

ヒューイは元々この兵舎で寝起きしていたのだから問題はない。

問題は…というより大問題なのはシェラムである。

毎日食堂で兵士達と共に食事を摂った。

もっとも最初はヒューイが拾ってきた“異邦人の乞食”としか思われずに賄い人から残飯を貰って床の上で食べていた。

つぎはぎだらけのオレンジのベールで頭の先から膝まで覆われているのでイシュタルのごとき美貌は隠れている。

口止めをされたヒューイが胃に穴があきそうな思いに苛まれて何日か過ぎた時、やっとウィスカが通りかかり乞食の正体がばれた。

もっともこのような…普段は兵卒も出入りしない貯蔵庫の裏手などに部隊長が訪れる事は滅多にない。

一年に一度貯蔵庫の品と残量の一覧表が記入どおりであるか確認する――その業務の時だけである。

“なんだ、あいつは?”

べったりと石畳みに座り込んだ乞食とも男娼ともつかぬ不審者を咎めようとしてハッとした。

オレンジのベールから除く白い脛に見覚えがあった。

ザモラ国境の岩山の上で、栗毛に跨ったシェラム殿下――初対面の強烈な情景がアリアリと思い出された。

思わずひれ伏した。

「シェラム殿下である、下がれ!」いきなり這い蹲った部隊長様に唖然とする賄い夫や下働きの男達を怒鳴りつけた。

ボッソニア兵舎は大騒ぎになった。

賄い人達はあまりの驚愕に卒倒した。

ヒューイがシェバに呼び出され、ウィスカが平身低頭し、ジニアスが黙したまま下を向き、王太子が取りなすという…以前と同じ光景が王太子宮の総帥室に展開し、当の本人…シェラム殿下は繕い直したオレンジのベールを下に敷いて長椅子の上で寝そべっている。

麻のトゥニカが捲れ上がって真っ白な太腿が付け根ギリギリまで露わになっている。

気怠げに寝返りを打つ度に奥まで覗け、腰布を穿いていないことが…素肌に一枚纏っているだけなのが解る。

シェバすらも目のやり場に困り、無礼は承知の上で長椅子に背を向けて話していた。

「それにしても“乞食”が出入りしているのに管理者が気づかない…もしくは報告がされないというのは如何なものか?」

シェバの問いはもっともだが、それだけボッソニア特殊部隊の兵達がヒューイという仲間を信頼している…とも言える。

軍師の詰問は別の意図を秘めていた。

ここにいるシェラムを除く四人に…ヴァイロンにすらも、それは伝わっている。

ヒューイがシェラムの口止めを守り王太子宮に報告に来なかった――それはシェバが与えた偵察命令を放棄したという事になる。

ロードタス川でシェラム殿下の腕に抱かれた――生涯仕えると誓った。

故にシェバ様の命令は…例えそれがシェラム殿下の御為であったとしても…殿下の意思に反する事であれば聞けない。

それは国王陛下や王太子様の指令でも同じ――最も尊敬するウィスカ隊長の指示であってもシェラム様が“否”と言われれば従わない。

少年侍従長の決意は固かった。

「ねえジニアス…」漆黒の髪が肩から背中、腰を覆いその間から真っ白な尻が半分見えている。

「…………」呼び掛けられても辺境育ちの無骨な将は顔も上げられない。

「ジニアス…じゃなかったっけ?」兄を見る。

「ジニアスだ。ジニアス・ウォルドゲン・ラーマン…」

「この人耳が遠いの?ザモラ国境じゃ普通に話してたよね?」

ずっと笑いをこらえ、臣下達のやり取りを聞いていたヴァイロンが思わず吹き出した。

それはお前の恰好があまりに艶めかしいからだ…と言ったら余計にみんなが意識してしまう。

「おい、下を向いたままでもいから返事してやれ、ジニアス…お前に話があるそうだ」

「はっ」下を向いたまま王弟殿下に向き直る。

可哀想にそれだけで、この実直な男は耳まで真っ赤になった。

「ジニアス、食堂のおじさん達は罰してはいけないよ」

食堂のおじさん?――赤い顔を傾げた将軍にヒューイが囁いた。「賄い夫達の事でございます…」

「哀れな乞食に恵んでやったんだから褒められこそすれ、罰する事はできないな?シェバ」王太子も助け船を出す。

「そういう問題ではございません。要はシェラム様のご身分が…」正体がばれた…とあからさまに詰(なじ)れない分辛い。

「あれ?乞食が勝手に出入りするのが不用心って話じゃなかったっけ?」

「アーハッハッハッ!」今度こそ我慢できずに王太子は大笑いをした。

シェラムにも伝わっていた…弟にはこういう底意地の悪さがある。

勿論幼いときから懐いているシェバを皮肉っているわけではない――ただ“自分にもお前の質問の真意はわかっているぞ”とアピールしただけだ。

逆にヒューイを完全に手中に収めたと誇示しているのだ。

「殿下…今後の御訪問はボッソニア軍だけに留めて頂けませぬか?」王太子宮総帥も、そうと悟ってすぐに切り返す。

「ええ!」下を向いていたジニアスがシェバを見た。

「な、なんで?ボッソニア…それじゃあ…これからずっと…」狼狽を隠せない。

「散々出入り…いや御訪問なさったのだ。身分も明かされた事でもあるしお前の兵舎で接待するように」

「そんなぁ…」特殊部隊と強弓軍を指揮する猛者が情けない声を上げる。

「他の兵舎にも行きたい」シェラムはそんな将軍の嘆きなど意にも介さない。

「ご辛抱ください」言葉使いは丁寧だが言い方はきつい。

「つまんないの…さっさといろんな軍隊に紛れ混めばよかった…」

そうなる前に止めた――被害は必要最小限…軍師の顔に安堵の色が浮かんでいる。

哀れなのは唯一の被害者…いや接待係に抜擢されたボッソニア軍だろう。

「殿下…」それまでヒューイの背後に控えていたウィスカが言葉を発した。

彼がこの王子に声を掛けたのは唯一度…ザモラ国境で敵兵の姿を教え指さした時だけだ。

それ以降自分から声を掛けることもなく、問いかけへの返事も殊更に短く…意識した訳ではないが、会話を避けてきた。

「なに?」そんな気配を察しているのか、いないのか…気軽に応じる。

「ボッソニア兵舎に出入りなさる時はその“男娼のなり”はお止めください」

「これって男娼なの?」再び兄を見る。

「旅先じゃ、そのオレンジのベールのお陰でずっと男娼扱いされたじゃねえか?“大槌亭”にすんなり入り込めたのは何故だと思っていたんだ?」

行く先々で自分が買った男娼だと思われていた…アイーシャの伯父には確認までされた。

“お前のせいで女が寄りつかなかった”さすがにここで、その本音は言えないが…

ウィスカは兄弟ののんびりしたやり取りに苛ついたように前に出た。

「ボッソニア人は性に関して厳格です。女性の貞操観念は強く、躯をひさぐ者は蔑視される風潮がございます。また男性は同性との恋愛や肉体関係を嫌悪致します」

毅然とした口調だった。

今は部隊内で“乞食に扮して”…と思われているが、見ようによっては“男娼紛いの恰好で”となりかねない。

極端な事を言えば、乞食が兵舎に入るより淫売を招き入れる方がボッソニア人の道徳観念では許せないのだ。

「ふうん…外に娼婦を買いに行くのはいいんだ?」

「は?」ウィスカは怪訝な顔をした。

「ヒューイの初体験を計らったんでしょ?相手は娼婦じゃないの?それとも素人の娘を紹介して結婚前提の見合いでも世話したの?」

「それは…皆年頃でございますし…外には…」それは独り身の兵卒を抱える軍ではどこも例外はない。

“お前、まさか…?”ちらと少年の顔を伺う。

「何も!俺は何も言ってません!殿下が俺の死んだ母親と会話されて…」興奮したヒューイは言葉遣いも改めずに叫んだ。

「この子から聞いたんじゃないよ。お前が手塩に掛けたヒューイがそんなこと私に口走ると思う?」

シェラムの言うことはもっともだ。

ヒューイの人となりは誰よりも自分が一番よく知っている。

口を開こうとしたウィスカの前にベールを引きずったシェラムが立ち塞がった。

大きく空いた襟元…白い首筋――ボロボロになった麻布の裂け目から覗く素肌が扇情的だ。

眼を反らす事ができなかった。

赤い唇が艶やかに光る…「おかしいよね?ボッソニア人の貞操観念だと恋人か妻しか抱けないはずじゃないの?」静かな落ち着いた声だ。

こういう話し方をする時、逆にシェラムは激昂している。

それはコーシェミッシュの陥穽で出会った時に察した。

「やめろ、シェーラ」唇を噛んだウィスカを見かねてヴァイロンが制した。

「止めない…」シェラムは冴え冴えとした眼で兄を一瞥した。

「誰だって好きな相手としたいよ…それは娼婦だって男娼だって同じだよ」

ウィスカの前から離れた。

「私は八歳の時にハーディアという男に犯された…それからキタイ人にも…男…女…何人にやられたかもわからない…」

ゆっくりと部屋を巡る。

「その時から私は性を嫌悪しながらも快楽を…本当に身も心も満たされる快楽を追い求めるようになった…」

静かな口調は続く。

「フィーリアという後宮の騎士がいた…凛とした少女だった…彼女は私の眼前で同じ男に犯され自害して果てた…私も一度は自らの命を絶った…だが、死ねぬ女もいるのだ」

ウィスカは眼を見張った。

妹の最後に殿下が立ち会っていた?

それはここにいる誰もが…ヴァイロンすら知らぬ衝撃の事実であった。

「いや、殆どの者が死ねまい…ミトラのように自殺を禁じている神もある。だが信仰があろうが無かろうが、自らの命を絶つと言うのは余程の覚悟でなければできない。辱めを受けた娘が生きながらえたと言って誰が咎めることができようか?」

ウィスカの眼から涙が溢れた。

「手籠めにされ誰とも解らぬ者の子を孕み、それでも一人で産み育てる為に身を売る母もいる。戦で国を追われ家族を失い躯を売ることしかできなった女も…生まれながらに性奴として育てられ、心ならずも快楽無しには生きられぬようになった娘も…もちろん多情多淫の性(さが)ゆえに娼婦となった女もいるだろう…」

ヒューイの膝がガクガクと震えた。“この方は…俺の背後にいるという…母達の事を語っておられる…”

「貞節の道徳のといった処で所詮は男の身勝手…蔑んで女を購うのは止めて欲しい…彼女達も必死で生きている」

激しい泣き声が響いた。

ヒューイが号泣していた。

それに続いてジニアスが辺りを構わぬ泣き声を上げた。

フィーリア…幼い頃から共に育った乳兄弟。

いつもウィスカと共に三人で野山を駆け回っていた。

妹のような存在だった彼女を祖父からの婚約者に…という内示で意識するようになって。

そうなると恥ずかしくて、いつも顔を合わさぬようにしていた。

いつも視線を感じていた…ボッソニアから一人タランティアに来た少女はどれ程心細く、同郷の自分を頼りたかっただろう…

もしも、あのまま時が過ぎれば…父の意思など関係なくフィーリアを妻に迎えるつもりだった。

俺はバカだ…一言“好きだ”と言えなかった。

肩を振るわせ慟哭するジニアスを白い腕が抱きしめた。

「彼女は私に潔い死に様を教えてくれた。死をもって敵の操り人形から解き放ってくれた。だから十年前に自ら命を絶った事を後悔はしていない…ああしなければ私を盾に取られたアキロニア軍は闘わずして敗れただろう。ただ…私は蘇えってしまった…フィーリアに負い目を感じたまま…ずっと彼女の最後を打ち明ける事ができなかった」

「許して欲しい…」そのままウィスカに向かい深々と頭を下げた。

「そのような、勿体ない!」ウィスカは床に膝を着いた。

シェラムの眼にはこちらに深々と頭を下げる少女の可憐な姿がウィスカに重なって見えている。

「潔い自決も名誉の死と讃えるなら、どんなに辛く苦しくとも定められた命を全うするのも尊い事だ…そうは思わぬか?」

イシュタル――まさに慈母神の微笑みがウィスカを包んでいた。

「生きている我らは彼らを忘れまい…どれほど時が経とうとも…」

「はい…」ウィスカの声は穏やかなモノに戻っていた。――ずっとフィーリアに負い目を感じていたのは俺自身…十年の悔恨が胸の内から消えていく。

「余計な事を申しました…どうか随意なままにお越し下さい」ウィスカの涙は止まっていた。

真っ直ぐにシェラムを仰ぎ見た。

そこにフィーリアの影は消えている。

晴れ晴れとした笑顔であった。

「初めてお前の笑顔を見たな…」ヴァイロンは思わず呟いた。

「ではシェバ、他の兵舎を訪問するのは当分延期しよう。お前の許可が下りるまで…」女神の微笑みのまま傍らの軍師に声を掛ける。

「ははっ」最近涙脆くなったと自覚しているシェバは顔を伏せたまま、くぐもった声を上げた。

“旅に連れ出してよかった…”ヴァイロンはザモラの娼婦達そしてエキドナを思い出していた。

「シェーラ、そろそろアヨドーヤに戻るか?」キンメリア語で兄が問いかけてきた。

「今お前が言った言葉は自分自身に対してだろう?ヤスミナ女王とて女として母としてやむにやまれぬ事情があった…お前は心のどこかでその真相を知りたいと願っている」

女神の顔に動揺が走った。

「母親を怒り怨むのも、そろそろ終わりにしないか?」

弟は兄から視線をはずし、顔を覆って泣く侍従長の元へ歩み寄った。

「ヒューイ、ボッソニア兵に騒がせて悪かった…と謝っておいて…今日は東宮に戻らなくていい。お前は兵舎でウィスカ達と休みなさい」ベールを被った。

そして兄を一瞥することなく立ち去った。

「ヒューイの母親は情が濃い。ああやって息子の背後から諭されるとつい絆されてしまう」王太子宮を足早に立ち去るベールの影から洩れた独り言を聞いたのはキンメリア語を解さぬ東宮門の衛兵であった。

その後、堂々とボッソニア兵舎に出入りできるようになった東宮の主は食堂に入り浸り、興味の赴くままに兵舎の中を自由に闊歩した。

軍団長のジニアスは生真面目さが災いしてか、粗相があってはならぬと気の休まる暇がない。

それでも淫気に当てられ、まともに顔を見れなかった第二王子に対して普通に振る舞えるようになっていた。

兵舎の実質的な責任者であるウィスカもシェラムが東宮に戻るまでぴったりと側に付いている。

東宮に戻るまで…それが近頃は“私もここで寝る”と言い出して幾晩も泊まるようになっていた。

お陰でジニアスの眼の下にはクマができて厳つい顔が余計に険しく見える。

いつしかジニアスは知らぬ間にシェラムに仕える事に喜びを感じていた。

それはウィスカも同じである。

フィーリアが命を賭けて道を示した御方…という意識が二人に芽生えていた。

特に十年前の惨劇にタランティアにいなかったウィスカは、今度は自分が妹に代わってシェラムを守る番と誓った。

将軍と部隊長、さらにヒューイの涙ぐましい努力の甲斐あって最初は遠巻きにしていた兵士達の中から次第に打ち解ける者が現れた。

ただし“歩く疫病神”と兄から称された第二王子である。

シェバは気を許していない。

その軍師に案内されてベンダーヤの勇者はボッソニア軍を訪れた。

急遽ジニアスの私室の奥に歓談室――というか娯楽室なるものが作られていた。

新しく増築を…という王太子宮総帥の案は東宮の主人によって却下され、物置となっていた廊下の突き当たりに勝手に居場所を作ってしまった。

将軍の間に一歩足を踏み入れると、にぎやかに騒ぐ声が廊下に響いている。

「いつもこのような有様か?」執務室の机にかしこまるジニアスに声を掛ける。

「はあ…いえ、今日は特別にご機嫌麗しく…」

チァンリルはきょとんとして軍師とボッソニア将軍のやり取りを聞いている。

全てがわかれば“ウチの皇子がご迷惑を”と真っ赤になって平身低頭することだろう。

娯楽室は双六の真っ最中だった。

賽子が振られるたびにどよめきと笑い声が起きる。

その中心には当然の如くシェラムがいた。

相変わらず水死体から剥ぎ取った麻のトゥニカを着て、色焼けしてくすんだカーキ色になったボロボロのベールを肩から羽織っている。

「非番の兵がこんなにいるのか?」

入り口に立っていたウィスカは時ならぬシェバの来訪に慌てて敬礼した。

「いえ、自由時間を繰り上げております。殿下がお出でになると皆順番に交代でお相手するようにしております…」

「殿下は人気者ですから順番を決めるのも大変だったんですよ」隣でヒューイが誇らしげに礼をした。

下地はあった。

ザモラ国境戦に従軍した兵士達がイシュタルの化身としてシェラムをカリスマ化していたからである。

その第二王子から親しげに“皆が興じる流行の遊びを教えてくれ”と言葉を掛けられた。

最初はカードだったのだが、ルールを覚えたばかりの王子が連戦連勝で…

王子自ら“お前達の背後霊が札を教えるのでつまらない…私は透視なんてしてないよ”と意味不明の事を言い出してカードは廃れ、代わって双六が盛んになった。

“これは私が念を送らない限り自在には操れないからいい”…のだそうで、毎日新しい双六盤を市中から取り寄せて賽子遊びに興じていた。

また王子は相手をする兵士達に時折妙なアドバイスをした。

「お前が無くした柄袋は寝台と脇に置かれた革椅子の隙間にあるよ…諦めないでもう一度探してごらん…」

「寝起きが悪いのだね…病気ではないけど辛いだろう。血の巡りが普通の人より遅いからだね…アカデミアの医療院に行きなさい」

またある時はいきなり兵の額に手を当て、瞑目したあと「戦場で殺した敵兵が憑いていた…祓ったから大丈夫だ」――とも言った。

昨日などは一人の兵卒の腕を掴んでジニアスの部屋へ現れ“この兵に緊急に休暇を取らせろ”と命じた。

いわく「母親が郷里で倒れたとこの者の姉が知らせている。今からボッソニアに旅立てば臨終に間に合う」

後に母の最後を看取り、葬式を出し、全てを終えて帰還した兵は毎夜故郷の夢と死んだ姉が呼んでいる夢を見ていた…と語った。

シェラムはヒューイに宣言したとおり、あるがままの自分を見せた。

カニリアの尖塔にユーバスの林を作ったように殊更魔力を誇示する事もなく、コーシェミッシュの陥穽に籠もったように世を捨て、自らを封じる事もせずに…

兵士の背後にいる者が伝えて欲しいと訴える…その時だけ力を使い託宣をした。

別に使い魔を操る訳ではない。

怪しげな呪物を出したり、呪文を唱える事もない。

大蛇に跨った姿は確かに魔道士であったのだが、こうして間近でかいま見る不思議な力は神に近い。

何と言っても神秘と慈愛、そして魔性と妖艶を併せ持つ美貌が人間とは思えぬ不可思議な雰囲気を生む。

だからシェラムの言葉を誰も疑わなかった。

ザモラ遠征に加わらなかった兵達もシェラムを神の使徒、もしくは神そのものとして崇めるようになった。

“夢見が悪い”とか“身体の調子が悪い”とか…人生相談とも祈祷か占いの依頼とも取れる祈願をしてくる者まで現れた。

その度に丁寧に話を聞いてやり、なにがしかの提言を送る。

躯の一部に手を当てたり、さすったりすることもある。

そして最後に“これでもう大丈夫だから…”と締めくくる。

それだけで皆満足し安堵した。

中には感動のあまり平伏したまま泣き出す者までいる。

こうしてシェラムは死者と生者の申請に答えた。

ボッソニア兵達はシェラムの来訪を心待ちにするようになった。

そして順番を決めて交代で接待する。

神様が望むままに遊びの相手をし、最後は皆跪き退出するシェラムの土埃にまみれた足に一人づつ接吻した。

僅かな間に彼らはコナン配下のボッソニア軍でありながらシェラムに心酔し私兵団となってしまっていた。

その様を複雑な眼で見ていたのはシェバだけではない。

本来なら最も側近くに仕えるべきチァンリルもまた穏やかならざる視線を送っていた。

“一日も早くアヨドーヤにお帰り頂かなくては…”

シェラムは皇太子としてベンダーヤの要である。

本来ならば母ヤスミナと共に国と民を支える大黒柱でなくてはならぬ。

しかしそれよりもっと重く、何よりも高い地位にあるのは国家宗教アシュラ教の主祭神アースラ大神の意を依ります“生き神クマリ”であることだ。

このような外つ国で、異教徒に崇められるような御方では無い。

「クマリ神に申さくはルジャ宗家の裔にして臣下チァンリルなり」いきなりの聞き慣れぬ言葉にボッソニア人達は振り返った。

チァンリルはタランティア宮に一年近く滞在し、ヴァイロンの側に仕えていたから、顔は見知っている。

再び現れた異国の戦士の唯ならぬ気配に、黙ってシェラムの前をあけた。

「皇太子殿下におかれましてはご機嫌麗しく、恐悦至極に存じます」ベンダーヤ語…それもアヨドーヤ王朝の宮廷言葉で挨拶し、ベッタリと平伏し額を床に着ける――東洋の拝礼だった。

「チァンリル…ザモラ依頼だね、お前も健勝で何より。道中無事でよかった」それに対し皇太子はアキロニア語で答えた。

「ここはアキロニアだ。平伏しなくていい。それにこの床でその拝礼をしたら、ほら顔も手も服も汚れてしまうよ」

それはアキロニア語で話せ…という意を含んでいる。

シェラムの瞳が光っている――あのザモラ国境の時と同じ…違和感は左眼の…

「承知…」チァンリルは見据えられたまま掠れた声を絞り出した。

季節が変われば自分の誕生日が近い。

彼が何の使者で遙か東方から赴いたのかは解っている。

「ヒューイ」

「はい!」戸口に立っていた少年が走ってきた。

「この子覚えてる?ザモラでお前を呼びにやった…」

「あ…はあ、そういえば…」

あの特殊部隊の武具を纏った俊足の少年兵か…

「お久しぶりでございます、大使様」ヒューイはベンダーヤの勇者として名高いチァンリルに腰を屈めて礼をした。

「彼はアキロニアでの唯一の臣下。東宮の侍従長に抜擢したんだ」

「この子をで…ございますか?」殿下より年下なのは一目瞭然。

「ね、シェバ。彼はよくやってるよね?」

「それなりに…」貴方が問題を引き起こさなければ彼はもっと評価されます…という言葉を呑み込む。

「さて、お前が来たからにはしばらく此処にはこれないなあ」ゆっくりと…名残惜しげに椅子から立ち上がる。

「東宮に戻るよ、ヒューイ。ああ、シェバもガイへの報告を兼ねて一緒に来たいんでしょ?」

「お許し願えますか?」王太子宮総帥の威圧感はさすがだ。

「許さなくても強引に来るくせに…」ニヤリと笑う。

“あっ”その表情を間近で見たシェバはハッとした。

“ヴァイロン様そっくりだ…”


ヒューイが主の書いた地図を頼りにタランティア市外にあるアシュラ教の神殿を訪れたのはその夜の事だった。

「夜陰に乗じて…ね。お前の得意分野だろう?」手紙と共に地図と建物の見取り図を渡された。

辿り着いた場所はただ粗壁が連なっているばかりで、どこにも入り口らしき処は見あたらない。

見取り図に示された壁の窪みに手を掛けると微かに軋む音がした。

それは虫の音に紛れ、特殊部隊の兵士の耳だからこそ聞き取れる程の小さなものだった。

あたりは漆黒の闇であったが訓練を受けた少年は夜目が利く。

音のした方に眼を懲らすと継ぎ目に見えた壁の一部が微かに開いていた。

そっと躯を滑り込ませる。

すると再び微かな音がして隙間が閉じた。

「どなたじゃな?」いきなり声をかけられ少年は飛び上がった。

咄嗟に身を低くし、剣の柄に手を掛ける。

頭巾を目深に被った人影が闇の中から現れた。

「俺はヒューイ…シェラム殿下の使者としてハドラタス神官という人に手紙を持ってきた…」声を潜める。

邪教と恐れられたアシュラ教がアキロニアで日の目を見るようになってからかなりの年数が経っていた。

コナンを救出しザルトータンを滅ぼしたのはアキロニアのアシュラ教徒を統べるハドラタスである。

再び王となったコナンはこの異教徒を以前にも増して手厚く保護し、ミトラ信徒の迫害を禁じた。

その後アシュラ教の大本山アヨドーヤ神殿から“生き神クマリ”がタランティア宮に移り住んだ事でその勢力は一気に増大した。

堂々とタランティア宮殿に伺候し、コナン王や王太子に謁見した。

しかしその教団の姿勢は今も変わらない。

こうして教徒しか知り得ない秘密の礼拝堂を持ち儀式も教義も神秘のベールに包まれたままであった。

ミトラを信奉するアキロニアと周辺諸国の人々は現在も、かつてまことしやかに囁かれた暗黒の噂を忘れてはいない。

辺境育ちの少年にとって東洋の神秘と憧れは伝え聞いた邪な噂をも伴っている。

頭巾の男が手招きした。

警戒を解かずに後に従う。

中は迷路であった。

二人とも足音がしない…ヒューイと同じように体重を消す修行を積んだ者の歩みだった。

かがまねば歩けぬような通路、通った瞬間背後が閉じる扉、石段を登り、下り、また登り…もう何処をどうやって来たのか解らない…

ここで前を行く男を見失ったら――恐怖がヒューイを支配していた。

そしてその恐怖が頂点に達しようとした時、壁の一部が開き煌々とした光が漏れた。

頭巾の男が入るように示した。

天井の高い大広間だった。

大理石の壁が青銅ランプの光を反射して眩い。

床も大理石の一枚岩で前方に分厚い絨毯が敷かれている。

その奥に――

「おお、ヒューイというのは貴方か?クマリ神…いやシェラム殿下より聞き及んでおる…」

瓜実顔で目鼻立ちの整った痩せぎすな男が象牙の椅子に坐っていた。

後ろには螺鈿が埋め込まれた紫檀の壇があり翡翠とおぼしき香炉から芳しい香りが立ち上っていた。

傍らの燭台に照らされた顔色は青白いが表情は柔和だ。

「ハドラタス神官様…でございますか?」知らずに異教徒の神官に敬語を使っていた。

「そうじゃ…さ、これへ」招かれるままに前へ進む。

ヒューイは細かな細工が施された象牙の椅子におっかなびっくり腰を下ろすと胸元からシェラムの手紙を取り出し、恭しく献げた。

それを受け取ったハドラタスの行動はもっと大仰だった。

香炉の脇に置き、絨毯に平伏したのである。

唖然とするヒューイの前で三度立ち上がっては平伏し、額を絨毯に擦りつけ何やら解らぬ呪文を唱えた。

そしておもむろに封を切って読み始めた。

「なんと!」ハドラタスの青白かった顔にみるみる朱が差した。

「ヒューイ侍従長、ベンダーヤからの御使者はどなたじゃ?」声が掠れている。

「チァンリル様でございます…」

「成る程ヴィダラーハ殿は嫡男を寄越したのか…これは真と思わねばなるまいよ…」

「はあ?」

「いや、こちらの事じゃ。我らは十年前に一度謀られた事がある故な…慎重になってしまうのじゃ」

「…………」

「ヒューイ侍従長、返書は書かぬ。明日後宮に伺候致します…とだけお伝えくだされ」

「後宮?」

「そうじゃ、アルビオナ殿の私室にて御逢い致そうと…」


前代未聞の珍事であった。

いくら聖職にあるとはいえ壮年の男、それも異教の神官が後宮の奥に足を踏み入れるなど…

彼を招いたのが後宮随一の権力者アルビオナ伯爵夫人でなければ警護にあたる処女騎士団によって問答無用で誅されていただろう。

後宮奥の間に仕えている女官、侍女らは皆一様に沈黙し、顔を背けた。

驚愕の表情は隠せぬが騒ぐことはできない。

もし中央宮や王太子宮に知れたら――どのような大騒動に発展するか…役付の女官達は主人であるアルビオナ夫人が咎められるのではと思うだけで恐ろしかった。

みんなが黙っていれば…暗黙のウチに目撃した女達全てが隠し通そうと…無かった事にしようと心に決めた。

だがその決意もすぐに揺らぐ。

幾ばくもせぬうちにシェラム殿下がまだあどけなさを残す侍従長と白銀の総髪を肩先で切りそろえた王太子宮総帥、そしてエキゾティックな風貌をさらに際だたせる豪奢な総刺繍の長衣を翻す東国からの使者を伴って謁見の間を超え、奥に通じる回廊の扉を開けたのだ。

王太子様が通られるのだから、シェラム様は問題ない…問題は少年とはいえ鍛えられた身体の東宮侍従長と明らかに歴戦の勇者とわかる堂々とした体格の東洋人だった。

今まではこのような傍若無人ともいえる振る舞いを止める…いや断罪する立場にいたシェバまでもが厳しい表情で奥へ入る。

“一大事!”

“謁見の間までお戻り頂かなくては”

――しかし前に立ちはだかり遮ろうとした娘達は指一本動かせなかった。

先日、王妃自らが贈ったという薄紫のキトンの裾を長く引き先頭を歩む王子に視線が釘付けになった。

本来なら姿を見た時点で腰を屈め頭を垂れて行き過ぎるまで礼の姿勢は崩さない…それはアキロニア王都のタランティア後宮に暮らす者として最低限のマナーであり、賄い婦から仕立て女、下働きの下女に至るまで徹底して躾られていた。

ましてや奥の間に伺候する女官や侍女、衛士――彼女達はみな地方貴族の妻女や令嬢、もしくは各軍の将や部隊長の血縁にあたる少女兵である。

“ああ…シェラム様…”意識はある――だが頭に血が上り何も考えられなかった。

一行がこちらに近づいて来るにつれ細かな部分までが目に入る。

一歩ごとにまとわりつくシルクが身体のラインを露わにし、さらに光沢と陰影がそれを強調した。

胸乳の小さな突起、みぞおちから臍の窪み…さらに腰回りから臀部のなめらかな曲線。

漆黒の髪が流れるようにうねり、黒目がちな瞳が潤んでいる。

そして白い肌に際だつ赤い唇…

東洋の薫香だろうか?えもいわれぬ不可思議な香りを残して通り過ぎて行く。

まさに微醺――異性を知らぬ少女達が赤く顔を紅潮させ、荒い息を吐く様は酒に酩酊しているようだ。

中には両腕でふくらみ始めた乳房を抱え込み、躯を震わせる少女もいた。

中性的なのではない、長身痩躯…明らかに異性であると解るのだ。

キトンの裾を踏まぬよう足下を気にする背後の少年より頭一つ高く、右脇の東洋人とは背丈は変わらないが躯の幅が違うので、ほっそりと上背があるように見える。

荒々しい筋肉美であったなら処女達は畏怖を感じて拒絶したかもしれない。

だが彼女たちはこのようにしなやかであでやかな異性を見たことがなかった。

さらに帰還された第二王子には生身の男とは…いやヒトとは思えぬ何かがあった。

神々しい、畏れ多いというだけではない…酷く淫靡で艶めかしい。

それが女官として仕えている貴族の夫人や寡婦達の躯を欲情させた。

吐息は自分でも恥じ入るほどに熱く息苦しい。

しつこいほどに粘る視線で見送る。

その媚態は娘達の比ではない。

四人が人払いされたアルビオナ夫人の私室に消えたとき、何人もの女官が気を失って倒れた。

顔は上気し、息は荒く…そう、彼女達は気を遣ったまま絶頂で失神してしまったのだ。

モザイクで彩られた幾何学文様の床に夥しい愛液をこぼしながら…


ハドラタスはアルビオナやシェバの眼を気にもせず床に額を擦りつけ、また立ち上がり、合掌した手を上に上げ、再び平伏し――入室したクマリ神に五回の拝礼を繰り返し最後に膝で這い寄って銀のサンダルを履いた足に額を乗せ、アースラ大神の憑坐クマリへの讃辞を唱えた。

それは昨日ボッソニア兵舎でチァンリルがシェラムに対し行おうとして止められた生き神への拝礼だった。

もっともあの後、東宮に伴われたチァンリルはどうしてもと言い張ってこの拝礼を行い、ボロボロのトゥニカを着たシェラムの汚れた素足に額を乗せたのだが…

「お招き感謝する、伯爵夫人」呆然と見守るアルビオナに嫣然と微笑み軽く会釈すると勝手に次の間に入り、中央の長椅子に腰掛けた。

「今日の我らがここに集うこと、ゼノビア殿は?」

「お知らせしてはおりません。一切わたくしの一存で為したこと…それ故今後陛下よりお咎めがあれば全てわたくしがお受け致します」まなじりを決してはいるが、さすがヴァレリウスの暴挙にも屈せず貞節を守り抜いた女傑…そのへんの騎士より覚悟が坐っている。

「事が知れ渡る時分は宮廷中大騒ぎでしょうな…」そういうシェバからはいつもの眉間の皺が消えている。

「お前がこちら側に荷担している限り揉み消してくれるよね、シェバ?」

「ご冗談を…職権を盾にそのような真似はできません、私もアルビオナ女官長同様潔く陛下よりの御沙汰を受ける覚悟…しかしながらその御沙汰を遅らす事は吝かではございません」

「じゃあ、さっさとやらなきゃね。ヒューイお前は扉の前で見張り…いや入ってくる者がいたら阻止して」

「はい!」昨日からの唯ならぬ展開に興奮しっぱなしの少年は、すでに剣の柄に指を掛けている。

「こちらが昨日東宮殿にて殿下にお渡し致しました、第二十七代大バラモン、ボガラ大師の親書でございます」黒漆にアシュラ神話の蒔絵が施された文箱がチァンリルによって恭しく掲げられた。

「おお、大師様の…」アシュラ教総本山、最高位の大バラモン自らの書と聞き、ハドラタスが合掌した。

が、シェラムにとっては神々しい物ではないのだろう――昨日と同じく無造作に受け取ると上に掛かっていた綾織りの紐を解いて蓋を開き、さらに七宝の内蓋も開ける。

羊皮紙とは違う…植物の線維を煮溶かし手漉きにした巻紙に墨で見慣れぬ文字が書かれていた。

「読んでいいよ。この二人…あ、ヒューイもいたから三人か…にも昨日読んで聞かせてるから…」あっさりとハドラタスに渡す。

「そ、それでは失礼致します」恭しく掲げてから開く。

『畏れ多くもシェラム殿下が奪還くだされた第26代大バラモン、ガジューラ大師の翡翠面は無事にガダの霊廟に安置致しました』

あとにはこれに対する礼とクマリへの讃辞が書かれているだけだ。

「殿下…これは?」ハドラタスが拍子抜けしたような声を出した。

傍らでベンダーヤ語の文書が読み上がるのを緊張の面持ちで聞いていたアルビオナ夫人もポカンとした顔をしている。

シェラムは懐から小さな水晶球を取り出すとハドラタスの眉間に当てた。

「なんとっ!」

「アジナーが開いた?」

「は、はいっ」ハドラタスは上気した顔で再び書面に顔を向けた。

「イ、イムシャ?なんと…今またこの禍々しき名を見ようとは…」アジナー・チャクラ…第三の眼の開眼に喜悦していていたハドラタスの顔が歪んだ。

「どう?本山を遠く離れていてもハドラタスの力は大したものだろう?」そんな苦悩の表情を身ながら、シェラムはチァンリルに自慢げな視線を向ける。

チャンリルは急に椅子から立ち上がるとハドラタスの前に立った。

おもむろに床に正座して身を屈め合掌し高僧を崇める経の一説を唱えた。

「ルジャ宗家の総領殿がそのような…我は御身一族のような高位の神官ではござらぬ」ハドラタスは狼狽した。

「いや、昨日殿下は私にも同様に水晶をかざされました。しかし文字が朧気に変化したことはわかったものの読み取る事はできませなんだ。確かに我がルジャ家は一門よりバラモンを輩出する家柄なれど私自身の霊力は未だ未熟…武技の鍛錬にかまけアシュラ教義の勉学もおぼつかぬ有様にて、今後はハドラタス殿を我が師と呼ばせて頂きまする」

「今後?」

「わたしがアヨドーヤに帰るまでタランティアにいるんだって。その間はお前の神殿に通いたいそうだから、頼むね」ハドラタスに微笑む。

シェラムがゆっくりと水晶を戻した。「こういったモノは所詮介助物に過ぎない。チァンリルも自分の意思でチャクラを開き第三の眼が使えるようになりなさい。どこにいても修行はできる、自分の心がけ一つだよ」

それはシェラムが胎内道のチャクラを自在に操れるということか?

「それより“イムシャ再動”という凶事をどう処するかでございます」ここでは異教徒のシェバが口をはさんだ。

亡き兄シュカはミトラ神官、しかも最高神官デキシゼウスの直弟子である。弟の彼も生粋のミトラ信者だ。

「昨日殿下が読まれたように、そこにツランの残党の動きまでが記されているという事になりますと…」

「書かれております…確かに…」ハドラタスがゴクリと唾を飲んだ。

「もともとイムシャの魔王めが女王陛下に邪な思いを抱いたのもツラン領内にあったタリム神の僧侶共からの懇願によったものと洩れ聞いております」

タリム神の僧侶の一派にイムシャの黒き予言者達の侍者がいた。

彼らは擁護者であるツラン王の野望に荷担してくれるよう主人達に願い、魔王と名乗る彼らの長がその願いを聞き届けた。

黒き予言者達にとっては一介の王の野望など大した問題ではなかった。

イェズディガード王の野望とは領土拡大と女――ベンダーヤ王国を併合しヤスミナを自らの後宮に入れる事だった。

その魔力であっさりとヤスミナの兄…国王であったブンダチャンドを屠り、イラニスタンの皇子に化けたイェズディガードの配下ケリム・シャーとイムシャの預言者達の従僕たる魔道士ケームサの謀は成就するかに思われた。

しかしベンダーヤ王国の継承者としてのプライドと兄の復讐に燃えた王女(デビ)ヤスミナは亡き兄に呪いをかけた相手を突き止め戦いを挑もうとした。

皮肉なことに復讐を誓う王女は国境でツラン、イラニスタン、ベンダーヤどの国の勢力にも従わず自由を貫く民族アウフグリの首領ゴールのコナンによってベンダーヤ軍の手に落ちた配下との人質交換の為の虜囚として拉致されてしまう。

ここで彼らの陰謀は大きく狂う。

反発していた王女がコナンに惹かれ、またコナンもアウフグリの一族から裏切り者呼ばわりされても王女の身を守る…一介の恋する男になってしまったからだ。

さらに王女に興味を持った自らを魔王と称するイムシャ山の長はイェズディガードへの支援を打ち切った。

この時点でベンダーヤとコナンを滅ぼすべく暗躍していたケリムシャーとケームサは散々こき使われたあげく惨めな死を迎える。

魔王に愛するヤスミナを奪われ怒り狂ったコナンはイムシャ山の魔城に単身攻め込み黒い予言者達と命懸けの戦いを繰り広げた末、魔王自らが変化した大蛇が囚われのヤスミナに襲いかからんとする処を間一髪で救いだし、大蛇に深手を負わせる。

そのままイムシャの予言者達は闇に逃げ込み魔城は沈黙したのだが…

駆けつけたベンダーヤの正規軍(クシャトリア)と再びコナンを首領に頂いたアウフグリの一団によって攻め立てられ、国境に侵攻していたツラン軍は壊滅する。

そして勝利に酔う彼らの眼前で恋する女から王女の顔に戻ったヤスミナの喉元を狙い空中から飛来した禿鷲が一瞬早くコナンに討たれ、もんどり打って崖下に落ちていく中で、黒衣の人間に変わった事は脅威の事実であった。

この時三千余のクシャトリアを率いて失踪した王女の跡を追い、未だ足を踏み入れた事のない山岳地帯にまで分け入ったベンダーヤ軍を指揮したのが青年時代のヴィダラーハ…ルジャ宗家の嫡男、つまり若き日のチァンリルの父であった。

この辺りのいきさつは武勇伝も兼ねて父から何度も聞かされている。

誰もがイムシャの魔王は滅びた――そう思っていた。

しかし十年前のあの騒動…イェズディガードの遺児達はベンダーヤが、そして女王として君臨しているヤスミナがイムシャをどれ程忌まわしい過去として封じているかを知っていた。

コナンへの復讐に燃えた彼らは混乱を生ずるべく敢えてイムシャ山の魔王復活という偽りの情報を流し、その手先になりすまそうとした。

ヤスミナにとってイムシャは消そうとしても消せぬ自虐の炎であった。

囚われたヤスミナに迫まる羊皮紙の張り付いた皮膚…腐れた骸骨のような顔…未だに悪夢が襲う。

しかし一番の疑念はあの時自分の身が汚されたのではないか…という事だった。

王女の意識を消し、奴隷に作り替えようと魔王自らが施した幻術――それに翻弄された自分…現実の躯の感覚が切り離されていた間に汚らわしい陵辱にあったのかもしれない…。

何故ならおぞましき幻術はヤスミナに何度も“おんな”の一生を味合わせたのだから…

獣に追われ、僅かな穀物のために汗水たらし働き、眠ることも許されずに織機の上に屈み込み…

略奪者の刃に震え、奴隷商人の鎖に引きずられながら熱砂を歩き、裸に剥かれた肌に容赦なく打ち下ろされる鞭に怯え…

惨たらしい拷問に身悶え、断頭台に押しつけられながら必死で抗い…

力尽くで犯され、子を孕み、産みの苦しみを知り…

男の暴力、裏切りに苦悩し、女から受ける仕打ちにも耐え…

そして自らの嫉妬や憎悪に身を苛まれた。

ヤスミナは最後まで王女であるという自我を捨てなかった。

それ故精神を苛まれるのだとわかってはいたが、アヨドーヤ王朝の嫡子というプライドが苦痛に勝った。

いつかは屈服するであろう――それが魔王の誤算であった。

延々と続く幻術に耐えるうちにヤスミナの切望したコナンが城に乗り込んで来たからである。

魔王はコナンと対決し魔力が破られたと悟ると大蛇に姿を変えヤスミナを屠ろうとした。

どれが幻でどれが現実なのか…朦朧としたヤスミナが今にも大蛇に呑み込まれんとした瞬間、コナンの姿を見て歓喜に胸が躍り、朧気な記憶を奥に押しやってしまったけれど…

コナンと袂を分かち為政者として生きる道を選んだあの日――皮肉にも女王即位を国の内外に知らしめた夜に躯の異変に気付いた。

“恐れながら御懐妊”と宮廷医師は告げた。

コナンの子!――その時は疑うことなくそう思った。

去っていった男が一人の女として生きる自分に希望を残してくれたのだと…

だが臨月が近づくにつれまことしやかな噂がアヨドーヤ宮に広まった…女王の子はイムシャの魔王の落胤。

その為シェラム誕生は待望の男子であったにも関わらず変わった子細となった。

皇太子即位と同時に国教アシュラの最高神アースラ大神の託宣が下ったとして現人神クマリに祭り上げられたのである。

バラモン位にある神官の中からいずれ大師を謚されるであろう霊力を持つ僧五名をガジューラ大師自らが選別し養育係とした。

アヨドーヤ神殿の中でも最も奥まった神苑で養育された皇太子が人前に出るのはアースラ大神の大祭が催される年に一度の祭礼行事の折のみであった。

クマリ就任から一年目は片言を発するのみで、なんとか伝い歩きをする赤子は後ろから支えられて神輿に乗っていた。

逆に二年目は物心付いて初めて見る大観衆に興奮し、少しもじっとしておらず神輿から落ちそうになって養育係を慌てさせた。

常にシェラムの傍らにあって落ち着かぬ幼児をあやしながら類い希なる通力で周囲の邪気を祓ったのが今のボガラ大師であった。

そして運命の――三度目の大祭に日がやってくる。

皮肉なことにシェラムの霊力が高まり、三歳の童子とは思えぬほどに分別がつき、まさに純粋無垢なクマリ神として覚醒したと思われた事がこの日の凶事の要因となった。

今まで傍らにあった五名のバラモン僧は養育係ではなく本来の役目である生き神の介添え役に戻っていた。

もしも昨年のように神輿に同乗していたら――“一生の不覚であった”今でもボガラ大師は涙するという。

ツランの目を欺くため僅かな手勢と共にかつての遊牧民の扮装で同盟調印に出向いていたコナンが息子の晴れ姿を見ようと女王の椅子の背後に掛かる緞帳の後ろに身を潜めていた。

ベンダーヤでは未だ国境の自由民アウフグリの首領ゴールのコナンとして異名が轟いている。

女王の間夫(まぶ)だと姿を顕すわけにはいかない。

緞帳の隙間からそっと正面の神殿を覗う。

神殿大階段にバラモン達に担がれた神輿が現れた。

露台から国民の歓声に答えていた女王ヤスミナがクマリ神を迎えるために下に降り、向かいの大神殿まで花が敷きつめられた聖なる路を歩く。

その間は、民の代表として神を迎えるのであるから一人の従者も伴わない。

アヨドーヤ王朝、いやアシュラ教が信仰されて以来、代々の君主は一人で生き神を迎えに赴いた。

そこにまさかの油断があった。

自ら王となる野望に身を焦がしたチェンギルはヤスミナの従兄弟でありながら神の怒りをも畏れずにこの日を反乱の決行日とした。

黒い仮面を付けた暗殺者達が民衆とヤスミナの間を警護する兵を打ち倒すと一気に立ちつくす女王に襲いかかった。

一際高い位置にある露台の奥からこの様子を―― 一目で歴戦の戦士とわかる黒衣の男達が人混みをかき分けて警備兵に迫ろうとするのを見たコナンは蛮人特有の体術で露台から高層の建物を伝い神殿の脇に躍り出た。

そして背後に愛する女を庇いながら一刀のもとに襲い来る暗殺者を切り伏せた。

だが、チェンギルの執念は凄まじかった。

コナンの長剣に貫かれながら立ち塞がるバラモンを斬り殺し、投げ出された神輿から幼いシェラムを引きずり出し…

チェンギルに痣が残るまで絞められた首…だが幼いシェラムを傷つけたのはコナンが放った矢にトドメを刺されるまでに彼が吐き続けた暴言であった。

自らの血の起源の苦悩も産み落とした母親への怨嗟も全てこの時から始まった。

皇太子でありながら故国を捨て、さらに陰謀に巻き込まれ、自ら命を絶ち、甦り…運命に翻弄される日々の発端は血塗られた祭りであった。

そして女王として母としてのヤスミナの苦悩は、イムシャ山に拉致されて以来二十年近くに及び続いているのだ。

チェンギルをそそのかし、反乱を手引きをしたのが代々のツラン王が配した“王の耳目”――その土地に何代にも渡って住み着き諜報活動を行う間者の仕業であったとヤスミナはじめ総理(ワザム)やクシャトリア達が気づいたのはシェラムがアキロニアに旅発った後の事だった。

さらにその後も女王暗殺の魔の手は何度も王宮を揺るがし、その度にタリム神の僧侶の姿を見たのイムシャ山に灯りが見えるの…はては夕暮れに禿鷲が王宮を旋回し魔の山に向かって飛びさったのといったあらぬ噂が流れる。

アキロニア侵攻で故国が滅亡した時彼らは帰るべき場所を失った。

ヴァイロンの行った徹底した虐殺と焦土作戦により親族を皆殺しにされた恨みは深い。

主人であるイスマディア王がヴァイロンに刺し殺されて以来、彼らを束ね命令を出す者がいなくなった。

復讐に燃える者達は各々勝手に暗躍を始めた。

背後にはヒルカニアを拠点としたタリム神の信者が動いている。

彼らもまた擁護者であったツラン王家を失い信仰存続の危機に瀕していた。

混乱に乗じてイムシャ山の黒い予言者に連なる一派が急速に権力を伸ばした。

“王の耳目”の新たな束ねとなったのはこのイムシャの魔王に使える僧達であった。

ツランの残党を匿い、暗殺部隊を創設した。

アキロニアとそれに隷属する国々のキャラバンを襲い略奪や殺戮を仕掛ける盗賊団を組織した。

弱みは見せられない。

僅かな隙を突いてくる。

ヴァイロンの異民族に対する冷徹な処遇は対抗策の一環に過ぎない。

前王家に連なる者達に見張りを置くのも、人質を出させるのも彼らへの牽制だ。

賊徒に対抗するため“コナンの同志”を育成しているが、彼らは自らツラン語を封じ、混血を繰り返し土地の者に同化している為、正体が掴めない。

アキロニアの民として暮らし、同盟諸国から訪れた旅人を装って国の内外を自由に闊歩している。

やっと組織としての形態を成し始めた“コナンの同志”では、まだその暗躍の糸口すら掴めない有様だった。

しかし事が起きてからの情報伝達は早い。

元々土地の民で結成された“コナンの同志”には機動力も対処能力も備わっている。

徹底したヴァイロンの政策により“ツランの間諜狩り”は徐々にその効果を発揮し、逆に彼らはますます追いつめられさらにアキロニア王家への憎悪に燃えた。

「この文書に書かれているアキロニアに暗雲をもたらす因子が誕生するというのはどういう意味だと思う?」シェラムはハドラタスに顔を向けた。

「お前に来て貰ったのは最近の星の動きに何か変動は見られないかと思って…」

「実は…」ハドラタスの顔が曇った。

「ロードタス河の中程に暗雲が見えておりました。それ程大きなモノではなく時折月を隠す程度ではございますが…妄執に囚われ、病に伏した者がいる場合もこのような事が起きますれば、さして気にも留めませなんだ」

「それってどのあたり?河向こうだとエルモダだよね」

「いえ、河のこちら側でございます。城外に広がる森を川下に下り、平原を突っ切りさらにもう一つの森を抜けましたあたり…」

ハドラタスの言にシェバの顔色が変わった。

「心当たりがあるの?シェバ」

「ございます!」女の甲高い声がした。

「ゼノビア…」

「王妃様!」アルビオナ夫人を先頭に皆深々と頭を垂れる。

「す、すみません!俺…お止めしたんですけど…」ヒューイが項垂れている。

仕方あるまい。後宮で王妃を阻止できるのは国王コナンだけだ。

シェラムは手でヒューイに下がるよう合図した。

「聞こうか?心当たりを…」普段のような“王妃”に対する言葉遣いではない。

ヴァイロンと同じコナンの息子としての態度になっている。

「タランティアよりロードタス河を下った森の外れ…アッタルスでございます」ゼノビアの美しい顔が引きつっていた。

「王妃様、それ以上は…」シェバが叫んだ。

「なんで止めるの?」

「王太子殿下にご裁可を仰がねばなりません」

「なんでガイが関係あるの?」

「アッタルス男爵ディモーネの嫡子は王太子付きの小姓ディジャスでございます。そして今王妃様がお話にならんとする“暗雲をもたらす因子”の心当たりは弟ディグレットの子でございましょう」普段冷静沈着な軍師であっても押さえきれぬ激情に動かされて一気にまくし立てる。

「ふうん…」シェラムは考え込んだ。

今ひとつ話の見えないチァンリルは黙って事の成り行きを聞いている。

ディジャスとディグレット…この皇子を探す旅の最初を共に過ごしたアッタルスの兄弟は決して凶事の原因になりそうな若者ではなかった。

しかしイムシャの名が現れ、ツランと記されているからにはシェラムが黙っているはずはない。

ましてボガラ大師は『争い事の要因を排除し平穏をもたらし給え』とクマリ神に“祈願”している。

“事が起きてからでは遅い”とこの予言書を自分に託したのだ。

それもタリム信者にも黒い予言者にも気取られぬようアジナー・チャクラを開眼した者で無ければ読めない“呪”をかけて…

自分は大きなうねりの中にいる――チァンリルの躯が興奮で震えた。


「もっと背筋を伸ばせ、それでなくてもお前にそのマントは大きいのだから」傍らに馬体を寄せてウィスカが囁く。

慌ててヒューイは胸を張った。

いつもは革の胴衣と軽装の武具で活動している。

前後を守る特殊部隊の先輩や同輩達は今まで通りの軽装だ。

ヒューイだけが金糸のキトンをたくし上げ、更に上から真紅の天鵞絨のマントを着てフードを被っている。

シェラムの着物なので、どれもが大きいうえにキトンでは開脚で馬に跨がれない。

初めての横座りの乗馬でついつい前のめりになってしまう。

一番身近にいて自分の仕草を覚えているはずだから――という理由で主人から身代わりを仰せつかった。

まだお仕えしてから半月足らず…わかっているはずもないと反論したかったのだが、異を唱える暇も無く衣装を着せられた。

先頭を行くジニアスが振り返った。

“大丈夫か?”と言いたいのだろう。

ちっとも大丈夫じゃない――フードの下で少年侍従長は半べそをかいていた。

人々の視線が一手に集まる――緊張で胃が痛い。

タランティア宮から大通りを闊歩して城門を出るまで人々の好奇の目にさらされた。

帰還してから外に出たのは唯一度だけ…それも評議会で居並ぶ大臣諸将、評議員達に十年前の真相を吐露した時だけだ。

あとはタランティア宮殿内でも限られた者しか接する事がない。

もっともザモラ戦に従軍した兵士達が我勝ちに伝えた第二王子の風貌は過去に起きた惨劇の記憶と相まって瞬く間に国中…いや近隣諸国にまで広がっていた。

その噂の王子様が何やら物々しい手勢に守られてタランティア宮から出て行く。

隊列の背後を付いてくる者が後を絶たない。

その度に後詰めの兵が追い払う。

「あれだけ目立ちゃ十分だ…」ズアギルのキラットを纏ったキャラバンが王子の行進を一目見ようと群がる群衆の背後をすりぬけて別の城門に向かう。

最後尾を行くほっそりとした青年の顔は青ざめている。

「グレット」石畳で躓いた若者を兄が支えた。

「大丈夫だ、ご兄弟がきっと助けてくださる」

「うん…」

先頭を進むがっしりとしたキラットが中天にかかる陽を眩しく反射している。

一年前に“コナンの同志”の偽者を誅する旅に出た――皆その時の扮装だ。

先頭に金髪碧眼のヴァイロン、右後ろに白銀の総髪をひとまとめに束ねた軍師シェバ、隣には革の胴着だけを着た近衛隊長のユウラ…以下黒衣のマントをなびかせるカルネ、南方のゆったりとした長衣が風をはらむホルストと続く。

ジニアスは自ら志願してシェラムの側に回った。

さらにあの時ベンダーヤから来ていた客人のうちの一人が今回も作戦に参加している。

大きく変わっているのは作戦を立案し、その成功の鍵を握っているのがあの時は存在も知られていなかった王弟殿下であるいうことだ。

その王弟殿下はハドラタス、チァンリルと共にアシュラ教徒のみが乗る曰く付きの船に身を任せていた。


溢れるほど荷を満載した商船や漁場に掛けた網を引き上げに向かう漁船、それに都市の船着き場を行き来する渡し船で広い川幅の大河は賑わっていた。

貴族の女達が仕立てた船遊びの豪華客船から管弦の調べが満々と水を湛えたロードタス河に響いている。

軽やかな楽の音に耳を傾け艪を操っていた船乗り達が竪琴のように彎曲した異様な船影を見とがめると一様に顔を曇らせ、慌てて船を逸らせた。

行く手を譲られるままに川の流れに乗って進む船は細く削られた舳先が高く突き出ていて、そこに髑髏が描かれている。

髑髏絵以外何の装飾もなく、黒色に塗られた船体の窓は全て帳が降ろされ白い帆だけが川面の陽光に照り映える。

時折川面に現れるこの禍々しき船はアシュラの殉教僧を最後の巡礼に旅立たせる乗り物だった。

高位のバラモンをめざし寝食を忘れ修行に励み、過酷な荒行を課した僧侶が志し半ばで倒れた時、最後の修行としてアースラ大神の御許への船旅につくのだ。

ハドラタスのようにチャクラが開眼する前に、命の炎がついえた僧侶の遺体が、巡礼の衣装を付けて埋葬されている。

黒い肌の奴隷一人が操る船はロードタス河を流れ下り、青の大海に出るのだという。

そして漕ぎ手の奴隷も船も勿論遺骸も大洋から戻ることは二度とない…川面で生活する人々は密やかな噂を囁きあう。

ある者はあのような恐ろしげな船は暗黒の地ステイジアに向かうのだと言い、またある者は水平線の彼方にある黄泉の國だと説き、東洋の事情に詳しい者はアシュラ教の開祖が眠るベンダーヤの聖地であろうと憶測したが、本当の行き先を知る者は誰もいなかったし、敢えてアシュラ教徒に尋ねる物好きもいなかった。

前王朝に迫害されていた頃もコナンの加護を受ける現在も、この巡礼船が畏怖の対象であることに変わりはなく、流れ下る流域に点在するどの都市の衛兵も航行を妨げる事はしなかった。

今船を操っているのは躯を黒い顔料で染めたチァンリルであった。

他の奴隷と同じように…いや比すべきもないほどなめらかにアシュラの呪文を唱えながら櫂を漕いでいる。

本来は遺骸が臥すべき船底にはハドラタスとシェラムが向かい合って結跏趺坐していた。

互いに瞑目したまま微動駄もしない。

いや、ハドラタスは微かに呼吸しているのがわかるが、シェラムはそれすらも…本当に死体に胡座を組ませた如くに見える。

しかし躯は温かく、あちこち破れ目が目立つ麻のトゥニカから覗く肌の色も美しい。

薄紅の頬も艶めく紅の唇も色鮮やかなままであった。

「殿下、ハドラタス殿…」黒人奴隷に変装したチァンリルが船室の扉を開けて囁いた。

「アッタルスの城壁が森の彼方に…」ベンダーヤ語なので、付近に舟がいても何を話しているのかわからないだろう。

気がおかしくなった奴隷が死者に語りかけているのか…それとも黄泉路を往来する死者に呼ばれて答えを返しているのか…

今まで息をしていなかったシェラムの目がうっすらと開いた。

「木陰に覆われた岸辺に寄せてくれ」

「かしこまりました」

舳先を左に旋回させる振動が伝わってきた。

ギシリ…と軋んだ音を立てて巡礼船は森の中に張り巡らされた水路の一本に分け入った。

「こい、ハドラタス…」“負ぶされ”と言う生き神の命令に躊躇する神官の腕を引き上げる。

背負ったハドラタスの上から、色あせて唯のボロ布となったベールで互いの躯を縛り合わせた。

船縁から水面に水しぶき一つ上げずに身を滑らせたシェラムは、とも綱を握り水中に根を張った巨木に繋いだ。

後に続くチャンリルは、これ幸いと泳ぎながら全身の顔料を洗い流している。

絡み合った木の根に足をかけよじ登る。

落ち葉が熱く重なった川縁に跪く人影があった。

黒い頭巾で頭から爪先まですっぽりと覆われている。

アシュラ教徒が戸外を歩く装束だった。

シェラムの背から降ろされたハドラタスは恭しく一礼してから彼らの傍らに寄った。

「クマリ神様への拝礼は事が成ったのちに…で、城内の様子は?」

「我らの動きは察知されておりませぬ…なれどツランの間者は城内の至る所に潜入しております。先ほどより動きが活発になって参りました…おそらくはタランティアからこちらに向かう一団が近づいているという知らせが入ったと思われまする」訛りはあるがベンダーヤ語である。

ハドラタスは報告を受けると後ろを振り返った。

「今のところこちらの計画通りでございますな」チァンリルは奴隷の衣装を脱ぎ捨て背負ってきた武具に身を固めながら頷いた。

「ディモーネとオリリアを人質に取られてもやっかいだしな…急ごうか」シェラムは黒頭巾の男達に道案内と城内への手引きを命じた。

「では…」彼らは再び水に入るよう即した。

そして黒マントのまま水中に潜る。

「ハドラタス、息を深く吸い込んで目を閉じなさい」シェラムはしっかりと目を瞑り頬を膨らました神官を脇に抱えるとまたベールで互いの躯を結び止め、水面に沈んだ。

せっかく着込んだ武具を外す暇なくチァンリルも後に続く。

黒い二つの人影は水中に張り巡らされた根をすり抜け、石積みの隙間に身を滑り込ませた。

すぐにオレンジ色の塊が同じ穴に吸い込まれる。

重装備に苦労しながらもチァンリルが抜き手を掻いてなんとか追いついた。

長い水管を通る途中でハドラタスの息が切れた。

シェラムは水を蹴る速度を速めた。

前を行く黒い影をあっさりと追い抜き、ひたすら前方に泳ぐ。

行く手に上から差し込む光の帯が見えた。

顔を出した処は大理石の池だった。

中央から噴水が光のシャワーとなって降り注ぐ。

同じような噴水があちこちに点在し、それぞれに柔らかな水音を奏でていた。

色とりどりの花々と緑に映える木々――手入れの行き届いた素晴らしい庭園である。

その木々の向こうに石積みの壁が見えるが…

「あれは外壁?」水の滴るマントのまま、水をしこたま飲んで倒れているハドラタスの介護をする二人の信者に問う。

「いえ、内壁の中でも一番最後の壁でございます。ここは若い御夫婦の新居に繋がる庭園でございますれば…」

「そう…」どうりで衛兵の気配すらない。

ではこの庭園を抜ければディグレットの嫁の…なんと言ったっけ?長い名前のオフル公女に会える訳だ。

「動ける?チャンリル?」

「は…」肩で大きく息をしているが、さすがにしっかりと自分の足で立ち、油断無く腰のモノに手を掛けている。

「ハドラタス?」

返事などできない。

“待ってくれ”と言うように弱々しく片手を上げると、彼は二人に躯を支えさせ、合掌した手先を鳩尾に当て、鋭く突いた。

カッと目を見開き、大きく口が開いた瞬間夥しい水が噴き出した。

瘧に罹ったように震える躯を二人の信者が押さえる。

それでもピッタリと合わせた合掌の形を解くことはなく、さらに腕を引き上げて今度は喉笛を突いた。

「ぐふっ…」一瞬沈み込んだ躯を信者が抱える。

荒い息が見る間に穏やかになった。

「お待たせ致した」何事も無かったようにハドラタスは立ち上がると「お前達はここで待つように…」と指示をした。

やがて先に立ったチァンリルが鍵の掛かっていない扉を見つけ、三人は難なく邸内に入った。


ズアジル族とおぼしき一団が黒覆面の男達に取り囲まれたのはタランティア最後の外壁から二つの丘を越え、一つめの森を抜けた辺りだった。

前方に二つめの――アッタルス城を囲む森が姿を見せている。

七人の中でも一際背が高く体格のいい護衛兵とおぼしき男は、常に細身の剣を構えた男を背後に庇っている。

“あれがシェラムか”

“護衛から引き離せ”

木上に登り矢をつがえて待っていた仲間に合図を送る。

だが放った矢は彼らに届く前に二人の剣士によって悉く打ち払われた。

一本の矢も受け損じる事無く、襲いかかる敵を打ち倒す。

まさに阿吽の呼吸で自在に攻撃と守備に転じ敵を翻弄する。

「カルネ、ユウラ!援護するから木の上にいる射手を始末しろ」

ボッソニア弓兵が使う大弓を引き絞ったまま白い頭巾(カワイア)から銀髪を覗かせた痩身の男が指示を出す。

二人は立ちはだかる敵をなぎ倒し森の奥に走り込む。

先を行く革胴衣の若者が、木陰から身を乗り出しこちらを狙う射手に向かい細剣(レイピア)を投げた。

ユウラが次々と打ち込むレイピアは狙いを過たずに射手の眉間か喉元に吸い込まれる。

祖父トロセロ伯爵と相似したしなやかな動きはまさにポイタインの若豹と呼ばれるに値する。

茂みに潜んだ男達には後方から飛来した手斧が襲いかかった。

くるくると回転しながら木立ごとなぎ払い、弧を描いて戻った得物の柄を亜麻色の長髪をなびかせたカルネが器用に片手でさばく。

黒竜騎士団を率いるパランティデス将軍の嫡男は剣、槍、弓といった騎士の武芸の他に、あらゆる武器の扱いと武術をたたき込まれていた。

段平を大きく振りかざして派手な打ち込みを見せる男の顔は青銅の面当てに覆われて見えないが短く刈り込んだ金髪が木漏れ日を弾いている。

“こやつがヴァイロン…”国家一族の仇――とばかり段平の男に打ち掛かる。

派手な動きと思えたが、身のこなしは軽く、無駄がない。

一斉に襲いかかり切り刻もうとするのだが、その度にかいくぐられ味方の犠牲が増えていく。

ホルストの剣は我流に近い。

正規の剣術だけでなく、宮廷作法、騎士道といったやっかいな代物は上に五人いる兄たちが引き受けてくれた――“だから自分は自由気ままに暮らすのさ”

勝手な言い分だが、その自由闊達な気性をヴァイロンが愛でた。

コナン王の片腕である父のプロスペロに直談判し、自分の側近に貰い受けた。

以来、彼は河を下れば三日で帰れる故郷に戻ることなく王太子宮で寝起きし、常に主人に従って時にはこうして影武者にもなる。

ヴァイロンがシェラムを探す旅に出ている間、シェバの補佐を受けながら身代わりを勤めたのも彼だった。

もっとも父親譲りの長身痩躯な姿態と灰褐色の瞳はどんなに仕草や声色を真似ようとも見る者が見ればすぐに見破られてしまうのだが…

その背後を守るのは褐色の巻き毛の青年だ。

彼もこの時代の剣士にしてはほっそりとしている。

しかし次々に切り結んでは地に叩き伏せる剣技は実戦経験の豊富さを物語っている。

彼を仕込んだのはアキロニア軍の総司令官プュブリウス元帥だ。

妻帯せず孤高の軍人として暮らしてきた将軍は、十才で一人の従者も連れずにアッタルスから人質同然にタランティアに送られたディジャスを屋敷に引き取り武芸を教えた。

王太子付きの小姓となった今も、最近のようにヴァイロンが長期にわたって不在の時などは育ての親であり師でもあるプュブリウス元帥の元に帰っている。

あっという間に斬り倒され味方を失った覆面団は浮き足だった。

アッタルス城に入り込んでいる仲間に手引きさせ城を乗っ取ろう。

タランティアからの出兵があってもディモーネとオリリアを盾にすれば抗しきれるはずだ。

なにせ城内には…あの…名を呼ぶのも憚られる者が潜んでいるのだから…

現在のアッタルス兵は城主ディモーネに従いコナンに忠誠を誓っているから小競り合いは避けられない。

これ以上手勢の犠牲が増えては占領と監禁が困難になる。

「退け!」一斉に森に逃げ込む。

「一人も逃すな!皆殺しにしろ!」

大男が叫び、真っ先に彼らを追って茂みに飛び込んだ。

五人も後に続く。

あちこちで剣戟の音と断末魔の絶叫が響く。

夕暮れの残照が木々を黄金に染める頃、森はやっといつもの静けさを取り戻した。


銀色の髪が夕陽に照り映える。

露台(バルコニー)に立ってエイメは庭園の噴水の音を聞いていた。

先ほどタランティアから急使が到着した。

王太子の意を受けたボッソニア軍がこちらに向かっているという。

騎馬隊ならば明日の昼には到着するはずだ。

何事だろう?不安がよぎる。

ゼノビア王妃が自分に下さんとした仕打ちは、伯母であり姑であるオリリアからディジャス、ディグレットを介して王太子様が自ら出向いて止めて下さった…と聞いている。

“グレット…逢いたい…”夫は懐妊がわかって以来一度も帰城していない。

アテミデウスが新たに増設する学部の準備で忙しいのだと手紙には書いてある。

手紙は頻繁に届く。

エイメと腹の子の身を案じ、新たに迎え入れた専門分野の者達との交わりでいかに学ぶべき事があるかといった――正直読んでもわからない難解な話が述べられている。

本当にそうだろうか?

反コナンの旗印となりうる子の父となってしまった大事の責任を負ってタランティアに留まっているのではないか?

王妃様のおっしゃるように、やはり産んではいけない子なのかもしれない…

エイメはそっと張り出した腹部に手を当てた。

伯父のアルゾート大公は高齢である。

跡継ぎとなる血縁は同母妹の一人娘エルメティアしかいなかった。

先王アマルラスは一族の嫡流、庶流を問わず全ての血縁を抹殺してしまった。

最も命を狙われたのはアマルラスより正統な血筋にあるアルゾートである。

捏造された謀叛の罪に貶められ討伐軍に追われ、各地の有力貴族の元を転々と流離い、遂にかつて傭兵部隊の隊長だったコナンの元を尋ねた。

当時コナンは愚王ヌメディデスから王位を簒奪し、周囲の王国からは許されざる野蛮人の僣主と罵られ警戒されていた。

しかしアルゾートは皮膚の色も言葉も文化も異なるならず者達を掌握し、慕われていた傭兵隊長の手腕を身を以て知っていた。

彼は王子であった自分にも堂々と意見し、一旦敵を向かえると退くことを知らなかった。

“コナンならば…”すでに付き従う兵も無く、躯一つでタイボール河を渡った。

こうして命懸けの国境越えでポイタイン領に入り、コナンの親友である世襲公トロセロ伯爵の城に駆け込んだ。

その後アマルラスがシャマールの戦いでコナンに斃されたあと属領となったオフルの統治者として幼い日を過ごした王宮に帰還を果たした。

コナンはオフルを王国として存続させ王位を継ぐよう薦めたのだが、王位継承権を争う骨肉の戦を幼少期から体験してきたアルゾートはこれを固辞し、みずから属領となりアキロニアの庇護下に入ることを望んだ。

“帝王陛下、いや若き日よりの友人コナンよ。すでに我は老いておる。アマルラスにより荒廃したオフルを王として立て直す気力も体力も無い…一貴族としてオフルの一部に領地を預かれれば満足なのだ”

そこでコナンは未だ混乱の続くオフルに反ヌメディデス派の貴族の一人、ナンタイン伯の嫡子を大使に任命してアルゾートの元に遣わした。

ナンタイン伯爵はこれを機に爵位を息子に譲り引退した。

新伯爵はコナン王の指揮下で幾多の戦いに従軍した生粋のアキロニア貴族だったが母方からオフル貴族の血を受け継いでいた為、アルゾートは同腹の妹に娶せ、弟として遇しアキロニア大使から大公国の摂政に昇格させた。

そして誕生した姪…オフルとアキロニア両国の血を引く娘にリーン王朝の名を付けるよう命じた。

内外に後継はエルメティアと知らしめるために。

旧アキロニア王朝とオフル王家の血を引く子――本来なら国中から祝福され周囲の王侯貴族から引きも切らず祝いの品が届き、懐妊を祝う宴が毎夜続くだろう。

自分はリーン家を離れ、公女の地位を捨てた。

それは後悔していない。

父にそっくりな風貌の伯母は穏やかに迎えてくれた。

“アルゾート大公の辛さはよくわかる”…同じ経験者だという舅も優しかった。

しかしコスの砂漠での忌まわしい過去は悪夢となって公女を責め苛んだ。

おぞましいのは記憶だけではない。

躯が…

黒人達に破瓜されたのは力づくであり、降って湧いた災いに巻き込まれたと慰める事もできよう。

しかし砂漠のキャラバン達はどうだったのか…

生きるためとはいえ自ら躯を開いた…快楽に溺れた…

生きるため?そうだ…あの時…天幕から逃げたとき死のうと思えば自害できたはずだ。

それなのに…

さんざんに汚されたとわかっている娘を快く嫁として迎えてくれた。

何より夫であるディグレットが全てを悟った上で優しく愛してくれた。

だが…性技に長けた男達から昼夜を分かたずに仕込まれた躯は貞淑な妻の意思を裏切る。

未だ女体を扱う術に疎いディグレットは若さのみで、躯を交わらすだけで終わってしまう。

医学者である彼は“夫婦の営みとは子を成す行為である”という認識が強かった。

彼にとって性の快楽とは、その課程で運良く得られるモノなのだ。

様々な体位で交わり、濃厚な愛撫で女を絶頂の縁に追いやり、意識をなくすまで翻弄してやろう…などとは考えた事もない夫であった。

だから躯が疼いて堪らない。

ましてや彼が遠くタランティアのアカデミアに居続ける時など…

そう丁度今のように…

一人仰臥する寝室で自らの指で慰める…

最初は我慢していた…でも…

一度這わせた指は、勃ち上がった乳首を摘み、しこった陰核を擦り、溢れる蜜壺を掻き回してしまう。

今は夜ごとの秘め事となってしまった。

朝、寝台を整えに来る侍女達も顔を赤らめるだけで、何も言わない。

黙って独特の甘やかな…饐えた香りを放つ股間から脚部、赤く痕の残る乳房を拭き清め化粧を施し退室する。

嫁とはいえ公女様…それも奥様の姪である。

滅多な事は言えない…故にその奥様、オリリアにも知られる事はなかった。

特に月の障りが訪れる前は凄まじかった。

夜まで我慢できない。

昼の会食では舅の眼前に坐りながら、テーブルの下でクロスに隠れて椅子の角に陰部を擦りつけ、腰を振ってしまう。

わざと腰回りが張ったキトンを着たまま遠乗りに出て、何も付けていない陰部が鞍に当たるようにした事もある。

馬が一歩踏み出す度に躯が上下し、固い鞍革が開ききった陰唇と、はち切れそうに膨れた陰核を激しく刺激して幾度となく絶頂に達したエイメはのけぞった拍子に手綱を思いっきり引いてしまい、嘶いて後ろ立ちになった馬から振り落とされてしまった。

それでも性欲は高ぶるばかりだ。

昼のうちに果樹園でもいだ果実を寝台の脇に盛り、侍女の足音が遠のくと同時に押し開いた陰唇に押し込んで出し入れすることもある。

夫が護身用にとくれた短剣の柄を束まで差し入れ、抜き差しした事もある。

毎夜、愛液と汗にまみれ、ディグレットの名を叫びながら、絶頂の極みで意識を飛ばしたまま眠りに落ちる。

そうしないと、あの悪夢に襲われるのだ。

黒い肌の男に前から後ろから貫かれ、乳房が引きちぎられそうに握られる。

黒い肌ではない――暗黒の闇だ。

木株のようにごつごつとささくれた棍棒が闇の中に林立している。

先端から生臭い液を夥しく吹き出すそれは黒々と屹立した巨大な男根だった。

何本も…何本も…

闇の中から無数の黒い手が伸びて、抗う躯を押し開き男根をねじ込む。

膣が裂けてみるみる股間から血が滴る。

押さえつける腕から必死で抜け出して痛む腹を押さえながら蹲る。

股間から血の痕を引いて這い回る躯を腕が追いかけてくる。

激痛で抗う力も失せた躯が再び拘束され引きずられる。

次の男根が押し込まれ、乳房が潰され――

責めは果てしなく、何度意識を失っても再び目覚め、際限なく続く。

時に暗黒は夕焼けのカーマインに変わる。

髭面の男達が吐き出した精液に細かな砂が付着し、膣壁に細かい傷を付ける。

金の指輪がそれを掻き出す度にジンジンとした疼きが湧く。

くいっと中で折られた指が自分でもわからぬ一点を押すと白目を剥いて獣の咆哮を上げる。

だが指はすぐに消える。

そこを押して欲しくて四つん這いのままカーマインの中を這い歩く。

焼けた砂で手のひらと膝に水泡ができる。

破けた水泡から爛れた肉が覗き、砂まみれになる。

熱砂に焼かれる血肉の激痛が子宮では疼きに変わっている。

男の愛撫を求め、泣きながら彷徨う。

その背を砂漠の太陽が焼く。

躯が燃え尽きる前に男の腕に抱かれなければ…

そんな強姦とも和姦ともつかぬ淫夢が延々と続く。

だが懐妊してからは激しい自慰は控えてきた。

最初は我慢できずにディグレットに貞操帯を付けてくれるよう頼んだ。

だが医師である夫は、当然腹の子に悪いと聞き入れない。

自分の腕の中にいても夢で魘される事がある。

妻の言う悪夢の正体は多分忌まわしい記憶であろう…それなら貞操帯を望むのもうなずける。

自分が不在の間、オリリアに添い寝してくれるように頼んだ。

その頃から悪夢に出てくる男が…あの黒人の大男や金の指輪を填めたキャラバンの隊長ではなくなった。

もっとおぞましい――黒いマントの下から覗く顔は骸骨に腐った肉片や干涸らびた皮膚が付着し、落ち窪んだ眼窩は暗黒以外の何ものでもない。

かちかちと不気味な音を立てながら顎を打ち鳴らし、崩れた唇が迫ってくる。

そうこの悪夢には音があった。

さらに胸が悪くなるような悪臭も感じる。

いつも自分の悲鳴で飛び起きる嫁に、傍らの義母は懐妊で神経が立っているのだろうと、躯を案じるものの夢見自体は気に留めなかった。

「あっ…」お腹の子が動いた。

ゆっくりとさすってやる。

母になれば、悪夢は終わるだろうか…この淫らな躯は慎ましい母性を得ることができようか?

「今のままじゃ無理だよ」

露台と部屋を隔てるガラスの向こうに…自分の私室に見知らぬ人影が立っていた。

「誰?」

大声を上げ、衛兵を呼ぼうとした瞬間、白い粉が投げつけられた。

ゆっくりと前に倒れる躯がしっかりとした腕で抱きとめられた。

“ああ、このベール…覚えているわ…砂嵐で飛ばされたあのベールよ…”エイメの意識は急速に薄れていった。


暗黒の闇夜であった。

ああ…また黒人に犯される…

ふと見上げた空の端にオレンジの光がみえた。

砂漠の残照…ならばあそこには金の指輪のキャラバンが待っているのか…

いや…カーマインを背にオレンジのベールを被った人間が立っている。

初めて見る姿…夢でも現(うつつ)でも逢った覚えがない…

人影はゆっくりとベールを脱いだ。

漆黒の長髪が豊かに波打ち、真っ白な肌とコントラストが際だつ。

だが何よりエイメを夢見心地にさせたのは…

“なんて綺麗な方”――人とは思えぬほどの美貌であった。

オフル宮殿の中に安置されていた神の像に似ている…およそ美を探求する芸術家があらん限りの理想を具現化すればこのような彫像になるのだろう…

「神様、悪夢からお助けくださいまし。この穢れた躯をお救いください」跪いて伏し拝んだ。

不思議と突き出た腹はきつくもなく、エイメは忘我の涙を流しながら何度も拝礼を繰り返した。

“私を敬うのか?”

厳かな声が…いや声ではない…頭に直接言葉が響いた。

「はい…」

“お前の神を捨て、生涯私に帰依するか?”

「はい…」

“ではお前の腹にある子を私に委ねるか?”

「…この子…この子は…今わたくしの一存では…」

“いかに?エルメティア…その子を現世のしがらみから解き放ち、血の呪縛を断ち切らんと願うなら私に献げよ”

“ならぬ”――いきなり違う思念が頭に飛び込んできた。

いつの間にか神々しい少年と対峙して黒天鵞絨のマントに身を包んだ男が立っていた。

このマント――あの男!

毎夜腐った顔を押しつけて躯中を舐め回し、木乃伊のごとき枯れた腕で陰部をまさぐるおぞましい男!

“やっと出てきたね、イムシャ山の予言者…”少年の躯から本当にオレンジの光が立ち上った。

みるみる太陽の色に――紅蓮の炎を思わす色に変わる。

“久しいのう、ヤスミナの子よ”声ではない…がカチカチと剥き出た顎の骨が打ち合わす音が聞こえてくる。

エイメは恐怖で引きつったままへたり込んでいた。

“エルメティア、時間が無い。腹の子を私に預けると言いなさい、早く!”

“騙されてはいかんぞ、公女…そなたはリーン王朝の直系、オフル王国を復興させる大事な子を身籠もっておる。アキロニアの支配から独立し、その子を王位につけたくはないのか?”

“心迷ってはならぬ。お前が悪夢を抜け出し、その子の母となるには私の力が必要なのだ”

“お前は思っていたではないか…世が世なら毎夜懐妊の宴が催され、部屋に入りきれぬ程の祝いの品が送られてくると…今からでも間に合う…オフル宮廷に戻り公女としてその子を産むのじゃ”

「わたくしは…」

“その子は産まれながらの公子…アルゾートが死ねば王となり、やがてはコナンを滅ぼしてアキロニアをも傘下におさめる…”

“惑わされてはならぬ。アキロニアとオフルは共に戦のない国土で富み栄え、繁栄する。その子はどちらの未来にも表だって現れてはならぬ子だ。それはお前が一番よくわかっているはず…”

“おうおう…哀れな…父と母から高貴な血を受け継ぎながら、生涯を日の当たらぬ場所で生きねばならぬとは…母としてそれでよいのか?”

“詭弁だ。アキロニアはけっしてオフルを裏切らぬ。ヴァイロンはその子を日陰者にはしない”

“なんの…お前が身籠もった時、堕胎を強要したのは誰じゃ?コナンの妃、ゼノビアではないか…いずれアキロニアはお前とその子を葬り去るだろう…”

「わたしは…この子を王に…」

西の残照が消えた。

空が暗転し、自分の手先すらも見えない。

ただその中で煌々と光を放つ少年だけが輝いていた。

“それをディグレットが望もうか?”

「グレット…」

子供の半分はディグレットの因子――三千年続いたアキロニア王朝の末裔…彼が望めばオフルどころかこの強大な王国を継承できる。

しかし夫はそんな事は微塵も思った事はあるまい…

“彼はアキロニア王太子に心酔している。お前を砂漠の凶荒から救ったのは誰だった?”

「ヴァイロン様…それにディジャス兄上…シェバ様、ジニアス様…それにアッタルスの義父上、義母上…」

エイメは泣き崩れた。

散々に穢された躯と知った上で彼はわたくしを愛してくれた…心の傷を癒やしてくれた…それなのにわたくしは…何と欲深い…

“その通りだ…彼らがお前を救い、ディグレットとの仲を祝福したからこそお前達は結ばれた。その子を授かった…”

エイメは顔を上げた。

東の空が白み始めている。

闇が後退を始めた。

「この子をあなた様に委ねます」

“立った今、お前の子は私と縁を結んだ…これは未来永劫互いの血脈に受け継がれるだろう”

暖かい――柔らかな光がエイメを包んだ。

穏やかな笑みを浮かべ、母は腹を撫でた。

その股間から水が溢れた。

腹部が急に硬くなっていくのを手のひらに感じる。

いつしか傍らに少年が膝を突いていた。

肩を抱かれて後ろに寝かされた。

“膝を開いて…”

膝を曲げたまま素直に脚を広げた。

太腿に生暖かいモノが伝う。

膝の間が白く光っている。

それが少年の放つ白光であり、開け広げた股間に蹲っているのだと判ってもエイメに羞恥は無かった。

手は変わらずに腹を撫でている。

柔らかくなった腹部が再び硬くなる。

再び太腿に暖かいモノが迸った。

「あっ…」

股間が大きく広がるのが判る――赤ちゃんが…

義母のオリリアから出産の心構えは散々に聞いていた。

意識が何度も無くなる程の痛みを繰り返して嬰児は誕生する…と。

痛くない…

ぼんやりとそう思った。

ああ…この御方が取り上げてくださるからだわ…

ありがたい――再び涙が溢れた。

この子は神に祝福されて生まれてくるのだ――はっきりと意識した。

どんな高価な祝いの品も、絢爛な祝宴も及ばない…神が自ら言祝(ことほ)いでくださる。

“男の子だよ”頭の中で声がした。

「生まれたのですか?」

“慈しみ溢れたよき母になれ…”

白い光を放つ少年は白く胎脂をこびり付かせた赤黒い固まりを横たわったままのエイメの腹の上に置いた。

“まだ臍の緒が繋がっている…このままで抱いてやるがよい”

そっと手を伸ばした。

赤子が手足を突っ張って跳ねている。

「元気な…子ですね…」涙で声がくぐもる。

胸に詰まって神への感謝は言葉に出なかった。

“このままでは産声が聞こえぬ。紗幕から出してやろう”

辺りの景色が変わった。

エイメは寝台の上に仰臥していた。

そして腕には…

真っ赤になって泣く赤子をしっかりと抱いていた。

“おのれえええーっ”

黒マントが腕を振り上げた。

紗幕が邪魔をして後を追えない。

取り憑いていた子供から引きはがされた。

器にしていた胎児はあれよあれよという間に生まれ出て、外界に解き放たれてしまった。

“もう少しで取り憑いたまま生まれる事ができたに”地団駄を踏んでも、もう遅い。

“今初めての事ではあるまい?ヤスミナの腹の中でまだ人の形も定まらぬ私に寄生した時も、誕生と同時にガジューラ大師に引きはがされたではないか…”

“不義の子が偉そうに…”

少年から発する光はもはやその輪郭さえ見えないほどに眩い。

光の中に紅い珠を受けてのたうつカマラの股間から血と共に飛び出した黒い靄が上空に消え去る情景が映し出された。

“それに十年前には偽の王太子妃の胎児にも憑いてアキロニアに入り込んだ…ゼラータに子宮ごと潰された時は自分から逃げ出した…”

デキシゼウス、ハドラタスという高霊位の神官にも、闇の世界の住人である老魔女ゼラータにも気取られずに逃げ切った…皆の意識がヤー・チェンの残党に向いていたとはいえ逃げ足だけは見事と言えるだろう。

口惜しそうに黒マントが身もだえした。

“何という霊力じゃ…口惜しや、ガジューラがクマリ神などに祀らねばお前は儂の入れ物として最高の器であったものを…”

黒マントから殺気が消えた。

逆に自らの結界を取り去り、実態を晒してくる。

“そなたは儂の胤じゃ。どんなに神を装ってもイムシャ山の魔王の裔じゃ”

魔王を名乗る悪霊はかつて憑依しそこなった少年を、今一度傀儡にせんと画策した。

“ほう?父だと言うなら今一度我が体内に入ってみるか?”

“なに?”

“入れぬか?魔王を名乗る割にはだらしがない。誠に魔界を統べる王なれば我が裡にあるアースラ大神の結界など大したことはなかろう?”

“くっ…長きにわたり躯を持たぬままであった故、力が衰えたのじゃ。躯さえ得ればすぐに元に戻る”

“躯を持たぬか…コナンに撃ち殺され未練がましく霊となって彷徨っている…と素直に言えぬのか?”

少年の言葉は憐憫ではなく嘲りである。

“その気があるならアースラ大神の神気を一度外に出してやろう”

もしもこの紗幕の裡にハドラタスとチァンリルがいれば、それはあまりにも相手を侮りすぎだと…危険極まりないと止めただろう。

ハドラタスはタリム信者と争った経験から裏で彼らを操ったイムシャの黒い予言者達の力を十分に痛感している。

今でもヤスミナが悪夢に魘され、イムシャの名が流布される度に山裾に常駐するクシャトリアが臨戦態勢を取りアヨドーヤから大部隊が遠征に出て国中の警戒にあたる…チァンリルはそんな異常ともいえる状況を幼い頃から見聞きしてきた。

二人の“イムシャ”に対する畏怖は、その過去の力を知る者として当然なのだ。

しかしシェラムは気にも留めない。

ゴラミラ山の霊廟で哲人エペミトレウスから授かった命と力は世に比ぶべくもなきモノと確信しているからだ。

イムシャの黒い預言者の長として畏れられていたのは過去の事…このような汚き憑依霊に成り下がった者など造作もなく始末できる――自信に溢れたクマリ神は魔王を煽り罠に嵌めようとしている。

もっとも惨めな…絶望の中で消し去ってやる。

幼くして国を離れ、最愛の兄とも敬愛する父とも決別して少年期を過ごさねばならなかったシェラムの心中に凄まじい復讐の焔が燃えていた。

“おおおっ!!”体内に侵入した魔王が歓喜の声を上げた。

“何と…何という霊気、何という通力じゃ!これ程とは…”

シェラムの裡をグルグルと喜悦しながら旋回している。

“さて、父上…私の力と躯…意のままに操れるか?”

闇の塊は動きを止めた。

“そうじゃの…まず手始めに己の記憶を書き換えあの憎きコナンをその手で屠って貰おうか…”

クスリ――シェラムの唇が笑った。

左眼に紅い光が燃えた。

“!”

裡にあるモノが狼狽し、慌て始めた。

“そういう事さ…”はっきりとした笑い声が起きた。

“助けてくれ!吸われる!吸い尽くされる!”

“出られるものなら出てみるがよい。そこはお前を封じ込める牢、まさに獄だ。自分からノコノコと入り込むなど…魔界を掌握した大予言者が聞いて呆れる”

“おのれ、謀ったな”

“愚かな…今し方赤子から引き剥がされ、かつての憑依歴も暴露されても、まだ父などと虚言を吐く…お前の間抜け加減にはまともに怒るのも馬鹿馬鹿しくなってくる。鷲に化身してヤスミナを襲ったお前は父から誅され崖から落ちた…落ちながら瀕死の躯を捨て母の胎内にいた私に乗り移った。もっと早く気が付けばよかった…私は間違いなくコナンの子なのだ”

ヨクモ振リ回シテクレタナ…決シテ許サナイ――消滅する恐怖で暴れ回る魔王にその意思が浸透する。

“助けて!助けてくれ!もう二度と現世に顕れぬ。光の道に乗って冥界を抜け霊界に行く…だから助けて…”

“そうか…天空から指す光の道が見えるのか…お前は元々は人として生を受けたのであったな?コナンの刃を受けた時、光の導くままに迷わず死んでいれば今頃どこかに転生していたかもしれぬのに…なまじ外道の魔法など囓ったが為に人の理(ことわり)にはずれた。外れた者は人に戻れぬ…お前は未来永劫霊界には行かさぬ…転生などさせぬ”

“…………!”弱々しい悲鳴が上がった。

“苦しめ!怯えろ!泣き叫べ!お前はここで永遠に消え去るのだ。私を…クマリ神を謀った罪を受けるがよい!”

躯を捩って笑う――“ザマアミロ”

魔王と畏れられたモノが最後に上げた断末魔の叫びはあまりに小さくあっけなかった。

笑い転げていた少年がゆっくりと躯を起こした。

その左眼から紅い光が消えている。

残忍な表情が一変して慈愛に満ちた顔に戻っていた。

“父上…私は間違いなくキンメリアの裔でした”

くだらぬ風聞に惑わされ、迷った自分が愚かであった。

父も兄も…二人だけは何があっても私がキンメリアの血を引くと信じて疑わなかった。

帰ろう…タランティアに…父上の顔が見たい…声が聞きたい…

躯を包む燐光が一気に広がり紗幕が消えた。


アッタルス城の門が開け放たれ、ズアジル族の一団が入城してきたのは、エイメの寝室から赤ん坊の鳴き声が聞こえ、何処からともなく全身水を滴らせた男二人が現れて襲いかかる新参の使用人達を切り伏せ、これも何処に潜んでいたのか怪しい黒マントの曲者と対峙し、叩き伏せた直後であった。

「母上!」

「ディグレット!」

「エイメは…エイメは無事ですか?」

「そ、それが今、奥庭の別館が大変な事になっていて…今、父上が手勢を率いて…」そこでオリリアは息子の背後を守る戦士に気づいた。

「王太子様!」慌てて膝を折り、背の高い若者に頭を垂れる。

「構わぬ、オリリア。それよりこの館に入り込み、お前達一家を狙っていたツランの間諜どもを一掃するのが先だ」

すでにディジャスが先に立ち別館への回廊に向かっている。

「行くぞ、グレット!」

「はいっ」

奥庭に逃げ込んだ間諜を相手に一人苦戦を強いられていたチァンリルの顔がほころんだ。

かつて共に戦った旅の仲間達が、以前と同じズアジルのキラットを跳ね上げて躍り込んできたからだ。

「待たせた!」

「おお、ディジャス殿!御身は伯父になられたぞ」

「それでは…もう生まれたのか?」

「クマリ神の御偉功により驚くほどの安産であった。母子共にハドラタス神官が介護しておられる」

「イムシャの残党どもは?」シェバが矢をつがえながら聞く。

「魔王はシェラム殿下みずから討ち取られた。残りの予言者どもはハドラタス殿が調伏なさり、トドメは私が刺した」

「それじゃあ、あとはこいつ等だけなんだな?」ユウラが指を鳴らす。

「さっさとかたづけてグレット二世誕生の祝宴でもはろうぜ」ホルストは段平を握った腕を振り回しながら真っ先に切り込んでいった。


不審な殺人事件がアキロニア各地で頻発した。

自分が鍛えた鎌で喉を掻き切られた鍛冶屋、薪拾いに行った森で絞殺された農婦、孫に至るまで一家揃って毒殺された商人…村々や各都市で騒ぎにはなるものの各地の役人が迅速に処理したため、首都タランティアの司法所に事件を届けに旅だつ者はいなかった。

処理はされるが犯人は捕まらない。

いや犯人像さえ掴めていない。

物取りではない。

怨恨というにはそれぞれの犠牲者同士の接点が無い。

理由無き殺人者の徘徊が国民の不安を募らせる。

だが次の犠牲者になる者はその理由を知っていた――犠牲になったのは全て“王の耳目”として身を隠してきた仲間であったから…

“王の耳目”とはツランの三代前の王イルディスの命を受けた間者の呼称である。

彼らは、その地に定住し、男なら婿に入り女なら妻となって平穏な民の仮面を被りながら情報を送り、一端戦火の口火が切って落とされると内から敵を崩壊させる。

伴侶を洗脳し、親から子へ役目を継いだ者もいる。

いわば一家全部が間諜なのだ。

何代も気づかれずに暮らしてきた――故国ツランが滅亡して、彼らは復讐心でより強く結束を固めていた。

それなのに…

殺されているのは間諜だけではない。

アシュラ教徒が動いている…という情報を得ていた。

密かにタリム神を信仰していた者達が次々と葬られた。

タリム信者と組んでイムシャの魔王の力を借りた――その失敗のツケは、自らの命だった。

国境を越えて脱出を謀った者も悉く殺戮者の刃にかかった。

ついに粛正の嵐は首都タランティアに及んだ。

さすがに司法所にも訴状が相次ぐ。

タランティアに駐留する各部隊から兵士が募られ、警邏隊が増員された。

それでも凶行は止まない。

昨夜は評議員の女婿が殴殺された。

「評議の婿になりすましていたのか?」

「はい…わたしも…部…隊の…仲間…に…伝える…驚き…ま…し…た」

チァンリルのベンダーヤ語の問いに、辿々(たどたど)しいながらも何とかベンダーヤ語で答える。

シェラムの命を受けたヒューイはチャンリルについてベンダーヤ語の猛特訓中であった。

チャンリルがベンダーヤに戻った後はハドラタスから習う事になっているが、何と言っても母国語としている人に習うのが一番いい。

今のうちに…と一日中、それこそ寝室にまで押しかけ寝起きを共にしてベンダーヤ語の修練に励んでいる。

「ヒューイ…」奥から主人の声がした。

「お呼びだぞ…」

「はい!」ペコリと一礼し廊下を走り去っていく。

“また…新たな間者か…”

回廊の左に広がる黒睡蓮の池を眺めながらチァンリルは溜息をついた。

イムシャの魔王の胤ではないと…当たり前なのだが、それでも全くの風聞それも陰謀によるものであったと証明された事が何よりも嬉しい。

“しかし殿下御自身は魔界の趣を持っておられる”

故国ベンダーヤでは黒睡蓮は魔の花であった。

およそクマリ神の暮らす宮殿には似つかわしくない。

“あの御方はクマリ神でもあり、魔道士(ラークシャ)でもあるのだ”

さらに次期国王…皇太子である。

チァンリルが知る限り皇太子…つまり王が若くしてクマリとなったのは創世時代の神話の中だけだ。

アヨドーヤ王朝の開祖と言われるシン皇帝、その子アッシタ皇帝、三代目のオギュ皇帝までがクマリとしてヒメリアの山頂に降臨した神の眷属と信じられており、以後大バラモンが就任する度にその霊力に感応した子供がクマリとして神殿に上げられるようになった。

クマリを輩出した家はバラモンの位が与えられクマリがその役を降りるまでバラモンとして君臨した。

だが大バラモンがクマリを選べぬ時もあり長い間空位の時代もあった。

したがって先代の大バラモン、ガジューラ大師が皇太子をクマリに選出した時、神帝の再来か…とクシャトリアはじめ全ての国民が喜びを表す祭りを催して祝った。

そのシェラム殿下が…

チァンリルは煌めく水面を眺めた。

露を溜め、艶やかに光を弾く黒睡蓮は宮殿の主人の漆黒の黒髪を思わせる。

魔花の禍々しさはなかった。

不思議な御方だ…クマリ神でもなく、魔道士でもなく、勿論王子だからという訳でもない…人として不可思議な魅力に溢れている。

暗殺を執行しているのは一部のボッソニア兵だ。

ボッソニア軍三千余の中で山岳地帯出身の者達を中心に結成されているのが特殊部隊なのだという。

総勢百人にも満たないが精鋭部隊として誉れが高い。

ヒューイは侍従長になる前はこの部隊に属してしたと誇らしげに自己紹介した。

その誉れ高き部隊がシェラム殿下の命の元、暗殺集団として国中を駆け回っている。

完全に殿下に心酔している。

逆に命を下す殿下は彼らを完全に掌握している。

自分をはじめクシャトリアやハドラタスのようなバラモンならば判る――アースラ大神の意を依りますクマリ信仰は絶対だからだ。

アシュラ教徒でもない、殿下と会って一月足らずの彼らがここまで殿下の手足となって動くとは…

イムシャの魔王から吸い取った記憶で国中に潜む間諜とタリム信者の身元が明らかとなった。

シェラムがヒューイに告げた人物は、何処にいようと、どんな地位に登りつめていようと極秘裡に粛正される。

軍を預かるジニアス、実際の指揮をするウィスカはじめ百人以上の兵が誰一人その命令を疑うことなく市井に暮らす者を殺戮する。

“この方が…いずれ我が皇帝となられるのか…”

「チァンリル様…」いつの間にかヒューイが戻っていた。

「殿下が…お召し…です…」考えながら単語を繋ぐ。

「ボッソニア兵舎に行くのか?」

ベンダーヤ語の問いに頷く。

「そろそろアッタルスが動きそうなので、急がねばならないと…あ…アキロニア語だった…」

「そうか…」咎めもせずにチャンリルは奥の回廊に向き直った。

「ねえ、チャンリル…私婚約者がいるんだけど…」奥の私室でしどけなく椅子に腰掛けた主人は、故国の側近が部屋に入るなりそう切り出した。

純白のガウンは一本帯を締めたままで、胸元は開き、裾はまくれ上がり…太腿まで顕わになっている。

だがベンダーヤの勇者がゴクリと生唾を飲んだのは別の理由からだった。

あのコーシェミッシュの陥穽で人の生気を吸い取る妖花を恋人だと紹介し、妻にしたいと言った殿下である。

「人間ですか?」苦労人の若者は思わず聞いてしまう。

「うん…」体内に妖木ヨトガの一部が潜んではいるが…人間に間違いはない。

「今ね、ゼノビア様の養女として後宮で預かって貰ってるんだけど…ほら、お前もザモラ国境の戦で見たじゃない、この位の子供…」手で腰掛けの肘置きを指す。

「ええ?」あの赤い外套を着た?ホントに子供じゃないか…

「でね、ゼノビア様がいずれベンダーヤ皇太子妃になるなら、アヨドーヤ宮の習慣とか儀礼に慣れておいた方がいいって言うんだ。ベンダーヤ語や文化、歴史も教えないといけないし…誰か教育係として推薦する娘はいないかな?」

「はあ…」アヨドーヤには女王自ら選んだ家柄、血筋とも最高の妃候補が揃っている。

幼い時から王宮に入り、ひたすら夫となる皇太子の帰還を待っている。

シェラムが皇帝に即位した時、正妃に選ばれるのは一人だが、後の娘達も第二妃、第三妃…となるからある意味全員が皇太子妃である。

自分や身内が不始末を起こさない限り一生をアヨドーヤの後宮で過ごし、運がよければ次期国王の生母となる栄誉を得る。

だが、このシェラム殿下がそんな自分の意思とは関係なく集められた…しかも宮殿しか知らずに育った娘達を気に入るとは思えない。

この東宮にあのヒューイという少年以外人がいないのは、事前に集められた侍従や侍女、下働きや賄い人まで気に召さず一人残らず暇を出してしまったからだという。

本当に気に入った者しか側におかない…難しい気性の方なのだ。

あの赤い外套の子供以外、本当に皇太子妃にはなれないだろう。

「イーデッタの姪では如何でしょうか?」

「宰相(ワザム)の孫だね?」

「はい、実は殿下の花嫁候補として幼少時からお后教育を受けていたのですが…」ちらりと表情を伺う。

「うん…それで?」年若い主人の顔に変化はない。

「イーデッタの長兄が夭折致しまして…母親も夫を弔うと寺に入って尼になってしまい後見がいなくなりました…祖父のワザムが親代わりを申し出た時点で何か考えるところがあったのでしょう“自分は妃候補を辞退し宮殿を出たい”と申しまして…女王陛下も快くこれをお許しになられました」

「じゃあワザムの館に引き取られたの?」

「最初はそうだったのですが…イーデッタの次兄が持ち込んだ縁談を断り、今は侍女一人を伴い市井に暮らしております」

縁談の相手は当時関係が悪化していたイラニスタン王の庶子の一人だった。

王子とはいえ年は三十を過ぎていて側妾、寵姫を数多囲っている。

彼女らとの間に設けた子供は花嫁より年長な者もいる。

正妻であってもベンダーヤ宰相の孫として嫁ぐのだから立派な人質である。

王家の血を引く貴族の娘としては当然の政略結婚であった。

しかし…

“そんな所に嫁すのなら自害する”――と彼女は抵抗した。

ワザムも犠牲になるのを判っていて孫はやれぬ…と反対し、ヤスミナも“否”と断を下したので、結局破談になった。

しかし叔父の顔を潰したと言われ、またイラニスタンとの外交に支障が嵩じて祖父に迷惑がかかるのを恐れ宰相の館を出てしまった。

父の兄弟の中で一番若いイーデッタだけが彼女を助けて住居の手配をしたり、暮らし向きの面倒をみている。

というあらましを、かい摘まんで話した。

「面白そうな娘(こ)だね…いくつ?」

「十二か十三…」

「アキロニア語は?」

「ですから殿下のお妃候補で教育を受けていたと…」

「決めた!チァンリル、ベンダーヤに戻って連れて来てよ」

こうして次の使節団と共にイーデッタの姪、スティーラがアキロニアに召される事となった。

が…これは、また後(のち)の話となる。


川面の遙か彼方にタランティア城壁が霞んで見える。

風に乗って鐘の音が途切れる事無く鳴っている。

哀愁を帯びた音色であった。

鐘を鳴らしているのは最高神官デキシゼウスを頂くアキロニア随一のミトラ大神殿をはじめ、大小あまた点在するミトラ神殿の神官であった。

アキロニア中を恐怖の陥れた忌まわしき殺人鬼は、ついにアッタルスの若き夫婦までも手に掛けた。

哀れな事に新婦の胎内には赤子が…領主ディモーネにとっては初孫が宿っていた。

懐妊祝いに王妃ゼノビアが直々に訪れ、大騒ぎになった事が昨日のように思い出される。

鐘の音に導かれるように哀悼の意を表す市民の長い列が、ミトラ神殿を取り巻いていた。

評議場内のミトラ礼拝堂に設けられた献花台にも議員達が弔問に訪れている。

“哀れな…腹の子もろともとは…”

“嫁女は公女の地位まで捨てられたというに…”

“だが中央宮の大臣達は安堵しておるのではないか?”

“うむ…災いの種が世に出る前に葬られたのだからな…”

“それより警邏隊は何をしておるのじゃ?”

“それよ、警備が厳重になって国外に逃亡したかと思っていたに…”

“ほとぼりが冷めるのを待っていたのか…”

“今宵からプュブリウス元帥みずから警邏隊を指揮されるとか…”

“おお、それは願ってもない”

“いや、実は陛下が自分が見回ると言い張ったらしい…それで…”

評議達の噂話が延々と続いている頃、噂の主は鞍前に乗せた華奢な躯を片腕に抱き、タイボール河に沿って馬を走らせていた。

傍らにはアカデミアの学長アテミデスが遅れまいとひっきりなしに鞭を当てている。

「おお、見えたぞ、ゼノビア!あの一団ではないか?」

大型の渡し船が船着き場でもない場所に停泊している。

葦が生い茂っているため小型の船なら隠れてしまうところだが、頑丈に建造された帆船の舳先と三本マストが勇壮に天に向かって突き出ている。

どうやら船に馬を積み込むのに手間取っているらしい。

怯えぬように目隠しをしているのだが、水の匂いと流水の音、さらにぬかるみに押しやられ、恐怖と警戒で嘶いている。

「おい、ホルストちゃんと轡を持ってろ」

「馬鹿野郎、これ以上近寄れるか。蹴り殺されたらお前のせいだぞ」

馬を扱い慣れているユウラ、カルネ、ホルストの三人が泥まみれになって奮闘し、何とか2頭を積み込んだ。

ディジャスとジニアス、それに東洋の旅装姿の男が他の荷物を積み込んでいる。

黒い長衣のアシュラ教徒達もそれに混じって操船の準備をしていた。

船の上で運び込まれた荷が崩れないよう縛っているのはシェバと…“手伝いに行ってお出で”と主人から命じられた東宮侍従長であった。

国内に立ちこめる殺人鬼の噂など何処吹く風とばかりに、ワイワイガヤガヤと楽しそうに荷積みしている。

「情けない奴らめ、馬の顔にすっぽり袋を被せ、板戸を敷いて渡せばいいんだ」

コナンは馬から妻を抱きしめたまま飛び降りた。

「これは陛下!」

後方で見守っていた壮年の貴族が深々と頭を垂れた。

「ディモーネ、間に合ってよかった」

傍らでヴァイロンがフンと鼻を鳴らした。

「どうせ評議会を途中で放りだして来たんだろう?」

「何を言う、今日はその…ディグレット夫婦の追悼会でまともな議事はないんだ」

「その夫婦は中にいるぞ」

指さす先には木陰があって、小さいながら天幕が張られ水面の照り返す強い光を遮っている。

「オリリア夫人…」

「まあ王妃様…それにアテミデス学長…」膝を屈して礼をする。

傍らで腰を屈める嫁の腕に赤子が抱かれている。

「大きくなりましたね…」

「はい、もう一人で坐る事もできます」エイメは微笑んだ。

「こんなに可愛い盛りなのに…ご子息ばかりか孫まで手放さねばならぬとは…許してくださいね」ゼノビアはすやすやと眠る赤子の頬をそっと撫でた。

「いいえ、陛下はじめ王太子様、シェラム殿下のご厚情によって忌まわしき縁を断ち切る事ができるのです。これで息子も孫も二度と争いに巻き込まれる事はない…わたくしは心から安堵し、喜んでおります」オリリアはにっこりと笑った。

「先生」ディグレットが片膝をついた。

「グレット、何処へ行ってもそなたが習得した医術は役に立つ。新たな土地で、新たに出会う人々を病から救い、怪我を癒やすのがそなたの使命じゃ」

「はい、先生」

「エイメ殿…」

「はい…」もう悪夢も淫夢も見ない――産後のひだちもよく、輝くばかりの美貌が戻っている。

「これからはグレットの助手は御身一人しかおらぬ…妻として母として為すべき事は多かろうが、医師としてのグレットを支えてやって欲しい」

「はい」

「これは薬草の辞典じゃ。お子が眠られた間にでも読んで覚えなさい」

「ありがとうございます」

「おい、馬も荷物も積み終わったぞ」コナンの全身にはびっしりと泥が跳ねている。

後ろから現れたヴァイロンもディジャスも泥はねが凄い。

「きいてくれよ、親父。俺の名前だけは付けるなって言ったのに、グレットめ」剣の師として慕った王太子に睨まれて若い父親はペコリと頭を下げた。

「そうだ、赤子の名をきいていなかった…ゼノビアが長い名前で覚えきらないと嘆いていたが…」

「まあ陛下」王妃の顔にも晴れやかな笑みが戻った。

「ガイデダスロムシェテラデムスアチルミデアと申します、陛下…」ディモーネが淀みなく答えた。

「オフル語だという事はわかるが…覚えられんな…」異国語に堪能なコナンも眉を寄せる。

「長い訳があるんだ。グレットの奴、俺とシェーラとアテミデスの名を混ぜやがった」ヴァイロンはフンと鼻を鳴らす。

「わ、私も入っているのか?」アテミデスも目を丸くしている。

「はい、先生」ディグレットとエイメは顔を見合わせて笑った。

「ヴァイロン殿下の恩寵を受け、シェラム殿下の加護を賜り、アテミデス先生の導きを得た者という意味です」

妻の腕の中で、眠る息子を眺める若き父親の横顔には新天地で家族を護りながら生き抜いていこうと決意した男のたくましさがあった。

「お前が初めてタランティアに来た頃は、こんなチビのガキだったが…一端の男になったか」蛮人の蒼瞳が細まった。

「これはヤスミナとワザムに当てた手紙だ。チァンリルに託した親書にも書いてはおいたが、直接謁見してそれぞれに渡すように…」

「ありがとう存じます」ディグレットが声を詰まらせた。

「それからエルメ…ではないエイメ」

「はい…陛下」

「これは対岸で待つナンタイン伯に渡してくれ。あとこっちがアルゾート大公への親書だ」

「お心遣いありがとうございます」タイボール河の対岸はオフル領だ。

一介の貴族に身を窶したナンタイン伯夫妻が川遊びの風を装って久方ぶりの愛娘の帰還と初めて抱く孫、娘を救ってくれた婿殿との対面をいまかいまかと待っている。

そして一泊を共にしたのち、アシュラ教徒が漕ぐ船は河を降りチァンリルの先導でアルゴスから外洋に出る。

そのまま海岸線に沿って南部の暗黒諸王国を迂回して青の大海に…

ここまでくれば制海権を持つのは東洋一の大国ベンダーヤである。

「ディモーネ、オリリア。名残は惜しかろうが、あまり向こうを待たせても悪い。そろそろ出立させよう」

「はい、陛下」

「グレット、これは母から弟に…ナンタイン伯に当てた文です。これも渡しておくれ…」

「はい、母上」

「グレット、元気でな」自分を頼って一人タランティアにやって来た小さな弟。

授業が終わるとすぐに王太子宮にやってきて、門限ギリギリまで皆と共にいた。

王太子様に従い遠征でタランティアを離れる時など、城壁の上から大声でみんなの名を呼びながらいつまでも手を振っていた。

あの寂しがり屋が…

もうこれで一生涯会うことはないだろう…

「兄さん、父上と母上を…」栗色の巻き毛が微笑んだ。

「任せておけ」褐色の巻き毛の目が潤んだ。

「それにしても弔いの鐘に送られて旅発つなんて可哀想だな…」天幕の外ではホルストがこびり付いた泥を落とそうと悪戦苦闘している。

「仕方あるまい…この鐘を鳴らすために俺達は大仕事してきたんだから」ジニアスはいかつい顔を更に固くして天を仰いだ。

「ご苦労だった…ツランの間諜が一掃できたのはシェラム殿下とボッソニア特殊部隊のおかげだ」シェバはポンと肩を叩く。

その複雑な胸中は察するに余りある。

戦場での一騎打ちではない。

武器を持たぬ相手を不意打ちで殺し、子供まで手に掛けねばならなかった。

部下と言うより仲間として接してきた…寝食を共にする隊員に暗殺命令を下し検分する――実直なジニアスにとってその苦悩は計り知れない。

だが、逆にそのストイックな一途さがあればこそ、一人も逃さず闇から闇に葬るという難事業が遂行できた。

「では、ユウラ…」チァンリルが手を伸ばした。

「うん、イーデッタによろしく…」長い旅路で親友となった東西の騎士は固く握手をした。

「ジニアス殿、シェラム殿下を頼みます」

「お任せ下さい。いつか私も部隊を率いて殿下と共にベンダーヤに参ります」

「………」その言葉に感極まったチァンリルが拳で涙を拭った。

その時――「あ…」

「どうされた?チァンリル殿」騎士が思わずこぼした涙を見て見ぬふりをしていたジニアスは、いきなり顔を上げたチァンリルを訝しんだ。

「この鐘は?」

「鐘?」

「あれっ?何か低い音が混じってないか?」ホルストが耳を澄ます。

「タランティアの方からだ」カルネは西を向いた。

「祝福の鐘…これはアシュラ教の梵鐘だ」チァンリルの顔に歓喜が浮かぶ。

「アヨドーヤ大神殿に響く音色と同じ…これは婚礼の祝典鐘(しゅくてんしょう)――おお、こんどは子供の誕生を祝う鐘だ」

「シェラム様か…」シェバは目を細めた。

「ハドラタス様と共にアシュラ神殿で鐘を突いておいでなのです」嬉しそうにヒューイが応じる。

「まことに慈悲深い御方…心暖かい音色だな」

「はい!」少年は満面の笑みで大きな返事をした。


タランティアにアシュラ教徒しか知らない秘密の神殿がある。

奥庭に建つ鐘楼に例の異邦人のトゥニカを着たシェラムの姿があった。

先ほどから祝福の教典を唱えながら一心不乱に鐘を突いている。

傍らで経を和しているのはハドラタスである。

「そろそろ河を渡り始める頃でしょうか?」

「それじゃ、最後にこれね」

シェラムは旅の平穏を祈願する経を読みながら旅立ちを祝う鐘を突いた。

梵鐘の余韻が長く流れる。

傍らに掛けたオレンジのベールを取る。

「やはり、お一人で行かれますか?」ハドラタスの声は優しい。

「うん、これは私の魔道士としてのけじめだから…」

イムシャの魔王を葬った――恩師ペリアスにそれを報告しなければならない。

何年かかっても訪ね歩く覚悟だった。

「皇太子としてベンダーヤに帰るのはそれから…ホントはね、今まで憎んでしか来なかった母親に対する気持ちが定まらないんだ。あの人もイムシャとツランに振り回された犠牲者だった…頭では分かってるんだけど、わだかまりが溶けない。拭う事の出来ない“何か”がまだ痼りとして残っている」

「その“何か”を探す旅でもあるのですな?」

「うん…私は神殿育ちだから国の概要も国民の生活も知らない。今アヨドーヤに入って即位しても結局はワザムやクシャトリアの言う事に従うだけだ…王となって統治するなら世のあらましを経験した知識と手腕で政(まつりごと)を行いたい、父上のように!」

ハドラタスはいきなり平伏した。

「ガジューラ大師がアースラ大神から受けられた託宣は誠の神意でございました…畏れ多き事ながら私は殿下がクマリ神となられたはガジューラ大師がイムシャの魔王より殿下の霊体を守らんが為だったのではないか…と…そう思うておりました。殿下こそは誠のクマリ…神帝の世に並ぶべき神の意を依ります王であらせられます」

「まだ、わからないよ…」

ベールを被る。

「じゃあ、あの手紙頼むね…それからヒューイのベンダーヤ語も…」

「はい…ご指示通り明日参内し、皆様にお渡し致します」

まず東宮の全権委任を侍従長のヒューイに…

その侍従長の後見を頼むと王太子宮総帥シェバに…

ヒューイ個人の保護者としてウィスカにも…

アイーシャの養育を再度ゼノビアに依頼し、アルビオナ夫人にはその介助とハドラタスとの繋ぎ役を…

ベンダーヤとの連絡を密に…と頼むのはジニアスはじめ特殊部隊の面々…

そして最後に『自分の居場所を創る旅にでます。今までありがとう、ガイ!』と、たった一行キンメリア語で書いた手紙は王太子へ…

アシュラ神殿の地下に運河が引き込まれている。

幾多の巡礼船が停泊する脇に小さな舟が繋がれていた。

オレンジのベールがヒラリと飛び乗り、櫂を握った。

祝典鐘を送った若夫婦とは別の…地下の出口にはロードタス河の水面が夕映えに輝いている。

「首尾良く本懐を遂げられたあかつきには、必ずタランティアにお越し下さいませ…ベンダーヤ国王として…」ハドラタスの声が震えている。

「うん…必ず戻ってくる…それまでハドラタス、元気でね」

「はい…それと…」

「何?」

「以前お話致しました殿下の星回りでございますが…」

「デキシゼウスも同じような事言ってたね…でも自分で占ってみても何も出ないよ」

「殿下ほどの霊位をお持ちならば、何も案ずる必要は無いとは存じますが…お心には留め置かれませ」

「わかった…ペリアス先生に会ったら確かめてみる」

既に小舟は煉瓦積みの岸壁を離れている。

「いってらっしゃいませ」もう一度深々とハドラタスは腰を折った。

小舟が見えなくなるまで見送ると、最高神官は再び奥庭の鐘楼に戻った。

クマリ神の旅立ちを祝う鐘を突くために…

小舟はロードタス河の流れをゆっくりと降っていく。

大きく蛇行して…木々の間に見えていたタランティア宮の城壁が消えた。

“さよなら”――という言葉を呑み込んだ。

代わりに出たのはキンメリア語だった。

「いってくる…ガイ!」

シェラムは櫂を操る腕に力を込めた。

第7章 完


あとがき

今回は第1章を受けての完結篇です。
オフルの公女にもやっと名前が付きまして…次ぎに登場するのはいつの日か?(笑)

アルビオナ伯爵夫人はハヤカワ版『征服王コナン』に登場します。
武部本一郎画伯の巻頭口絵では今にも首を跳ねられる寸前というグラマラスな美女がチラリズム満点の格好で絶叫する姿が色っぽく描かれていて武部ファンには堪りません。
ヴァレリウスは前王朝の自堕落な放蕩嫡子であるというのが“売り物”なんですが、だったらこんな女くらい力ずくか媚薬(何と言っても軍隊一つあっという間に悶絶死させる程の魔道士を僕に持つ、古王国アケロンの高僧ザルトータンがついてますから)で自分の女にすりゃいいのに…と思うんですよ。領地没収したり侍従を奴隷に叩き売ったり、首切り役人に「死か婚礼か」なんて質問というか脅し文句言わせてる暇になんとかなるんじゃなかろうか…と。
ちゃんと結婚したいなんて結構モラリスト…だけどNOなら斬首刑(笑)“自堕落な放蕩”というより精神的に危ない男を想像してしまいます。
伯爵夫人なのに旦那の話が何も書かれていないので、女伯爵…つまりアルビオナ自身が爵位の持ち主と勝手に設定してしました。

こういう“?”な描写、コナンには多いんですけどね。
『拉致された女が何でレイプされた痕跡なく救出されるのか???』
素っ裸で笛で操られた四匹のコブラから逃げ回る→卑猥な踊りを踊っているようにみえるという描写(狂戦士コナン・ザンボーラの影の舞姫ザビビ)だってその前後にHシーンがあるわけじゃないし…ヤスミナも風雲児コナン・魔界の住人でイムシャの魔王に結構Hっぽい幻術を掛けられるのですが、これもここまで止まり(笑)
百歩譲って魔道士や妖術師は“女犯”すると力が弱まる…とか厳しい修行(爆)の末に性欲を滅した…としても(実際そのような記述はありません)だったら海賊は?盗賊は?野心溢れる王様は?――女より黄金やお宝、そして殺戮の方が好きみたいです。

これが“ハワードの作風”なので、是非を論ずるつもりはないです。(『――???』の回答です)
以前ある方のサイトにも書きましたが今時の性描写ってそれは凄いです。
もう際限なくあらゆる性癖に対応して、かなり行くところまで行ってるんじゃないでしょうか。
でもなあ、イラストでもコミックでもPhotoでもNovelでも映画でも描写されたものはそれが全てなんだよな〜
読み手に想像の余地を与えない…というか。
メリット・バロウズ・カーターそしてハワード…徹底描写しない奥ゆかしさがかえって邪な妄想を産みます。
なので今回ゼノビア王妃にはワタクシの妄想のままに汚れて貰いました(笑)
ちなみにヴィダラーハはじめベンダーヤのバラモン僧はワタクシのオリキャラです。
“あとがき”に出典が無いキャラは全部オリジナルだと思ってください。

オフライン入稿してから書き始めたので、そんなに長くするつもりはなかったのですが、エピソードを入れていくと――やっぱり長くなってしまいました(泣)

ここまで読んで頂きまして、今回も感謝!感謝!感謝!です。
トラブルキングメーカー、歩く疫病神、史上最強迷惑男が一人で世間に放たれてしまいました。
さてさて次回はどうなりますことやら…

また、感想お待ちしております。

書・U・記/拝

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